足尾鉱山への朝鮮人強制連行

 

 ここでは古河鉱業が経営した足尾鉱山における朝鮮人強制連行についてみていきたい。

足尾での銅採掘は16世紀中ごろからの記録がある。17世紀には江戸幕府直営の銅山となり、輸出品にもなったが、幕末には旧山状態になった。明治新政府は足尾鉱山を所有するが、すぐに民営となった。古河市兵衛が1877年にこの鉱山を買収して採掘を始め、1884年には足尾は日本最大の産銅量を記録するようになった。

他方、銅の製錬の煙は周辺の森林を破壊し、鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した。足尾での銅の生産は戦争国家を支えるものであり、鉱業停止を求める汚染地の民衆の声は弾圧された。また労働者の運動も形成され、1907年には「足尾暴動」、1919年には大争議がおこされ、1921年には鉱山で最初のメーデーも開催されるなど、労働運動の拠点にもなった。

戦争の拡大によって産銅態勢が強められ、1935年には新選鉱場が建設され、1939年には足尾銅山鉱業報国会が設立された。鉱山労働者が徴兵されて労働力が不足するようになると、朝鮮人・中国人・連合軍俘虜が強制連行されるようになる。

連行された朝鮮人についての史料には、厚生省勤労局による1946年の調査「朝鮮人労務者に関する調査」(栃木県分)に足尾鉱山の名簿がある。この名簿を分析した論文には、古庄正「足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」(『経済学論集26-4』駒沢大学経済学会)がある。足尾には住友鴻之舞鉱山からの転送もあったが、守屋敬彦編『戦時外国人強制連行関係史料集V朝鮮人2下』にある住友鴻之舞鉱山強制連行者名簿には、この転送者の名簿も含まれている。朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』には現地調査の記載があり、栃木県朝鮮人強制連行真相調査団『遥かなるアリランの故郷よ』には足尾への被連行者の聞き取りや名簿の分析が収録されている。朝鮮人強制連行真相調査団の『資料集14 朝鮮人強制連行・強制労働 日本弁護士連合会勧告と調査報告』には、足尾鉱山への被連行者(鄭雲模)に対する人権救済勧告が収録されている。

以下、厚生省勤労局調査にある足尾鉱山名簿を中心に、先行研究をふまえて連行の状況についてみていきたい。

 

1 名簿からみた足尾鉱山への朝鮮人強制連行

厚生省勤労局調査の足尾鉱山名簿には2461人分の連行年月日・氏名・住所・異動日・異動理由などが記されている。

この名簿から足尾鉱山への連行状況をみてみれば、19408月には慶南の梁山郡から93人が連行され、1941年には3月に梁山から96人、4月に慶南の蔚山から93人、9月に全北の鎮安から99人、12月に慶北の醴泉から129人が連行された。1942年には3月に鎮安から144人、8月に慶北の奉化から100人が連行され、1943年には1月に鎮安から97人、3月には忠北の清州から99人が連行された。この時期までに慶南梁山・蔚山、全北鎮安、慶北醴泉・奉化、忠北清州などから約1000人の連行がおこなわれたことがわかる。足尾への連行は100人単位でおこなわれている。連行は1939年の募集から1942年には官斡旋という形になっていくが、植民地からの強制的な動員であったことには違いがない。

なお、中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」には足尾鉱山へと19426月までに698人が連行されたとある。厚生省名簿でのこの時期までの連行者数は654人であり、44人少ない。「移入朝鮮人労務者状況調」では1939年に50人、1940年に300人、1941年に500人に割当が承認されたとある。初期の連行者の名簿の一部が欠落しているとみられる。

 19434月には北海道の鴻之舞鉱山から370人、5月には千歳鉱山から155人の転送があった。520人を超える朝鮮人が北海道から送られてきた。

鴻之舞からの転送者のうち、忠南の扶余・論山・舒川出身者は19419月に、慶南の密陽出身者は19423月に,京畿の坡州出身者は同年4月に、慶北の星州出身者は同年6月に連行された人々である(住友鴻之舞鉱山強制連行者名簿『戦時外国人強制連行関係史料集V朝鮮人2下』13331415頁)。

