軍飛行場建設
県下各地に建設された軍飛行場工事においても多くの朝鮮人が動員された。ここでは、海軍の飛行場として、大井航空隊基地と地下施設・第二基地、藤枝基地とへの字山弾薬庫建設についてみ、陸軍の飛行場として、袖浦飛行場、富士田子之浦飛行場、浜松三方原飛行場拡張工事の順にみていきたい。
一 牧之原・大井航空隊基地と地下施設工事
一九四〇年三月、海軍は牧之原への飛行場の建設を住民に通告した。飛行場の建設地は牧之原台地の布引原であり、榛原郡と小笠郡の境界にあたる。海軍航空隊を一四隊から七五隊とする第四次五ケ年計画という軍拡政策のもとでの建設計画だった。地域住民の反対の声は「天皇の命令」を楯に一蹴された。建設工事は海軍設営隊が中心になって一九四〇年五月から始まり、徴用者・受刑者・地域住民・朝鮮人が動員された。この基地では海軍航空隊の偵察員養成のための教育がおこなわれた。朝鮮人は大井航空隊基地の水源池建設もおこなったが、労働者は金谷町の民家に分宿したという。
大井航空隊については、松本芳徳『大井海軍航空隊』、朝日新聞静岡支局『静岡の戦争』、「大井航空隊の歴史」(静岡県立金谷高校卒業研究集『私たちの研究』一九八六年所収)、『大井海軍航空隊』県立金谷高校郷土史研究部、諸田平八「大掴みの大井空」(『八州を翔ぶ』)、桜井儀兵衛「史実と目撃者」(『はいばら』四)などに記されている。
日本への空襲が激しくなると、一九四五年二月には大井航空隊の地下施設の掘削が始まった。地下要塞化がすすめられ、中央に地下戦闘指揮所をおき、周囲の山の中腹を、東は三栗原、西は沢水加、北は大沢原の三方面から掘りすすみ、中央に直結させようとした。地下要塞につづき、五月ころには小笠郡和田岡村吉岡に第二基地の建設も始められた。このころ大井航空隊は飛行訓練の教育隊から「特攻作戦隊」へと性格をかえていった。地下要塞化や第二基地の建設には朝鮮人も動員されていく。
大井航空隊では、兵器と工作機械を分散するための地下壕と飛行機を隠すための掩体壕が飛行場の外周に建設された。飛行機の分散、囮機の偽装、機銃陣地の構築とともに地下施設がつくられ、地下の横穴壕へは補強材が組み込まれ、全隊員の居住室、簡易手榴弾製造用の地下工作室などの整備がおこなわれた。空襲の激化により大井航空隊では洞窟作業・分散疎開作業が日課となり、飛行訓練はできなくなっていった。東西北から掘削されたトンネルは兵土用住居・工作機械室・食糧庫・燃料庫・弾薬庫などに利用されたが、中央へとトンネルが通じる前に敗戦となった。
工事に従事した労働者の飯場が小笠郡菊川町沢木加・畑無にあった。工事を請負ったのは佐藤工業であり、北側に日本人飯場、南側に朝鮮人飯場が建てられた。家族連れの朝鮮人の子どもが河城国民学校に一五人ほど転入した。朝鮮人は特高内鮮係の監視をうけていた。河城国民学校の校舎の一部が朝鮮人の宿舎とされた。朝鮮人として差別されたのか、一九四四年度、掛川中学を受験した生徒「青松竹雄」は優秀だったが不合格にされた(松本芳徳『大井海軍航空隊』三七〜八頁)。
地域での聞き取りをまとめてみよう。
「祖父は東法工業という土木業の親方だった。沢水加に飯場が建てられ、日本人棟が五棟、朝鮮人棟は三棟くらいあった。一棟に三組ほどが入り、一組が一〇〜二〇人くらいだったから、一棟に五〇〜六〇人が寝起きしていた。棟が立てられたのは村有の林業会社の土地だった。私は当時高等科の生徒で、飯場に住んでいた。近くに分散兵舎が三つあり、一つは下士官用だった」
(山内さん宅にて、一九九〇年談)
「当時陸軍に勤務していたが、海軍の兵士とともに穴を掘った。布引原(大沢原)に四ケ所掘った。弾薬庫だった」(村井さん宅にて、一九九〇年談)
「三栗原に大きな壕を掘った。両サイドに棚がたくさんあり、ひとつは泊るところ、ひとつはガソリンが貯蔵された」(「小笠榛原の戦争」県立小笠農業高校社会科編)。
「同級生に『花田』『金田』『綾原』という朝鮮の子どもがくるようになった。製材所のすぐ南側の谷に朝鮮人の飯場がひとつあった、飯場はいくつかあった。飛行場建設のときには受刑者が使われ、顔をかくす帽子をかぶせられ、ベルトを紐でつながれ歩いていた。工事を請け負った会社は佐藤組・浅沼組だったと思う」(製材所にて、一九九〇年談)。
大井航空隊基地の東側に接続して海軍第二航空廠がおかれていた。この航空廠も大沢原に地下壕を掘削した。一九四四年三月から在隊した宇都木末男さんはいう。「空襲が激しくなり、本土決戦にそなえて一九四五年はじめころから大沢原で、第二航空廠の資材を隠すために地下壕を掘った。掘削がおわると機材を搬入した。地下壕は予科練の兵隊が掘った。朝鮮人は飛行場建設の頃はいたが、地下壕建設の時には二〜三残っていただけだった」(一九九〇年談)。
山腹を三方面から掘削して作られていった地下施設は現在もみていくことができる。
沢水加地区の場合、現・無線中継アンテナから道路に測って南に一○○メートルほど行き、西側の山の斜面を降りていくと、いくつもの壕がある。入り口が埋まり、浸水しているところもある。岩質はもろく、上部が崩壊している場所もある。遺物としては木片がある。ここから東へむかって本部地下指揮所へと連絡トンネルが掘られる予定だった。一部は地震観測所として利用されている。
大沢原の壕をみてみよう。旧大井航空隊建屋を利用した農林水産省の種苗センター農場の裏側の谷を降りていくと、地下壕がある。谷のなかにあり、岩質はもろいものの、保存状態はよい。
トンネル内はほぼ原型をとどめ、縦横に連結された姿をとどめている。掘削途中と思われるところ、固定用と思われる穴、トロッコの軌道跡、枕木、ツルハシの跡、釘、靴、配電部品などが残されていた(一九九〇年一二月調査「戦時下地下施設の調査」(『農魂』二五)。その後、一九九二年一二月、「静岡県の朝鮮人強制連行を記録する会」、一九九三年三月「小笠社会科サークル」が調査をおこなった。
