伊豆鉱山と強制連行

 

   一 県下鉱山労働運動と持越鉱山

1  鉱山労働運動の形成

 

 伊豆の鉱山については、『土肥の金山』土肥町教育委員会、『新南豆風土記』、柘植清「伊豆金山と梅ケ島金山」(『静岡県郷土研究』第二二輯)、長倉慶昌「伊豆の金山」(『ふるさと百話一〇』)、永岡治『伊豆土肥史考』、水口為和「伊豆の金山」(『人づくり風土記・静岡県』)、中外鉱業且揄z鉱業所「持越鉱業所の概要」などがある。これらの資料から鉱山の形成史をみるとともに、戦時の強制連行関係資料から強制労働の状況についてみていきたい。

はじめに静岡県での鉱山労働者のたたかいの足跡を追ってみよう。持越鉱山における労働運動の敗北の結果として強制連行強制労働を位置づけて考えていきたい。鉱山労働運動の概略については、『静岡県労働運動史』の年表と戦前編の記述および収録された鉱山関係資料による。

 静岡県では一九一〇年代はじめころから鉱山労働者の運動がみられる。一九一二年、久根鉱山で鉱夫八○○人が賃金要求ストライキをおこない、八〇人が検挙された。湯ケ島鉱山でも鉱夫四〇人が賃金不払反対ストライキ、翌年五月には青野奥山鉱山の創業五周年祝賀会の時に、鉱夫一〇〇人余りが事務所を襲撃するという争議がおこっている。

 一九一〇年代後半、帝国主義による世界戦争と社会主義革命の波のなかで、世界各地で社会運動が高まっていった。一九一九年五月には、土肥金山で解雇撤回をもとめて鉱夫数十人が事務所におしかけ所長宅を襲撃し、二〇人余りが検挙される争議が起きた。前年の三月には浜名郡の満俺銀山会社と亜鉛電解鉱業会社伊豆精練所で争議があった。鉱山での労働者の階級としての運動の萌芽は、一九二〇年の河津鉱山蓮台寺鉱における全国鉱夫同盟会蓮台寺支部の結成へと結実していった。蓮台寺支部は待遇改善を要求し、三月にはストライキをおこなった。

 一九三〇年代に入ると、伊豆各地の鉱山で労働運動がさかんになった。

 土肥金山では一九三四年に土肥金山従業員同盟が結成され、二月には坑内籠城ストライキに入る。土肥金山ではこれまで一区共済会や坑夫組合などが待遇改善を要求してきたが、それに対して不当な解雇がなされた。この解雇に反対して労働者は団結し「従業員同盟」の結成へとすすんだ。

 大仁金山においても一九三五年三月に労働者一〇〇人が賃上げなどの待遇改善を要求し、一九三六年二月には八幡金山で争議がおこした。争議は全日本労働総同盟の調停によって解決した。

 

2持越鉱山と日鉱持越支部

 

持越鉱山で鉱区が発見されたのは一九一四年であった。一九三二年に持越金山株式会社の設立、一九三四年に清越鉱が持越支山として本格的操業を開始、一九三六年には朝鮮半島の諸鉱山を買収して中外鉱業株式会社が設立され、持越鉱山はその傘下に入った。一九三八年、清越で新鉱脈が発見され、政府の産金奨励策と重なり、採掘がさかんにおこなわれた。

一九三〇年代における鉱山労働運動の焦点は持越鉱山である。一九三一年ころから持越鉱山での組織化が計画され、東部合同労働組合のオルグや日本労働組合全国協議会のオルグ・長縄三師団らによる組織づくりが行なわれた。しかし、一九三三年九月一八日、長縄の検挙によってこれらの動きは中挫した(『不屈のあゆみ』日本共産党静岡県委員会一九七二年所収年表)。紆余曲折を経て、日本鉱山労働組合持越支部が組織されたのは一九三六年五月のことである。

