強制連行・強制労働の実態と今後の課題

                                   

 はじめに

 

 ここでは「強制連行強制労働の実態と今後の課題」というテーマで朝鮮人強制連行について話をします。

連行問題のみならず、朝鮮に対する認識は日本の現状を映す鏡であり、それはこの国の人権と平和の現状を示すものと思います。

はじめに日本での人権運動をみておけば、1970年代には在日の韓国政治犯の救援運動や国籍差別の撤廃運動がたかまりました。1980年代には指紋押捺拒否の人権運動や教科書問題などの歴史認識をめぐる運動が始まっています。1990年代には韓国での民主化を受けての統一の動きや戦争被害者自身の証言を含めての過去の清算をめぐる運動が始まってきたといえるでしょう。

 戦時下の強制連行・強制労働をめぐる問題はこの過去の清算に関わるものであり、その清算の実行は人間の尊厳を確立するとともに、アジアの平和の基礎になると考えます。過去清算を人権・民主・平和の実現のための運動としてとらえる視点が、たとえば韓国の済州島43抗争の真相糾明をめぐる運動の中で提示されていますが、この強制連行をめぐる問題の解決についても同様であると思います。

 このような動きのなかで、過去の清算を求める国際集会も開催されるようになりました。世界人権宣言には、人間はその尊厳と権利において平等であると記されています。連行問題の解決は植民地支配という不平等な関係において侵害された尊厳と権利を回復することであると思います。

 

1 朝鮮人強制連行とは

 さて本題に入り、朝鮮人強制連行についてまとめます。

中国への全面戦争によって19384月には国家総動員法が公布され、翌年7月には国民徴用令が公布されます。このなかで朝鮮人を戦争に動員することも計画されます。6月には中央協和会が設立され、以後朝鮮人の労務動員がおこなわれ、軍務への動員もおこなわれていきます。これらの動員を強制連行とよんでいるわけです。

戦時下の朝鮮人の連行にはさまざまな形態がありました。日本政府と企業は労務動員計画をたてて募集・官斡旋・徴用などの名で連行しています。

当初は19397月から「募集」という形で「労務動員実施計画綱領」によって鉱業や土建現場に連行します。朝鮮各地で集め、現場への連行は9月になります。

19422月からは「官斡旋」の形で「労務動員実施計画による朝鮮人労務者の内地移入斡旋要綱」により、行政の関与が強化されておこなわれ、鉄鋼統制会による鉄鋼関連軍需工場への連行もおこなわれます。すでに鉄鋼統制会は前年12月に15社が連行の打ち合わせをしています。

さらに19449月には「徴用」の形での連行になります。すでに連行されていた人々は、北炭の万字炭鉱の史料では444月ころには現場で徴用適用されているケースもあります。

このほかに小学校を出たばかりの若い女性を女子勤労挺身隊の形で軍需工場に連行しました。また、軍人軍属などの形で軍務に動員し、志願兵や徴兵制によって兵士として連行したり、軍事基地建設用に軍属や軍夫の名で連行しています。軍隊の性的な奴隷として「慰安婦」の名で連行された人々もいます。

 統計の数値からは、日本への労働動員の連行者数は少なくとも約67万人、軍務では約36万人が連行され、これだけでも連行者数は計100万人を超えています。これは主に日本への連行者数であり、朝鮮国内での労働力動員を加えればこの数倍の朝鮮人が戦時期に強制労働を受けたということになります。

 この強制連行を世界史レベルで戦時労働奴隷制の一環としてとらえることはできないかと考えています。

さて、つぎに研究史をみておきます。朴慶植さんが『朝鮮人強制連行の記録』を書いたのは1965年です。朴さんはこの段階で主な連行地を歩き、連行状況をまとめています。1960年から64年にかけて、中国人俘虜殉難者名簿共同作成実行委員会が『中国人強制連行事件に関する報告書』を出したことが、強制連行認識を高めたといえるでしょう。その後に結成された朝鮮人強制連行真相調査団は1972年から75年にかけて沖縄・九州・東北・北海道での調査をおこない報告書を出しています。以後全国各地で強制連行調査がおこなわれていきます。現地では史実として語り伝えられていましたし、1982年の教科書問題も調査の契機になっていったと思います。

各地の運動の交流を目指し、1990年には朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える全国交流集会が名古屋で開催され、以後全国各地10箇所でこの集会が開催されました。その後も連行ネットの形で交流が続いています。

