南洋への海軍軍属としての連行
はじめに
一九九三年八月、アジアを考える静岡フォーラム(FAS)訪韓団は全羅北道扶安郡からラバウルへと強制連行された人々の聞き取り調査をおこなった。その際、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会全州支部から全羅北道分の「被徴用死亡者連名簿」の提供を受けた。
ここではこの名簿を分析し、南洋へと連行された人々の証言をまとめるとともに、扶安郡からラバウルへと強制連行された人々の証言から、連行前後、ラバウルでの生活、解放後の状況などについて分析し、南洋への朝鮮人海軍軍属の強制連行の実態を明らかにしたい。
日本の侵略戦争の拡大により、日本海軍は太平洋各地での軍事基地建設のために数万人の朝鮮人を軍属として徴用した。これらの人々は「海軍作業愛国団員」等の名で、海軍の建築部・施設部・設営隊などに入れられた。かれらは太平洋各地へと連行され、軍務を強いられた。
戦後、政府(厚生省)が示した数字によれば、朝鮮人軍属としての連行者数は約一四万五千人である。この一四万五千人の中には「南方」へと軍要員として連行された約三万六五〇〇人がいる。これらの人々が朝鮮から連行されたのは一九四一年から一九四四年の間である。年度毎の連行数をみれば、一九四一年九二四九人、一九四二年一六一五九人、一九四三年五二四二人、一九四四年五八八五人であり、計三万六五三五人となる(大蔵省『日本人の海外活動に関する歴史的調査』、海野福寿・権丙卓『恨・朝鮮人軍夫の沖縄戦』九六頁)。
一九四二年の連行者が多いことがわかる。これは、日本がアジア太平洋諸地域で戦争を拡大して軍事基地建設をおこなったからである。
軍属にはさまざまな形態があった。「海軍作業愛国団」としての最初の派遣は一九四一年一二月に決定された。二回目は一九四二年七月であり、この形での派遣は四三年までおこなわれ、三万二千人以上が連行された(樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』一七六頁〜)。かれらは国民徴用令の適用を受け、軍属扱いとなった。「海軍作業愛国団」員は海軍施設部に組み込まれて、工員扱いとされた。
朝鮮総督府鉱工局勤労動員課「内地樺太南洋移入朝鮮人労務者渡航状況」一九四四年一二月には南洋への「工場他」の連行数として、一九四〇年八一四人、一九四一年一七八一人、一九四二年二〇八三人、一九四三年一二五三年の計五九三一人分の数値がある(山田昭次・古庄正・樋口雄一『朝鮮人戦時労働動員』六九頁)。連行された人々の具体的な労働現場についてはわからないが、これらの人々も連行され、軍事基地建設などに動員されたとみられる。
一「被徴用死亡者連名簿」(全羅北道分)の分析
一九七一年に日本政府から韓国政府に渡された「被徴用死亡者連名簿」からこの海軍軍属としての連行の実態をみてみよう。この死亡者名簿は日本の厚生省の原簿から作成されたものである。
「被徴用死亡者連名簿」には、陸海軍合わせて二万一九一九人分の朝鮮人の軍人軍属の死亡者の記載があるという。そこには朝鮮半島から連行された人々の階級・氏名・生年月日・部隊名・死亡年月日・死亡場所・死亡理由・本籍・連絡先などが記載されている。全羅道と慶尚道分の海軍関係の死亡者数をみると、全北二三五四人、全南二八九二人、慶北一六九三人、慶南一七四九人分がある。
ここでは全羅北道分の名簿から海軍軍属としての強制連行についてみていこう。