 持越鉱山の労働者は一九三五年一二月に従業員大会を開き、会社指定売店の改善を要求する決議をあげ、翌年五月には従業員大会で賃金三割値上げなどの待遇改善二〇項目を決議するといった活動をおこなってきていた。このなか、日本鉱山労働組合持越支部は静岡県東部地域での全日本総同盟組織の支援の下に結成されていった。この持越支部一三〇〇人という組織の形成が一九三七年二月の全日本労働総同盟静岡県連合会結成をもたらす力になる。

静岡県連結成当時、鉱山では持越のほか、五つの鉱山で「支部準備会」が組織されている(全日本労働総同盟関東紡績労働組合沼津支部『沼津支部労働運動一〇年史』『静岡県労働運動史』資料上所収)。総同盟静岡県連の中心は関東紡績労組沼津支部と日鉱持越支部であった。県連の創立大会では議長を山田重太郎が務め、鉱山から三宅寅市が副議長として活勤し、さらに大会書記長として鉱山から金判権(金山政夫)が選出されている(『静岡県労働運動史』五二九頁)。

 組合結成前の労働者の状態についてみれば、賃金額の明示がなく、生活用具は会社の配給所で高価に売られ、労災時には手当が出ないという状況であった。持越鉱山労働者は産業別組織の支部結成をもって、このような現実の変革にたちむかうことになった。

一九三七年三月、持越鉱山大沢坑でのガス事故は労働者四八人の生命を奪った。組合幹部自身が先頭になって救出活動に従事し、みずからも命をおとした。組合はこの事故に対応してさまざまな問題の処理にとりくみ、その力量は労働者の信頼をえていった。この事件によって鉱山の採鉱能率は半減したが、この「事業不振」を口実に、五月には二七七人が解雇された。

持越鉱山での組合の組織と運動の力量を資本は憎悪した。それは組合そのものの否認と活動者層の解雇となってあらわれた。組合側は「解雇絶対反対」「団結権死守」をかかげ、争議団を結成、六五〇人がストライキに突入した。一方資本の側は解雇発表と同時に二日間の休業を発表し、暴力団を雇用、争議団への弾圧に利用した。また偽電を打って争議団の切りくずしに奔走した。さらに警察は争議団員の検挙などの行動に出た。

争議団は食糧品配給所・労働銀行・警備隊・家族委員会・子ども会・婦人部・従業員大会などを組織し、運動をすすめていった。この争議団を日鉱・総同盟・社会大衆党静岡県連・全農静岡県連などが支援した。

 争議突入後の六月、争議団は「突撃隊」を組織して上京した。上京団九人のなかに金判権がいた。金判権は組合幹部として、争議団結成時には情報部長、のち副団長となる。争議団の幹部として演説をしたり、上京して交渉にあたったりした。また争議団幹部や本部からの応援者は持越の達原にあった金夏永(ラーメン業)宅を本拠とした(「持越鉱業所・争議関係資料」)。この争議団は在日朝鮮人との連帯性をもっていたといえよう。

 七月、労資は新たに全従業員を以て「持越鉱山従業員組合」を組織し、その顧問一人を総同盟本部から推薦すること、解雇者二七七人に対して手当金と和解金の支給をおこなうという内容で妥結した。争議団内では不満とする声も強かったようだが、総同盟指導部は三井系鉱山に団結権を認めさせたという確認を団員にとって合意にもちこんだ。この妥結にともない、争議団は解団し日鉱支部は解消させられた。全判権は解団式での開会を宣言した。

 資本の組合否認攻撃は、産業別組合を企業内組合へと変質させ、指導的活勤メンバーの解雇を以って終結したといえるだろう。

新組合の発会式は一一月「明治節」の日、参加者一同が「君が代」をうたうなかでおこなわれた。鉱山監督局・協調会・特高課・中外鉱業本社会長らが出席し、議長は鉱山労務課長であった。ここで結成された「持越鉱業所従業員組合」はその精神を「産業報国の精神に則り会社に協力」するとともに「組合員相互の資質向上並に共済その他福利増進を図る」こととしている。当時、総同盟の活動方針は「産業協力」をかかげ、資本に対して「産業報国」をもとめて資本の功利主義や非国家性を批判するというものだった。

