大阪港湾のフィールドワーク

二〇〇一年九月、強制連行調査ネットワークの集会が大阪の茨木市でもたれた。集会では三菱の強制連行、西松組裁判、敦賀港、高槻地下工場、朱鞠内遺骨発掘、大江山裁判、軍人軍属裁判、済州島調査などの報告があった。翌日には大阪港などのフィールドワークがおこなわれた。

「中国人強制連行と大阪臨港地帯」のフィールドワークでは、大正橋の安政津波遭難者供養碑、尻無川水門工事殉難者碑(一九六九年の事故)、中山製鋼などの大正区の工場、港区の第三突堤、築港の天保山、安治川トンネルなどを見学し、大阪の港湾の形成から港の侵略の拠点化、軍需生産と港湾荷役、強制連行などについて学んだ。

大阪には一二〇〇人を超える中国人が連行され、そのうち一〇〇〇人以上が大阪港湾の現場で労働を強いられた。大阪の大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会のメンバーは中国での現地調査を重ね、四〇人近くの生存者と一〇〇人以上の遺族を確認し、強制労働の実態を示す証言を収集してきた。一九九八年には追悼会を港湾の現地で開催し、一九九九年には『大阪と中国人強制連行』を発行した。大阪港湾には朝鮮人や連合軍俘虜も連行されている。朝鮮人の連行については一九九三年に朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行の記録大阪編』が出されている。

以下はフィールドワークの後に、資料を集めてまとめたものである。

 

大阪の港湾と強制労働

戦時下、大阪の港湾は戦争の拠点となっていた。港区の浪速貨物駅には軍需物資が運搬され、陸軍専用とされた第三突堤から軍用船で大砲、戦車、軍馬などが輸送された。大阪の陸軍造兵廠からの物資も輸送されてきた。陸軍の糧秣支廠や運輸部の倉庫などもおかれた。港に面した西淀川区、此花区、大正区、住之江区、西成区には鉄鋼や造船などの軍需工場が立ち並び、軍需生産を担った。そのために各地から大阪へと石炭や鉄や銅などの金属が輸送され、軍需品が生産された。三井や三菱、住友などの倉庫がならび、これらの原料や製品を輸送するために多くの港湾労働者が必要になった。そのためにこの大阪の港湾に多数の朝鮮人、中国人、連合軍俘虜が連行されてきたわけである。

港湾業者として上組、共進組、高島組、桑名組などが荷役を担っていたが、戦時下の統制がすすむなかで一九四一年には港湾運送業等統制令がだされ、一港一社化による動員態勢が取られるようになった。大阪では港湾業者によって一九四二年一二月に大阪港運(株)が設立されたが、この会社は日本通運、鴻池組運輸部、大正運輸、住友倉庫、三菱倉庫などによるものであった。同月にはこの大阪港運の業種別子会社として、大阪船舶荷役(株)、大阪河川運送(株)、大阪筏(株)なども設立された。石炭運送部門では、大阪港石炭運送(株)も設立された。一九四三年四月には工場・倉庫・沿岸の三つの統制組合の連合による大阪沿岸荷役業統制組合連合会が設立された。中国人の強制連行を担ったのはこれらの大阪港運、大阪船舶荷役、大阪港石炭運送、大阪沿岸荷役業統制組合連合会といった統制会社・組合である(『大阪と中国人強制連行』八八〜九〇頁)。

 『大阪港史』三には、一九四二年六月での荷役労働者数調が掲載されているが、船舶荷役、沿岸荷役、石炭荷役などで約三千人の不足とされている。そのため俘虜五百人が連行され、さらに中国からの連行がなされた。朝鮮人の港湾荷役への配置について朝鮮総督府と交渉して朝鮮の労務者の移送を要請し、一九四四年一〇月頃までに朝鮮の労務者が大阪など主要一二港に配置された。特に倉庫荷役については東京・大阪・神戸・関門へと二〇〇人を増配させた。敗戦時に全国の港湾で労働していた朝鮮人は三三万人に及んだ。全国的な港湾での朝鮮人の配置先は、大阪港四〇〇人、大阪倉庫五〇人、神戸港二〇〇人、神戸倉庫五〇人、名古屋港二〇〇人、八幡港八〇〇人、関門港二五〇人、関門倉庫五〇人、博多港二〇〇人、東京倉庫五〇人、若松港二〇〇人、長崎港一〇〇人、広島港一〇〇人、敦賀港一〇〇人、舞鶴港一五〇人などである(『大阪港史』三、六六〜六九頁)。

厚生省勤労局調査史料には、秋田港運・長崎港運・清水港運送・神戸船舶荷役・広畑港運・博多港運・唐津港運・長崎港運などの名簿が残されている。このほかにも室蘭、伏木、敦賀などの港運に連行されるなど、全国各地の港運へと連行がなされている。大阪の港湾については、『大阪港史』に記されている以外にも様々な形での朝鮮人動員があったとみられる。

国鉄の「半島労務者配置状況」によれば、一九四四年の第三四半期までに大阪の港町駅四五人、梅田駅二三〇人、安治川口駅一四四人、大阪港駅九五人、大阪東駅三七人、桜島二四三人、汐見橋四八人の朝鮮人が配置されている。この段階で千人ほどが連行されていた。さらに一九四五年には梅田・大阪港・大阪市場・玉造・天王寺・津田・桜島・安治川口・淀川・浪速などへの二千人ほどの連行が計画されている(朝鮮人強制連行真相調査団『資料集一〇』所収史料)。

