岐阜の鉱山での朝鮮人強制連行

 

1恵比寿鉱山

2平金・天生・平瀬鉱山

3神岡鉱山

三井神岡鉱山の成立と戦時増産体制

神岡での水力発電工事と鉱山への強制連行

静岡県内の朝鮮人強制連行の調査をすすめていくなかで岐阜県から静岡県への転入を示す資料に出会った。「労務動員計画実施に伴ふ移住朝鮮人労働者の状況」(内務省警保局)という史料の「金属山に岐阜より一〇名移住」(一九三九年度)という記載である。この人たちはどの鉱山から転入させられたのだろうかと考えた。

 また、聞き取りをすすめるなかで大仁鉱山から岐阜の恵比寿鉱山へと移動した話を聞いた。恵比寿鉱山の所在と現状について調べる必要を感じた。

 以下は、岐阜県内の鉱山への強制連行調査の報告であり、朝鮮人遺骨の返還をめぐる動きについても報告する。

 

   一、恵比寿鉱山

 岐阜県蛭川村は三大鉱産地のひとつとされ、鉱産資源に恵まれている。この村の北部にある恵比寿鉱山では戦時下、軍需用鉱石としてタングステンが採掘された。

 恵比寿鉱山の発見は一九一〇年という。一九一二年に採掘と選鉱がおこなわれ、翌年から本格的な経営がすすめられた。一九一七年には恵比寿鉱業が設立され、一九二九年に東京エビス電球の経営下にはいった。

 恵比寿鉱山では主に、タングステン(鉄マンガン重石)・蒼鉛鉱が採掘されていくが、この他に灰重石・輝蒼鉛鉱・トパズ・自然蒼鉛・方解石・錫・輝水鉛・蛍石・硫砒鉄鉱・黄銅鉱・黄鉄鉱・放射性モナズ石なども伴出した。

 タングステンは当初、電球用材としてつかわれていたが、日本の侵略戦争が拡げられていくなかで軍需用材として重視されるようになった。タングステンを産出する恵比寿鉱山も注目されるようになり、一九三九年ころから鉱山の開発がすんだ。一九四二年には木下章三、栢森誠が共同鉱業権を獲得し、タングステンの増産をすすめ、一九四三年五月には木下によって共栄工業が設立されていった。

 恵比寿鉱山でのタングステンの産出額は一九四二年に東京鉱山監督局管内では第二位となり、タングステン六〇パーセントの精鉱月産は四トンになった。労働者数は六○○人余りとなり、村人も就労していった。

 このようにして鉱山の経営が拡大されていくなかで、労働力として朝鮮人が投入されるようになった。

 『恵比寿鉱山時代の思い出集(第一集)』には増産と朝鮮人の増加を示す証言がある。内容を要約するとつぎのようになる。

「一九四一年〜四二年ころ増産体制がとられ、選鉱場は二交替、坑内は三交替となり、タングステンの採掘がおこなわれた」(纐纈貞治)。

「一九四四年に一〇〇人あまりの朝鮮人が徴用で村へきた。飯場では足りず、部屋のあいている家を借りた」(安江美佐子)。

「朝鮮人と共に働いたが、交替時間になっても出社しない人もあり、大声で朝鮮語でしゃべられると恐しかった」(林弘)。

 蛭川町教育委員会が作成した『蛭川写真集』には恵比寿鉱山の全景、社宅、精錬所の写真が収められている。また『ふるさと蛭川』には戦時中の恵比寿鉱山の写真が一枚採用されている。

この『ふるさと蛭川』にある恵比寿鉱山の戦時中の写真を所蔵する安江美代子氏によれば、この写真の前方にいるのが親方、後ろの方で仕事をしているのは朝鮮人とのことである。朝鮮人の飯場頭を率いた日本人親方(大戸組)が安江宅を間借りしていた。その縁からこの写真を含め二枚の写真が残されている。

 安江氏によれば当時の状況は次のようになる。

 恵比寿鉱山に朝鮮人がたくさん動員されてきたのは一九四三年から四四年はじめのことだった。タングステンの需要が増え、政府の財政支援のもとで山を削って新しい選鉱場の建設がおこなわれた。この選鉱場づくりは朝鮮人の動員によってすすめられた。朝鮮人は飯場や農家の空室を借りて住んだ。朝鮮人の親方が五〜六人いて、松山、大宮、木村などと名のっていた。朝鮮人の飯場は安江宅から切井那木川を隔て、一軒向こうの家の川ぞいにあった。飯場で結婚式があったときには呼ばれたこともあった。工事は一九四五年春に中止された。朝鮮人は仕事を各地に探しにいったようだ。四五年の五〜六月ころにチフスが発生し飯場や周辺の農家に流行した。飯場の子どもが亡くなった(安江美佐子氏談一九九六年)。

 厚生省勤労局調査報告(岐阜県分)には一九四五年に連行された朝鮮人二三人分がある。この報告書によれば、これらの二三人は神岡鉱山からの転送者である。

 戦時中、恵比寿鉱山にきて働いたことのある「龍好氏はつぎのように語った。

「一九四四年二〜三月ころ恵比寿鉱山に行った。大仁鉱山での経験があったので鉱山側も喜んで迎えた。大仁で共に働いた金山や木村ら四〜五世帯とともに仕事についた。住居は日本人鉱夫の住居のはなれを一家で借りた。神岡鉱山からも来ていた。あるとき朝鮮人が大井の駅から数珠つなぎに縛られて連行されてきた。ある者は朝鮮服のままだった。鉄条網をはったバラック建の飯場に閉じこめられて働かされた。一〇〇人くらいになった。逃亡者も出た。逃亡があると、警防団が動員され捕えに行った。みつかれば半殺しの目にあった。私の住んでいる所にきて逃げようとする人もいた。握り飯を持たせて逃走を助けたこともある。私も四五年四月ころ恵比寿鉱山を離れた」(一九九一年談)。

 恵比寿鉱山での採掘や選鉱場建設のために朝鮮人が動員され、なかには朝鮮半島から強制連行された人々もいたことが証言や資料からわかる。新選鉱場建設にかかわった朝鮮人労働者の写真も残されている。

 安江氏宅に一時期同居したという朝鮮人「成田」氏の跡を追ってみたが、数年前に亡くなったという。連行を目撃した「さんも一九九四年に亡くなった。朝鮮人の戦時下での動員や連行について語ることのできる人は九〇年代に入りつぎつぎに亡くなっている。

 恵比寿鉱山は蛭川村和田の西側にある。蛭川村の中央を北から南へと和田川が流れる。和田川の支流、切井那木川を上がっていくと鉱山跡がある。鉱山跡には日本マイクロ機工恵那工場の建物と鉱山事務所がある。