これらの転送は金鉱山を休止して他の鉱山へと労働者を転送する政策のもとにおこなわれたものである。鴻之舞鉱山へは19429月までに2600人ほどが連行されていたが、そのうちの371人が足尾に転送された。厚生省名簿は370人であるが、鴻之舞鉱山の転送者名簿では371人であり、厚生省名簿には1人が欠落している。これらの転送者は19454月までに満期や逃走などによって8割ほどが現場を離脱した。転送者のなかには連行されてから解放までに3年以上の労働を強いられた人もいた。

 さらに194310月には忠北の報恩81人、全北の井邑38人の計119人が連行された。1944年にはさらに連行がすすめられた。4月には慶北から盈徳59人・迎日19人、5月には慶山49人、6月には永川・迎日123人が連行され、7月には江原の三陟・江陵などから125人が連行された。ここまでの連行により、足尾鉱山へと2000人近い朝鮮人が連行されたことになる。

9月以降には徴用が適用され、11月には咸南の豊山・甲山・安辺などから192人が連行された。1945年には1月には江原の横城から133人、2月には京畿の楊平・高陽などから107人が連行され、さらに京畿から4月に5人、5月には10人と小規模ながらも連行が続けられた。連行は江原から咸南地域にまで拡大され、連行者数は2400人を超えていったのである。

北海道炭鉱汽船などの史料をみると、朝鮮現地での逃亡が数多くあったことがわかる。この足尾鉱山の名簿には朝鮮現地での逃走者については記されていない。現地での連行者数は実際にはさらに多いものになるだろう。

足尾鉱山の名簿から逃走者数をみると、840人ほどとなる。連行者の3割ほどが逃走しているが、徴用適用前の連行集団をみると、半数近くが逃亡したものが多い。病気・送還・解雇・一時帰国者は230人ほどである。満期帰国は413人であるが、満期帰国者の内の6割が北海道からの転送者である。8.15解放時に残留していたのは連行者数の3割にあたる865人である。連行者の家族を含めると900人を超えるだろう。

厚生省名簿では死亡者の記載は33人である。しかし、鴻之舞鉱山の名簿と足尾現地での調査によって明らかにされた死亡記録を照合すると、5人分の記載の誤りと1人の欠落が明らかになった。病気、逃走、無記載となっているものが実際には死亡しているのである。たとえば194112月に連行された松田潤成は名簿では194226日に「逃走」となっているが、死亡調査記録では凍死している。19445月に連行された山本守文の場合、死亡記録では病死だが、名簿では「病気」となっている。今回の照合で死亡記述での誤りが判明したものは5人だが、これ以外の死者もあるだろう。子どもの死者も入れれば、連行期の朝鮮人の死者数は70人ほどになる(『遥かなるアリランの故郷よ』262267頁)。

 連行された人々は足尾製錬所と本山坑の北方の高原木、通洞坑南西部の砂畑、小滝坑近くの二号長屋・爺ヶ沢・銀山平などに収容された。

 

 2 証言からみた朝鮮人連行の状況

 強制連行は「募集」「官斡旋」「徴用」の形でおこなわれていったが、行政と企業が共同して連行したことに変わりはない。連行形態の変化によって国家による強制力がいっそう強められていった。証言から、連行当初から行政による割当と動員がおこなわれていたこと、連行現場で暴力的に支配されたことなどがわかる。

 1940年から41年にかけて「募集」によって、慶南の梁山郡から連行された人々の証言をまとめてみよう(『遥かなるアリランの故郷よ』168185頁)

 19408月に朴聖述さんは精錬所に連行された。家族の呼び寄せがおこなわれ、妻の金末順さんは旧正月過ぎての5日に足尾に行っている。当時行きたくないと逃げても後で続けて何回も割当が来るので、とりあえず2年契約で行く人が多かった。三養会で配給を受け、後に給料から天引きされた。解放後、高崎に何ヶ月か滞在し、博多から船で帰った。しかし働いて貯めた金は換金してもらえなかった。

