静岡空港の歴史と課題2.21浜松集会報告
静岡空港を廃港に!
2010年2月21日、「空港はいらない静岡県民の会」事務局長の桜井建男さんを招いて「静岡空港の歴史と課題」というテーマで集会を持った(主催人権平和浜松)。桜井さんは、静岡空港が開港して半年を経た今、この空港がいらないものであることが、ますますはっきりしてきたと、その実態を語った。
桜井さんは県民の会の資料を紹介しながら、次のように現状を語った。
2008年の秋から制限表面を越えて残っていた土地と立ち木は、2009年3月の開港を阻止することになった。県は滑走路を短縮して6月に暫定的に開港することになったが、石川県知事は3月に辞職を表明した。さらに「過分収用」の土地も問題となった。県による土地収用のずさんさが、残存立ち木や過分収用の土地の存在によってあきらかになった。
2009年6月の開港から2ヶ月たった8月、今度は自然の竹と笹が成長し、制限表面を越えていることがあきらかになった。2500メートル滑走路を使用する直前のことである。新知事の川勝知事は地権者に伐採を依頼することになった。伐採条件として県は「過分収用」のデータを提供することになった。
開港から半年たつと県が語ってきた106万人という需要予測がでたらめであることがはっきりとしてきた。乗客が少ないから、JALは11月からは小型機に機種を変更した。県は修学旅行生の募集をし、一人当たり5000円の補助金までばらまいた。80人利用すれば、40万円が税金で補助されるというやり口である。これも今年限りのことになった。
半年間の静岡空港の利用者数は18万人であり、年40万人がやっとという状況である。ビジネス客はほとんどいないという。事業認定の基準である需要がないことがあきらかになった。年間の空港収入は3億円に満たないだろう。一方で空港関連の出費は15億円を超え、さらに建設費借入金の返済に年20億円がかかる。年30億円以上の赤字空港となる可能性が高い。
その中でJALは撤退を決め、さらに2010年になって、JALは経営破たんした。また、ANAは県のJALのみへの県の資金援助に抗議し、撤退もほのめかしている。
川勝知事は2009年9月議会で空港部の廃止を決めた。空港部のトップには国交省からの出向天下りが居座っていた。県議会は自民党が多数を取り、石川県政翼賛議会ができていた。その中で腐敗と独断・秘密主義の空港部が廃止されることになり、それは県議会の自民党の分裂をもたらした。
2009年10月になって、県は2月に地権者の無断で立ち木94本を伐採していたことを謝罪した。地権者がその後、空港建設部に無断伐採を告げたが、建設部は3ヶ月ほどたった8月になってやっと空港部にそれを通告した。隠蔽がおこなわれたわけである。それはやりたい放題、「盗伐」である。12月に県は監査結果を報告したが、監査ではこの盗伐を「きわめて不適切な行為」と認めた。この盗伐に対してはそれに費やされた公費の返還が求められる。県の犯罪性があばかれることになるだろう。県の役人にはコンプライアンスがみられない。
FDAは鈴与が経営しているが、県に港湾のバースをつくってもらったお返しのような形でFDA機を飛ばしているが、機体メンテナンスはJALがおこなっている。今後の見通しは暗い。空港内で営業している店舗の経営も困難になるだろう。航空自由化のなかで航空業界も再編され、90余の地方空港の見直しもすすむ。静岡空港は生き残れない。静岡県の赤字は増加する一方である。
空港建設20年の歴史の負の遺産がこの1年で一挙に顕在化してきた。来年度は廃港と用地の転用にむけての議論がたかまるだろう。(以上発言の要約)。
JALの経営破たんは、日米経済協議によるアメリカのグローバル化の圧力の中で、日本が630兆円という公共工事をおこなったこと、そこで空港建設を拡大させたこと、大型飛行機のアメリカからの輸入を増加させたこと、その動きに日本の運輸族やゼネコンが呼応して利権をむさぼってきたことなどを明らかにさせた。空港建設はバブル崩壊後も続き、結局100近い空港がこの日本に現れることになった。その最後にあたるものが静岡空港と茨城空港である。どれも不要な代物だ。
『血税空港』の著者・森功がいうように、まさに航空政策は「無茶・無駄・無策」であった。それがJALの経営破たんに現れた。そしてそれは静岡空港の終焉につながるだろう。グローバル資本主義において、その核にあった金融資本が破たんと再編を迎えたように、規制緩和のなかで無謀な建設をすすめてきた地方空港もまた、再編・廃港の時代に入ったのである。
(T)