麻生吉隈炭鉱納骨堂

麻生吉隈炭鉱の納骨堂は土師六区の共同墓地にある。近くには嘉穂総合高校がある。この納骨堂の建立は一九六一年三月のことである。ここには吉隈炭鉱の共同墓地である弥栄墓地の改葬によって掘り起こされた遺骨が収められていた。それらの遺骨はのちに長明寺に移管されている。長明寺へと移管する際の写真をみると、多くが墓地番号で記されている。残されている弥栄墓地実測平面図をみると、無碑、木碑、石碑等の種別が記され、番号がふられている。無碑のものは掘り起こされた後、番号だけが記されたわけである。そのなかには朝鮮人の遺骨も多いだろう。

弥栄には吉隈炭鉱の坑口があり、労働者が集住する地域だった。この弥栄には共同墓地もできた。旧弥栄墓地近くには木造の建物が残っている。近くには巻揚機の台座の跡があり、弥栄の浴場の建物もある。

一九八二年に吉隈炭鉱跡地に徳香追慕碑が再建され、その横に一九三六年一月の吉隈炭鉱事故によって死亡した労働者の二九人を刻んだ碑が一九八五年に建てられた。その死者のうち二五人が朝鮮人である。

 

真岡炭礦第三坑殉職者慰霊之碑

糸田町には真岡炭鉱があった。一九四五年九月一七日には四人が亡くなる事故があった。事故は、台風による停電のために坑内のスイッチを切ろうと入坑した一六歳の朝鮮人労働者が不明となり、救出に向かった日本人労働者三人も犠牲になったというものである。一九八一年九月、事故での死者を追悼して」真岡炭礦第三坑殉職者慰霊之碑」が建立された。

その際、朝鮮人の名前はわからず、「不詳」と刻まれた。韓国の真相糾明委員会の調査によって二〇〇九年にその氏名が判明し、「姜相求」の名が新たに刻まれた。碑の裏側には二〇〇九年九月に副碑「命・愛・人権」が付けられ、その経過が記された。

厚生省の労務者名簿に真岡炭鉱の名簿があり、そこには姜相求は創氏名で「徳山相求」と記されている。そこから、本名が判明したのだった。それは真相糾明の動きのなかでの新たな刻銘だった。

この碑は、歴史を刻み残すこの大切さ、一人の名が明らかにされて記されることの歴史的意義、国境を越えて人と人が出会い信頼することを語るものである。あらたに刻まれた姜相求の名前の下には「不詳」の文字の跡が、埋められてはいるが、残っている。

他にも、数えきれないほどの「不詳」の人々がいる。この碑はそれらの空白を埋める一層の活動を求めているようにも思われる。

福智町には明治赤池炭鉱の「鎮魂碑」がある。碑の横には殉職者数を五二〇人と記す副碑がある。しかしそこには名前は刻まれていない。炭鉱労働に起因する病死を含めれば、死者は一〇〇〇人近くになるだろう。朝鮮人の死者も一〇〇人をこえるだろう。この鎮魂碑の左方には大きな忠魂碑があり、そこには戦争死者の名前が刻まれている。戦争動員の碑には死者が刻まれているが、炭鉱死者の名は数字でしか示されていない。近くには、人権擁護を語る町の宣伝文字がある。炭鉱死者一人ひとりの名を刻んでいくこと、人権を破壊する動きと対抗する人権の文化はそこから生まれていくのではないかと、忠魂碑と鎮魂碑をみながら考えた。

 

 

佐賀・大鶴炭鉱追悼碑

 

佐賀県唐津市肥前町には大鶴炭鉱があった。一九三六年に杵島炭鉱の傘下となり、一九五七年まで採掘がおこなわれた。肥前町の大鶴は仮屋湾に面し、対岸は玄海町方面である。現地には第二坑口が残っている。この第二坑が開かれたのは戦後のことである。また、二〇〇一年に建てられた「にあんちゃんの里」の碑がある。碑の裏面には、「大東亜戦争中、国策により朝鮮の人たちを大勢移動せしめ石炭増産に取り組む」とある。この「大勢移動せしめ」という表現は強制連行・強制労働の実態を示しえるものではない。

この大鶴炭鉱の特徴は労働者の多くが朝鮮人であったことである。

大鶴炭鉱への最初の連行は、一九三九年一二月の九七人であり、一九四〇年二月には更に一〇〇人が連行された。かれらは慶南の昌原、陜川から集団的に連行された(「肥筑石炭鉱業会資料」、長野暹・金旻栄「戦前、日本石炭業界における「朝鮮人労働者移入」の経過」所収)。一九四二年六月までの大鶴炭鉱への連行者数は七五六人である(「移入朝鮮人労務者状況調」)。 

一九四三年の大鶴炭鉱への連行者数をみると、三月・四月に忠北から八三人、六月に全南から一五〇人、九月に慶北から一〇〇人、一一月に全南から八六人、一二月に全北から三〇人の計四四九人が連行されている(「半島労務者供出状況調」)。

一九四四年一〇月の労働者数をみると、大鶴炭鉱の日本人数は五六〇人、既住朝鮮人数は一〇五人、移入朝鮮人数は一一三七人である。このころ佐賀県で最も多くの移入朝鮮人を使用していたのは杵島炭鉱であり、一七五七人を使っていたが、大鶴の数はそれに次ぐものであった(「給源種別労務者月末現在数調」一九四四年一〇月分)。

このような連行状況からみて、大鶴炭鉱へ連行者数は二〇〇〇人ほどとみられる。

大鶴炭鉱についての現地での調査記録が、長崎在日朝鮮人の人権を守る会の『原爆と朝鮮人』六にある。この調査記録には、坑内夫のほとんどが朝鮮人であったこと、朝鮮人の独身者用の収容施設を青雲寮と呼んだこと、寮からの逃亡者が青竹で殴られたこと、朝鮮人「慰安婦」一〇人ほどを置く店があったこと、広場で点呼を行い、ケーブルの切れ端で殴るなどのリンチを加えたこと、炭鉱を取り囲むように住居が立ち並んだこと、高台に派出所を置いて監視したこと、掘り出された石炭は船で北九州方面に運ばれ、憲兵が監視していたことなどの証言を収集されている。

肥前町入野の光明寺の裏手には、閉山時の一九五七年に建てられた「大鶴礦業所殉職者之碑」がある。この碑の横には一九九〇年に建てられた朝鮮人死亡者を追悼する「韓国人傷病没者之霊位」という碑があり、一九四五年八月までの朝鮮人死者五一人分の戒名、死亡年月日、氏名、年齢が刻まれている。寺には死者の名簿があり、遺骨の所在について聞くと、日本人のものとともに合葬されているという。

長崎在日朝鮮人の人権を守る会の『原爆と朝鮮人』六の調査によれば、大鶴炭鉱での死者の遺骨は光明寺の納骨堂に置かれていたが、「大鶴礦業所殉職者之碑」が建てられると、その内部に収められた。しかし、三〇年の歳月を経て、碑の内部に雨水が入り込み、木やスフ、厚紙で作られた容器は破損し、遺骨が識別できなくなり、『韓国人傷病没者之霊位』の碑を建立したときに、合わせて納骨したという。

大鶴炭鉱の朝鮮人名簿は、厚生省勤労局調査の佐賀県名簿には含まれていない。追悼碑には名前が刻まれたが、大鶴炭鉱の死亡者の連絡先については判明していない。すでに閉山から五〇年が過ぎたが、どこかに手がかりはないものだろうか。   (二〇一〇年六月)