軍人軍属・性的奴隷

 

ここでは軍人軍属や性の奴隷とされて静岡県へと連行された朝鮮人についてみていきたい。

一 軍人軍属

これまでみてきたように、特攻基地建設などの軍事基地建設や地下工場建設へと動員された朝鮮人の中には軍の施設部隊に組み込まれ、軍属扱いとされていた人たちもいた。ここでは、それ以外に、軍人軍属関係の名簿や在韓軍人軍属裁判の資料から、軍人軍属とされて静岡県への連行者についてみていく。

 

陸軍兵士

戦後に集約された『朝鮮人陸軍軍人名簿』には朝鮮各道での連行者名が記されている。連行者を網羅したものではないが、日本への連行先として、宇都宮・福島・敦賀ほか各地への連行を知ることができる。静岡県に関するものをあげてみよう。朝鮮への徴兵制の適用により一九四四年八月に第一回徴兵検査がおこなわれ、九月には徴兵され、配属されていったため、一九四四年九月の連行が多くなっている。なお第二回目の徴兵検査は一九四五年二月におこなわれている。この第二回徴兵検査のころから補充兵の動員もおこなわれていった。

この六人分の名簿からも、二〇歳ほどの兵士が船舶兵、鉄道兵、歩兵の形で連行され、伊豆の陸軍輸送部隊などに朝鮮人兵士が投入されていったことがわかる。

 

本籍  生年     本籍        徴兵年月日   連行先  兵種

國本政廣 一九二四年 全羅北道長水郡溪内面  一九四四年一月二〇日 浜松  歩一等兵
金岡漢明 一九二四年 京畿道水原郡陵西面  一九四四年九月一日 伊豆諸島 船舶二等兵
河鄭基賢
一九二四年 平安北道鉄山郡扶西面 一九四四年九月一日 伊豆   船舶一等兵
洪 雲鶴
一九二四年 咸興南道北青郡陽化面 一九四四年九月一日 伊豆   船舶一等兵
大森瀘哲
一九二四年 平安南道楊徳郡楊徳面 一九四四年九月五日 富士川  鉄道一等兵
西原尚龍
一九二四年 平安南道价川郡北面   一九四五年六月一日 島田    鉄道一等兵

 

船舶も徴用され、その乗組員にも朝鮮人船員がいた。『被徴用者死亡者連名簿』や徴用船員の死亡者名簿「戦没船員調査表」の朝鮮人分名簿をみると、静岡県の港や静岡県沖で攻撃や労働災害によって死亡した船員がいることがわかる。たとえば、一九四三年七月には日久丸が御前崎沖で魚雷攻撃を受け、朝鮮人船員松堂錫同が死亡した。一九四四年六月二二日には長良川丸が遠州灘沖で魚雷攻撃によって沈没し、二人の朝鮮人船員が死亡した。伊東港では陸軍船舶司令部の下に配属されていた河内丸の船員河清一が一九四五年二月に死亡している。大瀬崎では北新丸が一九四五年四月七日に沈没しているが、その中に五人の朝鮮人がいた。同年七月二一日には下田港の自在丸に乗船していた西原順玉が死亡した。このように船員として徴用され、軍務を強いられていた朝鮮人も多かったのである。

 

弁天島・高射砲部隊

高射砲部隊にも朝鮮人兵士が組み込まれていった。

浜名湖の弁天島の高射砲部隊へと連行された李仁浩さんの話をまとめてみよう。李さんは江原道春川郡新北面出身、一九二四年九月生まれである。八〇歳を迎えようとする李さんは二〇〇四年四月一五日、在韓軍人軍属裁判の原告として東京地方裁判所の法廷に立った。裁判での意見陳述とその後の聞きとりの内容をまとめると以下のようになる。

李さんは徴兵されるまで江原道華川金融組合の書記だった。当時、創氏改名により宮本仁浩とされていた。徴兵一期生として一九四四年九月一日付で徴兵されることになった。父は早くに亡くなり、兄も妻と子ども三人を残して亡くなっていた。母は李さんが徴兵されることになり、憤り悲しみのなかで自殺してしまった。

