小樽・函館での朝鮮人連行

 

1 小樽

小樽と朝鮮人については、琴坂守尚「小樽の掘り起こし」、「小樽と朝鮮人」にまとめられている(賀沢昇『続・雪の墓標』201〜209頁、民衆史道連『続・掘る』204〜214頁所収)。また、小樽の市民グループによる調査記録(能山優子収集資料)もある。ここではそれらの調査報告をふまえて、戦時の小樽での朝鮮人労働についてまとめていきたい。

 

●小樽の強制連行前史

1880年に手宮・札幌間の鉄道が開通することで、小樽は北海道への入口となり、空知の石炭をはじめ海産物や木材などの輸出やサハリン(樺太)への中継地として栄えた。小樽運河の倉庫群はそのような時代を今に伝えている。

そのなかで多くの移民や労働者が小樽に集まるようになり、1922年には人口が約12万人となった。1920年の「国勢調査報告」での朝鮮人数は、函館264人、小樽103人であるが、その後朝鮮人の数は増加し、港湾労働者数3千人のうちの3分の1ほどが朝鮮人になったという。小樽の木材積取関係労働者のなかにも朝鮮人が多かった。小樽市内の積取労働者の朝鮮人専用の下宿は35軒ほどあり、色内町から稲穂町にかけて、特に塩谷街道沿いに多かった。

1920年代、函館とともに小樽は北海道で朝鮮人が多い地域になった。このなかで小樽では朝鮮人親睦会、朝鮮人労働青年会といった朝鮮人団体も結成されている。朝鮮人親睦会は220人ほどの組織であり、会長は玄雲煥であった。かれは新聞外交員であり、総務の金孟学は積取労働者の飯場頭であるが、ともに「思想」の監視対象者とされていた。朝鮮人労働青年会の会員は20人ほどであり、会長は金竜植であった。料理店経営の金玄奎も結成に参加した。この団体を結成した金竜植は1925年10月に起きた小樽商高での軍事教練反対闘争に参加している。軍事教練の想定は、地震の際に「無政府主義団」が「不逞朝鮮人」を扇動して暴動をおこし、それを鎮圧するというものであった。これに対して地域在住の学生、社会運動者、朝鮮人は団結して抵抗運動をすすめた。

朝鮮人労働青年会は1926年の北海道で最初の手宮公園でのメーデーにも参加した。金竜植はその際、「万国の労働者よ、団結せよ。失うは鉄鎖あるのみ。得るは自由なり」というメーデー宣言を朝鮮語で再読したという。

 1927年に金融恐慌が起きると港湾での失業も増加した。6月には小樽合同労働組合を中心に2400人のストライキがおこなわれたが、朝鮮人倶楽部に組織された石炭現場の労働者もストライキに参加した。この朝鮮人倶楽部は5月に組織されたものであり、集団的な労働契約を求めて団結し、行動する組織だった。

戦争が拡大した1943年、小樽市役所の出納係だった李京洙は『朝鮮独立』を主張したという理由で検挙され、懲役3年の判決を受けた。かれは小樽商業を卒業生であり、小樽の稲穂町に居住していた。住所は塩谷街道沿いであり、積取労働者が集住する地域であった。このような抵抗の志向は小樽での朝鮮人の運動の歴史の系譜のなかで形成されてきたものといえるだろう。

 

●小樽への強制連行

 

小樽の陸軍暁部隊

戦時下、小樽は陸軍暁部隊の拠点になった。陸軍暁部隊は陸軍の船舶輸送部隊の略称であり、小樽には第5船舶輸送隊がおかれていた。この輸送部隊は、輸送司令部、海上輸送隊、楊陸隊、船舶工兵隊、船舶通信隊、野戦船舶廠、特設水上勤務中隊などで編成されている。

色内町の銀行街には暁部隊の本部が置かれた。この暁部隊はサハリン・千島方面の陸軍基地と部隊への物資補給を担っていた。小樽には大湊海軍警備府の運輸部もおかれ、樺太・千島方面へは函館や小樽を経由して兵員や物資が運ばれた。

小樽には陸軍の軍事物資の集積所がおかれた(現在の斉藤自動車・セブンイレブン、小樽竹材商会の真向かい)。その資材は朝鮮人を使って運搬された。朝鮮人たちのなかには「アイゴー」と泣き出す人もいたという(2005年・貝塚幸さん談、能山資料)。

