日本鉱業日立鉱山での朝鮮人強制労働
はじめに
ここでは日本鉱業日立鉱山での戦時強制労働についてみていきたい。日立鉱山は戦時下、日本国内では最大の銅生産地であり、戦時に巨大なコンツェルンを形成した日産の発祥の地である。
日立鉱山の歴史については日本鉱業の『五十年史』や日立鉱山による『日立鉱山史』から知ることができる。日立鉱山と日立地域民衆について記したものには、日立市の戦災と生活を記録する市民の会編『日立戦災史』1982年、鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』1988年があり、ここには朝鮮人労働についても記されている。これらの本を編集した市民の会は「いはらき新聞」の調査をおこない『日立市関係「いはらき」新聞記事表題索引目録』を作成している。ここにも日立鉱山関連の記事が多数含まれている。
朝鮮人の強制連行強制労働の調査については、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』、長澤秀「第二次大戦中の植民地鉱業労働者について」、山田昭次「日立鉱山朝鮮人強制連行の記録」などがあり、相沢一正「茨城県における朝鮮人中国人強制連行に関するノート」では行政史料「昭和十六年行政及財政監査準備書類」「昭和二十年内政部事務引継書」や企業史料「鉱員移動月報」「整理簿」「鉱山従業員現在員調」「稼動台帳」などを利用し、「稼動台帳」「鉱員移動月報」から集団的な連行状況を把握している。
厚生省勤労局報告書の茨城県分には日立鉱山の名簿があり、そこには2430人ほどの氏名があり、静岡県分の河津鉱山の名簿には転送者についての記事がある。
以下、これらの史料や調査をまとめながら、日立鉱山への連行と労働の状況についてみていきたい。
1 日立鉱山の歴史
@日立鉱山の成立
はじめに日立鉱山の歴史をみておこう。
日立での鉱山開発は戦国期の16世紀末からはじまった。江戸期の採掘を経て、資本主義化のなかで当時、赤沢鉱山と呼ばれていたこの鉱山を1905年末に久原房之助が買収し、翌年から日立鉱山の名で採掘が始まった。久原は全国での鉱山の買収と鉱石の買入をすすめて鉱山事業を拡大していった。1908年には日立鉱山下方の大雄院に精錬所を移動し、自山の鉱石と買入鉱石の大規模な製錬事業をおこなっていく。1909年には第1竪坑の開削が始まり、同年、採掘粗鉱量は小坂・足尾・別子に次いで全国第4位となった。このような経営拡大のなかで1912年には久原鉱業(株)が設立された。久原の銅生産量は古河・藤田に次ぐものになった。
第1次世界戦争での需要拡大により、久原は国内22ヵ所をはじめ、朝鮮・中国での鉱山の買収をおこない、1916年には佐賀関と朝鮮の鎮南浦に大型精錬所を建設した。このような戦争下の経営拡大と増産のなかで、久原の銅生産は1917年には日本一となり、1918年には全国生産での金40パーセント、銀50パーセント、銅30パーセントを占める独占資本へと成長した。1920年には久原鉱業から日立製作所が分離した。このように第1次世界戦争で久原鉱業は利益をあげていった。
ここで日立での朝鮮人の歴史をみておくと、1912年7月の新聞記事に日立鉱山で日本人と朝鮮人の喧嘩が記され、同年9月には朝鮮人坑夫の逃走が記されている。1910年代前半には日立鉱山で朝鮮人が働いていたことがわかる(
大雄院の鉱山関係の友子の墓碑群には、坑夫「韓国住人郭順吉」(日本名森田仙太郎)のものがある。郭順吉は1917年5月に死亡している。側面には「韓国住人西山虎太郎 金森健太郎 長崎坪太郎」と3人の朝鮮人坑夫の名がある。この墓碑からも、1910年代から朝鮮人が日立鉱山で働いていたことがわかる。
A日産コンツェルンの形成
久原鉱業は第1次世界戦争後の安価なアメリカ銅の輸入と戦後の経済恐慌によって経営難になった。そのため、1926年以後、久原の義兄の鮎川義介による経営再建がすすめられることになる。久原は1928年に衆議院議員となり、同年田中義一内閣の逓信大臣となった。1939年には立憲政友会の第8代総裁になったように政界で活躍した。
