麻生炭鉱での朝鮮人強制労働
はじめに
麻生は筑豊での石炭生産によって富を蓄積し、中央政界に進出した。この麻生の石炭採掘現場では多くの朝鮮人労働者が働いた。ここでは麻生での朝鮮人の強制労働について、一九三〇年代から四〇年代にかけてみていきたい。
麻生の歴史については『株式会社麻生商店二〇年史』『麻生百年史』があり、これらの社史から麻生の石炭開発の経過を知ることができる。
麻生での朝鮮人労働については、一九三二年の麻生朝鮮人争議や連行期の特徴などが、林えいだい『強制連行強制労働』に記され、同編『戦時外国人強制連行関係史料集U朝鮮人1上』(以下『林・史料』と略記)には『闘争日誌』や争議団の名簿・ビラ、『株式会社麻生商店朝鮮人鉱夫労働争議概況』などの史料が収録されている。
麻生系炭鉱での事故については日本鉱山協会『重大災害事変誌』に一九二〇年代後半からの事故例が記されている。そこには麻生綱分炭鉱での一九三六年一〇月のガス爆発事故についての詳細な報告も収録されている。
林えいだい『消された朝鮮人強制連行の記録』には、一九三〇年代から麻生で働いた朝鮮人、連行された朝鮮人、元労務係、元特高、寺院関係者などからの聞き取りがまとめられている(以下『林・記録』と略記)。被連行者の証言記録としては鄭清正『怨と恨と故国と』がある。
筑豊での初期の連行状況を示すものについては『筑豊石炭鉱業会庶務事蹟』がある(『林・史料』所収)。また、厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』、中央協和会『移入朝鮮人労務者状況調』、福岡県「労務動員計画二依ル移入労務者事業場別調査表」、石炭統制会などの統計史料に、連行者の数値が示されている箇所がある。
連行者名簿としては厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』の佐賀県分に麻生久原炭鉱の名簿が残されている。麻生も関与して戦時中に設立された石灰山の船尾鉱業の保険者名簿も残されている(『林・史料』所収)。
最近の調査としては、K・T生「知られざる麻生太郎外相の家系@〜C」(『週刊金曜日』五九六、五九八、六〇二、六〇五号)、クリストファーリード「麻生一族の恥・日本の外務大臣と連合軍捕虜の強制労働」(Japan Focus)、横川輝雄「麻生系炭鉱の朝鮮人労働者」(季刊『戦争責任研究』五一)などがある。麻生への強制連行については日本に残る遺骨調査のなかで、二〇〇五年十一月ころから韓国で報道記事がでるようになった。
これらの研究・調査・史料などを参考にしながら、以下、麻生鉱業の歴史、麻生での朝鮮人労働、強制連行期の強制労働の順にみていく。
一 麻生鉱業の歴史
最初に麻生鉱業の歴史について『麻生商店二〇年史』『麻生百年史』など社史の記述からみておこう。
麻生鉱業の歴史は麻生太吉が一八七〇年代に筑豊で石炭の採掘を始めたことによる。一八七二年には目尾で採炭し、飯塚の芳雄坑を開発した。翌年には忠隈坑、一八八〇年には鯰田坑や綱分坑での採炭を始めたが、鯰田坑を一八八九年に三菱に、忠隈坑を一八九四年に住友に売却した。麻生はその売却資金で地域での石炭開発をさらにすすめ、一八九一年には山内坑、一八九四年には上三緒坑での採炭を始めた。麻生太吉は一八八〇年代後半には麻生商店の名で炭鉱経営をおこなっている。
麻生太吉は一八九〇年代後半に嘉穂銀行の頭取や九州鉄道の取締役となり、炭坑用機械器具を製造する麻生工場も設立した。また筑豊の炭鉱業主である貝島・安川とともに洞海北湾埋渫合資会社を設立し、若松築港の取締役になるなど、石炭開発や輸送のための事業をおこなっている。このような事業をおこなうなかで、一八九九年には衆議院議員になった。
炭鉱経営の拡大は二〇世紀に入ってさらにすすみ、一九〇五年には豆田坑、一九〇六年には綱分第一坑を開坑した。一九〇六年には本洞坑を三井に売却して利益を得た。一九〇九年に吉隈坑、一九一〇年には佐賀の久原坑で採炭をはじめ、山内農場の設立や炭鉱病院の建設もおこなった。日清・日露戦争による戦争経済と石炭需要の高まりのなかで、麻生の経営は拡大していったのである。
このような筑豊での鉱業経営の拡大のなかで、麻生太吉は一九一一年に筑豊石炭鉱業組合の総長となり、貴議院議員にもなった。鉱業経営はさらに拡大し、一九一三年には赤坂坑での採掘をはじめるなど、上三緒、吉隈、綱分での鉱区を拡大していった。
一九一八年には麻生商店を株式会社組織にし、翌年には九州産業鉄道を創立し、石灰山の船尾山を買収した。この九州産業鉄道は路線を拡大し、一九三三年には産業セメント鉄道になる。このような経営の拡大によって、麻生太吉は一九二一年に全国組織である石炭鉱業連合会の会長になった(〜一九三三年)。一九一〇年代後半には麻生系炭鉱での朝鮮人の使用がはじまっている。
朝鮮の植民地化によって、麻生は朝鮮半島での事業をすすめ、一九二七年に忠清南道の安眠島に林業所を設立し、ここで松木を伐採して炭鉱で利用した。一九三〇年代には朝鮮で遠東鉱山と宝成鉱山の開発を始めた。
第一次世界戦争を経るなかで、麻生は筑豊での石炭・石灰・鉄道をはじめ、金融・電力・林業にも関わる財閥へと成長した。政界との関係も深め、中央政界に進出するとともに日本の石炭業界を主導する地位を獲得したのだった。戦後の労働運動の高まりに対しては、労使協調組織として一九二五年に「譲和会」を設立した。
麻生の鉱業経営の拡大によって事故も多発するようになった。一九二七年から一〇年間でのガス爆発や火災による大きな事故での死亡者数は一二〇人を超えた。とくに一九三六年一月の吉隈での坑内火災では二九人、一〇月の綱分でのガス爆発では三九人が死亡した。落盤などの小さな事故による死亡者を加えれば、この数倍の死者があったであろう。このなかには朝鮮人労働者の死者も多いとみられる。
一九三〇年代に入ると中国の撫順炭鉱からの石炭の流入によって、麻生は経営を圧迫された。そのため一九三二年には賃金を切り下げ、朝鮮人の大量解雇をおこなう。この解雇に対して麻生の朝鮮人が立ち上がり、争議を起こした。この頃麻生は一〇〇〇人余の朝鮮人を雇用していた。麻生太吉は一九三三年に死亡したが、孫の太賀吉が跡を継いだ。
一九三〇年代の麻生の主な炭鉱は、飯塚を拠点に山内、上三緒、愛宕、綱分、赤坂、豆田などがあった。これらの麻生系の各炭鉱は新坑の開発を次々にすすめ、生産を拡大していった。中国への全面侵略戦争がはじまると、麻生はさらに各坑での新坑開発をおこない、佐賀の久原、長崎の岳下などの炭鉱の再開発もすすめていった。
