グローバリゼーション
貧困が何を生み出すか、世界中を覆いつくしたグローバリゼーションの影響を、金持ち以外の人々が身をもって実感しつつある。失われた安心・安全に思いを馳せながら。
たとえば米国のもっとも豊かな10%の人々(約2700万人)は、世界のもっとも貧しい43%の人々の総収入にあたる額の収入を得ている。(国連開発計画UNDP2002)
映画「華氏911」では、飛行機がツインタワーに突っ込むシーンはたくさんの記録映像があるにもかかわらず、あえて暗黒のシーンで表現された。観客は衝突音だけが響く暗闇のなかで、それぞれが記憶した映像を呼び起こすことになる。過剰が無と等価になるほど、そしてサブリミナルも不必要なほど世界中がそれを刷り込まれた(まるでパブロフの犬のごとく)。音を聞かせれば映像が、映像を見せると音が内面に湧きおこる。
9.11以後の世界がそれまでの寛容をかなぐり捨てたことはあらためて言うまでもない。あたかもそれが目的であったかのように…。米国における愛国者法をはじめとするゼロ・トレランスの社会は「対テロ」のキーワードでなんでも可能な時代を創り出した。民主主義を創出するのがいかに困難で、破壊するのはどれ程簡単かを多くの人々が味わっている。“絶望禁止”と自らに言い聞かせながらも、際限なく押し寄せる負のイメージに焦燥感は隠しようもない。力のない弱者が無理矢理「力こそすべて」と言わされる日々…。
先回「自作自演」で指摘したように「オウム事件」にしても「9.11」にしても真相が明らかになったわけではない。だが、少なくとも未曾有の暴力が行使された後に極端な危機管理が残った事は事実だ。増殖を止めない監視カメラ、監視技術の高度化、精密化は犯罪者予備軍としての民衆の行動を制御する。犯罪予防という先制攻撃が始まっているのだ。
「イラク人質事件」によって日本政府と右派マスコミにより「自己責任」という言葉を押し付けられ、頷いて同意したり、はたまた怒りを覚えたりしたわけだが、その言葉を発した責任がウヤムヤのままになっている。実は「自己責任」は人質3人だけに向けたものではなかった。現在進行中の政策を表現する言葉として、為政者が言いたくて言いたくてうずうずしていたところに、たまたま良い機会がやって来ただけの話だ。
冷戦期を通じて、かりそめの「福祉国家」を標榜してきた日本は、建て前ではあっても平等原理があったわけだが、「新自由主義政策」により、自己責任原理に基づく金持ちと貧乏人の極端な格差が公認、正当化され、遅れ馳せながら世界を席巻するグローバリゼーションに翻弄されている。先の見えない底無し不況下で、多くの日本人が自己責任原理を思い知らされている。正社員を減らし、パート、アルバイト、派遣社員という昇進の無い地位を固定されたまま流動する労働者たちが何の保証もないまま喘いでいる。終身雇用など、とうの昔に消え去った。ケージ飼いのブロイラーたちが(夢見る権利)を主張しようにも家畜教育のおかげですでにイメージが枯渇して虚しいばかりだ。結果として呆れるほど下品な精神文化の社会が待っている。たとえば、破滅的に悲惨な現実から目を背け「表現」や「アート」を気取るやからのなんとグロテスクなことか。
合併、合理化はそのまま首切りを意味し、失業者の増加につながっている。なにしろ不平・不満の表現の回路を断たれたまま年間35000人の自殺者を生む社会なのだ。新自由主義政策の旗手である米国、英国内の不平等がもっとも拡大しているという。英国の監視カメラは世界一多い。また米国の4000万人以上が健康保険を持たない。この数年、日本人がコンビニなどでサプリメントを買いはじめたが、貧しくて病院にかかれない多くの米国人の藁にもすがる要求がうみだしたマーケットを、意味も知らぬまま、スタイルから逆に模倣しているわけだ。米国では貧困のため多くの若者が教育から排除されている。公費負担を避けるため、なんでもかんでも民営化がすすみ、日本も病人が医者にかかれず、売薬でごまかす時代がすぐそこまで来ている。遠からず医療、介護、教育は、貧乏人とは切り離されてゆくだろう。脳死・臓器移植のドナー(提供者)について子供にも認めようという話になってきた。生きのよい貧乏人の臓器で金持ちが生き延びようとしている。堂々と胸を張るモラル・ハザードがここにある。「かまうもんか、弱肉強食だ!」国家が弱者を守る時代はおわったということだ。