このような調査活動のなかで、強制連行真相調査団や各地市民団体の報告書が出版されています。行政のなかには1994年に『神奈川と朝鮮』、1999年には『北海道と朝鮮人労働者』という詳細な報告書を出したところもありました。逗子、松本、掛川など自治体でも地域での朝鮮人連行に関する報告書を出しています。『戦争責任研究』という雑誌にもさまざまな論文が掲載されています。地域研究としては神戸港の連行調査の記録が『神戸港強制連行の記録』という形でまとめられています(明石書店)。他にも多くの書籍が出版されてきました。最近では山田昭次・古庄正・樋口雄一『朝鮮人戦時労働動員』が出版されました(岩波書店)。この本では強制連行強制労働の実態をさまざまな史料を利用して実証しています

1990年代にはこのように真相糾明の調査がすすみ、他方で戦後賠償・補償を求める中国人や朝鮮人などの裁判が提起されました。史料発掘や証言とともに戦争被害者個人への賠償権の要求が噴出していくわけです。証言のための集会も各地で開催されています。

 全国各地に炭鉱や軍事基地の遺跡、追悼碑、寺院の位牌・遺骨などの連行を示す足跡が残されています。

なお朝鮮人史を描いた映画には、長編の映画『解放の日まで―在日朝鮮人の足跡』(辛基秀1986年)や『百萬人の身世打鈴』(前田憲二2000年)があり、現代の青年像も含めての映画としては『在日』(呉徳洙1997年)があります。

 

2 朝鮮人強制連行の実態から

 

 ●強制連行の定義

このような真相糾明の動きのなかで、その実態が史料や証言などから戦時の奴隷労働の実態が明らかになってきました。

強制連行といってもいろいろな形があります。暴力的・物理的な連行だけではなく、欺瞞や精神的に操作しての動員も強制連行としてみることができます。植民地支配は暴力を構造化させ、民衆を窮迫に追い込みます。甘言による「募集」があれば応じるような内面が形成されます。応じてみると強制労働の現場であり、逃走すれば逮捕されるわけです。また皇民化によって内心の操作を行い、率先して応じる主体も作られていくわけです。抵抗や拒否が強ければ、拉致や処罰や暴力による強迫によって連行することもおこなわれました。植民地からの精神的・暴力的な連行がおこなわれたわけであり、これを植民地からの戦時の強制連行と定義するわけです。 
 この連行によって現場では強制労働がおこなわれました。証言や史料には強制労働実態を示す、隔離と拘束、暴力的労務管理、強制貯金、再契約の強要、逃走の増加と逮捕、未払い金の存在、遺骨の放置といった事例がたくさんあります。

●北海道炭砿汽船の例

 ここで強制連行・強制労働の具体的な事例をみておきます。

北海道炭砿汽船は北海道での植民地開発を担った資本ですが、北海道各地の炭鉱に数万人の朝鮮人を連行しています。北炭は連行する朝鮮人を『チロ』と蔑称し、連行を「連送」と表現しています。

史料から、たとえば19448月分の北海道炭砿汽船への連行を知ることができます。この時期は連行が盛んにおこなわれ、現地での抵抗も激しくなっていった時期です。史料にある統計表から連行状況をみてみましょう。連行は1年を4期に分けて行なっていますが、この8月の連行は第2期目にあたります。

8月に北炭は割当分の2481人を連行しようとしますが、現地の郡での引継数は割当の77パーセントにあたる1911人でした。しかし、引継の27パーセント分にあたる朝鮮人が逃亡します。その内訳は朝鮮内で469人、日本内で50人の計519人です。着山数は結局1392人となり、割当分の56パーセントしか連行できなかったのです。この数値は、連行における郡への集合拒否や逃走などによる抵抗の強さを示すものです。

さらに具体的な連行状況をみてみますと、82日に麗水港を出発した益山郡分連行者では、100人を連行しようとしたのですが、郡からの乗車は51人、さらに朝鮮内で2人、日本内で7人が逃走しています。連行の際の報告では、被連行者が炭鉱労働を極度に嫌っている、査証前での逃亡が多い、そのため補導員と連送人は一睡もしないで警戒した、しかし逃走が続出したと、記しています。

83日の釜山発遂安郡分をみると、郡から90人を乗車させたのですが、朝鮮内で47人が逃走し、半数ほどが逃走ています。

810日の釜山発瑞山郡分の場合、署長・郡守名義で「産業戦士要員」として出頭するように呼び出しても自宅から逃走するものや郡から駅までの8里のうちに逃走するものも多く、このため100人の割当に対し102人を郡に集合させても、引き継ぎの段階では86人となり、そのうちさらに26人が朝鮮内で逃走したとあります。

