浜松の軍需工場と疎開
一 浜松地域の軍需工場
浜松地域には軍事基地と軍需工場が集中し、アジア太平洋への侵略の拠点となっていた。浜松地域で生産された兵器と訓練された兵士たちは侵略戦争に動員された。軍事拠点であるために浜松は米軍による空爆の対象となり、軍需工場は疎開や地下工場建設をすすめていった。そこに朝鮮人も動員もされた。
浜松地域の主な軍需工場をあげてみると、日本楽器(プロペラ・燃料タンク)・遠州製作(弾丸加工)・鈴木織機(砲弾・戦車砲・機関銃・手榴弾ほか)・浅野重工業(魚雷・高射砲)・河合楽器(弾薬箱・飛行機部品)・西遠織布(軍用綿布・軍服・帆布・翼布)・加藤鉄工所(旋盤・兵器加工)・中島飛行機(エンジン)・国鉄浜松工場(高射砲・航空機部品)などがある。ほかに、日東航空工業・日本無線・浜松航空機工業・東亜航空・東京無線・天竜兵器などでも軍需生産がおこなわれ、小さな町工場でも航空機部品を製造していた。また、湖西地域では富士兵器・東芝電機・矢崎電線工業・安藤電気などで軍需生産がおこなわれていた。
これら軍需工場での朝鮮人の徴用労働については、鈴木織機での朝鮮人連行者名簿がある。朝鮮人は輸送部門にも動員され、浜松駅や日本通運への連行があった。浜松地域での軍需生産・工場疎開については、『遠州機械金属工業発展史』に記述がある。
浜松地域では、軍需工場であった日本楽器・遠州製作・浅野重工業・山下鉄工所・加藤鉄工所国鉄浜松工場などが疎開工場や地下工場の建設を計画していた。これら地下工場建設の他にも、県下各地に地下工場・施設の建設がおこなわれた。建設工事現場では朝鮮人が動員されたところもおおい。
日本楽器
日本楽器は陸海軍の共同管理工場としてプロペラ・燃料補助タンクなどを製造していた。日本楽器の疎開工場のひとつが磐田郡光明村(天竜・船明地区)につくられ、「佐久良工場」とよばれた。工場は山あいを拡張して建設されたが、山を切り開く大規模な作業を担ったのは朝鮮人であった。道路整備の仕事もしたようである。船明国民学校・山東国民学校の上級生が整地・木材運搬の仕事へと動員された。現・一五二号線ぞいに建設された日楽事務所跡は、いまでは自動車整備工場の建屋として利用されている。
日本楽器の疎開工場について、当時、船明国民学校生だった松井誠次さんはいう。
「一五号線の東側に六ケ所ほどの工場が建設され、西側は大谷船明トンネル内に機械が搬入され工場となった。トンネル出口に工場が二つ建てられた。山東地区にも工場が建てられた。その工場は現・勤労青少年ホームから橋を渡った付近にあった。整地が終わるとすぐに支柱を建て、工場が作られた。工場へむかう道路の拡張もおこなわれ、一メートル半ほどの道を二間の板を敷きながらひろげた。工場の労働者は通動してきた。ダイナマイトを使い、発破して山をくずす仕事をしていたのは朝鮮人だった。そのあとを動員生徒がツルハシとモッコで片付けた。校舎は兵舎となり、高射砲部隊が利用した。工場は「一の谷」、「二の谷」工場というように「谷」という名をつけてよばれていた。ここでプロペラ生産に入ったが、漏電事故が多く、完全に稼動しなかった」(天竜にて、一九九一年談)。
日本楽器は
鈴木織機
つぎに鈴木織機についてみてみよう。
鈴木織機の軍需工場化も戦争の拡大とともにすすんだ。鈴木織機は砲弾製造工場となり、本社工場は大阪陸軍造兵廠・名古屋陸軍造兵廠・豊川海軍工廠・呉海軍工廠から受注し、手榴弾・各砲弾・航空機用照準器などを製作し、高塚工場は砲弾・戦車砲・機関砲・照準機などを製作した。一部は兵器工場となり、高塚工場が新設され武器生産が強められた。鈴木織機は一九四二年に陸軍、 四三年には海軍の管理工場となり、 重要な軍需工場のひとつとされ当時「護国第五三八八工場」とよばれた。
鈴木織機の朝鮮人名簿(厚生省勤労局一九四六年)が残されている。鈴木織機へと一九四五年一月一六日、平安北道寧辺郡から一一八人(内一人は五月に追加)が集団連行されてきた。連行された人々は旋盤、鍛工、大工、運搬、雑役などの仕事を強いられた。四月に四人が病気のために帰され、七月に四人が逃亡。残ったのは一一〇人となり、日本の敗戦によって解放をむかえた人々は九月一〇日に帰国した。
鈴木織機には在日朝鮮人も動員された。慶南昌寧郡出身の河鎮祥さん(一九二二年生)はいう。父のいる浜松へと一九四二年に母妹の三人で来たが、その年に鈴木織機の鋳物工場に徴用で動員された。そこで土で型を造る仕事をさせられた。一九四五年六月の浜松への空襲の際、東海道線を走って逃げようとしたら爆風で倒された。そのときのケガのために、片方の足引きずり、杖をついてやっと歩ける状態だ(一九九五年談)。
四五年に入ると鈴木織機は二俣と金指へと地下工場を含む疎開をはじめた。
天竜の阿蔵地区は軍によって土地を強制的に接収された。阿蔵の安野谷から玖遠寺にかけて、畑地から山林の全てが接収されていった。工場は二棟たてられ、トンネルが六本ほど掘削された。貫通したトンネルは一本だけだった。阿蔵の民家の裏山に、コンクリートで人口が固定されたトンネルが残っていた。二〇〇五年には開発工事にともない、長さ二四メートルから四五メートルの壕が四本発見された。