19413月には梁山郡院洞面花斎里から趙性載さん、徐正友さん、辛三洪さんらが連行された。募集という名目だったが、警察が先頭に立って斡旋し、面職員と警察が来て、行かないと制裁を受けた。3人は製錬所に送られ、団鉱場での砕石や運搬などの三交替の労働を強いられた。寮の監督は疲れて寝ている人を桜の棒で叩くなど殴打が日常的だった。

趙さんは兄の京載の代わりに行った。17歳の若さだった。最初の日に煙い仕事場に入るのがいやで仕事をサボったところ、雪の中に何時間も立たされた。手紙は出せたが検閲された。脚気になり本山病院に入院し、通訳として何ヶ月か居た。病院には一ヶ月で10数人の朝鮮人が担ぎ込まれ、足の切断なども多かった。病院では逃げて死んだ人もいることを聞いた。その後、沢入から汽車に乗って逃亡した。相模原の橋本などで土木仕事をした。仕事をするなかで協和会手帳をつくってもらった。解放直後、日本で稼いだお金は紙切れ同然だった。名簿では趙さんの逃亡日は1941年の417日とされている。これは入院の日とみられる。

徐さんは結婚直後に連行された。家業の精米所はつぶれてしまい、小作の田畑は他人に譲ることになり、生活は破壊された。逃亡したが捕らえられて警察に留置された。鉱山に連れ戻されたが、監視されて金は一銭も渡されずに、売店には労務がついてきて彼らが支払った。再び逃亡し、夜間、煙害で草ひとつ無い山を越えていった。山から降りたところにある水力発電所でしばらく働き、関釜連絡船に乗って戻ってきた。しかし、解放前の冬に平安道の製錬所に徴用され、そこで解放を迎えた。名簿では徐さんの逃亡日は1941819日である。

辛さんは製錬の団鉱場で労働させられた。賞金をもらい送金したが、収入は少なく10月頃に逃亡した。

辛さんの逃亡日は名簿では1941年の1028日になっている。辛さんによれば同村の「李ドウマン」は坑内で陥没事故にあい、体が悪くなり帰国して亡くなったという。名簿には「山本斗満」が同じ時期に連行され、19427月に業務上上肢麻痺となり、4310月に負傷のために退所したとある。山本斗満の本名は李斗満であろう。

つぎに、「官斡旋」による連行者である鄭雲模さんの証言を見てみよう(『遥かなるアリランの故郷よ』121147頁)。厚生省名簿には、清州郡から1943320日に連行された99人の連行者のなかに「鄭雲模」の名があり、職種は線路夫、逃亡日は1944321日となっている。以下の証言では鄭さんは連行年を1942年としているが、名簿の記載から連行年は1943年とみられる。

鄭さんは1921年生まれ、忠北の清州郡桔倉面新平里の出身、当時上新里に在住していた。父を17歳のときに失い、母の世話もしていた。19422月頃に面へと呼び出され、「日本に行って23年仕事をして来い」といわれた。その場には足尾鉱山の坑内部長の斉藤も派遣されていた。母の面倒を見ていることを言うと、その場で殴打された。翌日早朝、家を囲まれ、引っ張られ、トラックで清州に連れていかれた。清州で作業服を着せられ、列車で釜山に運ばれ、そこから船で下関に行き、足尾鉱山の砂畑へと連行された。最初は集合や整列、暴力的管理下で宮城遥拝での不動の姿勢などの訓練を強制された。仕事は坑内の線路工夫になったが、反抗した際に、腕をのこぎりで挽かれたり、木刀で頭を殴られたりのリンチを受けた。その際「半島人の1匹や2匹くたばってもすぐ補充できる」「一匹3銭で1000人でも2000人でも引っ張ってこられる」と言われた。あるとき梯子から転落し足腰を骨折し、入院したが、完治しないうちに仕事に就けと言われた。落盤で同胞が死んだとき、葬式もしないでに埋めてしまおうとしたので抗議した。ドスを持った者たちに襲われて刺され、留置場に入れられたこともある。賃金をくれというと国債をよこし、これではだめというと34円しかくれなかった。逃走者は捕まれば、死ぬほどに殴られていた。日本人が逃亡を助けてくれ、19444月に東京へと逃走した。解放は群馬の安中で迎えた。