全北出身の海軍軍人・軍属の死者二三五四人のうち軍人は二〇人であり、死者のほとんどが軍属として徴用(強制連行)された人々である。このなかには労働者として徴用され、攻撃されて死亡したために軍属として扱われている人もいるだろう。軍属死者は二三三四人となる。
この名簿から配属部隊と死者の多い地域をみてみよう。
第四海軍施設部〜パラオ・タラワ・ブラウン・ウェーキ・クェゼリン・トラック・マリアナ近海・南洋諸島近海、他
第八施設部〜ラバウル
第五建築部(施設部)〜サイパン
第一五設営隊〜ニューギニア
大湊施設部〜北千島・北太平洋・浮島丸
横須賀施設部〜硫黄島
佐世保施設部〜九州各地、他
在日朝鮮人を含め、徴用された人々が編入された設営隊名と主な連行先(死亡地)をみると以下のようになる。
第一一一設営隊〜タラワ
第一〇三設営隊・第二一九設営隊〜ルソン
第二一二設営隊〜ニューギニア
第二一三設営隊〜ラバウル
第二一四設営隊〜ペリリュー
第二二三設営隊〜サイパン
第二二五設営隊〜ダバオ
第二二六設営隊〜サイパン、沖縄
このように太平洋各地へと連行されているわけであるが、各地での死亡者数と死亡者の多い年月日をみてみると、次のようになる。
パラオ〜約二七〇人・一九四四年八月八日、
タラワ〜約一七〇人・一九四三年十一月一五日、
ブラウン〜約一三〇人・一九四四年二月二四日、
ウェーキ〜約七〇人・一九四三年一〇月六日、
クェゼリン〜約五〇人・一九四四年二月六日、
トラック〜約四〇人、
マリアナ近海〜約四〇人・一九四三年五月一〇日、
南洋群島近海〜約四〇人・一九四三年一月十三日、(第四施設部他)。
ニューギニア各地〜約四〇〇人・一九四二年十二月〜一九四三年一月、ギルワで約二〇〇人、ブナで約一〇〇人、(第一五設営隊関係)
ラバウル〜約二〇人(第八施設部)
サイパン〜約二五〇人・一九四四年七月八日(第五施設部他)
沖縄〜約二〇人・一九四五年六月(海軍司令部・二二六設営隊)
北千島近海〜約三六〇人・一九四四年九月一六日
北太平洋上〜約一〇〇人・一九四四年一〇月二五日
浮島丸事件五七人・一九四五年八月二四日(大湊施設部)
このほかに動員によって死亡した地域をあげると以下のようになる。
ソロモン・メレヨン・ブーゲンビル・ビゲロット・グァム・テニアン・ニュージョージア・ペリリュー・ナウル・ビスマルク・ヤルート・ジャワ・シンガポール・ネグロス・ダバオ・八丈島東・父島北方・中部太平洋・横須賀・東京・台湾、他。
徴用された船と共に死亡した人々も多い。名簿から徴用船の名称をあげれば、第六横浜丸・第六大星丸・日通丸・河南丸・日若丸・海沢丸・ありた丸・萩川丸・第十一高砂丸・日満丸などがある。多数の船が徴用され、攻撃を受けて死亡者が出ている。
全北から軍属として連行され死亡した人々のうち、八割が南方であり、二割が北方である。連行途中での攻撃により沈没したり、解放後に浮島丸事件で死亡した人々もいる。日本軍の「玉砕」にともない、集団死を強いられ、戦後も遺骨が収集されずに放置されたケースも多い。
全羅北道の「被徴用死亡者連名簿」から、陸軍軍人軍属として徴用され死亡した人々についてもみておけば、死者数は四七二人である。なお、全南は一二六〇人、慶北は一〇八三人、慶南は一一〇九人である。
全北の陸軍死者のうち約二〇〇人はニューギニアで死亡している。他の死亡地と死亡者数はフィリピン約五〇人、ビルマ約四〇人、中国約三〇人、台湾約二〇人、樺太約一〇人である。ニューギニア戦線へは歩兵七八・七九・八〇連隊、野砲二六、?重二〇・工兵二〇連隊へと編入された朝鮮人の死者名がわかり、歩兵七八連隊の所属者は九〇人近くが死亡している。
