三菱細倉鉱山への朝鮮人強制連行
はじめに
細倉鉱山は宮城県の北方、栗駒山の麓の
この細倉鉱山の歴史については佐藤典正『細倉鉱山史』がある。細倉鉱山と朝鮮人については、日朝協会仙台支部学生班・東北大学朝鮮研究会編集による調査記録『宮城県朝鮮人強制連行の調査報告太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』がある。金賛汀『証言朝鮮人強制連行』には細倉に連行された鄭英斗証言が収録されている。厚生省勤労局報告書の宮城県分名簿には細倉鉱山への連行者963人分の名簿が含まれている。
ここではこれらの資料を参考にしながら、戦時の強制労働についてまとめていきたい。
細倉鉱山関係地図
1 細倉鉱山の歴史と朝鮮人
細倉鉱山の歴史は古く、9世紀はじめから採掘がおこなわれたといわれ、史料では16世紀の採掘を示すものが残されている。近代に入り、1890年に細倉鉱山株式会社が設立された。1899年には高田商会が鉱山を経営し、1917年には高田鉱山となった。この年には友愛会の高田鉱山支部も生まれている。鉱山では鉛や銀を産出し製錬していたが、亜鉛の生産・製錬がおこなわれるようになった。第1次世界戦争の際、イギリスが亜鉛輸出を禁止したため、自国での亜鉛精錬が必要になったからである。
戦争は亜鉛需要を拡大した。亜鉛は自動車部品、ケーブル、ダイカスト、メッキ、トタンなどに利用されるが、軍需用では弾丸の薬莢製造に利用された。鉛も電線、ケーブル、バッテリー、ヒューズ、ハンダなどに利用され、軍需品としての需要がたかまった。
高田鉱山では朝鮮人を朝鮮から募集して使用している。細倉鉱山資料館には高田鉱山期の地図があり、そこには駅近くの秋法に朝鮮人飯場と合宿所があったことが記されている。また館内には「朝鮮人募集要項」が展示されている。要綱には、坑夫、車夫、雑夫の職種で、2年間の契約で満20歳から35歳までを募集、賃金は最初の3ヶ月は1日60銭以上だが、その後には70銭以上を支給、就業上の負傷や病気の医療が無料であり、鉱夫救済会が見舞金を出すといった事柄が記されている。この要綱は1920年代のものとみられるが、実際の労働条件はこのようなものではなかったであろう。このような朝鮮人労働の歴史が強制連行の前史であったといえるだろう。
1928年には共立鉱業が鉱山を経営し、1934年には三菱鉱業が経営を引き継いだ。三菱による資本投下によって軍需用鉱山としての開発がすすめられ、1930年代には感天・二貫目での竪坑、浮遊選鉱場、亜鉛製錬工場、鉛焼結工場増設、中央竪坑、川口発電所などが次々に設置され、亜鉛・鉛・銀などの産出が増加した。1940年代には労働者数も2千人を超えた。不足する労働力を朝鮮半島からの連行によって補った。朝鮮人は計1000人ほどが連行され、連合軍捕虜も280人ほどが連行された。しかし1945年8月には米軍による攻撃を受け、鉱業が停止した。
細倉鉱山には感天坑・富士坑・二貫目坑の3つの竪坑があり、鉱山正門近くの通洞坑と繋がっていた。社宅が柳沢、秋法、荒町などにあった。戦時には、連行された朝鮮人は金剛寮に収容され、朝鮮人家族は三月平の沢近くや荒町の社宅に居住した。連合軍捕虜は中学校の跡地に、受刑者は三月平の社宅近くに収容された。駅の近くにある文化会館は協和会館だった。
2 細倉鉱山への連行状況
最初に厚生省勤労局名簿から集団的な連行状況をみていきたい。
この名簿には963人分の氏名・本籍地・連行年月日・連行後の動向などが記載されている。集団的連行は1940年4月に全北任実郡などから85人、9月から10月はじめにかけて慶北軍威郡などから約150人、1941年12月には慶北軍威・英陽郡などから約180人が連行された。1942年1月には軍威郡から約50人、11月には軍威郡などから96人が連行された。1943年1月から2月にかけては約90人、4月には佐渡鉱山から転送者(扶余郡出身)など約30人、5月には全南咸平や忠南扶余などから約40人が連行された。1944年1月には軍威郡から約50人が連行され、連行地が江原道にまで拡大され、9月には江原寧越郡などから45人、11月には江原春川郡などから96人が連行された。
