軍人軍属関係名簿からみた朝鮮人動員の状況
二〇世紀の帝国主義による世界戦争の特質は総力戦にあり、その総動員態勢のなかで植民地や占領地から民衆動員がおこなわれた。日本の帝国主義による植民地支配と戦争のなかでも植民地朝鮮からの軍務への徴兵、徴用、徴発による強制的な動員がおこなわれていった。それによる軍人軍属としての動員数は約三六万人といわれる。
そのような軍務への強制動員の実態については、日本政府から韓国政府へと一九九三年に渡された軍人軍属名簿からその一端を知ることができる。これらの名簿には、陸軍では「留守名簿」、「軍属名簿」(工員名簿)、海軍では「軍人軍属名簿(軍人履歴原票・軍属身上調査票)」などがあり、さらに「臨時軍人軍属届」、「兵籍戦時名簿」、「軍属船員名簿」「病床日誌」「俘虜名票」などもある。このうち、陸軍の「留守名簿」には約一六万人、海軍の軍人軍属名簿には約一〇万人分が記されている。これらの名簿は韓国の国家記録院で整理され、二〇〇五年に日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が設立されると、この委員会でのデータベース化もすすめられた。二〇一〇年に真相糾明委員会は抗日戦争期強制動員被害調査・支援委員会となったが、委員会では資料の閲覧ができるようになっている。
二〇一〇年八月、一二月、二〇一一年三月と、この調査・支援委員会の資料室で軍人軍属関係名簿を閲覧した。以下は、閲覧した陸軍の「留守名簿」、「軍属名簿(工員名簿)」と海軍の「軍人軍属名簿」の概要である。
1陸軍「留守名簿」の概要
陸軍留守名簿は一一四冊に及ぶものであり、中国北部、中国南部、朝鮮南部、関東軍、航空軍、朝鮮北部、フィリピン、ビルマ、南方軍、船舶軍、日本国内、島嶼、北方、台湾、農耕隊、歩兵補充隊の順に整理されている。一冊に、一〇〇〇から二〇〇〇人ほどの朝鮮人の部隊編入年月日、前所属部隊名、本籍、連絡先、名前、徴集年月日、階級、氏名、生年月日などが記されている。この一一四冊の件名と収録された主な部隊名の一覧が表1である。
表1 陸軍「留守名簿」(朝鮮人分)の内訳 |
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史料整理番号 |
留守名簿・簿冊件名 |
主な部隊名、人数など |
397 |
北支那方面軍直轄部隊留守名簿一 |
北支特別警備第1〜10大隊、高射砲第15連隊他 |
398 |
北支那方面軍直轄部隊留守名簿二 |
野戦兵器廠108人、野戦貨物廠350人、北支那憲兵隊他 |
399 |
北支那方面軍直轄部隊留守名簿三 |
第23野戦勤務隊7人、26野戦勤務隊999人 |
400 |
北支那方面軍直轄陸上勤務隊留守名簿 |
特設陸上勤務第124中隊435人、125中隊345人、126中隊345人 |
401 |
北支那方面軍第一軍隷下部隊留守名簿 |
第1軍司令部119人、第114師団独立歩兵大隊70人、独立混成第3旅団、第5独立警備隊90人他 |
402 |
北支那方面軍第一二軍隷下部隊留守名簿 |
第12軍司令部33人、歩兵第110連隊33人、戦車17連隊21人、機動歩兵第3連隊162人、戦車第3師団約220人、騎兵第25・26連隊93人、第13・14独立警備隊80人他 |
403 |
北支那方面軍第四三軍隷下部隊留守名簿 |
第43軍司令部約400人、歩兵第91連隊74人、105連隊46人、131連隊54人、独立混成第5旅団、第9・11・12独立警備大隊他 |
404 |
北支那方面軍駐蒙軍留守名簿 |
独立歩兵第2旅団独立歩兵大隊約240人、第4独立警備隊110人他 |
405 |
中支・支那派遣軍直轄部隊留守名簿一 |
下士官候補者隊約340人、独立鉄道第13大隊138人、野戦造兵廠462人、野戦造兵廠天津製造所173人、漢口憲兵隊他 |
406 |
中支・支那派遣軍直轄部隊留守名簿二 |
第3師団司令部97人、歩兵第6連隊149人、歩兵第34連隊114人、歩兵第68連隊146人、野砲兵・工兵・輜重兵第3連隊約100人 |
407 |
中支・支那派遣軍直轄部隊留守名簿三 |
歩兵第216・217・218連隊約300人、独立歩兵591〜594大隊約250人、598大隊114人、第131師団砲兵・工兵約100人他 |
408 |
中支・支那派遣軍直轄部隊留守名簿四 |
独立歩兵第102〜105大隊約200人,121〜124大隊約130人、133師団司令部58人、独立歩兵第607〜614大隊430人他 |
409 |
中支・支那派遣軍第一三軍直轄部隊留守名簿 |
第13軍司令部約200人、野戦兵器廠36人、野戦貨物廠165人他 |
410 |
中支・支那派遣軍第一三軍隷下部隊(師団)留守名簿 |
独立歩兵第46〜49大隊約450人、独立歩兵第112〜114大隊約160人、歩兵第101連隊約170人、歩兵第149連隊約190人、歩兵第157連隊約120人他 |
411 |
中支・支那派遣軍第一三軍隷下部隊(師団)留守名簿 |
第65師団司令部159人、独立歩兵第56〜60大隊約180人、独立歩兵第82〜86大隊約120人、独立歩兵第118〜120大隊約90人他 |
412 |
中支・支那派遣軍第一三軍隷下部隊(師団旅団)留守名簿 |
独立歩兵第475〜481大隊約220人、独立歩兵第626〜630大隊160人、独立歩兵第211〜214大隊約220人、第1独立警備隊第1〜6大隊290人他 |
413 |
中支・支那派遣軍第六方面軍直轄部隊留守名簿一 |
鉄道第12連隊42人、独立歩兵第600〜606大隊約130人、独立歩兵第87〜91大隊約140人、独立歩兵第494〜498大隊約370人他 |
414 |
中支・支那派遣軍第六方面軍直轄部隊留守名簿二 |
独立歩兵第207・209・210大隊約170人、独立歩兵第7旅団司令部370人、独立歩兵第215〜218大隊220人 |
415 |
中支・支那派遣軍第六方面軍第一一軍隷下部隊留守名簿一 |
野戦高射砲第75連隊22人、自動車第30〜35連隊約90人、独立歩兵第92〜96大隊約130人、独立歩兵第106〜108大隊約110人、独立歩兵第519〜522大隊約320人、第34軍野戦貨物廠188人、野戦自動車廠45人 |
416 |
中支・支那派遣軍第六方面軍第一一軍隷下部隊留守名簿二 |
野戦特設建築勤務第101中隊659人 |
417 |
中支・支那派遣軍第六方面軍第二〇軍隷下部隊留守名簿一 |
高射砲第22連隊22人、独立歩兵第51〜55大隊約190人、第64師団輜重隊193人、独立歩兵第61〜64大隊約190人 |
418 |
中支・支那派遣軍第六方面軍第二〇軍隷下部隊留守名簿二 |
歩兵第109連隊93人、同120連隊76人、同133連隊67人、工兵第116連隊36人、独立歩兵512〜518大隊約260人、独立警備歩兵第7〜12大隊約340人 |
419 |
中支・支那派遣軍第六方面軍第二二軍隷下部隊留守名簿 |
特設建築勤務第102中隊677人、第56野戦道路隊27人、歩兵第161連隊102人他 |
420 |
南鮮・第一七方面軍司令部直轄部隊留守名簿 |
独立混成第39連隊361人・40連隊557人他 |
421 |
南鮮・第一七方面軍高射砲一五一・一五二連隊留守名簿 |
高射砲151連隊771人・152連隊688人 |
422 |
南鮮・第一七方面軍直轄部隊留守名簿 |
独立工兵第23連隊165人,125大隊295人他 |
423 |
南鮮・第一七方面軍第一二〇師団一五〇師団留守名簿 |
歩兵第259・260・261連隊約160人、歩兵429・430・431・432連隊約950人他 |
424 |
南鮮・第一七方面軍第一六〇師団留守名簿 |
160師団司令部143人、歩兵461・462・463・464連隊約2460人、速射砲隊64人他 |
425 |
南鮮・第一七方面軍第三二〇師団留守名簿 |
歩兵362連隊約900人、噴射砲隊199人、工兵隊277人、輜重中隊111人他 |
426 |
南鮮・第一七方面軍独立混成第一二七師団留守名簿 |
独立歩兵760〜764大隊約800人、砲兵257人他 |
427 |
南鮮・第一七方面軍第五八軍直轄部隊留守名簿 |
独立野砲兵第6連隊362人、独立山砲兵第20連隊588人、迫撃砲第29大隊404人、独立工兵126大隊381人他[済州島] |
428 |
南鮮・第一七方面軍第五八軍隷下第九六師団第一一一師団第一二一師団独立混成第一〇八旅団留守名簿 |
歩兵第292〜294約320人、第243〜245連隊約340人、12師団衛生隊122人、独立混成108旅団134人他 [済州島] |
429 |
南鮮・第一七方面軍第一特設勤務隊留守名簿一 |
本部7人、4〜7中隊各約600人 [済州島] |
430 |
南鮮・第一七方面軍第一特設勤務隊留守名簿二 |
8・9・10中隊 各約600人 [済州島] |
431 |
南鮮・第一七方面軍第一特設勤務隊留守名簿三 |
11・12・13中隊 各約600人 [済州島] |
432 |
南鮮・第一七方面軍朝鮮軍管区司令部留守名簿 |
司令部1235人、経理部材料廠225人、燃料本部朝鮮出張所他 |
433 |
南鮮・第一七方面軍朝鮮軍管区隷属部隊留守名簿一 |
馬山重砲兵連隊224人、特設陸上勤務第105〜110中隊計約800人、第38野戦勤務・陸上勤務180中隊389人他 |
434 |
南鮮・第一七方面軍朝鮮軍管区隷属部隊留守名簿二 |
第38野戦勤務・陸上勤務181中隊381人・182中隊387人、183中隊390人、釜山陸軍運輸統制部79人、朝鮮俘虜収容所89人、朝鮮憲兵隊関係約200人他 |
435 |
南鮮・第一七方面軍仁川造兵廠留守名簿一 |
仁川造兵廠約3000人 |
436 |
南鮮・第一七方面軍仁川造兵廠留守名簿二 |
仁川造兵廠2467人 |
437 |
南鮮・第一七方面軍仁川造兵廠留守名簿三 |
仁川造兵廠2938人 |
438 |
南鮮・第一七方面軍陸軍貨物廠倉庫留守名簿 |
陸軍貨物廠倉庫3319人 |
439 |
南鮮・第一七方面軍朝鮮鉄道部隊留守名簿 |
独立鉄道10・12・19・21大隊計約500人、第2鉄道材料廠他 |
440 |
南鮮・第一七方面軍京城師管区司令部留守名簿 |
京城師司令部571人 |
441 |
南鮮・第一七方面軍京城師管区歩兵第一・第二補充隊留守名簿 |
歩兵第1補充隊904人、第2補充隊1212人 |
442 |
南鮮・第一七方面軍京城師管区歩兵第三補充隊留守名簿 |
第3補充隊2304人 |
443 |
南鮮・第一七方面軍京城師管区砲・工・通信・輜重兵補充隊・兵事部及地区司令部・陸軍病院留守名簿 |
京城師砲兵補充隊397人、工兵補充隊304人、輜重補充隊259人他 |
444 |
南鮮・第一七方面軍大邱師管区留守名簿 |
大邱司令部99人、歩兵第1補充隊549人、第2補充隊250人、砲兵補充隊91人、工兵補充隊66人、輜重補充隊139人他 |
445 |
南鮮・第一七方面軍光州師管区留守名簿 |
光州司令部47人、歩兵第1補充隊397人、第2補充隊147人、砲兵補充隊43人、工兵補充隊201人、輜重補充隊89人他 |
446 |
関東軍司令部並教育隊留守名簿 |
関東軍司令部約100人、経理部約860人他 |
447 |
関東軍直轄通信並大陸鉄道部隊機動第一旅団留守名簿 |
鉄道第4連隊473人、鉄道第19連隊約300人、鉄道第15大隊144人、鉄道第18大隊97人他 |
448 |
関東軍直轄憲兵隊情報部収容所留守名簿 |
間島など各地憲兵隊、憲兵無線探査隊、憲兵教習隊他 |
449 |
関東軍直轄補給監部陸軍病院留守名簿 |
関東軍野戦兵器廠88人、野戦自動車廠178人、関東軍造兵廠69人、関東軍補充馬廠184人、第1野戦補充馬廠224人,錦州陸軍病院23人、関東軍野戦病馬廠468人他 |