このなかで一九三九年後半には麻生への朝鮮人の強制連行がおこなわれた。一九四五年までに麻生系炭鉱へと連行された朝鮮人は一万人を超えた(厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」福岡分統計)。
麻生は労資一体による「君国奉公」を説いて労働者を働かせた。一九四一年には商号を麻生商店から麻生鉱業に改称した。一九四二年からは海軍省の委託を受け、南ボルネオのロアクール炭鉱・ブラオ炭鉱の開発をおこなった。一九四三年には新飯塚運送を新飯塚商事とし、産業セメント鉄道の鉄道部門を国鉄が吸収した。戦時のセメント需要のなかで日鉄・末松商店と船尾鉱業を設立したが、この船尾鉱業はのち麻生に継承された。一九四四年にはセレベスのマカッサル事業所を設置した。この年、麻生鉱業は軍需会社に指定され、採炭現場で「神風生産特攻隊」を組織した。吉隈炭鉱へは一九四五年に連合軍俘虜三〇〇人が連行された。
麻生系炭鉱は労働者を酷使するなかで、戦時下に年一〇〇万トンを超える石炭を生産していった。
麻生太賀吉は戦後、石炭とセメントを生産する麻生産業の社長や九州電力の会長となった。中央政界とつながって一九四九年には衆議院議員となり、吉田茂を財政面で支えた。政界を引退した後、一九六五年に日本石炭協会会長になった。麻生太賀吉は吉田茂の娘と結婚したが、その子が麻生太郎である。太賀吉の娘は天皇族の寛仁と結婚した。麻生太郎の妻は鈴木善幸の娘である。麻生一族はこのような閨閥を作りあげてきたのである。
戦後の石炭産業の閉山によって、麻生の企業経営の中心は麻生セメントになった。麻生セメントは二〇〇一年に「株式会社麻生」へと社名を変え、セメント部門をフランスのラファージュ資本の参加にともって分離した。分離された麻生のセメント部門は太平洋セメントの生産の受託や三井鉱山の石灰石鉱山やセメント工場を買収し、二〇〇四年に麻生ラファージュセメントとなった。
現在、株式会社麻生を中心に、セメントなどのグループ会社六〇社ほどをもつ麻生のコンツェルンが福岡を中心に形成されている。グループ全体総売上高は二〇〇五年度で一四五〇億円に及ぶ。麻生太郎は麻生グループの中心企業である麻生セメントの前社長であり、株式会社麻生の現在の社長はかれの弟である。
二 麻生での朝鮮人労働
つぎに、麻生系炭鉱による朝鮮人労働者の雇用とその労働条件についてみてみよう。
福岡県地方職業紹介事務所が一九二九年にまとめた『管内在住朝鮮人労働事情』によれば、管内での調査から一九一二年に古河西部鉱業所、一九一七年に三菱筑豊鉱業所・三菱高島鉱業所・貝島鉱業所などが朝鮮人の使用をはじめ、麻生商店は一九二五年から使用を始めたとしている(『林・史料』一一六頁)。
これらは集団的な募集を始めた時期を示すものとみられる。寺院史料からは、麻生では一九一〇年代後半に朝鮮人が雇用されていたことを確認できる(林えいだい『強制連行強制労働』二六頁)。筑豊の古河、三菱、貝島などの炭鉱が朝鮮人労働者の朝鮮募集がおこなったように、麻生による募集もまたおこなわれていったのだろう。麻生や三菱は坑夫を自由に採用するために正規の手続きを経ずに密航させていたともいう(『林・記録』所収、宮崎証言三四三頁)。
麻生で働くようになった朝鮮人の数についてみてみよう。『管内在住朝鮮人労働事情』から一九二八年一一月の筑豊での朝鮮人数がわかる。それによれば、三菱鯰田で一四六六人、飯塚で一三二九人、三菱新入で一〇〇〇人、三菱方城で三〇〇人、三菱上山田で二〇〇人と三菱系炭坑で四三〇〇人近くを使用し、貝島では三五〇人を使用している。麻生系炭鉱をみると、山内二七四人、上三緒一一人、綱分一四二人、赤坂一一五人、吉隈一六二人、豆田一人の計七〇五人であり、麻生系の産業鉄道では三七人である(『林・史料』一二一・一二二頁)。
麻生商店は三菱鉱業につぐ朝鮮人の使用企業であることがわかる。数年後には一〇〇〇人を超える朝鮮人を使用するようになった。この時期、飯塚地域には三菱鯰田、飯塚、麻生などの炭鉱で働く朝鮮人が四〇〇〇人ほど集まってきていたのである。
麻生での朝鮮人の使用が増加した一九二〇年代から三〇年代の朝鮮人の労働実態について、黄学成、張遜鳴、金哲発、宮崎太郎、柿山重春さんらの証言からまとめてみよう(『林・記録』所収証言)。
慶北永川出身で一九二六年に渡日していた黄学成さんが赤坂坑に「志願」したのは一九二八年、一七歳のときだった。赤坂炭鉱の鄭在鳳の納屋に入ったが、納屋には八〇人ほどの坑夫がいて、朝鮮人の割合は赤坂坑では三割ほどだった。赤坂炭鉱には朝鮮納屋が一二あり、麻生全体では六〇ほどの朝鮮納屋があった(『林・記録』三〇五、三一六頁)。
鄭在鳳は元三菱の納屋頭であり、地方のボスとして麻生争議の際には相愛会嘉穂支部の支部長として争議を妨害した(『林・記録』三一九、三六八、三九八頁)。
この黄証言によれば、当時の労働状況はつぎのようになる。
納屋の布団は万年床で真っ黒であり、交替制で誰かが寝た。人繰りが毎夕入坑の督促をし、二交替制だったが、五時に入坑して昇坑が一〇時ということも珍しくなかった。坑口から六〇〇メートルを人車で行き、そこから切羽まで歩いた。朝鮮人が危険なところを担当した。検炭係がボタの量を見て函引きし、賃下げをした。低賃金で遅配が多く、食事も衛生も悪かった。納屋の頭領は賃金の三割ほどをピンハネした。労働災害があっても朝鮮人には適用されなかった。納屋では独身坑夫が死んでも朝鮮の故郷に知らせないことが多かった。遺族に弔慰金や補償金を支払うのが惜しく、アリラン集落の下の無縁墓地に埋めて知らん顔だった。一九三四年のガス爆発の時には生存者がいても密閉したために朝鮮人が入坑を拒否した(『林・記録』三〇五〜、三二一頁)。
このような状況の中で一九三二年に麻生での朝鮮人争議が起きた。
元日本石炭坑夫組合主事の宮崎太郎さんはいう。麻生系の炭鉱には朝鮮人が多く、朝鮮人は日本人に比べて給料が低く、これまでの仕打ちに対して立ち上がった。リーダーの村上俊杰、村上再達らは三・一運動を体験し、植民地からの解放も語る人物であった、と(『林・記録』三四七、三五八頁)。
争議団を支援した日本石炭鉱夫組合は争議に際し、『麻生罪悪史』を発行している(『林・史料』一七八〜一八一頁)。この史料では麻生での朝鮮人労働者の状況を「搾取地獄」としている。その状況を具体的にみてみよう。
労働者は監獄部屋・豚小屋ともいわれる納屋に入れられ、地底で一日一六〜七時間も働かされるが、その賃金は一ヶ月二〇円に達しなかった。
