三菱生野鉱山での朝鮮人強制労働
兵庫県の中央部、中国山地に生野鉱山がある。採掘の歴史は9世紀からの伝承があるように古く、戦国期の16世紀に鉱山の開発がすすんだ。江戸期には金香瀬を中心に金や銀の採掘がおこなわれ、江戸末期には太盛山での採掘がはじまった。
この生野鉱山には侵略戦争期に1300人を超える朝鮮人が連行された。明延鉱山には1420人ほど、中瀬鉱山にも250人ほどの朝鮮人が連行された。これらの三菱系3鉱山に連行された朝鮮人の数は3000人ほどになる。
生野鉱山の近代の歴史については藤岡寅勝『明治以降の生野鉱山史』があり、『鉱山と朝鮮人強制連行』には生野・明延・中瀬の各鉱山での金慶海氏の調査がまとめられ、年表も収録されている。
厚生省勤労局調査名簿には、生野1340人分、明延899人分、中瀬253人分の名簿がある。
ここではこれらの調査や史料などから生野鉱山での朝鮮人連行の状況についてみていきたい。
生野鉱山の歴史
はじめに生野鉱山の近代の歴史について、藤岡寅勝『明治以降の生野鉱山史』などからまとめておこう。
明治新政府は1868年に生野鉱山を直営した。1872年には明延と中瀬の鉱山が生野鉱山の支山とされた。生野鉱山では金銀のほかに銅・鉛・亜鉛、明延鉱山では銅・錫・タングステン、中瀬鉱山ではアンチモンを産出した。これらの鉱物は軍需物資として日本の資本主義と戦争の拡大のなかで増産されていくことになる。
生野鉱山は1896年に三菱へと払い下げられた。払い下げ料金は生野・佐渡の両鉱山、大阪の精錬所を合わせて173万円だった。軍需生産が拡大されるなかで、生野鉱山では銀よりも銅の採掘が重視され、第1次世界戦争期には、生野鉱山は日立・足尾・小坂・別子などの鉱山に次ぐ産銅量を上げるようになった。1918年には三菱のコンツェルン化のなかで三菱鉱業が発足し、生野鉱山は三菱鉱業の経営下となった。
三菱経営の中で、生野では金香瀬や太盛での竪坑や捲揚場の整備、亜鉛選鉱場の建設がすすみ、明延では錫製錬場が建設され、タングステンや亜砒酸の精錬も試みられた。直島に銅の精錬所がつくられると、生野での銅精錬は廃止された。電力施設や電車道など運搬基盤の整備もすすめられた。
1920年代、生野の労働者は3000人を超えた。労働運動も始まり、1925年には生野で労働組合が結成され争議がおこされた。それに対して、三菱側は共栄会を設立して融和をねらい、労務係を置いて労務管理を強化した。この共栄会は1927年に協和会と名称を変更し、1945年まで存続した。
中国での侵略戦争拡大のなかで、生野での鉱山開発もさらにすすめられ、銅や亜鉛の生産が拡充された。このなかで1938年6月にはケージ墜落事故がおき、12人が死亡した。
1939年12月には朝鮮人が強制連行された。1941年には南方からの錫鉱を処理する施設が増設された。生野鉱山の労働者数も次第に増加し、1938年には1700人ほどであったが、1943年には2600人を超えるようになった。
1944年には生野で弾薬類の地下保管もおこなわれるようになった。また、生野鉱山から三菱航空機水島工場の地下工場建設を支援して削岩夫や支柱夫が派遣された。棚原鉱山からは増産挺身隊20人が3ヶ月の予定で派遣されてきた。
1944年3月には連合軍俘虜を収容することになり、猪野々の立志寮を増築した。新聞記事によれば1942年にはこの立志寮に朝鮮人を収容していた。労働者の収容のために力泉寮も増築された。1939年には100人を収容できる銀谷寮が建設されている。1944年5月には朝鮮人を収容していた清和寮が焼失した。連合軍捕虜は440人が連行された。
戦後も生野では採掘がおこなわれたが1973年に閉山した。なお、明延鉱山は1987年、中瀬鉱山は1969年に閉山した。生野鉱山の閉山は、1970年になっての数回にわたる坑道の崩壊とカドミウム鉱毒汚染問題の高まりのなかでのことだった。
生野鉱山と朝鮮人労働
つぎに、この生野鉱山での朝鮮人の歴史についてみてみよう。
生野鉱山では1922年ころには朝鮮人が働いていた。なかには吉山一郎と名乗り日本人と結婚していたものもいたが、戦前に珪肺で亡くなった。1938年の竪坑での落下事故では助かった朝鮮人もいた。金蔵寺の「生野鉱山殉死者霊簿」には1927年の記事に李炳?・金永述の名がある。1930年には100人ほどの朝鮮人が在住していた。奥銀谷小の卒業生名簿には1934年から44年の間に17人の朝鮮人の子どもの名がある(『鉱山と朝鮮人強制連行』65、66、72、73頁)。