450 |
関東軍直轄勤務隊築城隊留守名簿 |
特設陸上勤務第120中隊351人、121中隊337人、122中隊335人、123中隊345人 |
451 |
関東軍第四軍直轄部隊留守名簿 |
独立工兵第29連隊353人、第18野戦貨物廠85人他 |
452 |
関東軍第四軍第一一九・一二三・一四九師団、独混第八〇・一三五・一三六旅団留守名簿 |
歩兵第252・254・255連隊約420人、野砲兵第119連隊80人他 |
453 |
関東軍第一方面軍直轄部隊第一二二・一三四師団留守名簿 |
第2野戦補充馬廠145人、牡丹江陸軍病院他 |
454 |
関東軍第一方面軍第三軍直轄部隊第一二二・一二七・一二八師団、独混一三二旅団留守名簿 |
第3軍司令部45人、第20野戦兵器廠30人、延吉陸軍病院46人、第16野戦自動車廠約40人、歩兵第246〜248連隊約160人、歩兵第283・284連隊72人他 |
455 |
関東軍第一方面軍第五軍直轄部隊第一二〇・一二六・一二五師団留守名簿 |
第5軍司令部47人、第17野戦貨物廠40人、第277・278連隊92人他 |
456 |
関東軍第三方面軍直轄部隊留守名簿 |
第3方面軍司令部59人、野戦高射砲第26連隊154人、高射砲第171連隊105人、野戦高射砲85・88・90・91・92大隊約140人、第3野戦補充馬廠323人他 |
457 |
関東軍第三方面軍直轄第一〇八・一三六師団、独混七九旅団、独戦一旅団留守名簿 |
歩兵第240〜242連隊約1300人、独立歩兵第579大隊55人、戦車第34・35連隊60人他 |
458 |
関東軍第三方面軍第三〇軍直轄部隊第三九・一二五・一四八師団留守名簿 |
独立重砲兵第7大隊54人、歩兵第231〜233連隊約130人、野砲兵第39連隊44人他 |
459 |
関東軍第三方面軍第四四軍直轄部隊留守名簿 |
第44軍司令部280人、特設陸上勤務127中隊335人、第19野戦自動車廠34人他 |
460 |
関東軍第三方面軍第四四軍第六三.一〇七.一一七師団、独戦九旅団留守名簿 |
歩兵第90連隊114人、歩兵第178連隊約350人、第117師団司令部28人他 |
461 |
第二航空軍留守名簿 |
経理部、司令部、錬成飛行隊、教育飛行隊、飛行場大隊、対空無線隊、航空情報連隊、気象連隊他 |
462 |
第五航空軍(南鮮)留守名簿 |
第9練習部他 |
463 |
第五航空軍(北鮮)留守名簿 |
平壌航空廠2570人(含む咸興分廠) |
464 |
第五航空軍(中国)第八飛行師団(台湾)留守名簿 |
第1航空教育隊13人、第4航空通信連隊39人、第3航空路部隊24人、第171独立整備隊29人、第15野戦航空修理廠26人他 |
465 |
第三航空軍(南西)第四航空軍(比島)第六飛行師団(濠北)第三一軍(中部太平洋)第三二軍(沖縄)留守名簿 |
南西第1航空教育隊18人、各飛行戦隊、沖縄第1〜3独立整備隊約70人、第17船舶航空廠9人他 |
466 |
鮮・内地航空軍留守名簿 |
奈良航空教育隊、大分少年飛行学校、12野戦航空補給廠他、浜松飛行場大隊 |
467 |
北鮮・第一七方面軍直轄部隊留守名簿 |
独立高射砲第42大隊205人、46大隊267人、独立鉄道第11大隊153人、羅南他各地憲兵隊約230人、羅津・永興要塞司令部関係他 |
468 |
北鮮・第七九師団司令部留守名簿 |
第289・290・291連隊約1040人、騎兵79連隊114人、山砲兵79連隊116人他 |
469 |
北鮮・第三軍混成第一〇一連隊第三四軍隷下部隊留守名簿 |
混成第101連隊533人、独立歩兵41〜45大隊、109〜111大隊他 |
470 |
北鮮・第一七方面軍第三九野戦勤務隊留守名簿 |
39野戦勤務隊184〜189中隊1315人 |
471 |
北鮮・第一七方面軍平壌兵器補給廠、第一二野戦補充馬廠、朝鮮軍管区教育隊留守名簿 |
平壌兵器補給廠1476人他 |
472 |
北鮮・第一七方面軍平壌師管区司令部、平壌砲兵補充隊留守名簿 |
平壌師司令部532人、砲兵補充隊約280人 |
473 |
北鮮・第一七方面軍平壌師管区歩兵第一補充隊留守名簿 |
第1補充隊1920人 |
474 |
北鮮・第一七方面軍平壌師管区歩兵第二、工兵、通信補充隊留守名簿 |
歩兵第2補充隊623人、工兵補充隊416人、通信兵補充隊440人 |
475 |
北鮮・第一七方面軍平壌師管区輜重兵補充隊留守名簿 |
輜重兵補充隊1790人 |
476 |
北鮮・第一七方面軍羅南師管区司令部・羅南師管区歩兵第一補充隊留守名簿 |
司令部507人・歩兵第1補充隊589人 |
477 |
北鮮・第一七方面軍羅南師管区留守名簿 |
歩兵第2補充488人、工兵補充559人、409特設警備工兵444人他 |
478 |
比島・第一四方面軍直轄部隊留守名簿 |
第14方面軍司令部14人、第1師団司令部14人、第10師団司令部36人、歩兵第11連隊30人、輜重第10連隊37人他 |
479 |
比島・第一四方面軍直轄第一九師団留守名簿 |
輜重兵第19連隊142人、捜索第19連隊86人、工兵第19連隊68人他 |
480 |
比島・第一四方面軍直師団、第三五軍、第四一軍留守名簿 |
独立歩兵第12・第13大隊61人、第3開拓勤務隊22人他 |
481 |
比島・第一四方面軍第三五軍、第三〇師団留守名簿 |
歩兵第41連隊37人、歩兵第74・77連隊約690人、野砲兵第30連隊159人、輜重第30連隊182人、第30師団衛生隊152人他 |
482 |
緬甸・緬甸方面軍直轄部隊留守名簿 |
独立自動車第60・61大隊約160人、緬甸燃料工廠17人他 |
483 |
緬甸・緬甸方面軍隷下師団留守名簿 |
歩兵第106連隊162人、歩兵第153連隊127人、歩兵第168連隊166人、山砲兵第49連隊122人、輜重第49連隊183人、第49師団衛生隊116人他 |
484 |
緬甸・第一八方面軍(泰)留守名簿 |
第18方面軍司令部、第22師団歩兵他 |
485 |
緬甸・第三八軍(泰)留守名簿 |
第38軍司令部99人、歩兵第16連隊114人、第29連隊49人、捜索第2連隊72人、歩兵第225〜227連隊約160人他 |
486 |
泰俘虜収容所留守名簿 |
捕虜収容所1152人 |
487 |
南方総軍第二方面軍留守名簿 |
第2方面軍司令部25人、第5師団司令部40人、歩兵第219〜221連隊約100人他 |
488 |
南方軍第七方面軍留守名簿 |
第16軍司令部11人、南方燃料本部12人、陸軍病院85人、25軍司令部23人、南スマトラ燃料廠15人、南方第9・10陸軍病院約230人、近衛第2師団海上輸送隊35人他 |
489 |
南方軍第八方面軍留守名簿 |
独立混成第34・35連隊約180人、野戦高射砲第58・59大隊約80人、歩兵第238・239連隊約70人、第18軍臨時道路構築隊21人他 |
490 |
南方軍第八方面軍第二〇師団留守名簿 |
歩兵第78〜80連隊約1140人、野砲第26連隊約180人、工兵第20連隊36人、輜重兵約270人他 |
491 |
南方軍馬来爪哇俘虜収容所留守名簿 |
第7方面軍刑務所66人、馬来俘虜収容所約860人、同第1分所140人、第2分所65人、爪哇俘虜収容所約900人 |
492 |
船舶軍(内地)留守名簿 |
船舶司令部74人、船舶工兵、海上輸送大隊、水上勤務第70中隊344人、特設水上勤務第105中隊684人、同106中隊125人、船舶通信補充隊209人他 |
493 |
船舶軍(北方・南北鮮)留守名簿 |
海上輸送第6大隊87人、特設水上勤務75・76・77・78・79・106・109・110・127・135中隊約2500人他 |
494 |
船舶軍(中国・台湾)留守名簿 |
第2船舶輸送司令部47人、同南支支部104人、海上輸送第12大隊45人、船舶工兵第33連隊46人、特設水上勤務第126中隊355人、同138中隊36人、第7野戦船舶廠34人他 |
495 |
船舶軍(沖縄)留守名簿 |
海上挺身基地27大隊148人、特設水上勤務101〜104中隊約2500人 |
496 |
船舶軍(南方・比島・ビルマ)留守名簿 |
第3船舶輸送司令部約70人、同パラオ支部約700人、船舶砲兵第9連隊58人、同第18連隊113人、海上輸送第2大隊73人、水上勤務第59中隊140人、第2野戦船舶廠154人、第3船舶司令部マニラ支部約90人、海上輸送第1大隊88人、同第8大隊約190人、第38碇泊場支部119人他 |
497 |
内地・北部軍(北海道)第一一方面軍(東北)留守名簿 |
旭川歩兵補充兵、仙台歩兵補充兵、弘前他 |
498 |
内地・第一二方面軍(東部)留守名簿 |
鉄道第2連隊507人、歩兵第171・172約200人、拓兵団戦車勤務隊169人、歩兵第92・93約150人、宇都宮歩兵第1補充245人、第1農耕勤務130人、長野野戦砲兵19人他 |
499 |
内地・第一三方面軍(東海)第一五方面軍(中部)留守名簿 |
高射砲124連隊70人、大阪造兵廠97人(工員)、錦兵団歩兵・山砲兵等計409人、広島歩兵、四国、広島被爆兵士名簿42人他 |
500 |
内地・第一六方面軍(西部)直轄部隊留守名簿 |
第64野戦道路隊28人、國兵団343人、歩兵第52連110人、歩兵第117連隊82人他 |
501 |
内地・第一六方面軍(西部)隷下部隊留守名簿 |
久留米歩兵187連隊80人、熊本歩兵23連隊96人他 |
502 |
内地近海島嶼部隊留守名簿 |
福江島、独立混成107師団司令部258人、防衛築城八丈島工事隊38人 |
503 |
島嶼・島嶼軍留守名簿 |
島嶼軍独立歩兵336〜339約150人、第31軍、第32軍(沖縄)防衛築城隊約160人、パラオ他 |
504 |
北方・第五方面軍留守名簿 |
5船舶司令部、高射砲第141連、歩兵第25・27・125連隊、独立歩兵第294、第88師団司令部 |
505 |
台湾・第一〇方面軍留守名簿 |
独立工兵第42連隊54人、歩兵第24連隊40人、同第48連隊36人、歩兵87・88連隊約180人、独立歩兵第468〜470大隊約430人、独立混成第103旅団捜索隊51人、同輜重隊90人他 |
506 |
第一農耕隊半島兵留守名簿 |
農耕隊2540人 内山隊 [静岡] |
507 |
第三農耕隊留守名簿 |
農耕隊約2500人[栃木] |
508 |
第四農耕隊留守名簿 |
農耕隊2476人 安藤隊 [愛知] |
509 |
第五農耕隊留守名簿 |
農耕隊約2500人 赤松隊 長野 |
510 |
朝鮮人・歩兵第七四連隊補充隊留守名簿 |
歩兵第74連隊補充隊[羅南] |
|
陸軍「留守名簿」から作成(韓国国家記録院蔵・抗日戦争期強制動員調査支援委員会資料)。この名簿は1993年に日本政府から韓国政府に渡されたものである。名簿から陸軍による約16万人の朝鮮人軍属・軍人の連行・配置状況を知ることができる。一つの簿冊は200枚ほどであるが、なかには300枚を超えるものもある。 |
2日本各地への動員
留守名簿497から593は「北部軍(北海道)第一一方面軍(東北)留守名簿」「第一二方面軍(東部)留守名簿)「第一三方面軍(東海)第一五方面軍(中部)留守名簿」「第一六方面軍(西部)直轄部隊留守名簿」「第一六方面軍(西部)隷下部隊留守名簿」「内地近海島嶼部隊留守名簿」などの名簿であり、留守名簿466は「鮮・内地航空軍留守名簿」、492は「船舶軍(内地)留守名簿」である。これらの史料から陸軍での日本国内への朝鮮人の軍人軍属としての動員状況を知ることができる。日本各地に配置された第一一などの方面軍は軍再編により、一九四五年二月に配置されたものである。