一九三二年四月の吉隈炭鉱での事故で負傷した許乙竜は入院・通院したが、完治しなかった。しかし麻生は三二円を与えて路頭に放り出した。大学病院で診断した結果、耳の骨が腐って脳を侵していることがわかり、麻生に抗議、入院して手術した。金又甲も同じ事故で負傷して上半身を痛め、労働ができない状況になったために交渉し、麻生は八月になってやっと医療と保険の給付を認めた。金元成は大学病院に行く旅費がなく、労働できずに家もない。他人からの同情で生活しているが、医薬品を買うこともできない。
山内炭鉱では一九三二年六月に朝鮮人鉱夫が係員に殴られ両耳の鼓膜を破られた。麻生は私傷扱いでの医療・保険給付をおこなったが、七月には給付を打ち切った。坑夫組合が抗議をすると、通告した報復に被害者の老父を殴った。朝鮮人高橋金市は五年に及び働いてきたが、戸籍の不明を理由に解雇手当なしで強制解雇を通告された。八月に村上重履は、ダイナマイトの点火の際に二本のダイナマイトを残して作業を止めたと労務に殴られ蹴られた。
上三緒炭鉱では木下裕萬(洪右)が削岩機に親指を巻き込まれ負傷した。治療が完治しないうちに早期の療養打ち切りをおこない、労務と飯場頭が入坑を強制した。組合にそれを訴えると本人を七月に労務事務所に連行し、日本刀で脅して四人の労務係が蹴り踏みつけた。柳永志は六月に落盤で左手薬指を骨折し健康保険で医療した。一ヶ月ほどたつと労務と飯場頭が入坑を暴力的に迫ったが、組合の抗議で健康保険による治療を継続した。
赤坂炭鉱の金大岩は入坑の際に壁の石が落ちて腰を打った。公傷の証明は得たが三ヶ月のみの公傷とされ、その後は公傷を打ち切られ、労務が入坑を差し止めた。一九三二年三月、鉄板で右親指を挫傷した李完澤は労務の強制により坑内に入れられ、昇坑の際には息も絶えそうだった。療養日数はわずかだった。
麻生「特有の暴制的暴戻」体質は麻生の「搾取地獄」を支えるものであった。
『麻生罪悪史』によれば、このような事故負傷者の救済の放棄、暴力による強要や報復、負傷者への給付打ち切りなどがおこなわれていたのである。
麻生の労働条件の一端については協調会福岡支部の麻生争議の報告書からもわかる。報告書では、一九三二年七月の平均月収が、三菱鯰田が三七円五〇銭、三井山野が三八円三〇銭であるのに対し、麻生は二〇円と低い(『林・史料』三七八頁)。麻生は賃金の切り下げをすすめ、他の大手資本と比べて月十数円低い賃金になっていた。
当時炭鉱労働者は月二〇数方の労働が多かったが(『管内在住朝鮮人労働事情』『林・史料』一〇三頁)、麻生では一日一円未満の収入が多かったのである。
争議団の作った名簿には一日の賃金が記されているものもある。それをみると六〇銭や七〇銭などと記されている。一円以下の賃金で生活するものが多かったのである。また坑毎に改姓され、上三緒では「東」、赤坂では「木下」、山内では「村上」「福本」、吉隈では「福本」とされているものが多い。おそらく納屋などで改姓され、日本姓で呼ばれていたのだろう。
麻生争議での争議団の要求書をみると、最初に「暴力的行為ヲ以ッテ坑夫ヲ酷使虐待スル悪習ヲ絶対厳禁セラレタシ」と暴力の中止をあげている。争議では、要求の第一に坑夫への暴力的行為による虐待・酷使の厳禁を求めた。このことは麻生での暴力による労働の強制がいかに激しかったのかを示している。
要求書には次のような事例があげられている。一日の賃金が五〜六〇銭が多数であり、一〇銭や二〜三〇銭も多く、単身者は借金難となり、家族持ちでは米塩の糧を得ることも困難である。労働時間については一〇時間以上一五時間に及ぶ労働時間が強要されている。傷病患者に対しては人事係が中途で療養を拒否し暴行を加える。傷害療養の扶助を途中で打ち切って放任する。欺瞞的強制手段によって本人の意思も聞かずに転坑を余儀なくされる(『林・史料』一七三頁)。
このような例を記しながら、最低賃金、傷害や解雇の手当て支給、労働時間改善や大納屋の廃止、強制積立金の廃止、坑夫立会いによる検炭の実施、住居の改善など、労働者としての当然の権利要求を掲げたのである。
争議団のチラシには「打倒暴力搾取の巨魁麻生財閥、民族的差別待遇絶対反対!」と記されている。また、争議団闘争日誌では、麻生を「暴力圧制と労働条件最悪」の「ナンバーワン」としている(『林・史料』一五九、三〇一頁)。争議団の別のチラシをみると「吾ラヲ勝タセロ!! 十時間法ヲゴマカスナ!健康保険ヲゴマカスナ!傷害扶助料ヲゴマカスナ!傷病患者ヲナグルナ!賃金ハ生命ヲツナグニ足ルダケ與ヘロ!」と要求を掲げて労働者側の正義を訴えていることがわかる(『林・史料』三〇八頁)。
参加者数についてみてみれば、八月末の争議団の闘争記録では、山内一〇〇人、上三緒三五人、赤坂七〇人、綱分七人、吉隈二〇九人の計四二一人が参加したとする(『林・史料』二五二頁)。争議は九月三日に妥結するが、一日・二日にも争議参加者があったから、その数はもう少し増えるだろう。
『株式会社麻生商店朝鮮人鉱夫労働争議概況』では、争議に参加した朝鮮人を、山内六二人、上三緒三二人、赤坂四八人、綱分一八人、吉隈一六三人の計三九六人としている。この争議概況の史料からは、麻生の労働者五一六〇人中一〇七〇人が朝鮮人であったことがわかる。朝鮮人が労働者の約二〇パーセントを占める。坑別の朝鮮人の内訳をみれば、山内八六六人中二三〇人、上三緒八四一人中四〇人、吉隈一四三五人中四九五人、綱分七六〇人中一二二人、赤坂七六二人中一七九人、豆田五一八人中四人であった(『林・史料』三四四・三四五頁)。
この統計の労働者数の数値は六月末、朝鮮人の数値が八月九日現在のものである。この統計では吉隈では三二パーセント、山内では二七パーセント、赤坂では二三パーセントが朝鮮人である。これらの坑では三〜四人に一人が朝鮮人であったことになる。
飯塚警察署の特高主任だった柿山重春さんは、麻生が坑夫を納屋制度でがんじがらめに縛り付け、徹底的な圧制のなかで働かせ、一方的に酷使していた点に問題があるとしている。争議によって納屋制度が改革されたという(『林・記録』三六八頁)。
慶北達城郡出身の張遜鳴さんが赤坂炭鉱にきたのは、この争議の後の一九三四年であり、一八歳のときだった。かれも鄭在鳳の朝鮮人納屋にはいった。寝具は垢だらけで黒光りし、逃げたらひどい目にあうと見せしめの仕置きがおこなわれた。朝四時半に人操りにたたき起こされ、六時に入坑したが、日中戦争が始まるとさらに扱いはひどくなったという(『林・記録』三七九頁〜)。
納屋制度の改革はうわべだけのものであり、「暴力搾取」の実態は継続し、強制連行が始まるとその酷使は形を代えて復活していったといえるだろう。