生野小学校の同窓会誌をみると、1942年3月の項に平沼永柱の名がある。
連行にむけて兵庫県協和会の生野支会が1939年の7月に結成され、11月には生野鉱山への連行が許可された。生野鉱山への朝鮮人の連行については、厚生省勤労局名簿に1340人分の記載があり、この名簿を分析することで連行状況や逃亡の状況を知ることができる。
以下、連行状況を『鉱山と朝鮮人強制連行』の年表にある協和会の活動を加えながらまとめていきたい。
連行は1939年12月から始まった。このとき生野に50人、明延に100人が連行されている。1939年から41年にかけては、生野へと1940年2月、1941年2月・3月と慶南山清・昌寧などから250人が連行された。協和会生野支会では1940年1月はじめに神社参拝をおこない、皇民化をすすめ、4月には協和会館で150人を集めて総会を持った。7月には朝鮮女性を集めて講話会を持った。12月には連行朝鮮人への労務者訓練がおこなわれた。
1942年には2月・6月・11月に慶南陝川、咸安、昌寧から300人ほどが連行された。3月には時局講演会が180人の朝鮮人を集めてもたれた。8月には朝鮮人43人の争議が起き、3人が逮捕され、34人が逃亡した。9月立志寮の77人が献金をさせられた。
1943年には4月・9月に忠南洪城、論山、公州、全北高敞などから240人ほどが連行された。9月に公州から連行された河憲中さんの写真が『強制動員寄贈資料集』にある(138〜140頁)。
1944年には4月・6月・7月・9月・11月と慶南蔚山、泗川、咸安、全北高敞、京畿龍仁、加平、楊州、安城、京城など各地から420人ほどが連行された。5月には生野からの逃亡者2人に懲役刑(3ヶ月と6ヶ月)の判決が出された。
1945年には1月・3月と江原寧越から140人が連行されている。
名簿の記載によれば、このうち逃亡者は820人を超え、8・15解放時に在籍していたのは330人ほどだった。藤岡寅勝『明治以降の生野鉱山史』では、1945年8月に採鉱課に朝鮮人382人が在籍としている。厚生省名簿から死亡者数をみると16人である。『殉職産業人名簿』には2人の生野での死亡者の記載があるが、厚生省名簿にはこの2人の名前がない。厚生省名簿には欠落があるのだろう。
この名簿からNHKは、咸安郡での調査をおこなって3人の証言を得た。NHKの『調査報告「朝鮮人強制連行」』(1993年)によれば、2人の割当が来たが、誰も行きたがらず、くじを引き自分になった(朴キョンスルさん)。面長に日本に行かないかと誘われ、今行かないと強制的に連行され、ひどいことになると言われて応じた(宋允鎬さん)。新婚1年のある晩2人の警官に連行された。生野ではランプを落として殴られ耳が聞こえなくなった(チョウチョンギュさん)。
これらの証言によれば、1942年の咸安からの連行は100ほどを20人ごとの隊にしておこなわれ、事故の存在や処理について会社はみなに知らせなかった。また外出の自由がなく、食事代や強制貯金で差し引かれ、ほとんど賃金がもらえなかった。逃亡者も多かったが、発見されると見せしめの皆の前で殴られた。このなかで宋さんは逃走し、京都の鉱山で働いた(「半月城通信」23号)。
これらの証言から、「募集」に応じたことになっていても、実際には割当や脅迫による強制連行であったこと、強制労働のなかで逃亡がおこなわれたことがわかる。
崔明国さんは当時豊岡に在住していた。募集のときに示されたことと現場に来ての体験と話が違い、夜中に逃亡した。豊岡で警察が朝鮮人を捕えると在住朝鮮人に食事の供出を命じたという(『鉱山と朝鮮人強制連行』74頁)。
当時の写真をみると、「鉱業報国」の文字の下に「我等の職場は戦線に通ず、銃取る覚悟で銃後を守れ」とある。このような職場の戦場化は労働者の人間としての尊厳を奪うものであった。
明延鉱山
明延鉱山の歴史も9世紀からの採掘が伝えられるように古い。近代に入って三菱経営となり、錫の採掘がすすめられた。
この明延鉱山にも朝鮮人が連行された。厚生省名簿には1942年8月からの連行者899人分が掲載されているが、中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」には1942年6月までに520人が連行されたことが記されているから、連行者数は1400人を超えることになる。