以下、主な動員状況をあげて整理していくが、ここで示す部隊は主なものであり、すべてではない。また、欠落している人員も数多いとみられる。
@東部
留守名簿497からは北海道・東北での動員状況がわかる。
北海道では旭川師団の歩兵部隊に朝鮮人が送られている。数名の第一農耕隊員の名前もある。
北海道を含む北方への朝鮮人の動員については、北原道子「『朝鮮人第五方面軍留守名簿』にみる樺太・千島・北海道部隊の朝鮮半島出身軍人」で詳細に分析されている。
第一一方面軍は一九四五年二月に東北に配置されたものである。東北では仙台師団の歩兵第一三四連隊(仙台),歩兵第一五二連隊(山形),歩兵第一五五連隊(会津若松)や歩兵第一補充隊、歩兵第二補充隊に朝鮮人が動員され、弘前にも平安道などから朝鮮人兵士が送り込まれていた。これらの歩兵第一三四、一五二、一五五の各連隊は福島県東南部の海岸線で沿岸陣地を構築した。
留守名簿498からは本州東部での動員状況が分かる。
宇都宮では、第八一師団の歩兵第一七一連隊(宇都宮),第一七二連隊(水戸)にそれぞれ約一〇〇人、野砲第八一連隊(宇都宮)三二人、工兵第八一連隊(宇都宮)一九人、輜重兵第八一連隊一三人などのように朝鮮人が動員された。この師団は「本土決戦」にむけて茨城に展開し、農耕もおこなった。敗戦時、歩兵第一七一連隊は茨城県真壁、第一七二連隊は同県石下に配置されていた。
「本土決戦」用に設立された第二〇二師団の歩兵第五〇四連隊(仙台)に三〇人、第二一四師団の歩兵第五一九連隊(宇都宮)に九人、野砲第二一四連隊(宇都宮)に五三人などの動員があった。
宇都宮の部隊の名簿には、歩兵第一補充兵二四五人、第二補充兵二人、第三補充兵一人、第一農耕勤務隊一三〇人、第二農耕勤務隊一人、第四農耕勤務隊七人などの朝鮮人の名簿がある。
宇都宮には名簿498に残されている以上の農耕勤務隊員がいたはずである。
農耕勤務隊の名簿は506・507・508・509の留守名簿にあり、順に第一・第三・第四・第五農耕勤務隊の名簿である。茨城や群馬に展開した第二農耕勤務隊の名簿は欠落している。農耕勤務隊の一中隊は約二五〇人であり、一つの農耕勤務隊で二五〇〇人ほどになる。
農耕勤務隊の動員先は、第一農耕勤務隊(静岡県 富士郡上野村大石寺、富士郡白糸、上井出、富士宮、富士根村、富士岡村、浜名郡伊佐美、磐田等)、第二農耕勤務隊(茨城県群馬県 水戸市河和田、真壁郡谷貝、筑波郡葛城、猿島郡神大実等)、第三農耕勤務隊(栃木県 那須野原等)、第四農耕勤務隊(愛知県 刈谷、若林等)、第五農耕勤務隊(長野県 伊那谷等)などである(留守名簿の記載、塚ア昌之氏調査資料による)。
拓兵団は中国東北から「本土決戦」のために茨城などに展開した軍団であるが、拓兵団の戦車第一師団司令部野戦勤務隊に慶尚北道(大邱)から一六九人が集団的に動員されている。編入は一九四五年六月一八日のことである。この野戦勤務隊は司令部付きの部隊であり、弾薬輸送や陣地構築などをおこなった。朝鮮人の野戦勤務隊員の身分は工員・雇員であり、この部隊は労働部隊であった。
野戦勤務隊のうち、第三一から三五までが日本に、第三六から三九までが朝鮮に配置された(塚崎昌之「朝鮮人徴兵制度の実態」)。その隊員数は、日本だけでも一万人を超えるとみられるが、留守名簿では日本に動員された野戦勤務隊員について記されているものはわずかである。
沿岸警備に動員されていた第四四師団については、歩兵第九二連隊(大阪)七一人、歩兵第九三連隊(大阪)七八人、歩兵第九四連隊(和歌山)三人、野砲第四四連隊三八人、第四四師団衛生隊七人などの名簿がある。ほかの沿岸警備を担当した部隊をみれば、第一五一師団の歩兵第四三四連隊(水戸)二人、第一四七師団の歩兵第四三六連隊(旭川)三一人などとなる。歩兵第四三四連隊は茨城の太平洋沿岸に陣地を構築し、旭川から送られてきた第一四七師団は千葉茂原を拠点に陣地構築をおこなった。
神奈川の小田原方面に展開していた第八四師団にも、歩兵第一九九連隊(姫路)八二人、歩兵第二〇〇連隊(姫路)九六人のように朝鮮人兵士が動員されていた。
長野では第九野戦砲兵補充隊に一九人が動員されていることがわかる。
輸送関係では、第八野戦輸送司令部(川越)の独立自動車大隊への動員があり、第四四大隊一〇人、第四七大隊一〇人、第五三大隊九人、第六六大隊一〇人、第六七大隊一〇人など、計五〇人ほどが動員された。また、鉄道第二連隊(津田沼)には五〇七人が動員された。鉄道第二連隊の兵士は新義州、羅南、咸興など北の出身者が多い。鉄道第一六連隊(千葉)にも九人が動員されている。
A西部
留守名簿499は東海・中部での動員状況を示すものである。
東海地区で記載された朝鮮人の数が多いものをあげれば、高射砲第一二四連隊(愛知・上野)七〇人、高射第二師団(名古屋)九人、輜重兵第三連隊(名古屋)補充隊二九人などがある。
大阪陸軍造兵廠については、工員として九七人の名簿がある。出身は全北の井邑・益山・全州・高敞などであり、集団的に連行された人々である。
大阪の師団では、第一補充隊二二人、第二補充隊一人、第四補充隊一一人、輜重兵第四連隊補充隊五人などの名簿がある。また、京都では第一農耕勤務隊六人の名簿がある。第一補充隊は大阪南部の陣地構築に動員されたという。
錦兵団(第一一師団)は一九四五年四月に中国東北から高知へと転送されたが、この兵団には四〇九人の朝鮮人が動員されている。その内訳は、歩兵第一二連隊(丸亀)七八人、歩兵第四三連隊(徳島)一一五人、歩兵第四四連隊(高知)九〇人、騎兵第一一連隊(善通寺)一五人、山砲兵第一一連隊五七人、野砲兵第四七連隊一人、工兵第一一連隊一七人、輜重兵第一一連隊三八人、第一一師団衛生兵三人、第一一師団制毒隊一人などである。
他の沿岸に配置された部隊では、第一五五師団の歩兵第四五〇連隊(徳島)二五人、第二〇五師団の歩兵第五〇七連隊(山口)三七人、第五〇八連隊(鳥取)三人などの動員がある。これらの歩兵第四五〇連隊、第五〇七連隊、第五〇八連隊などは高知沿岸で陣地を構築した。
広島では第一補充隊七人、第二補充隊一人、第三補充隊一人、第四補充隊二人、砲兵補充隊五人、歩兵第一一連隊(広島)補充隊一二人、歩兵第二一連隊(浜田)補充隊一六人、歩兵第四二連隊(山口)補充隊一四人、広島陸軍兵器補給廠八人(慶南出身)などの名簿があり、朝鮮人被爆兵士四二人の名簿も含まれている。四国軍管区では第二補充兵一七人の名簿がある。
留守名簿500と501は西部軍(九州)の部隊の名簿である。
名簿500からみていこう。西部軍の高射第四師団(小倉)の機関砲第二一大隊には二八人、独立照空第二一大隊には一九人の朝鮮人の動員があった。高射砲第一三一連隊(八幡)の三〇人の名簿もある。土木部隊である第六四野戦道路隊には五〇人が動員されているが、咸鏡道出身者が多い。
宮崎に配置された国兵団(第二五師団)には、三四三人の朝鮮人が動員されている。その内訳は歩兵第一四連隊(小倉)七三人、歩兵第四〇連隊(鳥取)九五人、歩兵第七〇連隊(篠山)七九人、騎兵第七五連隊一〇人、山砲兵第一五連隊五八人、工兵第二五連隊一六人、輜重兵第二五連隊九人、第二五師団防疫給水部一人、同衛生隊三人などである。
九州に配置された他の部隊をみると、東北から送られた部隊である歩兵第五二連隊(弘前)一一〇人、歩兵第一一七連隊(秋田)八二人、歩兵第一三二連隊(山形)五五人、野砲兵第五七連隊(弘前)三九人、工兵第五七連隊一九人、輜重兵第五七連隊二人などの動員があった。また、旭川の第七七師団も九州に転送されたが、歩兵第九八連隊(旭川)七二人、歩兵第九九連隊(留萌)八一人、騎兵第七七連隊(旭川)九人、第七七師団噴進部隊二人、工兵第七七連隊九人、輜重兵七七連隊六人、第七七師団病馬廠一人、第一野戦病院一人のように朝鮮人が組み込まれていた。
このように東北・北海道の部隊が九州に動員されてきたわけであるが、そこにも多くの朝鮮人兵士が動員されていたわけである。
他にも、第二一二師団の歩兵第五一六連隊(久留米)八人、歩兵第五一七連隊(福岡)一一人、山砲兵二一二連隊八人の名簿がある。この歩兵第五一七連隊は宮崎で敗戦を迎えた。
名簿501は、この500に続く九州の軍団の名簿である。
鹿児島の沿岸に展開した第一四六師団の歩兵第四二四連隊(熊本)三三人、第八六師団歩兵第一八七連隊(福岡)八〇人(釜山出身が多い)、歩兵第第一八九連隊(久留米)六七人、野砲兵第八六連隊四〇人、砲兵第八六連隊六人、工兵補充兵二三人、歩兵第四四五連隊(鳥取)八人、第四四六連隊(鳥取)八人などの動員があった。歩兵第一八九連隊などは鹿児島の志布志沿岸で陣地構築をおこなった。歩兵第四二四連隊は鹿児島の川辺で敗戦となった。
熊本の第一補充隊にも朝鮮人が含まれ、歩兵第二三連隊(都城)には九六人が動員されている。
留守名簿502は近海島嶼部隊の名簿であり福江島や八丈島に動員された朝鮮人のものである。福江島の独立混成一〇七旅団司令部の二五八人、防衛築城第四工事隊一四人、防衛築城八丈島工事隊三八人などの名簿が入っている。
B航空・船舶・島嶼
留守名簿466の「鮮・内地航空軍留守名簿」からは陸軍の航空部隊への朝鮮人の動員状況が分かる。動員数が多い場所をあげると、奈良航空教育隊、大分少年飛行学校、第一二野戦航空廠などがある。中部の浜松にも動員があり、浜松飛行場大隊四人、飛行第七戦隊(浜松)六人などの名簿がある。ほとんどが一九四五年に入って動員された人々のものである。このような形で各地の航空部隊に朝鮮人が動員されていた。
航空軍関連の地下施設工事のために二〇の地下施設隊が編成され、そこにも多くの朝鮮人が動員されているが、名簿に掲載されているものは第一三地下施設隊(東海二一六〇四)の四人など、わずかである。
留守名簿492は船舶軍に動員された日本に送られた朝鮮人の名簿である。動員数が多いものは、特設水上勤務第一〇五中隊六八四人であり、一九四四年七月に京城で編成された。同一〇六中隊一二五人は一九四五年一月に大邱で編成された。水上勤務第七〇中隊三四四人は一九四五年三月に京城で編成された。他には船舶工兵第三七連隊二〇人、海上輸送第一七大隊二八人、同一八大隊三一人、同二〇大隊七九人など、船舶工兵や輸送隊に編成されたものが多い。また、海上駆逐補充隊や船舶通信補充隊に編成された朝鮮人もいた。
留守名簿503は島嶼軍に動員された朝鮮人の名簿である。
ここには、独立混成第五一旅団(チューク諸島)、第三一軍(チューク諸島)、第三二軍(沖縄)、小笠原兵団(小笠原諸島)、第一〇九師団(小笠原諸島)関係の名簿がある。
チューク諸島の独立混成第五一旅団関連では司令部一人、第一砲兵隊二五人、工兵隊七人、独立歩兵第三三六大隊三三人、第三三七大隊四一人、第三三八大隊四三人、第三三九大隊四〇人、独立混成第九連隊一〇人、第五二師団野戦病院九人などの名簿がある。第三一軍では独立高射砲第四三中隊一四人、独立守備歩兵第二八大隊二一人などの名簿がある。
小笠原諸島の硫黄島では独立臼砲第二〇大隊の名簿がある。第三二軍についてはこのあとの沖縄の項でみる。
留守名簿504は北方のクリル(千島)・サハリンに送られた朝鮮人の名簿であり、第五船舶司令部では一九四四年七月九日の戦死者が目立つ。これは太平丸関係の死亡者である。北方に展開していた部隊としては、高射砲第一四一連隊、歩兵第二五連隊、第二七連隊、第一二五連隊、独立歩兵第二九四大隊などの名簿がある。サハリンに展開していた第八八師団司令部にも江原道からの動員があったことがわかる。この部隊は陣地構築の労務を強制されたとみられる。
ここでみてきたように日本各地に朝鮮人の軍人軍属が動員されていたことがわかる。歩兵に組み込まれ、実際には陣地構築に動員されていた例も多い。また農耕や運輸などの部隊に動員された人々も多かった。
別の名簿に『朝鮮人陸軍軍人調査』がある。これは解放後の調査名簿であるが、そこからも日本国内では、宇都宮、仙台、福島、敦賀、伏木、博多、久留米、宮崎、熊本、鳥取、苫小牧など各地に動員されたことを知ることができる。この名簿と留守名簿との照合も課題である。