地域住民の川島孝二さんによれば、朝鮮人飯場が五〜六棟つくられ、トンネル掘りに従事した。豊岡・二俣・阿多古方面から動員された勤労奉仕隊員がトンネル掘りで出た土をトロッコで運び、工場の敷地造成工事に従事した。鈴木織機は本工場を疎開させようとしたが、地下工場建設は途中でおわり敗戦となったという(阿蔵にて、一九九一年談)。一九九一年の調査の際には、鈴木織機の地上工場として使われた建物が残っていたが、その後撤去された。
白且賛さん(一九一五年生)は、二俣で夫がトンネルを掘る仕事をしていたという。白さんは一九四一年に渡日し浜松に住んだ。夫はさまざまな事業場で働き、二俣でのトンネル掘りもした。空襲が激しくなると周智郡の気田に疎開した。夫が病に倒れたため、一家は途方にくれ、役場に行き、日本語はしゃべれなかったが、「病気、死ぬ、食べ物くれ」と助けを求めた。何とか米少しと麦、薩摩芋の配給を受け、山菜・草木や豆かすと混ぜて、一週間分の食料で二ヶ月を過ごした(『朝鮮人強制連行調査の記録中部東海編』二八六頁)。おそらく白さんたちは鈴木の地下工場建設現場に一時期いたのであろう。
永田功さん(一九一六年生)は鈴木織機に産業戦士として徴用された。現町営住宅地に建設用資材が積まれ、住宅駐車場のところに請負業者の飯場がおかれていた。労働者が朝鮮人であったのかは不明。敗戦後、住民がトンネルの松丸太、矢板をはずして自由に使った。補強用の板や柱をはずとトンネルは奥の方から崩壊していった(引佐にて、一九九一年談)。
浜松の主な工場の疎開についてみておけば、弾丸加工・工作機械製造工場であった遠州製作は奈良県北葛城郡当麻村に「大和工場」を建設しようとした。魚雷・高射砲を生産していた浅野重工業は磐田郡敷地村と長野県上伊奈郡赤穂町に分散工場を計画した。魚雷頭部や飛行機の脚の加工をおこなった加藤鉄工所は浜名郡南庄内村和田・長野県上田市内の城の内堀へと分散計画、国鉄浜松工場工機部は岐阜県土岐津に地下工場を計画した。
このように浜松地区の軍需工場は戦争末期各地に分散や移転を計画し、その建設工事にとりかかった。それらの現場に動員された朝鮮人がいた可能性は高い。
大倉土木は日本無線関連の工事をおこなってきたが、浜松工場での工事もおこなった。空襲によって「殊に朝鮮人労務者は訓練されていない為、麦畑や林の中に逃げ込んだので、相当数の死者を出し、工場内に畳を敷き死体を収容するのに忙しかった」という(『大成建設社史』三七七頁)。空襲のため日本無線浜松工場は長野に疎開することになった。
空襲によってたくさんの朝鮮人が死亡した。日本無線の疎開工場建設の労働者の中にも朝鮮人が含まれていた。
日本通運は戦争下軍需輸送部門の中心となり、軍需輸送の特別部隊を編成していた。厚生省名簿によれば、日通浜松支店へは一九四五年三月二三日に忠清南道礼山郡などから三七人が連行されてきた。この中のひとり、「青木鳳世」は一九四五年六月一八日の浜松空襲の際に爆死した。逃亡者は二二人であり、連行された人々の約六〇パーセントを占める。五月、病気の二人が帰され、一人は日本軍へと徴兵された。八・一五解放後の八月三〇日に残っていた一一人が帰国した。
2 中島飛行機原谷地下工場
中島飛行機浜松工場
つぎに中島飛行機浜松工場と同工場の掛川での地下工場建設についてみていきたい。はじめに中島飛行機浜松工場についてみよう。
一九四二年五月、政府は中島飛行機にエンジン生産の増強を指示した。それにともない中島飛行機は浜松工場の建設に着工した。浜松工場の主力は浜松市の宮竹工場である。宮竹工場用地は強制買収され、工場建設が始まった。建設労働力として朝鮮人が動員されている。中島飛行機は鷲津・新居の織物工場を接収し、工場として利用した。
浜松工場では一九四四年一一月に第一号試作エンジンが完成した。同月、中島飛行機武蔵工場が空襲にあう。そのため、軍需省は武蔵工場の機能を大宮工場と浜松工場へと移管することを計画した。当時、中島飛行機の主な製作所は太田・東京・武蔵・小泉・半田・大宮・宇都宮・浜松・三島の九ケ所にあり、さらに三鷹に研究所、田無に鍛工場をもち、中島航空金属鰍直営していた。中島航空金属は浜松に工場をもっていた。
浜松工場は武蔵工場の関連工場として新設され、空襲により武蔵工場が破壊されると、浜松工場が本格的なエンジン組立工場となった。ところが、一九四四年一二月の東南海地震で浜松の宮竹工場建屋は倒壊した。軍用機用エンジンの製作・部品組立・最終組立・修理の役割を期待されていたこの工場は大きな被害をうけた。その後、再建されエンジン組立がすすむが、敗戦までに生産されたエンジン数は三五〇台ほどという。
強制動員被害真相糾明委員会には、全羅南順天在住の金さんからの被害申告書がある。それによれば、金さんは一九三〇年一〇月に大阪で生まれたが、徴用され中島飛行機浜松工場の部品製造の現場に動員された。委員会が収集した浜松の社会保険出張所のカードには社会保険の資格を取得が一九四四年五月一六日付であり、解雇は一九四五年の八月一六日という記事があるという。浜松工場にも朝鮮人の徴用があったわけである。
