20106 九州筑豊地域強制動員者証言集会

二〇一〇年六月二六日、飯塚市内で九州筑豊地域強制動員者証言集会がもたれ、二〇〇人が参加した。この集会は飯塚の無窮花堂友好親善の会と韓国の韓日一〇〇年平和市民ネットワークが主催し、飯塚市、嘉麻市、桂川町が後援した。韓国からは市民ネットの三〇人、益山市の議政会(退職議員の会)の二〇人など、五〇人ほどが集会に参加した。

はじめに主催者を代表して李大洙さん(韓日一〇〇年平和市民ネットワーク)と吉柳順一さんが挨拶した。続いて、麻生鉱業綱分炭鉱赤坂坑に連行された孔在洙さん(ソウル在住、八六歳)と三菱重工長崎造船所に連行された金漢洙さん(大田在住、九一歳)が証言した。

麻生赤坂坑に連行された孔在洙さんは次のように語る。

わたしはソウルの忠武路の和食料理店(シキノ家)の従業員だった。当時、ソウル市内では真昼でも「産業戦士」の名でトラックに乗せられ強制的に連れさられることもあったから、若者は安心して道を歩くことができなかった。わたしはソウルから逃れて、両親のいた楊州郡九里面水澤里李村で農業を助け、日雇い仕事をしていた。一九四三年年一月頃、楊州郡庁から召集令状が届き、同年の二月一日に郡庁の集合場所に出向いた。郡内から召集された一二〇人は楊州部隊とされ、議政府駅から汽車で釜山まで運ばれた。天候が悪かったため、三日間旅館に留め置かれ、関釜連絡船で下関に送られた。夜、列車で門司を経て、飯塚に到着し、麻生の赤坂坑に連行され、「第二鮮直」に収容された。

炭鉱の労働時間は一二時間と長く、食事も悪く、体と心は疲弊した。奴隷の生活で悲惨なことが多く、地獄のようだった。そこで亡くなった韓国人の霊魂の苦しみを語りたい。

坑内で採炭夫の仕事をさせられたが、六か月の間、寝食・作業などの全てに適応できず、夜、同僚三人と逃亡した。しかし、農家にいるところを取締りに捕えられ、派出所に連れていかれた。そこで取り調べられ、翌日炭鉱に戻された。労務に竹の棒で尻,足、顔などを殴打され、体を動かすことができないほどのひどい拷問を受けた。トイレに行っても座れないほどで、その肉体の苦痛は、言葉では表現できないほどひどいものだった。

再び坑内で採炭労働をさせられたが、食事は豆粕やタケノコが混じったものだった。空腹に耐えかね、「近くの飛行場建設で働けば白米を腹一杯食べさせてくれる」という噂を聞き、生死を賭けて逃げたが、また捕まり、拷問を受けた。

それ以後すべてを断念し、人間以下の奴隷のような待遇の中で、生きることだけを考えた。

一九四三年、作業を終えて炭車に乗って昇抗するときに脱線し、足の甲に怪我をして数か月間、治療を受けた。その間、食事は豆粕飯さえださずに、水っぽいおかゆを一日二食だけに減らされた。

一九四四年の四月頃には腸チフスが流行し、同僚数百人が飯塚病院に入院し、おおくの人が死んだ。倉庫の床に畳を引き、ベッドのない臨時収容所だった。力が入らず、足を引きずり、階段を這ってあがる状態だった。そのような生活をしていると、髪の毛は抜けおち、人間ではなく、骨と皮のやつれ果てた怪物のようになった。良い看護婦に出会い、牛乳や副食をもらって回復したが、その看護婦は罹患して亡くなったという。

一九四四年一一月頃、坑内に入る前に所長が訓示した。わたしが演説中に嘲笑ったと、所長はいきなりげんこつで頬を殴り、足で蹴った。

一九四五年に入ると、近隣の都市の爆撃音で地面が揺れるほどだった。戦争が激しくなると、寄宿舎生活もますます悪化し、穀物が一粒もない食事になった。野草を取って湯がいて食べたが、栄養失調になって腹だけが出てきて、人間ではなく動物のようだった。作業時間と採炭量も制限なく増加し、割り当てられたノルマを果たさないと昇坑できなかった。毎朝五時におき、坑内の仕事を終えて食事して入浴すると一一時から一二時くらいになった。