いみじくも元・欧州一の実業家パーシー・バーネウィツクの言葉が本質を突いている。「私はグローバリゼーションを次のように定義する。私のグループ企業が望む時に、望むところに投資する自由、そして私のグループ企業が生産したいものを生産し、買いたいと思うところから買い、売りたいと思うところで売り、しかも労働法規や社会慣行による制限を可能なかぎり撤廃する、そういった自由を享受する事である」(オルター・グローバリゼーション宣言 スーザン・ジョージ作品社2004)
NHK教育TV「しゃべり場」のレギュラーメンバーだった18才の女性が念願のAV女優にデビューした。「しゃべり場」では「セックス」という言葉を使わせてもらえず、「AV女優になりたい」というかわりに「売れっ子ホステス」と言わされたらしい(FRAIDAY9.10)。何のことはない、尖った若者たちの意識に理解があるそぶりを見せながら、これでは「だまり場」じゃないか。自覚があってもなくても、自分の身体や性を消費するほど壮絶な社会にあってなお、公共の体面づくりを忘れず、サブカルチャーをも支配しようという欲望があまりにもいかがわしい。公共放送が隠蔽するものこそ、裸の現実ということだ。
ともかくモラルを含めて企業の利益追求の邪魔になるあらゆるものが撤廃されてゆく。その結果、当然発生する下層の不平・不満を圧殺するために治安強化が進み厳罰化がはかられる。すでに定員オーバーの刑務所は民営化の可能性さえ指摘されている。やりなおしの利かない社会が用意するのはあのアブグレイブ収容所やグアンタナモのスタイルかもしれない。反対に上層に対してはさまざまな優遇措置が与えられる。
国境を超えた企業の利益追求をバックアップするために派兵の実現はかかせない。イラクという(今のところの)例外を恒常化させる必要がある。二桁ほどの犠牲はやむを得ないというささやき声が聞こえてくる。
校内暴力がふたたび問題になっているが、大人の社会のきわめて健全な模倣といえるだろう。トップダウン型でしかも閉鎖社会の日本でストレスは逃げ場を失っている。このような非対称において階層の上部と下部が同じモラルを共有することは強制以外には有り得ない。
私たちは、夥しい犠牲の上につくられた民主主義を破壊しながら、少数の富める者がさらに際限無く裕福になるための、使い捨ての資源として産まれて来たわけではない。現在、「価値の転倒」がうみだす負のエネルギーが蓄積され続けている。「幸いな事に、世界の人々の怒りも反乱も増大してきている」とスーザン・ジョージが語るように、振子は必ず戻ってくる。世界は、過去には実現不可能と思われていた民主主義のさまざまな具体例が幻でないことをすでに知ってしまっている。何よりも国境を越え南北を越えて連帯が可能ということを。グローバリゼーションがしょせん物質文明の域を出られないなら、身ひとつの個人が精神的なグローバル・ネットワークが可能であることを証明しよう。それこそ人類史のメルクマールであったはずだ。
2004.8.30 高木
グローバリゼーション−U
9.11から3年。アフガニスタンの大量虐殺に続き、イラク侵略戦争が継続している。
米兵の死者が1000人を超えた。だがイラク・ボデイカウントによればイラク人の死者は11000~14000人という。3年前にはまさか死ぬとは思わなかったであろう人々の人生が消された。そして3年前には、まさかとさえ思わなかった多国籍軍に自衛隊が参加している。9.11は世界中を悪夢に追いやった。
「同時多発テロは、おそらくAWACS(早期警戒管制機)が4機の旅客機を操って起こされたのだろう。このシステムは航空機の制御装置を妨害し、同時に数機の航空機を操る事が出来る。それを証明しているのが、どのパイロットも進路変更や急降下を試みていないという事実である。この事は彼らが機体の支配権を完全に失っていたことを示している。(元米空軍大尉ケント・ヒル)」(世界はここまで騙された コンノケンイチ徳間書店2003)