なお、林えいだい『証言集朝鮮人皇軍兵士』にはこのニューギニアの部隊に連行された朝鮮人兵士の証言がある。また、ニューギニアへと連行され捕虜とされた朝鮮人の写真が森山康平編『米軍が記録したニューギニアの戦い』にある(三八頁)。
二 南方への朝鮮人軍属の連行
一九九〇年代には、アジア各地から日本政府に対し侵略戦争とその戦争犯罪の事実を認めさせ、謝罪と補償を求め、歴史に伝えていこうとする動きが高まり、戦争被害者の貴重な証言も得られるようになった。
「被徴用死亡者連名簿」にみられる連行先での実態について、それらの証言からマーシャル諸島やギルバート諸島など南洋への強制連行の状況についてみてみよう。
朴鍾元さんと高在龍さん(ともに全羅南道)は一九四二年二月、「一年契約月給一三五円」という甘言で集められ、三月にマーシャル諸島ミレ島に連行された。光州駅に五〇〇人があつめられ、横須賀から一五日かけてミレヘと送られた。日本兵一五人と朝鮮人一二五人がチェルボン島へと分散させられたが、朝鮮人二人が行方不明となり、人肉が「クジラ肉」として出された。それを契機に反日反乱が発生、朝鮮人一一〇人が殺され、一五人だけが生き残った(『アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件訴状』七三頁〜、七六頁、以下『韓国補償訴状』と略)。
同時期の一九四二年三月、鄭吉采さん(全羅南道)もマーシャル・ミレヘと連行された。そこに一〇〇〇人以上の朝鮮人がいて、三六班に編成された。空襲や艦砲射撃によって三分の二が死亡した。鄭さんらは無人島へ分散させられたが、反乱を起こす。約五〇人が殺され、四〇人ほどが生き残った(『朝日新聞一九九一年八月一八日付記事』)。
マーシャル諸島ミレへは一九四三年二月に文炳煥さん(全羅南道)も連行された。釜山に四〜五〇〇人があつめられ、アルゼンチン丸に乗り、トラック島を経て、ミレヘと着いた。日本人二人、朝鮮人六人が小島へと分散させられた(『韓国補償訴状』七二頁)。
マーシャル諸島ミレでは朝鮮人軍属が人肉とされた。それを契機に蜂起したが、弾圧によって多くの朝鮮人軍属が殺されたのである。
一九四二年七月、鄭商根さん(済州島)はマーシャル諸島ウォッチェ島ヘと連行された。そこで右腕を失った(『読売新聞』一九九〇年一二月二一日付記事)。石成基さんも一九四二年にマーシャル諸島ウォッチェ島ヘと連行され右腕を失った(『東京新聞』一九九二年八月一四日付記事』)。鄭さんや石さんは障害への補償をもとめて裁判をおこした。
マーシャル諸島エニウェトク(ブラウン)環礁についてみてみよう。
一九九一年夏、エニウェトクでの朝鮮人の死亡者名簿が新聞紙上で公開された(『朝日新聞』一九九一年七月三一日付)。その二三五人の朝鮮人名簿をみると、全羅南道求礼郡、麗水郡、順天郡、全羅北道井邑郡、南原郡、全提郡、鎮安郡、完州郡の出身者が多い。エニウェトク環礁ヘの連行年月は死亡者名簿によれば一九四二年一一月である。これらの地域からの大量の連行と死亡がわかる。このエニウェトクでの朝鮮人死亡者名簿には全北分が一三九人分あったが、全北の「被徴用死亡者連名簿」でのエニウェトクでの死者は一三一人であり、ほぼ重複する。名簿が公表されるまで、どこへ連れて行かれたのか、生きているのか死んでいるかも分からないケースも多かった。