 平壌の陸軍師団の補充兵として強制入隊させられ、二〜三日後に名古屋の高射砲部隊へと送られた。釜山から約一〇〇〇人が乗船、一部が名古屋へと送られた。歩兵が多く工兵もいた。名古屋から各地へと配属された。とくに南方への派兵が多かったが、それは死ぬために行くようなものだった。名古屋には多くの軍施設や工場があり、米軍の爆撃は大規模だった。名古屋での二〜三ケ月の訓練ののち、岐阜の各務原飛行場へと防衛のために送られた。

 一九四五年三月ころ(五月か)には部隊は浜名湖の大鉄橋の警備へと移勤した。弁天島には病院があり、その近くに高射砲が六門すえつけられていた。弁天島から富士山がみえた。

李さんが配属された高射砲部隊の隊員は約二〇〇人、朝鮮人は四人いた。その中の一人の金鐘勲は束草市に健在で今も交流がある。李さんは部隊のなかで軍人として差別してはならないと主張した。

 浜名湖近くの部隊を目標にB二九のみならず艦載機が頻繁に襲撃してきた。艦載機に対しては近距離でないと射撃ができず、李さんの部隊も危険だった。隊長が横腹を撃たれ、瀕死の重傷を負ったこともあった。歩兵や工兵は身を隠すことができるが、砲兵は高射砲陣地に行き、対峙しなければならなかった。徴兵されて死傷者が続出する惨状を目のあたりにしなければならず、そのような悲惨な状況でなんとか命拾いをして生き残った。

 四五年八月一五日の解放を迎え、日本海側から船に乗り、釜山港に到着した。九月二〇日、満一年と二〇日ぶりの帰国だった。勤務していた華川郡は南北に分断された。華川金融組合の職場は北、李さんの家は南側にあった。人々の往来は厳禁された。元の職場へは往復できず、入社からの四年四ケ月分の退職金も徴兵の間の給与も受けとれなかった。莫大な損失だった。

 徴兵され悲惨な体験をし、職を失った事の恨みは今日まで忘れられない。いつの間にか半世紀以上がすぎた。いつまで解決をひきのばすのか。日本政府に反省を求め、政府の行

為による精神的経済的犠牲・損害に対し、一日も早い賠償を求める。

 以上が李さんの証言の内容である。

 李さんの軍歴については厚生省によれば第一七方面軍平壌師管区司令部下の砲兵補充隊留守名簿に記載があるだけであり、その後の配属先の史料はないという。李さんの配属された四一一八部隊とは、移動状況から名古座高射第二師団下の独立高射機関砲第一二大隊第一中隊とみられる。この隊は一九四五年五月に弁天島に配置されている。

 高射砲部隊への朝鮮人兵士の投入については、「周吉さんは清水の高射砲部隊に連行された人々がいたという。

 

 航空教育隊・陣地構築

 在韓軍人軍属裁判の資料には浜松の第七航空教育隊や静岡での陣地構築に連行された朝鮮人の証言がある。それをみてみよう。

 金赴マさんは一九二四年五月生まれ、慶尚南道蔚山郡の出身、二歳のころ日本にわたり東京都板橋で父母と暮らした。創氏改名によって金原政男とされた。一七歳のときサハリンの豊原の飛行機工場に徴用され、飛行場の建設作業を強いられた。外に出られないように監視され、賃金もまったく支給されなかった。八ヶ月ほどたったころ、つらく耐えられなくなって逃走したが、犬数一〇匹を動員して探されその日のうちに捕まってしまった。指の関節が切断されるくらいのひどい拷問を受けた。二年ほど勤めた後、軍に入隊する年齢になったので日本に戻った。帰りの経費は会社が支給した。親はまた強制徴用されないようにとすぐに結婚させた。二〇歳の一九四五年二月、召集令状が来て浜松の第七航空教育隊に入隊した。三月の空襲で浜松は修羅場になり、隊員たちは爆撃で生じた死体を集めて処理した。空爆が何日もあり、四月に宇都宮の司令部に移ることになった。そこで飛行機の整備の仕事をした。韓国人はほかに二人いたと思う。戦争が激しくなり、外出はできず、月給ももらえなかった。八月一五日完全武装の姿で天皇の放送を聞いた。降伏のニュースを聞くとある将校は自殺し、最後まで戦おうという将校もあり、部隊が再編成された。九月になると武装解除され東京に戻った。解放されると先に家族を返し、九月末に帰国した。厚生省に服務履歴書と供託金の確認をしたが、資料がないとのことだった。軍隊に行き生存しているのにもかかわらず、資料がないといわれてあきれた。厚生省に行って証明してくれというと調査して返事をするとのことだった。若いときに徴用され徴兵されて経験しなければならなかった苦痛と未払い賃金に対して正当な賠償を求める(「陳述書」から、二〇〇〇年)。