 鄭さんは証言の場で、負傷時の治療や故郷への手紙の送付など、日本人と朝鮮人との相違に関する質疑を受けるなかで、次のように語る。「あのねえ、朝鮮人と日本人と比較すること自体が間違いなのです。比べられないんですよ。比べられるくらいならば、私は証言しません」と。

鄭さんが言いたいことは、植民地とされ、軍事的文化的な支配のなかで強制的に動員されて労働を強いられた朝鮮人と、植民地を支配する側にいた日本人とを、その労働条件について同列に扱って比較することはできないということだろう。同列にして比較すると、植民地支配下のなかで構造化されていた物理的精神的な強制性の問題が抜け落ちてしまうからである。

つぎに「徴用」による連行者である趙観變さんの証言をみてみよう。趙観變さんは厚生省名簿によれば1945215日に京畿道の楊平郡から連行され、1015日に帰国した。趙さんの証言をまとめてみよう(『遥かなるアリランの故郷よ』160176頁)。

趙さんは19286月生まれ、「徴用」により面事務所に召集され3日後に連行された。移動中には汽車の窓をふさぎ外が見えないようにされた。鉱山では支柱の大工仕事をさせられたが、仕事を一日でも休もうとすると事務所に連れて行かれ殴打された。坑内の近くに火葬場があり、寺もあった。飯場が屏風のように並び、中央に食堂があった。死なない程度の食事であり、一ヶ月で手渡されたのは小遣い程度の5円だった。手紙は何回か来たが、解放近くなるとできなかった。解放はラジオで知り、集団で帰国した。

以上、連行された朝鮮人による証言から連行状況についてみてきた。

日本人の証言をみてみよう。

「銀山社宅には強制的につれてこられた朝鮮人が住むようになった。脱走を監視するために奥銀山の家には夜2人が常駐した。巡査の派出所も置かれた。庚申山道には細い針金が張られ、逃亡者がそれに触れると鐘が鳴るようになっていた。捕まると水を入れた盥を頭の上で支えさせたり、家の柱に縛られ棒で殴られた。冬、六林班方面へ脱走して橋の下で凍死した人もいた。庚申川ぞいの傾斜地で自殺した人もいた」(『町民がつづる足尾の百年第2部』168169頁要約)。

「足を負傷して坑内に入らないと電線を足につけたり、納鉱場の脇に連れていきムチでたたいた。ぞっとするような、見ていられないことが再三あった。」(『足尾に生きたひとびと』89頁要約)。

「よく半島人が死んで、リヤカーで運ばれたりした。大根みたいな足がピーンとしていた」(『足尾に生きたひとびと』87頁要約)。

「深沢の入口の栃本屋は朝鮮人の宿舎で夜には朝鮮の歌を歌い、それにあわせて踊る風景が見られた。高原木には夫婦連れも多く、駅できれいな民族衣装を見た」(『町民がつづる足尾の百年第2部』213頁要約)

証言から暴力的管理があり、逃亡や死亡があったことがわかる。

 

3         足尾鉱山からの帰国

 戦争が終わり、解放を迎えた人々の帰還がはじまる。連合軍俘虜は9月はじめに、連行中国人は1128日に帰還した。中国人は257人が連行され、連行途中を含めて110人が死亡している。

朝鮮人の帰還要求の動きも高まっていった。敗戦にともない、足尾鉱山では戦時資料の焼却がおこなわれたというが、1946年の厚生省調査に足尾鉱山の名簿があるということは、労働者名簿が保存されていたということになる。この史料から敗戦以降の朝鮮人の解雇日をみていくと、19451015日、1121日、125日の3次であることがわかる。これらの解雇日から、帰国が3派にわたっておこなわれたことをうかがい知ることができる。

 帰還とともに、足尾の朝鮮人を組織した在日本朝鮮人連盟と足尾鉱山側との交渉が続いていた。この交渉の経過については、古庄正「足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」にまとめられ、この論文は『遥かなるアリランの故郷よ』に収録されている(281338頁)。