小樽には中国人も連行され、菅原組が小樽の除雪、日本港運業界小樽華工管理事務所が港湾荷役に中国人を使っている。小樽華工管理事務所は小樽石炭港運、北海道石炭荷役、小樽港運作業などの港湾業者によって運営されていたが、これらの小樽港湾での物資荷役・楊陸関係の事業所に朝鮮人が連行されていた可能性も高い。

陸海軍の軍事基地が千島の占守島、幌筵島、松輪島、択捉島などに建設され、多くの朝鮮人が連行されたが、小樽はこの工事に向けての軍需物資と人員の集積場になった。菅原組はこの千島での軍工事を請け負って成長した。

 

高島での暁部隊地下壕建設

小樽は軍事輸送の拠点となったため、数多くの軍用地下壕が掘削された。2005年の北海道の調査では小樽市内で44の地下壕が確認されているが、そのうちの多くが軍用とみられる。西陵中学の近くの壕のように内部が数百メートルに及ぶものもある(報道記事2005年4月20日付)。

小樽の高島に掘られた地下壕についてみてみよう

高島の稲荷神社には暁部隊の第4野戦船舶廠(6195部隊)の本部の壕が掘られた。高島漁港の北側(新高島トンネルと高島トンネルの間)には地下工場用の壕が5本掘られた。この地下工場用の壕は部隊配置から第4野戦船舶廠のものとみられる。またカヤシマ岬には特攻艇の基地として2本の壕が掘られた。戦後、その一つは高島トンネルとして使用された。

この第4野戦船舶廠関連の地下工場用の壕の工事には朝鮮人が動員されたという証言がある。朝鮮人は「特別志願軍属」の20代の青年であり、30人ほどの2つの分隊で編成され、「松岡班」と呼ばれ、造船所を宿舎にしていた(第4野戦船舶廠技術将校花輪文男さん記事・2005年、能山資料)。

地域住民の証言には次のようなものがある。

朝鮮人たちはアリランを歌い、岩山をツルハシの手掘りで掘らされていた。岩山を掘った後の砂をトロッコに積み、レールで港まで押していった。朝鮮人にスケソウダラを細かくちぎって看視の部隊に見つからないようにもっていってあげた(初瀬ミツエさん談・2005年、能山資料)。

朝鮮人がトロッコ押しをしていた。軍服を着ていた。光雲寺付近には三角兵舎が2つ作られ、付近には火薬庫もできた。その近くには遊廓もおかれた(小林ハツさん談・2009年、能山資料)。

第4野戦船舶廠の本部の壕の工事にも朝鮮人が動員された。

島本清子さんはいう。家の隣が暁部隊の本部の防空壕だった。発破をかけて岩を崩し、トロッコに乗せて浜に埋め立てた。トロッコを押していたのは軍属の朝鮮人だった。三角兵舎には軍曹や兵長が泊まり、兵士は高島座(映画館)や高台寺などの寺院に泊まった。どこで働いていた朝鮮人かは不明だが、逃げていく朝鮮人を兵士が追いかけることもあった(島本清子さん談・2009年、能山資料)。

 朝鮮人は中を掘り、トロッコ押しをした。戦争が終わって中に入ったら、大きなものであり、丸太を組み横穴も2カ所あった(北弘昌さん談・2009年、能山資料)。

 

手宮での軍地下壕建設

千島に連行される朝鮮人は手宮や花園などの国民学校に一時収容されている。1943年の秋には手宮国民学校に300人ほどの朝鮮人が3日間ほど滞在し、学校の裏山に防空壕を掘らされた。

全金石乙さんや黄鐘守さんの証言によれば、連行は次のようである。

1944年5月末に楊口・麟蹄・原州・横城・准陽など江原道の各地から、陸軍軍属とされた500人ほどが釜山に送られ、下関から列車に乗り、函館へと連絡船で送られ、列車で小樽に連行された。小樽では手宮国民学校に一時収容され、陸上・海上などの軍事教練をうけた。小樽での地下壕建設にも動員された。この江原道からの連行者500人は、7月になると黄海道の500人とともに「太平丸」に乗せられて千島方面に連行されたが、幌筵(パラシムル)島の近くで魚雷攻撃を受け、半数以上の死者を出した。生き残った人々は占守(シュムシュ)島で軍事飛行場建設の強制労働をさせられた。そこには平安道、忠清道、京畿道、全羅道などから連行された1000人の朝鮮人が労働を強いられていた。全金石乙さんはさらに占守島から小樽に転送され、石炭荷役をさせられ、鉱山にも連行された。