3「軍属名簿(工員名簿)」からみた動員状況
日本政府から韓国政府に渡された陸軍の軍人軍属関係史料には『留守名簿』以外に、『軍属名簿(工員名簿)』がある。この名簿は、日本政府が厚生省所蔵の名簿から陸軍分の工員関係の朝鮮人の名票・名簿を五分冊にまとめ、韓国政府に送ったものである。
この名簿からは相模陸軍造兵廠、大阪陸軍造兵廠、名古屋陸軍造兵廠、小倉陸軍造兵廠、陸軍需品本廠、陸軍糧抹本廠、広島陸軍兵器補給廠、陸軍被服廠、陸軍燃料廠、陸軍航空廠、陸軍航空修理廠などへの動員の状況が判明する。しかし、動員された人々を網羅するものではない。
「工員名簿1」は、相模陸軍造兵廠へと一九四四年一一月、一二月、四五年三月に連行された三六八人の「徴用工員名票」であり、出身は忠清道、慶尚道が多い。
「工員名簿2」は、相模陸軍造兵廠と大阪陸軍造兵廠の「徴用工員名票」である。相模分は名簿1に続くものであり、二九八人、大阪分は一一人が収録されている。大阪分は播磨四人と大阪七人であり、播磨の工場については在留朝鮮人の徴用者が多い。それは一九四四年六月一五日の兵庫県知事による徴用である。大阪の名簿からは、一九四五年五月一日の鄭黄連の死亡が判明した。相模分は合計すると五六六人となるが、なかには重複もある。
「工員名簿3」は名古屋陸軍造兵廠、大阪陸軍造兵廠、小倉陸軍造兵廠分である。名古屋分は一九四五年三月一五日に安城、金浦、始興など京畿から連行された一三四人分の名票である。大阪分は一九四四年一月現在の桜宮宿舎の金堤からの連行者一五人、輸送隊船舶名簿に記された東成区東今里に現住する全南の四人などの史料である。小倉分は四人分が挿入されている。なお、大阪については留守名簿499に全北からの九七人の連行者名簿がある。
「工員名簿4」は、陸軍需品本廠、陸軍糧抹本廠、広島陸軍兵器補給廠、陸軍被服廠、陸軍燃料廠、陸軍航空廠、陸軍航空修理廠などの名簿である。
陸軍需品本廠芝浦出張所清水集積所では死亡事故者陽本福来(鐘元)の史料があり、東京の陸軍需品本廠芝浦出張所関係の史料からは在留者の四人の徴用の状況がわかる。広島陸軍兵器補給廠分は八人が収録されている。これは輸送関係や八本松、仙崎などに派遣されていた人々のものである。航空廠分は日本や朝鮮など各地での四〇人の名簿である。
「工員名簿5」は陸軍造兵廠の鷹来製造所の七八人の名票である。一九四五年三月に水原から連行されたものが多く、年齢も一九二一年生まれが多数である。一九四四年一二月と一九四五年四月に春日井から連行された朝鮮人少女四人分も含まれている。
以上が、軍属名簿(工員名簿)から判明した動員先と人数である。
4沖縄への朝鮮人動員
沖縄への朝鮮人動員については、留守名簿465の航空部隊「第三航空軍(南西)第四航空軍(比島)第六飛行師団(濠北)第三一軍(中部太平洋)第三二軍(沖縄)留守名簿」、留守名簿495の「船舶軍(沖縄)留守名簿」、留守名簿503の「島嶼・島嶼軍留守名簿」などから判明する。
留守名簿503から、第三二軍関係の主なものをあげれば、歩兵第三連隊一三人、第三二軍司令部防衛築城隊九一人、第三二軍防衛築城隊第四中隊三六人、第五中隊三三人、歩兵第八九連隊一二人などがあり、三二軍防衛築城隊は関東軍からの転送とされている。
留守名簿495からは船舶関係での動員が判明する。ここには、第七野戦船舶廠沖縄支廠一一人、海上挺身基地第二七大隊一四八人(慶北)、特設水上勤務第一〇一・一〇二・一〇三・一〇四中隊それぞれ約六五〇人などの名簿がある。特設水上勤務中隊へは二八〇〇人ほどが集団で連行されているが、行方不明とされている者が多い。
留守名簿465からは航空軍への動員状況がわかる。主なものは第一独立整備隊二五人、第二独立整備隊一九人、第三独立整備隊二八人であるが、身分は軍属工員とされている。中央航路部沖縄管区には五人が動員されたが、身分は傭人の通信手である。第一七船舶航空廠では九人の名簿がある。身分は工員、雇員などの軍属であり、一九四四年一月に海没とされている。
5朝鮮内での動員
朝鮮内での朝鮮人の陸軍部隊への動員状況についてみてみよう。留守名簿420から445は朝鮮南部、留守名簿462・463は第5航空軍、留守名簿467から477は朝鮮北部での動員状況を示すものである。
@朝鮮南部
朝鮮には第一七方面軍がおかれた。この方面軍は一九四五年二月に朝鮮軍を廃止しておかれたものである。
420の第一七方面軍司令部直轄部隊での動員の状況は、方面軍司令部一八人、独立混成第三九連隊三六一人、独立混成第四〇連隊五五七人、戦車第一二連隊一四人などである。421の高射砲部隊では、高射砲第一五一連隊七七一人、第一五二連隊六八八人の動員、422からは独立工兵第二三連隊一六五人、独立工兵第一二五大隊二九五人などの動員がわかる。
423から426にかけては、第一七方面軍の第一二〇師団、一五〇師団、一六〇師団、三二〇師団、独立混成第一二七旅団の各部隊への動員状況を示す名簿である。第一二〇師団は一九四五年三月に満州東部から朝鮮南部に配置されたものである。司令部は慶山におかれ、慶尚道の釜山・大邱方面を担当した。八月には京畿方面に移動し、第二六一連隊は平壌に移動した。第一五〇師団は一九四五年二月に京城で編成されたものであり、全羅南道沿岸を担当した。第一六〇師団は同月に平壌で編成された部隊であり、全羅北道沿岸を担当した。第三二〇師団は一九四五年七月に大邱で編成が終わり、ソ連参戦のなかで北部に移動していった。独立混成第一二七旅団は一九四五年五月に京城で編成され、釜山に配備されたものである。
これらの軍から動員数の多い部隊をあげておけば、第一二〇師団では歩兵第二五九・二六〇・二六一連隊約一六〇人、第一五〇師団では四二九・四三〇・四三一・四三二連隊約九五〇人、第一六〇師団では司令部約一四〇人、歩兵第四六一・四六二・四六三・四六四連隊約二四六〇人、第三二〇師団では、歩兵第三六二連隊約九〇〇人、噴射砲隊約二〇〇人、独立混成第一二七師団では、独立歩兵第七六〇・七六一・七六二・七六三・七六四大隊約八〇〇人、砲兵二五七人などがある。
第一二〇師団の歩兵第二五九・二六〇・二六一連隊は慶南出身者で占められ、一九四四年一二月に編入され、歩兵第二四・四六・四八連隊から送られたものが多い。第一五〇師団の第四二九連隊は京畿出身者、第四三一連隊は慶尚出身者が多い。歩兵第四二九から四三二の連隊ヘの編入は一九四五年四月のことであり、歩兵七八・七九・八〇連隊補充隊、京城師第一補充隊などの部隊から送られている。第一六〇師団の歩兵第四六一・四六二・四六三・四六四連隊へは平壌師第一補充隊、歩兵第四一、七四、七七連隊の補充隊などから送られたものが多く、編入は一九四五年四月のことである。独立混成第一二七師団をみれば、独立歩兵大隊の兵士は、大隊ごとに一九四五年六月に羅南、新義州・平壌・海州、京畿・清州、大邱などから集められて編成された。
歩兵中心に工兵・砲兵の部隊に多数の朝鮮人兵士が組み込まれていたことがわかる。このように朝鮮人兵士の補充は地域からの集団的な連行によるものであった。
427から431は済州島に動員された第五八軍関連部隊と第一特設勤務隊員の名簿である。432から434は朝鮮軍管区の名簿であり、軍管区司令部に一二三五人、同経理部材料廠に二二五人、馬山重砲兵連隊に二二四人、特設陸上勤務第一〇五から第一一〇中隊に約八〇〇人、陸上勤務第一八〇中隊に三八九人、陸上勤務第一八一から第一八三中隊に約一一七〇人が動員され、釜山陸軍運輸統制部、朝鮮俘虜収容所、朝鮮内憲兵隊、燃料本廠朝鮮出張所などにも動員されたことがわかる。
435から437は、仁川陸軍造兵廠に動員された八五〇〇人ほどの朝鮮人の名簿である。この仁川の造兵廠は一九四〇年に設置されたものであり、多数の朝鮮人を動員して兵器の製造をおこなった。438は陸軍貨物廠倉庫に動員された三三一九人の朝鮮人の名簿である。439は鉄道部隊への動員を示す名簿である。鉄道部隊は鉄道の建設や復旧のために編成されたものであり、独立鉄道第一〇大隊一五九人、第一二大隊一六四人、第一九大隊九六人、第二一大隊九九人、第二鉄道材料廠三六人などの動員状況がわかる。440から443までは京城師管区への動員を示すものであり、師管区司令部五七一人、歩兵第一補充隊九〇四人、第二補充隊一二一二人、第三補充隊二三〇四人などの動員状況がわかる。
444は大邱師管区、445は光州師管区の部隊の留守名簿であり、歩兵・砲兵・工兵・輜重兵の補充兵などの名簿である。動員数の多いものをみれば、大邱師管区では歩兵第一補充隊五四九人、第二補充隊二五〇人、砲兵補充隊九一人、輜重兵補充隊一三九人、光州師管区では歩兵第一補充隊三九七人、第二補充隊一四七人、工兵補充隊二〇一人、輜重兵補充隊八九人などがある。
A朝鮮北部
留守名簿467から477までは朝鮮北部への動員を示す名簿である。
467は第一七方面軍直轄部隊、468は第七九師団司令部、469は独立混成第一〇一連隊と第三四軍、470は第三九野戦勤務隊第一八四中隊から一八九中隊までの一三一五人、471は平壌陸軍兵器補給廠一四七六人、第一二野戦補充馬廠、教育隊などの名簿である。
第七九師団は一九四五年二月に第一九師団と二〇師団の留守部隊から編成されたものであり、朝鮮北東の図們付近を担当した。第三四軍は中国戦線から一九四五年六月末に咸鏡道へと移動し、八月のソ連侵攻後に第一七方面軍の指揮下に入った軍である。
467からは、独立高射砲第四二大隊二〇五人、同四六大隊二六七人、独立鉄道第一一大隊一五三人、468からは歩兵第二八九・二九〇・二九一連隊に約一〇四〇人、騎兵七九連隊に一一四人、山砲兵七九連隊に一一六人が動員されたことがわかる。467の独立高射砲第四二大隊二〇五人は平壌で集められた人々である。468の歩兵第二八九・二九〇・二九一連隊をみれば、第二八九連隊は咸興・京畿出身者、第二九〇連隊は羅南・咸興出身者、第二九一連隊は咸興・京畿出身者で編成され、一九四五年三月に編入されている。
469をみれば、独立混成第一〇一連隊五三三人の名簿があり、第三四軍第五九師団では独立歩兵第四一大隊九二人、第四二大隊九一人、第四三大隊四〇人、第四四大隊二六人、第四五大隊四九人、輜重隊四二人、独立歩兵第一〇九隊五〇人、第一一〇大隊五六人、第一一大隊四六人などの名簿がある。独立歩兵部隊には大邱からの徴兵者が多い。
470は三九野戦勤務隊一三一五人、471は平壌兵器補給廠一四七六人などの名簿である。
留守名簿472から475は平壌師管区の名簿である。472には平壌師管区司令部五七三人、砲兵補充隊約二八〇人、473には歩兵第一補充隊一九二〇人、474には歩兵第二補充隊、工兵、通信補充隊など計一五〇〇人ほど、475には輜重兵補充隊一七九〇人などが記されている。
留守名簿476.477は羅南師管区の司令部五〇七人、歩兵第一補充隊五八九人、第二補充隊四八八人、工兵補充隊五五九人、兵事部一〇人、四〇九特設警備工兵四四四人などの名簿である。
この羅南の第四〇九特設警備工兵隊の名簿をみると、死亡七、戦傷七、行方不明一五七人、逃亡一六一人、ソ連引き継ぎ一一二人という記載がある。逃亡者・行方不明者が多く、ソ連に引き渡されたものも多かったことがわかる。
留守名簿510は歩兵第七四連隊補充隊の名簿である。この第七四連隊は羅南で編成された部隊である。一九四四年にフィリピンのミンダナオに派兵され、多くが死亡した。その連隊の補充兵の名簿である。この補充隊は一九四四年九月に編入され、一九四五年四月に第一六〇師団の歩兵四六四連隊や速射砲部隊などに配属されている。
留守名簿462・463からは第五航空軍での動員状況がわかる。第五航空軍は一九四五年六月に中国から朝鮮方面へと転じた。この軍では第九練習部などへの動員がみられるが、最も多いのは平壌陸軍航空廠への動員者であり、咸興分廠への動員と合わせると動員者数は二五七〇人となる。
