紀州鉱山への朝鮮人強制連行

1石原産業紀州鉱山の成立

 @ 紀州鉱山の開発

 紀州での銅採掘の歴史は古い。八世紀、奈良の東大寺の大仏建立のときに紀州から大量の銅が出されたといわれ、古い坑道の壁には一四世紀前半の採掘を示す「延元二年」の文字が残されている。江戸期にも紀和町各地で採掘がおこなわれ、三〇をこえる銅山が開発されている。近代に入っても銅採掘は盛んであったが、紀和町各地の小規模な鉱山を統合して石原産業が紀州鉱山を設立し、大規模な採掘をおこなうようになった。

 はじめに石原産業による紀州鉱山の開発についてみてみよう。

 石原産業は板屋・湯ノ口・地薬・上川などの各地の鉱区を買収し、一九三四年七月、入鹿村(現紀和町)に紀州鉱山を開設した。

 石原産業は鉱区に多数の鉱脈があることに着目し、板屋から大嶝、湯ノ口を経て惣房に至るトンネルを掘った。一九三六年には大嶝、湯ノ口間七三〇メートル、湯ノ口、惣房間三〇〇七メートルというように、つぎつぎにトンネルが掘られていった。清水組がこの工事を請け負った。一九三七年、石原産業はこの工事によって多数の有力な鉱脈を発見している。鉱区を貫く一〇キロメートルをこえるこのトンネル掘削工事に多数の朝鮮人が就労していたと思われるが、その実態はあきらかではない。

 石原産業はこのトンネル工事と併行して一九三七年四月、板屋に選鉱場の建設をはじめた。この選鉱場は一九三九年七月に完成し、粗鉱を一日に一千トン処理できた。選鉱場はさらに拡張され、一九四二年一〇月には粗鉱を一日二千トン処理できる選鉱場が完成した。

 また石原産業はこの鉱石を精錬する工場の建設を四日市ではじめた。工場建設は一九三九年五月からはじまり一九四〇年一〇月には巨大な煙突が完成し、一九四一年には四日市工場の第一期工事が完成、工場の操業がはじまった。四日市工場の敷地造成を清水組が請け負い、岸壁築造を大本組が請け負った。四日市工場の工事場には清水、春本、高田といった組の下に多数の朝鮮人が就労していた。

 一九四一年三月には板屋から阿田和までの架空索道が完成した。阿田和駅に貯鉱場がつくられ、ここから銅鉱が貨車で浦神の港へと輸送され、港から四日市工場などの精錬工場へと送られていった。

 このように一九三〇年代後半から石原産業は紀州鉱山の開発をすすめ、鉱区を貫くトンネル、輸送用道路、索道、選鉱場、精錬工場などの建設がおこなわれていった。これらの建設工事には朝鮮人も就労していたとみられる。

 石原産業紀州鉱山の開発がすすめられた時期は日本帝国主義による侵略戦争が拡大されていったときであった。この戦争をすすめるために、銅の需要がたかまった。日本人が兵士として動員されて労働力が不足するなかで、日本は朝鮮人を計画的に連行し動員する計画をたて実行するようになった。紀州鉱山にも朝鮮人が連行された。

 A石原産業のアジア侵略

 つぎに一九三〇年代の石原廣一郎と石原産業の動きについてみていきたい。

 石原廣一郎(一八九〇年生)は一九一〇年代にマレーヘ行き、二〇年代には南洋鉱業公司(のちの石原産業)の活動によって、三万人を雇用する石原コンツェルンを形成した。日本が中国東北での侵略戦争をはじめた一九三一年に石原は帰国し、大川周明らと国家主義運動をすすめた。大川らが神武会を結成したときにはスポンサーとなり、五・一五事件や「国家改造・海外拡張」をねらって設立された明倫会にも関わった。一九三六年の二・二六事件には反乱将校の活動を側面から支援し、決起趣旨を「上奏」した。石原は反乱幇助罪で起訴されたが「無罪」となった。このように石原廣一郎は国家主義運動に深く関わっていた(石原廣一郎の思想と行動については、赤澤史朗、粟屋憲太郎編『石原廣一郎関係文書』の粟屋氏の解説による)。