『鉱山と朝鮮人強制連行』によれば、連行は1939年12月からはじまり、明延には100人が連行された。1940年2月には100人が連行されたが、4月には朝鮮人が賃上げのストライキをおこなっている。12月には339人の労務訓練がおこなわれた。1941年1月には63人、2月には110人が連行され、4月には朝鮮人数は500人ほどになった。朝鮮人の子どもも増え、1942年4月には鉱山託児所に朝鮮人幼児が50人ほど預けられた。
名簿から1942年からの連行状況をみると、11月には慶南南海から100人、1943年には4月に密陽から50人、10月には忠南瑞山・洪川から100人が連行された。1944年には4月に慶南昌原50人、居昌39人、6月には昌原・固城から58人、7月には京畿江華38人、9月には驪州・楊州から62人、10月には京城から45人というように連行が強化され、290人を超える人々が連行された。さらに1945年1月には忠南大田などから78人、2月には江原准陽・全南高興・潭陽・光山・海南などから279人を連行した。このうち8・15までの逃亡者は438人であり、連行者の49パーセントを占める。
渡日していた朝鮮人が1942年から明延で働いた例もある(尹泰龍さんの自伝)。山名猛さんは1941年から45年の間、朝鮮人や捕虜を担当した。朝鮮に出向き、全南などから連行したが、逃亡者が多かった。朝鮮人は煙山に収容されたが、連合軍捕虜が連行されると朝鮮人は旭山に移転した。連行された朝鮮人家族の女性が選鉱でも働いた。(『鉱山と朝鮮人強制連行』29〜32頁)。
この明延鉱山に連行された朝鮮人の証言としては白?寅さんのものがある。白さんは慶南居昌出身、従兄とともに居昌から明延鉱山に連行された。飯場は鉄条網で囲まれていた。食事は豆カス入りの玄米だった。引率者の監視を受けながら坑内に入った。削岩機を背負って60度の急傾斜を昇降した。逃亡したものを見せしめに木刀で滅多打ちにした。このままでは死んでしまうと従兄と脱走した。同胞の家で服を着替え、汽車に乗ったが鉱山監督に捕まった。警察署のちかくに来たときにふたたび逃走し、脱出に成功した(『証言集2強制連行編』86頁〜、『平壌からの告発』9頁〜、『朝鮮人強制連行調査の記録・兵庫編』150頁)。厚生省名簿には「白原?寅」の記載がある。白さんが居昌から連行されたのは1944年4月のことだった。
なお、明延には連合軍捕虜300人も連行された。
中瀬鉱山
中瀬鉱山は16世紀から金山として採掘された。この鉱山ではアンチモンを産出した。アンチモンは軍需品としてバッテリーの電極などに使用されたため、戦時下の1943年にはアンチモンの重要鉱山として指定された。中瀬鉱山は日本精鉱から三菱鉱業に経営が委任され、アンチモンの採掘がすすめられた。
中瀬鉱山については、厚生省名簿に、集団連行された191人分と「自由募集」による62人分の計253人分の氏名がある。また「健康保険・厚生年金被保険者資格喪失届」も発見され、そこには朝鮮人も含まれている。集団的連行は1944年4月に慶南金海から66人、7月に全南珍島30人・宝城32人の計62人、11月に全北井邑から36人、1945年2月には再び井邑から27人というようにおこなわれた。この191人中、逃亡者は67人である。「自由募集」者では62人中、逃亡者は30人であり、半数が逃走している。逃亡数は合計すると97人となる。
連行がすすむなかで、1944年10月には30人が寝具不足を理由に争議を起こした。
連行状況については連行に関わった岸谷喜諒さんの証言がある((『鉱山と朝鮮人強制連行』53〜56頁)。それによれば、岸谷さんは1943年に中瀬鉱山の勤労課に入り、1944年に朝鮮に補佐役となって赴き、労務の手配をおこなった。慶南金海からの連行の際には増田旅館を連絡所にした。朝鮮人を下関から山陽線で姫路に運び、そこから播但線で八鹿まで乗せ、トラックで中瀬に運んだ。第1陣を大切に収容し、のち八鹿高校の誠和寮を借りて収容した。2回目は全南、3回目は全北から集めた。50人を目標にしても30人・20人と次第に減っていった。現地では労働力が減り、役所も困惑していた。22〜3歳の岸谷さんにとって、このような連行は大変な苦痛であり、職場を変えてもらったという。
この証言と厚生省名簿の連行先とは一致する。
連行された人々の多くが坑内労働を強いられた。収容された寮は万年床、衣服は連行時のままであり、しらみが湧いた。誠和寮の守衛室では公開のリンチがおこなわれた。真冬にドラム缶に全身を浸し水から出た肩などを棒や竹刀で叩いた。1945年11月の帰国の際には266人が帰国したが、その内訳は、徴用109人・自由募集9人・家族組夫148人となっている(『鉱山と朝鮮人強制連行』51・52・57・59頁)。