留守名簿493は船舶軍の留守名簿であり、北方と朝鮮での動員者のものである。朝鮮内での動員者の多い部隊をみておけば、特設水上勤務第七五中隊三八九人(咸興)、七七中隊三九〇人(咸興)、七八中隊三八九人(京城)、七九中隊三九二人(光州)、一〇九中隊一二七人(大邱)、一一〇中隊一二五人(大邱)などがある。これらの水上勤務中隊は一九四五年に入ってからの編成である。
このように名簿からは、朝鮮内の軍管区司令部、同経理部、独立混成第三九連隊、独立混成四〇連隊、独立混成第一〇一連隊、高射砲第一五一連隊、高射砲第一五二連隊、独立工兵第二三連隊、独立工兵第一二五大隊などに数多くの朝鮮人が動員されたこと、各師団の歩兵連隊への動員もなされ、そのために各師管区では第一補充兵、第二補充兵、第三補充兵、工兵補充兵などの補充兵も多かったこと、野戦勤務隊、特設警備工兵、独立鉄道大隊、特設水上勤務中隊などに送られ、陣地構築や警備・輸送の労働を強いられたこと、仁川造兵廠や平壌航空廠、平壌兵器補給廠、陸軍貨物廠などの軍需品製造の部門にも数千の単位で動員されたことなどが判明する。
6済州島への動員
済州島には第五八軍が配置された。この軍は一九四五年四月に編成されたものである。五八軍関係の名簿は留守名簿427・428に収められている。
留守名簿427の「第一七方面軍第五八軍直轄部隊留守名簿」から朝鮮人兵士が多い部隊をみると、独立野砲兵第六連隊三六二人、独立山砲兵第二〇連隊五八八人、迫撃砲第二九大隊四〇四人、独立工兵一二六大隊三八一人などがある。直轄部隊の朝鮮人兵士の数は一九〇〇人ほどになる。
独立野砲兵第六連隊は一九四五年四月に光州・平壌・羅南で集められた朝鮮人が編入され、独立山砲兵第二〇連隊には羅南や咸興で集められた朝鮮人が一九四五年六月に編入された。独立工兵一二六大隊には咸鏡で集められた朝鮮人が一九四五年六月に編入された。迫撃砲第二九大隊へは大邱・釜山で集められた朝鮮人が一九四五年七月に編入された。
留守名簿428の「第一七方面軍第五八軍隷下第九六師団第一一一師団第一二一師団独立混成第一〇八旅団留守名簿」からも多くの朝鮮人の動員状況がわかる。第九六師団(「玄」部隊)は九千人ほどの軍団であるが、そこには、歩兵第二九二連隊六五人、歩兵第二九三連隊七一人、歩兵第二九四連隊一八〇人、迫撃砲隊一七人、工兵隊八人、通信隊一人、野戦病院一〇人の朝鮮人が確認できる。この師団は日本で新設され、一九四五年四月に済州島に送られた。
第一一一師団は一万二千人ほどの軍団であるが、司令部一人、歩兵第二四三連隊一二八人、第二四四連隊一〇三人、第二四五連隊一〇四人、砲兵隊九人、工兵隊五人、輜重兵隊六人、野戦病院五人、兵器勤務隊一人が確認できる。この師団は関東軍から一九四五年五月に送られてきた。
第一二一師団(「栄光」部隊)は一万三千人ほどの部隊であるが、司令部に五人、歩兵第二六二連隊六九人、制毒隊一四人、衛生隊一二二人、第一野戦病院一〇人、第二野戦病院一五人、第四野戦病院一五人、防疫給水部一七人、工兵隊二人、通信隊一人、病馬廠一人などの朝鮮人兵士名が判明する。この師団は一九四五年五月に投入された。
独立歩兵第一〇八旅団(「翠」部隊)は六千人ほどの軍団であるが、第一〇八旅団一三四人、独立歩兵第六四二大隊一人、第六四三大隊一人、第六四四大隊三人、第六四六大隊一人、第六四七大隊三人などの朝鮮人名が記されている。この旅団は近畿の中部軍からの転用であり、一九四五年四月に済州島に送られた。
留守名簿429から431からは、第一特設勤務隊の編成状況を知ることができる。第一特設勤務隊の名簿は第四中隊から第一三中隊まで残されている。この部隊の人数と主な出身郡地をみると、第一特設勤務隊本部に七人、第四中隊五八九人(京畿からの連行)、第五中隊六〇〇人(京畿からの連行)、第六中隊六〇五人(忠清からの連行)、第七中隊五九〇人(忠清からの連行)、第八中隊五九三人(江原からの連行)、第九中隊五九九人(江原からの連行)、第一〇中隊六〇〇人(平南・忠南からの連行)、第一一中隊六〇一人(平南からの連行)、第一二中隊六〇〇人(黄海からの連行)、第一三中隊六〇一人(平北からの連行)である。秘匿名は本部が築一二七三一であり、以下、中隊ごとに築一二七三二から築一二七四一までつけられている。
一つの中隊の定数は六六〇人ほどであるが、名簿からは朝鮮人が中隊ごとに六〇〇人ほど配置され、徴集された道ごとに編成されていたことが分かる。第一特設勤務隊第四中隊から一三中隊までの朝鮮人数は六〇〇〇人ほどになる。これらの部隊は一九四五年五月に済州島での陣地構築に動員されている。特設部隊は朝鮮人で占められていたのであろう。
朝鮮人は歩兵に多く動員され、なかには三〇〇人を超える朝鮮人歩兵が存在した師団もある。第五八軍直轄部隊の朝鮮人兵士の数は約一九〇〇人であり、第五八軍隷下の部隊での朝鮮人の数は一二〇〇人を超える。これらの数に第一特設勤務隊の六〇〇〇人ほどの朝鮮人数を加えれば、陸軍によって済州島へと動員された八〇〇〇人を超える朝鮮人の氏名・住所などが判明することになる。
これ以外にも、済州島には特設陸上勤務第一一〇中隊も動員されている。この部隊にも朝鮮人が動員されていた。留守名簿433には特設陸上勤務第一〇五中隊から一一〇中隊の名簿が収録されている。一一〇中隊は一九四五年一月に編成され、釜山を中心に一四一人が連行されている。この名簿での特設勤務一〇五中隊から一一〇中隊の朝鮮人数は約八〇〇人であり、釜山での徴集者が多い。他には第三八勤務隊陸上勤務第一八〇中隊三八九人の名簿も収録されている。第一八〇中隊は全北全州で集められ、一九四五年五月に編成された部隊である。
ここで済州島以外の特設陸上勤務隊(野戦勤務隊)についてもみておこう。
留守名簿434は「第一七方面軍朝鮮軍管区隷属部隊留守名簿二」であるが、陸上勤務第一八一・一八二・一八三中隊約一一七〇人の名簿がある。この陸上勤務第一八一・一八二・一八三中隊は全南光州で集められたものであり、一八〇中隊と同様に一九四五年五月に編成されている。一中隊で三九〇人ほどの人数である。
留守名簿470は「第一七方面軍第三九野戦勤務隊留守名簿」であるが、ここには朝鮮北部に配置されていた第三九野戦勤務隊の一八四中隊から一八九中隊までの一三一五人分が記されている。
留守名簿450は「関東軍直轄勤務隊築城隊留守名簿」である。この部隊は中国東北で陣地構築に動員されたが、特設陸上勤務第一二〇中隊には三五一人(大田・春川から)、第一二一中隊には三三七人(大田から)、第一二二中隊には三三五人(新義州)、第一二三中隊には三四五人(新義州)の朝鮮人がいたことがわかる。留守名簿400は「北支那方面軍直轄陸上勤務隊留守名簿」であるが、そこには中国北部での特設陸上勤務第一二四中隊四三五人(咸南・京畿)、第一二五中隊三四五人(忠北・咸北)、第一二六中隊三四五人(咸北・咸南)の隊員の名簿が記されている。留守名簿459「関東軍第三方面軍第四四軍直轄部隊留守名簿」には特設陸上勤務一二七中隊三三五人の名簿がある。一二七中隊は一九四五年一月に編成され、平南と京畿からの動員者である。留守名簿399は「北支那方面軍直轄部隊留守名簿三」であり、二六野戦勤務隊九九九人の名簿がある。
留守名簿416は「中支・支那派遣軍第六方面軍第一一軍隷下部隊留守名簿二」であり、野戦特設建築勤務第一〇一中隊六五九人の名簿がある。留守名簿419は「支那派遣軍第六方面軍第二二軍隷下部隊留守名簿」であり、建築勤務第一〇二中隊六七七人の名簿がある。
これらの簿冊から各地の野戦勤務隊・特設陸上勤務中隊へと九〇〇〇人ほど朝鮮人が動員されたことがわかる。これ以外にも多数の動員があったといえるだろう。
済州島には、他に陸上勤務第一六六・第一六七部隊も動員されているが、これらの部隊にも朝鮮人が組み込まれていたとみられる。
すでに済州島での陣地構築では一九四四年一一月に第四〇八特設警備工兵隊が配備され、飛行場の復旧や築城に従事したが、ここにも多くの朝鮮人や地元民衆が動員された。留守名簿477は「第一七方面軍羅南師管区留守名簿」であるが、そこには第四〇九特設警備工兵四四四人の名簿がある。この第四〇九特設警備隊と同じように、第四〇八特設警備隊にも多くの朝鮮人が組み込まれていたとみられる。
一九四五年二月には平壌の第三〇師団から咸鏡第四三部隊の二〇〇〇人が作業隊として動員された。この部隊も朝鮮人を数多く組み込んだものであったとみられる。
戦争末期の一九四五年三月以後、「決七号作戦」の下で、陸軍は五月末までに約六万人、最終的には七万五千人ほどの兵員を済州島に動員し、戦争を準備して陣地構築をすすめた。そのなかには少なくとも八〇〇〇人を超える朝鮮人がいたことが名簿から判明する。陣地構築を担ったのは特設勤務隊に動員された朝鮮人であり、歩兵とされた朝鮮人も同様に陣地構築に振り向けられていったとみられる。名簿からそのように動員された朝鮮人の氏名や出身地を知ることができる。
なお、海軍も飛行場工事や陣地構築をおこない、飛行場工事では鎮海施設部第二〇一部隊が動員され、そのもとで多くの朝鮮人が労働を強いられた。また、特攻用の壕も構築された。海軍については、「旧海軍軍属身上調査表」に鎮海鎮守府分の朝鮮人の名票がある。
陸軍や海軍に組み込まれた朝鮮人と現地民衆への動員状況をみれば、済州島での「決戦」関連の強制動員は二万人ほどになるだろう(済州島への部隊の配置については、塚ア昌之「済州島における日本軍の「本土決戦」準備」を参照した)。
7中国への動員
@関東軍
中国東北地方(満州)を支配していた関東軍にも朝鮮人が動員されていた。
留守名簿446から460は関東軍の名簿である。名簿には関東軍司令部、教育隊、通信隊、鉄道隊、憲兵隊、情報部隊、陸軍病院、特設陸上勤務隊などの部隊や各師団下の歩兵・工兵などの部隊に動員された朝鮮人が記されている。
留守名簿446から450までは関東軍の直轄部隊の名簿である。
留守名簿446には関東軍司令部約一〇〇人、関東軍経理部八六二人の名簿がある。留守名簿447には鉄道部隊の名簿があり、鉄道第四連隊四七三人、鉄道第一九連隊約三〇〇人、鉄道第一五大隊一四四人、鉄道第一八大隊九七人などがある。
留守名簿448からは憲兵隊への動員状況がわかる。朝鮮人は中国各地の憲兵隊に通訳、軍犬手、軍馬手などの傭人・雇員の形で動員され、軍人として配属されたものもいた。動員場所と人数をみれば、憲兵隊司令部一八人、新京二九人、奉天二〇人、大連一〇人、チチハル九人、ハルビン二四人、牡丹江六七人、東安六五人、四平二四人、ハイラル二五人、孫呉三七人、佳木斯一〇人、間島八二人、承徳二〇人、興安八人、鞍山一八人、鶏寧一人、金蒼二人、満州里一人、汪清一人などである。憲兵無線探索隊にも二七人(すべて傭人)、憲兵教習隊五四人、関東軍情報部(特務機関)七九人なども名簿もある。日本が牡丹江や間島など朝鮮人が多く居住する地域を監視するために、多くの朝鮮人を軍に動員し、弾圧や諜報活動に利用していったことがわかる。
留守名簿449は関東軍の兵站部門への動員者の名簿である。ここには、関東軍野戦兵器廠八八人、野戦自動車廠一七八人、関東軍造兵廠六九人、関東軍補充馬廠一八四人、第一野戦補充馬廠二二四人,関東軍野戦病馬廠四六八人などの名簿があり、陸軍病院では錦州、ハルビン、四平などへの動員者の氏名がわかる。
留守名簿450は特設陸上勤務隊第一二〇中隊から一二三中隊の名簿であり、一四〇〇人ほどの氏名が記されている。
留守名簿451・452は関東軍第四軍の名簿である。第四軍は黒龍江、大興安嶺方面を担当していた軍である。451には第四軍司令部三一人、独立工兵第二九連隊三五三人、第一八野戦貨物廠八五人、チチハルの陸軍病院などの名簿がある。独立工兵第二九連隊の名簿では、平壌から一九四五年六月末に編入されたことがわかる。452には歩兵第二五二・二五四・二五五連隊約四二〇人、捜索第一一九連隊二〇人、野砲兵第一一九連隊八〇人、歩兵第二七四連隊三二人などの名簿がある。