証言には李潤宰さん(全羅北道)のものがある。李さんは一九四二年一一月に金提郡から集団で徴用され、釜山から箱崎丸に乗ってマーシャル諸島エニウェトク(ブラウン)環礁エンチャビ島ヘと連行された。そこには約九〇〇人の朝鮮人が連行されていた。一九四四年一月末の戦闘で、日本軍は「玉砕」、朝鮮人軍属もほとんどが死亡した。李さんは生き残り、捕虜となった(『韓国補償訴状』七八頁)。
マーシャル諸島クエゼリン島でも多数の朝鮮人軍属が死亡した(『朝日新聞』一九九一年八月六日付(夕)記事』)。
ギルバート諸島タラワ環礁では朝鮮人軍属約一五〇〇人が死亡、生き残ったのは数少ないという。劉喜亘さんらのタラワ・マキン島ウリ同胞犠牲者遺族会の名簿は呉海軍第一一一設営隊戦没者名簿からのものである。『被徴用死亡者連名簿』全北分には第四施設部関係のタラワでの一四九人分の死亡者名がある。さまざまな名簿からの総合調査が求められる。
ギルバート諸島マキン環礁ブタリタリ島では朝鮮人軍属二〇〇人が「不穏な動き」を防ぐために半地下の薬庫に押し込められ、半数が死亡することになったという(佐藤和正『玉砕の島』五一頁)。
趙鍾萬さん(忠清南道)は一九四一年九月ころ、「海軍作業愛国団」の一員としてトラック島へ連行された。そこで石油タンクや飛行場建設に従事した。強制貯金は末払いのままである(『韓国補償訴状』四二頁〜)。
サイパン島では連行された二〇〇〇人ほどの朝鮮人軍属の半数近くが死亡、一三〇〇人が生き残ったという(桜井均『ミクロネシアリポート』六九頁)。全北『被徴用死亡者連名簿』には二五一人分の死亡者がある。
硫黄島でも一〇〇〇人の朝鮮人軍属が死んだという。全北『被徴用死亡者連名簿』には硫黄島での死亡者七人の名がある。所属は横須賀施設部の軍属となっている。
在韓軍人軍属裁判の原告にも南洋への連行者や遺族が含まれている。たとえば、張根寧(トラック諸島)、張在洛(第4海軍建築部・トラック諸島)、梁泰萃(二一四設営隊・ペリリュー島)、金鎮豊(ペリリュー島)、尹三炳(ペリリュー島)、高明徳(パラオ)、蔡奎天(パラオ近海)、車順敬(海軍作業団・ラバウル島)ほか多くの人々が、日本政府に対して靖国への合祀の中止、遺骨や未払い賃金の返還、謝罪などを求めている。
沖縄には一九四四年七月には、たとえば慶尚北道慶山郡から三〇〇人が軍夫として連行された。沖縄戦を含め各地での朝鮮人死亡者の総合的な調査も必要だ。
浮島丸事件の死亡者名簿(全北分は五七人)と死亡者連名簿の数とは一致するが、出所が同じだからだろう。なお、二〇〇七年になって、韓国での真相糾明調査によって日本政府が作成した浮島丸死亡者名簿の中には生存者が含まれていたことが報道された。
陸軍によって一九四二年五月には、俘虜監視員の「募集」がおこなわれた。釜山の野口部隊には約三二〇人があつめられた。人々は炭鉱労働や兵士として前線に出されることを逃れて応じたという。二ヵ月間の「教育」(軍事訓練)がおこなわれた。その後「南方」へ派遣され「俘虜監視」の仕事をさせられた。戦後は「BC級戦犯」とされ、天皇の軍隊の責任をとらせられた人々もいた(『韓国朝鮮人BC級戦犯者の国家補償等請求事件訴状』)。捕虜監視員とされ連行された朝鮮人は三〇〇〇人を超えた。
以上のような証言や記事の例からわかるように、南洋方面へと朝鮮人が次々に強制連行された。かれらは軍属とされ土木建設労働で酷使され、その賃金は強制貯金されて支払われずに、「皇国民」として日本軍と共に「玉砕」という名の集団死をも強いられた。戦後の国交断絶下、その生死や連行先が家族に明らかにされなかった例が多く、さらに戦後の国籍差別条項によって補償の対象からも除外されてきた。軍人軍属だった在日外国人への一時金支給が始まったのは二〇〇〇年になってのことだった。真相糾明と尊厳回復の要求は絶えることなく人々のなかにあったのである。