時が経ち、誰も疑わなくなった事件(歴史)が、誰もが信じているものとは別物である可能性を捨てるべきではないだろう。戦時下の情報に真実などないと思う方が正しい。すでに私たちの常識は、交戦国にとっては非常識にすぎない。それゆえ非常識とされるトンデモ本や暴露本など、ノイズとしての情報を柔軟性のある仮説の材料とすべきだろう。鮮度の落ちたマスコミは腐臭が激しいばかりだ。定型の逸脱によってしか多様な視点は保てない。「ジャンク探しも一理在り」というわけだ。
「世界」別冊号「もしも憲法9条が変えられてしまったら」(岩波2004)において奥村 宏が、日本経済が軍需化を指向するという指摘をしている。それによれば、日本は高度成長を経て、重化学工業偏重体質が脱しきれないまま輸出指向に転換、海外直接投資を進めて多国籍企業化とハイテク化をとげた。しかし90年代のバブル崩壊後の長期不況で方向転換を迫られている。このような状況下で憲法九条を改正して、やりたくても出来なかった分野である軍需化を指向するという。多国籍企業化をさらに推進、大企業の軍事化である。
イラク戦争で証明されたように「戦争の民営化」が進んでいる。大企業が戦争の下請けをする。三菱重工、川崎重工、東芝、石川島播磨重工業など軍需カルテルが今まで成立していたが、IT化、ハイテク化にともなってNECやソニー、そして不況に悩むゼネコンなども参入するだろうという。
注目すべきはやはり「ミサイル防衛」だろう。小泉内閣は昨年末、理由は何だっていいのだがとりあえず「北朝鮮の脅威」に対抗するため弾道ミサイル防衛システム(MD)を導入、日米共同開発の方針を決定した。
「1948年から1996年の間に、米国が核軍備のために投入した総額は5兆4555億ドル。冷戦期の米国軍事費総額(15兆ドル)の36%強が核軍拡のために投じられた」(グローバリゼーションと戦争 藤岡 惇 大月書店2004)
半世紀かけて巨大になった米軍産複合体が「食べてゆくため」にはもっと戦争をしなくてはならず、天文学的な軍事費を正当化するにはMDを推進する他ないのである。たとえ弾丸を弾丸で射ち落とす荒唐無稽な話であっても。因みに同書で触れている最新鋭の核搭載爆撃機B−2Aスピリットは26億ドルという。仮に、この爆撃機を純金でつくっても22億ドルなので純金より高価な飛行機という荒唐無稽が実際にあるわけだ。このばかばかしさは一体なんだ?
全地球規模で米国経済の基準、ルールを拡張することが至上命令とされ、軍事に裏打ちされた経済覇権をめざす米国一極支配が強行される。
「冷戦期に軍事部門に蓄えてきた(軍事技術と諜報能力の含み資産)という武器を使って経済の国際化という飛行機を米国がハイジャックした」(グローバリゼーションと戦争)
ブッシュ政権は「エネルギー」「宇宙覇権」を世界戦略としている。2005会計年度に攻撃型兵器を搭載する宇宙衛星を打ち上げる決定を下した。敵の飛行物体を迎撃、破壊する近赤外線監視の試験衛星( NFIRE )衛星打ち上げに6800万ドル支出が認められた。レーザー攻撃兵器搭載も遠くない。すでに1997年に地上からレーザー光線を上空400kmの軌道上にある軍事衛星に照射、破壊することに成功している。
現在、地球のまわりの軌道上にある衛星の三分の二が軍事、諜報衛星という。宇宙からの(情報の傘)によってコントロールされてグローバリゼーションが進んでいる。米国が圧倒的に優位に立つ宇宙支配と精密誘導技術によって軍事の革命(RMA)が可能となった。
さまざまな民営化されたシステムを、ひとつの戦争システムに統合して全体をコントロールする米国を、同盟国はシステムを共有するがゆえに従わざるを得ない状況となっている。
「ソ連解体で、世界は軍事から経済力へ、国家から市場へ移ると多くの人が錯覚した。グローバリゼーションやIT革命が、あたかも(純経済現象)であるかのように。(サイバースペース)の覇権は、スペース(宇宙)の覇権を土台にしており、宇宙覇権は米国軍事力によって支えられていることを見落としてきた」(グローバリゼーションと戦争)