証言から、手宮の地下壕は手宮国民学校に一時収容されていた連行朝鮮人が掘削したものとみられる。

『小樽市史』から1945年での国民学校の軍事転用の状況をみれば、色内(暁部隊、戦時救護病院)、若竹(暁部隊)、高島(暁部隊、食糧営団)、花園(暁部隊、戦時救護病院)、手宮(達部隊)、堺(達部隊)、奥沢(鏑部隊)、天神(北部軍管区経理部)、長橋(陸軍軍需統制部、食糧営団)、手宮西(戦時救護病院)、緑(食糧営団)となり、市立中学には暁部隊、北部軍管区経理部、大湊軍軍需部がおかれ、市立高女や市立女子商には戦時救護病院や陸軍病院の分院がおかれた。このように学校の兵営化がすすんだ(『小樽市史6』1969年565〜567頁)。

ここでの、達は第5方面軍、鏑は第1飛行師団、暁は陸軍船舶兵の通称である。陸軍の北部軍管区経理部、達や鏑の部隊には軍事基地構築用の隊があり、そこに朝鮮人が連行され組み込まれていった。

河崎瑞枝「従軍看護婦の夢は消えたが・・」には、小樽で負傷した朝鮮人が天神小学校に収容されていたとある(小樽道新文化センター『こもれび』15頁)。天神には陸軍の北部軍管区経理部がおかれていたから、この朝鮮人は陸軍の軍事工事に動員された人々かもしれない。

小樽は千島での軍事基地建設工事への中継地であり、小樽の学校は陸軍や海軍の軍事基地建設用部隊の収容施設になっていたといえるだろう。

 

菅原組による連行

 

菅原組は荒巻山の砕石現場に飯場を置き、稲穂町第1通りから手宮の目抜き道、十間通に直通する道の開削工事をおこなった。1944年春には発疹チフスが流行し、朝鮮人も死亡した。ここの飯場は、菅原組が「タコ」と呼ばれた拘束労働者を北海道各地に配給するための労働者集積場でもあった。

菅原組関係では、稲穂町荒巻山に「タコ」飯場のほかに小樽駅前に菅原組本社が置かれた。色内町には望月病院を買い取って詰所兼宿泊所をつくった。東雲町には大きな寮があった。

小樽運河沿いの倉庫には朝鮮人や「タコ」労働者を収容した石造倉庫もあった。戦後、菅原組は荒巻山の現場から去り、開削は中断されて現在に至る。切り立った岩肌は戦時の強制労働の遺跡でもある。

 

日本通運銭函地下施設工事

戦時下、日本通運は軍需用物資の輸送を担ったが、その輸送や地下施設の建設に連行朝鮮人を使っている。

小樽高等女学校を卒業し日本通運の銭函の出張所に動員された沢山千鶴子さんはつぎのようにいう。

銭函には日本通運の油の集積場があり、貨車で毎日ドラム缶が輸送されてきた。1943年の冬から1944年の秋にかけてこのドラム缶の備蓄用の地下壕を掘削するために、毎日朝鮮人がトラック2台に乗せられて連行されてきた。当時、朝鮮の大田から連行されたといわれていた。棒頭の下で、穴掘りと貨車からドラム缶を下ろす作業をさせられていた。寒い中、薄い服と藁靴で震えながらの作業だった。ドラム缶が滑り、足の爪が割れて血が吹き出し、アイゴーアイゴーと叫んでいたため、赤チンを持ってきて手足に塗って治療してあげた(2008年談・能山資料、北海道新聞2008年8月15日付)。

 

三栄精機製作所地下工場建設

 

小樽の三栄精機製作所の地下工場建設にも朝鮮人が動員されている。三栄精機製作所は小樽市の新光にあり、鉱業用機械・器具を販売していた三栄商店の製造部門として設立された。工場ではエアモータやエアウインチなどを生産していたが、戦時体制のなかでアンモニアガス発生装置や航空機部品の製造をはじめるようになった。