 石原は南方で得た資金で国内にさまざまな会社を設立した。鉱山についてみてみれば、紀州鉱山のほかに、久宗(徳島)、旭(大分)、円満地(和歌山)などがあり、植民地地域では美田(樺太)、石峰(朝鮮)などがあった。

 一九四一年十二月、アジア太平洋戦争がはじまると「南進論」を持論としていた石原は戦争を支持した。すでに石原産業はマレー半島各地の鉱山を経営していたが、軍の指令を受けて経営する鉱山を増やしていった。日本による東南アジアの占領によって石原産業は鉱石をより一層収奪していくことができるようになったわけである。

 石原産業の東南アジアでの鉱山経営についてみてみれば、以下を所有していた。

マニラ支社〜カランパ(鉄)、ピラカピス(銅)、アンチケ(銅)、シパライ(銅)、ジャワ支社〜ソロ(銅)、サワル(鉛)、バラン(水銀)、レンバン(褐炭)、昭南支社〜トト(金)、コタテンギ(錫)、マラッカ(ボーキサイト)、バヤル(ボーキサイト)、ケマラン(鉄、

マンガン)、セミンゴール(錫)、南岸(ボーキサイト)、海南島・田独(鉄)、ボルネオ・ラウト(炭)、これらの鉱山を石原産業は所有し、石原は占領によって利益をえていったわけである。また石原産業は海運業でも力をもっていた。

 石原廣一郎は国家主義運動に精力的に関わって「南進論」を主張し、石原産業は日本の海外侵略とともに利権を拡大し成長した。敗戦により、一九四五年十二月、石原廣一郎は戦争犯罪人として逮捕され、巣鴨に拘置されたが、一九四八年十二月に岸信介・安倍源基・笹川良一・児玉誉士夫ら十六人とともに釈放された。

 この時期、石原の活動は日本の侵略戦争とともにあった。石原産業が東南アジアから収奪したボーキサイト、錫、銅、鉄などの鉱物は軍需産業によって利用され兵器となり、侵略戦争に利用された。石原らの釈放と免責は経済侵略(財閥の戦争責任)と強制労働(植民地・占領地での戦争犯罪)の真相追及をあいまいにすることになった。

 

2 石原産業紀州鉱山への朝鮮人強制連行

 @連行者数

石原産業は紀州鉱山の開発をすすめていくが、一九四〇年代に入ると紀州鉱山に朝鮮人が大量に強制連行されてくるようになった。以下、連行者数、連行状況、抵抗の状況、死亡者数の順にみていきたい。

 石原産業紀州鉱山への朝鮮人強制連行を示す史料としては、史料1中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」(一九四二年)、史料2「国民動員計画二依ル朝鮮人労務者状況調」(一九四四年十二月末)三重県知事引継書(一九四五年)所収、史料3厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」(石原産業紀州鉱山分・一九四六年)がある。

 これらの史料から一九四〇年から四五年までの間に、紀州鉱山へと連行された朝鮮人の数をみていくと、一九三九年に二〇〇人、四〇年に三〇〇人の連行が承認され(史料1)、翌年にかけて連行がすすみ、一九四二年六月までに五八二人が連行された(史料1)。一九四三年には三四〇人、四四年には三〇一人、四五年には一三四人が連行され(史料3)、史料1と史料3の統計からみると、連行者の総数は一三五七人と推計することができる。史料2には一九四四年末に一二二五人が連行されたとあり、史料3にある四五年の連行者分一三四人を加えると一三五九人となる。史料123から紀州鉱山へと連行された朝鮮人は一三五〇人をこえる数であるということができる(表1)。

石原産業四日市工場へも一九四四年から四五年にかけて約三〇〇人が連行されている(石原廣一郎『創業三五年を回顧して』)。この数を紀州鉱山への連行者数に加えると紀州鉱山関連での連行者数は一六五〇人をこえていく。