 沈相吉さんは一九一五年生まれ、江原道麟蹄郡出身、一九四三年三月に役場からの召集通知書によって徴集され、龍山の二〇部隊に入隊して訓練を受けた。一九四五年三月に静岡に送られ、陣地構築に動員された。そこでは人間以下の扱いをされ、奴隷以下の生活だった。名は軍隊でも実際は労働部隊だった。八・一五解放とともに帰国し九月一五日に帰宅した。三年間の慰労金を要求する(「陳述書」から、二〇〇〇年)。

 沈さんは第一四三師団(護古部隊)に連行されたとみられる。この部隊の一部は一九四五年二月末に編成されている。展開地は浜松北方や清水であり、陣地構築をおこなっている。なお、中部第三八部隊も浜松二俣沿線の陣地構築に動員されている。この部隊には一九四四年一月に動員された朝鮮人学徒兵が編入されていた(『戦時下愛知の諸記録』四〇頁)。

 ここでみた証言にあるように、陸軍航空部隊の整備兵や本土決戦用の陣地構築要員としても動員されていたことがわかる。

 

農耕勤務隊

 農耕兵として動員されていた朝鮮人もいた。

静岡県警察部特高課「朝鮮人部隊ノ解体ニ伴フ措置二関スル伺ノ件」一九九五年八月一九日付(『国際検察局押収重要文書1敗戦時全国治安情報第三巻』所収三〇二頁)には朝鮮人農耕隊についての記述がある。それによれば、浜名郡伊佐美村に朝鮮人農耕隊二〇〇人が駐屯しているが、それを解体し自由に帰国できることを言い渡す。そのため、憲兵隊から警察の輸送等への便宜供与の要請があったことが記されている。また管内に同種の部隊が二〜三あるとも記されている。また同日の静岡県特高課「軍ノ動静ソノ他二干スル件」(同書二九六頁)には、管下に駐屯する農耕隊が朝鮮人部隊である旨が記されている。

当時伊佐美小学校には兵士が駐屯していたが、その部隊が農耕隊であったのかもしれない。

 「東海軍管区部隊」(『本土配備部隊行動概況表』)には、直轄部隊として耕作第一中隊から第七中隊までが記されている。これらの部隊は一九四五年五月二日に編成され、各師団に配属されて農耕業務のために教育中とされている。このうち耕作第五中隊は第一四三師団に配属され、静岡県三ケ日町にあると記されている。第一四三師団は浜松市北方に配備されていた本土決戦用部隊である。三ケ日にも農耕隊の中隊があったわけである。

 静岡県内を見ると農耕勤務隊は一九四五年一月三〇日の軍令「農耕勤務隊臨時動員要領」によって編成された。第一農耕勤務隊は富士山麓、第二農耕勤務隊は茨城・群馬、第三農耕勤務隊は栃木那須野ヶ原、第四農耕勤務隊は愛知、第五農耕勤務隊長野伊那谷を中心に展開した(塚崎昌之「朝鮮人徴兵制度の実態」による)。農耕勤務隊は七中隊で編成され、一中隊の人数は約二五〇人だった。三ケ日・伊佐美の農耕隊は愛知を中心に展開していた第四農耕勤務隊の一部かもしれないが、詳細は不明である。