鮎川は久原鉱業を1928年に日本産業(株)へと改組して持株会社とし、鉱業部門は1929年に日本鉱業(株)の形で経営を始めることになる。1931年に満州侵略戦争がはじまると政府は金輸出の再禁止と政府の金買上価格を上げた。当時、日本鉱業は日本での金生産の29パーセントを占めていたから、この政策は日本鉱業の増益となり、日本鉱業は台湾の金爪石や朝鮮の大楡洞・雲山などの金山の買収もおこなっていく。
このような戦争による増益の中で、日本鉱業を中心に日本産業のコンツェルン化がすすめられた。1937年には日本鉱業・日立製作所・日立電力・日本水産・日産化学・日本油脂・日産自動車・日産海上火災保険など直系12社、孫会社130社、従業員14万人余の日産コンツェルンが形成され、三井・三菱に次ぐコンツェルンとなったのである。
軍部の要請を受け、日産は1937年に中国東北へと本社を移し、満州重工業開発(株)となり、満州鉄道下の重工業関連会社を傘下に収めた。満州での直接投資は14社、孫会社31社、日本での企業を入れると94社を支配する巨大な植民地企業となった。
このような日産コンツェルン形成のなかで日本鉱業はさらに経営拡大をすすめ、アジア太平洋での戦争の拡大により、南洋の占領地での鉱山経営もおこなった。
B日本鉱業と朝鮮人強制連行
日本鉱業の中心であった日立鉱山では産金法によって1940年から他社からの買入鉱石を含め金の増産がすすめた。金生産政策が転換されて、銅生産の増強がすすめられるようになると、日立での銅生産が強化されていくことになる。その際の労働力不足により、日立へは4200人以上の朝鮮人が連行され、さらに中国人900人・連合軍捕虜800人余も連行された。
日本鉱業傘下の各鉱山は朝鮮人の使用を政府に申請し、割当の許可を得て朝鮮人を連行した。連行先は次の40ヶ所ほどの現場である。大金(北海道)、北隆(北海道)、恵庭(北海道)、大盛(北海道)、豊羽(北海道)、徳星(北海道)、大江(北海道)、上北(青森)、花輪(岩手)、赤石(岩手)、六黒見(岩手)、大谷(宮城)、高玉(福島)、三川(新潟)、木戸ヶ沢(栃木)、日光(栃木)、日立(茨城)、諏訪(茨城)、河津(静岡)、峰之沢(静岡)、尾小屋(石川)、旭日(兵庫)、竹野(兵庫)、岩美(鳥取)、河山(山口)、伊予(愛媛)、高越(徳島)、三好(徳島)、三縄(徳島)、東山(徳島)、白滝(高知)、富岡(高知)、佐賀関精錬所(大分)、春日(鹿児島)、王ノ山(鹿児島)、荒川(鹿児島)。これらの鉱山で朝鮮人が労働を強いられたのである。日坂(山形)・満沢(山形)、河守(京都)、新居(愛媛)などでも少数だが、朝鮮人の動員があった。1942年の連行現在員数をみれば、5000人を超えている(日本鉱業『所長会議資料3』(1941年度)朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』所収、中央協和会『移入朝鮮人労務者状況調』、厚生省勤労局調査名簿、長澤秀「第二次大戦中の植民地鉱業労働者について」、などによる)。
国内の炭鉱では山陽無煙(山口)、遠賀(福岡)、山田(福岡)などで連行朝鮮人を使用した。これらの日本鉱業傘下の国内の鉱業所への朝鮮人の連行者総数は4万人を超えるとみられる。
戦争による占領地の拡大により、日本鉱業は日本国内だけでなく朝鮮・中国や東南アジアにも多くの鉱山を持った。それらの鉱山でも多くのアジア民衆が労働を強いられた。
1941年12月の日本鉱業の労働者数は6万人ほどであったが、そのうち日本人は24297人、朝鮮人は31485人であり、台湾は4228人であった。朝鮮人が半数以上を占めていたのである。1943年3月の現在員数をみると、日本鉱業下の朝鮮半島の鉱山での朝鮮人労働者数は19889人、日本国内での朝鮮人数は4702人、台湾の金瓜石鉱山での台湾労働者の現在員数は5679人である(日本鉱業「事業概況」・長澤秀「第二次大戦中の植民地鉱業労働者について」所収による)。1944年には国内での朝鮮人労働者の割合はさらに増えた。