 このように連行された人々を使って、紀州鉱山は一九四三年には産銅量二八〇〇トン、日本第六位の銅山へと成長していった。

 史料3の厚生省報告書には連行された朝鮮人七二九人分の名簿がある。ここには連行者の氏名、出身地、連行年月日、退所日などが記されている。この名簿の連行年月日から連行状況を分析したものが表2である。この名簿の集計表には八七五人の連行者数が記されているが、名簿掲載数は七二九人分であり一四六人分が欠落している。連行状況の分析からみて欠落は一九四二年の一人、一九四三年の七六人、一九四四年の六九人分であると考えられる。

 紀州鉱山への朝鮮人強制連行は一九三九年度の承認をうけて一九四〇年からはじまったとみられるが、一九四〇年ころの連行状況については内務省警保局『社会運動の状況』(一九四一年分)のなかに「募集に依る朝鮮人労務者移住状況」があり、一九三九年度分の「募集」による連行者の一九四〇年末の状況について知ることができる。

 三重県分は二〇〇人の連行予定に対し一九八人が連行されている。この一九八人は紀州鉱山への連行者にあたる。このうち一九四〇年末までに五八人が逃亡している。この史料から一九三九年度の承認により、一九八人が連行されたことがわかる。一九四〇年度分の承認者については三〇〇人弱が連行されていったものと思われる。

 史料3から一九四二年には一次、四三年には四次、四四年には四次、四五年には二次の計十一次にわたる強制連行があったことがわかる。史料1から四〇年から四一年の間に約五〇〇人の連行があり、一次の連行者を約一〇〇人とすると五次の連行があったと推定できる。この五次の数と十一次の連行とをあわせると、十六次の連行があったことになる。 

紀州鉱山への朝鮮人強制連行は少なくとも十六次にわたり、その連行者数は一三五〇人をこえる数であったということができるだろう。

 連行は表2、図2にあるように江原道を中心におこなわれている。

江原道平昌郡からはわかっているだけで二次にわたり約一六〇人が連行されている。この平昌郡からの連行状況を示したものが図3である。ここから連行の地域的状況をうかがい知ることができる。

 連行に従事した許圭氏(一九一五年生)によれば、連行状況はつぎのようになる。

 会社が連行人数を決め、大阪の鉱山局に申請、何郡から何人という許可証をうける。朝鮮に行き、道庁や警察にあいさつに行き、金をわたす。郡警察で名簿とともに徴用者をひきわたされ、指定列車で釜山に行き、船で下関へ。下関から列車で大阪を経由して阿田和まで行き、トラックで紀州鉱山へと連行した(一九九七年五月ききとり、金静美・佐藤正人氏らと同行)。

 許圭氏は一九四〇年から四五年にかけて朝鮮人を連行し、連行者の労務係の仕事をしていた。かれの場合、江華島・三陟・陽平・永川などから連行してきたという。         

 許圭氏は三重県嬌風会のテコ入れで石原産業紀州鉱山の労務担当の社員となった。三重県嬌風会(のち協和会)は在日朝鮮人を強制連行政策の手先として利用したのである。

A 抵抗・逃亡と争議

三重県知事引継書の史料には一九四四年十二月末の紀州鉱山への連行者一二二五人中、三七六人が逃亡とあり、逃亡率は三〇パーセントをこえる。厚生省報告書でも七二九人中、逃亡者は二八三人であり、逃亡率は三七パーセントをこえる。連行者三人のうち一人が逃亡していったということになる。

 一九四四年末までの逃亡者三七六人に四五年度分の逃亡者数五〇余人を加えると四二〇人をこえる。紀州鉱山では少なくとも四二〇人をこえる逃亡者がいたということになる。

 逃亡者がもっとも多かったのは一九四四年である。厚生省勤労局史料からみてみると一五〇人をこえる朝鮮人が逃亡している。逃亡の多さから自由と解放をもとめた人々の熱い想いをみていくことができる。