名簿によれば連行者数は963人に及んだ。このうち死亡者は9人である。8・15解放前には500人以上が逃亡し、解放後の逃亡者数と合わせると逃亡者数は600人近かった。逃亡率は70パーセントをこえる。徴用によって連行された江原の人々の逃走は少なかったが、それは監視と処罰の強化によるものだろう。
連行者の4割が軍威郡からの連行者である。連行者の面別の統計をとると、郡の各面に連行者数を割り当てて計画的に連行していった状況を知ることができる。
さて、日朝協会仙台支部学生班・東北大学朝鮮研究会編集『宮城県朝鮮人強制連行の調査報告 太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』は1960年代の調査であり、会社と行政での史料調査を踏まえての報告書が記されている(以下引用にあたり『細倉調査』と略記)。
この調査団では、会社史料については1944年6月以降のものを閲覧している。それにより1944年9月と11月には45人、94人を連行したことを確認している。厚生省名簿の1944年の数値とほぼ同じ数である。また1944年8月から1945年までの各現場での平均比率を出している。それによれば、朝鮮人は504人となり、鉱山と製錬での配置は、鉱山坑内には368人、鉱山坑外には31人、精錬100人であり、坑内での朝鮮人の比率は61パーセントとなる。全労働者数2391人のうち、朝鮮人は502人であり、その比率は29・3パーセントとなる。坑内での比率が高いことがわかる(『細倉調査』26〜27頁)。
調査団は行政史料については、
郷土館には1945年度の校務日誌が展示され、空襲の記事などもある。『回想わが母校』を見ると1943年3月の項に金慶一という名があった。
この調査では「募集」状況について募集係などからの聞き取りをおこない、募集が総督府から面への「強制割当」であったことを明らかにしている。聞き取りによれば、連行するときには逃亡防止のために三菱の労働服を着用させた。逃亡防止のために家族を呼んだ。金剛寮に連行し、そこでは朝の訓話があり、寮から会社に行くときには舎監が点呼し、軍隊式の行進をさせて職場に連行した。会社を辞めることは許さなかった。逃亡防止のために強制貯金をして小遣い銭を与えただけだった。寮の出入口には会社直属の詰所を置き監視した。半数ほどが逃亡したが、逃亡者は犯罪人として扱われた。逃亡が見つかると鞭でたたかれた。賃上げを要求するストライキがあった(『細倉調査』32〜36頁)。
連行された寮については、第1金剛寮が二貫目に、第2金剛寮が会社正門前に、第3金剛寮が中学校下に、第4金剛寮が元会所にあった。元会所と上荒町には朝鮮人家族が居住した社宅もあった(『細倉調査』32頁)。
この調査報告書には慶尚北道英陽郡からの連行朝鮮人の聞き取りもある。その証言をまとめると、18歳のときに慶尚北道英陽郡から1941年12月に連行された。役場から日本に行けと言われ、役場の人に無理やり連れてこられ、逃亡して捕えられ連行された人もいた。下関につくと監視が厳しくなり、青い服に戦闘帽姿で列車に押し込められた。第4金剛寮に入れられ、少年と年寄りは製錬に回された。8畳に8~10人が居住したが、寮の隙間からは冬の寒い風とつめたい風が入ってきた。侍映画をよく見せられ、逃げたらこのように切られると脅された。軍隊訓練をさせられ、動きが鈍いと殴られ蹴られた。職場で呼びつけるときには番号で呼ばれた。製錬所で鉱石を運ぶエレベーターの綱が切れて怪我をしたが、十分に治らないうちに働かされた。連行されて4週目のころ、会計用紙と賃金があわずに全員が立ちあがって寮長を交代させたが、指導した2人は朝鮮に送還された。軍威・英陽郡から約200人が連行されたが、最後まで残っていたのは20人余だった。日本人がトラックに乗せてくれたため、逃げることができた。落盤での死亡者もあった。朝鮮人の経営する飲み屋も2軒あった(『細倉調査』43〜46頁)。この連行者は厚生省名簿の1942年12月の官斡旋による連行者のひとりである。