フィリピンではマンガンの産地ブスアンガ島の全鉱山を委託経営した。日本鉱業は1942年5月に入山し、現地民を使って開発するが、1942年9月には大反乱が起きた。抵抗組織のリーダーは鉱山ポリスであり、秘密裡に組織してきた抵抗組織の存在を日本側が察知したため蜂起したのだった。各鉱山に駐在したすべての日本人約20人、町に住む日本人の大半が殺された。鉱山施設も破壊され、鉱山労働者はみな逃亡した。日本鉱業が委託したボボール島のマンガン鉱山でも1942年10月ころから抵抗運動が強まり、日本人の拉致や殺害が起こされ、労働者が逃亡した。兵力を強化した施設を正常化しても、労働者が集まらず、探掘再開はできなかった。1943年半ばにはフィリピン全土で抗日闘争が起き、各地の鉱山は抗日ゲリラが支配した(『日本占領下のフィリピン』175頁)。
戦争によって狙われた南方での資源支配はこのように現地民衆の抵抗闘争によって打ち砕かれていったのである。南方資源の杜絶は日本国内でのいっそうの開発政策をもたらし、そこに朝鮮人が連行されていくことになった。
2 日立鉱山での朝鮮人強制労働
つぎに、戦時下での日立鉱山での朝鮮人の連行についてみてみよう。
@連行朝鮮人数
中央協和会「朝鮮人労務者状況調」をみると、1942年6月までに1906人が連行されていることがわかる。この史料によれば日立鉱山は1939年度に650人、1940年度に550人、1941年度に800人の計2000人に連行を政府から承認されている。この連行計画によって1942年6月までに1900人を超える朝鮮人が連行されてきたということができるだろう。
つぎに厚生省勤労局名簿をみてみよう。この名簿で集団的な連行が記載されているのは1942年8月以降のものである。名簿には2340人ほどの記載があるが,欠落もあるとみられ、中央協和会史料の記載人数1906人と合わせれば、4200人以上が連行されたということができる。
これに諏訪鉱山分を入れれば連行者数はさらに多くなる。また、旭日鉱山、河津鉱山、大谷鉱山、高玉鉱山、鷹峰鉱山などからの転送もあった。これらの転送者について、河津鉱山の厚生省名簿をみると1943年3月に90人ほどが転送されたことがわかるが、日立鉱山の厚生省名簿には記入されていない。転送者分を入れれば、日立鉱山への連行者数は4500人を超えるだろう。
連行された朝鮮人は単身者が本山、御沢、熊ノ沢に収容され、家族持ちは入四間、大角矢、大雄院に収容された。一帯には鉄条網が張られていた(『茨城県朝鮮人慰霊塔』5頁)。大雄院では電上社宅内に朝鮮人寮がつくられた(『鉱山と市民』258頁)。
この4200人を超える日立鉱山への連行者数は、金属鉱山についてみれば、もっとも多くの朝鮮人を連行した事業所であることを示している。
A朝鮮人連行の状況1940・41年
最初の朝鮮人連行は1940年2月14日のことだった。『日立鉱山史』には162人入山としているが(452頁)、「いはらき新聞」では370人が連行されたとしている(1940年3月17日付)。この162人とは鉱山部門への連行者数を示すものであろう。連行者は製錬や諏訪鉱山にも配属された。「いはらき新聞」の記事によれば、3月17日・18日にも計250人の連行がおこなわれ、鉱山と製錬所に配属された。1940年2月・3月の連行者数は計600人ほどになる。これらは1939年度分の連行者である。
豊崎格さんはこの連行を伏木まで迎えに行ったという。特別列車を仕立てて日立へと連行し、本山事務所の上方のグランドの上に寮を作り収容した。採鉱部門では川の名をあて、製錬部門では山の名をあてて名前にした。強制収容に近い扱いであった。のち下関にも迎えに行ったが、列車の海岸側はシャッターを降ろして見えないようにした(『鉱山と市民』657〜658頁)。