牧之原現地・富土屋食堂の裏には地下要塞の中心となった地下司令室跡があり、頑丈なコンクリート製である。
大井航空隊の地下施設は数ケ所に分散していた。この地下施設掘削にどのような形で朝鮮人が動員されていったのかについては不明である。掘削現場には朝鮮人の動員があったとみられるが、詳細については今後の調査課題である。
大井航空隊の地下施設の状況については、「日本兵器工業会資料・旧陸軍施設関係綴」(防衛庁防衛研究所蔵)に記載されている。この史料には県内分として大井航空隊、藤枝基地、三保航空隊などの記載がある。大井航空隊についてみてみれば地下施設には、送信所(一二一八立米)、工作場、自力発電所、居住施設、治療所、飛行機格納庫などがあった。大規模な地下施設が建設されていったことがわかる。なお三保航空隊についてみておくと、庵原村に居住施設(二〇一六立米)、藤枝基地では青島町に魚雷調整格納庫(コンクリート製、一一四七六立米)、火工兵器庫(九七五立米)をつくっている。
小笠郡和田岡村吉岡の大井航空隊第二基地の地下壕掘削に朝鮮人が動員されている。
当時掛川中学の一・二年生の一部が第二基地の偽装工作に動員されたが、動員された松本芳徳さんはいう。「トンネルの掘削は朝鮮人がおこなった。昼食のとき、八月で外は暑く、涼しい穴のなかで昼食を食べた。そこで朝鮮人と話をしたが、そのあと必ず私服(憲兵か特高)が来て、『いま何を話した』と聞いた。だから朝鮮人たちは言葉を選んで話をしたと思うが、日本は近々敗けるという思いにとらわれた。印象に残っているのは、友人がコックリさんをやり出し、紙に『勝』『負』と書いて始めたところ、迷わず『敗』にハシをさした。皆、当然のような顔をしていたということだ」(菊川、松本芳徳さんの手記、一九九〇年)。
この吉岡での工事が大井航空隊の基地であることを動員された人々は知らなかった。今にも抜かれようとする茶木のそばで、涙を流し何度も手をあわせ座って懇願する農民の気持をふみにじり、茶畑は強制接収された。現地に一本のトンネルが残されている、中島飛行機原谷地下工場の工事現場の人々もこの工事に動員されたのかもしれない。
戦争末期の一九四五年六月、大井航空隊の工事には海軍第五〇一三設営隊が動員されている(『海軍施設系技術官の記録』六八二頁)。この設営隊に朝鮮人が組み込まれていた可能性もある。
二 藤枝飛行場とへの字山弾薬庫
つぎに藤枝飛行場建設工事とへの字山弾薬庫建設における朝鮮人動員についてみていこう。
基地の概略については、静岡県歴史教育者協議会『静浜基地の歴史と基地闘争』、『大井川町史下』、枝村三郎「大井川町の飛行場基地と地域住民」(『静岡県近代史研究』一七)がある。また、李一満「八丈島と強制連行」には連行された朝鮮人の証言が収録されている(『海外ネット関係者招請ワークショップ報告集』韓国日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会二〇〇九年所収)。
海軍が飛行場建設にむけて用地の接収を志太郡静浜村(旧大井川町、現焼津市)に通告したのは、一九四三年一一月のことだった。基地設置通知から短期間で土地接収がおこなわれ、一九四四年一月には建設工事が開始され、海軍施設部の管理のもと、労働者が徴用された。静浜村は一七三戸が移転を強いられ、約二〇〇ヘクタールが海軍飛行場へと姿を変えた。海軍は、軍属・徴用工・少年義勇隊・動員学徒・周辺住民を動員するが、海軍施設部や菅原組の下で数百人の朝鮮人が徴用された。
朝鮮人については「今も悲惨としか言いようのないのは、朝鮮の青少年の姿である。ぼろ布のようなパンツ一枚のはだか姿で、よろよろと丸太をかつがせられ、どなられて働かされている様は、地獄のようだった。」(『静浜基地の歴史と基地闘争』二八頁)と記されている。
横須賀海軍施設部部隊には多くの朝鮮人か組み込まれていた。たとえば第一二二部隊は宮城県船岡で第一火薬廠工事に従事しているが、この部隊には二〇〇人の朝鮮人がいた。藤枝飛行場建設工事には横須賀海軍施設部第一二四部隊が動員されている(『海軍施設系技術官の記録』四六二頁、六七九頁)。この部隊にも朝鮮人が組み込まれていた可能性が高い。また請け負った土建会社も多くの朝鮮人を配下にしていた。
大井川・藤枝の飛行場工事現場に強制連行された朝鮮人がいたことは、李一満「八丈島と強制連行」所収の証言で明らかになった。
それによれば、蘇さん(全州市在住)は一九四三年一〇月に千島の幌筵島に連行され、飛行場建設工事をさせられた。その後、菅原組の下で宮城県の多賀城での工事を経て、一九四四年後半に八丈島に連行され、一九四五年には藤枝の飛行場建設現場に転送された。朴さん(全州市在住)は一九四五年二月に令状によって連行され、下関から汽車に乗せられ静岡の飛行場の現場に送られた。その際、空襲を受けたため防空壕に避難したが、朝鮮服であり、追い出された。空襲では同胞が犠牲になった。一〇日間ほどそこに待機させられ、二〇〇人が選ばれ、八丈島に送られた。朴さんの連行現場も藤枝の飛行場工事現場とみられる。
一九四四年末までに第一滑走路が完成した。この滑走路は現在、航空自衛隊静浜基地が利用している。一九四四年末から第二滑走路の建設がおこなわれていくが、完成をまたずに日本は敗北した。この藤枝飛行場はこの基地は海軍戦闘機隊の第三航空艦隊第一三一航空隊に属し、関東空部隊第一六攻撃隊として実戦に加わった。そのための戦闘訓練や教育もおこなわれた。一九四五年五月、基地の主力部隊が九州へと移動すると、この基地は搭乗員養成の役割をもつことになる。