日本政府は一九三二年十一月に「強制労働に関する条約」を批准している。この条約は一九三〇年の国連総会で批准され、一九三二年五月に発効されている。麻生での朝鮮人争議はこの強制労働条約が日本で批准されようとするなかで起きている。
この条約はすべての強制労働自体をできる限り早い期間に廃止することをめざしたものであり、強制労働の定義を、処罰の脅威によって強制され、自ら任意に申し出たものでないすべての労務としている。条約では兵役労務、自治国での公民労務、戦時下などで緊急時の労務などを強制労働から除外しているが、行政による強制労働についても廃止を求めている。条約には、強制労働への徴集を一八歳以上四五歳以下の強壮な男子に限定、徴集期間は六〇日以内、労働時間は通常労働と同等、一週一日の休日、労災・労働疾病への補償、慣れない食物や気候地方への移送の禁止、健康保障のための衛生・宿泊の厳格な措置、医療の確保、家族への送金の確保、鉱山での地下労働の禁止、労働条件への異議申し立て・審査の規定の作成、強制労働の不法な強要を刑事犯罪として処罰する、ということがらが記されている。
納屋に押し込め、暴力で労働を強制し、労災者を解雇するといった麻生の労務管理の実態は、この強制労働条約に反するものであった。暴力廃止を掲げて抗議に入った朝鮮人労働者はこの強制労働の廃止にむけての条約の実現を現場で体現するものであったといえるだろう。
災害の状況についてみておけば、『重大災害事変誌』から一九二七年から三六年にかけての麻生系炭鉱での事故、十一件分を知ることができる。これらの事故だけでも死亡者は一二四人になる。一九三六年一月の吉隈での事故では、死者二九人中二五人が朝鮮人であった。熱くてガスが多い現場に朝鮮人が投入されていたから、吉隈での事故死のように他の現場でも死者の多くが朝鮮人であったとみられる。
一九三六年一〇月の綱分第四坑の事故ではガス爆発で三九人が死亡している。『重大災害事変誌』の報告では、落盤によるケーブル接続部の切断とその際のスパークによってガスと炭塵が爆発し、このガス爆発が炭塵爆発と大落盤をもたらしたとしている。この報告書には三九人の死亡場所を示す詳しい地図が付けられ、採炭現場付近で三〇人近くが爆発と火災によって生命を失っていることがわかる。
金哲発さんは言う。赤坂炭鉱に来たのは中国への全面戦争がはじまった一九三七年のことだった。二交替制で朝六時に入坑し、朝鮮人は三分の一ほどだった。一九三八年にダイナマイト事故で右目と右耳の力を失った。炭鉱は補償金を出すと役に立たないと炭鉱住宅を追い出した。連行が始まると鯰田炭鉱の兵舎式の寮からは「アイゴー」の叫び声が聞こえた。赤坂の寮の近くには監視塔ができた、と(『林・記録』三九三頁〜)。
このような朝鮮人労働の歴史を経て、戦時下の強制連行・強制労働がおこなわれることになった。
ここで朝鮮の安眠島についてもふれておこう。
忠清南道泰安郡にある安眠島は赤松の産地であり、朝鮮時代には国有林として監理されていた。植民地支配によって朝鮮総督府はこの島を麻生商店に売却した。麻生は一九二七年に安眠島林業所を開設し、大樹を伐採して群山、仁川経由で日本に運んだ。安眠島の松丸太は炭鉱の支柱などに使われた。戦時にはこの島で松脂を軍需品として採取して利益をあげた。麻生は朝鮮からの資源の略奪にも関わったのだった(K・T生「知られざる麻生太郎外相の家系B」『週刊金曜日』六〇二号)。
三 麻生と朝鮮人強制連行
@連行者数
麻生系炭鉱に連行された朝鮮人の数についてみてみよう。
厚生省勤労局調査「朝鮮人労務者に関する調査」福岡県分の史料にある集計途中の表によれば、麻生鉱業へは一九三九年に八二七人、一九四〇年に一二三五人、一九四一年に二〇九五人、一九四二年に二一二六人、一九四三年に一八六四人、一九四四年に一八〇四人、一九四五年に六七二人の計一万六二三人を連行されたとある。これに産業セメントへと連行された約五〇人(一九四四年までの連行者数)と厚生省勤労局調査佐賀県分の麻生久原炭鉱への連行者二三八人を加えれば、麻生へと一万一千人近い朝鮮人が連行されたことになる。また、麻生ではこれらの連行者に加え、炭鉱やセメント採掘で千人を超える在留朝鮮人が働いていた。全国各地から勤労報国隊の形で強制的に動員された人々のなかには朝鮮人もいた。これらの人々を加えると戦時下に麻生系炭鉱に動員された朝鮮人の数は一万五千人を超えるだろう。
一九四三年の麻生への連行者については石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」に約二〇〇〇人分の連行数が記載されている。この資料によれば一九四三年に麻生は江原道から一二〇〇人を超える朝鮮人を連行した。福岡県協和会「半島人移入労務者動態調」から一九四三年一二月末の状況をみれば、麻生の全労働者七七五五人中、二八一二人が朝鮮人となっている。朝鮮人の割合は三六パーセントほどであった。
しかし、連行しても逃亡などによってすぐに減少していった。福岡県史料の「労務動員計画二拠ル移入労務者事業場別調査表」にある麻生での朝鮮人の動向をみれば、一九四四年一月までに七九九六人を連行し、そのうち四九一九人が逃亡し、五六人が死亡したとある。現在員は二九〇六人、ほかに既住の朝鮮人が七八五人となっている。
この資料によれば、一九四四年初めまでに麻生へと連行された朝鮮人は八〇〇〇人ほどだった。麻生へは一年で二〇〇〇人ほどが連行されていったから、一九四五年八月までには連行者は一万人を超えていったであろう。
A連行経過
数字から連行状況をみてきたが、つぎに証言から連行・労働実態をみてみよう。
麻生は戦争による労働者不足のなかで、朝鮮人をさらに使用しようとし、現地調査をおこなった。一九三七年三月に麻生の労務係になった元朝鮮巡査の野見山魏さんは次のように話す(『林・記録』)。
麻生では労務対策会議が開かれ、南朝鮮からの労働者確保が話された。一九三七年の秋には労務課長を連れて、南部の農村地帯の現地実態調査をおこなった。朝鮮総督府も訪問し、労務者の渡航の可能性を確認した。失業者・貧困層が多く連行への自信を持ち、面巡査の利用も考えた。連行にあたり、麻生本社の京城出張所の駐在員が総督府にコネをつけて一番条件のいい地域を指定するように働きかけた。最初のころは慶尚道や全羅道から連行した。第一回目は三〇〇人を郡から釜山へ連行し、出迎えの労務と巡査に引き渡した。募集難になると黄海道方面に行って「無茶苦茶」に引っ張ってきた。連行すると名簿を警察に渡し、特高と連絡を取って検挙し、事件を防ぐようにした。特高は週一度巡回し連絡会議をもった、と(『林・記録』三八九頁〜)。