金賛汀『証言朝鮮人強制連行』には、この連行者と同時期に英陽郡から連行された鄭英斗さんの証言がある。それによれば、慶北英陽郡出身の鄭さんは、1941年12月に「募集」されて連行された。立場の弱いものからの連行だった。金剛寮に入れられ、運搬夫を強いられた。募集の際には、賃金は一日2円・最高6円、一日8時間労働で2年間、帰国旅費と100円の報奨金を出すということだった。しかしそれは詐欺であり、実際には12時間以上の労働を強いられ賃金はわずかだった。1943年正月には、殴打に抗議し、押しかけて謝罪を要求する争議が起きた。労務による殴打、食事代などを引かれての低賃金、副食は泥のついたジャガイモというような状況での出来事だったが、警官隊が導入された。自由行動がなくなり、闘っても改善できないため、逃亡者が増加した。満期になったが、半年前に連行された人も帰国できない状況下、説教されて殴られることを恐れて、残留を願い出る形に仕向けられた。1943年の夏に5人で逃亡計画を練って逃亡し、土建現場で働いた。しかし細倉の労務に発見され、若柳署に連行されて竹刀で拷問され、寮へ連れ戻された。1944年9月末には6人で逃亡し、築館から南方町方面に行き、8.15まで亜炭鉱で働いた。8.15から3日後に細倉鉱山に行くと300人ほどが残っていた。約束の報奨金や貯金の支払いを要求したが支払われなかった。以上が鄭英斗証言のまとめである。
証言から、連行時の募集条件の詐欺、労務による殴打、低賃金、粗末な食事、逃亡者の増加などの状況がわかる。
おわりに
細倉鉱山は戦後も採掘が続けられたが、1987年に閉山した。感天坑跡地が細倉マインパークとなっているが、精錬施設は現在も操業を続けている。精錬所の大きな煙突が2つあり、そのひとつには三菱の色褪せたマークが残っている。鉱山正門近くには細倉鉱山資料館があり、小学校跡地には鶯沢郷土館がある。鉄道の駅からは鉱山に向かって鉱山用線路が延びている。この鉄道建設にも多くの朝鮮人が動員されただろう。
細倉マインパークや鉱山資料館の展示には連行期の朝鮮人労働については記されてはいない。資料館の案内のチラシには「むかしのこともっと知りたい」とある。現地で労働者にとっての歴史が記されていくことを期待したいと思う。
※現地調査は2002年5月におこなった。
細倉鉱山連行関係表
連行年月日分析
三菱細倉鉱山への朝鮮人強制連行 | ||||||||||
連行年 | 月日 | 連行者数 | 連行形態 | 連行者出身郡 | 逃亡 | 8.15 後逃亡 |
帰国・送還 | 死亡 | 徴兵 | 8.30 現在 数 |
1940 | 4・30 | 85 | 官斡旋 | 任実79高敞6 | 43 | 30 | 2 | 10 | ||
1940 | 5・7 | 6 | 官斡旋 | 扶余5・論山1 | 1 | 2 | 3 | |||
1940 | 9・25 | 69 | 官斡旋 | 軍威68善山1 | 47 | 2 | 2 | 1 | 17 | |
1940 | 9・25 | 3 | 自由募集 | 軍威1任実2 | 2 | 1 | 0 | |||
1940 | 9・28 | 22 | 官斡旋 | 軍威22 | 18 | 1 | 3 | |||
1940 |
9・28 | 3 | 自由募集 | 軍威3 | 3 | 0 | ||||
1940 | 9・30 | 2 | 官斡旋 | 軍威2 | 2 | 0 | ||||
1940 | 10・1 | 46 | 官斡旋 | 軍威46 | 42 | 1 | 1 | 2 | ||
1940 | 12・3 | 3 | 官斡旋 | 保寧1扶余1舒川1 | 3 | 0 | ||||
1940 | 12・4 | 10 | 官斡旋 | 扶余10 | 6 | 1 | 3 | |||
1940 | 12・19 | 1 | 自由募集 | 任実1 | 1 | 0 | ||||
1941 | 1・1 | 1 | 官斡旋 | 扶余1 | 1 | 0 | ||||
1941 | 1・20 | 1 | 自由募集 | 任実1 | 1 | 0 | ||||