この持越鉱山争議については「持越鉱山所争議関係資料」(『静岡県労働運動史』所収)があり、静岡県立図書館の山田重太郎文庫には当時の新聞記事や写真などがある。この山田重太郎文庫の資料目録が『葵』(静岡県立図書館)一六号にある。

天皇制に従属し「産業報国」を基調とする企業別組合の結成は、あらたな時代のはじまりを告げている。それは労働者の権利をまもって解放にむかうというものではなく、労働者を国家と資本に従属させ、労働者を「徴用」し国家による収奪へと動員するという時代の到来を示すものであった。

 総同盟は、企業別組合という形態であっても資本に団結権を認めさせたことを成果とし、総同盟綱領を新組合に折りこんで、それをもって伊豆地域の鉱山での運動形成をねらった。しかし「産業報国」の潮流は「産業協力」という名の総同盟運動をとりこみ、ついには総同盟運動そのものの解体へとすすんでいくことになる。

 結局、産業報国主義をかかげた新労組は、一九三八年一二月の評議員会で組合の解散と総同盟顧問との絶縁を決定し、「持越鉱業報国会」を結成することになった。一九三九年二月、「持越鉱業報国会」が結成され、同月、田方郡下で持越・土肥・大仁の各鉱山と東洋醸造・日本金銭登録器会社の五社の連合による連合産業報国会が発会した。

 中国への全面戦争の開始を前後して、持越鉱山の産別組織は解体し、「産業報国」へと転回した。日本労働運動が解体して産業報国をかかげ、国家による徴用と闘えなくなったことと、植民地朝鮮からの動員(徴用・徴兵)とは連動している。強制連行・強制労働に対する抵抗力の解体と隷従をとおして、日本の労働者民衆はみずからの身体と精神を天皇制国家に収奪されていった。「朝鮮人強制連行」という植民地労働力の強制動員はこのような前史をもつ。日本労働者階級の天皇制国家への敗北と産業報国会への統合とともに植民地労働力の動員はおこなわれていった。

 一九三七年一二月、日本無産党の全国一斉検挙にともない、東豆労働組合を担うとともに日本無産党熱海支部メンバーであった在日朝鮮人労働者たちへの弾圧があった。崔南守・韓徳銖・宗義保ら一一人が検挙され、一九三八年五月に至って東豆労働組合は解体した(東豆労働組合については宗すず・古葉清一『いわゆる騒擾事件』、および『静岡県労働運動史』)。

これらのできごとは日本と朝鮮の労働者民衆の階級的連帯に対する国家と資本による攻撃であり、持越や熱海の団結組織の解体は、侵略戦争の拡大による強制連行・強制労働という形での国家的総動員のはじまりを告げていたといえよう。

一九四〇年以降の鉱山の争議をみてみると、連行され強制労働下にあった人々が日本の帝国主義と生産現場で対決していったことがわかる。

 

3持越鉱山への強制連行

 

持越鉱山が最盛期をむかえたころには三〇〇〇人といわれる山田町が鉱山地帯に形成された。日鉱持越支部が解体され持越で産業報国会が形成された時期は、戦時体制下、軍事物資の大量輸入のために金の増産の叫ばれていた時期であった。政府は探鉱・選鉱場・精錬所設置・機械化などについて各種の奨励金制度を設け、増産に対しての割増金交付などの産金奨励策をおこなった(古河鉱業梶w創業百年史』一九七六年、四四九頁)。

 この増産態勢下、朝鮮からの強制連行もおこなわれたのであり、労働運動の解体は強制連行の前史であったのである。

厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、持越鉱山へは一九四二年三月一〇日に慶南密陽郡などから四九人が連行されている。この集団からの逃走者は三六人と多い。