三 全羅北道扶安郡からラバウルヘの強制連行
つぎに全羅北道扶安郡からラバウルヘの強制連行について具体的にみていこう。
一九四一年末、アジア太平洋地域への侵略戦争の拡大は朝鮮人の強制連行を更にすすめることになり、連行先も太平洋地域へと拡がった。土地と産物の略奪に加え、戦時の徴用・徴兵による人間の収奪がすすめられ、甘言や強要によって朝鮮人を連行していった。
たとえば、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会全州支部長の成興植さんの場合、旧「満州」へと軍属として連行された。兄四人とおじ二人は北海道・九州の炭鉱や南方へと連行され、戦後次々に亡くなり、母、兄嫁は戦後の苦境のなかで餓死したという。
南方への連行もすすめられ、一九四二年に全羅北道扶安郡からのラバウル強制連行もあった。ラバウルへと連行された金飛虎さんら全羅北道扶安郡の人々からの聞き取りによれば、連行状況は次のようになる。
一九四二年五月、面役所に告知が出された。それによって七月に徴用された人々はほとんどがソロモン群島で死んだ。一九四二年七月にも告知が出され、金飛虎さんら扶安郡の四四人が一一月末に出発することになった。一九四二年は海軍軍属の徴用が増加した時期である。トラック、マーシャル、パラオ、ニューブリテンなど、南洋各地へと労働力として朝鮮人が強制連行された。金さんらはこの連行に組み込まれたのである。
強制連行はさまざまな形でおこなわれた。扶安郡の人々に対し、「給与がいいし、場所もいい」と繰り返し甘言で勧誘したり、「軍隊に徴兵されるより軍属の方がいい」と誘導したり、「兄弟に迷惑がかかる」と割り当てを強要したり、「徴用の対象になった」「来い」と連行したり、村の祭礼で踊っている最中に連行している。当時、労務動員による強制連行が常態化していたが、さらに軍属への応募が強要されるようになった。徴用に応じなければならない状況へと追い込まれていったのである。
李南基さんの場合、結婚してわずか半年、一八歳のときに徴用係に連行された。金愛己さんの場合、村の祭礼の際に連行された。生還できたが、体の三ヵ所を負傷していたため、就労できる体ではなかった。多くの人々が「給与がいい、場所もいい」という甘言で徴用され、「軍隊や炭鉱よりも」という思いで応募させられた。割り当てに応じるよう誘導されたのである。
徴用によって、金飛虎さんらは一九四二年一一月二三日に扶安郡庁に集められた。そこで行進訓練などもおこなわれた。郡庁から新泰仁の駅にむかい、釜山行きの汽車に乗った。白南軫さんによれば、汽車のなかで「今日から皆さんは日本軍人です。天皇陛下のために忠誠を尽くさなければならない」といわれ、皆動揺したという。行き先は告げられなかった。連行されるときには「一年間の契約、給与は月一〇五円」といったが、それは守られなかった。
釜山駅に降りると、各地から集められた人々が倉庫のなかにいた。釜山では日本軍の厳しい監視下におかれた。不審な行動をすれば殴られた。食事は握り飯ひとつだった。寒風のなか一列になって「白山丸」に乗船した。このとき約三〇〇〇人が連行された。一一月二六日に釜山を出発し、日本の港で三池の石炭を三日間かけて積み込み、一二月三日に日本を出港、一二月九日にトラック島に到着して約半数が下船した。一二月一二日にトラック島を出発し、一二月一五日ラバウルに到着した。到着して初めて、そこがニューブリテン島のラバウルであると教えられた。