 朝鮮人によって建設されていた選鉱場跡は鉱山事務所からさらに西にむかって橋をこえた北側にある。跡地は木々に理まっているが、段状の跡地に地肌が見える。坑口から流れ出る水のため一帯は湿地になっている。雑草が選鉱場への道を阻んでいる。地肌をみせて残存する選鉱場跡は訪れるものに連行の史実を語りつづけているように思われた。

 恵比寿鉱山からは硫砒鉄鉱も採掘された。恵比寿鉱山の北方にある遠ケ根鉱山(一九三九年開発)では硫砒鉄鉱から亜砒酸がとられていた。亜砒酸は当時日本軍が使用していたくしゃみ性の毒ガス兵器(あか弾・あか筒)の原料になった。恵比寿鉱山で採掘された硫化鉄鉱も毒ガス製造に利用されていったと思われる。日本軍の毒ガス戦という戦争犯罪にもこの地域の鉱山は関係していたといえるだろう。

遠ケ根鉱山や隣の福岡町の福岡鉱山(一九四一年再開発、タングステン・ベリウムを採掘)などでも朝鮮人が動員されていたように思われるが、その実態はあきらかではない。

 

二、平金、天生、平瀬鉱山

 

平金鉱山

 高山市から乗鞍にむかって二〇キロメートルほど行くと丹生川村旗鉾に着く。旗鉾の郵便局から左に入り、国道の下をくぐって南へ二キロメートルほど行くと吉井谷があり、さらに林道を上って一キロメートルほど行くと、かつて金沢町と呼ばれていた鉱山町の跡がある。ここから橋を渡り、さらに上がっていくと平金鉱山の跡がある。現在では治山工事がおこなわれ、当時の面影は失われているが、ズリや坑口が残っている。

 平金鉱山は銅を産出した。この鉱山は一八九二年に発見され、一八九四年に横山鉱業によって採掘がはじまった。鉱区は一七二三メートルの山中にあり、山の中腹に鉱山労働者の住宅、麓に町が形づくられた。町には小学校、郵便局、病院、劇場、駐在所などがおかれた。鉱山全盛期の一九〇七年には男七四〇人、女一七〇人の鉱山労働者がいた。一九一〇年の生産高をみると銅四〇五トン、銀九二〇キログラムとある。

 しかし、精錬の際に出る煙と鉱毒水が地域を汚染した。鉱山周辺約二〇キロメートルの山林は荒廃し、鉱毒水は小八賀川の下流にまで及んだ。国府の三川に鉱毒防止用の沈澱池がつくられた。横山鉱業は一九一八年に平金での鉱業を停止した。

侵略戦争の拡大によって銅の増産体制がとられ、平金鉱山での鉱業は一九三七年に再開された。採掘は昭和鉱業によっておこなわれ、不足する労働力は朝鮮人の動員によって補われていった。

 岩井谷に住む尾前吉勝氏によれば、昭和鉱業による採掘の頃は朝鮮人の親方が仕事を請け負って、その下にたくさんの朝鮮人が従事した。日本語のわかる朝鮮人が班長になった。朝鮮人の飯場が鉱山にそって流れる黒谷川の対岸につくられた。坑口はいくつかあり、採掘した鉱石はトラックで運送されたという(一九九六年談)。

 厚生省勤労局調査報告(岐阜県分)によれば、昭和鉱業平金鉱山へと一九四三年に四二人が連行されている。連行された人々は一九四三年十一月一〇日に全羅南道から集団で連行されている。この中から一四人が逃亡している。他にもおおくの朝鮮人がこの鉱山で働いていたと思われる。

 平金鉱山にむかう林道を上がっていくとズリが硫黄臭を漂わせている。風化した鉱石のなかに銅を含んだ部分が輝く。坑口から流れ出る水は鉱毒を含み、水に触れると指がしびれる。硫黄臭のなか、鉱毒水に触れながら、黒谷川沿いの地点に連行され労働を強いられた人々について考えた。山を下って鉱山跡を遠望すると、夕陽が削られた山頂を照らし、その頂の赤茶色をさらに濃くしていた。

 

 天生鉱山

 天生峠は富山県に接する河合村から西側の白川村に抜ける峠である。この峠近くに天生鉱山があった。河合村から峠にむかう南側の谷は途中、天生谷川と金山谷川に分岐している。この金山谷川の二キロメートルほど上流に金を採掘した天生鉱山があった。

 この鉱山は日本産金振興が経営していたが、のち半官半民の帝国鉱業開発の所有となり、戦後は廃鉱となったという。現地でのききとりでは「朝鮮人もたくさんいた」とのことであった。厚生省勤労局調査報告(岐阜県分)によれば、天生鉱山へは一九四二年七月九日に忠清南道から二三人が連行されている。一九四四年七月に満期と記載されている。

この鉱山についてはわからないことが多い。

 

平瀬鉱山

白川郷の合掌村から庄川を南へと上流に向かっていくと平瀬温泉に入る。平瀬学校前から庄川にかかる平瀬橋を渡ると、平瀬鉱山の坑口と選鉱場跡がある。ここではモリブデン(輝水鉛鉱)が採掘された。

 平瀬鉱山の発見は一九一一年のことである。以後小規模な採掘がおこなわれたが、戦争の拡大とともに、一九四〇年に大阪の寿重工業が採掘権を獲得し、海軍が全面的に支援した。平瀬鉱山は採掘の指定をうけ、労働者が徴用された。労働者数は一九四三年には約一二〇〇人となり、モリブデン生産は最高で月産二〇トンほどになった。

 モリブデンは合金鋼として多く使われる。モリブデンを金属に吹きつけることで強固な被膜をえることができた。モリブデンは強度を増し、耐磨耗性や耐食性を強める。軍にとってモリブデンは、たとえば軍艦用鉄板の強度を増すなど、軍需用鉱石としてなくてはならないものだった。

 厚生省勤労局調査報告(岐阜県分)によれば、日本水鉛平瀬鉱山へは一九四三年一二月九日に四一人の朝鮮人が慶尚南道から連行されている。逃亡者は二六人に及んでいる。この連行者以外にも多数の朝鮮人が動員されたと思われる。一二〇〇人という鉱山労働者のうち動員された朝鮮人の割合についてはわからない。

 平瀬鉱山に朝鮮人が動員されていたことは『特高月報』に、一九四三年一〇月二六日の祭日、平瀬鉱山の日本人事務主任が村長によって殴られたことを契機に、鉱山の朝鮮人が「主任を救え」と糾合し、地域民と乱闘となったことが記されていることからもわかる。

 平瀬鉱山の大切坑の入口には鉱石が祀られ、選鉱場跡にはモリブデン鉱が銀色に輝いて散らばっていた。

 

