広島の発電工事

 

 

戦前期、広島県では芸備線などの鉄道工事や太田川などの発電工事の現場、軍施設建設などの現場で多数の朝鮮人が動員されている。広島県の朝鮮人人口をみれば一九一六年には五六人であったが、一九三〇年には七八〇〇人ほどとなっている。このなかには発電工事へと動員された人々も多い。

さらに一九三〇年代から一九四〇年代にかけて、軍需生産の拠点である広島と呉へと電力を供給するために電源開発工事がすすめられ、そこに多くの朝鮮人が動員された。また呉の海軍工廠や三菱や日本製鋼などの軍需工場にも朝鮮人が大量に強制連行された。それにより一九四〇年には朝鮮人数は三万八千人を超え、一九四四年には八万二千人へと倍増している。

ここでは広島県で戦時下にすすめられた江の川水系の神野瀬川での発電工事と太田川水系での安野発電工事についてみていきたい。

神野瀬川の発電工事については、県北の現代史を調べる会『戦時下広島県高暮ダムにおける朝鮮人強制労働の記録』、ふるさと村高暮塾『強制連行と高暮ダム』などがあり、高暮ダム強制連行を調査する会やふるさと村高暮塾などによる調査資料がある。

太田川水系での発電工事については、広島の強制連行を調査する会『太田川電源開発事始』、広瀬貞三「太田川水系発電所工事と朝鮮人労働者」、強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会『中国人被爆者・癒えない痛苦』、中国人強制連行・西松裁判を支える会『広島・安野発電所への中国人強制連行』などの調査報告がある。また、強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会は中国人強制連行・西松裁判を支える会を経て、現在は広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会として活動しているが、その間に出されたニュースや裁判報告集などの資料がある。

これらの調査資料を参考に、以下、神野瀬川発電工事、太田川・安野発電工事の順にみていきたい。

 

1神野瀬川発電工事

 

神野瀬川は広島県の北方の山々を水源とし、高野から三次へと流れる川である。神野瀬川発電工事は、この神野瀬川の水を高暮ダムでせきとめて隧道に流し込み、四キロ先の神野瀬発電所に送っで発電し、さらにその水を隧道で一キロほど先の沓ヶ原ダムに送り、ダムから水を隧道に流して六キロ先の君田発電所に送って発電するというものである。この水はさらに七キロ先の森原発電所に送られ、発電する予定であった(『戦時下広島県高暮ダムにおける朝鮮人強制労働の記録』二〇頁、以下「高暮ダムの記録」と略記)。

発電工事は資材の搬入のための道路や策道の建設からはじまった。下流の君田の発電所と沓ヶ原のダムの建設から工事はすすめられ、一九四二年には君田発電所の運転がはじまった。一九四四年末には上流の神野瀬発電所が完成するが、高暮ダムの建設は一九四五年二月には資材不足のために中止へと追い込まれた。戦後に高暮ダムの建設が再開され、ダムの完成は一九四九年一二月のことだった。一九五二年には新たに建設された森原発電所の運転が始まった。この森原発電所は君田発電所からの水を隧道で送って発電し、西城川に放流するというものである。

工事は一九四〇年三月から始まった。この工事を請け負ったのは奥村組だったが、高暮と沓ヶ原のダム建設、神野瀬と君田の発電所建設と高暮から君田までの一一キロほどの隧道の掘削には多くの労働力が必要だった。その労働力として多くの朝鮮人が動員された。

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によれば、奥村組が君田と神ノ瀬の水力発電工事に一九四〇年度に二〇〇人、一九四一年度に六〇〇人の計八〇〇人の連行の承認を受け、一九四二年三月までに六四〇人、同年六月までに七八九人を連行したことがわかる。一九四一年から四年にかけて次々に朝鮮人が連行されていったのである。一九四一年から四年にかけては「募集」による連行がおこなわれていた。

その後も工事は続き、一九四三年、四年にも連行が続けられていった。高暮ダムの請願巡査の有馬義人さんによれば、一九四四年の春には新たに二〇〇人の徴用労務者が慶尚南道から連行された。みな日本語が話せず、独身者だった。三次から現地までに輸送責任は三次警察にあった。連行された集団は飯場頭に配分されたという(「高暮ダムの記録」三五・三六頁)。これは「官斡旋」による連行を示すものである。

朴又石さんは戦後の一九四六年九月に現地に入り、朝鮮人聯盟櫃田分会の活動をした。朴又石さんによれば、すでに強制連行の八〇〇人が帰国したが、一二〇〇人が残って働いていた。出身のほとんどが慶尚道であり、江原道や済州島から連れてこられた者もいたとしている(「高暮ダムの記録」三一頁)。これは、解放時には現在員数で二〇〇〇人がいたことを示すものである。ここには逃亡者は含まれていないとみられる。

「呉新聞」一九四〇年一〇月一六日付記事の「珍しい朝鮮相撲」によれば、朝鮮出身の就労者が一五〇〇人に及んでいると記されている。建設開始時にはすでに一五〇〇人ほどが動員されていたとみられる。

これらの証言や記事から工事に動員された朝鮮人の数は三〇〇〇人以上とみていいだろう。強制連行者数はこの動員数の半数近くを占めたとみられる。

工事の中心である高暮ダム、神野瀬発電所、沓ヶ原ダム、君田発電所の周辺に工事事務所や労働者の飯場が建てられた。この広島県の北部では芸備線や三江線の工事で数多くの朝鮮人が就労してきたが、戦時下の発電工事でさらに多くの朝鮮人が動員されたわけである。

奥村組は朝鮮人を連行するために元釜山警察署の朝鮮語のできる巡査や朝鮮人の元学校教師を雇った。奥村組は現地に請願巡査を置いたが、この巡査は、朝鮮人の動向を把握するためにおかれたものであり、治安維持のための情報収集に努めた。神野瀬で請願巡査を務めた若木史郎さんは、その仕事には特高警察のような任務もあったとしている(「高暮ダムの記録」37頁)。

産業報国会を通じて各職場の情報収集をおこなっていた警察官も庄原警察の指令を受けて高暮ダムの駐在として送られている。この警察官は工事現場の治安維持を任務とし、朝鮮人の思想の動向、リーダー的なものがいるか、インテリ出身の者がいるか、食糧配給の状況、ダイナマイト管理などの目を光らせていた。暴動を想定しての非常招集訓練もおこなった。診療所の医師からも情報を集めていた。特に食べ物の不満が自然発生的な暴動やサボタージュにつながることから注意を払っていたという(「高暮ダムの記録」七四〜七七頁)。