弾丸を弾丸で射ち落とすMDがどうしても技術的に困難なので核弾頭の迎撃ミサイル使用まで考えているという。命中しなくても核爆発ならすべて破壊できるという理由で。核の被害を無視する発想は、広島、長崎をはじめ、世界の被曝者たちの現実を60年間も隠蔽し続けることでしか生まれなかった。米国では原爆展は一度も開催されていない。被曝も含めて、世界中の米国による侵略被害を正面から突きつけることは9.11のインパクトに匹敵するはずだ。せいぜい死んだ兵士のブーツを並べるほどの物静かな抗議のように米国が示す定型から逸脱することがもうひとつの世界の可能性だろう。流された数万〜数百万リットルの血や見開いたままの死者のまなざしを米国民は意図的に避けているのだ。彼らこそ死体をみる義務がある。
2004.9.10 高木
九条不在の現場と九条の現場、そして現場不在の九条
日曜日、快晴の公園。緑の芝生を流行の小型犬が走り回る。若いカップルやファミリーが散歩したり、木陰でくつろいでいる。この風景だけを見れば平穏そのものだ。この人たちの生活や生命を脅かすものは見えない。銃声が聞こえるわけでもない。ましてやかれら自身が暴力的存在であるはずもない、と少なくとも思いたい。バージニア・リー・バートンの「ちいさな おうち」という絵本がある。ちいさなおうちは変わらないまま、周りの風景がさまざまに変化する話だ。平穏な公園の風景も周りによって意味が変わってくる。じつはこの風景にわたしたちが参加しているのだ。この街の自衛隊演習場と米軍基地に抗議するために公園で集会を開いている。無害で優しそうにみえる無関心こそが一見平穏な風景をつくっている。しかし改めて言うまでもなく、イラク派兵の銃後という非常時であり、米軍も自衛隊もこの街に駐留、演習を続けている軍事都市の公園なのだ。目の前にある「9.12富士を撃つな!」抗議集会の大きな横断幕やのぼり旗、スピーカーを通して流れるアピールなどが、まったく存在しないかのようにくつろぐファミリーやカップルたち。集会を取材しに来た民放のテレビカメラマンと女性アナウンサーは横断幕やアピールを手早く撮り終えると木陰に座ってのんびり過ごしている。犬を連れたカップルが近づくと4人で犬の話に夢中になっていた。彼らは、取材はしたが、おそらく内容を理解していない。このようにしてローカル・ニュースで重大なニュースがきわめて軽く扱われる事になるのだろう。これでは視聴者は、ここで何が行われ、背景がどういう事なのか、知るよしもない。これこそが(九条不在の現場)だ。ここにある風景は、平穏だが、銃後であるがゆえに虚構でしかない。たとえてみれば、原発の破断寸前の配管の下でくつろいでいるようなものだ。
9月12日、
沖縄の米海兵隊はイラク戦争に投入され、大量虐殺のあったファルージャ攻撃の最前線で無差別大量虐殺をおこなった。9月に東富士演習場で6回目の沖縄104訓練が米海兵隊によって実施されようとしている。東富士の104訓練は1998年に始まったが使用兵器や規模が次々とエスカレートしている。
もっとも重要な問題として新しい世界戦略の米軍再編による日本の拠点基地化計画があることだ。
韓国では米軍反対運動が根強く、さまざまな問題を引き起こした米軍への反発はついに米軍撤退にまで追い込んだ。ラムズフェルド国防長官は「歓迎されないところには米軍は置かない」と発言。沖縄を除いて、世界でもっとも米軍への反発の少ない日本は、湯水のごとき思いやり予算や堂々と治外法権を主張できる日米地位協定という制度上の優遇策に加えて、米国文化なら何でも受け入れるという主体性のなさ、民度の低さ、人権感覚の鈍さが、世界一極支配のための米軍という暴力装置にとってこの上なく居心地のよい場所ということだ。米国は今後、同盟国の軍事力を活用してゆく方針だ。
さあ(九条の現場)である。抗議集会を遠巻きにして5〜10人の公安が張り付いている。集会が始まった頃、ブルーのジェット・ヘリが飛来。県警のヘリだ。このヘリは集会からデモが終わるまで延々と上空を飛び続けた。日本中を(テロ警戒中)というイヴェントに巻き込み、浮足立つ中で、たった30人ほど(しかもほとんど中高年)の反戦集会に対して機動隊がバス2台分、ジェット・ヘリ、デモコース上至る所に配置された警官、無線連絡しながらデモ隊に同行する公安という過剰、異様が演出される。いったいどれほど税金が使われるのか?集会参加者は(禿げ、白髪、しみ、しわ、老眼、腰痛など)のいずれかを患い、反戦の情熱こそ誰にも負けない自負があるが、まさか危険な武装集団には見えるはずもあるまいに。あえて形容するなら、さしずめブレーメンの音楽隊ぐらいがちょうどいい。生き方も考え方も違うが、平和を希求する情熱によってのみ連帯した異形の集まりなのだ。
