石川・三菱額谷地下工場

 

 

 一九九八年八月、石川県金沢市で第九回朝鮮人中国人強制連強制労働を考える全国交流集会がもたれた。集会では、朴慶植さんの追悼から始まり、戦時中の朝鮮人労務管理、関釜裁判、太平洋炭鉱遺骨調査、木本事件追悼碑、栃木県調査、茨木海軍地下倉庫、ウトロ、尹奉吉遺骨発掘、北海道調査、紀州鉱山、松代、七尾港などからの報告があった。

各地からの報告の後、入門、教育実践、調査保存、戦争責任、中国人強制連行、朝鮮人抵抗運動などの分科会がもたれた。調査保存の分科会では由良町の紀伊防備隊調査、掛川の中島飛行機地下工場調査報告書、木本事件、丸山ダム、石川の地下壕、甲陽園地下工場保存運動などの報告があった。

集会の後に、尹奉吉義士暗葬の跡、三菱額谷地下工場跡などのフィールドワークがおこなわれた。今回の集会にあたり、実行委員会は『尹奉吉義士と石川の強制連行 現地調査ハンドブック』を発行している。

尹奉吉義士暗葬之跡碑

尹奉吉は独立運動に参加し、一九三二年四月二九日、上海での祝賀式終了時の「君が代」の時に派遣軍司令官らに向かって爆弾を投げた。逮捕された尹奉吉は上海派遣軍の軍法会議にかけられた。尹奉吉は五月二五日に死刑とされ、第九師団に引き渡された。金沢の第九師団は「満州」侵略戦争にともない「上海事変」で派兵され、そのまま残留し、当日の祝賀の閲兵式に参加していたからである。尹奉吉は一一月には大阪に移送され、さらに一二月一八日に金沢に移送され、翌日、陸軍の三小牛作業場で銃殺された。

彼の遺体は金沢市野田山の陸軍墓地の崖下の通路に目印もなく、秘密の内に埋められた。これを暗葬という。尹奉吉は死後も人びとによって踏まれ続けられたのである。

解放後の一九四六年三月に朝鮮人の手で発掘作業が行われ、埋葬された場所が突き止められた。その結果、尹奉吉の二〇一片の遺骨が発掘されたが、眉間には銃弾の跡が残されていたという。ソウルでは臨時政府主催の国民葬がおこなわれた。

死後六〇年にあたる一九九二年の一二月に「尹奉吉暗葬之跡碑」が暗葬の地に完成した。フィールドワークでは遺体の発掘にも関わった朴仁祚さんが碑について思いを込めて解説した。

三菱重工額谷地下工場跡

つぎに三菱重工の額谷地下工場跡を訪れた。この地下工場は額谷石の石切り場を利用したものであり、一九四二年四月に海軍が工廠用に洞窟の改造を始めた。しかし海軍はすぐに放棄し、三菱の地下工場として転用されることになった。三菱はこの地下工場を排気タービンと燃料用噴射ポンプの生産の場にしようとした。七月には機械などが搬入されはじめたが、稼働の前に敗戦となった。この地下工場建設のために六〇〇人ほどの朝鮮人が動員された。現在も地下工場とされた壕が残っている。

一九九八年三月に建てられた金沢市教育委員会の説明板には、強制的に連れて来られたり、その他の手段によって集められた朝鮮人によって掘られたことが記されている。

三菱重工の地下工場は全国各地に建設された。戦略爆撃調査団報告書では三菱の地下工場は三三カ所があるとされ、計画面積は三七三万平方フィート、完成の割合は五九パーセントとなっている。中島飛行機は一六カ所であるが、計画面積からみれば三菱と同じほどの面積である。

三菱重工の主な地下工場をあげれば、航空機では、岐阜の久々利・平牧、愛知の楽田、長野の仁古田・里山辺、松本、富山の雄神、石川の額谷、福井の笏谷、鯖江、三重の久居、岡山の亀島山、熊本の上熊本、七城などがあり、造船では、長崎や兵庫の禅昌寺、神奈川の保土ヶ谷などがある。また、三菱電機では岐阜の釜戸、三菱製鋼では福島の広田などにも地下工場が建設された。

特に三菱重工の航空機部門での地下工場が多かったわけである。それらの工事は久々利が大林組、平牧が飛島組、仁古田が西松組、里山辺が熊谷組というように、大手の土建会社が工事を請け負った。これらの地下工場建設には多数の朝鮮人が割り当てられて動員されたのである。

額谷の地下工場はこのような三菱による疎開先のひとつである。

中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」からは、地上の工事現場でも大林組が名古屋の整地工事、岡山の水島航空機工場、長崎兵器大橋工場などで連行朝鮮人を使っていたことがわかる。その後も三菱は戦争の拡大にともなって各地に工場を建設していく。これらの工場の建設では竹中工務店が請け負っているものが多い。静岡の工場建設工事も竹中工務店が請け負ったが、多くの朝鮮人が動員された。

朴慶植さんは一九二二年に朝鮮慶尚北道奉化郡で生まれ、一九二九年に渡日した。戦後は、朝鮮人強制連行の歴史を調べて資料集などを出版し、「在日朝鮮人史研究」誌を編集してきた。また、朝鮮人中国人強制連強制労働を考える全国交流集会の顧問として集会に参加、現場を大切にする視点を持って現地を歩いて発言されてきたが、一九九八年二月に交通事故で亡くなった。七五歳だった。

一九九六年には三重の紀州鉱山の調査の後の名古屋に向かう急行列車のなかで研究に関してさまざまな話を伺うことができた。もっと多くの話を伺っておけばよかったと思う。今後も調査を続ける決意をもって金沢を離れた。

(一九九八年八月記事を補足)