このように逃走者が増加するなかで、8月の北炭の釜山出張所からの「供出通知表」には現地補導員からの報告をふまえ、郡に斡旋の誠意がない(金提)、面書記に熱意がない、郡や警察は郡まで引率すれば責任は免れるとし逃走防止について関心がない、全員が逃走したい者たち(井邑)、中流以上の階級から徹底的な動員をしない限り残りの募集は困難(論山)などといった表記が続くことになります。

この間の連行において、論山では巡査が殺害され、扶余では面職員にナイフが突きつけられるという事件もおきるなど、朝鮮内での連行への不服従や逃走などの抵抗が高まっていたわけです。北炭への着山率をみると、ここでの着山率は着山人員を割当人員で割ったものですが、前年度第四期追加分については75パーセントでしたが、1944年第一期分は62パーセント、第二期分は56パーセントへと次第に低下しています。

このような状況の中で、北炭の担当者は斡旋から徴用による連行を願望するようになっていったわけです。徴用の適用という強制性を一層前面に出しての連行となるのですが、それでも着山率は低下しています。

       麻生鉱業

次に麻生鉱業についてみてみましょう。

194412月分の石炭統制会勤労部の「炭礦給源種別現在員表」分には当時の炭鉱労働者の数値の統計があります。麻生には飯塚を中心に上三緒・山内・愛宕・綱分・赤坂の各炭鉱があり、佐賀には久原炭鉱がありましたが、9700人の労働者のうち、朝鮮人数は3600人を超えています。このうち3000人ほどが強制連行者です。麻生ではこの当時、4割近くが朝鮮人であり、坑内での労働に従事させられていました。

戦後の厚生省勤労局調査の資料によれば、麻生は1939年から45年にかけて1万人を超える朝鮮人を連行しています。久原炭鉱については連行者の名簿が残されています。19452月の久原炭鉱への慶南梁山郡からの連行者をみると6割ほどが逃走しています。またその後の江原道通川からの連行者をみると10代が多くなり、16歳の少年を採炭の現場に送り込んでいることもわかります。

麻生での暴力的な労務管理については多くの証言があります。1932年の麻生朝鮮人争議のときには暴力の撤廃を第1の要求に掲げています。このような暴力的労務管理は戦時下の強制連行・強制労働のなかで継続し、戦後も多くの遺骨が麻生の炭鉱周辺に残されることになったわけです。現在残されている史料からも、連行期での麻生での朝鮮人死者の数は150人ほどになります。おそらく200人を超える死者があったとみられます。

 ● 三菱鉱業

強制連行は炭鉱鉱山、軍需工場、基地建設関連の現場が多かったのですが、死亡者が多数でた場所は炭鉱であり、基地建設のために南洋などへ軍属の形で連行された人々も多くなくなっています。三井系や三菱系の炭鉱へは多数の朝鮮人が連行されています。先に見た北炭は三井系の炭鉱です。三井は三池炭鉱や北炭の夕張炭鉱を支配し、連行朝鮮人や中国人、連合軍捕虜なども使用しています。

三菱系の炭鉱へも朝鮮人が多数連行されています。連行者数は5万人を超えると推定しています。三菱鉱業には、高島・崎戸・飯塚・鯰田・勝田・美唄・大夕張といった大きな炭鉱があり、雄別なども系列化していました。

ここでは三菱鯰田炭鉱への連行状況と死亡者の状況についてみておきたいと思います。

厚生省勤労局調査「朝鮮人労務者に関する調査」福岡県分には三菱鯰田炭鉱分の名簿があります。この名簿の統計表には3061人分とされ、各年の連行者数が示されていますが、名簿を分析すると、3051人分の連行状況がわかります。またこの名簿から死亡者の名前も50人ほどわかります。石炭統制会史料の「労務者移動状況調」「労務状況速報」などの数値と比べると統制会の数値の方が多いため、厚生省調査名簿は連行者の一部を示すものとみられます。

 三菱の炭鉱についてはこの鯰田炭鉱の資料が連行状況を知るには最も詳しいものです。他には高島・崎戸の厚生省名簿があり、死亡者名簿としては埋火葬関係史料からの美唄炭鉱のものがあります。鉱山関係では生野・明延・細倉・尾去沢などの厚生省調査名簿があります。