当時、小樽第二工業の生徒でこの工場に動員されていた桜井金治さんによれば、この工場には鉱炉、鋳物、旋盤、組み立てなどの部門があり、500人ほどが徴用されていた。地下工場建設は朝里川の工場の向かい側に建設され、朝鮮人によっておこなわれた。桜井さんは地下工場の建設状況をグラフにする係にされ、朝の作業前に掘削状況を測定した。地下工場の入口は3カ所あり、一日のノルマがあった。工事は軍事機密であり、他言できなかった。朝鮮人が連行されてきたのは1944年の秋か1945年の初頭だった。食堂の脇に朝鮮人の寮があり、夜遊びに行ったこともある。外には出られず、自由がなく、強制的に動員された人々だった(2009年談、能山資料)。

 

連行期・小樽での朝鮮人死亡者

1940年から45年までの小樽市の「執葬認許証」が発見され、そこには26人の朝鮮人とみられるものがあり、菅原組の荒巻山飯場(稲穂町東1丁目7番地)では河本漢g、金鎮休、萬田時九、宣井炳化ら4人の朝鮮人の死を確認できる。このうち河本から3人は1944年の1月末から2月初めに発疹チフスで死亡している。

『被徴用死亡者連名簿』には、昭和丸の泉原鐘寛(全南谷城出身)、金本博司(慶南金海出身)が1943年7月6日に小樽沖で死亡、大湊海軍施設部の金本漢龍(慶北軍威出身)が1945年2月10日に小樽で病気のため死亡などと記されている。ともに海軍軍属として記録されている。また、射水丸の金村炯斗(全南長興出身)が1945年7月15日に古平港で死亡した。

この記事から軍属として小樽に連行された人々の死亡と徴用船への攻撃状況が分かる。

 

強制連行の中継拠点としての小樽

 

北海道炭鉱汽船は戦前から元山や釜山で労働者募集をおこない、元山から小樽へと朝鮮人を連行している。

港湾都市小樽と釜山、仁川との間には航路があった。朝鮮人の強制連行が始まると、小樽に輸送し、小樽経由で空知の炭鉱や千島の軍事基地工事に送られていったケースもある。小樽第1埠頭にあった浜小樽の駅では、貨車に朝鮮人を詰め込んで空知へと連行したという。

なお、入船の「南廓」、手宮の「北廓」などには遊郭があった。ここで性の奴隷とされた朝鮮女性も多かったとみられる。

解放後の1945年10月31日、帰還と生活安定にむけて、花園町で在日本朝鮮人連盟小樽支部が結成された。

 

2函館

 

函館での朝鮮人労働については『函館市史』通説編3、通説編4に詳細にまとめられている。ここではこの記録を中心に、函館での朝鮮人労働についてみていきたい。

 

●函館の強制連行前史

 1920年の国勢調査では函館には264人の朝鮮人が確認されている。1923年の函館新聞の記事では300人ほどの朝鮮人が居留し、東雲町、大黒町、東川町などに在住していた。また函館は北海道の内陸部やカムチャッカ方面に向けての中継地であり、年延べ2000人の朝鮮人が函館を通過した。

このように朝鮮人が増加する中で、1923年には函館の朝鮮人が東雲町を拠点に就業や親睦・共済のための「労働組合」を結成している。組長は金承浩、副組長は宋桂祥であった。

 1930年の国勢調査報告では函館の朝鮮人は734人(男549人、女185人)であり、1920年と比べれば3倍になっている。報道記事からもこのころには700人ほどが居住していたことがわかる。在留朝鮮人の団体としては1932年には相親会(千歳町・会長具全泰、150人)や自省会(新川町)があり、1937年には新興共済会(会長魏春源〔田村春源〕、300人〕などの活動があった。この函館新興共済会は強制連行がはじまる1939年後半には協和会傘下へと統合されていった。

 

●函館への強制連行

 函館への朝鮮人の強制連行先は造船工場と港湾運輸関係である。造船では東日本造船と函館船渠に連行され、運輸関係では函館港運や日本通運函館支店での港湾荷役・運輸労働にも数多くの朝鮮人が連行されていったとみられる。また、函館本線工事への強制連行もあった。

東日本造船函館工場への連行は1943年9月から始まり、少なくとも258人が連行され、清風寮に収容された。東日本造船の釧路工場への連行もあった。函館船渠への連行は1943年3月から始まり、少なくとも130人が連行され、青雲寮・至誠寮に収容された。

