丹波のマンガン鉱山と朝鮮人労働

はじめに

 丹波地域ではマンガンが採掘され、その採掘に多くの朝鮮人が動員された。丹波では1989年に李貞鎬さんによりマンガン記念館が設立され、マンガンと強制労働についての展示がなされ、坑道も整備されてきた。2009年には閉館となったが、記念館を引き継いで運営してきた李龍植さんは『丹波マンガン記念館の7300日』を出版した。

ここでは館の展示資料や出版物を利用して、丹波での朝鮮人労働についてまとめていきたい。

●丹波のマンガン採掘

丹波地区はマンガンの産地である。マンガンは電池の原料として利用され、鉄と混ぜれば鋼鉄となり、キャタピラやレール、砲身、銃身などの製造に欠かせない鉱物である。

丹波での採掘は20世紀にはいってから盛んになり、丹波のマンガンは良質とされ、ドイツにも輸出されるようになった。鉱山は京北、美山、日吉の地区に多くあり、鉱山労働を多くの被差別部落民が担った。かれらは差別によって土地を得ることができず、鉱山での労働で生計をたてたのである。

マンガンの採掘が進展すると、帝国マンガン株式会社が設立された。1935年ころには朝鮮人の労働者が増加し、採掘現場では朝鮮語が飛び交うようになった。戦時には陸軍による集鉱がおこなわれるようになり、鉱石の統制会社が設立された。増産により1944年には日本全国で35万トンが産出された。

丹波のマンガンの鉱床分布をみると277カ所ほどあり、そこでの鉱山開発もおこなわれた。マンガン鉱山の多くが小規模経営であったが、当時のこの地域での労働者数は3000人に及んだという。戦時の労務動員体制がすすむなかで、朝鮮人は募集されてマンガン鉱山に集まってきたが、鉱山で働けば徴用とみなされ、南方への徴用を逃れることができた。

地域住民の証言では、朝鮮人を奴隷のように扱っていたという(『丹波マンガンの労働史』3頁)。殿田の駅前には選鉱所ができ、運送は日通や丹波貨物がおこない、鉄道で輸送された(『丹波マンガンの労働史』9頁)。

解放後の1945年、マンガン労働者の飯場を拠点に朝鮮人連盟が結成され、日吉町殿田支部などでの活動があった。朝鮮戦争時には丹波地区でも民戦が設立され、祖国防衛隊も組織された。

●李貞鎬さんとマンガン記念館

マンガン記念館を開設した李貞鎬さんは1932年に慶南道金海郡金海面で生まれた。2歳の頃、一家で京都の叔父の奉律さんを頼って渡日し、園部に住んだ。貞鎬さんが9歳のときに父は亡くなり、叔父に育てられることになった。おじは学校に行くために日吉町に家を借り、貞鎬さんを育てた。

貞鎬さんは1947年には硅石鉱山で働くようになり(15歳のころ)、翌年にはマンガン鉱山で働き、1951年に結婚した。朝鮮戦争時には叔父の奉律さんは民戦丹波地区の議長団メンバーとなり、貞鎬さんは祖国防衛隊の京北隊長になった。そのため19541月にはスパイによる監禁事件を仕組まれて検挙され、執行猶予3年の懲役3年刑という不当な判決を受けた。1960年代後半からは新大谷鉱山の下請けで働いた。

この新大谷鉱山についてみておけば、ここでは、20世紀初めに地表のマンガンが掘削され、1916年からは坑内での採掘がおこなわれるようになった。1935年から45年にかけては約1500トンの二酸化マンガンを産出した。戦時には40人ほどの朝鮮人が動員された。1938年には慶南出身の許守奎さんが落盤で亡くなる事故もあった(記念館での遺族の証言による)。1953年からは三洋開発鉱業が経営した。1968年に坑内下請けが禁止されたため、白頭鉱業(有限会社)を設立した。貞鎬さんはこの会社を1971年に引き継いだが、1978年に倒産した。その後、様々な仕事を試みたが、1981年に新大谷鉱山と横の弓山鉱山を買い取り、1983年まで採掘した。貞鎬さんは塵肺による喀血に苦しみながらこの事業をすすめた。