朴泳来さんの証言をまとめてみよう。朴さんは一九三八年、数えで一二歳にときに慶北迎日から日本製鉄広畑で働く父を頼って渡日した。一九四二年二月奥村組の斡旋と飯場頭の伯父を頼り、高暮ダムの現場に家族で移動した。父や兄も働き、朴さんは奥村組の配下の中村組に入れられた。一日に一〇時間から一二時間の労働時間で、コンクリートの表面を叩いて平にする作業や生コンを運んで上からシュートで流す仕事などをした。連行された朝鮮人はカーキ色の作業服を着せられ、番号札を着け、番号で呼ばれていた。日本で二〜三年働けば田畑が買えるとと騙されてきた人もいた。組の監督は「集団」と呼んでいた。飯場には逃亡を防ぐために格子がはめられていた。逃亡者が出ると、奥村組と警察が山狩りをした。捕えられると見せしめのリンチがおこなわれた。それは雪の中、手足を縛って電柱に縛り、水をかけるというものであり、放置すれば亡くなってしまうというものだった。一九四三年に五月ころ、これ以上ここにいたら命が危ないと考え、朴さんは物資を運ぶトラックに乗り込んで逃亡した(『朝鮮人強制連行調査の記録・中国編』二八一〜二八三頁)。

強制連行された現場から逃走して高暮の現場に来た人々もいた。

崔海出さんは一九四二年ころに慶南から報国隊員として島根県匹見下のダム工事現場に強制連行され、森本組配下の金村飯場に入れられた。そこから逃亡して一九四三年五月ころ、崔さんは高暮に来た。高暮での暴力は他所よりもひどく、配給の横流しもおこなわれていたという。崔さんはそこからも逃亡し、岡山の勝山で発電工事の現場に行くが、そこでは桜や樫の木で叩きのめされ半死半生の目にあった。(織井青吾『いつか綿毛の帰り道』八一、八九、一九二頁)。

宋丙守さんは一九四三年の春ころに慶北の安東から福岡県の三菱上山田炭鉱に連行されたが、半年後の九月に逃亡に成功した。宋さんは芦屋、、下関、油谷などを経て、高暮の現場で働くことになった。宋さんは堰堤の上でのトロッコでの資材運びだった。逃亡して捕えられると手足を縛られ、モッコに入れられ、冬でも川に漬けられて半殺しの目にあった。炭鉱を逃走してきたものが多く、宋さんが会った「集団」では密陽出身者が多かったという。宋さんは一九八六年に出雲市で亡くなった。遺骨は望郷の丘に運ばれ、墓碑が建てられた。(『いつか綿毛の帰り道』五四〜五七、一四九、一八八頁〜、二〇五頁)。

強制連行された朝鮮人は工事現場では「集団」と呼ばれたが、これは集団移入者を略称したものだろう。ダム上流で製炭をしていた金周亨さんはダム工事現場で働くこともあり、連行者と話をする機会もあった。その際に、募集人が甘言を弄し、釜山で船に乗るまでは歓待したが、日本に着くと犯罪者か囚人扱いになったと聞いている。親方連中は二尺余りの棒を腰にぶら下げ、しょっちゅう叩いていた。逃亡してきた朝鮮人を炭小屋にかくまって他に逃がしてやったこともあるという(「高暮ダムの記録」三五・三九、六〇頁)。

三次から現地に物資や人員を輸送した会社の運転手児玉靖之さんによれば、連行された人々は胸に番号札をつけていた。日当は食費を引いたものとされていたが、貯金をしておくということで現金は支給していなかった。現金を渡せば逃亡するおそれがあったという(「高暮ダムの記録」三八、三九頁)。高田昭幸さんは、「集団」は朝五時ころに起こされ宮城遥拝をさせられ、皇国臣民の誓いを斉唱させられた。ダム建設では鉄線橋から生コンが谷底の朝鮮人に向けてザーッと落とされていった。「集団」は消耗品扱いされ、人間とはみなされていなかったという(「高暮ダムの記録」四四〜四六頁)。

朴述元さんは一九二〇年代には労働運動に参加して検挙された体験を持つ。起工式がおこなわれた一九四〇年三月に高暮に飯場頭として一五〜六人を連れてきた。飯場頭へと「募集」に応じてやってきた「集団」が配給された。一〇人に一人くらいの割で監視人をつけ、作業中だけでなく飯場のなかでも監視させていた。会社は幽霊人口までつくり、倉庫に食料をため込んでいた。他の朝鮮人飯場頭と共に会社と交渉し、最後にはストライキまでさせて1日八合を支給させたと語る。地元住民によれば、夜は犬を連れてパトロールがおこなわれ、連行朝鮮人の宿舎には有刺鉄線が張られていた。食事は立ったままでしたという。(「高暮ダムの記録」三八、五〇〜五四頁)。

朴又石さんによれば、飯場は人間の住めるようなものではなく、バラック建の棟に二〇人も三〇人もすし詰めに詰め込んでいた。中央に通路の土間があり、両側に敷いてある蓆の上にごろ寝をした。逃亡を防ぐために便所の汲み取り口にはタル木が打ち込まれていた。着のみ着のままで私物は持たされなかった(「高暮ダムの歴史と証言」四九〜五〇頁)。

このように連行された人々は人間として扱われず、労働を強いられた。「集団」の呼び名や番号化は物としての扱いを象徴するものである。そのような現場であったから人々は自由を求めて逃走した。請願巡査の有田さんも、逃亡は毎日あり、二〇〇人くらい連れてきてもすぐに減った。逃亡の度に手配書を回したという(「高暮ダムの記録」五六、五七頁)。

『君田村史』では、朝鮮人がモッコを担ぎ、つるはしを振り上げての労働であり、モッコに石を入れ、掛け声をあげて運んでいたとし、朝鮮から連れてこられた若者が逃げ出すことも多く、捕まえた者に見せしめの制裁が加えられたことを記している(七七六頁)。