一九四五年四月、軍需工廠官制によって、中島飛行機は第一軍需工廠となり、国家の直営となる。浜松工場は「第一三製造廠」、三島工場は「第二四製造廠」となる。中島飛行機の概略については、高橋泰隆『中島飛行機の研究』、斎藤勉『地下秘密工場』による。
中島飛行機の地下工場
中島飛行機の地下工場建設についてみれば、工場建設は全国一六ケ所におよんでいる。主なものをあげれば、栃木県大谷、東京都浅川、埼玉県吉見、群馬県後閑、藪塚、多野、堤岡、石川県遊泉寺、秋田県生保内、福島県信夫山、白河、静岡県原谷、谷田などである。これらの地下工場は朝鮮人の強制動員によって建設されている。群馬県後閑・藪塚では中国人の強制連行もおこなわれた。
福島県信夫山の地下工場建設では各地から朝鮮人が動員され、日立鉱山や佐渡鉱山などに強制連行されていた朝鮮人も転送され、労働を強いられた。東京の浅川地下工場建設では、焼津のトンネル工事現場から転送された人もいた。
静岡市の朴聖澤さんによれば、「徴用」によって大阪の軍需工場へと配属されたが、そこから逃走し愛知県の軍直轄飯場を経て、埼玉県東松山・吉見百穴の飛行機地下工場建設現場の飯場に入ったという(朴聖澤「私の徴用体験と戦後静岡の朝鮮人運動」『静岡県近代史研究』二一)。この吉見の現場は中島飛行機の地下工場建設現場である。
このように地下工場建設現場へとさまざまな形で朝鮮人が集められていた。ひとつの地下工場建設で数千人の朝鮮人が動員された。地下工場建設における動員実態・労働状況・事故などについては不明であることが多く、今後の解明がもとめられる。
中島飛行機の地下工場建設については、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』、斎藤勉『地下秘密工場』、兵庫朝鮮関係研究会『地下工場と朝鮮人強制連行』、山田昭次「日立鉱山朝鮮人強制連行の記録」(『在日朝鮮人史研究』七)、埼玉県立滑川高校郷土部『比企』六などに記述がある。
中島飛行機原谷地下工場の建設
一九四五年春、小笠郡原谷村(現掛川市)に中島飛行機浜松製作所の地下工場の建設がはじまった。この地下工場はマルハ工場とよばれた。工場跡は、原野谷川の東側、天竜浜名湖線・原谷駅近くの本郷地区、遊家地区に残っている。遊家地区には多くのトンネルがあった。しかしゴルフ場の建設によって破壊され、遊家地区北西側の風景は宅地造成によって大きく変わっている。
静岡県の朝鮮人強制連行を記録する会は一九九二年掛川市に対して調査と保存を申し入れた。それに対し掛川市は一九九三年に調査費用を計上し調査・記録をはじめ、その報告書は一九九七年に『掛川市における戦時下の地下軍需工場の建設と朝鮮人の労働に関する調査報告書』の形で公刊された。この掛川市の調査で、地下工場の分布や規模があきらかになり、住民の証言や関連資料が収集された。以下、現地調査とこの報告書の記述から中島飛行機原谷地下工場についてみていきたい。
原谷の地下工場で製作される予定の部品はエンジン用のシリンダー・クランクケース・大型歯車・ベアリングプレート・シリンダー・プロペラ軸・マスターロッドなどであった(『米国戦略爆撃調査団報告』一八)。敗戦までに地上の分散工場はほぼ完成したが、地下工場は未完成だった。浜松工場の「疎開工場数は三六ケ所、疎開機械台数は一六〇七台、移動工員数は五八四八名」であったという。数字から疎開の規模の大きさを知ることができる(『地下秘密工場』一八一頁)。
工事を請け負ったのは清水組・勝呂組であり、清水組の下請けに古屋組、勝呂組の下請けに長井組があった。勝呂組が家代地区の第一工区(長井組)、第二工区、第三工区、清水組が遊家地区の第四工区、第五工区、本郷地区の第六工区(古屋組)を請け負った(掛川市報告書二八頁)。掘られた地下壕の数は一〇〇ほどだった。
清水建設名古屋支店の社史『百年の歩み』をみると、一九四五年に中島飛行機浜松製作所の工事をおこなったことが記されている。この工事は原谷地下工場建設を含めてのものである。
この地に地下工場が建設された理由は、空襲が激しく上陸も予想されたこと、山地で工場の隠蔽がしやすいこと、鉄道が近いこと、横穴が掘りやすい土質であることが考えられる。
この地下工場の建設でも朝鮮人が動員された。各地に飯場がつくられ、二〇〇〇から三〇〇〇人といわれる朝鮮人が現場近くに集住した。朝鮮人は壕の掘削、道路拡張などをおこなった。工事内容は極秘事項とされた。工事現場は憲兵に監視されていたともいう。岩質がもろいところでは落盤事故も多かったようだ。
家族をともなって移動した朝鮮人もあった。子どもたちは近くの学校へ通った。原谷国民学校の場合、入学式で五六人だった一年生が、一学期末には一一三人となった。桜木北国民学校では三〇人だった一クラスが六〇人になった。元学籍係によれば子どもたちの親は慶尚南道出身者が多かったという(静岡県退職婦人教師の会小笠支部『緋のもんぺ』七頁〜、一一一頁)。