 一九四四年には紀州鉱山へと大量の動員がおこなわれている。約三〇〇人の朝鮮人の連行のほか、六月には連合軍捕虜が三〇〇人連行されている。また木本中学・南牟婁高女、立命大、上智大の学生や勤労報国隊員の動員もおこなわれた。この年に動員された人々は  朝鮮人、捕虜、学生、報国隊員をあわせれば八○○人をこえる。当時紀州鉱山には三千人をこえる人々が集められていたという。

 日本は各地の戦線で敗北を重ねたが、そのなかで戦争体制を維持するために国内での産銅体制の確立をねらった。そのためにこのように大量の動員がおこなったが、連行された朝鮮人は現場から離脱していくことで抵抗していった。この一九四四年には大きな争議がおこされた。

 逃亡状況をみてみると一九四三年十二月に江原道旌善郡から連行された九〇人は解放前までに六九人が逃亡し、一九四四年八月に鉄原郡から連行された七七人は解放前までに三九人が逃亡している。連行された集団によっては、麟蹄郡の九八人中四人のみの逃亡というケースもあるが、これは例外的であり、他の集団では逃亡率は三〇〜五〇パーセントとなる。逃亡率は高かったのである。このような逃亡の増加は日本の戦争遂行能力を生産現場から撃つものであったといえるだろう。

 朝鮮人の抵抗は逃亡だけではなく争議によってもおこなわれている。

 日本鉱山協会「半島労務者二関スル調査報告」(一九四〇年十二月)には紀州鉱山での労務管理の状況が記されている。

 それによれば、連行された人々は三ケ月の訓練をうけ、「日本臣民にして産業戦士として来山」したことを「鼓吹」され、「皇国臣民の誓詞」を「奉誦」させられた。浴場、食堂、

社宅などは日本人と別々であった。

 この史料の争議に関する記述をみると、入山して二ケ月後、日本人より本番の賃金が低く、請負制がおこなわれないことを理由に、十二〜三人が作業を休んだ。これに対し鉱山側は差別感情をもたせないために日本人並みの本番の賃金と請負制の検討をすることを「処置」としている。

 この記載から連行された人々が一九四〇年に賃金差別に対しストライキをおこし、差別の撤廃と賃金の増額を要求したことがわかる。

 このような形で差別賃金の撤廃を要求し、記録に残されてはいないが、満期帰国や家族呼寄せ、労災補償などを求めてさまざまな形でたたかいが組まれていったとみられる。

 一九四一年七月、金子命坤ら一三人が「公務執行妨害」「傷害罪」で木本区裁に送検されている。これは一三〇人の連行者が参加して争議となり、警察官に暴行を加えたという口実で三〇人が検挙されたことによるものである(『特高月報』)。

 朝鮮人の要求に対し鉱山側が警察力をもって弾圧、それに対し朝鮮人の側がはげしく抵抗したことを一三人の送検からうかがい知ることができる。

 一九四四年にはわかっているだけで二つの争議がおきている。

 二月、第二協和寮の賄夫婦(朝鮮人)が飯米を横領したことに対して、二六人の朝鮮人が抗議し全員が検挙された。飯米横領問題を契機としているが、この動きの根底には不十分な食糧のもとでの強制労働への怒りと解放への強い想いがあったとみるべきだろう。二六人は書類送検され、鉱山側へひきわたされた(『特高月報』一九四四年三月)。

 七月には病者への待遇改善を要求する争議がおき、一四三人が参加した。この時点で朝鮮人の連行者は六五八人が残留していた。八紘寮に収容されていた朝鮮人は舎監が戻ってくると病者の待遇改善を求めて舎監を攻撃、それに対し鉱山側は警察力で弾圧した。警察官がリーダーの金らを施縄して検挙するにおよび、一同は喊声をあげて広場に集合して抵抗した。結局八人が検挙された。