静岡県東部の富士山麓の富士宮、朝霧、御殿場などにも農耕隊が置かれていたが、これらの農耕隊は第一農耕勤務隊とみられる。『日蓮正宗の戦争責任』によれば、大坊に一九四四年の一二月、朝鮮兵士の農耕隊が来たが半ば強制的に動員されてきた人たちであり、日本人将校の命令によって強制労働をさせられていたという。また、『「地涌」選集』八八八号によれば、大石寺の書院に強制的に連れてこられた三〇〇人ほどの朝鮮農耕隊が寝泊りし大石寺周辺の開墾や農耕に従事させられていた。一九四五年六月一七日の火事の際に書院は炎上した。という。これらの記述から日蓮宗の大石寺が農耕隊の宿舎とされたことがわかる。

農耕勤務隊へと連行された朝鮮人の聞き取り記録からみてみよう。

洪六祚・金太俊・金栄権・李宗熙・馬大権さんたちは、慶北善山郡から第三農耕勤務隊員として栃木県那須野原へと連行された。その経過をみてみよう(孫大勇「旧陸軍農耕隊関係調査報告」による)。

洪六祚さんたちは一九四五年二月に召集令状を受けて三月に出頭し、大田の第二四部隊に入隊した。そこでの約二ヶ月の教練の後、五月はじめに那須野原に連行された。武装はなく、開墾伐採作業やサツマイモの植え付けをさせられた。少量の食事でいつも空腹だった。

那須野原は食糧増産のための開発計画がすすんでいた。朝鮮からの連行者を含む農耕自活隊による開拓は一九四四年ころからすでにおこなわれていた。朝鮮人農耕隊はこの那須野原の青木農場・戸田農場・千本松農場などに投入されたとみられる。

平安南道順川郡新倉面の金致麟さんは、学生の時に檜倉鉱山、平壌紡績工場、亜鉛鉱山などでの労働を強いられ、一九四五年一月に徴兵された。平壌の第四四部隊で二ヶ月の教練の後、第四農耕勤務隊員として愛知県依佐美村野田に連行された。金さんらは不潔な部屋に入れられ、開墾作業をさせられた。朝鮮人同士が話すことや一人で外出することを禁じた。上官にことある毎に靴や棍棒や鍬で殴られた。そのため今も腰と右手が自由に使えない。(『告発証言集二』一三八頁〜)。

長野県伊那に展開した第五農耕勤務隊の白沢俊夫分隊長は、兵士が羅南から駆り集められ平壌で訓練したこと、絶対服従させて虫けらや犬や猫のように使ったこと、逃亡者を捕らえて鎖でつなぎ、見せしめのために酷いことをしたことなどを語っている(長野県歴史教育者協議会『戦争を掘る』三〇三頁)。

静岡へと連行された人々もここでみたような形で連行され酷使されたといえるだろう。

 

航空兵

 大井川上空での戦闘での死者に朝鮮人航空兵盧龍愚さんがいた。創氏名を「河田清治」という。一九四五年五月に大井川上空で米軍のB二九機に飛行第五戦隊の屠龍機が機体を当てた。その機に陸軍少尉だった盧さんは乗っていたが、パラシュートはうまく開かずに墜落死した。

 盧龍愚さんは京畿道出身、一九二二年生まれ、仁川商業学校を出て京城法科専門学校にすすみ皇民化教育を受けた。かれは大川周明『米英東亜侵略史』などを読み、東亜連盟運動に共感させられたという。一九四三年、朝鮮人学徒の「募集」に応じて陸軍特別操縦学生一期生となり、一九四五年三月第五戦隊に配属された。知覧の特攻記念館資料には「朝鮮人特攻兵」一一人分があるが、そのなかのひとりである。

遺骨返還と望郷の丘への安置の経過は『「散華」ある朝鮮人学徒兵の死』という番組で放映された(二〇〇五年一〇月一〇日静岡放送)。

そのなかで妹の盧京子さんはいう。「兄も弟も連れて行かれるところだった。兄はわたしが志願していくから弟は見逃してくれ。それで親の面倒を見られるようにしてほしいと『志願』した。兄は勉強も運動もよくできた。二二歳、これから花開こうという年に死んだ。連れて行かれ、あまりに悔しい。」