証言によれば、逃亡して捕えられると、縛られて逆さづりにして川に浸けてはあげる、桜の棒でさんざんに叩いて半殺しにする、皮膚は破れ、肉はちぎれ、白い骨が見えても叩く、ロープで縛りあげて滅多打ちにする、モッコに入れて川のなかへ何回も浸ける、レールに数時間座らせ骨が折れるほどの痛みを加えさせる、後ろ手に縛りあげて橋から下に一晩中、宙づりにするといった制裁が加えられた。おぼろ月夜に三人くらいで島根県側の北北西に逃げることを教える住民もいた。(「高暮ダムの記録」五九〜六五頁)。

逃亡した朝鮮人についての住民の証言をみてみよう。藤永八州揮さんによれば、一九四二年一二月ころ、朝鮮人が集団で逃亡したが捕えられ、雪のなか、一〇人くらいが後ろ手につながれ、タオルで目隠しされ裸足で連れてこられた。転んだ一人を鞭で叩くと将棋倒しのように倒れた。その姿を見たときには悲しかった。集団の人が入った建物の周囲にはイガ鉄線(有刺鉄線)が張ってあった(「高暮ダムの歴史と証言」九〜一一頁)。

草谷影正さんによれば、地元住民には、餅を与え、地図を書き、地下足袋を与える者、弁当におにぎりを与えて「気を付けて逃げんさい」と言う者もいた。草谷さんは「地元の人は、あがーして助けておるんですで。人間と人間ですけの、言葉は通じんけど情はありますけえの」と語る(「高暮ダムの歴史と証言」一二〜一四頁)。

沓が原に住んでいた小野久子さんも伊久利谷を通って島根県の赤名方面に逃げることを教え、逃亡を助けている。小野さんは一九三八年に夫が戦死し、小学生を抱えて苦労し、ダム建設によって家と田地を安価で取られていた。「私も戦争の犠牲者、あの人たちも戦争の犠牲者です。犠牲者同士助けあうのは当たり前です」という(「高暮ダムの記録」六七、六八頁、『三次市史』二八六頁)。

小学校には朝鮮人の子どもが増加した。君田上小学校には沓ヶ原分校がおかれていたが、ここにも数多くの朝鮮人に子どもが転入してきた。君田上小学校の『追憶 一二七年の軌跡』には一九四五年度の卒業生は三五人の名簿が掲載されている。名簿をみると、玉原東好、福山永澤、文平龍大、山本鐘和、田中福順、卓山金石、崔本正夫、慶原君子、崔本マサ子などの朝鮮人とみられる名前がある。小学校では三〜四人に一人が朝鮮人の子どもであるという状態になったとみられる。『追憶 一二七年の軌跡』には、発電工事にともない、同級生に秋田君や白君など朝鮮から来た友人もいたという文も寄せられている(『追憶 一二七年の軌跡』一八頁)。高暮小学校の下高暮分校でも半分は朝鮮人の子どもであり、残り半分が地元や日本発送電や会社の子どもだったという(「高暮ダムの記録」三二頁)。

神野瀬の発電工事では多くの朝鮮人が生命を失ったという。その数は一〇〇人以上といわれている。朴述元さんは、高暮ダム第一隧道での窒息事故で小山(創氏名)という飯場頭の息子二人など一〇数人、コンクリートミキサー内での事故などをあげる。朴又石さんは、隧道工事で大池(創氏名)さん、金山(創氏名)さんが亡くなり、小山(創氏名)さんは弟二人、息子二人を失った。近くの焼き場で焼いたが、雨の跡には流水とともに白い人骨の小片がながれてきたという。大池さんの妻は、発破事故で三人が一緒に死んだ。夫は胸に小石が突き刺さり、一人は顔が潰れ、一人は頭半分が吹き飛ばされてという。けんかで目をつかれて殺された者、トロッコ事故、シュートの修理中での転落事故、採石現場での事故などでの死者もいた(「高暮ダムの記録」六九〜七三頁)。コンクリートを流されて埋まり、人柱となった人もいると伝承されている。

「中国新聞」から事故などの死亡記事をみると、一九四一年一月四日に君田発電所工事第2号トンネルで山本長吉(朝鮮出身、四九歳)が落盤事故で重傷を負い、死亡したという記事(一九四一年一月六日付)、一月二四日には君田発電所第一トンネル洞口三八〇メートルでダイナマイト不発弾が爆発し朝鮮人二人が即死、一人が重傷という記事(一九四一年一月二六日付)、四月二二日には朴龍讃(光山清一、五歳)が李鏡克(吉村正一、三五歳)との喧嘩が原因で死亡したという記事(一九四一年五月一四日付)などがある。また、八月一九日に高暮の昌山海基(二七歳)、金貞河(二〇歳)、松鐘可毎(二一歳)、張小点(二四歳)の四人がダイナマイトで密漁したとして取り調べを受けたという記事(一九四一年八月二八日付)などもある。

一九四二年一〇月二一日には、高暮口三五〇メートルで大きな崩壊事故が起き、七人が生き埋めになった。生き埋めになった朝鮮人は四〇〇メートル以上の最奥部に晋山性祚(二四歳)、達城永珠(二四歳)、林成祚(二七歳)、檜山?珠(二一歳)、四〇〇メートル以内に許應珠(二二歳)、許應必(一九歳)の兄弟、崩壊寄り口に十山政夫(許の叔父・飯場頭、三九歳)がいた。十山政夫は救出され、最奥部の四人も後に救出されたが、許兄弟は圧死した(中国新聞一九四一年一〇月二七、二九日付)。

これらの記事からは強制労働の現場にいた朝鮮人の名前や事故の状況などを知ることができる。

解放後もこのダム建設工事で働いた朝鮮人も多かった。一九四七年二月には策動の給油中に転落死する事故も起きた。朝鮮人聯盟の活動も盛んだった。朝鮮戦争のころには朝鮮人パルチザンの歌を日本人に歌った者もいた。一九四九年頃には生活保護を申請し、町長室に座り込んだこともあった。一九五九年末の帰国にあたり、君田村役場の玄関脇にカイズカイブキの木が記念に植えられた(「高暮ダムの記録」七九〜八四頁)。

高暮ダムの横には、一九四九年に日本発送電と奥村組が建てた慰霊碑がある。そこには「尊き犠牲となられた敬愛すべき人々」があり、その「冥福を祈り感謝の誠を捧げる」とある。ダム工事を物語る策道の台座がダムの横に残っている。ダムの両側に朝鮮人を収容した飯場が並び、上部には監視人の小屋があったという。