このような厳しい労働を続けていたために、睡眠と栄養が不足し、身体が疲れ果て、坑内に入ると眠気をこらえることができなくなり、どこにでも倒れて寝るようになった。ある日、岩を支える柱の下でカンテラを裏返して監督の目を盗んでうとうとしていると、夢の中で懐かしい母が現れ、私の名を呼びながら飛んできた。思わず「お母さん」と呼びながら起き上がると、座っていた場所の柱が折れて岩が崩れ落ちた。夢の中で母がわたしを呼びながら飛んできた姿は今でもわたしの胸に残っている。母はわたしが連行された日から一日も欠かすことなく朝、清水を奉じて仏様に「息子が生きて戻ってくるように」と祈っていた。母の真心がわたしを生かしてくれたと思う。

一九四五年八月、天皇の放送を広場で聞かされたが、その日も坑内で作業をさせられた。八月三〇日の朝、米軍が炭鉱にきて、わたしたちは帰国の準備をした。博多から漁船二隻で釜山に向かったが、船主は釜山に行けば船が奪われ、船主も拘束されると、対馬で釜山行きを断った。そこに一週間ほど留まり、船をかりたて、釜山にやっと着いた。祖国の土を踏んだ時、どれくらい懐かしかったことか。

わたしたちを監視し奴隷のように虐待し取り締まった労務は、当時のことを正直に明らかにしてほしい。逃亡して彼らによって犠牲になった者の霊魂、病気で死んだ者の霊魂、坑内で石炭に埋って死んだ者の霊魂に、贖罪してほしい。

連行されて奴隷労働をさせられた。それは歴史の真実である。名も知られずにどれだけ多くの者が亡くなったことか。その歴史を明らかにしなければ、友情のある関係になれない。麻生は責任を取ってほしい。(以上、集会で配布された聞き取り資料と集会での発言から要約)

三菱長崎造船所に連行された金漢洙さんは次のように語る。

わたしは今年で九一歳、当時、黄海道延白郡海城面の専売会社で労務の仕事をしていた。わたしは一人息子で、七歳の子どももいたが、強制徴用された。当時、個人の意思は貫けなかった。

一九四四年八月二六日に徴用の通知を受け、職場の同僚(李ジェド、ソンジュヨプ、李ソングン)と午前八時に延安駅に移送された。そこには一八〇人ほどが集められていた。釜山に運ばれ、釜山から下関を経て、三菱長崎造船所に連行された。宿舎はみすぼらしい木造で、中央に廊下があり、両脇に寝るようになっていた。そこに六〇人が入れられた。八月二九日の早朝から伍長の引率で、七日間の教練がなされた。その講話の内容に、前線で米軍の首を切ったり、満州事変当時女性を強姦したりというものがあったが、それは脅すためのものだった。宿舎の後方には捕虜収容所があった。捕虜の帽子には赤い紐が張られ、明け方には二列に並ばされて午後七時ころには戻ってきた。教練ののち、二キロほど離れた三菱の福田寮に移され、一棟に八〇人ほどが収容された。班長には安田、金村、金山がいた。

朝、六時に起床して夜一〇時に就寝した。わたしは熊本組に配置され、銅工場で作業した。そこでは、鉄管に砂を入れてハンマーでたたいて砂を固め、木の栓をした後、ガスの火で熱して見本どおりにウインチで曲げる作業だった。過酷な労働であり、工場内はいつも煙であふれていた。食事は豆油を絞ってその粕に米を少し入れて炊き、さつまいもの蔓を海水で茹でて汁にしたものだった。空腹に苦しんだ。四五度に曲げる作業中にチェーンが切れて、左足を骨折した。病院の医師はヨーチンを塗り、「大丈夫だ」と言って工場に送りかえした。わたしは杖をついて工場に行き、作業をさせられた。退勤時間になると足の指が卵のように腫れた。友人の助けを借りて宿舎に少し遅れて到着したが、夕食は取れなかった。