留守名簿453から455は第一方面軍の名簿である。第一方面軍は第三軍、第五軍などを配下に持ち、戦争末期には敦化に拠点を置いていた。留守名簿453には第二野戦補充馬廠一四五人、牡丹江や敦化などの陸軍病院などがある。第二野戦補充馬廠の名簿では一九四三年六月に全羅道から動員されたものが多い。留守名簿454には第三軍司令部四五人、第二〇野戦兵器廠三〇人、第一六野戦自動車廠約四〇人、歩兵第二四六・二四七・二四八連隊約一六〇人、歩兵第二八三・二八四連隊七二人など、留守名簿455には第五軍司令部四七人、第一七野戦貨物廠四〇人、歩兵第二七七・二七八連隊九二人などがある。
留守名簿456から460は第三方面軍の名簿である。第三〇軍,第四四軍などを配下にもち、奉天を拠点にしていた。留守名簿456には第三方面軍司令部五九人のほかに、野戦高射砲第二六連隊一五四人、高射砲第一七一連隊一〇五人、野戦高射砲第八五・八八・九〇・九一・九二大隊約一四〇人、野戦照空第一大隊二〇人などがあり、高射砲部隊への動員者が多い。また、第三野戦補充馬廠の三二三人の名簿もある。留守名簿457では歩兵部隊への動員者が多く、歩兵第二四〇〜二四二連隊約一三〇〇人、独立歩兵第五七九大隊五五人などがあり、戦車第三四・三五連隊の六〇人の名簿もある。458には独立重砲兵第七大隊五四人、歩兵第二三一・二三二・二三三連隊約一三〇人、野砲兵第三九連隊四四人などの名簿がある。留守名簿459には第四四軍司令部二八〇人、特設陸上勤務第一二七中隊三三五人、第一九野戦自動車廠三四人などがあり、460には歩兵第九〇連隊一一四人、歩兵第一七八連隊約三五〇人、第一一七師団司令部二八人などの名簿がある。
留守名簿461は第二航空軍の名簿であるが、この航空軍は関東軍の航空兵団から編成されたが、配下の師団は南方に送られている。この航空軍にも朝鮮人が組み込まれていた。朝鮮人の名簿がある主な部隊をあげれば、第二航空軍司令部(傭人、雇員)同経理部(自動車手、傭人、工員など)、錬成飛行隊、教育飛行隊、飛行場大隊、対空無線隊、航空情報連隊、気象連隊などがある。
A中国各地
中国各地の戦場へも朝鮮人が動員された。留守名簿397から419は中国北部・中南部への朝鮮人の動員を示す名簿であり、中国への動員実態の一端を知ることができる。
留守名簿397から404は中国北部への動員状況を示すものである。留守名簿397から400は北支那方面軍直轄部隊の名簿である。留守名簿397には特別警備隊や高射砲第一五連隊などの名簿がある。397には、高射砲第一五連隊の江原出身者二九人、野戦高射砲第七四大隊の慶南出身二二人の氏名がある。兵士の集団的な連行を示すものである。
留守名簿398には、中国北部の野戦兵器廠一〇八人、野戦兵器廠太原支廠八人、済南支廠六人、野戦自動車廠二一人、同済南支廠六人、野戦貨物廠三五〇人、貨物廠本部二二人、同済南支廠二二人、同鄭州支廠六一人、野戦補充馬廠二三人などや第一五一や第一五三などの九か所の兵站病院の約二〇〇人、第二〇兵站病馬廠一八人、北支那軍馬防疫廠一八人、北支那防疫給水部二四人、北支那憲兵隊一九七人、路安憲兵隊三人などが記されている。
留守名簿399と400は、中国に派兵された第二六野戦勤務隊一〇〇〇人と特設陸上勤務隊第一二四・一二五・一二六中隊の計一一〇〇人の名簿である。名簿から鉄道工事や陣地構築に動員された二一〇〇人ほどの朝鮮人の氏名と出身がわかる。
この特設陸上勤務隊は河南省方面に動員された部隊である。特設陸上勤務第一二四・一二五・一二六中隊は一九四五年一月に編成され、第一二四・一二六中隊は咸鏡道出身者、第一二五中隊は京城・清州・羅南での徴兵者で占められていた。留守名簿399の二六野戦勤務隊については、韓国軍人軍属裁判の陳述書類に江原道から動員された二〇人ほどの証言がある。
留守名簿401は第一軍、402は第一二軍、403は第四三軍、404は駐蒙軍の名簿である。名簿からは歩兵隊や戦車隊、警備隊などへの動員があったことがわかる。第一軍は戦争末期には太原を拠点としていた。401には第一軍の第五独立警備隊の名簿があるが、この独立警備歩兵大隊の朝鮮人は一九四五年三月三〇日に編入されたものが多い。
第一二軍の第一一〇師団は姫路から派兵され、北京や洛陽などに展開した。留守名簿402の第一一〇師団司令部の名簿には三六人の朝鮮人の氏名がある。師団司令部付の朝鮮人は平安道出身者である。第一一〇師団の増加配属分の砲兵一一人は慶北出身者である。戦車第一三連隊の一八人は慶尚道出身者、戦車第一七連隊の二一人は平安道出身者が多い。機動歩兵第三連隊一四九人は忠北出身者である。部隊への編入は一九四四年一一月のものが多い。戦車第三師団防空隊三九人は慶北、同工兵隊四二人は京畿、同警備隊九人は咸鏡、同輜重隊一四人は京畿での徴兵者である。騎兵第二六連隊四五人は忠北、独立警備隊司令部二六人は平北出身である。これらの集団編成から、地域での徴兵を経て、部隊ごとに集団的に連行されていったケースが多いことがわかる。
第四三軍は一九四五年三月に編成され、山東省の済南を拠点とした。留守名簿403の第四三軍司令部には四〇〇人ほどの朝鮮人の氏名があるが、平北・忠北・全南・慶北などからの連行者である。弘前から山東に派兵されていた第四七師団の歩兵第九一連隊(秋田)・第一〇五連隊(秋田)・一三一連隊(弘前)には朝鮮人一七〇人ほどの名簿があるが、出身は平北である。歩兵第九一連隊をみれば、編入は一九四五年八月のことであり、歩兵第四一連隊補充隊や新義州での徴兵によって集められた青年が敗戦直前に軍に配属されていったことがわかる。東北から派兵された歩兵連隊に朝鮮人兵士が補充されていったわけである。
留守名簿405から419は中国中南部への動員状況を示すものである。留守名簿405から408は支那派遣軍の直轄部隊、留守名簿409から412は第一三軍、留守名簿413から419は第六方面軍の名簿である。第一三軍は上海を拠点とし、第六方面軍は戦争末期には漢口を拠点としていた。
留守名簿405から408の支那派遣軍直轄部隊では、下士官候補者隊約三四〇人、独立鉄道第一三大隊一三八人、野戦造兵廠四六二人(南京)、同天津製造所一七三人、第三師団司令部九七人、歩兵第六連隊一四九人、歩兵第三四連隊一一四人、歩兵第六八連隊一四六人、歩兵第二一六・二一七・二一八連隊約三〇〇人、独立歩兵第五九一から五九四大隊約二五〇人、同第五九八大隊一一四人、同第一〇二から一〇五大隊約二〇〇人、同六〇七から六一四大隊四三〇人などの名簿がある。
野戦造兵廠の製造所は南京と天津にあり、支廠が漢口や上海に置かれていた。
朝鮮人兵士が歩兵連隊へと一〇〇人規模で補充されたものもある。たとえば、留守名簿406の第三師団歩兵三四連隊をみれば、江原出身の一一四人が補充されている。
留守名簿409から412の第一三軍では、師団司令部、歩兵連隊、独立歩兵大隊、野戦貨物廠などへの動員がみられる。
留守名簿413から419の第六方面軍では、師団司令部、独立歩兵大隊、鉄道連隊、野戦特設勤務中隊、野戦貨物廠、野戦自動車廠、野戦道路隊などへの動員がみられる。
留守名簿494は中国での船舶軍の名簿である。主なものをあげれば、第二船舶輸送司令部四七人、同南支支部一〇四人、上海支部二九人、同南京支部二三人、海上輸送第一二大隊四五人、船舶工兵第三三連隊四六人、同第三四連隊二五人、特設水上勤務第一二六中隊三五五人、同一三八中隊三六人、第七野戦船舶廠三四人などがある。
留守名簿505は台湾の第五方面軍の名簿である。動員者が多い部隊をあげれば、独立工兵第四二連隊五四人、歩兵第八七連隊八六人、第八八連隊九一人、独立歩兵第四六八大隊一九七人、第四六九大隊一四一人、第四七〇大隊八九人、独立混成第一〇三旅団捜索隊五一人、同砲兵隊四五人、同輜重隊九〇人などがある。
8南方への動員
朝鮮人はフィリピン、マレーシア、シンガポール、ビルマ、ニューギニアなど東南アジア各地にも動員された。留守名簿478から481はフィリピンの名簿、留守名簿482から485はビルマ・タイの名簿、留守名簿486はタイの俘虜収容所の名簿、留守名簿487から491は南方軍関係名簿である。また、留守名簿496は南方関連の船舶軍の名簿である。
@フィリピン
留守名簿478から481のフィリピンの部隊についてみてみよう。
第一四方面軍の第一〇師団、第一九師団はフィリピンのルソン島に派兵された。留守名簿478からは第一〇師団司令部三六人、歩兵第一一連隊三〇人、輜重兵第一〇連隊三七人などに朝鮮人が動員されていたことがわかる。留守名簿479では、第一九師団への四三七人の動員がわかる。その内訳は、第一九師団司令部二三人、第一九師団制毒隊二〇人、捜索第一九連隊八六人、工兵第一九連隊六八人、第一九師団通信隊四人、輜重兵第一九連隊一四二人、兵器勤務廠一人、衛生隊五四人、病馬廠九人、防疫給水部二人、第一野戦病馬廠二八人などである。第一九師団は羅南で編成され、朝鮮北部に展開していた部隊であるが、戦争末期にルソン島に派兵された。輜重兵や歩兵に多くの朝鮮人が組み込まれていたことがわかる。留守名簿480からは独立歩兵大隊や開拓勤務隊などに朝鮮人がいたことがわかる。
留守名簿481は第三五軍第三〇師団のものである。第三〇師団は一九四三年に平壌で編成された。この師団は一九四四年八月に南方に派兵され、レイテやミンダナオでの戦闘に投入された。フィリピンではこの師団に最も多くの朝鮮人が動員されていた。主なものは、歩兵第四一連隊三七人、歩兵第七四連隊三一八人、歩兵第七七連隊三六九人、野砲兵第三〇連隊一五九人、輜重第三〇連隊一八二人、第三〇師団衛生隊一五二人などである。フィリピン現地での死亡者も多い。歩兵第四一連隊へは黄海・江原からの動員者が多く、レイテ方面での戦死者が多い。歩兵第七四・七七連隊はミンダナオなどでほとんどが戦死している。
Aビルマ・マレー・ニューギニア
留守名簿482・483はビルマ方面軍のものである。一九四四年に京城で編成された第四九師団関係での動員が多い。名簿には、歩兵第一〇六連隊一六二人、歩兵第一五三連隊一二七人、歩兵第一六八連隊一六六人、山砲兵第四九連隊一二二人、輜重第四九連隊一八三人、第四九師団衛生隊一一六人などがある。ビルマ方面軍の直轄部隊としては、独立自動車第六〇大隊三八人・同第六一大隊一二六人、ビルマ燃料工廠一七人などの名簿がある。
留守名簿484は第一八方面軍、485は第三八軍のものである。第一八方面軍はタイに展開し、バンコクを拠点としていた。第三八軍はインドシナに展開し、ハノイを拠点としていた。動員者が多いものは485の第三八軍関係であり、第三八軍司令部九九人、歩兵第一六連隊一一四人、第二九連隊四九人、捜索第二連隊七二人、歩兵第二二五・二二六・二二七連隊約一六〇人などの名簿がある。留守名簿486はタイの俘虜収容所の一一五〇人ほどの名簿である。
留守名簿487から491は南方軍の第二方面軍、第七方面軍、第八方面軍、マレーとジャワの俘虜収容所などの名簿である。第二方面軍はセレベス方面、第七方面軍はシンガポール方面、第八方面軍はラバウル方面に展開していた。
留守名簿487は第二方面軍のものであり、第五師団司令部四〇人、歩兵第二一九・二二〇・二二一連隊約一〇〇人などの名簿がある。留守名簿488は第七方面軍のものであり、陸軍病院での動員者数が多い。スマトラの燃料廠への動員者の名簿もある。
留守名簿489の第八方面軍の名簿には、独立混成第三四連隊三四人、独立混成第三五連隊一四〇人、野戦高射砲第五八・五九大隊約八〇人、歩兵第二三八・二三九連隊約七〇人、第一八軍臨時道路構築隊二一人などがある。多くがニューギニアで死亡している。
留守名簿490は第八方面軍の第二〇師団のものである。第二〇師団は京城の龍山で編成され、ニューギニア方面に派兵されて多くの死者をだした。この師団の歩兵第七八連隊(龍山)、第七九連隊(龍山)、第八〇連隊(大邱)に数多くの朝鮮人兵士が編入された。ニューギニアへの派兵は一九四三年のことである。
