大阪・川崎航空機高槻地下工場

 

 一九九五年七月、第六回朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える全国交流集会が大阪市高槻でもたれた。日本の戦争責任に関する講演の後、入門講座、教育、「慰安婦」、調査・研究・保存、戦後補償裁判、強制連行と在日、戦争責任の七つの分科会がもたれた。翌日は全体討論と高槻の地下壕の見学などがおこなわれた。

 調査・研究・保存の分科会では、大阪築港での中国人連行、日吉台海軍地下壕、広島因島での朝鮮人労働史、高槻地下倉庫などのついての報告がなされた。この分科会では坂本悠一さんが高槻の地下壕について詳細な報告をおこなった。

坂本さんの報告には今後の各地の地下工場建設の調査について有益な史料や論点が提示されていると思うので、その後に発表された論文も含めてここで紹介しておきたい。

以下、坂本悠一「『高槻地下倉庫』工事と労働力動員」『ヒストリア』(一五二 大阪歴史学会一九九六年)、「『本土決戦』と『高槻地下倉庫』」(『戦争と平和』四大阪国際平和研究所紀要 一九九五年)を参考にしてまとめていく。

高槻の地下壕は大阪府内では最大級のものであり、全国的にも大きなものである。それは陸軍によって建設がすすめられた五つの「緊急地下施設工事」のひとつであり、建設当時は「地下倉庫」と呼ばれた。五つの工事は高槻の他には長野の松代、東京の浅川、愛知の楽田、福岡の山家がある。地理的には東京・名古屋・大阪・福岡の陸軍拠点の近くにあり、その防空施設として建設が始まったが、山家以外は航空機生産の地下工場に転用された。

建設は陸軍と運輸通信省と建設会社が連携してすすめられた。陸軍の各軍管区司令部の経理部が施主となり、国策会社である鉄道建設興業に発注され、その傘下の有力株主会社に配分された。工事にあたり、運輸通信省の国鉄の地方本部が建設隊を組織し、工事を担った。

陸軍は一九四五年二月から五月にかけて二〇の地下施設隊を編成し、四月からは航空総軍の隷下になった。このうち第一一から第二〇の地下施設隊の兵員は将校・下士官以外は朝鮮人で編成された。

高槻の地下工事の場合、中部軍管区司令部経理部が施主となり、工事を施工するために、国鉄岐阜地方施設部と間組が「高槻地下建設隊」を組織することになった。岐阜地方施設部は第二特設建設隊から人員を動員したが、この隊は一九四五年一月に運輸省地下建設本部所属の第二地下建設部隊に編入されることになる。この下に三五〇〇人とみられる朝鮮人が動員され、地下壕の掘削にあたった。二つの地区に計画された床面積は二七九〇〇平方メートルであるが、一地区に一六本の壕が掘られた。ここでは「飛燕」のエンジン生産が計画された。

高槻の地下施設は一九四四年九月ころに調査・測量がはじまり、陸軍用地下壕として建設がはじまった。しかし、空襲が激しくなり、航空機工場の緊急疎開がすすめられるようになると川崎航空機明石工場の地下工場に転用された。

この高槻の地下壕工事にはさまざまな形での労務動員がなされている。坂本論文から判明分をみてみよう。

中部軍管区特設作業隊の朝鮮人徴用者二〇〇人が奈良の北宇智村の航空燃料貯蔵庫の建設現場から一九四五年三月頃、高槻の現場に転送された。

第三一航空通信隊の一部が磐手国民学校に駐屯し工事に動員された。工兵第四連隊が高槻市内に駐屯していたがこの部隊の動員については不明である。

一九四五年六月末に京都師管区工兵補充隊で編成された建設勤務五一四中隊、五一五中隊約五〇〇人も動員された。大阪師管区歩兵第一補充隊員の朝鮮人兵士の動員もあった。

間組は各地の現場から高槻へと朝鮮人を動員してきたが、特に東海道線の逢坂山トンネル工事現場からの動員の可能性が高い。この現場は一九四一年一一月に着工し、一九四四年八月に竣工している。この現場は強制連行者のいた現場である。

鉱山からは、一九四五年六月に日窒鉱業土倉鉱業所から七〇から八〇人が動員された。この集団には朝鮮人も含まれていた。この鉱山も強制連行があったところである。岐阜の神岡鉱山から来たという証言もある。

証言によれば、京都・大阪・岐阜・長野・静岡・四国・東北など各地から動員されたことになる。京都から吉村組の配下として就労したという証言もある。在日朝鮮人の地下工場建設の協力団体一心会による動員もあった。

学徒としては彦根工専、浪華商業、北野中学などから動員があり、技術的な業務や資材運搬や偽装などの雑役をおこなった。住民の勤労奉仕もあった。天理教による動員もあった。

人口統計をみると、一九四二年に男七七五人、女七〇九人であったが、一九四五年一一月には男三〇〇九人、女六七四人となっている。男の増加分は地下壕工事関係とみられる。

以上、坂本論文と分科会発表で提示された資料から高槻への朝鮮人の動員についてまとめた。

分科会では、日本土木建築統制組合の一九四五年の第一次割当表が紹介された。そこには、中島飛行機藪塚、東京第一造兵廠鹿沼、三菱発動機平牧、名古屋造兵廠帷子、陸軍省松代、陸軍省山家、函館本線増設、東北本線増設、中島飛行機浅川、萱場製作所地下、函館船渠防空、宇久須鉱山土木、日軽金仁科選鉱場施設、川崎工業用水道拡張などの工事での割り当て人数計四五〇〇人が記されていた。そこには、多くの朝鮮人を動員する予定であったことが示されていた。この表は今後の調査の課題を示すものだった。

愛知県平牧の三菱の地下工場建設でみたように、平牧では東海軍管区経理部のもとで三菱重工第一臨時建設部、運輸通信省第二地下建設隊、飛島組施工隊が組織されて工事がすすめられた。高槻でも同様な建設態勢がとられたわけである。

高槻の調査では、地下壕工事への動員が陸軍の特設作業隊、建設勤務隊、航空通信隊などの兵員、間組の逢坂山工事現場からの転送、土倉鉱山からの転送、全国各地からの動員、下請けの吉村組などの配下での動員、学徒や住民の動員など、さまざまな形でおこなわれたことが明らかになっている。

朝鮮人が多数含まれていたとみられる軍特設作業隊、大阪師管区歩兵第一補充隊、間組の転送者、陸軍地下施設隊などの実態の解明が今後の課題であるが、陸軍、運輸通信省、土木業者が一体となって地下壕工事をすすめていった実態が高槻での調査で明らかにされたことの意義は大きい。

           (一九九六年記事に二〇一二年訂正加筆)