御嵩亜炭

 岐阜県内で戦時下朝鮮人が多数就労していた場所のひとつが御嵩町の亜炭採掘現場である。御嵩で亜炭の採掘が本格化したのは一九三八年ころである。それは石炭の配給が統制され、亜炭を愛知や岐阜の工場が使うようになったからである。亜炭採掘がピークをむか

えたのは戦後の一九四七年であり、御嵩では国内生産量の四割ほどを掘りだした。そのころ町内には五〇余の炭坑があり、働く朝鮮人の数は二千人をこえていたという。

 「永讃氏の場合、空襲を逃れて一九四五年七月ころに兄の住む御嵩へと移り、亜炭採掘現場で働いた(朝日新聞一九九六年一二月一〇日付記事)。

 

三、神岡鉱山

  三井神岡鉱山の成立と戦時増産体制

 神岡での採掘の歴史は古く、八世紀初めの採掘が知られている。一六世紀には和佐保や茂住で銀の採掘がおこなわれた。

 一九世紀末、三井資本による鉱区の買収がすすめられ、政府による支援とともに、三井神岡鉱山が成立した。神岡の鉛・亜鉛鉱床は日本最大であり、この鉱床群は栃洞、円山、茂住にある。二〇世紀に入るとこの豊かな鉱床での鉛、亜鉛採掘がさかんにおこなわれるようになった。

 日露戦争で鉛の需要が増え、鉛価格が高騰すると神岡での生産は拡大された。第一次世界戦争で鉛や亜鉛の需要が増すと、その生産はさらに拡大された。神岡鉱山は三井財閥下の三井鉱山のなかで重要な位置を占め、日本最大の亜鉛鉱山へと成長していった。

 鹿間で亜鉛精錬がおこなわれるようになり、茂住には浮遊選鉱場がつくられていったが、他方で鉱毒水と煙害による地域汚染がすすんだ。カドミウム、鉛、亜鉛などからの鉱毒が高原川から下流へと流され、一九一二年にはすでにイタイイタイ病患者が発生、鹿間谷の煙害では草木や蚕が死んだ。一九一六年には阿曽布村で精錬中止を求める村民大会がもたれ、翌年には円城寺で住民大会がひらかれている。住民の反対運動の力は一九一八年に神岡鉱山での亜鉛焙焼を中止させた。

 第一次世界戦争がおわり、亜鉛と鉛の輸出が急減すると、三井資本は合理化と新技術の導入をすすめた。生産拡充のための諸施設が一九二〇年代に建設されていった。建設されたものをみてみれば、鹿間・土間の軌道、鹿間・笹津間の馬車軌道、猪谷・神岡軌道、上平・土間送電線、栃洞通変電所、跡津水力発電所、茂住と鹿間での選鉱場、猪谷発電所などがある。一方、今度は鉛精錬による煙害問題が発生していった。

 一九二〇年代の神岡周辺での朝鮮人についてみてみれば、一九二二年に茂住での朝鮮人の就労が確認される。二七年には吉城郡坂谷トンネル工事現場での崩壊事故によって三人が死亡している。この事故に対しては争議団がつくられ、大林組と交渉した。富山から朝鮮人の白衣労組が支援し、船津警察と消防団による弾圧に抗して、たたかいがくりひろげられた。

 一九二八年二月には茂住で神岡水電工事のトンネルが崩壊、朝鮮人が生き理めになった。争議団によるたたかいがすすめられるが、大林組は暴力団、警察、消防団と一体になって弾圧、富山の白衣労組が支援にかけつけるが、争議団幹部は全員検束され拷問をうけた。支援の朴広海も検挙された。

 一九二九年〜三〇年には富山と神岡を結ぶ飛越線工事現場で朝鮮人の争議や事故が確認される。鉄道、道路、発電工事などに多数の朝鮮人が就労したが、それらの現場では事故による死傷がたえなかった。一九二九年、神岡鉱山は笹津から国鉄線を利用し、猪谷発電所からの電力を使用するようになるが、これらの鉄道や発電所の建設には多くの朝鮮人の労働が費やされている。

 一九三一年以後、日本は侵略戦争を拡大するが、戦争は亜鉛の需要をたかめた。銅と亜鉛の合金である真鍮が増産され、鉛はたとえば潜水艦の電池用材に使われるなど、軍需用の生産が増した。一九三五年には第一次増産計画がたてられ、一九三五〜三八年には第一次世界戦争期についで第二のピークをむかえた。一九三〇年代にはいると施設も拡充され、土発電所改修、第二土発電所新設、栃洞選鉱場新設、六郎・浅井田間の軌道建設などがおこなわれた。これらの工事にも多くの朝鮮人が就労していたとみられる。

 一方、鹿間堆積場からの亜鉛による環境汚染がすすみ、神通川流域での鉱害が深刻な問題になっていった。

 中国への全面侵略がはじまると神岡での増産体制はさらに強められた。一九三八年に第二次増産計画、三九年には第三次増産計画、四〇年には第四次増産計画がたてられた。

 また、円山坑開坑、栃洞通変電所増強、栃洞第二選鉱場建設、東町発電・牧発電工事、鉛電解工場の増改築などの設備の拡充がすすめられた。

 一九四二年には亜鉛電解工場と焙焼硫酸工場が建設され、神岡での亜鉛と硫酸の製造がはじめられていく。神岡鉱山は海軍の指定工場となり、一九四四年には指定拡充増産計画がたてられた。硫酸貯蔵タンクが新設され、カドミウム生産もはじまった。

 このような一九三五年から四四年にかけての増産体制のなかで、神岡鉱山での出鉱量はこれまでの四倍になった。大量採掘がすすめられたわけである。そしてこの増産体制を維持するために朝鮮人が多数動員された。その動員は主として朝鮮半島からの強制連行の形をとっておこなわれた。少なくとも神岡水電の牧、東町の発電工事に約一一〇○人、神岡鉱山には約二三〇〇人の朝鮮人が連行されている。

 一九四四年の神岡鉱山での労働者数は約六五〇〇人。『特高月報』では連行された朝鮮人の現在員を一一八五人(七月)としているから、四四年ころの神岡鉱山での朝鮮人の比率は二〇パーセントほどとなる。連行者はさらに増加していったから、朝鮮人の比率は更にあがっていったと考えられる。神岡では連行者以外の朝鮮人も多数働き、軍需生産に組み込まれていた。

 

 神岡での水力発電工事と鉱山への強制連行

 朝鮮人の強制連行についてみてみれば、神岡への連行は神岡水電工事と神岡鉱山への連行の二つにわけてみていくことができる。

 はじめに神岡水電工事への連行についてみてみよう。戦時下の増産体制のために大量の電力が必要となり、一九三九年末から神岡水電鰍ノよって牧と東町の二つの発電所の建設とこれらの発電所に発電用の水を送るための導水路の掘削がおこなわれた。この両発電所は一九四二年に日本発送電に統合された。