一九三七年から連行のための現地調査がおこなわれ、連行のために面巡査や総督府の利用が狙われていたことがわかる。
一九三六年から四一年にかけて赤坂炭鉱の駐在所に勤務し、一九四〇年に連行朝鮮人の受け取りを監視に行った請願巡査の松藤要吉さんは次のようにいう(『林・記録』)。
炭鉱は県当局に請願して炭鉱専用の巡査を配置した。その仕事は労働運動を抑えることと朝鮮人の取締りであり、炭鉱資本の番犬だった。炭鉱は朝鮮北部の工業地帯に石炭船を送り、その帰りの空船に朝鮮人を乗せて帰り、納屋に入れた。炭鉱にとって朝鮮人は消耗品だった。一九四〇年に釜山に受け取りを監視に行った。それを「恩典出張」といった。麻生の京城事務所には募集係三人が常駐し、年中「募集」活動をおこなっていた。三日待つうちに釜山に一五〇人が集められ、現地募集係三人、麻生本社の五人、請願巡査三人の計十一人で警戒した。釜山から博多に送り、列車で飯塚に連行した。乗り換えの原田駅で逃走があった(『林・記録』四〇〇頁〜)。
この証言から、連行された労働者は麻生と警察によって監視され、計画的な連行がおこなわれ、連行された朝鮮人は「消耗品」として扱われたことがわかる。
ここで連行初期の連行状況についてみておこう。筑豊石炭鉱業会の史料からは一九四〇年三月までに慶尚道から六一〇人の連行の許可をえていることがわかる(「朝鮮人労務者移入調査表」)。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」からは、一九四二年六月までに上三緒に六九八人、山内に六六〇人、愛宕に四一九人、綱分に五五一人、赤坂に七九四人、吉隈に一二九八人、豆田に一六九人、産業セメントに四八人が連行されたことがわかる。この六月までの連行者総数は四六八七人となり、五〇〇〇人近い連行者数となる。しかし、これだけの数の朝鮮人を連行しても六月の現在員数は一三一六人であり、七割以上が逃亡や帰国によって姿を消していた。
麻生は不足する労働力をさらに朝鮮半島から集めていった。その連行状況は一九四三年の石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」にある二〇〇〇人を超える連行者数からもわかる
B在留朝鮮人の証言
連行された朝鮮人の強制労働の実態について朝鮮人側の証言からみてみよう。
赤坂炭鉱の黄学成さんは次のようにいう(『林・記録』)。
赤坂の朝鮮人寮は一三〇〇人を収容した。朝鮮人直轄寮が作られ、第二、第三直轄寮も作られた。第二直轄寮は坑口近くにできた。二階建ての総ガラス張りの監視所を作り、番人をおいた。寮は立ち入り禁止で面会もできず刑務所より悪かった。周囲は板壁で囲まれ、針金が出ていて飛び越えられないようになっていた。門があり、労務の詰め所があった。寮生は逃亡防止のために全員菜っ葉服姿だった。夜は寮に中を回って頭数を調べた。直方、折尾、原田などの駅には監視専門の労務係を置いた。赤坂炭鉱の労務事務所には留置場のような監獄部屋があった。ケーブル線で殴られた朝鮮人の首筋は蛇のような跡を残し化膿して血膿と悪臭を漂わせていた。休みの日に朝鮮人を集めて理由もなく殴り倒す労務もいた。坑内でも叩かれるなど、炭鉱は「朝鮮人地獄」だった(『林・記録』三二四頁〜)。
連行された人々は板壁の収容所に入れられて監視され、ときにはケーブル線も使っての殴打がおこなわれた。さらに戦争による増炭は労働者の酷使を強め、暴力による労働の強制がおこなわれた。
黄さんはいう。一ヶ月に一回大量出炭が求められ、ノルマが終わるまで昇坑できなかった。坑内はガスが多くて熱気が強く、頭がボーとかすみガス釜で働くようなものだった。空腹と疲労と睡魔のなかで頬は落ち目が窪んだ、と(『林・記録』、三三二頁〜)。
赤坂炭鉱で一九三四年から働いた張遜鳴さんは次のようにいう(『林・記録』)。
日中戦争が始まると石炭の増産が命令され、扱いがひどくなった。休みを認めず、牛か馬のようにこき使った。逃亡したりサボったりした坑夫は交替時に繰り込み場の前に正座させられ労務から叩かれた。腕立て伏せをさせられ、青竹で叩くと割れた先端が肉に食い込んだ。木刀でも叩いた。ベルトで叩くと水ぶくれを起こし内出血した。動けない同胞のために自分の飯とおかずを食べさせると労務に叩かれた。死ぬほどの重症も公傷とされず本人の不注意とされた。リンチで殺しても採炭中の事故死とされた。即死しても数日後に坑外で死んだことにして金をケチった。一九四四年にはツルハシの穂先が腹にあたって苦しむ朝鮮人を医者が手当てせず、四日後に死亡したが、殉職扱いとしないこともあった。自身も労災にあって腰の骨を折ったが。十分な治療を受けることができなかった、と(『林・記録』三八三、三八六頁)。
増産態勢の中での酷使と青竹・木刀・ベルトなどで叩いての暴力的な強制労働がおこなわれた。負傷しても十分な治療をおこなわなかった。
麻生では強制連行が始まる前から多くの朝鮮人を使用し、連行期にも多くの在留朝鮮人を炭鉱で雇用した。戦争末期には彼らも現場で徴用扱いになっている。
C連行朝鮮人の証言
つぎに、麻生系炭鉱に朝鮮半島から直接連行された朝鮮人の証言をみてみよう。連行は一九三九年後半から「募集」のかたちで始まっていくが、一九四一年頃の連行状況については鄭清正さんの記録『怨と恨と故国と』がある。連行や労働状況に関するところを要約するとつぎのようになる。
鄭さんは一九二四年生まれ、慶北高霊郡出身。一九四一年二月に吉隈炭鉱に連行された。日本に行けば働き口があり生活も楽になるという噂が農村の若者にまことしやかに広まったが、それは人狩りのための甘言だった。一九四一年一月二八日、面事務所に呼び出され、翌日警察署に出頭するように言われた。翌日警察署には一五〇人ほどが集められ、点呼を受けたのち、内地への連行を告げられた。監視されて質問ができる状況ではなかった。三台のトラックで立ったまま大邱へと運ばれた。汽車で釜山に行き、釜山から下関を経て、麻生吉隈炭鉱へと連行された。
炭鉱の収容所で一夜を明かし、病院で身体検査を受けた。朝鮮語で名前を読み日本語でまた読んで日本語読みの姓を覚えさせられた。二月五日には仕事をさせられた。労務係が前後に付き坑道に向かった。坑道内は臭気があり暑かった。弁当のおかずはタクアン三切れ水筒は一本だけ。重労働に耐え切れず、地下からの泡のような水を飲んだ。一日くらいは休みたいと口に出したら最後、半殺しの目にあうため、休みをくれと言い出す者はいなかった。逃亡を企てて捕えられた者は目の前で半殺しにあった。鄭さんは三人で一九四一年八月ころ逃亡して白聖文の飯場に入るが、そこでは坑夫が番号で呼ばれていた(『怨と恨と故国と』五八頁〜六九頁)。