掛川中学や掛川高女の生徒たちも雑務や偽装作業に動員された。袋井工業の土木課の生徒はトンネル掘削の測量をさせられた。掛川中学、掛川高女、小笠農学校は中島飛行機の疎開工場になった。中島飛行機新居工場に動員させられていた浜松一中の生徒は七月ころ掛川へと転勤させられた。住民の輸送協力隊が編成され、駅から材料を運んだ。
古屋組の工事事務所は原谷駅近くの柴田ストアのところにおかれていた。
地下工場建設工事の担当者がそこで工事指揮をした。柴山ストアは当時八百屋を営んでいたが、戦時統制のもとで、豆・いも・とうもろこしの粉・セリなどが配送されてきた。その野菜を朝鮮人がうけとりにきた。また、工事現場から皿や壷が建設中に発掘されたという(一九九〇年、柴田ストアでの聞き取り)。
古城飯場には金岡、金本、松本、山田、清水組関係の飯場に西山、古城池の近くに石山、幡鎌には広原、柳という飯場頭がいた(高橋一さんの話、掛川市報告書七二頁)。
本郷地区のトンネル群の入り口の民家の田は工事現場にはさまれていた。トンネル工事の土が田に捨てられたため、現在では茶畑になっている。家の前から西にむかって、朝鮮人の飯場がたくさん建てられた。「ここの工事での死者は二人ほどいたのでは………」という(児玉さん宅にて、一九九〇年)。
作業中の死亡者は「上田」「福山」「田口」というが、正確な氏名はあきらかにされていない(掛川市報告書五九頁の証言)。
遊家地区西側の人口付近の民家の裏山には、高さ一五〇センチメートル奥行三メートルほどの小さな防空壕が残されていた。壕は朝鮮人が掘削したものであり、空襲時には隠れたという。壕の中は鍵型になっている。壕内には、「昭和廿年六月廿五日」「岩本・林」という字が刻まれ、残っていた。朝鮮人が元号と創氏を使い、自己の存在とを記したものと思われる。刻まれた字はその時代に生きた人々の存在を示すものだった。
「戦後はここにドブロクをつくり隠していた。鍵型になっているのは爆風をさけるため」という(山崎さん宅にて、一九九〇年)。この壕は一九九五年ころに破壊され姿を消した。
一九四五年七月半ば、一部の工場は稼働したが、地下工場全体として生産することはできず、機材を運び込む前に、朝鮮人は解放をむかえた。
朝鮮人の多くは掘立小屋のバラックで寝起きして、トンネル工事や伐採に従事した。一九四五年八月一五目の日本の敗北は朝鮮民衆にとっては解放であり、原野谷川から桜木にかけての朝鮮人の飯場に「万歳・万歳(マンセイ)」の声があがった(『金嬉老とオモニ』二三四頁)。
戦後直後、この地域に残った人々は牛の屠殺や「密造酒」をつくった。トンネルの入口は松丸太で固定されていたが、戦後、人々が自由にはずして利用したため、今では支柱は残っていない。本郷のトンネル入口付近に丸太が一本倒れたままになっていた。現存の飯場としては桜木地区の宇洞飯場がある。
戦後、小笠農学校は原谷の中島飛行機工場の資材を校舎へと転用した。小笠郡下の学校は戦時下、中島飛行機工場として使用されていたところが多く、小笠農学校もそのひとつだった。資材転用はこれによるものと思われる。原谷や桜木の中学の校舎も地上工場の資材を利用した。
一九七九年、本郷の共同墓地に「無縁供養塔」が日韓協会掛川支部によって建てられた。碑文には「この異国の地に眠る御霊よ 日韓友好の絆となりて鎮まり給え」とある。この碑は、地下工場建設工事以降の無縁者を鎮魂するものである。
朝鮮人の移動状況を確認する手がかりを与えてくれるのが、原谷・桜木の学校に残されている学籍簿である。移動の状況・人員などを明確にすることは今後の課題である。その作業は地域の歴史と植民地支配の責任をあきらかにし、アジアの和解と共同につながるものでもある。
朝鮮人の証言
つぎに原谷へと動員された人々の聞き取りや記録をまとめてみよう。それによって、就労経過・労働状況・生活状態を考えていきたい。
権美嬌さんはいう。
「わたしたち(金鐘錫・朴得淑・申宗九ほか)が清水から掛川に来たのは、清水が空襲にあった直後だった。朝鮮人一〇世帯ほどが軍のトラックで運ばれて掛川の原谷へと来た。清水地区の軍需工場への空襲によって手や首を失った人などの悲惨な状況をあとにしての出発だった。軍命令・徴用による工場建設であり、軍・工場の発行する証明書を持っていないと移動ができなかった。夫の申宗九は清水で『募集』で連行されてきた同胞の世話人をしていた。清水へと連行された人々は中国からの木材や食料を倉庫に運搬する仕事をした。寮もつくられていた。
飯場は桜木・幡鎌・本郷などに作られた。清水から最初に到着したのは幡鎌公会堂だった。動員された人々は○○班という形で編成された。夫は古屋組の下で働いた。わたしは西山の農家の別室を借り、子どもを育てながら生活をした。原谷へは、清水・名古屋・大阪などから動員されてきた。工事現場へと労働者はトラックで移送されて仕事をした。飯場へと配給がきたが、それでは足りず、長襦袢や帯を周辺の農家へ持っていき、玉子・砂糖などと交換した。解放後、原谷の同胞たちは、名古屋・大阪・韓国へと帰った。夫は現場の親方だった。戦後、工場側と交渉しての給与をとり労働者に配分したが自分の取り分はなかったようだ。泥棒に入られたこともあった。トンネル内の松丸太・矢板は燃料用などに使われた(原谷にて、一九九〇年談)。