猛烈な暑さのなか、大声で「イラク派兵反対!」「米軍はイラクから撤退しろ!」などとシュプレヒコールを繰り返し、喉は嗄れ果てる。通行人のなんと少ないことか。底無し不況は地方都市の姿を枯渇・衰退させた。どこに行ってもシャッターの閉まった商店ばかりだ。それでも通り抜ける車のドライバーは何事かと一瞥を投げてゆく。交通整理の警官が、デモの横を上り・下りの車列を交互に通過させるために笛を吹く。ある時警官が制止した車は、勝ち組御用達ランボルギーニとフェラーリの数千万円の新型車。まさにグローバリズムを象徴する風景だった。自衛隊基地とキャンプ富士の両方に申し入れをしたが、例によってキャンプ富士の米兵は歩哨詰所の内側からこちらをチラチラ見ているだけで出てこない。大声で英語で読み上げて申し入れを終えた。この間に陸自の戦闘車両が何台も通過していった。なんとあのサマーワに派兵された迷彩色の総輪装甲車も何台か走り抜けていった。あの車も自衛官もイラクの地を踏むのだ。まさに銃後の風景(九条の現場)がここにある。
改憲と、それを危惧する声が高まっている。憲法第九条の会など結成の動きも出てきた。名だたる研究者・文学者・評論家をはじめさまざまな立場の人々から改憲反対の意思表示がされている。巷でも、やっぱり戦争はイヤという声が聞こえないわけではない。改憲反対の人々が数千人や数万人では決してないはずだが、それならどうしてイラク派兵と世界戦略の国内における現場が見えないのだろう?どう考えてもこのキャンプ富士という戦闘シミュレーションエリアが米軍再編の重要な現場であることは間違いないのに。
観念、理念としてのみの改憲反対が行動を欠き、具体性を欠いて(現場不在の九条)という現象をうみ出している。我が子が寝ている家が炎に包まれはじめた時、ひたすらお経を唱える親がいるだろうか?笑うのは米軍ばかりだ。思想と行動の交差する現場を踏まずして語る言葉などあり得ない。なんとか巨大なブレーメンの音楽隊を実現したいものだ。 2004.9.14 高木
デッド・エア
グローバリゼーションにおける「9.11」効果とは、米国側に帰属する同盟国に、それまでかろうじて機能していた民主主義の歯止めを一挙に取り除き、圧倒的かつ恣意的な国家権力の暴走に過給器的に作用するものだった。不純、不正義もしくは不道徳でさえあっても、たとえば慶応大卒の2世議員であれば富が約束されてしまうようなグロテスクかつ単純な社会が出現している。政治も社会も第一目標として「フェア」を捨てているから利権のネットワークはますます絡み合い、自己増殖してゆく。
ところで保温や保冷という(断熱)のキーポイントはデッド・エア、つまり(閉じ込めた空気)にある。氷点下の活動を可能にする羽毛服や断熱材を考えればわかるはずだ。体温を奪って死亡しかねない冷気から隔離されていれば体温が低下するのが避けられる。野宿を強いられる人たちが段ボールを利用するのも、ただ手に入りやすいだけでは決してない。段ボールの段の部分が僅かに残された生存を決めるデッド・エアなのだ。貧乏人と金持ちの違いはかくも大きい。
富める者がなぜ快適な生活なのかというと、さまざまな環境変化が直接身体に影響しないからだろう。物理的には豪邸、高級車、ガードマン、TPOに合わせた衣服など、見えないものとして階級、地位、社会制度などだ。つまり保身のためのデッド・エアが完璧ということだ。だが、いつでも間接的にしか世界と関われないことでもある。現場を知らない人間がこうして出来上がるわけだ。
元はと言えば政治家(議員)とは代理人のはずだった。あろうことか(生活・生命)の安全保障を託した代理人が変節し、対等・平等であるはずの関係が、主人と奴隷とさえ呼べるほどの非対称にすり変えられてしまった。
もとの対等な関係を考えれば、代理人を選ぶ側も代理人として選ばれた側も等しい責任を負うはずだ。
現実にはその責任の大きさ、重さが極端に非対称つまり、不公平になっている。
