2004年末に
「私の戦争体験から・青春の道標」
有賀
世が移り、時代が変わっても、毎年、太平洋戦争が終わった夏、8月15日に思いを馳せます。そのときに戦争による悲劇、命の大切さと平和への願いを新たにします。
「悲しみのどん底にあった、あの戦争が無かったなら!罪もない子どもたちが不幸な戦争の犠牲に!年に一度は欲しい、平和学習の日を!悲惨な戦争体験を孫子に語り継ぎたい!」
さまざまな思いが、駆け抜けていきます。戦争に負けて60年。過去に目を閉ざすことなく、恐ろしい記憶や体験を生々しく伝えることは、生きてきたものの使命であると思います。
1945年6月18日夜、アメリカ軍のB29機による大空襲・爆撃により、
当時、私は旧制中学の2年生でした。勤労動員によって、東伊場町の工場(現・商工会議所のところ)で働いていました。戦争が激しくなると、工場は爆撃を受けました。爆撃の寸前に加茂神社の防空壕に逃れたのですが、「ドカン・ドカン」と砲弾が炸裂し、鼓膜を破るような大音響、振動、風圧を受け、生きた心地がしませんでした。負傷した友もいました。
工場で働くなか、焼失前の校舎への登校日がありました。校内の防空壕に避難したのですが、別の仲間は富塚の山に逃げました。そこで投下された爆弾にあたり、先生と生徒が犠牲になりました。亡くなった長尾先生を担架で校長室に安置しました。そのとき先生の腕時計の秒針がカチカチと時を刻んでいました。その音を今でも鮮明に覚えています。
学校は焼失しました。戦争が終わる前は、富塚の山中で、靴の代用品である藁草履をはいた兵隊さんたちと防空壕堀りをしました。
自宅には兵隊さん5人(宿泊のみ)、6月18日に家を焼失した野口町の親戚家族5人、鴨江町の中学の同級生1人、そして私の家族5人の計16人が5室・37畳分に住んでいました。食糧不足は当然のことでした。農家の保有米として認められていた5人分の米を16人で分けあって食べました。空腹に我慢できず、川で獲れる魚類全て、サツマイモの葉や食べられる草などはもちろんのこと,カエル・ヘビ(マムシ)なども口の中へ入れました。砂糖も塩も醤油もありません。母の苦労は想像を絶するものがあったと思います。
小学校時代、子どもは春の田植えや秋の収穫時には、遊んでいる余裕はなかったのです。学校を休んで家の手伝いをしました。また「出征兵士」の留守家族の手伝いもしました。
遊ぶときには近所の子どもたちと集団で遊びました。年上の人の言うことを聞くのが当たり前で、恐ろしかったのです。家庭にあっても父親は絶対的な存在でした。先生はもっと恐ろしく、この世の中で一番強く感じる存在でした。
この話の後で、沖縄戦の映画を紹介しました。以下、子どもの感想文をひとつ紹介します。
「戦争のビデオを見て、戦争ってこわいなあと思いました。なぜ人は同じ仲間の人を殺すのかよく分かりません。戦争をやってもいいことはひとつもないと思います。ただ仲間が死んで、敵も死んで、戦争に勝ってもうれしくないと思いました。子どもが一番かわいそうだと思います。わけもわからず殺されて、そんなのあんまりだと思います。私は「戦争をやる」といった人はヘンだと思います。
ビデオを見て一番印象に残ったのは、たくさんの死体が倒れているところです。あまりにざんこくすぎて言葉もでませんでした。
あと、有賀さんのお話を聞いて、昔の生活は大変だったんだなあと思いました。今は水道のじゃぐちをひねるだけなのに、昔は井戸水をもらったりしていたなんてかわいそうだなあと思いました。
これからどうなっていくかは、分からないけれど、争いごともなく、平和なくらしができているといいなあと思いました。」
2005年2月