碑文を読み、ダムの周辺を見学していたときに、福政康夫さんと出会った。

福政さんは高暮ダムなどの神野瀬発電工事や芸備線や三江線などの鉄道工事で亡くなり、埋められたまま放置された朝鮮人の遺骨を発掘し、韓国に送る活動をおこなってきた。その活動は一九七〇年代中ごろから始められ、三〇か所ほどで発掘をおこなった。

高暮関係では一九八九年に高暮の西教寺裏山で一体、一九九四年に高暮ダム上流山林で二体、一九九七年に沓ヶ瀬ダム近くの山林で三体の計六体の遺骨を発掘している。墓地の隅には小さな石が置かれていたところがあり、地域住民の証言から、それらが朝鮮人のものであることがわかった。酸性土壌の黒土のため多くの骨は溶解して土に還っていたという。亡くなった人々の名前はほとんどが不明である。

遺骨の発掘地をみておけば、高宮町船木では三江線工事の犠牲者(一九三七年)が発掘され、口和町金田では墓地の奥にある二つの石の下から、行き倒れになった人と子どもの骨が発掘されている。西教寺には石山致福(六九歳)、石山成旭(一九歳)、李寶現(七九歳)などの墓碑があり、石山成旭は一九四五年八月二八日に亡くなっている(「高暮」一八号、二〇〇八年一〇月)。石山成旭は発電工事関係での死者とみられる。

鉄道工事や無縁墓となった場所で発掘した遺骨については一九九〇年、九一年に望郷の丘に埋葬されている。

一九九六年には高暮ダム強制連行を調査する会が結成された。同会は遺骨調査とともに、韓国での実態調査をすすめ、遺骨を安置した西善寺や高暮ダムでの謝罪追悼式をおこなった。また、二〇〇三年八月には韓国天安の望郷の丘で、高暮ダム強制連行の謝罪碑の除幕式、遺骨六体の納骨式、謝罪追悼式などをおこなった。

望郷の丘に置かれた謝罪碑には、日本発送電(現中国電力)と奥村組によるダム工事で韓半島から労働者が送り込まれ、人間性を蹂躙した過酷な労働が強いられたことが記されたこと、調査する会が強制連行・強制労働の事実調査とともにダム周辺の山野に棄てられた犠牲者の遺骨を発掘してきたこと、日本人が犯した強制連行・強制労働の非人道的な罪を謝罪する証として謝罪碑を建てることが刻まれている。

このように戦後も放置されてきた遺骨は、ダム慰霊碑にあるような「敬愛」と「感謝」という名によって侵されたままの尊厳の現実を告発する。少なくとも当時の死亡者の名前を明らかにしたいと思う。企業史料や過去帳や埋火葬関係資料の総合的な調査が望まれる。

 高暮ダムの近くには「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」がある。高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑建設委員会による追悼碑建設の運動は一九九三年からはじまった。建設委員会には西本願寺、被爆教師の会、高野町、君田町、三次地方史研究会、在日朝鮮人被爆者連絡協議会などが参加し、高野町をはじめ広島の高校生ゼミナール、高校生部落問題研究協議会、教職員組合なども建設に協力した。一九九五年七月には日本の高校生や朝鮮学校の生徒も参加して除幕式がおこなわれた。この追悼碑には、高暮ダムには多数の朝鮮人が連行され、過酷な労働を強制して建設され、その犠牲者の冥福を祈ること、朝鮮植民地支配を反省し、日朝の友好を誓うことが刻まれている。

この碑が建っている場所は、かつては中国電力の土地であった。中国電力はここに碑を建てることは過去の非を認めることになると拒否した。交渉により、中国電力が土地を高野町に提供し、そこに碑を建て、内容について中国電力は干渉しないということになった。高野町の追悼碑への好意的な姿勢が碑の建設につながっている(李実根「差別ではなく共生を」)。建設当時を知る村人も多く、強制連行・強制労働は事実であったからである。

朝鮮学校の生徒がこのダムを訪れ、このダムに人柱のように埋められた人がいることを聞き、死者の痛みに思いを馳せ、靴を脱ぎダムの上を歩いたという。

四車ユキコさんはこのダムの調査をおこない教材化をすすめてきた。四車さんは、自分と同じ血がダムのなかを流れていると考えると靴を履いたままでは歩けないと裸足で歩いた子どもや靴は脱がなくても心の靴を脱いで歩けばいいという父親の言葉を聞いて歩くことができた子どもの例を紹介し、発電工事で流された血と汗を考えながらダムについて学ぶ姿勢の大切さを語り、そのような姿勢を「心の靴を脱ぐ」と表現している(「高暮ダムをどのように教材化してきたか」二〇〇三年五月西善寺での講演録、ヒロシマ県北市民運動HP)。

 三次市東河内町の西善寺には神野瀬川発電関係で発掘された朝鮮人遺骨が一時期保管されていた。この寺では、高暮ダムの強制連行について学ぶ集会も開かれた。この西善寺の近くには、河内地区の戦争死者を追悼する新しい慰霊碑が道路沿いに建てられている。横には古い忠魂碑がある。新しい碑には「戦争で死んだ若者たちをいたみ、戦争のない世界のいしずえをきずこう」と刻まれている。この碑は二〇〇七年に建てられたものであり、その碑文からは忠魂碑の思想を超える新たな平和思想への息遣いが感じられる。

碑の横には、西善寺を事務局とする念仏者9条の会が作成した「憲法九条改悪反対!」ポスターが貼られていた。このような表現から、不殺生の視点を持って地域から平和を念じる人々の思いがこの碑を建設していることがわかる。そして、このような志向が、神野瀬発電工事関係で亡くなり、その発掘された朝鮮人の遺骨を、民族を超えて大切に保管することにつながったわけである。このような人間の方向性に、未来を展望したいと思う。

 

 

2太田川・安野発電工事

 

太田川水系での発電工事では、一九一二年から運転を始めた亀山発電工事での朝鮮人の就労が確認されている。一九二〇年代には間野平発電所、一九三〇年代には加計発電所、下山発電所、土居発電所、打梨発電所などが発電を始めたが、これらの発電所工事は広島電気によるものであり、西本組、西松組、間組、森本組、鹿島組などが建設を請け負っている。一九二八年からはじまった加計発電所の工事では一五〇〇人の朝鮮人が働いていたと報道されている。加計での工事のように発電工事現場には多くの朝鮮人が集められていた。