貞鎬さんは1983年ころからマンガンの博物館建設を願うようになり、新大谷鉱山の跡を利用して丹波マンガン記念館を1989年に開館させた。李さん一家が中心になり、記念館を建設し、坑道などを整備した。この館は李貞鎬さんの「朝鮮人の歴史を残したい、館は俺の墓の代わり」という情熱が結実したものだった。館ではマンガン採掘について展示するだけでなく、朝鮮人の強制労働や被差別部落民衆の鉱山労働についても展示した。記念館の作成したDVDには貞鎬さんの館の建設への情熱的な語りが収録されている。

貞鎬さんは次第に身体が動かなくなり、1995年に呼吸困難で死亡した。遺骨は海に散骨された。李さんが亡くなると、息子の李龍植さんが館の経営を引き継いだ。館は私費で20年間にわたって経営されたが、20095月末に閉館することになった(丹波の鉱山の概略と李貞鎬さんの履歴は『丹波マンガン記念館の7300日』による)。

 

●丹波マンガンと朝鮮人労働

ここで、館の証言記録の展示から丹波のマンガン鉱山での朝鮮人の労働についてまとめておこう。

李徳南さんは、マンガン鉱山で働く夫を追って1930年ころに朝鮮から丹波に来た。夫は30年間、亀岡、殿田、山家、大野、滋賀などのマンガン鉱山等で働いた(展示資料による、以下「展示」と略記)。

姜順徳さんは1922年に慶南で生まれた。姜さんも夫が1938年にマンガン鉱山に行ったため、2年後に夫を追って渡日した(展示)。

全谷介さんは1905年に慶南で生まれた。21歳の時に渡日し、奈良の工場などで働き、32歳の時、美山に来て、鉱山や土建で働いた(展示)。

金教道さんは、父母が京都に移住し、1931年に生まれた。マンガンが軍需物資であり、マンガン鉱山で働けば徴用がないことから、1941年に家族で丹波に移動した(展示)。

李達基さんは1922年に慶南で生まれ、9歳の時に父と京都に移った。父は辻中鉱業から掛橋鉱山での採掘を請け、故郷周辺から朝鮮人を募集した。達基さん自身も鉱山で働いた(展示)。

李従基さんは1917年、慶南で生まれた。父が亡くなり、生活苦となり、17歳の時、一家で丹波に移住し、マンガン鉱山で働いた。戦争末期には園部の地下工場建設現場でトンネル工事の飯場頭になった。そこには北海道のタコ部屋、徴用を逃れた人などもいた(展示)。

辛秀申さんは慶北生まれ、19歳の時に徴兵を逃れるため自分の名前、年齢を偽って渡日し、神戸・大阪を経て、丹波でダイナマイトの穴掘りやマンガンや硅石の採掘現場で働いた。本当の名で登録できたのは1985年のことだった(展示)。

慶南晋州市大谷面ではマンガン鉱山で働いた人々が多かった。大谷面の李鐘秀さんによれば、日本は食糧や家財道具などあらゆるものを収奪した。父は丹波のマンガン鉱山で働き、家族も日本に渡った。李新基さんによれば、村の者は日本の炭鉱に連行され帰らなかったものも多いという(『丹波マンガン記念館の7300日』179180頁)。

厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」の長崎県分の名簿には鯛之鼻炭鉱の名簿があり、大谷面からの連行者の記載もある。2人の死者の名もわかる。また、福岡県分の三井三池炭鉱万田坑の名簿にも19441月と2月に大谷面から万田坑に連行された15人分の名簿がある。万田坑の名簿をみると1月に連行された13人のうち1944年の7月までに9人が逃走している。これらの名簿は李新基さんがいう炭鉱への連行者の一端を示す史料である。

丹後の西方にあたる兵庫県の篠山でもマンガンや硅石が採掘された。厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」の兵庫県分の名簿には篠山地域の鉱山のものが含まれている。多くは小規模経営の硅石鉱山のものであり、記載人数は10人前後である。名簿にはマンガンを採掘していた福住の鉱山のものもあり、7人の名前が記されている。