 この名簿から三菱鯰田への連行状況についてみてみれば、連行者3051人分のうち1421人が逃亡しています。逃亡率は47パーセントになります。

名簿からは、1939年には全南海南などから70人、1940年には慶南東莱・陜川、慶北高霊などから361人、1941年には忠北槐山・報恩、慶北義城からの203人の連行があったことがわかり、1942年には忠北陰城・槐山・忠州、京畿驪州・利川・楊州・広州・龍仁・蓮川、全北淳昌・金提・井邑・扶安と連行地が拡大し、連行者数も953人と倍増します。   

1943年には、黄海殷栗、江原江陵・麟蹄・襄陽、全北益山・淳昌、全北高敞・井邑、全南霊岩・求礼・谷城・珍島などから681人が連行され、黄海や江原道などからの連行も始まります。

1944年には全南高興・霊光・求礼・咸平・莞島・光山・光州・霊岩、全北完州・金提・益山・井邑、京畿蓮川・始興・加平、咸南永興・文川などから513人が連行されています。徴用の適用によって11月には遠く咸南道からも連行しています。別の資料からは1944年9月に雄別炭鉱から200人が転送されたこともわかります。連行者数は減りますが、1945年には全南求礼・長城・霊光・羅州、慶北尚州、慶南昌原、全北淳昌・益山などから270人を連行しています。この年には7月まで連行がおこなわれています。

このように名簿から連行者数と連行者名を具体的に知ることができます。このなかには在日の雇用者も含まれていますが、ほとんどが連行者であり、戦争末期には在日の労働者も現場で徴用の適用を受けるようになっています。

 死亡者の名簿を作ると35人以上が1944年以降の死者です。1945年に入ると遺骨の送還も行なわれなくなっていきますが、この死亡者名簿を、飯塚市に作られた無窮花堂という朝鮮人の遺骨を収容する追悼堂の名簿と照合したところ、何体かが三菱鯰田の死者の遺骨であることがわかりました。このなかにあった文奎炳さんの遺族が無窮花堂を訪れて遺骨を引き取ったのは2001年のことでした。

 三菱美唄炭鉱に連行され1943年に死亡した具然浮ウん遺族が札幌の寺院にある合葬された遺骨と対面したのは2005年のことです。このように三菱関連での未返還の遺骨の遺族が判明したのは最近のことなのです。これ以外にも未返還の遺骨が多数あります。死者は1944年以後に増加していきますから、戦争末期に返還できなかったものも多かったとみられます。

 

3 朝鮮人強制連行を否定する動き

 

さて、近年、「強制連行はなかった」という宣伝が行なわれています。その宣伝の特徴は、戦争と植民地支配やそのもとでの動員を正当化し、史料や証言を恣意的な解釈によって引用し、史実を歪曲していることです。歴史で大切なことは真実ですが、その史実を自己に都合よく解釈し、史料や証言者の趣旨とは逆の解釈を行なって、歴史を書き換えています。

この人たちは、強制連行はなかったという前提のもとで、「強制連行は虚構・プロパガンダ」、「朝鮮人の被害者性の特権化」、「被害者アイデンティティに人生の根拠と動機」、「日本人の加害者性の強調」、「国民とともに戦ってくれた人々」というようなレッテルを貼り付けます。そして、戦時動員は日本内より穏やか、初期は離脱しても罰則はない、女子は不適用、自らの意思で来た、差別はなく厚遇した、徴用は国民の義務であり不法ではない、などと宣伝しています。

このような宣伝があるわけですが、戦時動員が行われたことは史実であり、逃走すれば各所の警察に手配書が送られ、発見すれば逮捕されました。女子も連行され、中には勤労挺身隊として連行されています。日本人化したこと自体が差別であり、義務を強要したことも同様です。その不法性を理解することがなければ植民地支配と戦争の責任をとることができないでしょう。

このような「強制連行は虚構・プロパガンダ」という宣伝自体が虚構でありプロパガンダです。植民地支配によって大地と民衆が他国によって支配され収奪されたこと、朝鮮民衆が被害にあったことは史実です。植民地民衆を日本の戦争に動員したことも同様です。この事実を踏まえ、真相を糾明し、被害を回復して和解し、アジアの共同を形成していくことが大切であると思います。史実を認知しない行為はアジアの間の対立を増幅させるだけであり、民衆の利益にはなりません。