「一〇五円の月給」ということだったが、ラバウルで支払われたのは「小遣い」の五円だけだった。その他の給与は強制貯金された。「小遣い以上は必要ないので貯金をし、帰るときに支払う」というのである。貯金通帳は示されず、貯金番号も知らされなかった。貯金総額は1人当たり四〇〇〇円ほどになるが、それらは支払われなかった。ラバウルでの生活は「金よりも命を守る」ことになった。
ラバウルで金さんらが配属されたのは吉崎部隊であり、のち部隊長がかわり奥村部隊となった。部隊番号は「ウ−一〇五−四五」であり、この番号の下に「七○○」と個人の番号がつけられた。七〜八〇〇〇人の隊員のうち韓国人は三分の一ほどだった。吉崎部隊は海軍の施設部隊であった。この部隊は海軍の土木建設を担う部隊であり、総務、土木、運輸、建築の大隊で編成されていた。日本人が徴兵されると、朝鮮や台湾など植民地の労働力が軍務労働に投入されたのだった。金さんらは軍属(工員)として部隊に編入された。
ラバウルで金さんらは、飛行場建設、石油タンクの地下施設建設、上水道工事、ポンプ番、炊事仕事、武威谷での疎開施設の建設、自給用農作業などに従事することになった。
李漢基さんは陸軍所有のヤシの木に手をつけたという理由で、スコップの木部で殴られた。今も体に傷が残る。崔斗洪さんは地下壕作業中に空襲を受け、のどに被弾して入院した。その傷跡が残っている。
ラバウルでの生活は、負傷し、病気で苦しみ、ときに自殺を考えるという日々だった。一九四三年末に一年の満期を迎えたが、空襲ははげしさを増し、交通は途絶え、帰国を要求しても帰ることはできなかった。
食糧は不足し、医療品も途絶え、空襲や病気によって死傷者が増加した。病気で多かったのは脚気やマラリアだった。山林を伐採してさつまいもを作り、木や草の皮を食べて飢えをしのいだ。
崔順九さんによれば、一九四四年七月頃からは食糧や医療品が不足し、ヤシの水の注射や薬草エキスを利用した。栄養失調で死んでいった軍属が多かったという。
一九四五年八月一五日、金飛虎さんらはラバウルで解放を迎えた。九月にはラバウルの南飛行場の修復や東飛行場での雑役に従事、一〇月には採石場での労働に従事した。韓国人軍属の団長だった朴さんは解放後にラバウルで日本軍の医務室にあった薬で服毒自殺をした。労賃を受け取れず家族に面目がたたないと絶望したからという。
解放後、朝鮮民団が結成された。一一月に入り朝鮮と台湾からの連行者を合わせ、一万人ほどが集団収容された。三〜四ヵ月の間「自治開発」の畑作に従事した。先に日本人だけが船に乗って帰ったため、「早く帰せ」と金さんたちは帰国を要求した。一九四六年三月一四日に病院船「氷川丸」に乗船、三月二二日台湾に到着、九州を経て三月二八日に釜山に到着した。三月三一日、金さんたちは全羅北道井邑郡に到着し、四月一日に扶安へと帰った。
朴仁錫さんは解放後にマラリアのためにラバウルで死亡している。白さんや李さんらは朴さんの片腕を遺品として遺族に持ち帰ったという。解放後、帰国できずに生を終えた人も多かったであろう。帰国してもラバウル生活の後遺症はつづいた。多くの人が現地の傷病が原因で死んでいる。
李南基さんは帰国したときには食事もできない状態であり、一年間は薬づけの生活だった。仕事はほとんどできないまま、妻が働き生計をたてた。李さんは苛酷な労働と食糧不足にともなう病のため、四〇歳で亡くなった。妻の文福順さんは「このことはこれまで神に言うしかなかった」という。