 発電工事がはじまった一九三九年末は全国各地への朝鮮人の強制連行が開始されたときであり、牧発電工事を請負った大林組と東町発電工事を請負った間組はともに政府から一九四〇年に朝鮮人を連行する承認をえている。承認数は、間組が四〇〇人、大林組が六〇〇人の計一○○○人である。さらに間組は一九四一年に一〇〇人の承認をうけている。『協和事業年鑑』によれば、一九四〇年に間組は上宝村で五〇人、船津町で五〇人、阿曽布村で五〇人の計一五〇人、大林組は船津町で三〇〇人の三ケ月間の労務者訓練をおこなった。

 すでに一九三九年一二月には政府の指示によって岐阜県協和会が設立され、連行された朝鮮人や在日朝鮮人を統制した。県協和会は一九四〇年末には男一一八八三人、女七二一一人を組織した。この協和会による貯蓄の強制が一九四〇年に、大林組船津の一八二六人、間組東町の三九五人、三井神岡鉱山では二三四人に対しておこなわれた。

 また、一九四〇年九月一三日には船津署で「移住労働者指導員打合会」がもたれ、間組、大林組、三井神岡鉱山の「指導員」が集められた。主な協議項目は「移住労働者訓練方針、訓練徹底、風俗習慣の内地化、労働者家族の指導」というものであった(『協和事業年鑑』一九四二年)。連行者が増加するなかで朝鮮人への統制監視が強化されたことがわかる。

 この両発電工事は一九四二年末には完成したが、工事中は事故が続出したようだ。神岡町に残されていた埋火葬認可証(金蓬洙氏調査)をみれば、両発電工事に動員されていた朝鮮人の事故の状況をうかがい知る事ができる。

 死者とその死因をみると、豊川圭沢・阿曽布村、頭部大裂創頭蓋骨骨折(一九四〇年一二月[推定」)、崔錫東、全身打撲(一九四一年四月)、金文奉・阿曽布村、前胸部打撲等(一九四一年四月)、「乙坤・阿曽布村、左前額部打撲他(一九四一年五月、東町発電所工事現場)、金且童・阿曽布村、左腿部圧迫、左脛腓複雑骨折他(一九四一年五月)、平井應明・阿曽布村、外傷死(一九四一年五月、第三隧道内)などがある。これらの死者の状況から事故による死傷者が続出した一端を知ることができるだろう。

 当時の状況を黄水祚氏の証言からみてみよう(『東京のコリアンタウン枝川物語』所収)。

 黄氏は慶北慶州出身、二二歳のときに渡日し、大阪、神戸を経て東京の深川へと移っていたが、そこへ弟から手紙が届いた。手紙によれば弟は、故郷の者とともに「募集」によって岐阜県船津の間組のダム建設現場へ連行され、タコ部屋に入れられた。仕事はきついし、事故で仲間が何人も死ぬ、恐ろしくていられないと、訴えていた。黄氏は弟を救いに岐阜の船津へ行った。逃げ道を確認したうえで、土工姿に変装して夜中に飯場へ行き、弟を連れ出して逃亡させた。

 この証言から、間組が慶北慶州から集団的に朝鮮人を甘言で連行し、タコ部屋に押し込め、死と隣あわせの労働を強いたこと、そこからの逃亡者がいたこと、などを知ることができる。

 東町発電工事は高原川上流の吉城郡上宝村神岡町の境の浅井田にダムをつくり、そこから導水路を掘り、東町発電所に水を運んで発電するというものであった。牧発電工事は東町からの水を導水路で牧まで運び、牧発電所で発電するというものであった。掘られた導水路は約一八キロメートルであり、これらの工事に多数の連行された朝鮮人が投入されたわけである。

 この発電工事への連行とともに神岡鉱山への連行もすすめられていった。

 一九四〇年には三五〇人の朝鮮人の連行が承認され、すでにみたように神岡鉱山(船津)で一五〇人が「労務訓練」を三ケ月間強要されている。協和会の貯蓄の強制には二三四人が従わされている(『協和事業年鑑』)。

 一九四一年にはさらに三〇〇人の連行が承認された(「移入朝鮮人労務者状況調」)。連行がすすめられていく一九四一年には神岡鉱山の共愛会が産業報国会へと再編された。また船津文化商業報国隊が組織され、勤労報国隊として神岡鉱山へと動員されている。

国家と資本は労働者の抵抗拠点をつぶし、戦争動員を強め、不足する労働力を朝鮮人の連行で補っていった。一九四二年一二月には連合軍捕虜が連行され、一九四三年には女子学生が船津女子勤労挺身隊の形で動員されていった。神岡へ連行された連合軍捕虜の数は約九〇〇人になった。

 「移入朝鮮人労務者状況調」や「厚生省調査報告書」から四二年以降の朝鮮人連行についてみてみれば、一九四二年三月までに五八〇人が連行され(同月までの残留数は四五一人)、一九四二年の連行者は三〇九人、一九四三年には五七五人、一九四四年には四四六人、一九四五年には三六三人が連行されている。神岡鉱山に連行された朝鮮人は二〇〇〇人をこえている。

 つぎに厚生省勤労局調査の朝鮮人名簿から連行状況について分析してみよう。

 この調査報告の三井神岡鉱山分の名簿は他の事業所の名簿と比べてみると、出身道と連行年のみの記載が多く、出身郡や連行年月日が記載されているものは少ない。 

この名簿から集団的連行状況を把握していくことは難しいが、逃亡者の項をみると連行年月日が記されているものもある。連行の状況はこの逃亡者の欄から捉えていくしかない。一九四二年、四三年分についてはこの方法で集団的連行状況の一端がわかる。一九四四年分については逃亡者の欄に連行年月日の記載がないので、それができない。一九四五年分については三次にわたる連行状況を名簿からわかる。なおこの名簿は一九四二年からのものであり、連行初期の一九四〇年、四一年の連行者名については記されていない。

 また、名簿の統計表と名簿に記されている氏名との数が異なっている。死者でみてみれば一九四四年の場合、表では一九人となっているが、名簿には三人の氏名しか記されていない。名簿では一六人分の死者の氏名が不明のままである。

 このように不十分な名簿ではあるが、この名簿から連行された人々の氏名(創氏名)がわかり、集団的連行の一端をみていくことができる。

 連行は主として全羅北道からおこなわれている。連行年月をみると、一九四二年一月、二月、七月、一九四三年二月、三月、四月、九月、一九四四年二月、一二月、一九四五年一月、三月、四月などである。一九四四年には他の月での連行もあったと思われる。

ここにあげた月が連行の全ての月を示しているわけではない。他の鉱山からの転送者も多かったと思われるが、それらの人々がこの名簿に記載されているかについては不明である。