一九四五年一月ころから、志太郡青島町瀬戸新屋のへの字山に地下弾薬庫の建設が始まった。請け負ったのは佐藤工業であり、そこには徴用された朝鮮人もいた。また朝鮮人の「慰安婦」も連行された。
ここで基地建設のために一二三戸が強制移転した藤守地区でのききとりをまとめておこう。
「朝鮮人の飯場は家の前の道路の南側につくられた。飛行場建設にともない住宅地・田畑は強制接収された。軍が測量し『明日から引っ越してよい』というやり方だった。田も借りられ、そこに飯場が建った。移転費として八○○円くらいが支払われたと思う。また補修材料費も与えられたが、釘の費用にもみたなかった。
二反の田の全面に朝鮮人の飯場が建てられた。他のところにも飯場はあったが、ここに住んだ人々の仕事は飛行場の排水路の掘削工事だった。浜からトロッコで砂利を運ぶための軌道もつくられた。かれらは飛行場の地固めもおこなった。現場にはあちこちに高い所があったから、そこを削り、飛行場の盛土として使った。浜から砂利をトロッコで滑走路へと運んだ。第二滑走路の建設は砂利を運んだところで敗戦となり、中止された。排水路の幅は五メートルほどあり、その上手は二メートルほどの高さだった。当時作られたものはほとんど残っていないが、幼稚園の近くに排水管跡がある。
食糧難であり、年末のことだったが、大根を干しておくと何者かにとられた。かれらが食糧にすることができたのは、どじょうやツボ、クソガニとよばれていたカニだった。金を出しあって焼津の港の方から赤牛を買ってきて料理したようだ。戦後、飯場跡を開墾すると赤牛の骨がたくさん出た。朝鮮人は「半島の衆」とよばれていた。空襲にあうと動員場所から約一キロメートル先の浜の松原まで逃げていった。隠れる所は他になかったからだ。飯場を目標に爆弾を落とされ、七〜八メートルのすりばち状の穴があいた。風呂も物資もなく紙もない状態だった。大便をするときは小川に張った荒縄で尻をこすり処理する状態だった。
海軍の兵士たちは腹をすかしていた。兵士が変装して米を買いに行ったりする行為が軍に発見されると、兵士は尻を出して全員並べられ、『精神注入棒』で尻を打たれていた。農家の人々は「割り当て動員」で一日五円ほどだったが、軍の土木作業に出た。当時、増産のかけ声が高かった。農家は徴発をうけた。焼津まで肥料用の糞をもらいに出かけた。肥桶のなかに大根・じゃがいもを入れて運び、交換した。私服警官に種芋をみつけられ『どこで買った』と問いつめられた。役場から徴発のために物置の調査にきて、藁の中に隠した食糧を見つけては取りあげて徴発した。在所の物置にまできた。松葉を拾って燃料にするという生活だった」(朝鮮人飯場があった場所の北側の民家・横山さん宅での聞き取り、一九九〇年)。
藤守地区でつぎのような証言もあった。
「空襲があったとき朝鮮人たちが皆逃げていく姿をみた。二月一七日、藤守の田遊びの行われる日の朝、はじめて空襲にあった。その後何日か空襲にあい、戦闘指揮所・旧校舎はふきとばされた。兵舎地域にコンクリート製の防空壕がつくられた。海軍施設部の所に徴用の軍属の宿舎が建てられた。軍属は戦闘帽を被って仕事をしていた。」
「朝鮮人の飯場は各地にあり、『新井』さんという親方がいた。二〇〜三〇人が空家に居住していたが、家族持ちもいた。浜から赤牛を買い、掛矢で屠殺して料理していた。家に薪割りの手伝いに来てもらった」
「『片岡組』というヤクザが労働者を管理していた。子分が親分を自転車に乗せてきた。『佐々木組』という組が入って仕事を請け負っていた。宴会のときメチルアルコール中毒で三〜四人の朝鮮人の労働者が亡くなったという話を聞いた」(以上藤守にて、一九九〇年)
朝鮮人が動員され各地に飯場ができた。食糧難と空襲、暴力的労務管理のなかでの労働だった。飛行場滑走路の地盤の固定、排水路工事が主な仕事であったようだ。軍隊内階級制度下の抑圧と空腹なままの下級兵士、田畑家屋を奪われて移転を強制され徴発される農民、「皇民」として徴用され搾取される朝鮮人、そして転送されてきた性的奴隷としての「慰安婦」、これらが飛行場建設地の風景を構成していた。このなかで、朝鮮人「慰安婦」たちは「軍備品」としてあつかわれ、人としてみなされず、収奪されつくされたとみられる。かの女たちの状況とその後については明らかではない。
藤枝基地の建設が通告される前年の一九四二年、在日朝鮮人に対し海軍直轄事業場での土木工事のために、軍属としての徴用がはじめられている。
一九四二年九月二三日付で厚生省生活局長・内務省警保局長が各県知事に出したものに「内地在住朝鮮人徴用二伴フ協和会ノ指導ニ関スル件」(内務省警保課『朝鮮人関係書類』)がある。それに付された「半島人各府県別割当人員表(九月二二日徴用命令)」をみてみよう。これは各県の朝鮮人を、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各海軍建築部関係事業場へと割り当てる表である。静岡県へは一〇〇人動員命令が出されている。行き先は横須賀海軍建築部となっている。
このように徴用の形で、つぎつぎに在日朝鮮人の動員がおこなわれ、日本・アジア各地へと連行された。藤枝基地建設は海軍直営の事業であり、ここに徴用された在日朝鮮人も多かったと思われる。この徴用に対し、出頭拒否や現場からの逃走という形で連行への抵抗もおこなわれたはずだ。
藤守の太田良元治は一九三〇年代に農本主義の活動に関わっていた。かれは一九四四年一〇月、第一滑走路が完成するころに朝鮮人の『自治修練会』にかかわっている。「半島出身者軍設及国防国策難工事挺進『自治修練会』趣旨規約及会員名簿・附自治修練場規定」(一九四四年一〇月)をみてみよう(藤守、太田良家文書)。