この第1回目の連行者のなかに尹宗洙さんがいた。
尹さんは全南務安郡出身、1940年2月に連行された。「募集」で連行されたが、坑内に入るという条件は示されなかった。日本語ができたため班長とされ、「江戸一郎」と命名された。木浦で連行され、富山の伏木へと船で送られ、列車で日立に連行された。逃亡させないために出入り口で警戒された。2年間辛抱すれば好きなところにいけると思い逃亡しなかった。2月に連行された160人が本山へ、100人が大雄山、60人が諏訪鉱山に送られた。一の鳥居には見張りがおかれ、毎日監視していた。連行され採鉱所の奥の御沢にあった建物に収容された。一棟に40人、一部屋に20人が収容され、頭を互い違いにして寝た。建物の前には見張り所があった。100人が坑内に、60人が選鉱などに配置された。最初の1年は月に2回くらいの休みだった。逃亡者が出ると班長が処罰された。日本人と結婚して熊ノ沢の社宅に移った。削岩機を扱うようになった。1945年4月に
尹さんの証言から初期の連行地のひとつが全南務安郡であったことがわかる。
妻の江戸初江さんによれば、入四間には朝鮮人の家族持ちが住み、供給所近くに鉱山関係、その下に組夫関係者が住んだという(『鉱山と市民』678頁)。鉱山土木を請け負った組には田中組、長吉組、金村組などがあった。入四間からは朝鮮人の子どもたちが本山小学校に通った。戦後本山地区には日立初等学院という朝鮮人学校ができた(『鉱山と市民』262〜263頁)。
李日燮さんも全羅南道務安から16歳のころ30〜40人とともに連行された。年少だったのでトロッコの駅舎の掃除などの仕事をした。過酷な労働状況や逃亡して捕まり半殺しにされた話などを見聞し、ここにいたら殺されると思い、2歳上の尹さんと2人で逃走した。その後、飯場に入り千葉、立川、児玉での飛行場工事に従事した。1945年、21歳のときに徴兵され高崎の工兵隊に入隊させられたが、1週間ほどで解放を迎えた(『茨城県朝鮮人慰霊塔』6〜8頁)。
1941年3月には鷹峯鉱山からの36人の転送があった(「昭和十六年行政及財政監査準備書類」による、相沢「茨城県における朝鮮人中国人強制連行に関するノート」の指摘)。4月には2人の朝鮮人が労災で死亡している(『殉職産業人名簿』大日本産業報国会)。ともに慶南居昌郡出身であることから、このときまでに居昌からの連行もあったとみられる。連行がすすむと1941年6月には日立協和会の会員数は700人になった(「いはらき新聞」1941年6月1日付)。
金永鎮さんは1941年に全羅南道務安郡から25歳のときに連行された。妻は妊娠していた。連行される前に逃げようとしたが、巡査と面の職員に捕えられ、汽車で木浦から釜山、船で下関に渡り、日立へと連行された。収容されたのは藁剥きだしの畳、窓は戸板の収容施設であり、7〜8畳に12人が居住した。ご飯はサツマイモやジャガイモが半分入れられ、量も少なかった。坑内で鉱石を積む雑夫とされ、病気や負傷でも労働を強制された。賃金はすべてが渡されるわけではなく、月に一度発行される外出券がないと自由に外出できなかった。逃げれば叩かれ、生涯脚が動かなくなった人もいた。1943年1月に4人で日立から逃走した。従兄弟を頼って広島へ行き、三井三池炭鉱で6ヶ月の挺身隊労働も強いられた。朝鮮に帰り家族を連れて広島に戻るが、原爆投下後、親戚の安否を尋ねて入市し被爆した(山田昭次「日立鉱山朝鮮人強制連行の記録」所収証言)。
金性在さんは次のように連行された朝鮮人についていう。15・6歳の青年が連行され、着くと江戸、青葉、金本などの姓と一郎、二郎というように名がつけられた。部屋は一人一畳、布団は汚れにおいがひどく、外には出れず、犬を連れた監視員が24時間巡回していた。食事は麦やとうもろこし、豆の類で一膳、おにぎりを2つ腰にぶら下げて坑道に入った。地下は蒸し暑く体中から汗が噴出し、重労働はまさに地獄だった。休もうとすると監督に殴られた。坑道で息を引き取るのは珍しくなかった。飯場に風呂はなく、水で簡単に洗って部屋に入った。ある日3人の若者が逃げようとしたが、一本杉の辺りで捕まり、見せしめで一日中殴られていた、と(『茨城県朝鮮人慰霊塔』5・6頁)。
