横須賀海軍地下施設 1995・12
横須賀は米軍と日本軍の基地の街、かつては日本海軍の基地がこの地域一体を占めていた。JR
この横須賀で強制連行真相調査の全国集会がもたれた。全国集会の分科会では、この地域の学校での朝鮮人労働に関する報告が多く出された。この集会の分科会で全羅北道から南洋への強制連行について報告した。12月3日には
戦時下、横須賀への朝鮮人の連行状況についてみておけば、海軍工廠、海軍施設部、横須賀線延長工事、浦賀船渠、海軍地下施設建設工事などに多数の朝鮮人が連行されている。横須賀の山々には数多くの地下施設が掘削され、現存しているものもある。
たとえば、夏島・浦郷・貝山には海軍航空関連の地下施設や地下工場がつくられ、田浦には海軍工廠の地下工場がつくられ、病院や貯蔵庫などの地下施設もつくられた。地下施設は逗子方面にもつくられている。この地域は巨大な地下施設群を抱えていたのだった。夏島の地下施設は飛行機を収納できる大きな壕だった。
横須賀の海軍の施設部隊は全国各地から南洋にまで派遣されたが、そのなかには朝鮮人も含まれていた。その実態の一端は『被徴用死亡者連名簿』からもあきらかにできる。施設部隊や設営隊にどれくらい連行されていったのかについては今後の調査が期待される。
集会後、地域を散策した。米軍基地の入口の横には日本の交番があり、その横には防衛施設庁の建物がある。大きな建物は海軍司令部、広い通りをのんびりと歩く軍人家族。横須賀福祉会館の上からは米軍基地がよく見えた。この基地のかなたには米軍の空母用ドッグがある。米軍基地前で写真は黄色い線から外で取れといわれた。
三笠公園には戦艦「三笠」があり、砲身の一部が展示されていた。1904年の海戦で落下したものという。伏見の宮が三笠の砲台長として戦争を指揮したとある。天皇族の斟酌戦争への加担を示すものだった。かれらの名でおこなわれた戦争でどれだけ多くの民衆が死を強いられたのかと思う。ここには戦艦「三笠」での兵士反乱についての記事はなかった。
久里浜に行くとペリー記念館がある。ペリーとアメリカは日本の近代化の立役者として評価されていた。砲艦外交やアメリカの太平洋各地での占領については記されていない。ペリーの軍艦については大砲の数の記載はあるが、「蒸気船」と表記されていた。本当のことはここでも記されていないと思った。
(1995・12竹内)