鄭さんの記録から、甘言が流れされるなかで警察署に出頭させられ、質問さえできない雰囲気の中で連行されたことや、連行現場では粗末な食事と暴力によって労働を強いられたことがわかる。
一九三六年から四五年にかけて吉隈に居住していた金鳳善さんの「麻生吉隈炭坑略図」には強制連行朝鮮人を収容していた二箇所の寮が記されている。図によれば収容寮は末広町(金剛寮)と本町にあり、金剛寮は三メートルの板塀で囲まれていた。金さんは本町の収容寮のすぐ横に住んでいた(金鳳善「麻生吉隈炭坑略図」)。
この地図からも連行されていた人々が隔離された収容施設に拘束されていった状況を知ることができる。
一九四二年になると連行は官斡旋の形でおこなわれていく。この時期の連行の状況を示す証言が、一九四二年末に赤坂炭鉱に連行された文有烈さんのものである(『林・記録』)。
文さんは一九一六年生まれ、全南霊岩郡出身。結婚したばかりの一九四二年の末、面の巡査と書記らが土足で侵入し、「一緒に来い」と巡査に家の外に突き出された。このとき面から三四人が連行された。順天で九州の炭鉱に行くと告げられた。麗水で一六〇人ほどとなったが、監視人が手に木刀を持ち、海岸の倉庫に入れられ外から錠を掛けられた。軍服を着た男に本人かどうか照合を受け、身体検査され、九州の麻生炭鉱に行き、一年で帰国できると聞かされた。一九四三年の元旦に博多につくと、憲兵が監視するなか麻生の労務や協和会の幹部が出迎え、博多駅から原田経由で赤坂炭鉱に連行された。収容された寮は兵舎のような建物であり、高さ三メートルの板塀、鉄条網があった。寮の中央にはガラス張りの監視塔があった。一棟が五部屋であり、四畳半の一部屋に五人が押し込められた。寮の入り口はひとつであり、そこに労務の詰所があった。
朝五時に起こされ、広場で点呼を受けた。宮城遥拝、君が代、皇国臣民の誓詞のあと、六時に入坑した。六時から九時までの一五時間労働だった。「これから敵のトーチカを攻撃する。突撃進め!」と坑口へ追いたてられた。食事は大豆かすと麦を混ぜたものが多かった。労務は見せしめに死ぬほどに叩いた。強制貯金され、送金は最初の二〇〇円が送られたきりだった。労務にそれを糾すと、なぜ朝鮮に問い合わせたのかと逆に木刀でたたかれた。
文さんは近くの飯場に逃走し、さらに泉水炭鉱にいった。しかしそこは圧制ヤマであり、労務に叩かれて死ぬ朝鮮人が多かった。リンチは、たとえば柿木にロープで両足を結んで逆さ吊りにしておこなわれ、口や尻から水を入れ鉄の棒で殴られ、手足が折れる音でぐったりとなった(『林・記録』四〇五頁〜)。
文さんは自宅に侵入されて駆り出され、監禁され連行された。赤坂の収容寮は板塀・鉄条網・監視塔付の施設だった。労働現場の戦場化のなかで暴力と強制貯金による労働を強いられた。逃走した現場もまたリンチが横行する圧制ヤマだった。文さんの証言は連行と労働現場での暴力性と強制性を示している。
勤労報国隊に組織されて麻生炭鉱へと強制連行された在留朝鮮人もいた。
姜聖香さんは大阪府大淀勤労報国隊の形で組織され、三五人の朝鮮人とともに連行され、赤坂炭鉱で五ヶ月間の労働を強いられた。姜さんは令状で特高に呼び出されて身体検査をうけた。特高は具合が悪いと拒んだ朝鮮人をひどく殴った。行き先も知らされずに汽車に乗せられ、寺で精神教育などを強要され、さらに赤坂炭鉱へ連行された。炭鉱の坑内にはガスが満ち溢れ、このガスの排出やガス防止作業を強いられた。ガスと熱気で強い眠気に襲われ、手足の指を怪我したこともあった。姜さんは「私たち、朝鮮人は炭鉱に行きたくて行ったのではない。強制連行されたのです」と述べている(K・T生「知られざる麻生太郎外相の家系A」『週刊金曜日』五九八号)。
都市部に生活する朝鮮人を勤労報国隊に組織して行き先を明言することなく、炭鉱へと連行していったのである。このような連行による労働も戦時下の強制労働であった。
連行は一九四四年には徴用の形になる。朝鮮内での逃走も増加する。この頃の連行状況についてみてみよう。
D強制労働の実態と抵抗
赤坂炭鉱の寮長だった持田次男さんは一九四三年から四四年にかけて連行にかかわっている。証言によれば、警察や面長に賄賂を送り料理屋で「酒と女攻め」で目的達成を狙い、元巡査も利用した。京城の募集担当者は政治力を使って総督府に圧力をかけ地方の道庁・郡・面へと命令させるために工作した。農村に人間がいなくなると町で探した。風呂場・市場・映画館などで若者や出てくる者を片端から連行した。逃亡者が出るため監視の応援を頼んだが、それでも逃亡者が出た。一回朝鮮募集に行くと目の周りに黒い痣ができるほどくたくたになった(『林・記録』四二五頁〜)。
この証言から、総督府に圧力をかけ、警察や面関係者に賄賂を贈って警察力を利用したこと、さらに人員が足りなくなると農村から都市に行って人間を駆り集めた状況がわかる。
石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」には、一九四三年の麻生への連行者が約二〇〇〇人分あり、江原道からは一二〇〇人を超える朝鮮人を連行したことがわかるが、一九四三年一一月と一二月には京畿道から三八〇人を連行したことが記されている。それは江原の農村地帯からの連行から京畿の都市部を含めての連行に変わっていったことを示しているのだろう。
持田さんはいう。一九四四年末ころには連行が止まったため、満期者を延長して使った。寮内にスパイを置き、怪しいものは飯塚署の特高に連絡してヤキを入れた。逃亡者には朝鮮人助手にヤキを入れさせた。稼働率を維持するために入坑を強制し、力で押さえつけて入坑させた。一九四五年には軍の輸送が優先され、釜山で一〇日間待ち、そのうちに一三人が逃走し、一七人を連行したことがあった。軍工事場やセメント採掘場などへの逃亡者が多かった。他の炭鉱からの引き抜きもあった(『林・記録』四二八頁〜)。
この証言から、連行者数が減少すると満期帰国を中止して延長したこと、朝鮮人の動向を監視するためにスパイをおき、入坑を暴力で強制したこと、一九四五年に入っても連行は続けられたが、逃亡者も続出するなど朝鮮人の抵抗が続いたことなどがわかる。
一九四五年六月にも連行がおこなわれたことは佐賀県の麻生久原炭鉱の名簿からもわかる。名簿には江原通川等から連行者として一九四五年四月二五日の一六人、六月一三日の二一人分が残されている。六月に連行された人々の名簿をみると一九二八年生まれが六人あり、連行時には十六歳のものもいる。かれらの多くが採炭夫と記されている。