連行された人々は警察と会社の監視の下にあり、発見された逃走者は殴打された。
強制労働と粗末な食住、自由の抑圧のなかで、1941年6月には50人余が待遇改善を求めて争議を起こすが、全員が検挙され、22人が送局されている。1942年11月には食事問題を契機に集団暴行未遂事件がおきた。諏訪鉱山でも連行直後の1940年3月に朝鮮人への暴行を契機にボイコットがおき、2人が送還された(『特高月報』、『日立戦災史』105頁)。
B朝鮮人連行の状況1942年以降
厚生省名簿には1942年8月以降の日立への連行者の氏名や本籍地が記されている。名簿には鉱山への連行者については出身地が記されているが、製錬関係では空欄になっている。この名簿から連行状況分析し、証言と付き合わせると次のようになる。
1942年8月には務安・長城などから200人、10月には長城などから230人ほど連行された。官斡旋によって全南地域からの連行がおこなわれたことがわかる。
1943年2月には沃川90人、6月には100人、7月には高城20人、9月には牙山・大徳・論山などから290人、12月には180人が連行された。連行は主として忠清道からおこなわれたのであろう。
1944年には3月に洪城などから190人、4月には扶余・瑞山・洪城などから320人、5・6月には光州から30人余、7月には鎮安・南原などから400人、10月には60人、11月には原昌・慈城から100人が連行された。連行は忠清道・全羅道からおこなわれた。日立では10月から徴用による連行がはじまるが、咸鏡道からも連行されたことがわかる。その後、1945年1月には100人、5月には70人が連行された。
1942年8月の連行については、1942年8月16日付の「いはらき新聞」に記事があり、8月14日に200人が入山したとある。この記事は名簿と合致する。
1942年8月に長城郡から連行された朴東玉さんは1943年8月に落盤で死亡した(厚生省名簿)。そのときのようすを支柱夫の鈴木利作さんはつぎのようにいう。7時ころ落盤です3人が袋詰めになり、朝の4時まで埋まっていた。暑くてどうにもならず、朴さんは「アイゴー、トケチマウ」と言って亡くなった(『鉱山と市民』512頁)。
1942年の全南からの連行に関わった内田定夫さんによれば、日立鉱山へと連行してされてきた朝鮮人は諏訪鉱山にも送られ、諏訪には計3度連行された。1942年には全南へと連れに行った。ほとんど強制的な連行であり、野原で見つけたり、野良仕事中の人間を連れてきた。下関から日立までは鈍行列車で36時間ほどだったが、1列車に7〜80人を乗せ、両方の出口を労務係が監視し、逃亡を防ぐために胸章をつけた。諏訪や梅川や春川という苗字をつけ、一郎から十郎までの名をつけ一郎を班長にした。連行者は坑内雑夫にしたものが多い。多いときで諏訪鉱山には170人ほどの朝鮮人がいたが、日曜外出での逃亡が多かった。45年10月には帰国した(『鉱山と市民』496〜8頁)。
宮崎武雄さんは官斡旋や徴用による連行の際に朝鮮に出向いた。宮崎さんによれば、警察・役場・道庁・総督府へと連絡しての連行であり、日本鉱業の朝鮮支社があり、日立からは宮崎さんが出向いた。徴用の際にも日立から出向き、長興・木浦など4箇所から800人を連れてきたという。労働者は2000人必要だったが、毎月100人以上いなくなった (『鉱山と市民』480頁)。
1944年後半以降には長興・木浦地域からの連行があったのであろう。証言から連行してきても逃走などで次々に自由を求めて現場から姿を消していったことがわかる。厚生省名簿にも逃走の記載が多い。