名簿には、歩兵第七八・七九・八〇連隊約一一四〇人、野砲第二六連隊約一八〇人、工兵第二〇連隊三六人、輜重兵約二七〇人、衛生隊三二人、防疫給水部四四人、第一野戦病院三五人、第一八軍臨時道路構築隊二一人などがある。死亡率は高く、歩兵部隊だけで一〇〇〇人を超える人々が死亡している。
この留守名簿490のなかに、戦後に第一復員課が「鮮台班所有資料」から作成した「朝鮮人特別志願兵配賦について」がある。この史料から一九四二年までに第二〇師団の歩兵、輜重兵、野砲兵、騎兵、高射兵、工兵などに三三五〇人が組み込まれたことが分かる。このうち、歩兵が一九九五人、輜重兵が一一三〇人、野砲兵が二三五人、騎兵が一〇人、高射砲兵が一五〇人、工兵が三〇人であり、過半数を占める。一九四四年には第八方面軍に歩兵の一八〇〇人をはじめ、計二七一〇人が割り当てられている。割り当てられた歩兵第七八連隊、七九連隊、工兵二〇連隊などの補充隊は輸送途中の一九四五年一月、高雄沖で多数が死亡した。なお、この表にある歩兵第七七連隊はフィリピンのミンダナオなどの戦場に送られている。
表2 朝鮮人特別志願兵配賦について(鮮台班所有資料による、第1復員課) |
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部隊名 |
1938年 |
1939年 |
1940年 |
1941年 |
1942年 |
1944年 |
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[第20師団関係] |
― |
現役 |
補充 |
現役 |
補充 |
現役 |
補充 |
現役 |
補充 |
― |
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歩兵77連隊 |
25 |
25 |
|
100 |
160 |
|
135 |
100 |
400 |
1800 |
|
歩兵78連隊 |
25 |
25 |
|
100 |
100 |
100 |
|
||||
歩兵79連隊 |
25 |
25 |
|
100 |
100 |
100 |
|
||||
歩兵80連隊 |
25 |
25 |
|
100 |
100 |
100 |
|
||||
輜重兵 |
|
|
100 |
25 |
350 |
50 |
275 |
30 |
300 |
90 |
|
野砲兵 |
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|
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20 |
40 |
75 |
100 |
240 |
|
騎兵 |
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|
|
|
|
10 |
|
10 |
|
高射砲兵 |
50 |
|
25 |
25 |
50 |
|
|
|
|
450 |
|
工兵 |
|
|
|
|
|
|
|
30 |
|
120 |
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合計 |
150 |
225 |
1010 |
820 |
1345 |
[2710] |
計3550 |
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入営12月10日 |
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第8方面軍全般ナリ |
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(留守名簿490所収の表から作成) |
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「被徴用死亡者名簿」からニューギニアでの陸軍関係の死亡者を上げると、一八五〇人を超え、海軍関係の死亡者とあわせると三二七〇人ほどになる。ニューギニア戦線へと動員された朝鮮人の数は五千人を超えるとみられる。
南方関連の船舶軍の留守名簿が496である。ここには、第三船舶輸送司令部約七〇人、同パラオ支部約七〇〇人、船舶砲兵第九連隊五八人、同第一八連隊一一三人、海上輸送第二大隊七三人、水上勤務第五九中隊一四〇人、第二野戦船舶廠一五四人、第三船舶司令部マニラ支部約九〇人、海上輸送第一大隊八八人、同第八大隊約一九〇人、第三八碇泊場支部(モールメン)一一九人などの名簿がある。このうち水上勤務第五九中隊はニューギニアで多数の死者を出しているが、歩兵第八〇連隊からの編入者(慶尚道出身)が多い。
留守名簿465には南方に派兵された第四航空軍や第六飛行師団の名簿が含まれている。陸軍の爆撃隊である飛行第一二戦隊をみると、田源上(本田源一)は一九四二年一一月にシンガポールで戦死している。本籍は咸北、住所は満州国間島省であり、一九四二年に動員されている。他にも二人の全羅道の朝鮮人が一九四四年に動員されている。また、同じ爆撃隊である飛行第六二戦隊にも七人が動員されているが、三人は一九四四年九月、四人は一九四五年三月から四月にかけての編入である。
朝鮮人の軍人軍属の死亡者を出身道ごとにまとめた『被徴用死亡者連名簿』には中国や東南アジアなど各地の戦線に動員された朝鮮人の死者名が二万人ほど掲載されている。そこからも動員部隊名を知ることができる。
在韓軍人軍属裁判の原告には南方や中国戦線に動員された朝鮮人やその遺族が多い。留守部隊名簿と原告らの証言を照合することで連行の具体的な状況を知ることができる。
また、ニューギニア戦線に派兵された第二〇師団の輜重第二〇連隊、野砲第二六連隊、歩兵第七八連隊、歩兵第七九連隊の隊員の証言は林えいだい『朝鮮人皇軍兵士』、ビルマに派兵された第四九師団歩兵第一六八連隊については金成寿『傷痍軍人金成寿の「戦争」』、同じくビルマの第四九師団山砲兵四九連隊については李佳炯『怒りの河』、捕虜監視に動員された朝鮮人については内海愛子『キムはなぜ裁かれたのか』などに記録されている。
9海軍軍人軍属名簿について
@
軍軍人軍属名簿の概要
海軍の軍人軍属名簿には「旧海軍軍人履歴原票」(二万一四二〇人)と「旧海軍軍属身上調査票」(七万九三五八人)があり、計一〇万七七八人分となる。この海軍の名簿は、鎮海、芝浦、横須賀、呉、佐世保、舞鶴などにおかれた海軍の鎮守府、海軍施設部、海軍工廠などに連行された朝鮮人軍人軍属の個票の綴りである。この名簿は二五のファイルに収録され、ひとつのファイルには数千人分が収められている。
これらのファイルに仮題をつけて、収録個票の内訳を記したものが表3である。
表3 |
海軍軍人軍属名簿(朝鮮人分)の内訳 |
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資料整理番号 |
収録名簿 |
名簿内訳 |
名簿枚数 |
備考 |
511 |
鎮海関係 |
鎮海水兵(志願) |
3946 |
舞鶴、横須賀、土浦、大湊、東京、九州、館山、佐世保など各地に転属、1944年4月・8月・11月、45年2月の連行者 |
512 |
鎮海関係 |
鎮海水兵(徴兵) |
2255 |
舞鶴海兵団、鎮海防備隊に転属、1945年2月・5月の連行者 |
513 |
鎮海関係 |
鎮海技術兵、機関兵、衛生兵 |
4747 |
鎮海施設部、第351設営隊、舞鶴施設部、第16警備隊、千歳航空隊、戸塚病院、舞鶴病院などに転属 |
514 |
鎮海関係 |
鎮海主計兵、整備兵、飛行兵、工作兵 |
4759 |
舞鶴海兵団、出水・大村・上海・青島・元山・小松航空隊、横須賀工作学校、沼津工作学校、末に鎮海や横須賀の海兵団の名簿 |
515 |
鎮海関係死者 |
鎮海水兵、整備兵、飛行兵、工作兵、機関兵 |
299 |
死者名簿 |
516 |
芝浦関係 |
芝浦から太平洋各地(朝鮮南) |
7441 |
パラオ、トラック、ウォッゼ、ミレ、サイパン、タラワ、東京、ブラウン他 |
517 |
芝浦関係 |
芝浦から太平洋各地(朝鮮南北) |
7855 |
パラオ、トラック、ウォッゼ、ミレ、サイパン、タラワ、東京、ブラウン他 |
518 |
芝浦関係、 |
芝浦から太平洋各地(住所不明7人分)、 |
3892 |
第5海軍燃料廠(1〜3871) |
519 |
横須賀関係 |
横須賀から太平洋各地、大湊関係、 |
4591 |
第5建築部、第204、203,205設営隊他、 |
520 |
横須賀関係 |
大湊施設部、トラック |
4489 |
大湊約3000(含むトラック、横須賀)、 |
521 |
横須賀関係 |
横須賀施設部、横須賀海軍工廠他(朝鮮南) |
4558 |
京畿、忠清、慶尚 |
522 |
横須賀関係 |
横須賀施設部、横須賀海軍工廠他(朝鮮南北) |
3987 |
慶尚、全羅、京畿、黄海、江原、咸鏡 |
523 |
呉関係 |
呉施設部、呉工廠、光工廠、呉編成設営隊(朝鮮南) |
5177 |
慶南,慶北、全南 |
524 |
呉関係 |
呉施設部、呉工廠、光工廠、呉編成設営隊(朝鮮南)、大阪施設部 |
4978 |
全北、忠清、江原、京畿、 |
525 |
呉関係、 |
呉施設部、呉工廠、光工廠、呉編成設営隊(朝鮮北) |
3471 |
江原、黄海、平安、咸鏡、末に鎮海関係 |
526 |
鎮海関係 |
第51航空廠 |
1938 |
全羅、慶尚、忠清 |
527 |
佐世保関係 |
佐世保施設部、海南島施設部他 |
7020 |
慶尚、 佐世保施設部鹿屋支部,川棚工廠、21航空廠大村、 |
528 |
佐世保関係 |
佐世保施設部、海南島施設部他 |
8148 |
慶北、全羅、忠清、京畿、黄海 |
529 |
佐世保関係 |
佐世保施設部関連 |
4926 |
京畿、黄海、江原、咸鏡,平安 |
530 |
舞鶴関係 |
舞鶴施設部、工廠、232施設部 |
5457 |
各地から、末に海軍軍属履歴書類 |
531 |
芝浦関係死者 |
第4施設部、8建築部、15設営隊他 |
5673 |
慶尚、全羅 |
532 |
芝浦関係死者 |
第4施設、8建築、15設営隊他 |
7924 |
忠清、京畿、江原、黄海、平安、 |
533 |
横須賀関係死者 |
横須賀・大湊・サイパン他 |
2504 |
京畿、全羅、慶尚、江原、平安、咸鏡 |
534 |
佐世保関係死者 |
佐世保施設部、21航空廠他 |
2581 |
佐世保 慶尚、全羅、京畿 |
535 |
鎮海関係 |
鎮海水兵,整備兵,機関兵,技術兵,衛生兵,主計兵(徴兵) 履歴書類 |
2827 |
鎮海45年7月の徴兵者 |
|
海軍「軍人軍属名簿」から作成(韓国国家記録院蔵・抗日戦争期強制動員調査支援委員会資料)。この名簿は1993年に日本政府から韓国政府に渡されたものである。名簿から海軍による約11万人の朝鮮人軍属・軍人の連行・配置状況を知ることができる。簿冊は個票の綴りであり、表題はない。収録名簿の題名は筆者による仮題である。 |
|||
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A鎮海
海軍名簿511から515,535は鎮海関係の個票である。
名簿511は鎮海の水兵の個表である。この名簿には一九四四年四月、八月、一一月、四五年二月に「志願」によって動員された人々が記されている。512は一九四五年二月、五月に「徴兵」により水兵とされて動員された人々の名簿である。