この論文には、新聞記事の紹介もある。『下野新聞』(1945113日付)によれば、足尾鉱山の朝鮮人900人は帰国を求め働かず、食料の増配や帰国の際の特別手当を要求していたが、そのうち第1次として350人が帰国したという。『下野新聞』(1121日付)では、先に300人が帰国し、1121日に320人、22日に80人の計400人が帰国するとある。これが帰国の第2次の集団になる(『遥かなるアリランの故郷よ』315324頁)。第3次の帰国は12月に入ってからとなる。

古庄論文から朝鮮人連盟と鉱山側との交渉の経過についてみてみよう。

114日付で朝鮮人連盟(在日本朝鮮人連盟中央総本部栃木県本部)が出した要求をみると、即時の帰国、帰国までの充分な衣食住の提供、帰国に際しての食料などの支給(含む家族)、帰国者の釜山までの見送り、1年以下1000円・1年以上2年以下2000円・2年以上3年以下3000円の比例での慰籍料の支給、労働年金・貯金・預金など一切を本人に渡すこと、強制労働と暴虐の中での逃走者の年金・貯金・預金・衣服などを朝鮮人連盟中央本部に提出すること、連行者(1941128日〜)の氏名本籍地・逃走者死亡者の氏名本籍地・残留者の数の明示、死亡重軽傷者への同様の慰籍料の支給、死亡者家族への1万円支払、足腕を失った者へと5000円支給、手足の指を失った者への1000円支給などがある。この要求から、強制的な貯金・預金がおこなわれていたこと、死亡重軽傷者が数多く存在したこと、補償が不十分なままであったことがわかり、解放後、その要求が噴出していった状況を知ることができる。

このような要求に対し、鉱山側は占領軍司令部に連絡し県司令官の来山を要請した。116日には栃木県が朝鮮人の徴用を解除した。1110日には厚生省が労資に調停案を示した。その案は、帰国についてはできるだけ早くできるよう処置、帰国までの衣食住は会社が最善の努力、帰国に際しては乗船地まで随行、退職慰労金は2年未満300円、3年未満400円、3年以上500円、逃走者への退職慰労金は不払い、貯金・預金・未払金は精算支払(現金での持帰金には制限)、厚生年金などは必要に応じ会社側の立替払い、逃走者の貯金預金の朝鮮宛送金は連合軍と政府の決定に従って処理、会社は朝鮮人の入所者・脱走者・死亡者・在山者の明細な経過を公表、死亡傷痍者への厚生年金・慰籍料・特別慰籍料の支給(死亡者1000円・足腕を失った者に500円・指を失った者に100300円)というものであった。

厚生省案は要求の多くを認めながら、慰労金や慰籍料については減額し、朝連への委託は拒否するというものであった。朝鮮人側はこの案を拒否した。この調停案の翌日に鉱山側は米軍による治安維持を依頼し、機関銃隊約100人が派兵された。しかし、朝鮮人側の抵抗は続き、栃木県の米軍司令部は足尾への派兵軍隊長を通じて労資双方に斡旋案を出すことになった。

この斡旋案はつぎのような内容である。125日の輸送での帰国の完了(33人を除く)、会社側は乗船地まで見送り、1015日から帰国完了までの会社側による衣食の負担(含む家族)、連行者(1941128日〜帰国)の氏名本籍地・逃走者死亡者の氏名本籍地・残留者の数の明示、815以降の甲種勤労所得税控除の場合の払戻、815以前1年未満の無断退出者の預金・協和資金を朝鮮人連盟足尾支部に引渡、125日の帰国者に乗船地まで毛布1枚の貸与、帰国時に退職慰労金の支給(勤続2年未満350円、3年未満500円、3年以上650.除く無断退出者)、死傷痍者への給付金・慰籍料・特別慰籍料(死亡者遺家族2000円、足腕を失った者に1000円、手足の指を失った者に200)の支給(障害を持った者はこれに準じて支給)、遺骨は帰国に際し会社側が責任を持って遺族に届けること、争議解決に際し会社は義捐金として朝鮮人連盟足尾支部に24000円を支払うこと。

このような内容で帰国の日の125日に鉱山側と朝鮮人連盟足尾支部との間で協約が成立した。だが、この協約にある慰労金などは実際に支払われたのだろうか。すでに11月末までに7割ほどが帰国を終了していること、帰国時の持帰金額に制限があったこと、会社から朝鮮への送金は不能であったこと、3次の帰国の直前での決定であったことなどから、すべてが支払われたとは思われない。