 八人は八月五日に送局され、八月十五日、木本区裁で有罪判決をうけた。懲役八ケ月一人、懲役六ケ月一人、懲役六ケ月(執行猶予三年)二人、懲役五ケ月(執行猶予三年) 一人、懲役三ケ月(執行猶予三年)一人、という判決だった。権力は懲役刑をくだしてかれらをみせしめにしたといえるだろう。

 『特高月報』には朝鮮人が「連れていくなら寮生全部を連れていけ」「俺が死んだ後は皆がいるぞ」と朝鮮人が叫び、抵抗したことを記している。これらの発言から朝鮮人が団結し、連帯をつよめ、奴隷的状況に対して人間の尊厳をかけて抵抗していったことをみていくことができる(『特高月報』一九四四年八月)。

 連行された朝鮮人は板屋、湯ノ口、惣房の三鉱区に分散して収容されていたという。

 板屋では所山に八紘寮がつくられ、そこに収容されていたが、争議ののち八紘寮には連合軍捕虜が収容されたようである。朝鮮人は向かい側の社宅に入れられたという。

 惣房での朝鮮人収容所は上川の鉱区から楊枝川をわたった所、築後につくられた。築後には当時の建物は残っていないが、段状になった建屋跡がある。

 許圭氏によれば、戦争終結の前、坑道入口に「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の発展を見よ」とカンテラの火で文字が焼きつけられていた。この落書が問題となり、憲兵が派遣され、仕事を中止して誰が書いたのかの調査がおこなわれたという。

 このように落書の形で、朝鮮人が戦争に動員されることに抵抗したケースは他にもあったと思われる。日本は植民地支配をつよめ「皇民化」によって朝鮮人の内面をも操作しようとしたが、それには道理がないこと、人間の内面を奪いつくすことはできないことをこの落書は示すといえるだろう。

 暗い坑道のなかで解放への想いは絶えることなく、心の内側からこみあげてきていたにちがいない。

 紀州鉱山を管轄する鵜殿警察署管内の朝鮮人数は一九四四年末には二二八八人とされている(三重県知事引継書)。一九四四年末での紀州鉱山に連行された朝鮮人の在留者数は八〇〇人ほどであったと推定できるから、連行者以外に紀州鉱山周辺には約一五〇〇人の朝鮮人が在住していたということになる。

 これらの朝鮮人の一部は、当時石原産業が紀州鉱山付近で開発をすすめていた薬師炭山や妙法鉱山へと動員された人々とみられる。

 紀州鉱山鉱区の南方にあたる和気地区の本龍寺に朝鮮人の遺骨が残っていることを島津威雄氏らが調査して発見しているが、これらの人々のなかには石原産業関連の鉱山開発にかかわった人々のものもあると思われる。たとえば一九四五年八月三日に二〇歳で死亡した安陵晟はその可能性が高い。

 厚生省報告書の紀州鉱山分の最後には石原産業薬師炭山に動員された九人の名簿がある。かれらは一九四五年四月以降に雇用されている。このことから四五年に入ると、紀州鉱山周辺での朝鮮人はさらに増えていったと思われる。

 このようにアジア太平洋戦争末には紀州鉱山および鉱山の周辺には二千人をこえる朝鮮人が在住していた。これらの人々は日本帝国主義の敗北と植民地朝鮮の解放にともない故郷へと帰っていく。

 紀州鉱山に連行された朝鮮人の帰国はどうだったのだろうか。八月には鉱山に動員されていた木本中学、南牟婁高女の学生が帰宅、九月には連合軍捕虜が帰国していったが、朝鮮人の帰国ははかどらなかった。このため十一月、朝鮮人七六〇人が帰国を要求して争議をおこしている(『三重県の百年』)。

 連行された人々が帰国のために紀州を出発したのは十二月のことであった。厚生省勤労局報告は十二月二四日に三一四人(一人残留、一九四二年から四五年の間の連行者)が帰国したとしている。多くの未払賃金を残しての帰国だった。現場から離れて独自に帰国した人々も多かったのではないかと思われる。