 遺骨は戦後六〇年を経た二〇〇五年、河田清治が盧龍愚であることを遺族の側が労苦して証明することで、遺族の元に返った。遺族は遺骨を「ここに祀れば、その歴史を永久に残すことができる」からと、韓国天安市の望郷の丘に安置した。盧龍愚の遺骨は、それまで一一三〇人余の朝鮮人戦争犠牲者の遺骨などとともに、東京の祐天寺に置かれていた。  

盧さんは、総力戦態勢のなかで植民地出身者を日本軍兵士に仕立てあげ、日本人として戦争に動員するという政策を体現させられ、特攻兵として賛美された。しかし、かれの「志願」は日本の動員から弟と家族を守るためであった。特攻死の賛美は戦後も遺骨を遺族から遠ざける力になった。遺骨は返還されずに、六〇年間放置されてきた。有能な青年を軍へと連行し、その死を賛美し、政府が自らの責任でその遺骨を遺族のもとへと六〇年もの間返還しなかった歴史を、盧龍愚の遺骨は語り続ける。

未返還の多くの遺骨類は日本の植民地支配と戦争の責任が六〇年に渡って未清算のままであることを示している。

 

二 性的奴隷

 

つぎに、「慰安婦」という性的奴隷とされて静岡県内へと連行された朝鮮女性についてみてみよう。

植民地支配のなかで、朝鮮の女性たちが性の奴隷とされ、県内を引き回されて性の売買を強制されている。一九二六年一二月には、静岡県相愛会の幹部が朝鮮の女性を東京や名古屋方面へと密売買していたことが発覚し幹部が逮捕されている(『在日朝鮮人史年表』)。女性を売買するルートがあったのだろう。また、県内各地に朝鮮料理屋ができ、そこに連行され性の奴隷とされた朝鮮の女性たちがいた。

侵略戦争のなかで朝鮮人強制労働がおこなわれていた現場へと連行された朝鮮人女性もいた。県内でも鉱山や土木現場、軍工事場や遊廓のなかで、朝鮮女性が性的奴隷とされ連行されたところがある。

戦時下、静岡県内の連行場所として明らかになっているところをあげると、大井川久野脇発電工事現場、大井海軍航空隊、静岡二丁町、藤枝海軍基地建設現場などがある。その他の軍事基地や鉱山などへの連行もあったと思われるが、詳細はあきらかではない。

 

静岡・二丁町の「慰安婦」

 静岡市の安倍川近くにおかれた遊廓の歴史は古く、徳川幕府初期とされている。

小長谷澄子さんの調査によれば、ここに一九四四年の七月ころ、一〇〇人ほどの朝鮮女性が転送されてきた。かの女たちは軍の要請により「軍隊慰安婦」として南方へ派遣される予定であったが、輸送事情の悪化によって静岡へと転送されたという。「軍需品」とされていたかの女たちは江戸楼、初音楼へと連行された。かの女たちは一九四五年六月の静岡大空襲によって焼け出された。一部は藤枝海軍基地建設現場へと転送された。劉允植さんは一九四一年に新潟県の信濃川発電工事間組の現場に連行されたが逃亡し、弟のいる静岡に来た。女性たちは一九四四年七月ころに静岡の二丁町へと広島方面から連行されてきたという(小長谷澄子「静岡の遊郭二丁町(四)」)。

この二丁町で一九二八年ころから髪結いの仕事をしてきた岡村さんはいう。「日曜には昼間から歩兵三四連隊の兵士でいっぱいになった。戦争末期、妓生たちが江戸楼などへと来た。朝鮮服を着て格子の前に立て膝で座っていた。車座で音楽の稽古をしていた。荒縄を持って警察が巡回をした。」(静岡市、一九九三年談)。

二丁町に住みここから中学に通っていた原さんはいう。「一九四四年の七月には予科練に入隊したが、そのときには朝鮮の女性が来ていた。空襲が多くなり二丁町への客足も減り町はさびれた。一九四五年の空襲で焼け出されたが、蓬莱楼や小松楼は住友の工員寮となり、日本人の女性は少なくなり、三分の二くらいが朝鮮人だった。」(静岡市、一九九三年談)。