暴力の状況については、元飯塚署の特高主任柿山重春さんも次のようにいう。「当時の麻生系の労務の系列というのは、とてもじゃないが権力を持ってひどかった」、労務係に朝鮮人を入れて命令し、酷いことをさせていた、と(『林・記録』三七二頁)。朝鮮人に朝鮮人を殴らせるという対応もとられたのである。
このようにして連行がすすめられ、暴力的な管理によって労働が強制されるなかで、赤坂炭鉱で朝鮮人への傷害致死事件がおき、それを契機に朝鮮人争議となった。この事件については黄、張、持田さんらの証言がある(『林・記録』三二八〜、三八五、四三二頁〜)。
その証言をまとめると次のようになる。
一九四四年秋、第二直轄寮の労務の吉村は、飲酒の上、朝鮮人を虐待して、その睾丸を切り刻み、事故死に見せかけるため線路上に放置した。その遺体を発見して朝鮮人は激怒し、第二直轄寮を襲撃して飯塚病院の赤坂分院も襲撃した。世帯持ちの女性たちも含め数百人が参加した。労務の吉村を殴打し、労務事務所前の山ノ神の石垣を掘り返し叩き割った。採鉱は三〜四日停止し、林ら朝鮮人代表が待遇改善、満期での帰国許可、労務係の暴力の禁止、寮の改善、監視等の撤去などを要求して坑長と会談した。これに対し飯塚署は数人を逮捕、代表の林らは強制送還された。吉村や線路に遺体を運んだものは無罪だった。飯塚の憲兵派遣隊の朝鮮人憲兵安田大尉らが毎日巡回するようになった。彼らを炭鉱は費用を持って接待した。
朝鮮人労働者が殺害されても労務への刑事罰はなかったようである。逆に抗議した朝鮮人のリーダーが検挙され、憲兵隊が炭鉱を監視するようになった。この事件は連行朝鮮人が人間として扱われていなかったことを示すものである。
ここで朝鮮人の争議についてまとめておこう。一九四二年二月には赤坂炭鉱で公休日の入坑に抗議して三一人が入坑を拒否した。一九四三年八月には吉隈炭鉱で、舎監室を破壊し、巡査の暴力に対して駐在所にも押しかけ、一八人が送局された。同月、赤坂炭鉱では労務による過酷な取調べが原因で事務所を破壊し、二四人が検挙された(『特高月報』『在日朝鮮人関係資料集成』四・五)。朝鮮人の抵抗はこれ以外にもさまざまな形でおこなわれていったであろう。
E朝鮮人の遺骨
死亡者の遺骨についてみておこう。
麻生の炭鉱に勤労報国隊員として動員されたこともある観音寺住職の古賀博演さんは次のようにいう(『林・記録』)。
最初は殉職者の遺骨を故郷に送っていたが、制海権を奪われると遺骨の送還は止まり、寺に預けるようになった。寺に遺骨が溜まるようになると、面事務所に手紙を出し、旅費を出すから遺骨を受け取りに来いといった。遺骨を受け取っても連絡船が出ず、炭鉱で働くケースもある。
炭鉱の周辺には朝鮮人の無縁仏が無数にある。炭鉱は「石炭一塊は銃の弾」と火葬用の石炭を惜しんで使用せず、労務は炭鉱の敷地内に穴を掘らせて埋めた。分かっているものは戦後掘り出して仲間が持っていった。
寺は炭鉱の労務政策の一環だった。炭鉱独自で火葬場を持ち、火葬許可証なしで火葬できた。ひとつの石炭箱に五〜六体を詰め込んだものもある。麻生系の低賃金は有名であり、それによって戦時利益をあげた。奴隷工場と同じであり、朝鮮人は戦時の消耗品に過ぎなかった。筑豊には引き取り手のない朝鮮人の遺骨が無数にある。それは戦争がまだ終わっていないことの証明であり、強制連行した政府と炭鉱資本の責任が果たされていないことを示している。無数の遺骨の声を聞き届けてほしい、と(『林・記録』四一九頁〜)。
文有烈さんはいう。
赤坂炭鉱のアリラン集落のすぐ下にある墓地のボタが置かれた土饅頭は朝鮮人の墓である。同胞が死んだとき穴掘りに行ったが、鍬を入れると骨が出た。殉職しても炭鉱で葬式したのを見たことはない。名誉の戦死というだけ、国許に知らせないこともあった。同郷の友人が落盤死したときには、弟に手紙で知らせた。炭鉱は赤坂の無縁墓地に埋めたといった。その場所は分からなかったが、探して掘り出した。労務は誰が知らせたのかと検閲を強めた。知っているだけで寮生三〇人が死んだ、と(『林・記録』四一三〜四頁)。
赤坂の請願巡査だった松藤要吉さんはつぎのようにいう。
死者が出ても、炭鉱は石炭がもったいないと火葬しないで無縁墓地に穴を掘って埋めた。馴れない労働でずいぶん命を落とした。朝鮮式の土饅頭がたくさんできた。労務が勝手に処分して知らせない状態だった(『林・記録』四〇三頁)。
吉隈炭鉱近くの観光寺の元住職中村義幹さんはいう。戦争直後一五〇余の朝鮮人坑夫の遺骨があった。閉山するときに労務が来て遺骨を置いていった。供養塔内には朝鮮人関連の一〇〇人余の遺骨がある。吉隈の労務係は大きな棒を持って朝鮮人を殴り殺した。「叩かなけりゃ仕事をしない」「一人や二人叩き殺してもかまわん」と語り、「朝鮮征伐じゃ!」とわめき散らして木刀で朝鮮人を叩いていた。中村さんは朝鮮人寮の跡に小さな塔婆を立てて供養した、と(『林・記録』四三七頁〜)。
これらの証言から、当初は遺骨を故郷に送っていたが制海権を奪われると送還は止まり、遺骨を引き取りに来させるようになった。労務が勝手に処分し、故郷に連絡しないこともあった。炭鉱は火葬用の石炭を惜しむようになった。炭鉱の周辺には無縁仏がたくさんできた。故郷に帰ることができなかった遺骨も多かった、といえるだろう。
F八・一五解放後の状況
八・一五解放時の状況についてみてみよう。
黄学成さんは一九四五年八月、赤坂炭鉱から立石村の西部軍司令部の疎開用壕工事に徴用された。そこには六〇〇人の朝鮮人が徴用されていた。三日後に解放となり、朝鮮人は万歳・万歳と夜が明けるまで踊った。赤坂では朝鮮人二〜三〇〇人が労務事務所を襲い、赤坂駅前の寮長の家まで押しかけた。そこには朴東雲の姿もあった。かれは赤坂のアリラン集落に居住し、朝鮮の植民地からの解放を求める独立思想を持ち、坑夫とかかわっていた。黄さんは坑長から一三〇〇人分の賃金処理を依頼された。貯金は寮長の判断で全ておろされ、寮雑費として使われていたという。(『林・記録』三一〇、三三四〜五頁)。
朝鮮人が連行されたのは炭鉱だけではなかった。炭鉱周辺には朝鮮人女性が性の奴隷として連行されていた。
アリラン集落には朝鮮人女性を置く店があり、女性たちが騙されて連れてこられた。朝鮮にブローカーがあり、娘たちを選炭婦にするなどと騙し、親に一〇〇〜二〇〇円を渡して、「三等料理屋」に売り渡した(『林・記録』三三一頁)。飯塚や鴨生には鄭在鳳が経営する店もあった(『林・記録』四三一頁)。鄭清正さんも飯塚へと朝鮮の女性たちが連行され性的強制を受けていたことを記している(『怨と恨と故国と』八七頁)。