連行された朝鮮人を監視する仕事をした押手惣一さんはいう。御沢の朝鮮寮を管理し、朝鮮人に食券を渡し、逃亡者の捜索にも1度参加した。寮の巡回をし、大角矢にも長屋の一番奥に朝鮮寮が2棟あったので巡回した。逃亡者して連れ戻されると殴り蹴られた。入四間の家族持ちの朝鮮人地区の見張りになり、出勤を督促した。6畳一間の8軒長屋が15〜6棟あった。朝鮮人の助手は淀川一郎・名取一郎といった。大角矢と入四間には駐在所が置かれた。その後、高鈴の中国人を寮から作業場に連れ出す係りになり、逃亡しないように厳重に警戒した。御沢の朝鮮人寮の裏側にあった捕虜収容所に勤務替えとなったが、1945年の8月に徴兵された(『鉱山と市民』506〜508頁)。
C朝鮮人の死者と遺骨
ここでみてきたようなかたちで朝鮮人が4200人以上連行されてきたわけであるが、さらに中国人1000人余・連合軍捕虜800人余も連行された。中国人は1944年6月から連行され、高鈴下の旧朝鮮人寮に収容された。死者の遺骨は中国人寮付近に埋葬されたが、1953年に茨城の中国人が帰国の際に水戸の信願寺に安置し、さらに遺骨の返還運動によって残骨の発掘がおこなわれ、1957年5月に送還された。この遺骨返還の動きのなかで、日本鉱業は本山寺の近くの火葬場跡に中国人・朝鮮人の碑を建てたが、そこに連行の経過や死者名は記されていない。並び立つそれらの石碑は形式的な印象を与える。
鉱山の火葬場の待合室は本山教会と呼ばれていたが、1972年に本山寺となった。朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』には1960年代前半のこの本山教会での調査記事がある(134〜135頁)。それによれば過去帳から1940年から45年にかけて56人の朝鮮人の氏名を探し、残されていた30体の遺骨から過去帳に氏名のないもの8人、氏名不詳のもの4人の計68人分の死者を探し出している。
1976年にまとめられた本山寺の過去帳からの名簿「朝鮮人殉難病没者名簿」には連行期の58人の朝鮮人死者名があり、このうち10数人が労働者の朝鮮人とみられる。厚生省名簿を見ると、連行された朝鮮人で死亡したものが他にもいたことがわかる。現在のところ、この過去帳史料と厚生省名簿から日立鉱山分で連行期の労働者の死者名として明らかにできるのは40人ほどである。
厚生省名簿に記載されている死者については、遺骨は返還したと記されているものが多いが、本山寺の過去帳史料をみると『殉職産業人名簿』にある慎順範さんの遺骨は未返還であることがわかる。慎順範さんは初期の連行者か、すでに来日していた労働者とみられる。
相沢一正「茨城県における朝鮮人中国人強制連行に関するノート」からは、「鉱員移動月報」「整理簿」「鉱山従業員現在員調」「稼動台帳」が存在することがわかる。とくに労働者名が記された「稼動台帳」が重要な史料だろう。日鉱記念館の展示には日本鉱業の歴史が記されているが、1945年5月15日からの本山労務部戸籍『出生届送達控簿』なども展示されている。そこには文書整理の番号も記されている。このような展示史料は多くの労務関係史料がほかにも所蔵されていることを伺わせる。植民地支配の清算に向けての積極的な公開が望まれる。ほかには殉職者名簿なども残されているとみられる。行政関係でも戸籍や年金・供託関係の名簿が残っているとみられる。
日立鉱山の「稼動台帳」などと照合しながら、厚生省名簿に記されていない事柄について明らかにすることが求められていると思う。
茨城県朝鮮人納骨堂は1979年に建立され、2006年に修復された。修復の際に植民地支配による強制連行と遺骨が無縁物のまま捨て置かれたことと歴史の事実を風化させずに平和な時代を築いていく決意が刻まれた。ここに納骨されている遺骨の多くが本山寺に残されていた日立鉱山関連の遺骨である。
2005年5月茨城の民団と総連は共同して茨城県に対し遺骨の収集・返還に向けて自治体・寺院などでの調査、県内強制連行の全面的な解明についての要請をおこなった。