 B 死亡者数

 つぎに紀州鉱山での朝鮮人死者についてみてみよう。厚生省報告書には一〇人の死者があったとされているが、報告書の名簿から死者を数えると五人を確認することができる。他の五人の氏名は不明である。戦後、石原産業が作成した「従業物故者忌辰録」には一九四〇年から四五年までの朝鮮人死者八人の氏名がある。このうち厚生省報告書名簿と重複するのは一人である。この二つの史料から紀州鉱山の死者については一四人分の名簿をつくることができるが、これが全てとは思われない。

 「従業物故者忌辰録」には趙龍凡、曽春木の二人を「戦没」としている。この二人は紀州鉱山から徴兵され死亡したとみられるが、詳細は不明である。厚生省報告書の名簿には徴兵された人が二人記録されているが、この二人の生死についてはあきらかではない。

 以上、紀州鉱山への朝鮮人強制連行について連行状況、連行者数、抵抗(逃亡と争議)、死亡者などを中心にみてきた。

 朝鮮人強制連行期に紀州鉱山へと十数次にわたる集団的連行が江原道を中心におこなわれたこと、連行された朝鮮人は一三五〇人をこえること、それらの人々は自由と解放を求めつぎつぎに逃亡し逃亡率は三〇パーセントをこえること、より人間的な状況を求めて争議をたたかったこと、死亡者は一〇人以上いることなどをあきらかにした。

 これらの朝鮮人強制連行に関する史料は一部が発見されているが、多くが隠されたままである。真相糾明は不十分であり、その処理はおわってはいない。

3 人間の尊厳の回復へ

紀州鉱山への朝鮮人強制連行をめぐっての今後の課題について以下考えてみたい。

 厚生省勤労局調査報告書の記述は不十分なものであり、誤りや脱落も多い。しかしこの報告書の発見によって連行をめぐる状況をあきらかにする作業はすすんだ。韓国政府が一九九〇年代に入り、日本政府に対し、強制連行関係名簿の提出をもとめたことから、この報告書の存在が公表された。この報告書のコピーは韓国政府に渡され、それらは在日韓国民団によって公開された。日本政府は日本国民にこの報告書を未だ公開していない。

 連行された側にとって、どこへ連行されたのか、その生死もわからないという状況下、真相究明をもとめる人々の想いが連行者名簿の発見に結びついていった。しかし全ての名簿が発見されたわけではない。

 紀州鉱山についても連行された約一三五〇人のうち約六〇〇人の氏名が不明のままである。

 日本は植民地朝鮮から甘言を弄して騙したり、拉致するなど、さまざまな形で政府と企業が一体となって連行し、各地で労働を強要した。この強制連行は人間の奴隷化であり、戦争犯罪であった。その連行実態は隠蔽されたままである。隠されることでその戦争犯罪は継続し繰り返されているということができる。

 連行された人々の人間としての尊厳は侵されつづけている。連行された人々の氏名、抵抗し弾圧された人々の氏名、死亡者の氏名等、あきらかにされてはいない。紀州鉱山の場合も同様である。連行された人々はいまも人間としての扱いをうけていないのである。

 このような状況に対し、連行にかかわった日本政府と石原産業は全史料を公開すべきであろう。地元警察や裁判所にも関連史料は残されているであろう。学籍簿の調査ももとめられる。石原産業内には連行者の名簿原本が残されている可能性がたかい。

 一九九〇年代に入り、日本の過去の戦争犯罪に対してアジアの民衆が事実を明らかにし、賠償し、後世に正しく伝えるといった要求をさまざまな形で提示してきている。戦争によってふみにじられた人間の尊厳の回復にむけての意思表示がつづいている。過去の歴史の真実をあきらかにしようとする運動がたかまっている。

 紀州鉱山についてみてみれば、一九九七年に入り、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が結成され、調査をはじめている。同会は鉱山の現地調査と江原道麟蹄郡、平昌郡などへの現地調査をおこなっている。