この頃の持越鉱業所の会社案内には「協和寮丿労務動員計画ニヨリ移入セラレタル半島人ノミ 収容人員二〇〇名」とある(水口為和さんの教示による)。この数値から、持越鉱山へと連行された朝鮮人は二〇〇人以上とみられる。収容所は「協和寮」と呼ばれた。周辺住民によれば「朝鮮長屋」が精錬所の北西部分にあたる山の中腹にあったという。

鉱山で働いたことのある鈴木勝さん(一九一〇年生)によれば、朝鮮人の多くは坑内の仕事に従事し、長屋は別に建てられたという(一九九〇年談)。

 一九四二年一〇月一八日、一一人の連行された朝鮮人が祭典を利用して逃亡をねらった。資本はこれを探知して監視をした。朝鮮人たちはこの動きに反感を抱き、全員が帰国を申し出たという。この動きは警察による「斡旋」で終わった。かれら一一人は、「国民動員計画」によって連行された人々だった(「特高月報」一九四二年十一月分、朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』第四巻一〇〇三頁、以下『集成』と略記)。

 一九四三年、持越鉱山は金山整備令により休鉱となり、諸施設は転用される。清越鉱山は採掘中止を免れたが、持越精錬所の閉鎖により他の精錬所へと売鉱することになった。

「金鉱業整理二伴フ労務者配置転換案」によれば、持越鉱山から久根鉱山へと一五人の転送が予定されている(『戦時外国人強制連行関係史料集』朝鮮人二下 一九五三頁)。

 

  二 大仁金山と朝鮮人

 

 大仁・修善寺の鉱山は一六世紀末から「瓜生野金山」の名で知られている。一六世紀末伊豆の金山として知られていたのは瓜生野・土肥・縄地・湯ケ島であった。

 一九三〇年代に入り、帝国産金鰍ェこの大仁の鉱山を買収し「大仁金山」と名をつけた。

当時帝国産金は北海道紋別と朝鮮半島に四ケ所の鉱山を所有していた。一九三三年、金山が再掘されはじめたころ、鉱山労働者数は二〜三〇〇人だったが、一九四〇〜四一年頃になると六〇〇人へと増加した。

一九三七年、一昼夜で一〇〇トンを処理する浮游選鉱場が建設された。旧選鉱場は六〇トンを処理でき、新選鉱場完成により、計一六〇トンの鉱石を処理するようになり、労働者も増加した。家族も含めれば三〇〇〇人ほどが大仁金山周辺に居住した。持越鉱山で労働組合が結成されていったころ、大仁でも「山中」とよばれた組織は労働組合的性格をもつようになってきていた。

 大仁金山は一九四三年四月、金山整備令により採掘を中止した。戦争用資材の開発のために金山の資材・機械を亜鉛・鉛などの鉱山へと移転することになった。鉱山労働者も他の鉱山へと移勤し、大仁からは久根・峰之沢へと移動した人々が多かった。当時朝鮮人も働いていたが、全て日本名で働いていた。朝鮮と大仁金山との関係は古く、江戸期の朝鮮ギセルが金山に残されていた。一九三六年から大仁金山で選鉱場の職員として仕事についた津田諦さんはこのようにいう。(大仁にて、一九九一年聞き取り)

 大仁金山の採鉱課の選鉱係だった遠藤雪雄さん(一九〇七年生)はいう。

中国への全面戦争がはじまるころ、親方にひきいられて班を組んだ朝鮮人が二〇〜三〇人、大仁に来た。かれらの仕事の内容は坑内の雑夫であり、女性は選鉱をした。太平洋戦争が始まったころには、労働者数は増加した。日本人で近くの村から徴用を忌避して鉱山へと働きに来たものもあった。年輩者も四〇〜五○人くらいいた。