噴火活動により全島避難から丸4年を迎えた三宅島に対して、05年2月に避難指示を解除する方針が示され、村民の「帰島」に向けて動き出した。しかし、石原都知事が自己責任論を持ち出した。「火山ガスの放出は続いており専門家も100%保証出来ない状態だ。帰島については自己責任を考えたうえで村民が自分で決断・選択すべき」というわけだ。
9月14日毎日新聞は、島の復興をテーマにした8月28日のフォーラムで三宅島島民連絡会長の佐藤さんの「自己責任で帰れということに私は納得できない。村長が全島避難を指示し、解除して帰すわけで、結果責任は村長と東京都知事が負わなければならない」という意見を紹介している。きわめてまっとうな意見だ。
予想される東海・東南海地震に向けて災害訓練や防災マニュアルづくりが喧しいが、実際に被災した弱者がどのようにあしらわれるかを三宅島のケースに学ぶ必要があるだろう。弱者のセーフネットはすでに無いということだ。勝ち組の本音は「金も地位も無いのに助かろうなんて思うな。事あるごとに自己責任を思い知らせてやる」といった具合だろう。もっとも52基の老朽化した脆弱な原発を抱えれば巨大地震における勝ち組も負け組も運命は同じでしかないのだが。(現実にはそんな事も理解出来ない脳天気な勝ち組が多い)
ところで、イラクの駐留外国軍の撤退が注目されている。4月、スペインが国内列車爆破テロを受け撤退。7月に人質事件を受けてフィリピンが、8月に期限切れでタイが撤退。05年1月にポーランドが大幅削減予定。3月にオランダが撤退予定。軍隊を覇権していないが、有志連合に加盟していたコスタリカは、政府による戦争支持表明が、戦争を放棄した同国憲法に反するという司法判断が下されて米国に連合離脱を表明した。健全な国家の在りようとでもいうべきか。
9月13日現在31ヵ国、16万2000人のイラク派兵の14〜15万人が米英軍という構成で他の国の離脱は影響が大きい。イラク戦争の主要な根拠とされた大量破壊兵器についてパウエル米国務長官は「いかなる備蓄も発見されておらず、これからも発見することはないだろう」と発見を断念したことを認めた。旧フセイン政権とアルカイダとの協力関係についても証拠がないことが認定されている。つまりブッシュ政権は何ら明確な証拠がないままに武力行使に踏み切ったということで、米国の主張を根拠に武力行使支持を表明した日本の大義が崩壊したわけだ。いったい罪無き14000人のイラク人の死を誰が責任をとる?またもや日本は自覚無き侵略加害国になった。
パウエル証言について日本政府は「クルド人への化学兵器使用だけでなく、イラン・イラク戦争やクウェート侵攻まで持ち出して、旧フセイン政権は中東で様々な人的・物的被害を非常に大きく与えた、と釈明した」(毎日9月14日)
イラン・イラク戦争や、クウエート侵攻までのイラクと米国の関係を忘れたのか?アジアに在りながらアジア侵略という加害の過去をもつ日本の政権が、苦しまぎれや言い訳であっても口にすべき言葉ではあるまい。。国民はおろか世界をバカにする態度だ。三宅島民連絡会の佐藤さんの言葉を思い出そう。
指示をした者が結果責任を負うべきなのだ。小泉首相は、米国が嘘っぱちの理由でイラク人14000人を虐殺することを何の確認もないまま支持して、戦争放棄を謳った憲法第9条を無視して武装した自衛隊員をイラクに派兵した。厚顔な小泉首相に隊員家族の悲痛な心中など解かるはずもない。なにしろ勝ち組は絶対安全なのだ。死傷するのは自衛隊員のみ。(そうでなければあの笑い顔など出来はしない)イラク侵略戦争に反対する市民の良心を冷笑、弾圧し、明解な論理的破綻にもかかわらず、戦時下戒厳令状態を目指している。戦争という非常事態がどれだけ重大な責任を負うか、戦争責任を迂回してきた日本人、とくに二世議員たちは理解していないだろう。1年間に35000人が自殺するこの国で、だからといって大規模なデモやゼネストも起こらず、なんと野球界がストに突入!熱狂するファンに、つくづくスポーツが代理戦争であることを思い知らされた。それは双方の在りようを変えることなく支配層と被支配層の両方にデッド・エアとして機能するからだ。
2004.9.24 高木