侵略戦争の拡大は、軍隊の「慰安婦」制度を作り上げた。それは植民地占領地の女性を軍の性的奴隷に組み込んでいくことだった。戦争は人権や反戦平和の思想と運動をおしつぶした。静岡市二丁町の遊廓跡、大鳥神社の境内には遊廓の由来を示す碑が残っているが、この碑は空襲で破損している。朝鮮女性が連行された江戸楼の跡には県の防災センターが建っている。遊廓跡地に当時の建物は残っていない。残された碑から女性たちの自由と解放を求めつづける思いを読みこんでいきたいと思う。

人間の尊厳の回復にむけて発言をはじめた人々が歴史の記述の中心となっていくにはさらに多くの事実の究明が必要である。

 

海軍藤枝飛行場「慰安婦」

藤枝の海軍飛行場建設現場には多くの朝鮮人が連行されてきたが、そこには朝鮮人女性も「慰安婦」として連行されていた。ここの朝鮮人「慰安婦」はここでみてきた静岡の二丁町の女性たちの一部が転送されたものという(小長谷澄子「静岡の遊廓二丁町(四)」)。一九四五年四月に静浜村新町辻の米屋が海軍に貸家を出し、そこに「慰安婦」が来た。のちに基地周辺に朝鮮人「慰安婦」も入ったという(枝村三郎「大井川町の飛行場基地と地域住民」)。飛行場は現在自衛隊静浜基地として使われている。現地での聞き取りによれば、海軍施設部や朝鮮人の徴用軍属の飯場の近くに「慰安婦」の置屋があったという。この飛行場の第二滑走路建設が三分の一ほどつくられたときに敗戦になった。

 

海軍大井航空隊専用「慰安婦」

 海軍大井航空隊基地にも朝鮮の女性が連行されていた。大井海軍航空隊基地の水源地工事が大井川の国道一号線鉄橋近くの金谷河原でおこなわれ、その工事を朝鮮人がおこなったこと、この水源地設置にともない平地となった大井川の土手の一角に五軒の遊廓が建てられたこと、これらについては聞き取りによって松本芳徳さんが『牧之原大井海軍航空隊(一九九三年版)』であきらかにしている。

 安達礼三さん(一九二七年生)は、この遊郭が大井海軍航空隊員専用の「軍慰安所」とされていたという。

 安達さんは一九四三年九月海軍志願兵として横須賀で三ケ月の訓練を受け、一九四四年一月大井航空隊へ入隊。経理や衣糧を担当する主計課に配属され、糧食を担う兵員烹炊所で隊員用の食事づくりをした。同年一二月、再び横須賀に行き、偽装途上の輸送船に乗っていたところ魚雷攻撃を受けた。 二六人中二人だけが生き残った。

 一九四五年二月大井航空隊へもどり、大沢原での地下壕建設に動員された。三月ころ、疎開用の隊外病舎に衛生兵とともに派遣された。この隊外病舎からトラックで金谷河原の大井川堤防近くにあった大井空専用の「慰安所」に約五〇人分の食事を朝昼晩と運んだ。 ヤクザが女性たちを連れてきて監視し、経営していた。それを軍が専用の「慰安所」として利用していた。

 バラックは五棟あり、女性は四〇人ほどいた。日本人と朝鮮人が半々くらいだった。女性たちは「海軍さん!」「海軍さん!」と呼びこんで客をとらされていた。一般の人は来なかった。利用すると一回五円〜五円五〇銭くらいだった。

 かの女たちは軍補給施設部の軍属として扱われていた。軍属として扱うことで軍が食事を配給できるようにした。隊外病舎の軍医と衛生兵が月例検診に出向いた。

 海軍横須賀警備隊(一〇〇人ほど)が二軒家原(金谷中跡地)にあった海軍送信所の防衛のために送られてきた。送信所の西方に高射砲陣地がつくられたが、この部隊へも大井空から配膳した。警備隊員にも何人かの朝鮮人がいた。隊外病舎へと治療のため金東春が入っていた。大井基地の拡張工事が一九四四年にすすめられた。受刑者も動員された(一九九八年八月、現地調査での証言)。