函館船渠では舎監による叱責を原因とする1943年10月の落書き事件を、12月なって「脅迫罪」として立件し送局するという事件がおき、1945年3月には「不敬言動」を「朝鮮独立宣伝煽動」容疑で検挙するという事件がおきた。このような事件から、「半島戦士」名で強制的に動員し、現場で軍隊的な統制で管理しながら些細な落書きや言動を犯罪として処分していったことがわかる。

函館船渠については金興基さんの証言がある。金さんは慶北栄州郡伊山面出身、長崎の崎戸炭鉱や福岡の炭鉱に連行され、さらに1943年6月ころに函館船渠に連行された。函館では高いところで鳶の仕事をさせられ、敗戦が近いころには土を運ぶ機関車の釜焚きやミキサーの運転もさせられた。宿所は2階だてであり、そこの2階に徴用工が入れられた。空腹と寒さに震えながらの生活であり、母がつくった綿入りの服を着ていたところ、監督たちに殴打され、服を引き裂かれたこともあった。連行生活のなかで衰弱してしまい、解放後の帰国は1年間の療養の後のことだった。(『告発』所収)。

連行期には函館の朝鮮人数も増加していった。1945年の人口調査をみれば1260人の朝鮮人数を確認できる(男976人、女59人)。

 函館港は朝鮮からの強制連行者の中継地でもあった。1939年10月3日には三菱鉱業への第1回の連行者350人ほどが島谷汽船の長成丸で到着し、検疫の後、函館駅から列車で札幌方面に送られ、手稲鉱山と轟鉱山へと連行された。函館は連行先から逃走した朝鮮人を取り締まる拠点でもあった。1941年はじめに函館水上警察署員が増員された。それはこれまでに北海道に連行された2万人のうち3千人が逃走し、函館で1千人が発見されていることによる。取締りの徹底のための増員であった。

 なお、『被徴用死亡者連名簿』京畿道分には松本聖禄が1944年12月21日に函館陸軍病院で死亡したとある。かれは第5方面軍司令部所属とされているから、陸軍の建設部隊に配置されていたのであろう。

 

●函館での帰国運動

 解放後の1945年10月14日には、函館の新川国民学校に500人が集まり、渡島管内在住朝鮮人大会を開催した。大会での司会は魏春源だった。このころの函館・渡島・檜山の朝鮮人数は約1万人になっていたという。

この大会を経て、朝鮮人函館地方連盟(委員長魏春源、副委員長申弼龍、田春道、洪淳範)が結成され、11月中には1千人の帰国にむけての活動を始めている。連絡事務所は東雲町15番地に置かれた。かれらは治安隊を結成し、朝鮮人自治と闇業者の取り締まりをおこなっていった。函館は夕張や空知などの炭鉱をはじめ各地の連行朝鮮人が帰国のために送られ、乗船する場所にもなった。数多くの帰国朝鮮人を朝鮮人自身が管理する必要もあった。函館地方連盟は朝鮮人連盟函館支部の内実を持ちながら、帰国活動を契機に自治力を強め、朝鮮人援護局の活動による帰国運動も担ったとみられる。

1946年11月には在日本朝鮮人連盟函館支部の創立1周年記念式がもたれた。1947年の国勢調査では函館在留の朝鮮人は456人であり、戦前からの居住者で残留したものがいることがわかる。朝鮮人連盟の支部活動は彼らによって担われていた。

 

 

参考文献

小樽市民グループ調査記録(能山優子氏調査・提供資料)

小樽市「執葬認許証」

『被徴用死亡者連名簿』

琴坂守尚「小樽の掘り起こし」(賀沢昇『続・雪の墓標』朝日新聞社1988年)

「小樽と朝鮮人」(民衆史道連『続・掘る』1988年

武井幸夫編『こもれび』小樽道新文化センター 2007年 

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行・強制労働の記録 北海道・千島・樺太篇』現代史出版会1974年

黄鐘守証言・金興基証言(『告発』朝鮮日本軍「慰安婦」・強制連行被害者補償対策委員会2003年所収)

『北千島に眠る「太平丸事件」と朝鮮人強制連行』「北千島に眠る」刊行会2002年

『小樽市史6』1969年

『函館市史』通説編3 1997年 

『函館市史』通説編4 2002年