遠藤さんの選鉱場では男一〇人・女三〇人ほどが働き、このなかには朝鮮人が二〜三人いた。金山整備令による採掘中止後、坑内は地下工場に転用され航空機部品製造がおこなわれた。この工場の守衛となり、出入を厳重にチェックした。陸軍の監督官や憲兵が訪れ「他言してはならない」「秘密を守れ」と指示・統制をうけた(大仁にて、一九九〇年談)。

 「龍好さん(一九一六年生)が大仁金山に来たのは一九四一年ころであった。かれが大仁に来るまでの経過をみてみよう。

「さんは慶尚北道で一九一六年に生まれた。書堂に四年ほど通ったが、日帝は書堂を閉鎖した。大邱近くで育ったが、同世代の友人の父が日本に殺されたり、友人の父が上海臨時政府に参加したりと、朝鮮独立運動の影響の強い地域だった。光州学生事件の時は小学生だったが、上級生にレポ役に使われた。本人は意味を知らなかったが、メモを渡して連絡をする役目だった。このような独立運動の気風が強い地域であったから、特高の監視の目は厳しかった。

「さんが日本に渡ったのは一九三三年、愛知県瀬戸市の兄を頼ってのことだった。すでに日本に渡っていた兄が、瀬戸で粘土掘りの仕事に就いていた。日帝に土地を収奪され、就労場所がなく、特高が監視するという情況下の渡日であった。日本へ渡っても一六〜七歳の少年にはなかなか仕事がなく放浪し、大阪の朝鮮人集落で生活して、そこで仕事を得た。当時は朝鮮人を採用しない職場が多かった。

 一九三七年に「さんは結婚した。一九三九年、福井で長男が生まれ、瀬戸に住むことになったが、日本による在日朝鮮人の徴用が始まった。協和会によって一九四〇年に日本車輛熱田工場へと動員された。当時協和会は瀬戸在住の朝鮮人を豊川海軍工廠・名古屋三菱・日本車輛などの軍関係工場へと動員した。工場で楽な仕事をしても賃金は半額、それでは食べて行けなかった。何ケ月か通勤するが、収入のよい所を求めた。

 富士川発電工事の募集人が瀬戸へと来だのはそんな時だった。男は朝鮮人飯場関係の募集人であり、「一日に三円」という甘言で募集した。瀬戸から稼ぎをもとめてかれを含め三人の朝鮮人が富士川の工事現場へと向かった。日本車輛工場をやめ、徴用割りあての手から逃げるには富士川の現場は格好の場のように思われた。身延線に乗り、静岡と山梨の県境付近へとむかった。そこには朝鮮人飯場が並んでいた。三人で飯場を訪れて挨拶し、仕事をもらった。「あすから働け」という。仕事はトンネルエ事の雑役夫であり、発破のあとのズリをトロッコに乗せて運搬する仕事だった。翌日、最先端の現場へ送られた。発破直後の現場は発破の臭いがプーンと残り、空気は濁っていた。そこでズリを全てかきだしてトロッコに乗せる仕事をさせられた。重労働に耐えきれず飯場へ戻ると親方は怒った。仕事を休むと飯場はうるさかった。「甘言に騙された」と思い七〜一〇日ほど働き、給料をもらうと現場からはなれた。

 神奈川県横須賀の久里浜での海軍施設建設現場の募集があり、瀬戸に住むことはできなかったから、そこで働くことになった。飯場はほとんどが朝鮮人だった。スコップでトロッコに土を積む仕事が八割位しかできないと監督は叱責する。賃金を得るとその現場をはなれ、「さんがむかったのが大仁金山であった。

 当時鉱山で働けば、徴用と同じ扱いになった。大仁鉱山で働けば徴用が免除になる。社宅があり家族と住める。このような理由で、瀬戸から朝鮮人が一〇世帯ほど、家族を入れれば一四〜五人が大仁金山に入った。一九四一年初めのころだった。かれはここで一九四三年ころまで働くことになる。仕事の内容は坑内の雑役だった。ズリを外へ運搬する仕事で一日一円弱の賃金だった。