鄭嘉五さん(一九一九年生、釜山出身)はいう。
長兄は静岡で自動車関連の工場を設けていた。父が亡くなり、母は兄を頼って静岡に行ったため、一九三二年、一四歳のときに長兄と母を追って静岡に来た。しかし兄は病に倒れて亡くなったため奉公に出た。結婚して東京に少し居たが清水に来た。夫は古物や人夫出しをして生計を立てた。一九四五年になると強制疎開で清水の家は取り壊され、また、激しい空襲をうけた。同胞が人夫頭の仕事を斡旋し、掛川に来ることになった。四人の子どもを連れて幡鎌の公会堂に越した。八・一五解放の喜びもつかの間、失業のなか、食糧確保に奔走した。どんなことが起きても生き抜かなければならないと思い生きてきた」(静岡市、『朝鮮人強制連行調査の記録中部東海編』二八二頁)。
朴在王完さん(一九二五年生、全羅南道麗水出身)はいう。
「私が日本にきたのは一九三二年、八歳のときだった。父が先に渡日し、のちに家族を呼んだ。村へやってきた募集人は『日本へいけばたくさん金が入る。』『毎晩風呂に入れる』『白い飯が食える』とうまいことを言っていた。来日してみれば甘言に反して重労働と低賃金だった。兵庫県御影の住吉の鉄工所で働くようになった。私以外は日本人だった。その鉄工所は川西航空機の建築現場にかかわっていた。
徴用検査があったが、一度めはなんとか徴用から逃れた。二度めは『結婚するから』と逃れた。その時係官が『この次はまちがいなく南方へ連れていくことになるからそのつもりでいろ』と言った。すでに結婚は親の意志ですすんでいた。協和会役員とともに兵庫の御影警察署に行った。そこで渡航証明をとり帰国しようとしたが、戦時下、警察は帰らせようとしなかった。結局、朝鮮から一八歳の嫁がやってくることになった。
徴用から逃れるために、中島飛行機浜松工場の建設現場にむかった。一九四四年ころのことだった。そこで工場建設に従事した。トロッコで土を運び、掘るという基礎工事に従事していたのは同胞ばかりだった。中島飛行機はバラックを建てて居住させていた。飯場は六棟ほどあり、一棟に五〜六世帯が入っていた。しかし、建設した工場は東南海地震で倒壊し、空襲も増えた。浜松工場の建設工事で働いていた同胞の多くは地下工場建設のために宇都宮方面へと移動した。
私たち一一人の家族は掛川の地下工場の建設現場にむかった。引越の荷物の運搬をしたのは陸軍の軍用車両だった。大阪飯場に入った。現地で工事を請負っていたのは遊家地区が清水組、本郷地区は古屋組だった。食糧には不自由した。浜松では虫が入ってはいたが、米飯を食べることができた。しかし、原谷では配給だけの生活となり、食糧不足であり、家族も多いために生活は大変だった。
浜松にいたとき、徴兵検査をうけていたから、一九四五年、赤紙(徴兵令状)がきた。赤紙には名古屋の連隊への入隊月日が記入されていなかったため、役場に問いあわせると『スパイが多いから日付は入れない、仕度をして待っていろ』という。酒の用意をと、ドブロクを作り待ったが、結局、出頭通知がこないうちに八・一五をむかえた。
原谷では夜明けとともに朝早く起こされ、突貫工事がすすめられた。労働者は全て朝鮮人だった。飯場を作ったり、幡鎌の公会堂に入ったり、牛小屋を片つけて入ったり、自分でバラックを作ったりして暮らしていた。炭鉱から逃亡してきた人もいた。遊家の池の周辺に五〜六個のトンネルができた。内部を縦横に連結する予定だったが、途中で終わった。遊家地区の岩盤は固くダイナマイトを使った。穴を四ケ所あけて発破し、六尺四方に掘りすすんでいった。岩盤がもろい所には支柱を入れた。付近に木造の工場が建てられ、旋盤・機械が搬入されていたが、これらは使われないままだった。戦後、労働者と家族は各地へと散った。私たちも帰国する仕度をしていたが、帰国船が出港せず、帰国することができなくなり、原谷に住むことになった。朝鮮人の歴史をきちんと書き残すことが必要だと考える」(原谷にて、一九九一年談)。
金桂房さん(一九一五年生、全羅南道高興郡出身)はいう。
「一九四一年ころ『賃金がいい』という理由で日本に渡った。富山のトンネル工事で発破をかける仕事をし、そのときに右足に大怪我をした。危険な仕事、汚い仕事、力仕事はほとんど朝鮮人だった。名古屋の東部ガスやなどで働いたが、名古屋空襲で焼け出された。一九四五年の三月ころ、友人をたより、ひとりで原谷へきた。当時は単身、『ここなら空襲がないから安心できる』と思った。飯場は古屋組に入った。飯場頭のもとで暮らしたが、親方は食糧を闇で売ってしまうのか、悪いものばかり食べさせられた。食べたのはさつまいも・じゃがいも・麦・豆カス・ご飯とさつまいもの種の混合物などだった。米は少なく、生活に困った。仕事は一メートルいくらという請負制だった。三〜五人でグループを組んで仕事を請け負った。原谷各地に飯場があり、四ケ所ほどあった。『防空壕を掘れ』と命令され、国民服にゲートルという姿で仕事をした。感電死した人がいた。無学だったけれど、戦後、命がけの仕事をし、やっと土地を買い、生活をしてきた」(原谷にて、一九九〇年談と一九九五年柳根雄さんの聞き取り報告から)。