この計画によってどれほどが実際に連行されたのかは不明であるが、千人を超える朝鮮人が大阪の国鉄の駅に連行され、運輸労働を強制されたことは明らかである。この国鉄のほかにも日本通運大阪支店などへの連行もあった。陸軍関係物資の運搬には特設水上勤務隊が編成されたが、この部隊には朝鮮人も多かった。大正区では数多くの朝鮮人が集住し、港湾での労働に就くことも多かった。連行者以外にも大阪での港湾や陸上輸送には数多くの朝鮮人が就労していた。このような輸送部門での労務動員によって軍需工場での材料や製品の輸送が可能になった。

連合軍俘虜も大阪の港湾に連行され、三菱倉庫、日清倉庫、渋沢倉庫、住友荷役、大阪鉄道局、日通大阪支店などの港湾・運輸や大阪製鉄、淀川製鋼所、大阪窯業セメント、久保田鉄工所、中山製鋼所、日立造船、名村造船、藤永田造船、佐野造船などの軍需工場などでの労働を強いられた。

 

軍需工場への連行

港湾沿いの鉄鋼関係の軍需工場には多くの朝鮮人が連行されている。その連行は一九四二年六月以降におこなわれたものが多い。「移入朝鮮人労務者状況調」によれば、一九四二年に連行を計画していた工場には、大阪製鋼西島工場・大同製鋼大阪工場・大谷重工業大阪工場・淀川製鋼所(西淀川区)、大谷重工業恩加島工場・中山製鋼所本社(大正区)、大和製鋼本社(西成区)、川崎重工業大津工場(泉南郡)などがあった。一九四三年以後には工場への連行がさらにすすめられ、此花区の住友金属工業、日立造船所桜島、大正区の久保田鉄工所恩加島工場、日本製鉄大阪工場、協和造船所、帝国化工大阪工場、住之江区の藤永田造船所、平野区の大阪金属工業などへの連行がおこなわれていった。

大正区では一九四三年ころには軍需工場への連行が九工場に及んだが、このころの連行朝鮮人の配置と朝鮮人の集住区の状況を示す「内鮮要覧 大正区警察署管内」という地図が発見されている。この大正区に地図には連行工場として、栗本鉄工所、日本鋳鋼所、大谷重工、勝山鋳鋼造機、日本製鉄大阪工場、中山製鋼所、久保田鉄工所、協和造船、串畑鉄工が黒い丸印で示され、その近くには連行朝鮮人の収容所である「集団移入鮮人宿舎」が黒い長方形で記されているものが多い。また、朝鮮人の集住区が、泉尾浜通り(二ヵ所六〇世帯二三五人)、北恩加島(一ヵ所六〇世帯二一九人)、小林(四ヵ所八九世帯三三四人)、北泉尾(二ヵ所世帯等未記入)、南泉尾(三ヵ所一一五世帯九二〇人)、平尾(二ヵ所通称馬小屋、一二〇世帯九八四人)、南恩加島東(二ヵ所通称隣保館住宅、二一四世帯一三四四人)、南恩加島東四六三地(五二世帯三五〇人)、南恩加島西(丸宮アパート、二ヵ所七五世帯三三四人)、船町(世帯等未記入)、鶴町南(二・三丁目、九八世帯三八八人)、鶴町北(二ヵ所四丁目、八五世帯三四〇人)という形で記載されている。

この地図からは連行企業が増加したこと、警察にとって集団連行朝鮮人と朝鮮人集住区がともに治安監視の対象であったことなどがわかる。また、この大正区の地図には、大阪窯業セメント、陸軍運輸部倉庫などの名も記されている。これらの現場にも朝鮮人が動員されていたとみられるが詳細は不明である。

大阪の軍需工場については連行者の名簿は厚生省勤労局調査では大阪特殊製鋼分の二九人しか残されていない。一九四四年に入っての鉄鋼や造船の現場には朝鮮北部からの連行者が増加する。大阪の軍需工場でも同様とみられるが、実態は不明である。

なお、二〇〇五年一〇月には大阪中国人強制連行連行受難者追悼実行委員会によって築港の天保山公園に追悼記念碑『彰往察来』が設置された。連行朝鮮人についての港湾関係の碑は現時点では未設置である。

大阪陸軍造兵廠への連行については二〇一〇年に留守名簿や工員名簿に氏名があることがわかった。この連行の実態についての解明は今後の課題である。

 

参考文献

大阪中国人強制連行連行受難者追悼実行委員会「民衆史としての碑と中国人強制連行」(フィールドワーク資料)二〇〇〇年

大阪・中国人強制連行をほりおこす会『大阪と中国人強制連行』一九九九年

辛基秀「大正区の朝鮮人一九三五〜四五」『戦争と平和』九 大阪国際平和研究所紀要二〇〇〇年

『朝鮮人強制連行の記録大阪編』朝鮮人強制連行真相調査団 柏書房一九九三年

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」一九四二年

茶園義男編『大日本帝国内地俘虜収容所』不二出版一九九三年

                      (二〇〇年九月調査記事に追記