下山発電工事の現場では、一九三四年三月九日に第二号トンネルで不発ダイナマイトによる事故がおき三人が死傷したが、一人は朝鮮人だった。一九三四年八月四日には王泊採石場でダイナマイト事故が起きたが、死亡者二五人のうち一四人が朝鮮人だった(中国新聞一九三四年三月一一日、八月五〜一二・一四日)。

また太田川に沿って建設された可部線の工事でも多くの朝鮮人が働いていた。一九三六年八月一六日には、安野村の太田川渡場で慶北星州出身の宗允奉が鉄道レールの運搬中に転落して死亡するという事故も起きている(呉新聞一九三六年八月二〇日)。

戦時下には日本発送電による発電工事がすすめられ、一九四四年には吉ヶ瀬発電所、一九四六年には安野発電所が完成している。これらの工事を西松組が請け負い、隧道の掘削やダムの建設などの工事現場には数多くの朝鮮人が動員されたが、朝鮮半島からの強制連行もおこなわれ、安野発電工事では中国人も強制連行された。

吉ヶ瀬発電工事は一九四〇年から一九四四年にかけておこなわれた。この吉ヶ瀬発電工事は打梨発電所と土居発電所の工事に続いておこなわれたものであり、土居発電所からの水をさらに隧道で流して、吉ヶ瀬で発電するというものであった。一九四二年六月一四日付の中国新聞には吉ヶ瀬水力発電工事の西松組従業員一同が一〇四一円五〇銭の国防献金をなしたという記事がある。そこには西松組の丸山部隊「移鮮集団夫」、西松組山手配下の金丁甲などからの献金も記されている。この丸山部隊「移鮮集団夫」とは強制連行された朝鮮人のことである。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」では西松組が一九四一年度に四五〇人の連行の承認を受け、一九四二年三月までに一七八人、同年六月までに三七七人を連行したとある。この連行者の工事場については記されていないが、吉ヶ瀬の工事現場である可能性が高い。

この吉ヶ瀬の工事が終わるころには吉ヶ瀬下流の坪野での安野発電所工事がはじまった。吉ヶ瀬の工事に連行された朝鮮人は安野の工事へと移動させられた。安野の起工式は一九四三年の秋であり、一九四四年には工事が本格化した。

安野発電工事は太田川上流の滝山川の水を加計の土居で隧道に取り込んで、丁川、香草、津浪、光石を経て坪野まで送り、安野発電所で発電するというものである。隧道は七、七キロメートルに及び、掘削地点は一一か所に及んだ。そのうち四か所には連行された中国人が充てられた。

吉ヶ瀬をはじめ各地の工事現場から強制連行者も含めて朝鮮人が集められた。朝鮮人が隧道を掘削する工事を担ったが、連行中国人はズリをトロッコに乗せて外に出す作業をおこない、発電所の導水管の工事なども担わされた。連行朝鮮人については名簿がなく、死亡状況についても不明である。連行中国人については戦後に作成された三六〇人の名簿があり、市民団体の調査によって実態が明らかにされている。

以下、安野発電工事について、現地集会での発言や中国人強制連行・西松裁判を支える会『中国人強制連行・西松建設裁判 歴史に正義と公道を二』(以下、「正義と公道二」と略)、『広島・安野発電所への中国人強制連行』(以下、「支援する会冊子」と略)などに収録された証言などからみていきたい。

中国人が連行されてきたのは一九四四年八月のことである。中国人は山東や河北から三六〇人が駆り集められてきた。連行中国人は発電工事用の隧道に沿う形で、取水口の土居、隧道掘削口の香草、津波、発電所の坪野の四か所に収容された。坪野が第一中隊、津波が第三中隊、香草が第二中隊、土居が第四中隊とされ、人数は第一から第三中隊までが一〇〇人、第四中隊が六〇人であった。西松組の事務所は安野発電所の近くにある善福寺の北西にあった。

中国人はこの安野の現場で二九人が死亡しているが、抵抗して刑務所に送られて原爆死した者、被爆による後遺症で苦しんだ者もいた。また、ケガや労災により失明した者、骨折した者もいた。死亡した者の遺骨は善福寺や正念寺に預けられたが、火葬場などに埋められた者もいた。

一九九二年には、日本の市民団体による中国現地での安野に連行された中国人の調査がおこなわれ、強制連行や抵抗と被爆の実態が明らかになった。一九九三年には東京華僑総会に西松組安野主張所の「事業場報告書」が保管されていることがわかった。同年、中国人連行者が来日し、西松建設に対して事実を認めて公式に謝罪すること、記念碑を建設すること、被害者へ賠償などの三項目を要求した。一九九五年八月には中国人連行者によって安野受難労工聯誼会(会長・呂学文)が結成された。

四年間にわたり西松建設との交渉がおこなわれたが、西松建設は強制連行の責任をとろうしなかった。そのため一九九八年一月に中国人側代表五人が原告となって広島地裁に提訴した。二〇〇一年には香港で西松建設香港支店への抗議行動も取り組まれたが、広島地裁は二〇〇二年七月に、不法行為と安全配慮義務違反は認めるが、賠償については除斥と時効を適用してこれを認めないとする判決を出した。これに対し中国人側は控訴した。このなかで広島高裁は二〇〇三年に和解を勧告した。二〇〇三年には台湾での西松建設台湾営業所への要請行動が取り組まれるなど運動が広がった。しかし、西松組は強制連行の事実を認めようとせず、和解は決裂した。

広島高裁は二〇〇四年に時効の主張は権利の濫用であるとし、原告への賠償を命じる勝訴判決を出したが、西松建設は上告した。二〇〇七年四月、最高裁は中国人の請求権は日中共同声明で放棄されたとし、原告敗訴の判決を出した。

最高裁の判決は、国家間で被害者個人の請求権自体を消滅させることはできないという原則を無視したものであり、不当なものであった。しかし、付言で強制労働とその後の国家からの補償金受領の事実を認めたうえで西松建設など関係者による被害救済への努力を指摘したのだった。