厚生省勤労局調査の足尾鉱山分の名簿には、逃亡者の未払い金についてもなしと記され、連行末期(勤続2年未満)の帰国者についてみれば10月に退所した者にも350円が支払われたと記されている。12月に退所した者に350円が支払われることはあっても、10月に帰国した者に同様の支払いがあったとは思われない。また、逃亡者についての未払い金も多かったとみられる。このような記述には戦後の未払い金調査の段階での鉱山側の作為を感じる。

 

4         朝鮮人強制連行についての歴史認識

 

古河鉱業は足尾以外では阿仁、永松、飯盛、久根などの鉱山で連行朝鮮人を使った。久根鉱山については500人ほどの名簿が厚生省調査の静岡県分の名簿のなかにある。戦争末期にはボーキサイトの代用鉱として西伊豆の明礬石が採掘されたが、古河はその採掘ために設立された戦線鉱業仁科鉱山の経営にもかかわった。この鉱山へも500人ほどの朝鮮人が連行された。この鉱山の開発工事にも朝鮮人が動員された。古河の炭鉱には福島の好間、福岡の大峰・峰地、下山田、目尾などがあったが、これらの炭鉱にも数千人規模で朝鮮人が連行された。

戦争の拡大によって軽金属部門が強化されていったが、古河資本は古河電工に軽金属部門をおいた。この古河電工へも朝鮮人が連行された。厚生省名簿からは古河電工小山工場へは29人、兵庫県尼崎の古河電工大阪伸銅所へは80人が徴用されたことがわかる。新潟県警察部特高文書からは古河電工横浜電気製作所から60人が新潟から帰国したことがわかる(「鮮人集団移入労務者送出二関スル件」『朝鮮問題資料叢書13242頁)。川崎市の古河鋳造や埼玉県戸田市の古河電工軽金属処理所にも連行朝鮮人がいたという。古河電工は各地の工場へと朝鮮人を連行していたのである。

古河電工小山工場への連行についてみておけば、小山工場へは黄海道黄川から1945321日に連行されている。名簿には29人分の氏名があるが、これは終戦まで残留していた人々のものであるように思われる。

 古河資本が古河系列の鉱山・炭鉱や工場へと国家と共同して連行した朝鮮人の数は2万人ほどになるだろう。

ここで証言をみてきた鄭雲模さんは1997年に日本弁護士連合会へと人権救済を申告した。日弁連は2002年に勧告を出したが、その勧告をまとめると以下のようになる(朝鮮人強制連行真相調査団『資料集14 朝鮮人強制連行・強制労働 日本弁護士連合会勧告と調査報告』所収)。

足尾での労働は、任意ではなく処罰の脅威の下で強要されていたから、1930年に採択された「強制労働に関する条約」に違反する。鉱山での地下労働の強制、労働が60日を超えたこと、労働災害に対する無補償、健康保持への無配慮などでも、強制労働条約に反している。また、連行されての強制労働は奴隷的苦役であり、1926年に採択された奴隷条約に反する。さらに足尾鉱山への強制連行とそこでの強制労働は、殺人・奴隷化・強制的移動その他の非人道的行為など「人道に対する罪」にあたり、戦争犯罪である。

日弁連はこのように鄭さんの強制連行・強制労働を人権侵害と認定し、日本政府と古河機械金属に対して、被害実態の把握、責任の所在の明確化などの真相究明と謝罪の上での金銭的処置を含めた被害回復をおこなうように勧告した。 

植民地支配のもとでおこなわれた強制連行・強制労働が、人間の奴隷化と強制的移動であり、「人道に対する罪」であるという視点は重要であり、理解の共有が求められる。政府も企業もこの勧告をふまえて誠意ある行動をとるべきであろう。

足尾観光の展示には年表があり、「補充として朝鮮人労働者を使用」「捕虜となった中国人が坑内に就労」とあるが、強制性についての記述はない。足尾町2006年に日光市と合併したが、足尾町は閉町を記念して『足尾博物誌』を発行した。この本の年表には1940年「この頃から朝鮮人労働者が足尾銅山の労働に従事」、1944年「中国人が強制連行され坑内労働に従事」とある。ここには朝鮮人連行について、「強制」の歴史認識がない。