この会の設立趣旨をみると、今回の戦争を「西欧的権勢欲支配文明」に対する「大和自然而治ノ文明戦」としてとらえ、「大和文明」を「信奉」し「萬人大君」に「帰一」してみれば「内鮮ノ協和」・「民族ノ同和」も「無用」であり、「皇土皇民ヘノ自制自戒ト自治アルコトノミ」と訴えている。「私達ハ半島出身者」であり「異郷出身」のため生活風習観念に「誤マリ」があり、また「皇国ノ戦局二皇民トシテ足ラザルヲ自戒」する。だから会を結成し同朋を「糾合」し、「皇民ノ真姿二誓死盡忠報国ノ至念」を築こうというのである。発起人は「半島出身」の「山崎一郎」「大野實」「田中」の三人であり、「賛助」に太田良元治の名がある。
この会の「綱領」は、「皇民」として「純正練磨」を期す、「自戒自制」し「盡忠ノ正義」を「断行」する、「大君ニ帰一」し「天業ヲ翼賛」し「皇家一体ノ親和」と「誓死」を期す、「勤労ヲ以ッテ軍設二協力」を期す、「軍設及国事難工事」を推進する、ということになっている。
「規約」をみれば「半島出身者ノ皇民トシ自治修練ヲ目的」とあり、事業として、「修練場ノ開設」「自治並農本正念二農場ノ開設」「労務協力」「国防並二増産上ノ難工事」推進、「研修会・懇談会」「自治自給組織ノ確立」をおこなうとしている。
「自治修練場規定」をみると、会員は本場に在宿、「軍設労務」に従う。午前四時起床・昇天時就労・午後三時終労・午後九時就寝である。会費は一日一円五〇銭、賃金は一五日毎清算、賃金中二割の貯蓄、一割を互済基金と定めている。そして場長一人・組頭一人・労務係一人・会計一人・炊事主任一人・人事係一人・班長三人の「職分」を定め、「本場在者ハ場長ノ指導ニ組頭ノ統率ニ従フ事トス」とされている。労務賃金は「請負ニヨル働高ニ正分スル」とされる。組頭には発起人の「山崎一郎」が就任することになっている。かれは飯場頭として集団を統率する立場にあったのだろう。
これらの文面から、この会は在地の農本主義を利用しながら、朝鮮人を「皇民」とし、「盡忠報國」の発想のもとに「自治」的に軍基地建設工事へと「労務協力」させ、動員していこうとしたもの、と考えることができる。
この会が実際にどのように活動したのかは不明であるが、「自治修練会」とは、基地建設にむけて強制労働をおこなわせるための飯場であったと思われる。太田良元治は自分の所有地を飯場として提供している。そこが「自治修練場」だったのかもしれない。君主制に「誓死」することは、自治ではなく自滅と隷従にすぎない。朝鮮人は自治の名による隷従を強要されたのだ。
つぎに
志太郡青島町瀬戸新屋(現
地域でのききとりによれば、建設は徴用された朝鮮人によっておこなわれた。佐藤工業がへの字山の東側の田に飯場を建てた。農家の物置を借りて住んだ朝鮮人もいた。仕事は発破をかけ、穴をあけトロッコで土や岩を外へ出すというものであり、手掘りだった。家族持ちの朝鮮人もきていたという。
弾薬庫跡を調査したときには、一四のトンネルが残っていた。内、山の東側の五つのトンネルは連結し、内側はコンクリートで壁が固められ、北側の九つのトンネルは素掘りのままであった。北側は岩質が固いため補強の必要性がなかったとみられる。南側は岩質が弱く、崩壊したものもあるように思われた。
各トンネルの長さは二四メートルから五八メートルである。現存していたトンネルの縦の総長は七一五・五メートルとなり、さらに横結のための横の部分が五〇メートルほどある。崩れたトンネルを考慮するならば、八〇〇メートル以上が掘削されたことになる。
一九八九年七月ころから、藤枝市によって残存弾薬調査とその後の搬出処埋がおこなわれ、一九九〇年三月に終了した。この過程の記録が藤枝市役所にあり、『瀬戸新屋地内爆発物探査業務委託報告書』としてまとめられている。
三 袖浦・明野陸軍飛行学校天竜分教所
天竜川河口の東側、磐田郡袖浦村での陸軍の飛行場建設工事は一九四〇年一一月からはじまった。この飛行場は三重県明野陸軍飛行学校天竜分教所といい、操縦士の教育訓練のためにおかれた。約二〇〇ヘクタールの耕地が強制的に買収され、東西一六〇〇メートルの滑走路が二本・格納庫四棟・試射場・兵舎などが建設された。開所は一九四二年四月のことである。この飛行場建設にともない、一九三五年からはじまっていた天竜川の東の派川の締め切り工事は、飛行場の防御を理由に急いですすめられ、一九四四年に完成した。
袖浦飛行場建設においても朝鮮人が動員されている。『明野陸軍飛行学校天竜分教所』には内務省建設課雇員人夫六七八人の組別の内訳があり、朝鮮人が働いていたと記されている。そこにある金田組、金本組、金沢組といった組は朝鮮人の組だろう。
この天竜分散所で整備士だった古田豊さん(一九二四年生)はいう。
「飛行場は立入禁止で村人は近寄れなかった。滑走路は二本あり、建設工事に村人が動員された。父も動員されて仕事に行ったが、朝鮮人は体力があり、トロッコに土を入れる仕事はかなわないと言っていた。田畑は強制的に収用された。沼があちこちにあったが埋めたてられた。戦後、飛行場跡地は開拓されて村が建設された。その村が飛平松地区だ。私は一九四一年四月、伊勢へと飛行機の整備教育の研修にいき、一九四二年四月から天竜分教場の整備士として働いたが、翌年徴兵された」(一九九〇年談)。
飛行場建設は陸軍管理下、周辺住民の動員と請負った業者の労働力でおこなわれた。そこには朝鮮人も動員された。
建設に動員された牧野元一さん(一九一二年生)は「飛行場建設の仕事にいった。土地の人が頼まれて動員されていた。海岸から土を運んで建設した。朝鮮人も使われていて、トロッコを引いていた」と語る(一九九〇年談)。
ここで静岡県協和会磐田支会の「勤労奉仕」についてみてみよう。