連行は精神的操作と物理的圧力の両面の支配によっておこなわれました。その精神性への侵害を理解し、きちんと歴史に語り伝えることが再発の防止になると思います。

 

4 韓国の真相糾明の動き

 韓国内では1980年代末から、遺族による真相糾明の運動が高まっています。1990年代には裁判に立ち上がり、多くの証言がでました。このような動きは21世紀に入り20042月には日帝強占下強制動員被害真相糾明に関する特別法が成立させます。この法により200411月には真相糾明委員会が発足しました。この委員会は20052月から6月にかけて第1次申告を受け付ましたが、ここには20万件あまりの申告が出されました。この申告をふまえ、被害者の実態調査と被害認定をおこない、遺骨を発掘・収集し、内外の関連資料の収集をおこない、慰霊施設を建設するという活動がすすめられています。死亡状況が判明せずに戸籍の整理が今もってできていないケースもあり、未返還の遺骨もあるのですが、そのような状態を解決しようというのです。

このような過去の清算を求める動きは、「東学農民革命軍の名誉回復に関する特別法」「韓国戦争前後民間人犠牲事件真相糾明および名誉回復特別法」「日帝強占下親日反民族行為真相糾明特別法」といった過去清算関連法の制定と併行してすすんでいます。この動きの背景には、光州事件、済州島43抗争などの真相糾明と名誉回復をすすめてきた韓国社会での民衆運動の蓄積があります。ここには過去の清算をひとつの運動としてとらえ、それによって人権と平和と民主主義を確立していこうとするうねりがあると思います。この動きは歴史を民衆自らが獲得していくものです。

この動きに連動する形で、日本では真相糾明に関わってきた人々の協力で2005年7月に強制動員真相究明ネットワークが結成されました。政府による埋火葬関係書類の調査指示や寺院による遺骨調査もおこなわれるようになりました。

「朝鮮人強制連行はなかった」といくら宣伝しても、連行をおこなったという企業史料があり、すべてではないのですが連行された人々の名簿や死亡者名簿があり、なかには遺骨も返還されていないものもあるわけです。また連行者の逃亡や指名手配の史料があるわけですから、史実を書き換えることはできないでしょう。歴史の偽造や歪曲は信義に反する行為です。それは被害を受けた人々の尊厳を再び踏みにじることになります。

ここで七三一部隊によって特移扱という名の連行によって生体実験の材料とされた人々について付言すれば、遺族調査がおこなわれたのは最近のことです。平房の記念館の壁には被害者の名前や連行状況を刻み込み、展示するようになりました。このように日本軍による戦争犯罪による被害者一人ひとりの復権は始まったばかりなのです。ベルリンの街角にあるように、連行された死者の名を路上に刻み込んでいくような追悼の表現などからも学ぶことは多いと思います。

 

5 関東地域での強制連行の特徴

 ここで関東地域での強制連行先についてその特徴をみておきましょう。

2005年に「強制連行期朝鮮人強制労働現場全国一覧表」を作成しましたが、関東地域では、京浜の工業地帯の軍需工場・造兵廠、このなかには日本鋼管・日立・三菱・古河・東芝・石川島や製鉄製鋼の工場、中島飛行機関連の工場もあります。また、常磐炭田、足尾・日立などの鉱山、日本発送電の神奈川や群馬での工事、戦時疎開のための京浜周辺地帯での地下工場建設、東京・横浜の港湾、日通や国鉄の運輸の現場、茨城・栃木・千葉などの軍飛行場の建設、横須賀海軍基地関連の工廠や施設部・設営隊、地下施設建設現場などが主な連行先です。農業報国隊として短期間連行される、あるいは軍の農耕隊として連行された例もあります。海軍関連で「慰安婦」として関東地域に連行されたという証言もあります。

名簿類については、厚生省勤労局の栃木県・茨城県の連行者名簿がありますが、連行現場のすべてが含まれているわけではありません。関東地域での連行期の死亡者の状況については不明の箇所が多いのが現状です。東京での空襲死者についても一部が最近判明したところです。

 

6 今後の課題

 ここで今後の課題についてまとめます。

日本の各地には戦時下での強制労働現場が1500箇所以上あります。各地での調査がすすめられ、そのような現場を国際的な友好の場へとしていくことが求められると思います。過去を正しく見ることが国際的な信用につながると考えます。新たな名簿類の発掘や被害者名簿の作成も求められます。