現在、生野鉱山跡は「シルバー生野」となり、観光用の坑道、資料館、鉱物館などが整備されている。鉱物館には朝鮮半島で採取された鉱石も展示されていた。生野鉱山本部として使われた建物やトロッコ道跡、神子畑鋳鉄僑なども残っている。しかし連行された朝鮮人や連合軍捕虜について記したものは少ない。生野では口銀谷・奥銀谷での歴史街道の整備がすすんでいる。そのなかで連行された人々や労働者の歴史も記憶されていくべきだろう。
三菱生野鉱山への朝鮮人強制連行 厚生省名簿(兵庫県分)から作成 | |||||||||
連行年月日 | 連行者数 | 連行者本籍地 | 逃亡 |
送還 除名 退職 | 帰国 | 満期 帰国 |
死亡 | 記述 不明 |
8・15 以後在籍者数 |
1939・12・20 | 55 | 山清54星州11 | 31 | 3 | 4 | 7 | 5 | 5 | |
1940・ 2・ 4 | 75 | 山清75 | 50 | 6 | 4 | 15 | |||
1941・ 2・10 | 79 | 昌寧79 | 65 | 1 | 3 | 8 | 1 | 1 | |
1941・ 2・16 | 13 | 山清13 | 10 | 1 | 1 | 1 | |||
1941・ 3・30 | 28 | 昌寧28 | 22 | 1 | 4 | 1 | |||
1942・ 2・ 2 | 98 | 陜川78星州4高霊13居昌2他1 | 73 | 4 | 20 | 1 | |||
1942・ 6・ 2 | 96 | 咸安95昌寧1 | 81 | 6 | 1 | 5 | 1 | 2 | |
1942・11・ 7 | 98 | 昌寧56咸安2陜川37他3 | 63 | 7 | 4 | 21 | 3 | ||
1943・ 4・10 | 55 | 洪城52青陽2他1 | 43 | 1 | 10 | 1 | |||
1943・ 4・15 | 24 | 論山18大徳5他1 | 13 | 9 | 2 | ||||
1943・ 9・23 | 162 | 公州92高敞59青陽2益山2霊光2他5 | 96 | 3 | 1 | 1 | 61 | ||
1944・ 4・19 | 80 | 蔚山58泗川14清州3慶州2他3 | 60 | 3 | 17 | ||||
1944・ 4・21 | 74 | 泗川41高敞18霊光2統営2他11 | 42 | 32 | |||||
1944・ 4・30 | 51 | 咸安40蔚山5他6 | 26 | 1 | 24 | ||||
1944・ 6・ 7 | 42 | 泗川35咸安5他2 | 28 | 1 | 13 | ||||
1944・ 7・24 | 85 | 龍仁31加平18楊州21安城3任実2他10 | 40 | 1 | 1 | 43 | |||
1944・ 9・ 6 | 29 | 安城20龍仁5他4 | 17 | 1 | 11 | ||||
1944・ 9・19 | 18 | 安城16他2 | 15 | 2 | 1 | ||||
1944・11・ 4 | 38 | 京城25他13 | 8 | ※3 | 1 | 26 | |||
1945・ 1・19 | 98 | 寧越85平昌3提川2他8 | 23 | 75 | |||||
1945・ 3・20 | 42 | 寧越30京城3他9 | 17 | 1 | 2 | 22 | |||
計 | 1340 | 823 | 37 | 18 | 100 | 16 | 12 | 334 |
参考文献
藤岡寅勝『明治以降の生野鉱山史
金慶海ほか『鉱山と朝鮮人強制連行』明石書店1987年
厚生省勤労局調査「朝鮮人労務者に関する名簿」兵庫県分(生野・明延・中瀬鉱山)1946年
「健康保険・厚生年金被保険者資格喪失届」中瀬鉱山分
『調査報告「朝鮮人強制連行」』NHK 1993年8月1日.
杉浦健夫編『生野銀山
石川準吉『生野鉱山と生野代官』日本工業新聞社1959年
伊藤孝司『平壌からの告発』風媒社2002年
朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録・兵庫編』柏書房1993年
『証言集2強制連行編』朝鮮日本軍「慰安婦」強制連行被害者補償対策委員会2003年
「半月城通信」23号 1996年12月
『強制動員寄贈資料集』日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会2006年
(2002年10月調査・2007年補記 竹内)