その後、亜鉛鍍金のメッキ工場に移された。山口組長の下で、地下の窯に石炭をくべる仕事だったが、夜間も石炭を入れ、徹夜が繰り返される職場だった。当時、わたしたちには小遣いとしてトコロテン何皿かを買えるくらいの金が支給されたが、故郷の家族へと送金されているということだった。だからわたしは熱心に仕事をしたが、後に故郷で確認してみると、そのような金は一銭も受け取っていなかった。全てをあきらめて工場で働き、残業や徹夜をした代価が、パン数切れ、腐ったサツマイモ、組長が時々くれたスルメ二枚だった。

一日一日を故郷の父母と家族を想い、生きて必ず会うことを心に誓って生き抜いた。空襲の警戒警報がなっても工場で仕事をしたが、ある日、来襲の鐘が鳴らされ、人々とともに逃げた。防空壕に入ろうとしたら、中から石を投げられた。その防空壕に爆弾が落とされた。作業と空襲が繰り返される日々だった。

八月九日、空襲のサイレンがあり、突然、真っ青な光が窓からパッと入り、身体が上にぷかりと浮かんでドスンと落ちた。鉄板がぶつかる音、喚きたてる声が聞こえた。外に出ると、血だらけの人や抜け落ちた目を片手で握って歩く人がいた。海にも数多くの死体があった。それこそ、私が見た地獄だった。被爆は爆心から三.五キロほどの地点だった。

被爆した朝鮮人たちは板床で苦しんでいた。同郷の李ジェドと彼らを看病した。顔にやけどして話すことができず、手を握って泣くばかりの者、口が裂けて竹を口に噛ませて重湯を飲ませた同郷の者の姿は今でも忘れられない。同僚はお前だけで故郷に帰り、私たちが生きていると伝え、すぐに帰ると伝えてくれといった。

わたしは帰国することになり、船に乗り、四〜五日のちの一〇月二八日の朝、釜山に到着した。桟橋で老母がくれたおにぎりを一口飲み込み、故郷の地で限りなく泣いた。鉄道に沿って歩き、故郷に帰った。

事実を忘れることなく、再び起こらないようにすることが正しいことだ。その後、長崎を訪問し、原爆被害者手帳を受け取った。(以上、集会で配布された聞き取り資料と集会での発言から要約)

この二人の発言を受けて、意見発表がおこなわれた。

金旻栄さん(群山大学)は「日帝下強制動員企業の社会的責任」の題で、明治鉱業の責任をテーマに、明治平山炭鉱を中心に連行の状況について話した。明治平山については九州大学に「半島人関係書類綴」などが保管されている。平山炭鉱では二五次の動員があり、三二四二人が連行されたこと、その経過や寮生の氏名、未払い金の状態が判明する。金旻栄さんは日本政府から韓国政府に渡された供託金関係史料の分析を加えること、個別企業の具体的分析をふまえて、その責任を追及することなどを今後の課題とした。

金承国さん(平和市民ネット運営委員)は「韓日市民の過去の歴史の清算」の題で、現在の軍拡の状況を批判した。金承国さんは、日本が過去を清算するというならば、韓半島の分断を解消し、統一を助けることをすべきであり、そのためには米日の同盟体制を解消すべきとした。それにむけ、市民が平和に主体となるための交流、戦争の影のない韓日間の平和共存システムの構築、軍事に依存しない平和指向の社会システムの形成に向けての地域レベルでの運動をよびかけた。

無窮花の会の芝竹夫さんの意見も代読された。その意見は、強制連行否定論を批判し、連行と抵抗の実態を示し、過去清算に向けての遺骨の返還と企業による賠償の義務を訴えるものだった。

集会後には韓国からの参加者を中心に交流会がもたれた。翌日は、無窮花堂、麻生吉隈炭鉱跡、日向墓地などを巡るフィールドワークがおこなわれた。無窮花堂の前で平和市民ネットワークによる集会がもたれ、献花・献歌がおこなわれた。その場は、遺骨を前に、追悼、歴史認識の継承、新たな平和形成への想いを分かち合う場だった。

この集会ののち、船尾山の近くを通った。地図を見ると、船尾山は麻生ラファージュセメント船尾鉱山となっている。かつては日鉄船尾鉱業所や三井田川セメントであったところが全て麻生セメントの所有となっている。そのような麻生セメントの成長のうえに麻生太郎の首相就任があったわけであるが、戦時に一万人を超える朝鮮人を連行したことの歴史的責任は今も問われている。麻生が強制労働への歴史的責任について、その認識を高めることが課題である。