一九四一年十一月・一二月と朝鮮人の「勤労奉仕」がおこなわれた記録がある。一一月一日、磐田支会は七二人(係員三人が引率)、一二月一日には八○人を動員し、「袖浦村天竜建築工事」現場で「勤労奉仕」をした。この建築工事は袖浦の飛行場建設工事であろう。一二月に朝鮮人を「指導」したのは、磐田警察の特高主任稲葉警部補や特高係員、駐在所員たちだった。この「勤労奉仕」に対し、内務省工事場の係員は「一三○円の報労金」を渡した。一同は全額を陸海軍へと「国防献金」したという。この報告は、中央協和会の『協和事業』誌(一九四二年四月)にあるが、最後には以下のようなことばが続く。
「吾々協和会員の微力が今や交戦中の英・米・重慶の敵国撃滅の一助とならば、吾々皇国臣民として之れに過ぎた光栄はありません。出せ、吾が会員の底力!大東亜戦争必勝への全魂を!と更に一層の意気に燃えて居ります」。協和会の記事については、『協和事業』一九四二年一月・四月。朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』第四巻所収・四八〇頁、四八九頁による。「興亜奉公日」には、協和会が主導し特高・警察の監視の下で、朝鮮人が「皇国臣民」として動員されていったことがわかる。
一九四四年六月天竜分教所は第三教導飛行隊となり、少年飛行兵の宿舎もできた。一九四五年四月ころから格納庫を解体し、付近の山林まで誘導路を作り分散隠蔽した。この分散工事にも朝鮮人が動員されたとみられるが詳細は不明である。
四 富士田子浦飛行場建設
陸軍が富士郡
一九四四年一二月、陸車富士田子浦飛行場が完成した。この基地は連絡用や明野教育飛行隊の分教場として使われ、基本操縦習得者の戦技訓練などがおこなわれ、戦争末期には特攻用の訓練もおこなわれた。
飛行場建設を陸軍から請け負ったのは熊谷組だった。熊谷組の下請飯場がつくられ、そこに朝鮮人が動員された。熊谷組富士作業所の「華人労務者就労顛末報告書」(一九四六年三月)には工事が陸軍航空本部の緊急工事として取り組まれ、日本人と朝鮮人を当てて起工したが、労働力が不足し、中国人を「移入」したとある。『富士役場日誌』の一九四四年七月一二付記事には、熊谷組富士作業所主任が「半島出身者」「共産八路軍」を「使役充当」することを申し出たとある(土屋芳久『富士飛行場の歴史』一六頁)。山本リエ『金嬉老とオモ二』の年表には金嬉老のオモニらが富士で就労したとある。おそらく富士飛行場の現場へと動員されたのであろう。
この飛行場工事への中国人の強制連行についてみよう。
中国人は一九四四年一〇月八日と一〇月二三日の二回にわたって五〇四人が連行された。連行途中で三人、富士で四九人の計五二人が死亡している。死者の出身地は中国河北省である。「華人労務者就労顛末報告書」によれば、五貫道地内に陸軍規格の「宿舎」を作ったが、大津波で流出した。そのため三四軒家内の日本人勤労挺身隊員宿舎を転用した。中国人は七月九日まで飛行場建設に使われたが、指導者がいなければ作業を中止するなど能率は悪かった。また内務省の指示により朝鮮人とは「絶対隔離」して作業させたという。
連行された中国人証言をみてみよう。『二戦?日中国労工口述史』四には馬麟、崔慶雲、張普雲さんらの証言がある(四二三頁〜)。
馬麟さんは通州鎮出身、夏、通県の警察が家に父を捕らえにきたが不在のため、馬さんを連行していった。馬さんら二〇〇人ほどが新民会の建物に押し込められた。通県から汽車で塘沾の収容所に送られた。そこに三ヶ月ほど収容されたが、飢餓は耐え難かった。夜便所に行くときには報告しなければならず、拒否すれば殴られた。逃亡しようとすれば感電死や銃殺が待っていた。そこは人間地獄だった。秋に熊谷組が来て、五〇〇人を第一隊魯徳森、第二隊斉伯誠を責任者にして、二隊に分けて連行した。暗い船内に押し込められ、船酔いと飢えに苦しみ、海に投げ込まれた者もいた。下関から汽車で富士郡の村に連行された。収容されて寝ていたら、風雨が強まり、海水が収容所に入ってきたため、山のほうへ逃げた。熊谷組は新たな収容施設を作り、周囲は鉄条網で囲まれ、銃を持った警察が監視した。馬さんたちは飛行場の防潮堤や滑走路などの建設に動員され、毎日一二〜三時間の労働だった。病気になっても休ませず、棒で殴打した。食事は小さな饅頭だった。飛行場が完成すると、長野県松本に送られた。日本が降伏すると連行された人々は、打倒日本帝国主義!中国抗日戦争勝利万歳!といったスローガンを書き、デモ行進をした。一二月アメリカの船で帰国した。五〇〇人ほどが連行され一〇〇人ほどが死んだ。馬さんは言う、それは日本の侵略者が中国人民を奴隷化したことであり、血で記された犯罪行為だ、と。
張普雲さんは北京平谷県の人、二〇歳の夏に、日本兵に捕らえられた。塘沾に送られそこから田子浦の飛行場現場に送られた。食事は饅頭だけ、冬着ひとつも支給されなかった、と。
崔慶雲さんは天津市在住、「華人労働従事證」を保管し、当時の虐待と暴行を語る。一九四四年7月ころ、崔さんは「良民証」を持たなかったために、警察によって汽車に乗せられて塘沾の収容所に送られた。そこから下関を経て富士へと連行された。四〇人ほどで一〇の班がつくられた。崔さんはトロッコを四人で押した。四五年の七月、崔さんら二〇〇人は岐阜県高山市の防空壕工事に現場に送られた。そこで腰に石が当たって怪我をした。戦後は糾察隊ができ、規律を維持し、怨念に対し徳を持ってあたることにした。高山の板田さん一家と友誼を結んだ。帰国するとき一〇数人の遺骨は持ち帰ったが、ほかの遺骨は他郷で冤魂のままだった。崔さんは最近日本で右翼勢力が力をつけていることを憤慨する。花岡事件での賠償問題の報道を聞くにつけ、自らが体験した歴史の真相をあきらかにして、日本の犯罪行為がもたらした血の債権の清算を求めている。