金教完さんは帰国して二年後に病死した。戦争で重症を負い血尿が出た。金飛虎さんは脚気のため帰国後一年ほどは歩けなかった。李漢基さんは徴用によって体が衰弱し、帰国後の数年間は腹膜炎を患ったという。
扶安郡からラバウルへの強制連行者のうち、現地死亡が三人、帰国後に死亡した人は一六人、存命者は一一人である(一九九三年現在)。
なお、ラバウルについては金堯攝さん(慶尚南道出身)の証言がある。金さんは一九四一年一〇月、慶尚南道の二〇〇人と共に呉からパラオを経てラバウルヘと強制連行され、飛行場修理、塹壕掘りに従事させられた。竹刀で日本兵に殴られたり、皇国臣民の誓詞を唱えさせられたりした。劣悪な食事であり、給与は与えられなかった。一九四五年の爆撃によって左腕を切断した。一九四六年三月に帰国した(『韓国補償訴状』七〇頁〜)。
ラバウルヘは軍隊「慰安婦」も連行されていた。全北茂朱郡出身の朴さんはソウルの「職業紹介所」に売られ、野戦病院での洗濯や看護をした。三年働けば借金を返還できるという「慰問団」への参加を持ちかけられ、釜山・下関を経て、ラバウルに連行され、性の奴隷にされた(証言・FAS翻訳史料)。ほかには、「紡績工場への就労」という言葉でだまされ、下関、広島を経てラバウルヘと連行され、二〇人の女性たちと教会に設営された「慰安所」で性奴隷を強要されたケースもある(『ハッキリ通信三』日本の戦後責任をハッキリさせる会、一五〜一六頁)。
兵士の証言には、一九四二年ころラバウルには約一〇〇人の慰安婦がいた、一九四三年には大連からラバウルヘと「ウラル丸」で約六〇〇人の女性(韓国、台湾、中国)が連行されたというものある。その実態の詳細は不明であるが、多くの女性がラバウルなどで性奴隷とされていったとみられる。
FASが金さんたちの依頼を受け、郵政省に軍事郵便貯金の存在についての照会したところ、金飛虎名義の預金はないということだった。強制貯金された未払いのままの金銭はどこへ行ったのだろうか。金さんたち自身には強制連行を「証明」するものがない。全さんたちが強制連行された「証拠」は隠されたままだ。
金さんらの連行は甘言や強要により、徴用の割当をこなす形で行われた。行き先を教えることなくラバウルヘと連行した。「一年契約」の約束は偽りであり、賃金は「強制貯金」されたまま支払われなかった。現時点で調査してみれば、貯金の名義は記録されていないという。金さんらは通帳を示されたことも番号を教えられたこともない。
金さんは言う。「血の汗を流した結果であるわたしたちの給料がどうなっているのか、明らかにしたい。死んだ人、病気になった人の苦痛がどんなものであったのか考えてほしい。人間には生きる道がある。金のための手段を優先する思考方式をやめ、人間性を大切にしてほしい。韓国では隣とは親戚と同じこと。日本は隣国であり、私たちの汗のうえに現在の日本の成長がある。日本は隣国の私たちに分かち合う姿勢をもってほしい」と(一九九三年談)。これは控えめな言い方であると思う。
以上が、全羅北道扶安郡からラバウルヘの強制連行についての分析である。
おわりに
一九九〇年代に入り、アジアの戦争被害者からの訴訟が相次いで起こされた。アジア太平洋戦争韓国人犠牲者訴訟、在日の戦後補償訴訟、浮島丸被害者訴訟、光州千人訴訟などの裁判では、海軍軍属としての連行に対しての尊厳回復にむけての要求が数多く含まれている。二〇〇一年には靖国合祀絶止・遺骨返還・損害賠償などをもとめての在韓軍人軍属裁判が提訴された。
これらの裁判などでの証言から、連行状況を具体的に明らかにすることができる。ハワイ収容者名簿の調査からも連行状況を明らかにすることができるだろう。どこへ連行され、いつどこで死んだのか、生死さえわからないまま今に至っているケースも多い。