 この指摘をふまえ、裁判後も中国人連行者と市民団体による西松建設への問題解決への行動が取り組まれた。その結果、二〇〇九年一〇月には中国人側の要求を認める形での和解が成立した。和解金額は二億五千万円だった。和解から一年後の二〇一〇年一〇月には安野発電所横に「安野中国人受難之碑」が完成し、副碑には中国人連行者三六〇人全員の名前が刻まれた。

追悼碑の完成により、除幕式と追悼集会が中国から被害者・遺族を呼んでもたれた。三年半で全遺族を安野に招待する計画が立てられ、除幕式後、二〇一一年五月、一〇月と遺族を呼びよせて追悼会がもたれてきた。中国人への補償金支給にむけて「西野安野友好基金」が設立されるとともに、西松建設裁判を支える会は「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」となって活動をすすめている。

 二〇一二年五月一九日には安野の中国人記念碑の前で四〇人ほどの中国人遺族を迎えて「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」がもたれた。今回の追悼・平和集会開催によって碑を訪問した中国人遺族などは一五〇人ほどになる。

 集会では西松安野友好基金の内田雅敏さんが受難の碑を友好の碑にすることの意義を語り、平和共存を求めて覇権に反対した日中共同声明の精神をふまえて民衆による手作りの追悼式をすすめるとともに中国人強制連行問題を全面解決していくことを訴えた。中国人受難者・遺族を代表して邵義誠さんの文を家族が読みあげた。邵義誠さんの文は、公然とした謝罪、賠償金支給、記念碑建設の三つの要求を実現させた人々の努力を示し、追悼と共に友好を示すこの碑の前で永久の平和に向けて静かに深く思索することを呼びかけるものだった。

続いて安芸太田町長、中国駐大阪領事館、善福寺住職、県会議員があいさつし、二胡の演奏のなかで献花がおこなわれた。献花の後に、遺族が碑に刻まれた親族の名前を探し、対面した。故人の写真とともに確認する、刻まれた文字に触れる、名前の前で思い出を語る、労苦をわかち涙をぬぐう、写真に収めるなど、さまざまな形でそれぞれの追悼の時がもたれた。遺族が碑の前で持参した紙銭を燃やして追悼する。炎が紙を包み、灰となって風に舞う。それはこの地から亡くなった者たちへと時空を超えて生きるものの想いを届けるようだった。

追悼・平和集会の後には中国人収容所跡地や強制労働の現場をめぐる見学会がもたれた。

善福寺には五人の中国人の遺骨が一九五八年まで保管されていた。そこには呂鳳元さんのものもあった。呂さんは四人の子を残して日本に連行され、亡くなった。遺骨が置かれていた場所で阿弥陀経が読経され、訪日した遺族は、祖母は生きているはずと思いつづけていたと語る。人の命への思いに民族の差はない。

裁判では五人が原告となり、一一人の日本人が陳述書を書いて、強制労働の実態などを記した。その一人の谷キヨ子さんは近くに住んでいたが、西松組の下請けの島田組の日本人が棍棒を持って労働させていたことや祖母がジャガイモを与えたことなどを記している(「正義と公道二」七七頁)。現在八八歳になる谷さんは、中国人にやさしく接した思い出を語った。七〇年ほど前に民族を超えて友として生きた人々の話を聞き、中国人遺族が私は人としてあなた方の友ですとあいさつし、老女の手を握る。

坪野にある安野発電所へと上部から三本の余水管で水が運ばれているが、このうち右側の余水管の上部にみえるコンクリート製の竪坑が戦時期の構築物である。隧道からの水をこの竪坑で取水して下の発電所へと落としている。当初は竪坑から地中の隧道を利用して水を落としていたが、漏水のために新たに現在の余水管が一九四六年に作られている。この竪坑の建設には中国人も動員されている。この竪坑からは神社近くにあった中国人第一中隊の坪野収容所跡を見ることができる。

安野の現場での暴行と侮辱のなかで、中国人に暴行を加えてきた大隊長と第一中隊三班の班長を殺すという抵抗事件が一九四五年七月一三日に起き、一一人が広島刑務所に送られ、被爆した。別に逮捕された五人は取り調べを受けるなかで被爆死した。

于瑞雪さんは大隊長がつるはしで仲間の顔を殴るというような暴行をみて、このままではいつかは皆死んでしまうと思った。于さんは「同胞に悪いことをするな」という警告文を便所に貼った。抵抗事件は食料の不公平な分配がきっかけだったが、計画的なものではなかったという。于さんも捕えられ、広島刑務所で被爆した。帰国後も被爆によるとみられる胃、肝臓、心臓などの病気に苦しめられた(『中国人被爆者・癒えない痛苦』二〇五頁、「支援するる会冊子」一一頁)。

呂学文さんも広島刑務所で被爆した。呂さんは済南の日本軍の物資供給所で働いていたが、選別されて、「新華院」に収容された。約一ヶ月後、青島から下関へと送られ、安野に連行された。呂さんは第一中隊に入れられた。そこでトロッコを押したり、坑木を組立てる仕事を強いられたが、びしょ濡れになった。同情した朝鮮人が要求し、蓑が支給されたこともあった。殺害事件の際には関係はなかったが皆のために犠牲になろうと名乗り出た。呂さんは自らの命は亡くなった仲間が与えてくれたものと語る(『中国人被爆者・癒えない痛苦』九八頁、「正義と公道二」二二〜三一頁)。

被爆した徐立伝さんの広島刑務所への収監と被爆の証言は一九九二年五月に収録された。徐さんはあごのがんに苦しみ、治療を希望していた。同年7月には在監証明が出されたが、その前日に徐さんは亡くなっていた(『中国人被爆者・癒えない痛苦』一四頁、「支援する会冊子」九頁)。

周純秀さんは青島出身で当時一八歳だった。周さんは第一中隊に入れられて捲揚機の運転をさせられた。それは山の下からセメントと砂を積んだトロッコを引っ張りあげ、空のトロッコを下におろすという仕事だった。帰国すると国民党軍に入り、台湾に送られ、故郷に帰ることができなかった。四〇年ぶりに青島に里帰りすると、文化大革命のなかで父は亡くなり、その後母も亡くなっていたという(『中国人被爆者・癒えない痛苦』七六頁、「支援する会冊子」一六頁)。