劉国棟さんと楊風祥さんの証言(『遺骨送還通信』二)によれば、一九四四年七月末、天津市の路上を通行中、日本憲兵により、有無をいわさず手錠をかけられ、三〇人ほどが塘沾の収容所におくられた。収容所には三〇〇〇人が狩りあつめられていた。そのうち、五〇〇人が熊谷組へ、六〇〇人(八路軍兵士ら)は三菱組へと編成され、一○月熊谷組五〇〇人が富士へと連行された。作業は朝六時から夜六時まで休みなしの重労働、食事は中国から持参したトウモロコシ・豆粕だったが、それらは一ケ月で終り、芋粉・穀粉とメリケン粉のマントウとなった。空腹のためバッタ・鼠・蛇・蛙等を手当り次第食べるという状態だった。飢餓と虐待のなかで死者が続出したという。
長野県松本へと連行された中国人の調査をすすめる松本強制労働調査団は一九九八年に張盛・韓忠さんら、九九年に韓万福、徐万有さんら、二〇〇〇年には劉善田さんの聞き取りをおこない、二〇〇五年には韓忠・徐万有・劉善田さんらから再び聞き取りをした。これらの調査については、張盛・韓忠さんらの証言が、小池善之「強制連行された中国人・その一証言編・静岡県の事例」と「赤旗」一九九八年九月二二日付記事にある。また、松本調査団は『私達の街にも侵略戦争があった』という報告集を二〇〇六年に発行し、韓忠・徐万有・劉善田さんらの証言をまとめている。これらの証言記録から連行中国人の状況をみてみよう。
張盛さんは当時一六歳、河北省薊県弥勒院村に住んでいた。一九四四年旧暦七月、日本軍は農作業をしている張さんを駐屯地に連行した。紐で縛られ数珠繋ぎにされた。抵抗すると銃床で殴られた。その後塘沾の収容所へと送られた。部屋には三〇〇人が詰め込まれ、夜は逃亡しないように裸にされた。少しでも動くと銃床で殴られた。蜂起し、夜丸裸で逃げようとした五〜六〇人が機関銃や銃剣で殺された。翌日逃げなかった人たちを集め死体を前に逃げればこうなるといわれた。富士に送られ、一生懸命働かないと殴られ、隊列を組まされて往復した。飛行場ができると松本へ送られ防空壕を掘らされた。アメリカ軍の船で青島まで運ばれ、そこから物貰いをしながら歩いてふるさとに帰った。妻は一年足らずで死んでしまった。
韓忠さんは一九二七年生まれ、河北省良郷県典隆村に住んでいた。一九四四年旧暦八月一四日警官に呼び出され、大きな部屋に一週間ほど監禁された。一〇〇人ほどが四人一組で縛られて、汽車で良郷から豊台を経て、塘沾の収容所に送られた。建物は六棟ほどあり、韓さんが入った棟には二〇〇人ほどが入れられていた。病人は治療されず、死者が出た。饅頭が出るだけの食事で水も飲ませてくれなかった。こっそり水を飲むと棒で殴られた。貨物船では石炭の上にござを敷いた。下関に送られ、そこから富士に連行された。第二中隊は農民出身者だった。病気は治されず、死んだ後何日間も放置された。山菜やねずみなどあらゆるものを食べて飢えをしのいだ。その後長野に送られた。日本人は蹴ったり殴ったりした。殴打に抗議した人はひどい暴行を受け両足を折られた。日本が敗戦し、
劉善田さんは一九二四年生まれ、当時は土地のない農民であり、果物の販売や出稼ぎをして暮らしていた。旧暦六月末、一九歳のときに街で果物を販売しているときに捕らえられた。トラックで通県に連行された。北京で乗り換え、貨物列車で塘沾の収容所に連行された。収容所は鉄条網で囲まれ、監視はとても厳しいものだった。夜は逃亡防止のために裸にされ、服のズボンは早く走れないように帯紐がなかった。外に出ることができず、部屋の中での話も禁止された。トイレに行くときにも殴られた。一〇日ほどで石炭船に乗せられ、下関を経て富士へと連行された。到着の翌日、台風で宿舎が壊れた。仕事は飛行場を作るもので、トロッコで土や石を運んだ。1日10時間以上仕事をさせられ、よく殴られた。一日三食だったが、臭くなったとうもろこしの粉の蒸しパンだけでおかずがなく、海藻やかえる、蛇などを捕らえて食べた。風呂はなかった。多くの人が死亡し、自分たちで死者を担いで行って焼いたり埋めたりすることもあった。その後、富士から松本に連行された。解放後、一二月に帰国したが、貧しくなかなか結婚できなかった。
徐万有さんは一九一八年生まれ、連行は旧暦の四月のことであり、二八歳の農民だった。朝早く家で寝ているところを捕らえられ、通県の日本軍駐屯地に連行された。二ヵ月後、塘沾の収容所に送られた。寝るときにはまっすぐにならないと棒で殴られた。食事はまずく食べられないもので、みな病人のようになった。逃走し発見されると銃で撃たれた。一〇月に塘沾から下関を経て富士へと連行された。仕事は飛行機の訓練所を作るものだった。休みは大雨のときだけだった。餓死や病死で多くの人が亡くなった。検挙された劉文貴は食料を増やしてほしいと交渉したと聞いている。その後、高山に連行された。
以上が連行された中国人の証言である。
中国人連行者は、飛行場の地ならし・草取り・土砂運搬などをさせられた。三四軒家地区の西につくられた収容所内には警察官が常駐し、憲兵隊も監視した。収容所は竹柵で囲まれていた。
一九四四年一二月、建設工事が終了すると、中国人は飛行機を隠すための誘導路建設をおこなった。一九四五年七月には中国人連行者は富士から二ケ所へ転送された。二〇二人が熊谷組高山の地下施設建設、二七七人が熊谷組松本の地下施設建設現場へと転送された、
地域に住む鈴木高雄さん(一九一〇年生)はいう。