 この証言から、大井海軍航空隊用「慰安所」が金谷河原におかれたこと、半数ほどが朝鮮人であったこと、海軍がヤクザを利用して「慰安婦」を性的奴隷としていたこと、「慰安婦」は海軍の軍属の扱いで食事を配給されていたことなどがわかる。

 奈良柳本での海軍飛行場建設現場へも朝鮮の女性が連行されている。この調査では連行を特高警察が計画し、協和会幹部が朝鮮を訪れ慶尚南道の二郡から家事手伝いと偽って「女子挺身隊」の名で連行した。二〇〜四〇人が連行されたが、海軍施設部の管理地内の金網で囲われた建物の中に閉じ込められたという(川瀬俊治『朝鮮人強制連行と天理柳本飛行場』)。高知の海軍観音寺(柞田)飛行場建設現場にも朝鮮の女性が連行されている。工事は一九四四年から本格化している。四四年には二〇〜三〇人が連行されていたという(浄土卓也『朝鮮人強制連行と徴用』)。海軍では千葉の木更津などにも朝鮮の女性が連行されていたという。大井川の藤枝飛行場や大井航空隊でも柳本や観音寺と似た形で管理されたのだろう。

 

大井川の久野脇発電工事現場には「慰安婦」がおかれていた。

地域住民によれば、慰安所が下長尾の河原、南部小学校付近に設置された。朝鮮人の慰安婦が連行された。下長尾の慰安所の場合、朝鮮人が一〇人ほど連行され、駐在所の警察官が立会い、工事現場の監督が労働者を引率して連れてきたという(枝村三郎『静岡県民衆運動史』二、六四頁)。

一九三四年ころ寸又峡の発電工事現場に朝鮮料理屋があったという証言もある。また同じ頃、大井川の発電工事で働いていた李日俊さんは「工事場近くには遊廓があり、朝鮮から連れてこられた一七〜八歳くらいの女たちが二〜三〇人、客の相手をさせられていた」という。

大規模な発電工事現場に性の奴隷として送られてきた朝鮮の女性たちがいたといえるだろう。

 

鉱山での動向をみてみよう。

日本鉱山協会「半島人労務者二関スル調査報告」一九四〇年一二月の河津鉱山の報告をみると、娯楽・慰安の項に、「性問題については目下警察と打合せ適当なる方法を考察中なり」とある(朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』二所収七九頁)。その後どのような対策が行われたのかは不明であるが、朝鮮の女性たちが連行されてきたことも考えられる。

この資料をみると、北海道の歌志内炭鉱では朝鮮人専用料亭を切符制度で利用させている、空知炭鉱では会社が選定した人物に朝鮮人料理店を経営させ五人の女性を置き朝鮮人慰安所にしている、雄別炭鉱では隣接の集落の朝鮮人料理屋を利用、夕張炭鉱では三軒の朝鮮料理屋があり、女性が一〇数人という記述もある。市民団体の調査では京都の大江山鉱山、石川の尾小屋鉱山に朝鮮人慰安婦がおかれたというものもある。県内の鉱山での状況については不明である。

 

静岡の軍人と「慰安所」

一九二〇年代から三〇年代初めにかけて静岡県でも女性の人権運動がすすみ、そのなかで廃娼運動もつよまった。公娼制度が国家による男性による性暴力の保護であり、人間の尊厳を侵すものであることが訴えられた。公娼制度を人権・教育・風紀・衛生・国際条約の面から批判し、廃止を求めて署名活動や請願がおこなわれた。

しかし侵略戦争の拡大は廃娼運動を「純潔報国」運動へと組み込み、一九三〇年代後半には軍が植民地や占領地から性的奴隷を調達するようになっていった。かの女たちは軍隊「慰安婦」とされ、兵士の性の奴隷とされた。女性の売買をおこなってきた人々は軍の末端に組み込まれ、軍へと女性を出した。