韓国では被害の申告が多数出されていますが、そのような被害状況がデータベース化され共有できるような環境が整えば、日本での真相糾明もさらにすすみます。それが被害者の尊厳回復に向かう動きにつながり、そのための立法もすすむと思います。

 連行者名簿の作成と公開が真相糾明の前提になります。また連行に関するオーラルを民衆史の資料としての集約していくことも求められます。その一覧化も調査にとって必要なものになります。

 軍人軍属関係名簿が日本政府から韓国政府に渡されていますが、これらの名簿類の分析が南洋・北洋方面への連行の分析には不可欠です。歴史史料としての公開が求められます。

 これまでにさまざまな史料が発掘されています。一部の史料は研究者の手元に会ったり、閲覧がなかなかできない場所にあったりします。それらの史料の公開や出版が求められます。特に北海道炭砿汽船の史料には連行状況を明確に示す資料が多数含まれています。大学図書館にも連行関係の史料があります。これらの史料の公開も求められます。

政府の持っている供託名簿や保険名簿、貯金名簿、企業が持っている殉職者名簿や雇用関係名簿、保険関係名簿の公開も求められます。公開することが政府と企業の名誉回復につながると考えるべきです。

 残存朝鮮人遺骨に就いても政府レベルでの調査と真相糾明が求められます。行政が所蔵している埋火葬関係資料の調査と公開も必要ですし、それによって朝鮮人遺骨の返還もすすみます。人権保護を理由に公開を拒むのではなく、60年以上前の人権侵害の回復、真相糾明と和解にむけて、公開こそが人権保障につながるという視点を持つべきです。

 最後に、企業・政府による賠償基金の設立が求められます。裁判では、過去のこととして史実の認知をせず、時効や除斥の名で賠償を拒否し、別会社や国家無答責を語ってその責任を回避する姿勢が目立っています。和解・共同の作業として政府と関係企業は賠償基金を設立し、その責任を果たすべきと考えます。

 ドイツでは1996年に憲法裁判所が賠償を可能とする判決を出しました。1998年にはアメリカでドイツ系企業への集団訴訟が起こされます。このような運動の末に20008月には政府と企業が折半しての『記憶・責任・未来』基金の拠出が始まり、2003年には6500社が参加しました。このような基金の設置から学ぶべきことも多いと思います。ドイツ企業は法的な責任を認めていませんが、日本企業は歴史的責任をふまえ、さらに法的な責任も認めて基金を設立すべきと考えます。

 

 

おわりに

最後にこの強制連行の真相調査の意義について話します。

戦時下の植民地からの民衆動員による強制労働は人道に反するものであると考えます。それゆえに真相は現在に至るまで明らかにされてこなかったのです。敗戦時に名簿類を処分したりしたのはその隠蔽にほかなりません。この真相の追及は社会的公正と正義の実現であると考えます。これは社会的倫理の視点です。真相解明の条件は冷戦以後の民主化の中で、現在になって整備されてきました。

この真相糾明は戦争を被害者の側から捉えるとともに人間の尊厳の回復につながるものです。これは人間を尊重し権利と尊厳を回復していくという人権の視点です。

 この問題は民衆基層からの歴史認識を形成するものであると考えます。働くものの立場にたっての作業ですから、国際的階級的な視点も求められると思います。

さらにこの問題では、戦争被害者への個人賠償権の確立が必要です。この権利の確立は戦争の再発防止につながり、加害の認識を深めます。これは政治的・道義的・法的な責任を含めての歴史的責任の視点であると考えます。 

 日本での戦争被害者補償関連裁判の判決では被害者側の敗訴が多く、たとえば在外被爆者訴訟の判決記事では「日本の良心この程度か」(2006613日『中日』)といった見出しが目に入ります。このような状況を変え、良心のある国、道義の高い国と国際的に評価される国にしていくことが求められます。

韓国では近年『シルミド』や『ブラザーフッド』という映画が制作されました。ともに過去を見直す意図によるものでしたが、このような映画が製作されてきた背景には、過去清算の運動が新たな社会運動として登場してきたという歴史があると思います。この動きの歴史的意義を踏まえながら、強制連行・強制労働の問題についてもその問題の解決を通して、アジアの人権と平和の基盤を、国境を越えて作っていくことができるのではないかと思います。そのような動きは在日コリアンの人権拡充にもつながるものと思います。

 

KMJ主催、第8回在日コリアン人権啓発
      東京セミナーでの発言
(20066)20073月補記・竹内)