海軍軍属としての強制連行、連行年月日・連行場所・死亡地等の実態については、一九九三年一〇月に日本政府から韓国政府へと渡された海軍軍属名簿、軍人履歴原票(二万一四三三人分)、軍属身上調査票(七万九三四八人分)などの名簿史料の分析によっても明らかにすることができるだろう。陸軍の軍人軍属についても「留守名簿」(一四万三二一一人分)、「兵籍戦時名簿」(二万二四九人分)、「工員名簿」(二万一〇二人分)から明らかにすることができるだろう。これらの名簿は韓国政府には提供されたが、日本国内では現時点では未公開である。また、これらの名簿は公開されるべきであり、名簿の分析は日本政府自身によってなされるべきであろう。
「被徴用死亡者連名簿」からは、軍人軍属の二万人を超える死亡者の死亡地・連行先・所属別の名簿が作成できる。それにより動員され死を強いられた人々の一端を明らかにしていくことができる。
朝鮮人軍属は天皇の軍隊の末端に組み込まれ、太平洋各地へと連行された。「契約」された賃金・貯金は支払われず、逃亡することもできなかった。飢餓を強いられ、丸腰のまま攻撃にあい、傷つき死ぬ者も多かった。彼らは「皇民化」により創氏改名され「日本人」として戦場に投入され、労働力として使い捨てられた。
かれらは侵略戦争と天皇制維持のための玉よけとされた。性奴隷とされ軍備品の形でアジア太平洋地域へと連行された朝鮮の女性たちも多い。日本帝国主義による朝鮮民族支配は若い朝鮮人男女を軍の労働力と性の備品として使い捨てたのだった。どこへ連行され、いつどこで死んだのか、生死さえわからないままのケースも多いのである。
軍属として強制連行された人々はその賃金を強制貯金されたが、それらは未払いのままである。体に被害が残っても補償は全くないままである。それは国家による詐欺であり、国際的信用を失墜させるものであるが、この犯罪は解決されず、被害者の尊厳は回復されていない。歴史の事実を明らかにし、国家による謝罪と賠償を実現して被害者の尊厳を回復することが求められている。そして市民レベルでの友好・交流が一層すすめられるべきだろう。
(1993年記・2006年補記)
参考文献
桜井均『ミクロネシアリポート』日本放送出版協会 一九八一年
樋口雄一『皇軍兵士にされた朝鮮人』 社会評論社 一九九一年
樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』総和社 二〇〇一年
海野福寿 権丙卓『恨・朝鮮人軍夫の沖縄戦』河出書房新社 一九八七年
林えいだい『証言集 朝鮮人皇軍兵士』柘植書房 一九九五年
森山康平編『米軍が記録したニューギニアの戦い』草思社 一九九五年
牟田清『太平洋諸島ガイド』古今書院一九九一年
伊藤孝司『棄てられた皇軍』影書房一九九五年
佐藤和正『玉砕の島』光人社文庫二〇〇四年
『アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件訴状』第二版 日本の戦後責任をハッキリさせる会 一九九二年
『韓国朝鮮BC級戦犯者の国家補償等請求事件訴状』日本の戦争責任を肩代わりさせられた韓国朝鮮人BC級戦犯を支える会 一九九一年
『未来への架け橋』(在韓軍人軍属裁判訴状集)在韓軍人軍属裁判を支援する会 二〇〇二年
『朝鮮人中国人強制連行強制労働資料集』一九九一 一九九二 一九九三年版 神戸学生青年センター出版部
『金飛虎さんらは訴える』アジアを考える静岡フォーラム 一九九三年