李竜石さん(一九一五年生・慶尚南道山清郡出身)はいう。
「二四歳のとき渡日した。写真家になりたかったが、朝鮮人と蔑まれて夢は壊れ、土木の日当稼ぎで暮らした。愛知県の保見での陶土掘り、愛知時計の拡張工事をした。親方になって諏訪鉄山の鉄道線工事、静岡の三菱工場建設をした。原谷へ移って古屋組の下で働き、掛川城公園の北側、学校の横で防空壕を掘る仕事をさせられた。解放後、朝鮮人連盟ができ、初代の委員長は申宗九がなり、つぎの委員長になった。朝起きると同胞が来て警察や裁判所との交渉を頼んだ。学校を利用して朝鮮語を教えた。朝鮮人として差別されず人間として生きていってほしい」(静岡市にて、一九九六年談)。
朴さんはいう。「私は横浜の軍需工場で働いていたのですが、空襲が激しくなって工場が千葉へ疎開することになり、逃げるように掛川へ来た。妻の実家のおやじさんが古屋組の下で飯場をしていたから、そこを頼って来た。私は時たま現場に行った。一つの飯場に三〇〜四〇人ほど寝泊まりしていた。」(『地下工場と朝鮮人強制連行』一四一頁以下・要約)
趙英済さんはいう。
「父(趙順祚)は慶尚南道出身、渡日後、大阪や名古屋で働き、浜松の中島飛行機工場の建設現場で働いた。浜松市中野町に同胞の集落があった。東南海地震のために完成した工場は倒壊した。リヤカーに行李を乗せて移動したようだ。父は飯場頭として単身の労働者を三〇人ほど使っていた。当時私は五歳だった。戦後、鈴木ストアのところに『朝鮮人連盟』の配給所を同胞たちがつくった。原谷小学校に民族学級が一〜二学級つくられた。当時、二五〇〜三〇〇世帯が居住していたと思う。民族学級への弾圧があって子どもたちは日本人学級へ移った」(掛川市、一九九〇年談)。
趙順祚さん(一九一一年生)の証言によれば、原谷で使う木材を輸送するために山梨県甲府に行き駅へと運んだ。それから人を一二〜三人使って突貫工事で壕を掘った。栄養失調で体がぼろぼろになって、医者に行って注射を打ってもらったという(掛川市報告書五六頁)。
朴希圭さん(一九一一年生、慶尚南道統営郡出身)の証言をまとめてみよう。一九三四年、池田組に「募集」され、山口県の徳山曹達で荷役仕事をした。一九四三年に「徴用」されて高知県中村市の海軍飛行場工事現場へと連行された。発破のときに飛散した石で右足の大怪我をした。この怪我が原因でのちに膝から下を切断した。中村から小笠郡の中島飛行機の地下壕の建設現場に送られた。連日が厳しい重労働だった(長崎市、『原爆と朝鮮人』五 二〇五頁〜、『地図にないアリラン峠』九七頁〜)。
鄭明秀さん(一九一六年生、全羅北道長水郡出身)の連行経過をみてみよう。
鄭さんは二度連行された。最初は一九四一年の一二月、結婚二日目のことだった。村の青年一二〇人あまりが連行された。北海道の三井砂川炭鉱に送られ、タコ部屋に入れられた。半年後、坑内での落盤事故により後頭部陥没や腕や足の骨折などの重傷をうける。頭蓋骨の傷はピンポン玉ほどの穴になって今も残っている。日本への憎悪と望郷の念で命をつないできた。帰国するが、一九四三年に再び徴用された。不自由な体であるのに宮崎県の飛行場建設現場へ連行された。周囲は鉄条網で囲まれていた。その後、春日井の飛行場、豊川海軍工廠、半田の軍需工場、新所原の軍工事の現場を経て、一九四五年に原谷へと連行された。掛川の土は砂のようだった。日本の敗戦を知り、「天皇が手をあげた。これで助かった」と監督らが待ってきた樽酒を飲んで踊った。戦後は豊橋から名古屋に行き、庄内川の堤防工事を請け負った。(名古屋にて、一九九六年談、『朝鮮新報』一九九一年二月二一日付記事)。
『基地設営戦の全貌』には横須賀海軍施設部の第五〇一九設営隊が一九四五年七月一日に編成され、掛川の航空機工場の防護施設建設に派遣されたという記事がある。当時海軍設営隊には朝鮮人が軍属の形で徴用されていることが多い。この五〇一九設営隊にも朝鮮人があてられていた可能性は高い。
朝鮮人は地下工場建設にともなう動員により、中島飛行機浜松工場の建設現場から移動させられたり、海軍の建設現場から転送されたり、軍需関連の建設現場から来たり、連行先から逃亡し同胞飯場に隠れて転々とするなかで集められたり、飯場頭として何人かを率いて仕事を請け負うなかで移動したりと、さまざまな形で集められている。朝鮮半島から運行された人もこのなかにはいたという。
地下工場が完成するまえに動員された人々は八・一五解放をむかえた。地下工場のトンネル内で暗闇の労働を強いられるなか、こんなことをさせるようでは日本が負ける日ははやい、われわれが解放される日は近い、という想いがこみあげ、解放への希望が光を放っていたはずだ。