 『特高月報』には朝鮮人争議についての記述がある。そこには一九四四年四月に八五五人、七月に一一八五人の連行朝鮮人の存在が記されている。この記述から、四月から七月の間に約三三〇人が連行されてきたとみることができる。しかし、厚生省名簿からこれらの月の連行についての手がかりをみつけることはできない。

 一九四五年分の名簿をみると、総計表には三六二人とあるが、実際には三三八人分の記載しかなく、二四人分が欠落している。名簿ではこの年については他の年よりも連行年月日を正確に捉えていくことができる。四五年一月一六日に一七六人、三月二一日に一二六人、四月一七日に三六人が全羅北道から集団的に連行されていることがわかる。

 全北から連行されてきた人々の出身郡は「埋火葬認可証」の記載からわかる。出身郡をあげてみれば、完州、金提、淳昌、長水、任実、南原、錦山などである。この他の郡からも神岡へと連行されてきたとみられる。

 逃亡者数から連行規模をみてみれば、一九四二年七月に連行された集団から一〇五人、一九四三年二月に連行された集団から五九人が逃亡している。この二つの月にたくさんの人々が連行されてきたといえるだろう。神岡鉱山へは二〇〇〇人をこえる朝鮮人が連行されているから、一回の連行を一〇〇人単位とすれば、二○回をこえる集団的連行があったといえるだろう。

 三井・神岡鉱山への連行は、住友・鴻之舞鉱山、日鉄・釜石鉱山、松尾鉱山、三菱・細倉鉱山、古河・足尾鉱山、日鉱・日立鉱山・三菱・佐渡鉱山、石原・紀州鉱山、三菱・生野鉱山、三菱・明延鉱山、住友・別子鉱山など、朝鮮人を一千人規模で連行した金属鉱山のなかでも規模が大きい。

 神岡へと強制連行された人々の状況については、厚生省名簿と埋火葬認可証(金蓬洙氏調査)の死者の数からも考えていくことができるが、ここで示す死亡者名簿は神岡での死者の一部を示すものにすぎない。死者のうちの多くが強制連行された人々であるとみられる。鉱山近くの円城寺や洞雲寺、鉱山集落の神岡寺・光円寺には朝鮮人の遺骨が数人分残されている。この調査も課題である。

 死亡者名簿のうち一九四〇〜四一年は神岡水電工事での死者が多い。一九四三年以降の死者は神岡鉱山でのものである。一九四二年分は不明であり、欠落している。この死亡者名簿は不十分なものであるが、現時点ではこれしか作成できない 。このことは、植民地支配のもとで強制連行された人々の人間の尊厳が、今もなお回復されていないということ、強制連行という戦争犯罪が隠蔽されつづけているという現実を示している。厚生省名簿の作成に使われた事業所側の原簿は三井神岡鉱山内のどこかに今もなお存在すると思われる。企業側の積極的な公開がのぞまれる。

 つぎに連行された朝鮮人の抵抗についてみてみよう。金賛汀氏や金蓬洙氏の調査によればつぎのようになる。

 三井神岡鉱山では三井系の炭鉱から労務係を連れてきて、タコ部屋的労務管理によって連行された朝鮮人を統制した。その管理方法は桜の棒で殴打したり、逃亡者を捕らえて竹刀がこわれるまで殴りつけてみせしめにしたりという暴力的なものだった。また各寮にスパイをおいて朝鮮人の行動を管理し、事務所に連れ込んではリンチをおこなうというものであった。「一人や二人殺しても何でもない、殺しても罪にならない」と語りながらのリンチがおこなわれていた。

 このようななかで朝鮮人による抵抗が組織されていった。一九四三年五月一〇日、朝鮮人を労務係が事務所に連れ込み殴打した。この労務係は日頃竹刀で殴り、ときには真剣で殴りつけることもあったという。リンチをみていた同僚の朝鮮人が事務所の板壁をたたいて抗議した。労務係は刀をもって外へ出たが、朝鮮人は棒木で対抗し労務係を襲った。事務所は破壊された。警官と憲兵が動員されるなか、朝鮮人側と会社側との団体交渉となった。朝鮮人の動きは統制がとれ、組織的計画的であった。朝鮮人側の要求は生きていける

食事の保証とその改善、労務係のリンチ中止、配給物資のピンハネ中止、入浴を日本人と同じように毎日にする、といったものであった。会社側は要求を受け入れる姿勢を示し就労を求めたが、朝鮮人の側は会社側の実行状況をみながら三日間のストライキに入った。会社側は食事を改善し労務係を更迭した。

 しかし五月一二日になって朝鮮人一〇人が逮捕された。これに対し一三〇人が寮に結集し、さらに二五〇人が神岡警察署に押しかけ釈放を要求した。しかし、リーダーたちは検挙された。同月二五日には呉山辛煥らが起訴され、検挙された他の朝鮮人と日本人労務係は起訴猶予となった。六月一七日に判決が出され、呉山辛煥ら三人に懲役六ケ月、執行猶予二年、中山道洙ら三人に懲役四ケ月、執行猶予二年、孔徳忠郎ら四人に懲役三ヶ月、執行猶予三年が言いわたされ、刑が確定している(『特高月報』朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』所収)。

 このように朝鮮人の抵抗は弾圧されたが、その抵抗は三井資本と政府を震憾させるものであっただろう。

 一九四三年七月には二五人の朝鮮人が賃金台帳の不整理や賃金歩合での朝鮮人への差別に抗議し、ストライキをおこしている。このストは警察と労務係の説得により解決したという(『特高月報』七月分)。

 一九四四年四月一一日には、東町協和寮で朝鮮人による争議がおきている。この寮には当時二四三人が収容されていた。高ら数人が、給食量が一人一日五合八勺と少ない理由は朝鮮人炊事夫の米穀の横流しにあるとして、炊事夫を殴打、食堂、寮事務所のガラスの一部を破壊した。これに対し警察が説得に入った。同日夜、帰察した朝鮮人ら八○人余りが寮事務所に押しかけた。高ら六人が検挙され、傷害罪とされて送局されている(『特高月報』六月分)。

 同年七月三日、第一協和寮で期間満了帰国者の送別会がもたれた。酔って帰った朝鮮人が前寮長に殴打されたことがきっかけとなり、争議になった。これまで寮長らが暴力的で苛酷な管理をおこなったことに対し、直接行動が発生したのである。事務所のガラスも数枚破壊された。この行動により一O人が検挙された(『特高月報』八月分)。

 権力の側の記録が抵抗の真相を表現しているとはいいがたいが、これらの記述から朝鮮人の抵抗が継続しておこなわれていたことを知ることができる。粗末な食事と暴力的労務管理のもとでの強制労働、それに対し朝鮮人たちは生きるためのたたかいに立ちあがっていたのである。それらのたたかいは戦時下の労働運動史のなかで輝きを放っている。