民衆にとって兵士になることは人間性を失う道を歩むことであり、他者を殺戮し、女性の人権を侵すことになった。

竹内達雄『兵隊の思い出』から浜松出身の兵士の体験をみてみよう。かれは一九三七年日本軍に入隊し、中国・フィリピン・インドシナ・千島と従軍した。かれは中国山西省南部での戦闘での負傷兵について記し、敵兵への憎悪と小隊長による捕虜の切り殺しを語る。そしてつぎのようにいう。中国の集落に「徴発」に出かけ「銃を持って家へ侵入」、「長い間女と接していなかったので、銃をかまえたら、やってもよいという動作をした。立っているままやってしまった。後で(あの時、金を与えてやればよかった、悪いことをした)と良心にとがめた」「『徴発に際し女に暴行を働いた兵は処罰する』と小隊長に叱られた」(『兵隊の思い出』)。これは一九三九年頃の中国での体験である。

徴発という略奪のなかで銃を突きつけて強姦し、金品を与えなかったという意味で「良心」がとがめたという。捕虜を切り殺す小隊長は強姦を「叱る」にすぎない。このようなありようが日常的であったとみていいだろう。

旧制静岡高校出身の少尉は日記につぎのように記している(『地のさざめごと』二三五頁)。

「酒保の外にピー屋といって半島人が主であるが婦人慰問隊が大抵の中隊の分屯地に来ている」「彼女等は兵隊の後をついて何処迄も一緒に弾の下を進軍して行く」「兎に角出鱈目が行われ易い戦火の中にあっては、これも一つの意義ある組織であって、蔭の力として表面には永久に出ることのない大きな存在、美しい献身的行動とも云い得よう」

別の大尉は記す。「慰安所とは野戦部隊のために設けられたる遊廓の意なり。曰く、将校は一時間三円五〇銭、下士官二円五〇銭、兵一円五〇銭、あかしにて一三円、時間的に云えば兵は五時迄、下士官は八時迄、将校は一二時迄、」「慰安所を共同便所と評するものあり、蓋し至言か。各部隊夫々休務日を異にし、ために兵の外出は毎日にわたり、慰安所の女郎共内台朝支、合して四〇人余り、一人平均七八人の客をとるとすれば勢い共同便所とならざるを得ぬ」「台湾朝鮮ピーは日本語を上手に語る奴もゐるが大部は片言混じり濁音の語は特に不得意」「野戦にくると実際殺伐になってニーを殺すのも何とも思わなくなる」「兵隊も虫けら一匹殺した位にしか思っていない」「討伐前及討伐直後は景気をつける意味と慰労の意味で一杯やる事がいかに団結を強め志気を鼓舞するかという事は想像以上だ。軍医が慰安所を奨励する意味もよく分るような気がする」「最近陣地で兵隊が刑法にふれるような悪い行為をする。悪い奴になると強姦の行為さへ、あまつさえクーニャンを縛って陣地内に引入れ翌朝帰したりするものがあるという土民からの報告だ」(『地のさざめごと』一七六頁〜)。

ここには「慰安所」が軍隊用の遊廓であり、軍隊内階級によって利用に格差があったこと、慰安所には植民地占領地の各地から女性が集められていたこと、女性たちが性の奴隷とされ「共同便所」とされたこと、慰安所が兵士の志気と団結保持に積極的に利用され、軍がその利用を奨励していたことなどがわかる。他の記述では、兵士による強姦事件に対しては訓話し懲罰はしなかったとしている。

「慰安所」は兵士の性を管理し、人間性を疎外させることで、人間を戦争の機械へと組み込んでいくことに利用されていた。そのために占領地・植民地の女性たちは兵士のための性的物品とされたのである。

 

以上みてきたように、産業化と戦争は女性たちへの性的な支配と収奪のもとにおこなわれていた。歴史はそのような産業化と戦争を肯定するのではなく、性の奴隷とされた人々の尊厳が回復される形で記されるべきだろう。かの女たちが主人公とされる言説が求められている。

かの女たちの歴史には植民地支配、性差別、階級支配、民族差別の歴史が刻み込まれている。かの女たちの存在は、新たな平和への指向、人間の尊厳の回復、性と民族の支配的な意識の変革といった課題を提示し、あらたな歴史の記述を求めているといえるだろう。