安野の現場は遺族の楊世斗さんは父を原爆で亡くした。楊さんの父は国民党の遊撃隊に入り日本軍の捕虜となった。父の消息を知ったのは四八年後のことだった。楊世斗さんは強制連行による父の死が祖父母、母、私の三代を苦しめたとし、原告になった(「正義と公道二」三八〜四二頁、「支援する会冊子」一五頁)。

解放後にこの近くの太田川での転覆事故で亡くなった第一中隊の劉存山さんの遺体は発見されなかった。劉さんの遺族はその話を竪坑から太田川をみつめ、目を潤ませながら聞いた。

元西松組の下請けの島田組の現場監督前原続さんによれば、監督として七〜八人の朝鮮人を使い、一人に朝鮮人が一〇〜二〇人の中国人を使って仕事をすすめた。島田組は発電所、貯水池、放水路、竪坑を請け負った。中国人はやせ細り使い物にならなかった。中国人を番号で呼び、手まねで仕事を教えたという(『中国人被爆者・癒えない痛苦』一八三頁「支援する会冊子」一八頁)。

市民グループの調査では、安野に連行された人のなかには帰国後に反革命罪で銃殺された人や台湾に送られたままの人もいたという。

津浪には第三中隊の収容所がおかれていた。収容所跡地は現在では水田となっているが、区画はほぼ当時の形を残していて、ここに収容所があったことを知ることができる。連行された中国人はここから二〇〇メートルほど先の隧道掘削工事に動員され、ズリを外に運び出す仕事などを強いられた。

中川実雄さんは一九四四年八月から一二月にかけて津浪の収容所の監視員だった。中国人を下関まで西松組一人、監視員二人の計三人で引き取りにいった。下関で一泊し、貨車とトラックで安野に連行した。収容所は中央が通路で両側が寝床だった。監視員一人と警察官一人が常に見張っていた。朝夕二回広場で点呼をとって人数を確認した(「支援する会冊子」一七頁)。

香草の神社の横には第2中隊の収容所がおかれた。栗栖薫さんは現在八二歳であるが、父がこの収容所の監視員とされたことから、みずからも収容所に行き、監視員詰所に泊まったことがある。栗栖さんは現地で収容所の図面や中国人が梁に吊るされて制裁をうける絵などを示しながら、次のように話した。

自宅内には吉田組の工事事務所がおかれ、家の近くを通って中国人が仕事に行く姿も見た。川上という男が中国からついてきて警察や現場との連絡をしていた。粗末な建物で、マントウのみで食事も悪かった。数か月で体力をなくしていた。仕事場は2か所に分かれ、ズリを運び出す仕事などをさせられ、トロッコで外に出す仕事もした。びしょ濡れになっての仕事であり、一二時間労働したらそのまま寝るという状態だった。人間としての扱いではなかった。朝鮮人がダイナマイトや削岩機などを使って隧道の掘削をおこない、近くに四〇人ほどの朝鮮人の集団の仕事場があり、その飯場もおかれていた。

裁判では、栗栖さんは陳述書を書いている。そこで事業場報告書の宿舎図については、実際には病室や窓はなかったとし、事故の状況や当時の非人間的な仕打ちについて記している(「正義と公道二」八六〜九〇頁)。

隧道内で肩を骨折したり、トロッコが転倒したりと事故も数多く起きている。この現場でのトロッコの運搬中の事故については宋継堯さんの証言がある。宋さんは一六歳で国民党の遊撃隊に参加して日本軍の捕虜となり、安野に連行されている。一九四五年三月ころ、空腹での長時間労働が続き、五号トンネルで夜勤のときにトロッコを押して外に出た。下り坂のカーブでブレーキが利かず脱線し崖下に転落した。宋さんはトロッコと共に投げ出され、目には砂がたくさん入った。その後、両目が腫れて発熱したが、治療を受けることができず、失明した。失明により帰国したが、その後の生活も困難を極めた。(「正義と公道二」一三〜二一頁)。

今回の現地見学に参加した劉宝辰さん(元河北大学)は、宋さんが下関で自らの手で腫れた右目を絞り出してつぶしてしまったという証言を紹介した。劉さんは中国現地での調査をすすめ、裁判では安野中国人労工調査の意見書を提出している(「正義と公道二」五二〜七二頁)。

宋さんの事故の状況については潘洪元さんの証言がある。潘さんも国民党の遊撃隊に入り日本軍の捕虜となっている。安野へと連行され、香草の収容所に入れられた。吉田の下の現場監督に殴る蹴るの暴行を受けた(「正義と公道二」四六〜五一頁)。

今回来日した遺族の名票をみると、帰国後一九五〇年までに若くして死亡した人も多く、安野での過酷な労働が原因とみられる。

土居には滝山川ダムが建設された。ここから取水して隧道に流し込み、安野発電所に送った。滝山川ダムの対岸には第四中隊の収容所がおかれた。

五人の原告のひとり、邵義誠さんは第四中隊に入れられた。邵さんの父は「満州」の炭鉱へと連行され、行方不明になっている。邵さんは青島で歩いているところを捕えられて監禁され、日本に送られた。毎日一二時間収容所前の川のなかで採石の仕事を強いられた。一二月頃には疥癬になり働けなくなった。治療もされずに放置され、食べ物は半分に減らされた。一九四五年三月には働けなくなった者とともに中国に帰された。家に着くと家族はバラバラになっていて,八年にわたる流浪の生活を強いられた(「正義と公道二」三二〜三七頁、「支援する会冊子」一四頁)。

呂鳳元さんは連行されて第四中隊に入れられたが、一ヶ月半後の九月二二日に「腎臓炎」で死亡したことされている。生存者によれば、治療を受けることもなく亡くなったという。呂さんの遺骨は、解放後に火葬場で発掘されて善福寺に安置され、一九五八年に中国へと送られた。遺族がその現場に立ち、話を聞き、当時の状況を全身で受けとめる。

安野の現場から逃走する中国人もいた。郭克明さんによれば、郭さんは連行されて二カ月ほど経った夜、王金貴とともに逃走し、広島の町に着いたところで逮捕された。西松組のトラックに乗せられ、制裁を受けた。監督たちは指に細い竹を挟んで力一杯に手を握り締めたり、太い棒を敷いて正座させ、火のついた煙草を背中に入れたりした。加計署に連行され、一八日間拘留され、厳しい取り調べを受けた。釈放されると、坪野の第一中隊の広場に集められた全中国人の前で、大隊長の命令で中国人によって殴られた。四つんばいにされて、太い棍棒で腿を殴られて気絶した。その後見せしめのために広場を引きまわされたという(「支援する会冊子」一三頁)。

