戦後補償国際フォーラム(東京)
             
1994年参加記 

 1994813~14日と東京で戦後補償国際フォーラムが開催された。今回のフォーラムではアジア各地から被害者の証言がおこなわれ、討論では、日本での戦後補償を遅らせてきた原因の追究と、今後の運動の方向性を考えることが焦点になった。

 アジア太平洋地域からは、マーシャル・ミレ島、パプア・ニューギニア(ティンプンケ村)、ナウル、アラスカ・アッツ島、マレーシア・マレー半島日本占領時期被害者同胞家族協会、香港索債協会、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会、サハリン韓人老人会、台湾元日本軍及遺家族連合会、インドネシア兵補協会、フィリピン(リラ・フィリピーナ)などからの参加があり、ほかには元連合国捕虜(POW)、米東部韓国挺身隊問題対策協議会などの参加もあった。

 ここでは、なぜ戦後補償が放置されてきたのか(フォーラム第二部の討論)を中心にまとめておきたい。フォーラムの中での以下のような意見がだされた。

 戦後政治において戦争への反省がなかった。冷戦・日米安保のもとで戦争責任は問われず、戦後補償もおこなわれずに日本は国籍条項をタテに日本人だけの補償を行った。米ソ冷戦は、天皇を免責し、戦犯を釈放し、支配層を延命させた。戦争犯罪の追及は不十分なままで終わり、アメリカはその資料を利用した。アジアの被害者の声は無視された。アジア各地の政権が非民主的であり、被害者の側からの補償要求の声はおさえつけられた。日本の進出のための経済援助が賠償のかわりとされた。日本の民衆運動は被害者の側面を強調し、アジアとの連帯が弱かった。自国のことにのみ専念し、加害の自覚が弱く、アジアの民衆に説得力をもつ普遍性のある平和運動でなかった。戦争責任を問わないままの「反米」運動は進歩的ではなかった。

 必要なことは、戦前・戦中・戦後の連続性を問うことであり、戦争責任を果たすことで「平和憲法」が守れるという自覚である。「繁栄」を守るための「平和」という発想でよいのか。そこでは平和は二の次とされている。犠牲者は日本人だけという考え方は、外国人は人間ではない、人としてみないということになる。日本社会は外国人を人間として扱わず、人間とは日本人だけという社会である。軍人や医師は、人を人ともみない横柄な性質を持ち続けてきた。環境破壊・低賃金労働・性的抑圧は今も再生産されている。

償いのともなわない謝罪は、偽善である。個人の人権回復において補償は不可欠である。国家よりも個人を重視する政策への転換がもとめられる。償いによる被害者の人権回復と過去の誤りを繰り返さない社会への変革、新しい理念の追求が必要だ。経済至上主義を克服することがなければならない。アジアの被害者の人格の尊重とその尊厳の回復によって、日本人自らの人格尊重と道義の回復がある。

教育においては事実を示していくことが大切だ。日本人の側から天皇制と対峙し、日本人の精神構造を問うこと、天皇の戦争責任を問う作業をしていくことが大切だ。公聴会は国会で開くべきである。

 事実調査とその公開、天皇と国会による謝罪、補償の特別立法の制定、教科書への記述と記念館設立、戦争犯罪と人道に対する犯罪についての責任者の処罰、議会での公聴会、国際法による時効不適用の確認、処罰のための国際刑事裁判所の創設も必要である。

 以上フォーラムでの意見をまとめてみた。

 フィリピンの元慰安婦は、元慰安婦の発言を聞いたとき「とうとう正義を求めるときがきたという希望」が満ち、「尊厳と人間としての価値をとりもどす」ために運動をつづけていくと語る。サハリンの韓国人は「叫びと要求をもって挨拶したい」「去年の話では足りないのですか」「あなたは私が日本人を思うたびに体がふるえるのが想像できますか」という(フオーラムの資料より)。

人間としての価値を取り戻そうとするアジアの戦争被害者に対して、いまも日本は補償をおこなってはいない。戦争犯罪を犯罪として認めようとせず、いまだに隠蔽している状況である。犯罪事実を示しての処罰が求められる。処罰があって、謝罪や補償があり、後世に伝えるという作業がある。

 天皇を頂点とする戦争実行者の戦争責任・戦争犯罪の責任の確定が日本人の手で行われることがなければ、「謝罪」は偽善のままであるだろう。海外派兵や国連常任国入りのために「補償」をするのであるのなら、その補償は経済侵略・軍事覇権をおおいかくすものにすぎない。「責任者処罰」をめぐる動きについては、在日韓国民主女性会「朝鮮人従軍慰安婦』(第三集)1994年刊をみてほしい。

戦後補償が行われなかった理由は、犯罪が犯罪として認知されてこなかったからであり、外国人を人間とみなさないというものの見方が生き続けているからであると思う。「補償」には同情するが、「処罰」や「天皇制批判」については同調しないありようを変えていくことも必要だろう。戦争犯罪の隠蔽・処罰の回避と「国体護持」とは表裏一体の関係にあったのだから。

 前回の1993年度のフオーラムの内容は『戦後補償実現のために』の形で、梨の木舎から1994年に発刊されている。                (19949月記 竹内)