2010.2.27東京大空襲65周年朝鮮人犠牲者追悼
              国際シンポジウム

 

2010年2月27日、東京の江東区内で東京大空襲65周年朝鮮人犠牲者追悼国際シンポジウムがもたれ、墨田区の東京都慰霊堂で追悼会もおこなわれた。

東京都慰霊堂の遺骨堂で40数体の朝鮮人とみられる遺骨が確認されたのは2005年のことである。それ以後、聞き取りや「被徴用死亡者連名簿」などの資料調査で170人ほどの死亡者名が確認された。2007年からは慰霊堂で慰霊祭がおこなわれてきた。

2010年には東京朝鮮人真相調査団の主催で国際シンポジウムがもたれることになった。韓国からは真相糾明委員会の鄭惠瓊さんや崔鳳泰弁護士が参加した。朝鮮からは朝鮮日本軍「慰安婦」および強制連行被害者問題対策委員会が報告書を送るかたちで参加した。

シンポジウムは追悼の演奏ののち、はじめに李一満さん(東京調査団)が経過を報告した。李さんは遺骨の発見の経過、遺族の招請、八丈島での調査について話し、日本政府が空襲で亡くなった全員の名前を明らかにすべきとした。

荒井信一さんは戦略爆撃が軍事目標の破壊だけでなく労働者の殺害と戦意低下をねらったものであり、1944年4月には東京などの都市攻撃が計画されていたとした。そして、3月は風が強くなり焼夷弾の効果をあげることになった。この空襲の成果によって航空隊の独立が進んで空軍となったが、最初の空戦が朝鮮戦争だった。日本各地の空襲を指揮したルメイは戦後天皇から勲章をえた。そのなかで空襲被害が封じ込まれてきた。たとえば占領軍は戦災者の慰霊塔建設を認めなかった。空襲の記憶は抹殺され、戦災被害者は放置された。この記憶の抹殺のいちばん深いところにあるのが朝鮮人被災者である、とまとめた。

朝鮮の対策委員会の報告文は、日本政府が北出身の遺骨問題については何の措置もとっていないこと、2004年、06年と遺族や関係者の入国を拒否したこと、名簿などを公開しないこと、企業の責任が追及されることなく企業の犯罪行為が隠蔽されていること、犠牲者の遺骨が粉砕処理され、ゴミのように扱われてきたことなどを挙げ、真相調査をすすめ、犠牲者の遺骨総数を確定すること、謝罪・賠償と遺骨の返還をすすめることを呼びかけるものであった。

韓国の糾明委員会の鄭惠瓊さんは、糾明委員会の調査と被害真相管理システムを活用して作成した東京空襲の被害者名簿を紹介し、今後の課題を提示した。調査で本名が確定した死亡者は76人であり、海軍芝浦補給部をはじめ、石川島造船などでの死者も判明した。芝浦補給部への連行年月日は、ほとんどが1945年1月5日であり、慶北からの連行者が多い。かれらの遺骨は不明である。鄭さんは、空襲による朝鮮人被害の本格的な研究と名簿分析による犠牲者の真相糾明が必要であるとし、韓国に居住する遺族をいま一つの生々しい資料と位置付けた。

最後に東京大空襲訴訟の弁護団の中山武敏さんが報告した。2009年12月の地裁判決では原告の賠償請求は棄却されたが、判決文は受忍論には依拠できず、判決で苦痛や労苦に計り知れないものがあったことは認め、立法を通じての解決を示した。裁判では朝鮮人被災者についても言及している。控訴審では外国人被災者を含め差別なき補償を求めていくと語った。

東京空襲での朝鮮人死者は1万人ともいわれるが、その実相は明らかではない。戦後60年を経て朝鮮人死者の名簿作成がおこなわれたのである。消されてきた名前を真相究明の活動を通じて取り戻すことが求められる。東京の江東区には軍需工場が多数あり、連行朝鮮人も多かった。

朝鮮人が連行されていたとみられる江東区の主な労働現場をあげれば、海軍芝浦補給部、陸軍軍需本廠、石川島造船、三菱製鋼深川、サクションガス機関、宮製鉄砂町、吾妻製鋼、東京シャーリング砂町、内外製鋼砂町、日本特殊鋼砂町などがある。江戸川区には東洋製鉄、内外製鋼、足立区には東京瓦斯千住、東京製鉄などがあった。鉄道や港湾の荷役でも多くの朝鮮人が動員されていた。朝鮮人の集住区もあり、空襲によって多くの被害が出たとみることができる。

このうち、江東区のサクションガス機関については連行者名簿と資料が発見されている。また江東区の「東京特殊鋼管砂町製鋼所」(当時城東区南砂6−73)に連行された宋正浩さんの証言も2009年に収録されている(「朝鮮新報」記事 2010.1.25付)。宋さんによれば、1943年10月頃に平安北道から連行された40人のうち大空襲で生き残ったことを確認できたのは2人だけという。砂町の鉄鋼関係の現場には多くの朝鮮人が連行されていた。その被害の実態把握は今後の課題である。

この日にもたれた追悼会は4回目、黙祷、読経、追悼の辞、追悼歌、焼香・献花がおこなわれた。追悼歌では朝鮮学校の生徒が故郷の春や花などを歌った。歌声が慰霊堂の薄暗い空間に響いた。それは人権と正義の回復にむけての希望の灯のようだった。

追悼会ののち、公園内の復興記念館の事務室近くに、名簿の閲覧ができると記されていたので、閲覧の希望を申し出ると、閲覧したい具体的な名をあげなければ見せないという。館員が持ってきた名簿は「戦災死者遺骨名簿」であり、東京都によって1972年に作成されたものである。それは、ここの遺骨堂にある約3700人分の名簿で、名前や納骨段、火葬地が記されている。表紙の写真撮影さえも断られた。この名簿はすでに東京調査団が別の図書館で発見しているものである。

空襲死者の名簿は空襲犠牲者追悼平和祈念碑の中に収められている。慰霊協会の事務所で空襲の死者名簿のコピーの閲覧について聞くと、死者名は個人情報で公開できないとのことだった。

このように東京空襲での死亡者の名は今も公開されていないが、追悼とは具体的な個人個人への行為であり、個人情報の名で隠蔽されるものではないと思う。大阪や沖縄では死者名の刻印がおこなわれている。東京という地域でも死者名の刻印がなされ、そこに朝鮮人名も記されていくべきだろう。                            (竹)