1941 | 1・29 | 2 | 官斡旋 | 軍威1任実1 | 2 | 0 | ||||
1941 | 4・3 | 2 | 自由募集 | 任実2 | 2 | 0 | ||||
1941 | 9・1 | 1 | 自由募集 | 達城1 | 1 | 0 | ||||
1941 | 12・22 | 179 | 官斡旋 | 軍威88英陽76義城2連山1釜山1青松1扶余1蔚珍5栄州1奉化2 | 112 | 24 | 11 | 2 | 30 | |
1942 | 1・6 | 1 | 自由募集 | 任実1 | 1 | |||||
1942 | 1・28 | 4 | 官斡旋 | 軍威4 | 4 | 0 | ||||
1942 | 1・29 | 48 | 官斡旋 | 軍威46永川1義城1 | 34 | 4 | 10 | |||
1942 | 5・25 | 1 | 自由募集 | 麗水1 | 1 | |||||
1942 | 8・24 | 1 | 自由募集 | 軍威1 | 1 | |||||
1942 | 11・9 | 96 | 官斡旋 | 軍威87善山4咸安2義城1青松1星州1 | 59 | 10 | 11 | 2 | 1 | 13 |
1942 | 12・20 | 2 | 自由募集 | 軍威1清道1 | 2 | 0 | ||||
1942 | 12・21 | 1 | 自由募集 | 清道1 | 1 | |||||
1943 | 1・29 | 78 | 官斡旋 | 安東76義城1青松1 | 52 | 3 | 9 | 14 | ||
1943 | 2・1 | 14 | 官斡旋 | 安東13英陽1 | 11 | 2 | 1 | 0 | ||
1943 | 2・5 | 1 | 官斡旋 | 軍威1 | 1 | 0 | ||||
1943 | 4・20 | 6 | 徴用 | 扶余6 | 5 | 1 | ||||
1943 | 4・27 | 10 | 徴用 | 扶余23洪城1 | 6 | 2 | 2 | 0 | ||
1943 | 4・27 | 13 | 徴用 | 扶余13・佐渡からの転送 | 11 | 2 | 0 | |||
1943 | 5・21 | 3 | 官斡旋 | 光山2咸平1 | 2 | 1 | 0 | |||
1943 | 5・22 | 37 | 官斡旋 | 咸平22扶余10光山1 | 12 | 17 | 3 | 5 | ||
1943 | 5・22 | 1 | 自由募集 | 軍威1 | 1 | |||||
1943 | 6・9 | 2 | 官斡旋 | 咸平2 | 2 | |||||
1943 | 6・9 | 1 | 自由募集 | 咸平1 | 1 | |||||
1943 | 6・11 | 2 | 自由募集 | 軍威2 | 1 | 1 | ||||
1943 | 7・1 | 1 | 自由募集 | 花守1(全南) | 1 | |||||
1943 | 8・11 | 1 | 官斡旋 | 咸平1 | 1 | |||||
1943 | 8・11 | 1 | 自由募集 | 軍威1 | 1 | |||||
1943 | 11・18 | 1 | 官斡旋 | 扶余1 | 1 | |||||
1943 | 12・1 | 1 | 自由募集 | 軍威1 | 1 | 0 | ||||
1944 | 1・15 | 53 | 官斡旋 | 軍威51義城2 | 41 | 3 | 1 | 8 | ||
1944 | 1・27 | 1 | 自由募集 | 任実1 | 1 | |||||
1944 | 2・7 | 1 | 自由募集 | 義城1 | 1 | |||||
1944 | 3・1 | 1 | 自由募集 | 密陽 | 1 | |||||
1944 | 4・1 | 1 | 自由募集 | 義城1 | 1 | |||||
1944 | 9・7 | 45 | 官斡旋 | 寧越34横越1原州1善山1提川3丹陽1青松1沃川1栄州1 | 3 | 4 | 38 | |||
1944 | 11・8 | 96 | 徴用 | 春川85楊口2横城2洪川2麟蹄2礼山1加平2 | 5 | 3 | 88 | |||