 自由を求めて逃亡もつづいている。厚生省勤労局報告書の神岡鉱山の名簿には約一七○○人の連行者数が記されているが、そのうち逃亡者は約四〇〇人である。逃亡率は二三パーセントとなり、四〜五人に一人が現場から逃亡していったことになる。

 連行された人々は自由を求めて逃亡した。逃亡は増産をもくろむ日本帝国主義を生産現場から撃つことにつながっていたといえるだろう。

 このように争議や逃亡によって朝鮮人たちは生存と自由を求めて抵抗をつづけていた。皇民化のかけ声のもと朝鮮人の民族性を奪い戦争への動員政策をどんなにすすめようとも、人間の尊厳を求める人々の精神を破壊することはできなかったのである。

 最後に、当時三井神岡鉱山で働いていた金学業氏の話から神岡鉱山での朝鮮人の状況についてみていきたい。

 金氏は一九二○年生、慶北善山郡出身、一九三九年に渡日した。小倉、門司、岡山、岩国、鶴見、東京、常滑などで仕事をしたのち、一九四四年八月に神岡鉱山で仕事をはじめた。

 金氏の妻の家族が空襲をのがれて神岡へと疎開して仕事をしていたため、金氏は常滑から神岡へと行き、神野組という朝鮮人親方の組に入り、組夫として神岡鉱山で働いた。神野組は親方、親方のいとこ、義父、そして金氏の四人の小さな組だった。仕事の前には皇国臣民の誓詞を斉唱させられた。仕事は竪坑から地下の坑内に落とされた土砂を竪坑内のホッパーで受け止め、それを採掘現場へと運び、足場を作って採掘をしやすくするというものだった。

 朝鮮人の居住区と日本人の居住区は分離していた。朝鮮人が住んでいたのは風が吹きぬけるような場所だった。前平に親方連中が飯場をもち、南平に所帯持ちの朝鮮人が住んだ。金氏らは通洞口から入って仕事をしたが、通洞口人口の左側には連合軍捕虜の収容所があった。強制連行された朝鮮人は栃洞の鉱山事務所の西方の左側の傾斜地に収容されていた。差別的な待遇で同じように働くことを強いられるわけだから耐えきれるものではなかった。逃亡者が出、金氏が神岡に来る前には事務所が襲撃されることもあった。神野組の他に高橋組や五〜六の組があって、土砂を移動して足場を作る仕事を請け負っていた。親方は他人の名を使って金氏を鉱山へと連れていった。神岡では朝鮮人の親方で顔役になっていた者もいた。

 解放後、連行された朝鮮人は帰国していった。「朝鮮人をたたき殺す」「負ける方に協力した」「殺されたり襲われたりしている」という噂が流れ、精神的にも肉体的にも消耗した。そのころ人の事を考えている余裕はなく、いかに早く帰国するかが第一の関心となった。金氏は一〇月に知人を頼って各務原に移り、そこで朝鮮人連盟の活動に参加した(各務原市・一九九六年ききとり)。

 神岡には連行された朝鮮人の他にも多くの朝鮮人が働いていた。金氏の話から連行された朝鮮人を収容した飯場の位置や朝鮮人が前平と南平に住んでいたことがわかった。

 連行朝鮮人が収容されたのは前平の奥にある泉平地区である。神岡鉱山労働組合『鉱山と共に五〇年』には前平・泉平・南平の地図が掲載され、泉平には戦時中に朝鮮人が多数働いていたことが記されている。

 戦時下、神岡で海産物の商売をおこなったことのある朴広海氏によれば、神岡鉱山では土木関連事業全体を大林組が請け負い、解放後、大林組に帰国のための生活費や手当てを要求し一ケ月分の手当をとったという(朴広海「労働運動について語る(三)」)。

 鉱山内でも帰国と賠償を求めてのたたかいが繰り広げられていっただろう。神岡鉱山から連行朝鮮人が帰国しはじめたのは一〇月はじめのことである。他の連行先と比べてみると早めの帰国である。

 神岡鉱山の「要員充足難ト其ノ対策」(一九四五年一〇月三一日)によれば、鉱山全体では八・一五時に「移入半島人」が一四一四人、「組夫(半島人)」が二五三人、「白人俘虜」が九一九人在籍していた。労働者の合計が五九二四人であるから、三割が朝鮮人であった。また、採鉱現場では、労働者二七二三人の内、「移入半島人」が八九六人、「組夫(半島人)」が一七四人であり、「白人俘虜」は五三〇人であった。採掘現場は、日本人とほぼ同数の朝鮮人によって担われていた。日本人の組夫は採掘現場にはいなかった。二一四人の朝鮮人組夫のうち、一〇月末に在籍していたのは四〇人だった。この史料によれば、連行朝鮮人一四一四人は一〇月三日から九日にかけて全員が帰国した。

連行朝鮮人約一四〇〇人と組夫約二〇〇人、その家族を含め一六〇〇人を超える朝鮮人が神岡を離れ、多くが故郷に向かっていったとみられる。このような帰国の背景には、連行された人々の強い要求と運動の力があった。強制連行、強制労働のなかで絶えることなく続けられていた抵抗の力は、解放をむかえると噴出し、早急な帰国へと結実していったのだろう。

 

四 神岡での朝鮮人遺骨調査

二〇〇七年に「韓国・朝鮮の遺族とともに 遺骨問題の解決へ」全国連絡会が企画した集会が七月二八日、神岡・高山の現地調査、二九日、名古屋市内での全国集会のかたちでもたれた。

三井神岡鉱山と朝鮮人遺骨

 ここでみてきたように、一九三九年から四五年の強制連行期に三井神岡鉱山へは二〇〇〇人の朝鮮人が強制連行され、三井神岡水電によって取り組まれた東町・牧の二つの発電工事現場にも、工事を請け負った大林組と間組によって二〇〇〇人以上の朝鮮人が動員された。連行期には、神岡地域に鉱業や発電工事に四〇〇〇人以上の朝鮮人が連行・動員されていたわけである。

 戦時下の水力発電工事と鉱業の中で多くの朝鮮人が生命を失った。埋火葬許可証や厚生省名簿などから約五〇人の氏名が判明していたが、今回の集会にむけての事前調査の中で、神岡の寺院から約三〇体の朝鮮人遺骨が発見され、高山の寺院からも神岡からの移住者を含むとみられる戦後の遺骨四六体が発見された。

これまで朝鮮人強制労働の調査や戦争責任の解決にむけてさまざまな取り組みがなされてきたが、朝鮮人遺骨の返還というテーマを軸に、これまでの取り組みが交差する形で行動が取り組まれた。未返還の遺骨の存在は植民地支配の未清算を象徴するものである。