「中国人を収容した晩、高波によって収容所がさらわれた。収容所ははじめ飛行場内に建てられていた。中国人たちはみな殺しにされると思っていたらしく大騒ぎとなり逃亡した。沼津方面まで逃げた者もあったが、警防団・警察によって発見され連れてこられた。一週間ほどで三四軒屋区の西よりの畑(二反歩)が軍によって無条件で強制接収され、収容所が建てられた。三メートルくらいの高さの柵がつけられていた。中国人は飛行場の建設に従事したが、伝染病がはやった。清水・沼津方面から勤労奉仕隊や挺身隊、また地域の婦人会・青年団も動員された。地区の人は無料奉仕もした。工事は熊谷組がおこなったが、下請けには佐藤組(佐藤寅次郎)が入っていた。中国人は一〇〜二〇人ごとに班長によって統率されていた。毎日のように死者が出たが、死者は竹で担いで運び、現・浄化槽タンクの所を野天の焼き場にして、そこで焼いた。土葬された人もいた。村人は中国人が歩いて作業場へ通うようすをみていた。毎日会うので会釈した中国人もいた。飛行場が完成し使用できたのは半年間くらいで、米軍のB二九が日軽金や日産工場を爆撃した時、飛行場も爆撃された」(一九九〇年談)。
飛行場跡地は戦後開拓され、いまでは開拓された農地の半分は宅地となっている。
ここで中国人たちの抵抗についてみてみよう。
連行直後の一九四四年一〇月、中国人たちは「襲撃暗殺計画(未遂)」をおこしたという。その内容は、馬春貴(大隊長)、王桂林(中隊長)、張鶴亭(小隊長)、劉文貴・戚柏楠らが、かれらを連行し、支配する総隊長劉遇奇・華北労工協会派遣員山本実・警察官・組員を襲撃し殺害する「計画」であったという。
連行した中国人への管理は、内務省が「保護指導」、吉原警察署が「現場指揮」、富士宮憲兵隊分隊と華北労工協会指導員が「協力」するというものであった,連行された中国人の怒りはかれらを直接管理していた総隊長・労工協会・警察・熊谷組にむけられたといえるだろう。「襲撃暗殺未遂」と記されているが、抵抗がどのような形でおこなわれたのかについては不明である。
熊谷組富士作業所の「事業場報告書」は、「華労中元抗日共産分子多々アリタル」「中ニモ転向セザリシ左記五名」が検挙されたとしている。検挙後、馬春貴(二四歳)は一九四五年二月一七日に三島警察署で「急性肺炎」により獄死、王桂林(二三歳)は四月一二目に静岡刑務所で「急性肺炎」により獄死、張鶴亭(二四歳)は七月二五日、静岡刑務所で「原因不詳」により獄死、戚柏楠(二六歳)・劉文貴(四三歳)の二人は、日本の敗戦後の一〇月一〇日になってやっと釈放された。ほかに田有才(二三歳)が吉原警察署での取り調べ中、二月二五日に死んでいる。
馬春貴の場合、特高による取り調べをうけ、四四年末、三島へ移され、張鶴亭の場合は一九四五年四月二八日「国防保安法・治安維持法違反」とされ吉原警察署から静岡刑務所へと移送されている。
おそらく、中国人たちの集団での抵抗は初期の段階で弾圧され、リーダーの検挙・獄死という形でおわったのだろう。かれらは国家権力の監視のなかで死亡した。中国人たちは、強制連行され、奴隷以下の扱いをうけ、病死・虐待死・衰弱死に直面し、抵抗していったとみられる。
死を強いられたリーダーの背後には五〇〇人のまなざしがある。解放の日を見る前に獄死し、癒えることのない傷を負って帰国した人々にたいして謝罪や賠償はなされてはいない。天皇制国家の戦争責任追及は不十分であり、いまも細菌戦・生体実験・毒ガス戦・強制連行などの日本の戦争犯罪は隠蔽され清算されていない。
中国人収容所跡地から海岸沿いに東へ少し行った、富士市中丸共同墓地には、「熊谷組・世話人劉徳権」が一九四八年不建立した「中華民国人興亜建設隊故歿者の碑」がある。一九九〇年、この碑の東側に、強制連行の経過を記した墓碑銘が建立された。
朝鮮人の動員については不明であり、今後の調査が必要である。
五 浜松三方原飛行場工事
つぎに浜松地域における飛行場建設と朝鮮人動員についてみていく。
浜松へと多くの朝鮮人が居住するようになったのは一九二〇年代はじめのことである。新聞記事から就労現場をおってみると、鴨江丸紡・菅原本工場・常盤鈴愛など女工(一九二二)、鷲津工場(一九二二)、天竜川鉄橋下護岸工事(一九二三)、三方原での軍飛行場建設(一九二六)、新居土木工事(一九二八)、浜松上水道工事(一九三〇)、浜名湖埋立工事(一九三三)、馬込川改修工事(一九三五)、気賀湖北線工事(一九三六)などがある。
浜松には陸軍飛行第七連隊(爆撃部隊)が一九二六年からおかれた。この基地建設工事に朝鮮人が集団で就労している。この三方原での軍飛行場建設 についてみてみれば、一九二六年に大倉組の下で雇われた朝鮮人は一千人をこえたという。二六年一〇月現在六〇〇人の土木労働者が基地建設に従事していたが、そのうち二〇〇人が朝鮮人であった。工事が一段落すると朝鮮人は解雇されたが、浜松市は救済事業の形で二〇〇人を道路修理事業に雇用したという(『静岡新報』一九二六年一〇月二九日、二七年二月二七日付)。
飛行場建設工事がすすめられていった一九二六年に朝鮮人団体の「相愛会静岡県本部」が浜松市砂山町で結成されている。相愛会は浜松市内に職業斡旋所、無料宿泊所をつくっていく(一九二九年三月完成)。相愛会は朝鮮人の労働争議、労働運動に対しては敵対し弾圧する側についていた。
一九二八年には高射砲第一連隊が浜松へと移駐した。日本の中国への侵略戦争の拡大によって、浜松の軍事基地も拡大されていった。一九三三年、飛行第七連隊から浜松陸軍飛行学校が編成され、爆撃などの研究や教育をおこなうようになる。中国への全面侵が始まる一九三〇年代後半からは浜松地域の軍事基地の拡張がおこなわれていった。各務原陸軍航空廠浜松分廠・第七航空教育隊・航空通信教育隊・第六一飛行場大隊・第一航空輸送隊・浜松教導飛行師団・三方原教導飛行団などがつぎつぎに編成された。さらに、一九四五年には本土決戦を想定して基地北方など各地に軍が配置された。また、軍事施設の分散疎開・地下施設化もすすめられ、飛行場周辺には二〇〇ほどの地下壕が掘削された。浜松地域の軍事拠点化のための諸工事には朝鮮人も動員された。