安野の現場は、強制移送と奴隷化、暴力と侮辱、逃亡と逮捕、拷問と見せしめ、抵抗と被爆死、帰国後の流転そして家族の離散と、連行された人々や家族の苦しみと悲しみの歴史を物語る。

ダムの取水口へと音を立て、渦を巻いて水が取り込まれ、隧道にむかっていく。そのような強制連行・強制労働の現場を歩き、遺族一人ひとりが、ここで労働を強いられた人々の物語に思いを馳せる。遺族が頭に大きなけがをしたと祖父が語っていたと話す。安野で体調を崩し、帰国後は収入を得ることができず、子どもに教育の場を与えられなかったという人もいる。そのような遺族が安野の現場に立ち、悲しみの歴史を思い起こし、新たな未来について考える。ここは、遺族と市民が新たな平和への意思を分かちあう場でもある。

 安野の中国人記念碑には連行中国人三六〇人全ての名前が刻まれている。碑はその時代の歴史認識の地平を示すものである。労働の現場を歩き、碑を見たある遺族は「逃げて制裁を受けた話は聞いていたが、労工の厳しい実態を知った。当時の技術も知ることができた。碑をみて、悲しく、虚しい気持ちになったが、これからは友人として付き合ってほしい」と語った。このような対話のできる関係が各地で生まれていくこと。それが民衆の平和形成につながっていくと思う。

 ここでは中国人の連行を中心に記した。この安野発電工事と同時期に神野瀬川の発電工事では高暮ダムが建設されている。そこでの朝鮮人の強制労働の実態と同様な状況がこの安野の現場でもみられたであろう。

安野発電工事には八〇〇人を超える朝鮮人が動員されたとみられるが、その実態は不明である。この八〇〇人という数値は、広島県警察部長から内務省警保局長、広島地裁検事正への報告に、一九四五年六月末に連行者を含め八〇〇人が就労と記されていることによっている(内務省警保局「朝鮮人治安維持法違反者検挙調」、朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成五』五六三〜五六五頁)。

この記事によれば、光石の杉本組の朝鮮人労務者世話役の高島尊伊が、飯場頭の徳川立雄や徳川飯場の春山三郎ほか八人の集団移入朝鮮人に意識啓蒙をしたという。その内容は日本の敗戦が必至であり、アメリカは朝鮮を独立させるというものだった。高島は一八九七年に生まれで蔚山出身、二〇歳で渡日し、大阪、京都などを経て、一九四四年二月に世話役になっている。

この六月末の時点では、逃亡した者もあり、連行者数は減少しているはずである。工事状況から、連行者を含めて一五〇〇人以上の朝鮮人が動員されたとみられる。その不足分が中国人連行の形で補われたということなのだろう。

 西松組安野の現場での未払い金の供託についてみれば、退職金二二九件、三万七二一二円五〇銭、貯蓄金五一件、二〇四一円一三銭が一九四六年一一月一三日に広島供託局尾道出張所に供託されている(『経済協力 韓国一〇五 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調』)。この資料の調査によって、少なくとも安野の工事に動員されていた朝鮮人二五〇人ほどの氏名や住所などがあきらかにできるだろう。

西松裁判訴状では西松組の朝鮮・満州・南方での経済侵略について言及している(『中国人強制連行・西松建設裁判 歴史に正義と公道を』九二〜一〇〇頁)。また杉原達「西松建設の中国人強制連行への関与と企業責任について」には、華北での日本の土建企業の工事実態と西松組の主導性、「満州」と日本への中国人の強制連行の共通性、華北労工協会の実態、認可外の拉致などについてまとめられている(「正義と公道二」九五〜一四六頁)。

西松裁判訴状や杉原報告で提起された論点をふまえ、朝鮮人強制連行を含めて日本による強制連行・強制労働の実態と企業の責任についての考察が求められていると思う。

 

参考文献

広島の強制連行を調査する会『太田川電源開発事始』一九九七年

広瀬貞三「太田川水系発電所工事と朝鮮人労働者」新潟国際情報大学情報文化学部紀要 九  二〇〇六年

織井青吾『いつか綿毛の帰り道』筑摩書房一九八七年

県北の現代史を調べる会『戦時下広島県高暮ダムにおける朝鮮人強制労働の記録』一九八九年

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録・中国編』柏書房二〇〇一年

『強制連行と高暮ダム』ふるさと村高暮塾二〇〇一年

「高暮ダムの歴史と証言」『「高暮」村づくりセミナー通信』六 ふるさと村高暮塾二〇〇〇年

『君田村史』一九九一年

『三次市史』近現代通史二〇〇三年

『高野町史』二〇〇五年

『追憶 一二七年の軌跡』君田上小学校2002

ふるさと村高暮塾HPhttp://kannosekyo.com/dam/dam_compulsion.html

「高暮」高暮ダム強制連行を調査する会ニュース

ヒロシマ県北市民運動HP 高暮ダム強制連行を調査する会関係http://www.saizenji.com/page005.html

李実根「差別ではなく共生を」『HIROSHIMA RESEARCH NEWS』第九巻三号広島市立大学広島平和研究所二〇〇七年三月

『広島県在留朝鮮人関係新聞データベース』広島の強制連行を調査する会二〇一二年

強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会『中国人被爆者・癒えない痛苦』、明石書店一九九五年

『中国人強制連行・西松建設裁判 歴史に正義と公道を』中国人強制連行・西松裁判を支援する会一九九八年

『中国人強制連行・西松建設裁判 歴史に正義と公道を2』中国人強制連行・西松裁判を支援する会二〇〇一年

『広島・安野発電所への中国人強制連行』中国人強制連行・西松裁判を支援する会二〇一〇年

杉原達『中国人強制連行』岩波書店二〇〇二年

内務省警保局「朝鮮人治安維持法違反者検挙調」朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成五』三一書房一九七六年

『経済協力 韓国一〇五 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調』大蔵省一九五三年

                              ( 2012.6 )