 麟蹄郡では紀州鉱山に連行された金興龍・丁栄ト・孫玉鉉・金石煥氏、平昌郡では金?儀・尹東顕・秋教華・崔東圭氏ほかの聞きとりをしている。また労務係として強制連行を担わされた許圭氏からの聞きとりもおこなった。これらの調査によって強制連行の実態が

次第にあきらかになってきている。

 事実があきらかにされ、連行の責任追及とその処理がなされ、後世に正しく伝えていく作業がもとめられる。真相究明の第一歩として史料の発掘と公開が必要である。史料は政府、企業のみならず紀和町内にも残っていると思われる。地元での調査、証言収集がもと

められる。

 紀和町の町史や鉱山資料館には連合軍捕虜についての記述や展示はあるが、朝鮮人については少ない。歴史の真実を後世に伝えるためには、町史の記述や展示館の表現に改善がもとめられる。戦時下、一三五〇人をこえる朝鮮人が紀州鉱山に連行されたことをあきらかにし、そこでの抵抗を評価し、死者を追悼することが必要であると思う。一九四四年末、鵜殿警察署管内に存在した二千人をこえる朝鮮人の歴史を抹殺してはならない。

クマノ・ムロといった地名は古朝鮮語に由来するとみられる。そのような地名の多いこの地において、真実をあきらかにし、友好にむかう作業は政府の対応をこえて地域レベルで可能であると思う。

 『紀和町史』は旧連合軍捕虜が一九九〇年代に来日し「許すが忘れない」と紀和町で発言したことを伝えている。この発言は歴史的な和解と今後の友好にむけての発言であると思う。朝鮮人強制連行についてみればこのような発言の場はもたれていない。

 この状況にたいして連行された人々の高齢化をふまえ、被害者の人間の尊厳を回復していくための歴史的糾明と和解の作業は急務である。この過去の克服にむけての地域からのその作業は日本に住む私たち自身の人間性の回復につながっていると思う。

 

 参考文献

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」一九四二年(小沢有作編『近代民衆の記録10 在日朝鮮人』新人物往来社一九七八年所収) 

三重県「知事引継書」一九四五年(『朝鮮人強制連行調査の記録中部東海編』柏書房一九九七年所収)

厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」一九四六年

内務省警保局『特高月報』・『社会運動の状況』(朴慶植編『在日朝鮮人関係史料集成』四・五 三一書房 一九七六年所収)

日本鉱山協会「半島人労務者二関スル調査」一九四〇年(朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』二 一九八一年所収)

石原産業「従業物故者忌辰録」一九五五年

石原廣一郎『創業三五年を回顧して』石原産業 一九五六年

紀和町教育委員会『紀和町史下』紀和町 一九九三年

四日市市史編纂委員会『四日市市史十三史料編近代V』一九九六年

イルカボーイズ来日墓参ジャパン『四七年目のめぐり合い』一九九三年

前英兵極東捕虜・恵子ホームズ『片隅に咲く小さな英国』

土木工業協会他『日本土木建設業史』技報堂 一九七一年

赤澤史朗、粟屋憲太郎編『石原廣一郎関係文書』柏書房 一九九四年

大林日出雄、西川洋『三重県の百年』山川出版社 一九九三年

石原産業労働組合連絡会『鉱山に生きる闘い』一九五五年

島津威雄「イギリス人捕虜三〇〇人と朝鮮人労働者五〇〇人」(大阪人権歴史資料館『朝鮮侵略と強制連行』解放出版社 一九九二年所収)

二河通夫「三重県南牟婁郡に眠る外人(英国軍捕虜)墓地」(『熊野誌』三七 熊野地方史研究会 一九九一年所収)

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録・中部東海編』柏書房一九九七年

『朝日新聞(東海版)』一九九四年二月一〇日付

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允 「相度)の追悼碑を建立する会『紀州鉱山現地調査資料集I・U』一九九五年、九六年

佐藤正人「熊野市の木本トンネルと紀和町の紀州鉱山」(『キョレィ通信』五号 梅軒研究会 一九九七年)

紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」(『在日朝鮮人史研究』二七号 一九九七年所収)

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