足尾銅山観光の建物に「日光市非核平和都市宣言」の張り紙があった。日光市20073月に非核平和都市を宣言した。この宣言文では、世界の平和を願い、地域の清流や文化遺産とひとりひとりの命を守り、暴力・戦争・核兵器をなくすこと、被爆の歴史をふまえての非核平和を訴えている。ここで語られる世界平和の第一歩として、強制連行の史実を明確にし、被害者の尊厳の回復と友好にむけて、この足尾の地からの活動が求められるように思われた。

足尾鉱山は1973年に閉山し、通洞坑は今では観光用に使われている。製錬所の対面には龍蔵寺があり、そこには煙害で廃村になった松木村の墓石がピラミッド状につまれている。これらの墓石や寺の墓石は製錬所からの煙に焼かれて変色し黒いつやをもつ。選鉱場跡には捨てられた鉱滓も歳月を経て崩壊し赤茶や赤黒に変色していた。だが歴史の真実は変色させることはできない。

中国人を追悼する「中国人殉難烈士慰霊塔」は小滝坑北方の銀山平にある。裏側には110人分の死者名が刻まれている。1973年に建てられた石とコンクリートの大きな祈念碑である。

朝鮮人を追悼する碑は、小滝坑を南に下った専徳寺跡にある。木製の「足尾朝鮮人強制連行犠牲者追悼之碑」が10本ほど建てられ、横には木製の看板があり、墨で連行死者の氏名が記されている。そこは木々に囲まれた湿気の多い場所であり、古い碑木は変色し、碑を支える石には苔が生えている。『足尾博物誌』にあるような歴史認識がこのような追悼碑での格差になっている。

小滝坑の周辺に残る墓地には、無縁になった墓石が散在していた。ここで生き働いた民衆の生命と尊厳の歴史が放置されているかのようだった。

 田中正造は「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と1912年に語っている。これは、足尾鉱山からの鉱毒が深刻な汚染をもたらし、それに抗議する民衆が弾圧され、さらに居住地を奪われ、汚染源の鉱業は停止されないという状況の中での表現である。それは朝鮮半島の植民地支配がはじまり、植民地の再分割をめざして世界戦争が起こされていく時期でもあった。

戦争による植民地支配においても、山や川が荒らされ、村が破壊され、戦争へと民衆が動員された。朝鮮の植民地支配や足尾鉱毒事件から100年、このような歴史を反省し、現代を真の文明へと転換する試みが奔流となる時代としたい。足尾の山々は植林によって緑を取り戻しつつある。平和と友好についても同様でありたいと思う。

 

 

厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」栃木県分・足尾鉱山名簿 1946

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」1942

朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社1965

朴慶植編『朝鮮問題資料叢書13』アジア問題研究所1990

栃木県朝鮮人強制連行真相調査団『遥かなるアリランの故郷よ』随想舎1998

朝鮮人強制連行真相調査団『資料集14 朝鮮人強制連行・強制労働 日本弁護士連合会勧告と調査報告』2002

古庄正「足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」『経済学論集26-4』駒沢大学経済学会1995

猪瀬建造『痛恨の山河』(増補改訂版)随想舎1994

守屋敬彦編『戦時外国人強制連行関係史料集V朝鮮人2下』明石書店1991

守屋敬彦「金属鉱山と朝鮮・韓国人強制連行 住友鴻之舞鉱山」『道都大学紀要教養部91990

村上安正『足尾銅山史』随想舎2006

村上安正『銅山の町足尾を歩く』随想舎1998

村上安正『足尾に生きたひとびと』随想舎1990

村上安正編『足尾銅山労働運動史』足尾銅山労働組合1958

「明るい町」編集部『町民がつづる足尾の百年』光陽出版社1994

「明るい町」編集部『町民がつづる足尾の百年第2部』光陽出版社2000

『足尾博物誌』足尾町2006

大川英三『鉱山の一生』講談社出版サービスセンター1974