神岡調査では一九六五年ころの金蓬洙さんの埋火葬認許証調査を含む現地調査があり、その後、金賛汀さんの調査もあった。厚生省名簿の発見により、神岡鉱山への連行者の一部が判明し、その分析をふまえて水電と鉱山での強制連行の概要を示すことができるようになり、寺院での遺骨調査も取り組まれた。

二〇〇六年には強制動員真相究明ネットの下嶌義輔さんの努力によって、神岡水電工事現場で死亡した金文奉さんの遺族が済州島で発見され、今回の来日した。また、韓国での真相糾明委員会の調査活動によって、神岡鉱山での強制労働体験者の金得中さん(全羅北道在住)の証言が得られた。金得中さんも来日して現地で証言した。

神岡での調査活動によって作成した死亡者名簿をふまえ、全国連絡会は飛騨市に真相の糾明を求めたが、飛騨市は戸籍受付簿から未解明の部分の住所の情報提供に応じた。遺骨と遺族の発見によって、史料としての戸籍受付簿の存在が明らかになった。飛騨市は両全寺に残されていた金文奉さんの遺骨の返還に向けて、文書発行などで協力した。

近年、寺院宗派では曹洞宗や浄土真宗大谷派が遺骨問題の解決に向けて積極的な活動をはじめている。曹洞宗は一九九二年に「懺謝文(さんじゃもん)」で戦争の加害への反省をおこなったことをふまえ、東アジア出身の遺骨問題の調査をすすめている。二〇〇七年の中間報告によれば、四二の寺で三五〇体・過去帳で五一〇例を確認している。真宗大谷派は一九九五年の不戦決議を基に、「四海の内みな兄弟」という親鸞の命の尊厳と平等の教えを踏まえ、遺骨問題を大谷派自身の課題として捉えている。二〇〇七年からは調査票を配布しての全国調査に入った。大谷派はこの調査を「宗門近代史の検証」として主体的に把握し、返還のみを主眼とせずに強制連行の実態調査とすることも確認している。

このように戦争責任を自覚しその反省を一九九〇年代に行った宗派が主導するかたちで、全国各地の寺院での朝鮮人遺骨の調査活動がおこなわれるようになった。このなかで無縁とされた遺骨が寺院によって大切に保持されてきた歴史も明らかになった。これらの遺骨の返還に向けての、宗門から行政に対して情報開示・提供要求も出されるようになった。

 

 二〇〇七年の神岡での現地調査

 七月二八日の神岡での現地調査はこのような現地での調査、遺骨と遺族の発見、連行体験者の証言収集がすすむなかでもたれた。現地調査は高山別院での学習会の後、神岡に移動し、浅井田ダム、両全寺、洞雲寺での追悼、神岡鉱山現地見学などを行い、高山に戻り、本教寺での追悼行事で終わった。

金得中さんも現地調査に同行した。金さんは全羅北道益山郡熊浦面出身、一九二六年生まれの八〇歳。一九四一年に黄海道大同里の炭鉱に連行されたが逃亡し、群山の桟橋で米の荷役仕事をした。一九四四年二月ころ、今度は神岡鉱山に連行された。一八歳のころだった。金さんは現場で発破をした石を砕いたり、ドリルで掘ったり、運搬する仕事をさせられた。

金さんは連行現場で、落盤で死んだ朝鮮人もいたこと、連行され母がとても悲しみ泣いたこと、南平には慶尚道出身の在日朝鮮人らが居住していたこと、連合軍捕虜も連行されていたことなどを証言した。

神岡鉱山での採掘は二〇〇一年に終った。栃洞地区の建物の多くがすでにない。選鉱場近くから軌道を坑口へと向かうと途中で建屋が崩壊し軌道を埋めていた。高い柱にも草が絡みつき錆びた赤茶色の上部だけが露出している。南平の労働者居住区の建物の多くは壊され、草原になった段状の基礎跡が当時を物語る。

 神岡の両全寺には四体の遺骨がある。三体は子どものものであるが、一体が済州島出身の金文奉さんのものである。この遺骨を今回遺族の金大勝さんらが住職から引き取った。遺族は、寺院が遺骨を大切にしてきたことに礼を述べ、遺骨を子孫で永遠に守って行きたいこと、全国からの参加者の同席に感謝することを語り、最後に自分たちだけでなく他の家族の遺骨を探し出すことの必要性を涙ながらに訴えた。

 洞雲寺は毎年八月に神岡鉱山での殉職者の追善供養を行っている寺である。供養では四人の朝鮮人名が読まれているという。洞雲寺には二体の遺骨があり、過去張には一三人の名が残されているという。今回の調査で戸籍受付簿から、遺骨のひとつ李道致さんの本籍地が確認された。今回おこなわれた追悼式では現在判明している神岡関連の八一人の朝鮮人の氏名と死亡年月日が読み上げられ、それに合わせて全国からの参列者によって八一本の花が捧げられた。戦後六〇年余を経て、鉱山と関係の深い洞雲寺で、判明分ではあるが神岡での朝鮮人死者追悼会がもたれた。

 神岡の円城寺には神岡鉱山内にあった神岡寺(廃寺)の遺骨が預けられている。鉱山内の光円寺には六体の朝鮮人遺骨がある。遺骨の氏名や住所だけではなく、連行の実態を含めて、その真相が明らかにされるべきだろう。行政や企業側からの情報提供がもとめられる。

 高山の本教寺には戦後に死亡した無縁の朝鮮人四六体分の遺骨がある。これらは一九四七年から一九八三年かけてのものである。この寺の近くには朝鮮人集落があったから、民団や総連の会館も残っている。寺の本堂を借りて会合が開かれていたこともあった。高山での戦後の集落形成は白川ダム、朝日ダム、神岡、萩原などからの流入によるという。前々住職が経済的に困難な人々の遺骨も差別せずに扱い、他宗派の朝鮮人遺骨もこの寺に集まってきた。独身者の遺骨が多く、二〇〇六年には日韓合同調査団も訪れ、高山市役所での調査で二六体の本籍が判明している。骨壷の中には死体火葬許可証などの資料が入っているものもある。

 今回の現地調査は多くの遺骨と対面し、それらの歴史と対話するものであり、濃密な時間だった。

 

「韓国・朝鮮の遺族とともに 遺骨問題の解決へ」全国集会

 名古屋での全国集会では、最初に、共同代表の内海愛子さんが朝鮮人の戦後処理の問題点について述べた。内海さんは植民地支配の責任を取らなかった例として、朝鮮人の引揚については連合軍に肩代わりさせ、援護法では国籍条項で排除し、朝鮮人の遺骨収集は放置されたことをあげ、現在の遺骨問題は日本の植民地支配の未清算を象徴するものとした。そして市民の力によって返還を実現し、植民地支配の清算をすすめることの意義を語った。