戦後、原谷には朝鮮人連盟が結成され、原谷の小学校の校舎で民族教育がおこなわれた。解放の喜びとともに生活のために職をもとめての苦闘がはじまった。
一九四五年一二月には勝呂組の労務課職員が朝鮮人を博多まで引率し、正規の船に乗せている(小里竹二証言・掛川市報告書八六頁)。
柳根雄さんはいう。
「一九四五年五月ころ清水から原谷にきた。六歳のときだった。父は人夫頭の仕事をし、飯場で若い労務者と同居し、朝早くからツルハシとスコップを担いで、一・五キロほど離れた穴掘りの現場に向かった。夕飯がすめば、裸電球のついた薄暗い部屋で疲れた体を横たえていた。五〇年経った今も、手掘りの跡が残っている。戦争が終わると、われ先に祖国への帰還を希望する者、または他の土地に移転していく者……というなかで、原谷には教十世帯が残った。帰国の準備をして待機していたがはかどらなかった。戦後の混乱期のことであり、同胞にまともな仕事があるはずもなく、そうこうしているうちに朝鮮情勢が緊迫し、祖国への帰国もままならず断念してしまった。私は日本生まれの在日二世、落地生根、生れ落ちた地にしっかり根を生やして生きていきたい。自己に正直で忠実に生きることと朝鮮人らしく生きることとは在日にとって同意語であるし、そのことがより人間らしく生きることになると思う」(静岡市在住、一九九八年手記)。
愛知県の半田製作所への一〇〇〇人の連行についてはあきらかになっているが、浜松の工場労働への動員については不明である。地下工場についてみれば、中島飛行機は秋田・福島・群馬・埼玉・東京・石川・愛知・静岡などに十五ヵ所をこえる地下工場を建設している。これらの中島飛行機関連の地下工場建設現場に動員された朝鮮人は仮に一カ所を七〇〇人としても一万人をこえる数になる。
軍によって地下工場建設のために原谷へと動員された朝鮮人労働者は二〇〇〇から三OOO人といわれている。軍によって移送されたり、飯場を頼って流入したり、半強制的に募集されたり、朝鮮半島から強制連行されたりと、さまざまな形で集められたようである。
原谷には地下工場のトンネルが四〇本ほど残っている。遊家の南側のトンネルはゴルフ場建設で破壊されている。この原谷地下工場についてもさらに調査が必要だ。学籍簿の調査をはじめ関連史料の公開や保存にむけてのとりくみがもとめられる。建設を請け負った清水建設にも史料が残されているであろう。
森町疎開工場
周智郡森町向天方には中島飛行機関連の疎開工場に建設がすすめられた。当時、マルモ工場と呼ばれていた。地下工場は天竜浜名湖線森駅から北東の天方城趾・城ケ平公園にむかう途中の山の中腹部に建設されようとした。『浜松戦災史史料綴』には「浜松市内に於ける疎開工場事業場」の一覧があり、そこには浜松市三島町にあった中島航空金属天竜製作所が向天方に疎開をすすめたとある。マルモ工場はこの中島航空金属工場の移転工場であろう。
地域住民の望月鉄さん(一九二六年生)はいう。工場が一棟建設され、さらに建設していこうとしたが、敗戦となり途中で終わった。工場のなかには資材が置かれていた。建設のために朝鮮人の飯場が二ケ所つくられた。ひとつはマルモ工場近く、もうひとつは天森橋の近くに建てられた。それぞれの飯場に一〇世帯ほど居住し、家族がいた。天森橋近くの飯場は改築され、現在も残っている(一九九一年談)。
ここでも建設に朝鮮人が動員されていたことがわかる。
飯場跡を訪ねてみた。そこに住む朴基植さん(一九一八年生)はつぎのようにいう。
「私が慶尚北道から日本へきたのは一九三〇年代の中ごろだった。父の朴敬玉は朝鮮で金鉱の採掘をしていたが、労働者を三〇人ほど連れて広島へと移住した。父とともに私たちも移った。私が生まれたのは一九一八年。父は飯場頭として仕事を請け負い、栃木・群馬・埼玉・川崎というぐあいに各地を移勤した。埼玉では桶川の飛行場建設、川崎では、当時軍需工場だった日本鋼管で、同胞の労働者を六〇人ほど請け負って供出していた。私は父を手伝いトラックの運転をした。弟は川崎で死んだ。日本鋼管では連合軍捕虜が働かされていた。小柄な日本人憲兵が大柄な捕虜を連行してきた。われわれが捕虜に食糧をわけてやったこともあった。きんぴらごぼうをやったら『木の根を与えた』と怒ったこともある。
空襲で川崎市から焼け出されたため一家で森町に来た。来たのは戦後すぐのこと、マルモ工場にはかかわっていない。
一九四一年末ころ、太平洋戦争が始まってすぐのことだった。私は郷里に結婚するために帰っていた。いとこの朴在萬とタバコ畑で葉を採って仕事をしていると朝鮮巡査と二人の日本人憲兵がやってきて在萬と私を連行していった。憲兵は銃剣をつきつけた。拒否して暴れることをおさえるためだろう。その後、在萬はどこへ連行されたのかもわからず、消息不明である。また在萬の妻も娘も「挺身隊」として連行された。どこへ連行されたのか、どこで死んだのかもわからず、遺骨も帰ってこない。今思い出しても腹がたつ。私も警察に連れていかれ、憲兵に『なぜおまえはここにいるのか』と牛の性器で殴られ、暴行をうけた。私は釈放されたが、在萬は連行された
