宇部の炭田と朝鮮人
長生炭鉱事故(1942・2・3)の跡
@宇部炭田の朝鮮人数
一九九六年一一月、下関で強制連行調査の集会が持たれ、その帰りに宇部の炭鉱跡を歩いた。
戦時下の宇部の炭田には多くの朝鮮人が連行されている。一九四四年一二月現在の朝鮮人数について、石炭統制会の史料(「炭砿給源種別現在員数」)からその数を見ておけば、「移入」朝鮮人の現在数としては、沖ノ山に一五二三人、東見初に一四〇九人、山陽無煙に六一八人、沖宇部に三六三人、本山に三二〇人、小野田に七六人、大浜に五九人、長生に四二人、第二新沖山に二三人、その他一一七人の計四五五〇人がいたとある。宇部の炭鉱で働く既住朝鮮人数は計六四五四人である(そのうち徴用とされているのは一六七一人)。
合計すれば、一万一千人の朝鮮人が一九四四年末にこの宇部の炭田地帯で動員されていたことになり、四割ほどが連行者ということができる。この時期、宇部の炭鉱労働者は約三万人である。
朝鮮人が最も多かったのは沖ノ山炭鉱で連行者一五二三人、既住朝鮮人八四九人(このうち徴用は七一三人)の計二三七二人である。沖ノ山には中国人・連合軍捕虜も連行された。続いて東見初炭鉱の連行者一四〇九人、既住朝鮮人二五一人の計一六六〇人である。連合軍捕虜はこの東見初にも連行され、ほかに山陽無煙、大浜、本山などの炭鉱にも連行されている。
当時は逃走者数や帰国・送還数が半数以上あったから、この一九四四年一二月の現在数六四五四人の数字をみると、宇部の炭鉱地帯に一九三九年から一九四五年にかけて連行された朝鮮人は一万人を超えたといえるだろう。
一九四二年三月に沖ノ山炭鉱・宇部セメント・宇部窒素・宇部鉄工所が合併し、宇部興産ができている。東見初、本山、山陽無煙なども一九四四年にこの宇部興産に合併しているから、宇部の炭田において朝鮮人をもっとも多く連行したのは宇部興産ということになる。
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小野田市・本山炭鉱の跡
小野田市から宇部市に向かう途中に本山岬があり、海岸には打ち上げられた大きな貝殻が陽光を受けて白く光っていた。近くにはレンガ造りの本山炭鉱第二坑の竪坑が残っていた。この本山炭鉱へは朝鮮人と連合軍捕虜が連行された。連行された人々が、ときにはこの岬に佇んで故郷を思うことがあったかもしれない。本山小学校の近くには朝鮮人を含めて多くの労働者が居住し、この竪坑より西方に捕虜や朝鮮人の収容所があったという。本山小学校から駅を越えた公民館の近くに第一坑坑口跡があった。坑口の正面はコンクリートで覆われ、金網が張られていた。
一九四四年一二月の本山炭鉱の労働者数をみれば、労働者数は一〇〇〇人を超え、そのうち朝鮮人は三四〇人ほどだった。このうち連行者が三二〇人であり、既住朝鮮人の二〇人はみな徴用扱いになっている。
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宇部市 三井・長生炭鉱 一九四二年二月三日の事故の跡
宇部の炭田の特徴は海底へと数キロにわたって広がっているものが多いことである。宇部の最盛期の生産量は年四〇〇万トンに及び、八割が海底から産出されたという。
長生炭鉱は一九一四年から採掘をはじめた。長生炭鉱では朝鮮人が多いため、当時人々はこの炭鉱を「朝鮮炭鉱」と呼んでいた。三井鉱山の傘下となり,戦時期には朝鮮人を連行して生産態勢を強化した。一九三九年から一九四二年にかけての連行で一二五八人が連行されている。これは宇部炭田では最大の連行者数だった。
この長生炭鉱の沖合一キロで水没事故が起きたのは、一九四二年二月三日のことだった。戦時期では最大の事故である。この事故で一八〇人を超える労働者が死亡したが、このうち一三〇人を超える労働者が朝鮮人だった。このうち連行朝鮮人の死者は八三人とみられている。この事故の遺体は引き上げられることなく、水底に沈んだままである。床波の西光寺には一八七人分の位牌がある。
地域では市民団体が追悼碑の建設、ピーヤ(換気坑)の保存、証言資料収集などの活動をおこなっている。韓国での遺族調査によって四〇人を超える遺族が判明し、遺族会も結成された。一九九二年からは遺族を招待して海岸での追悼会がひらかれている。この長生炭鉱の史料としては労務課の「集団渡航鮮人有付記録」が発見されている。
現地には、一九八二年に長生炭鉱殉職者の碑が建てられているが、死者の名前がなく、朝鮮人死者についても記されていない。炭鉱後を歩くと、壊れかけた火薬庫や電気小屋の建屋、ウインチ台の跡・桟橋の土台跡などが残り、海岸には石炭のボタが転がっていた。そしてかなたにピーヤ(換気坑)が二本あった。それらは海上に建つ墓標のようだった。
その後、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会を中心に朝鮮人追悼碑の建設運動が始まっている。
(一九九六年一一月調査,二〇一一年補記)
(1996年11月 竹内)