511の動員者は、訓練の後に舞鶴海兵団や鎮海防備隊、横須賀警備隊、大湊防備隊、館山砲術学校、土浦航空隊など各地に送られている。512の動員者は舞鶴海兵団や鎮海防備隊などに送られた。水兵は合計すると六〇〇〇人ほどの数であり、鎮海が朝鮮人海軍水兵の教育訓練機関として位置づけられていたことがわかる。
また鎮海は技術兵、機関兵、衛生兵、主計兵、整備兵、飛行兵、工作兵などの教育訓練の場でもあった。名簿513・514にはこれら各種の海軍兵士の個表が収められている。その数は九〇〇〇人ほどである。主な転出先は、鎮海施設部、舞鶴施設部、第三五一設営隊、第一六警備隊、戸塚病院、舞鶴病院、千歳・出水・大村・上海・青島・元山・小松などの航空隊、横須賀や沼津の工作学校などである。
名簿535にも鎮海関係の個票がある。この535の個票は鎮海への一九四五年七月の徴兵者のものであり、水兵、整備兵、機関兵、技術兵、衛生兵、主計兵など兵種がある。名簿515は鎮海関係の死亡者の名簿であり、三〇〇人ほどの個票が収められている。名簿525の一部にも鎮海関係の個票がある。内訳は傭人約三〇〇人、工員約八七〇人、鎮海施設部約五四〇人である。鎮海関係への動員者総数は二万二千人ほどになる。
名簿526は鎮海にあった第五一海軍航空廠の名簿であり、一九〇〇人ほどの個票がある。第五一海軍航空廠へは慶尚、忠清、全羅道からの連行者が多い。
ここでは、鎮海から沼津海軍工作学校へと連行された状況についてみておこう。
沼津海軍工作学校は一九四四年六月に基地設営や航空機整備の教育を目的に設立された。沼津に送られたのは一九四四年八月と一一月に鎮海に工作兵として収容された人々である。沼津工作学校への転出の第一次は一九四四年八月に鎮海に収容され人々であり、訓練後の一〇月二〇日に五〇人が第五期普通科工作練習生として送られた。八月に鎮海に収容された集団からは横須賀の工作学校に送られた人々も多い。このときに沼津に送られた人々は一九四五年四月末に教育を修了し、横須賀施設部や鎮海海兵団などに配属された。第二次は同時期に鎮海に収容されていた五五人が一九四五年一月一五日に第六期普通科工作練習生として送られたものである。さらに一九四四年一一月に鎮海に収容されていた二四四人が一九四五年二月二〇日に第六期生として沼津に送られた。これらの第六期生は一九四五年八月一〇日の卒とされている。
個票からは死亡者二人と逃亡者二人がいたことがわかる。死亡者の金本裕乙は咸鏡南道新興郡で一九二六年一月に生まれ、一九四四年八月に鎮海に連行された。同年一〇月には沼津に第五期生として送られた。一九四五年三月末に沼津海軍共済病院に入院したが、四月一一日に「流行性脳髄炎」で死亡した。安川吉鳳は一九二八年一一月に咸鏡北道鏡城郡で生まれ、一九四四年一一月に鎮海に連行された。一九四五年二月に第六期生として沼津に送られたが、同年七月二三日に「グループ性肺炎」で死亡した。個票の記載によれば一六歳である。
逃亡についてみれば、曲原鎮錫(京畿仁川出身)と岩本永吉(平南中和出身)は一九四四年一一月に鎮海に収容され、一九四五年二月に沼津に六期生として送られた。二人の記録を合わせると、二人は四五年五月二〇日に派遣中の静浦・獅子浜(宿泊先は榜巌院)から逃亡したが、五月二七日に山梨上吉田(吉田駅)で甲府憲兵隊に逮捕された。二人は戦時逃亡罪に問われ、懲役八月執行猶予二年とされた。六月三日に横須賀刑務所に送られ、六月二八日に鎮海海兵団に練習生として入隊させられた。
派遣先の静浦ではこの頃、海軍の工作隊によって特攻基地が建設されている。おそらく二人はこの現場から逃走したのだろう。
A
芝浦・横須賀
名簿516・517・518は芝浦補給部関係の生存者の名簿である。芝浦からサイパン、タラワ、ミレ、ナウル、ウォッゼ、ブラウン、パリックババンなど太平洋各地に送られた朝鮮人の個票が収められている。これらは芝浦関連での七八〇〇人ほどの個票であり、みていくと捕虜にされたものが多い。516には慶尚南北と全羅南北などの南部出身者の個表、517には全北から忠清・京畿などの南部と黄海から咸鏡にかけての北部出身者の個表、518には芝浦関係の七人の出身不明者の個表があり、続いて平壌第五燃料廠に連行された三九〇〇人ほどの個票がある。
名簿531と532は芝浦関係の死亡者名簿である。個票は出身道別に整理されているが、その数は一万三千人を超える。532には軍属船員五二九人分や平壌第五燃料廠の死亡者一四人の個表も含まれている。
名簿519から522は横須賀関係の生存者の名簿であり、519と522には大湊関係の約七〇〇〇人の個票も含まれている。519には横須賀で第五建築部、第二〇三・二〇四・二〇五設営隊などに編成され、太平洋各地に送られ、生存できた人々の個票がある。521・522は横須賀施設部や横須賀海軍工廠に動員された人々の個表である。木更津の第二海軍技術廠の個票もある。大湊関係七〇〇〇人を含めて横須賀関係の生存者の個表は一万七千人分を超える。533は横須賀関係の約二五〇〇人の死亡者の名簿である。
横須賀関連の連行者数は二万人に及ぶ。ほとんどが軍事基地建設や軍需生産のための労働者としての動員であり、サイパンなどの南方や北方へと送られている。大湊関係での死者も多く、大湊施設部に連行され、解放後、浮島丸に乗船して舞鶴で死亡した人々の個票も残されている。
海軍軍属個票の大半は施設部員のものである。それは朝鮮人の海軍軍属としての連行が軍用施設構築のための土木建設の要員としてなされたためである。名簿には「土工員」と記されている。南方や北方へ連行されて人々の多くが生命を失ったが、なかには生還した人々も存在する。
519の名票をみていくと、名票作成後に赤字で訂正が記入されているものがあった。その名票は第二〇四設営隊員の「富永景烈」のものであり、硫黄島からの生還者である。横には赤字で「富永武雄」「張成烈」「伊景烈」とある。どれが本名なのかは不明である。生年月は一九一九一年一〇月(赤字では一九二一年五月)、住所は静岡県吉原市伝法上田端町一一〇四、本籍は慶南蔚山大?面上開里である。いくつもの名は植民地支配による人間への収奪とそれに伴う流転を示すものである。
動員の経過はつぎのようである。一九四二年一〇月一五日、静岡から横須賀建築部に徴用され、土工を命じられた。一九四四年一月に横須賀からサイパン島に送られ、五月には硫黄島に送られた(別の記述では一九四四年七月に第二〇四設営隊に転傭され硫黄島に送られたとある)。一九四五年二月硫黄島の陥落の際に負傷、米軍の捕虜となり、ハワイに送られた。ハワイで収容中に解放を迎え、一九四六年に一〇〇〇人の日本人とともにハワイを出発し、大里浜で復員、帰国した。
本来、このような動員の経過が各個票に記されるべきであるが、個票の記事は、氏名、住所、動員施設部、供託関係などが主であり、どのように連行されたのかについては不明である。それはこれらの個票が日韓交渉に対応することを含め、戦後に作成されたものであるからであろう。
なお、この「旧海軍軍属身上調査票」については、二〇〇九年の強制動員真相究明ネットによる照会に対して、厚生労働省の担当者は調査表が一九五七年一一月に呉地方復員部で様式を制定して作成し、一九五八年五月に厚生省へと移管されたものとし、供託関係の名簿から作成されたものであると語っている。
C呉・佐世保・舞鶴
名簿523・524・525は呉関係の個票である。523は慶尚・全南、524は全北・忠清・江原・京畿、525は江原・黄海・平安・咸鏡出身者の形でまとめられている。
呉への動員者の連行先は、呉施設部、呉海軍工廠、光海軍工廠、第一一航空廠などであり、切串、岩国、光、築城、大分、大神、観音寺、吉浦などの派遣先が記されているものもある。また、呉で編成されラバウル、ダバオ、ペリリュー、メレヨンなどに送られた設営隊の個票もある。
名簿524には大阪施設部の一四〇〇人分も含まれているが、住所は不明となっている。大阪施設部での動員先は大阪・奈良・和歌山・徳島などであり、各地での飛行場や地下工事などの軍の建設工事現場への連行者の名簿とみられる。呉関係の個票は大阪施設部を含めて約一万二〇〇〇人分である。
名簿527・528・529は佐世保関係の生存者の個票である。527は慶南分、528は慶北から京畿までの南部分、529には京畿から咸鏡・平安までの北部分の順に整理されている。連行先は佐世保施設部、佐世保施設部鹿屋支部、佐世保編成の設営隊、佐世保海軍工廠、佐世保軍需部、二一航空廠、川棚工廠、第四燃料廠、海南施設部などである。
529には第四海軍燃料廠の個票約三八〇〇人分も含まれている。第四海軍燃料廠へは慶南の晋陽・梁山・河東・咸安・南海・固城・居昌からの連行者が多く、慶北高霊、忠南論山・大徳、京畿富川などからの連行もあった。
名簿534には佐世保と舞鶴の死亡者の個票があり、佐世保分は二二〇〇人ほどである。
第四海軍燃料廠を含めると佐世保関係の個票数は二万二千人を超えるものになる。
名簿530は舞鶴関係の生存者の名簿であり、末には第三〇建築部と海軍軍属の履歴書類も含まれている。連行先は舞鶴施設部、舞鶴工廠、舞鶴編成の第二三二設営隊などである。舞鶴の死亡者は名簿534にあり、舞鶴への動員者数は五六〇〇人ほどになる。
舞鶴施設部には一九四四年九月に朝鮮北部から、一九四五年二月に朝鮮南部から動員されている。舞鶴工廠には一九四五年一月、二月に大量の連行があった。
これらの資料からは在日朝鮮人の動員状況も判明する。たとえば、529から國本昌得の個票をみると、國本は京畿道開豊郡出身であり、一九四二年一〇月一五日に愛媛から徴用された。佐世保施設部に連行され、前畑の現場で労働を強いられたことがわかる。また、535に収められた履歴書から三和猛の書類をみると、三和は一九四四年九月に横浜高等工業学校建築学科を繰り上げ卒業になり、海軍技術見習尉官として浜名海兵団附となった。その後、四五年二月には海軍施設部本部附となり、横須賀の海軍施設部から三〇二三設営隊に編入され、防護工事に動員されたことがわかる。このような形で在日朝鮮人も海軍の施設部関係の労働に動員されていった。
ここでは海軍軍人軍属の個票から判明する動員の状況についてまとめた。これまで大湊施設部をはじめ各地の海軍施設部や海軍工廠への連行者の氏名は十分に明らかにされてこなかったが、これらの個票によって連行状況を明らかになる。また、この名簿からは第四海軍燃料廠や平壌第五燃料廠への動員の状況も判明する。この燃料廠に連行された人々の職種は工員や鉱員とされている。
以上、陸海軍の軍人軍属名簿をみて、その内容の概略を記した。今後の調査の参考になれば幸いである。
なお、原資料の数値には、重複者が含まれているものや転属者が算入されていないものがある。欠落者も多いとみられる。ここにあげた名簿掲載の人数は、名簿に掲載されている数値をそのままあげたものと筆者が計算したものとが混在している。動員の人数は不正確なものであり、動員のおおまかな数を示すものである。
参考文献
「留守名簿」(陸軍)
「旧海軍軍属身上調査表」「旧海軍軍人履歴原票」
「被徴用死亡者連名簿」
「朝鮮人陸軍軍人調査」
樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』総和社二〇〇一年
内海愛子『キムはなぜ裁かれたのか』朝日新聞社二〇〇八年
林えいだい『朝鮮人皇軍兵士』柘植書房一九九五年
金成寿『傷痍軍人金成寿の「戦争」』社会批評社一九九五年
李佳炯『怒りの河』連合出版一九九五年
塚ア昌之「済州島における日本軍の「本土決戦」準備」『青丘学術論集』二二 二〇〇三年
塚ア昌之「朝鮮人徴兵制度の実態」『在日朝鮮人史研究』三四 二〇〇四年
北原道子「「朝鮮人第五方面軍留守名簿」にみる樺太・千島・北海道部隊の朝鮮半島出身軍人」『在日朝鮮人史研究』三六 二〇〇六年
『未来への架け橋』在韓軍人軍属裁判を支える会二〇〇二年
「在韓軍人軍属裁判陳述書類」(在韓軍人軍属裁判を支える会蔵)
(二〇一一年五月)