1944 | 11・27 | 1 | 自由募集 | 英陽1 | 1 | 0 | ||||
1945 | 4・20 | 1 | 官斡旋 | 羅州1 | 1 | |||||
計 | 963 | 527 | 65 | 98 | 9 | 1 | 263 | |||
厚生省勤労局調査細倉鉱山分から作成。募集・官斡旋・徴用分の名簿から連行年月日順に並べた。 細倉鉱山の名簿の統計値では募集29、官斡旋817、徴用115人の計961人を連行し、うち逃亡は募集から16、官斡旋・徴用から582の計598人としている。 しかし名簿の第2表では募集者数を31人とし、連行数を963人としている。募集名簿の掲載実数は29人である。また逃亡者数は593人としている。 名簿を集約したところ、連行者数は963人、うち逃亡は8.15前に527人、8・15後に65人の計592人となり、名簿の集計表とは異なったが大きな違いはない。 募集・官斡旋・徴用の表記は名簿の記載をそのまま記した。1人のものは募集による連行がほとんどであろう。官斡旋による連行はこの表では1942年11月の連行者からであると考えられる。1943年4月の徴用は官斡旋の誤りであろう。なお1944年に入ると残存者で現場徴用されたものも多かったとみられる。 |
連行状況
細倉鉱山連行状況 | ||||||||
官斡旋 | 徴用 | 自由 募集 |
計 | 敗戦前 帰国 |
死亡 | 逃亡 | 敗戦時 在籍 |
|
1940年度 | 247 | 0 | 10 | 257 | 2 | |||
1941年度 | 180 | 0 | 5 | 185 | 4 | |||
1942年度 | 143 | 0 | 6 | 149 | 3 | |||
1943年度 | 150 | 0 | 5 | 155 | 37 | |||
1944年度 | 97 | 115 | 5 | 217 | 16 | |||
1945年度 | 0 | 0 | 0 | 0 | 29 | |||
計 | 817 | 115 | 31 | 963 | 91 | 9 | 593 | 270 |
厚生省勤労局調査、細倉鉱山名簿・第2表から作成。 |
軍威郡からの連行分析
細倉鉱山への軍威郡各面からの連行状況 | |||||||||
連行年月日 | 召保面 | 孝令面 | 友保面 | 義興面 | 山城面 | 古老面 | 缶渓面 | 軍威面 | 計 |
1940.9.25〜10.1 | 16 | 13 | 29 | 18 | 23 | 10 | 16 | 17 | 142 |
1941.1.29 | 1 | 1 | |||||||
1941.12.22 | 14 | 6 | 13 | 11 | 11 | 11 | 4 | 18 | 88 |
1942.1.28・29 | 12 | 5 | 9 | 1 | 11 | 7 | 4 | 49 | |
1942.8.24 | 1 | 1 | |||||||
1942.11.9 | 13 | 10 | 15 | 9 | 7 | 8 | 4 | 21 | 87 |
1942.12.20 | 1 | 1 | |||||||
1943.5.22 | 1 | 1 | |||||||
1943.6.11 | 2 | 2 | |||||||
1943.12.1 | 1 | 1 | |||||||
1944.1.15 | 4 | 5 | 6 | 6 | 3 | 6 | 2 | 19 | 51 |
計 | 59 | 39 | 73 | 47 | 56 | 42 | 26 | 82 | 424 |
厚生省勤労局調査、細倉鉱山名簿から作成。 この史料から、1940年9月、1941年12月、1942年1月、1942年11月、1944年1月に軍威郡から計5派、410人以上が連行されたことがわかる。 |
朝鮮人数の変化
細倉鉱山での朝鮮人数の変動 | ||||||
年月 | 鉱山坑内 | 鉱山坑外 | 製錬所 | 合計 | 雇入数 | 解雇数 |
1944・6 | 288 | 32 | 109 | 429 | 0 | 1 |