ままだ。いとこの朴六萬も連行されたまま、今もって行方不明だ。
戦後、朝鮮人連盟が結成されると活動に加わった。森町には三〇人くらいいたが、青年隊長になったりした。
日本人自らが強制連行されたとし、自分のこととして対応していれば、胸のつかえはおりる。しかし、日本政府は本当のことをいっていない。『遺憾』とか『痛恨』の表現しかない。天皇が素直に謝れば、その度量は尊敬されるのに。私たちに対する優越感は変わらない。差別感情がすぐになくなるとは思わないが、願いをいえば、差別感情がなくなるということ、韓国人の社会的地位の上昇、正しく歴史を教えていくということ、だ。日本と韓国は引っ越すことができない。だからどうすれば仲良く暮らしていけるのかを考えていくしかない。」(森町、一九九一年談)。
一九四四年年末から軍需工場の疎開・地下工場建設へと動員された朝鮮人は、軍監視下で就労し、民族性を否定されて「皇民」としての生を強要され、トンネル掘削等最も危険な現場を指定され、侵略戦争に加担する軍需労働の一翼を担わされた。それは「強制労働」であり、天皇制国家による疎外と搾取と差別を示すものであった。
掛川の中島飛行機原谷地下工場の項で記した鄭さんの話を聞いたのは一九九六年一月のことだった。
鄭さんは七十九歳の高齢となり、自宅で横になったままの状態を強いられていた。「結婚してすぐに連行され、身体を壊した。一九九三年にはジュネーブで強制連行の体験を証言し、世界の代表が話を聞いた。女性たちは涙を流し、私の体をいたわったが、日本政府は頭を下げて謝罪をしなし、一銭もよこさない。人間だったら恥ずかしいはずだ。国際社会で信用を失えば、若い世代が不幸になる。日本国民のことを考えるべきだ。早く解決すべきだ。」「落盤事故のために頭には指が入るほどの穴が残り、右足は動かず、左足もだめになり、今はもう両足が動かない。外にも出れない、死ねもしない、本当に悲しい。こんな体にさせておいて、こんなことがあっていいのか。それが人間のすることか・・・」と鄭さんは、やり場のない怒りと悲しみのなかで語った。鄭さんはこの年に亡くなった。
鄭さんが住んでいた所は名古屋の庄内川の堤防に沿った朝鮮人集落だった。その場所は市販の地図には掲載されてはいなかった。過去の清算なき日本の経済成長の歴史に対抗し、語られなかった歴史をその存在で示すかのように、黒くコールタールで塗られたトタン板の一〇数軒の家々が細い道を挟んで並んでいた。そのなかの一室で鄭さんの話を聞きながら、歴史を記すことや調査の意味を考えさせられた。今を生きる人々が連行された人々の恨が解き放たれていく関係を未来に向けて創っていくしかない。
日本政府は、強制連行による痛みや苦しみを負い、その想いをいまも持ち続けている人々に対してその侵略と植民地支配を謝罪し、共に生きていくための条件を示す姿勢を示しえていない。
いまも日本帝国主義による植民地支配責任・戦争責任は未処理のままである。植民地主義は継続し、在日朝鮮人にへの制度的差別がある。諸権利は確立されず、本名で自らを表現することさえできない事例がおおい。天皇制を存続させ、旧植民地地域民衆に対する戦争責任・戦後処理をあいまいにしてきたこと、その清算は、早急になされなければならない。
参考文献
兵庫朝鮮関係研究会編『地下工場と朝鮮人強制連行』明石書店 一九九〇年
遠州機械金属工業発展史編集委員会『遠州機械金属工業発展史』浜松商工会議所 一九七一年
斎藤勉『地下秘密工場』のんぶる舎 一九九〇年
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高橋泰隆『中島飛行機の研究』日本経済評論社 一九八八年
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山田昭次「日立鉱山朝鮮人強制連行の記録」『在日朝鮮人史研究』七 一九八〇年
埼玉県立滑川高校郷土部『比企』六 一九八七年
静岡県退職婦人教師の会小笠支部『緋のもんぺ』一九九一年
山本リエ『金嬉老とオモニ』創樹社 一九八二年
『原爆と朝鮮人』五 長崎・在日朝鮮人の人権を守る会 一九九一年
林えいだい『地図にないアリラン峠』明石書店 一九九四年
佐用泰司・森茂『基地設営戦の全貌』鹿島建設技術研究所出版部 一九五三年
『掛川市における戦時下の地下軍需工場の建設と朝鮮人の労働に関する調査報告書』掛川市 一九九七年
「浜松市内に於ける疎開工場事業場」『浜松戦災史史料綴』一九四六年 浜松市立図書館蔵
小池善之「消える地下工場跡」『静岡県近代史研究会会報』六五 一九八四年二月
田林圭太「一五年戦争をめぐる国民意識 中島飛行機原谷地下工場を事例として」『静岡県近代史研究』二六 二〇〇〇年
『大成建設社史』一九六三年
朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録 中部東海編』柏書房 一九九七年
(初出「戦時下の地下工場・飛行場建設と朝鮮労働者動員上」『静岡県近代史研究』一八 一九九二年)