韓国の真相糾明委員会の朴聖圭さんは、真相糾明委員会の被害者認定、真相糾明、遺骨調査などの活動を紹介し、市民運動との協力の重要性を示し、この集会を政府と市民団体が協力していく出発点にしようと呼びかけた。「恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟」からは、真相究明のための法律をつくり、人道上の問題を与野党の壁を超えて取り組んでいくという発言があった。続いて、神岡に連行された金得中さんが証言し、遺骨を受け取った金大勝さんが心境を語った。

巫儀の追悼舞踏の後、上杉聡さんが基調報告をおこなった。基調報告では二〇〇五年六月の日本政府の遺骨調査の開始以後、すでに二〇〇〇体の遺骨情報があることを示し、曹洞宗や真宗大谷派の調査状況を紹介した。そして、さらに調査をすすめること、死亡者のリストを作り、行政や企業、韓国政府の協力を得て返還実態を確認すること、戸籍受付帳によって神岡での八〇人中五〇人の本籍情報を得ることができたことから、この戸籍受付帳から全国各地の朝鮮人死亡者のリストを作成できるとした。戸籍受付帳が法務省の管轄であり、政府自身が死亡情報を持っている。この史料の全面開示によって身元確認が可能になり、それによって遺族への遺骨の返還が可能になると今後の展望を示した。また、民間と政府との協力により、遺骨問題を友好運動とし、遺骨返還から本格的な植民地支配に清算に向かうべきと呼びかけた。

 曹洞宗の人権擁護推進本部からは五〇〇人分を確認したが、身元が判明したのは二一体であり、返還には政府の情報開示が不可欠とした。真宗大谷派の解放運動推進本部からは、宗門の近代史の検証活動として位置づけ、冊子を作って教区ごとの取り組みを始めていくことが紹介され、返還だけでなく、どのように生きどのように亡くなったのかという経過も糾明し、アジアとの新しい関係をつくっていきたいとした。

 集会では最後に北海道、長崎、愛知からの報告がなされた。

 北海道フォーラムからは、浅茅野陸軍飛行場工事での90余の朝鮮人死者とその遺骨の発掘活動を紹介された。遺骨は札幌、室蘭、美唄、根室、赤平、浅茅野、幌加内、鷹泊などにあるが、国家の責任で返還してほしいという遺族の思いに早く政府が答えるべきであり、遺族の思いに答える運動をすすめていこうという呼びかけがあった。

 長崎からは高島で亡くなった沈載?さんの歴史が紹介された。沈さんは佐賀の炭鉱に連行され、八・一五を大村飛行場で迎え、高島で生を終えた。遺骨は今も高島に残されている。遺骨が返還されれば強制連行の問題が終わるのか、三菱高島炭鉱には遺骨はないが、その戦争責任が問題であり、在日朝鮮人に希望ができるような遺骨の返還がすすめられるべきという訴えがあった。

 愛知の朝鮮半島出身者遺骨調査会からは東山霊安殿の朝鮮人遺骨問題への取り組みが紹介された。この問題の解決を通して、歴史を明らかにし在日が堂々と生きていくことができる契機としたいとされ、遺族調査、納骨状況の改善、追悼式の実行などの課題が紹介された。

 集会ではさまざまな思いと解決の問題提起がなされた、最後に集会決議が採択された。そこには政府に対して、戸籍関係資料や年金・供託名簿を公開すること、死亡までの経過を調査すること、遺族への返還の費用を人道面から負担することなどの要請項目が含まれている。

 戦後60年を経て始まった朝鮮人遺骨返還の取り組みが今後一層すすみ、真相が究明され、その活動が友好平和の基礎となることを願う。

 

 以上、神岡鉱山への朝鮮人強制連行についてみてきた。

 神岡での発電工事と鉱山労働へと四〇〇人以上の朝鮮人が連行・動員された。三井神岡鉱山には朝鮮人に関する資料が残されているように思われる。三井金属が出版した写真集やその年表からみて資料が保存されている可能性は高い。企業側が自らの戦争責任をはたすためにも強制連行に関する全資料を積極的に公開することがもとめられる。

 神岡鉱山での朝鮮人強制連行に関する調査は金蓬洙氏、金賛汀氏、朝鮮人強制連行真相調査団(岐阜)などによるものが残され、二〇〇七年には遺骨についての調査がすすんだが、実態の解明は不十分である。連行された人々の人間の尊厳はいまも回復されていない。連行にかかわった政府・企業は全資料を公開すべきである。史実をあきらかにして被害者ひとりひとりの尊厳を回復し、その史実を後世に正しく伝えていく作業がもとめられている。

 冒頭でのべた「一〇人」についてはわからなかった。今後の調査課題のひとつである。調査は主に一九九六年と二〇〇七年におこなった。

  

 参考文献

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蛭川村教育委員会『蛭川写真集』一九七八年

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名古屋鉱物同好会編『東海鉱物採集ガイドブック』七賢出版一九九六年

丹生川村教育委員会『郷土丹生川』一九九三年

岐阜県『岐阜県地質鉱産区概説』一九八一年

白川村『白川村史』一九六八年

土木工業協会他『日本土木建設業史』技報堂一九七一年

朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成四・五』三一書房一九七六年

金賛汀「戦時下在日朝鮮人の反日運動」(梁泰昊編『朝鮮人強制連行論文集成』明石書店一九九三年所収)

金蓬洙「神岡にて」(『ピッタム』一九九〇年・梁編前掲論文集所収)

神岡町教育委員会『飛騨の神岡』一九九五年

三井金属鉱業『神岡鉱山写真史』一九七五年

水野一郎『鉱山に生きる』塔叢書一九八九年

厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」一九四六年

中央協和会『協和事業年鑑』一九四二年(社会評論社復刻版)

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」一九四二年

強制連行展ぎふ九六実行委『岐阜県強制連行ガイドブック』一九九六年

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録中部東海編』柏書房一九九七年

神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会『イタイイタイ病カドミウム汚染を許さず』桂書房一九九二年

畑明郎『イタイイタイ病』実教出版一九九四年

内田すえの他『黒部底方の声』桂書房一九九二年

江東在日朝鮮人の歴史を記録する会『東京のコリアンタウン枝川物語』樹花社一九九五年

各務原市教育委員会『各務原市民の戦争体験』一九九六年

朴広海「労働運動について語る(三)」(『在日朝鮮人史研究』二二号)一九九二年

神岡鉱山「要員充足難ト其ノ対策」(佐々木享「神岡鉱山に於ける俘虜労働」『三井金属修史論叢』二 一九六八年所収)

神岡鉱山労働組合『鉱山と共に五〇年』一九九九年

金得中証言(『強制動員口述記録集1タンコだって』強制動員真相糾明委員会二〇〇五年所収)

「韓国・朝鮮の遺族とともに 遺骨問題の解決へ」二〇〇七年全国集会・資料集

 

 

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