 

●タングステン鉱山での強制連行

京都・丹波地域の鉱山ではタングステンの大谷鉱山、鐘打鉱山での強制連行が知られている。また、福知山北方にはニッケルの大江山鉱山でも朝鮮人が連行され、中国人も連行された。

亀岡の大谷鉱山については、強制連行された金甲善さんの証言がある。金さんは1922年に慶北で生まれた。19435月に2年の契約で大谷鉱山に連行された。連行されるとダイナマイトの穴あけやトロッコ押しなどの坑内労働を強いられた。人間の限界を越えた重労働と空腹のなかで、このままでは故郷へ帰れなくなると考えた金さんは1944年に逃亡し、美山町での土建の仕事や岩谷や荒倉などのマンガン鉱山で働き、そこで解放を迎えた(『丹波マンガン記念館の7300日』5764頁)。

鐘打鉱山については、鄭甲千さんの証言がある。鄭さんは1918年に慶南南海郡で生まれた。1934年ころに福岡の麻生赤坂炭鉱の募集で働くが、落盤事故で入院した。落盤で10人死ぬこともあり、犬のように埋めて終わらせるという労働状態のなかで、友人を頼って鐘打炭鉱に行った。鐘打鉱山の労働者はほとんどが徴用者だった。1942年ころには海軍が視察に来た。解放後も鉱山で働いた(展示、『丹波マンガン記念館の7300日』65~71頁)。

他に、鉄を産出した福井県の若狭鉱山の証言もある。金載錫さんは1917年に慶南で生まれた。17歳で大阪の知人の工場で働くが、1942年に大飯の犬見鉱山に行った。そこで強制連行された朝鮮人と働いたという(展示、『丹波マンガン記念館の7300日』67頁)。

また、李又鳳さんは19435月に京都の伏見鉱山に連行された。そこで鉱石の運搬をさせられたが、このままでは病気か怪我で死んでしまうと考え、逃走した(『秋田県における朝鮮人強制連行』140頁〜)。

 

おわりに

マンガン記念館は京都駅から北に約30キロの山のなかにつくられた。展示館ではマンガンの鉱床、マンガン鉱石、マンガン採掘の工具や写真、朝鮮人の証言等の展示がなされた。

外部には、コンプレッサー、クラッシャー、ホッパー、輸送用牛車、鍛冶小屋、飯場などが置かれ、飯場の内部も復元された。飯場は当時の労働者の生活を伝えるものである。

川端大切坑が見学用に拡坑されて整備され、坑道内に人形を置き、坑内運搬や掘削、枠入れなどの坑内労働を再現し、地層についての解説も加えた。この坑は1950年に開坑されたものである。マンガン記念館周辺の山は散策道として整備され、坑口跡を見ながら歩くことができる。イベントも開催できるように野外ホールも置かれた。ステージの屋根には鉱山の働く若い男女の像がおかれ、彼方をみつめている。その下でギターとともに歌が流れる。

京都の東山区の万寿寺、左京区の清光寺には朝鮮人の遺骨が安置されている(展示)。無縁となった遺骨がその歴史を明らかにされ、恨がはらされる形で故郷に帰ることができる日はいつだろうか。

マンガン記念館は20095月末で閉館になった。この館が20年にわたって示してきたマンガン労働者の歴史を、新たな日にむけて、そのまなざしに答えるような新たな形をもって、表現していくことが求められているように思う。

                                   (竹内)

 

 

参考文献

李龍植『丹波マンガン記念館の7300日』解放出版社2009

『ワシらは鉱山で生きてきた』丹波マンガン記念館1992

『マンガンに生きた朝鮮人と部落』(DVDNPO丹波マンガン記念館

『丹波マンガンの労働史』(日吉解放センターでの座談会)20007

篠山市人権・同和教育研究協議会編『デカンショのまちのアリラン』神戸新聞総合出版センター2006

丹波マンガン記念館展示資料(2009年閲覧)

厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」兵庫県分・福岡県分・長崎県分

 野添憲治『秋田県における朝鮮人強制連行』社会評論社2005