解放後、鯰田炭鉱のアリラン集落で朝鮮人連盟の打ち合わせ会が持たれ、赤坂の朝鮮人女性の問題も話され、自主的に廃止することになったという(『林・記録』三三九頁)。
戦後の朝鮮人の自主的な活動の中で、性の奴隷とされた人々もその現場から解放されていった。しかし傷ついた体はその後も苦しい思いを与え続けただろう。
証言や記録にあるように、麻生へは強制連行による動員がおこなわれ、なかには一八歳に満たないものもいた。収容施設に入れられて監視され、暴力によって管理され、長時間労働を強いられた。労災や労働疾病への補償は不十分なものであり、条件の改善を要求すれば処罰され、不法な強要が正当化されていた。
強制労働条約で禁止されていたさまざまなことがらが、麻生のみならず、政府と資本によって全国各地でおこなわれていた。炭鉱近くの店に連行され性の奴隷とされた女性もいた。これらは人間の奴隷化であり、人道に反するものであった。
なお、麻生吉隈炭鉱には連合軍捕虜も三〇〇人が連行され労働を強いられた。
おわりに
歴史の記憶を正確に継承し、その歴史的責任を果たしていくことで、平和で友好的な未来を展望することができる。そのような立場から、ドイツは過去の記憶と未来を責任で結び付ける、強制労働者への「記憶・責任・未来」という賠償基金を設立した。
日本もドイツと同様、占領と植民地支配の下で人間を奴隷化し、強制連行・強制労働をおこなった。それは史実であり、その歴史的責任を果たすために行動が求められている。しかし、日本国内では戦後六〇年を経過したにもかかわらず、過去を否認し、その責任や賠償を否定する動きが絶えない。近年外務大臣になった麻生太郎においても同様の発言がみられる。
麻生太郎は、二〇〇三年五月には東京大学の学園祭で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と述べている。当時は自民党の政調会長だった。朝鮮の植民地支配による皇民化がすすめられるなかで一九四〇年に「創氏改名」が制度化されたが、渡日した朝鮮人はそれ以前から日本名を名乗って生活することを余儀なくされていた。麻生の炭鉱でも「東」、「木下」、「村上」、「福本」とされているものが多かった。植民地にするということは軍事力によって土地と人間を収奪し、さらにその精神も支配することである。そのなかで朝鮮人が日本人名を名乗ることが強制されたのであり、それは奴隷化政策の一環であった。麻生の発言は植民地支配とそのもとでの政策の誤りを認識する力が欠けていることを示している。
二〇〇五年一〇月には九州国立博物館の開館記念式典で「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」という趣旨の発言をした。この発言には、九州の文化が渡来人によって形成されてきたという歴史認識や東アジアの文化圏形成に対する学術的理解がない。そこには多様な民族・文化の交流によって日本社会が形成されたことを無視し、ことさら日本民族や文化を強調して他民族を差別する傾向があるといわざるをえない。
外務大臣になった麻生太郎は二〇〇六年八月に「靖国に弥栄あれ」を記し、靖国には国のために尊い命を投げ出したという日本人の集合的記憶があり、日本人を貫く棒のようなものがあるとし、靖国を特殊法人なかたちで国営化することと天皇の参拝を求めている。このような思考は国家主権のままの発想であり、戦争責任や政教分離の概念を理解したものではない。
麻生は二〇〇七年二月には、米議会での日本軍による性奴隷制に対する決議案に対して衆議院で「客観的な事実に基づいていない」と批判している。このような姿勢は戦争のもとでの日本による戦争犯罪について真摯に受け止め、被害者の救済をおこなっていこうとする視点がないことを示している。また、二〇〇七年九月の自民党総裁選で「自虐史観」批判の立場を公言した。、
ここでみてきたように、麻生で働く朝鮮人は暴力的な労務管理のもとで条件の悪い切羽に投入され、事故にあうことも多かった。さらに戦時には一万人を超える朝鮮人を連行し、暴力をもって強制労働をさせた。戦争が終わるとたくさんの遺骨が残されていた。しかし麻生は、戦時下の強制労働に対しても謝罪や賠償をおこなおうとはしない。連行された人々の尊厳は回復されないままであり、被害者にとって戦争は今も続いているということになる。
強制労働のもとでの麻生での朝鮮人の死亡者名簿を作成したところ、一六〇人を超える人々の死亡を確認できた。欠落しているものもまだ多いだろう。死亡者は二〇〇人を超えるだろう。
二〇〇五年十一月の日韓遺骨調査協議会で韓国側は麻生の強制連行についての資料を要求した。麻生はこの求めに誠実に対応し、朝鮮人関係史料を公開し、和解にむけての作業を積極的に始めるべきであろう。戦争と植民地支配について、自らの資本の責任をあきらかにすることは、麻生の信頼の回復となり、アジアの和解の動きにもつながるであろう。まず第一に過去を反省しようとする歴史への対応を「自虐」と放言する麻生自身の無責任な姿勢の克服が求められる。史実の否定や歪曲が対立を生み、その認知と賠償が和解と信頼の基礎となることを理解すべきである。
参考文献
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林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集U朝鮮人1上』明石書店一九九一年
日本石炭礦夫組合『麻生ゼネスト記録』、『争議闘争日誌』(「新加入受付簿」「入會人名簿」「麻生全坑争議団第二班人名簿」「麻生罪悪史」)
筑豊石炭鉱業事務所『麻生商店鮮人坑夫紛議に就いて』
協調会福岡出張所『株式会社麻生商店朝鮮人鉱夫労働争議概況』
『筑豊石炭鉱業会庶務事蹟』
『管内在住朝鮮人労働事情』
『筑豊石炭砿業史年表』田川郷土研究会一九七三年
鄭清正『怨と恨と故国と』日本エディタースクール出版部一九八四年
金鳳善「麻生吉隈炭坑略図」
金賛汀『火の慟哭』田畑書店一九八〇年
K・T生「知られざる麻生太郎外相の家系@〜C」(『週刊金曜日』五九六,五九八,六〇二,六〇五号)二〇〇六年三月三日〜五月一二日
クリストファーリード「麻生一族の恥・日本の外務大臣と連合軍捕虜の強制労働」二〇〇六年Japan Focus
横川輝雄「麻生系炭鉱の朝鮮人労働者」(季刊『戦争責任研究』五一)二〇〇六年
(2007年7月記、9月補充訂正・竹内)