中国人の「日中友好之碑」は1994年に建てられたものである。正面には日立鉱山に連行された経過と追悼と友好の決意が記され、側面には死者の氏名が刻まれている。
現在、日立鉱山跡には第1竪坑の櫓や坑口跡が残っている。近くの本山寺には中国人・朝鮮人の碑と無縁塔がある。大雄院には製錬所の煙突や施設なども残っている。本山の跡地にある日鉱記念館の展示には戦時の朝鮮人、中国人、連合軍捕虜の労働については記されてはいない。日立鉱山の歴史がここで働いた労働者の地平から強制労働の歴史を含めて記され、無縁とされた人々の「恨」が解き放たれるような表現を得るのならば、この地は和解と友好の国際的な場になっていくだろう。
おわりに
日立鉱山は1981年に閉山したが、日本鉱業の事業は日鉱金属(金属資源開発や加工部門)とジャパンエナジー(石油部門)に継承されている。日鉱金属は1992年に設立され、1998には非鉄業界トップの収益を上げ、東証1部に上場した。同年、日鉱金属は韓国でLGグループと合弁企業(現LSニッコーカッパー)を設立し、LG金属の同精錬事業を継承した。また2000年三井金属鉱業とパンパシフィックカッパー(PPC)を設立し、2006年には両者の銅製錬をこのPPCに統合した。このように日鉱金属は三井と韓国LSとの連携などのグローバルな展開により、世界銅生産量の約20パーセントを占めるようになった。また、日鉱金属は2002年にはジャパンエナジーと共同持株会社新日鉱ホールディングスを設立して、新日鉱グループを形成している。
新日鉱グループは周辺地域とのコミュニケーションや環境美化を掲げて社会貢献を語っている。ジャパンエナジーは「心のふれあい」をテーマに童話賞に関与し、森林保全に取り組んでいる。また国際連合が提唱する「グローバルコンパクト」にも参加している。このグローバルコンパクトは人権擁護・労働者の権利と差別の撤廃・環境予防・腐敗防止などを掲げているが、このコンパクトの原則4には、あらゆる形態の強制労働の排除がある。
過去の強制労働への賠償はアジアとの和解と友好、「心のふれあい」の前提として不可欠なものである。このコンパクトを支持し、周辺との対話や社会貢献を掲げる企業体であるのならば、過去の強制労働への賠償についても実施されるべきであろう。
今後も日鉱がアジアで企業活動をおこなっていくのならば、アジアでの強制労働に対する被害者個人への賠償は避けることのできない課題である。率先して基金を創設するなど、解決の道を探ることが信頼と名誉になる。戦後、久原房之助は日中国交回復をすすめたが、新日鉱は強制労働被害者個人への賠償をおこなうことで、アジアの和解と友好に寄与することになると思う。
2007年8月 竹内
参考文献
厚生省勤労局報告書 茨城県分「日立鉱山名簿」、静岡県分「河津鉱山名簿」1946年
「朝鮮人殉難者病没者名簿」本山寺 1976年
『殉職産業人名簿』大日本産業報国会
『五十年史』日本鉱業(株)1957年
嘉屋實『日立鉱山史』日本鉱業(株)日立鉱業所1952年
北川欣一『昭和20年6月10日日立工場戦災記録』日立製作所日立工場1957年
鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史
鉱山の歴史を記録する市民の会
朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社1965年
長澤秀「第二次大戦中の植民地鉱業労働者について」(『在日朝鮮人史研究』1、1977年)
山田昭次「日立鉱山朝鮮人強制連行の記録」(『在日朝鮮人史研究』7 1980年、梁泰昊編『朝鮮人強制連行論文集成』明石書店1993年再録)
相沢一正「茨城県における朝鮮人中国人強制連行に関するノート」(『茨城県立歴史館報』9 1982年、梁泰昊編『同』再録)
『茨城県朝鮮人慰霊塔』茨城県朝鮮人慰霊塔管理委員会2006年
池端雪浦編『日本占領下のフィリピン』岩波書店1996年