1944・7 | 280 | 32 | 113 | 425 | 0 | 0 |
1944・8 | 278 | 32 | 115 | 425 | 0 | 2 |
1944・9 | 321 | 32 | 113 | 466 | 45 | 2 |
1944・10 | 324 | 33 | 109 | 466 | 3 | 3 |
1944・11 | 413 | 31 | 107 | 551 | 94 | 9 |
1944・12 | 424 | 31 | 107 | 562 | 0 | 1 |
1945・1 | 422 | 31 | 106 | 559 | 0 | 3 |
1945・2 | 420 | 34 | 103 | 557 | 0 | 2 |
1945・3 | 375 | 31 | 89 | 495 | 0 | 62 |
1945・4 | 375 | 30 | 89 | 494 | 1 | 2 |
1945・5 | 372 | 31 | 89 | 492 | 0 | 2 |
1945・6 | 347 | 29 | 86 | 462 | 0 | 30 |
1945・7 | 346 | 29 | 86 | 461 | 0 | 1 |
1945・8 | 266 | 0 | 195 | |||
1945・9 | 177 | 20 | 32 | 229 | 0 | 37 |
1945・10 | 132 | 20 | 32 | 184 | 0 | 45 |
1945・11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 184 |
日朝協会仙台支部学生班・東北大学朝鮮研究会編集『宮城県朝鮮人強制連行の調査報告 太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』27頁から作成。明らかな誤りは訂正した。1945年12月の合計は原表では599であるが562に訂正した。解雇と雇入数と合計の数値が合致しないところがある。1945年8月は史料なし。1945年8月の合計・雇入・解雇数は筆者による推定値。 |
死亡者名簿
細倉鉱山死亡者名簿 | |||||
氏名 | 本籍 | 連行日 | 死亡日 | 年齢 | 死因 |
李 和性 | 全北 任実 青雄 玉石 | 1940.4.30 | 1940.10.20 | 34 | 労災 |
洪 淳● | 全北 任実 雲岩 金基 | 1940.4.30 | 1942.10.25 | 40 | 労災 |
江本金次郎 | 慶北 軍威 義興 芝湖 | 1940.9.25 | 1941.9.17 | 35 | 労災ヵ |
姜田 福俊 | 忠南 扶余 草村 山直 | 1940.12.4 | 1944.2.14 | 30 | 労災 |
松井 二岩 | 慶北 英陽 青杞 杏花 | 1941.12.22 | 1942.8.24 | 24 | 病 |
金田 景龍 | 慶北 軍威 古老 加岩 | 1941.12.22 | 1943.3.25 | 45 | 労災 |
朴 斗洪 | 慶北 軍威 友保 鳳山 | 1942.11.9 | 1944.4.21 | 26 | 労災 |
山元 俊浩 | 慶北 軍威 召保 仙法 | 1942.11.9 | 1944.8.13 | 27 | 労災 |
松本 聖實 | 慶北 安東 月谷 馬 | 1943.2.1 | 1944.8.20 | 38 | 病 |
厚生省勤労局調査、細倉鉱山名簿から作成。 |
参考文献
『厚生省勤労局報告書』宮城県・細倉鉱山分名簿1949年
日朝協会仙台支部学生班・東北大学朝鮮研究会編集『宮城県朝鮮人強制連行の調査報告 太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』日朝協会仙台支部1963年(68年ヵ)
金賛汀『証言朝鮮人強制連行』新人物往来社1975 年
佐藤典正『細倉鉱山史』三菱金属鉱業細倉鉱業所1964年
『回想わが母校』細倉小学校閉校記念事業実行委員会・
(2002年調査記録・2007年再構成、竹内)