三方原飛行場からの排水の貯水用に掘られた「長池」についてみてみよう。
地域でのききとりによれば、長池が掘られたのは一九三八年から三九年にかけてのことという。南北五〇メートル、東西二〇〇メートル、深さ一〇メートルにわたる規模の貯水池が建設された。長池は「人海戦術で掘られ、モッコとトロッコで土を運ぶという工事だったが、朝鮮人が多かった」「『富永』という朝鮮人の飯場頭が二〇人ほどを連れ、工事現場の南側に居住していた」「労働者は朝四時ころから働きはじめ、朝食前にひと仕事を終え、午後三時から四時ころには仕事をおえていた」という。第七航空教育隊(中部第九七部隊)跡地に残る排水用暗渠も、朝鮮人労働によるという。
一九三〇年代後半の軍事基地拡張・排水工事に朝鮮人が動員されていったわけである。一九四〇年六月段階での浜松地域の協和会支会員の教は、静岡県社会事業協会『静岡県社会事業概覧』一九四一年)によれば、一八九四人である。この教は清水の二二九〇人につぐ数である。ここには軍事基地関連で動員されていた朝鮮人が含まれているといえるだろう。
軍需工場建設をみれば一九四二年から建設されはじめた中島飛行機浜松工場(宮竹町)建設に朝鮮人が動員された。ここで働いた朝鮮人の一部は原谷の地下工場建設へと動員されていく。浜松地域の軍需工場の分散移転が各工場でおこなわれていったから、そこにも朝鮮人の姿がみられたであろう。
浜松でのアジア太平洋戦争末期の軍地下壕構築の状況についてみてみよう。
浜松市には一九七四年からの『特殊地下壕』綴がある。この資料から、浜松市内の軍や町内会による「特殊地下壕」の分布状況をまとめることができる。
資料には約二百件の市内の特殊地下壕の事例があるが、地域ごとに集約したものではない。市民からの情報により埋め立てや入口の閉塞について記され、現地の地図が付されている。資料の分析にあたり、地域ごとに分類し、地下壕分布地図を作成した。
地下壕分布地図から、なかには民間の防空壕も含まれてはいるが、壕のおおくが軍による構築物であると考えられる。
その理由は、トーチカ一つを除き、壕のすべてが馬込川よりも西、東海道線よりも北にある。壕が集中している地域は都市中心部ではなく、市の北西方向の広沢・鹿谷・冨塚・和合・神ヶ谷・住吉・幸・有玉・半田・大人見・伊左地などであり、これらの町は高台の浜松基地の周辺にある。浜松基地の南部に集中している壕に沿って東西に線を引いていくと防衛ラインが見えてくる。上島・鴨江・広沢などの小学校には陣地構築部隊が展開したという文書史料があり、その周辺に実際に壕があったことがわかる。基地近くの和合・冨塚では丘陵や川ぞいに壕が点在し、疎開のみならず遊撃戦陣地の様相を呈している。鹿谷・住吉には拠点とされていた壕があった。
この資料から、アジア太平洋戦争末期、浜松基地周辺に二〇〇余りの軍関連地下壕が構築された状況が明らかになる。一九六〇年代までに破壊された壕も多い。浜松市北方の都田にも壕が構築されている。細江や浜北の資料を追加すれば、基地北方に展開・疎開した部隊による陣地構築状況も明らかにできる。浜松市高林の白山の森には海軍が地下壕を掘削した。
これらの地下壕群は七〇箇所ほどが現存しているが、これらは戦争史跡であり文化財である。その構築目的・構築主体についての調査・記録が求められ、保存も検討されるべきである。これらの軍地下壕群は軍事基地防衛と遊撃戦を想定して構築されたものであり、市民の安全を守るためにつくられたものではない。浜松の軍事地下壕群はその存在をもって軍都浜松の歴史を語りかけている。それらは戦争の愚かさと平和を語るものであり、文化財としての調査・保存が課題である。
当時、軍の壕建設への朝鮮人兵士の動員が他の地域の調査では報告されている。一九二〇年代半ばの浜松基地建設において、すでに多くの朝鮮人が動員され、三〇年代の基地拡張にも動員されている。おそらく戦争末期には基地の分散移転や壕掘削に動員された人々も多かったであろう。
李四龍さんは一九一〇年生、慶北尚州郡出身。二三歳のころ渡日し、豊橋から京都にいき、浜松に来た。森下組の下請けになり、三方原の飛行場の外周道工事などの仕事をした。浜松での陸軍航空基地関連工事に動員されたのだろう。李さんは協和会手帳と国民労務手帳を保存していた。それをみると、浜松市付近で仕事を始めたのは一九四四年となっている。李さんは京都での部落差別を例に出し、「日本人間で差別しているから朝鮮人にも差別する。アジアの人間は手を握っていかねばならんと思っております」と語った(一九九五年談、当時八五歳)。
李さんは伝え聞いた関東大震災での朝鮮人虐殺を詩に詠んでいる。その詩で、亡国のなか「生の草木に火がつき苦難の日々が続いた」とし、以下の言葉が続く。「同胞の身に 槍が突き刺す 蒼刀が切り裂く 路端の赤い干血 眼球に焼き付く 五臓を突く 震え戦く両腕両拳 地を打つ胸を叩く あーあー 何時の日に わが同胞 偉人に巡り会い 蒼空萬山 震撼する万歳を 唱えようか」(呉文賛訳『朝鮮人強制連行の傷跡静岡県編』九八頁)。
この李さんの共存互恵と人間解放への思いは時空を超えて受け継がれていくものである。
以上、軍飛行場建設と朝鮮人の動員についてみてきた。
飛行場跡地には当時の遺構が残り、今も軍事基地として使用されているところもある。これらは侵略戦争の敗北局面を示すとともに、朝鮮人強制動員という戦争加害を示す戦争遺跡である。また、国家が国民主義・愛国心を媒介に民衆を動員し、殺しあう関係へと追い込んでいった戦争のおろかさ、くだらなさを、今に伝えるものである。朝鮮人動員の具体的状況についてはわからないことが多く、実態把握は今後の課題である。