 当時鉱山には七〜八〇〇人の労働者がいたが、このうち一〇〇人ほどの朝鮮人が就労していた。大仁警察署から協和会の指導員として朝鮮人が一人派遣されていた。「さんは大仁金山の労働者の自治組織の役員になった。この会は相互扶助を目的とし、労働者の要求を会社に出す役割をもっていた。この会の役員選挙にでて当選した。朝鮮人の役員はかれ一人だった。一度目の選挙では次点だったが、二度目に当選した。当時選挙は六ケ月に一度行なわれ、雑役夫約一〇〇人のなかから四人が選出された。役員は鉱夫・選鉱夫からも選出され役員会を構成した。

 二番方として入坑していたある日のことである。カンテラが爆風で消えたため暗闇の中を歩いて行った。前日には貫通していなかった竪坑が貫通していたため、五〜六メートル下の坑に落下してしまった。幅一メートル七〜八〇センチの穴を、身体を擦りむきながら下のズリに落下した。救急所へ運ばれたが深い傷はなかったが、腰の骨を痛めた。労務課と交渉し、坑内の仕事から選鉱の仕事へと職場の配置換えを要求した。かれは選鉱夫として働くが、役員として世話役活動もおこなった。夫が死んで困っている選鉱女性の悩みを聞き代弁して交渉する活動をしたりした。世話役活動のためか、特高に家宅捜索をうけたりする。

 一九四三年、転職を申し出たら、会社は自治活動で嫌がっていたためか応じた。瀬戸へともどり一ケ月位生活するが、岐阜県八百津の丸山ダム工事現場(飛島組・大林組・間組などが請負)に行った。しかし重労働で住居も不十分なため、やめることにした。

 一九四四年の二〜三月ころ、岐阜県蛭川村の恵比寿鉱山へとむかった。恵比寿鉱山はタングステンを採掘していた。修善寺で共に働いた四〜五世帯が入山した。鉱山側は労働力不足と鉱山での就労経験のためよろこんでむかえた。一家は日本人鉱夫の住居の離れを借りて住んだ。当時、神岡鉱山からも恵比寿鉱山へ仕事に来ていた。

 この恵比寿鉱山へは朝鮮人が強制連行されてきた。大井駅から朝鮮人は縛られ数珠つなぎにされ連行されてきた。なかには朝鮮服のままの者もいた。かれらは鉄条網を張ったバラック小屋に閉じ込められて就労させられた。人数は一〇〇人ほどになった。山越えするしか逃亡の道はないが、逃亡者が出た。捕えるために警防団が動員され、発見されれば半殺しの目にあった。かれは自宅を訪れるという形で逃亡しようとした朝鮮人に握り飯を持たせ、逃亡を支援したこともあった。

「さん自身、この鉱山を一九四五年四月にはなれた。名古屋は空襲により、すでに灰燼に帰していた。日本の敗戦を予感し、このまま鉱山にいたら帰国できないと考え、家族を先に出発させておき、番交代時にはなれたのだった。

「さんは岐阜県瑞浪のトンネル工事現場でも働いている。間組が請負っていたこの工事は川崎航空機の地下工場の建設工事だった。かれはここで強制連行された中国人と出あう。飯場の朝鮮人は飯を食べることができたが、中国人は米ぬかをふかした饅頭を朝夜一個づつ配給されただけだった。中国人は三〜四日おきに一人、二人と死んでいった。『岐阜県中国人俘虜殉難者遺骨送還事業報告書』(一九五六年)をみると、この現場で三九人が死亡している。

中国人に話をすることは禁止されていたが、「さんは現場で話をした。食物を与えようとしたが中国人は「急に多く食べると胃をやられる」といって受けなかった。かれらは生きのびるために殴られる回数を少なくしているようだった。日本人監督は中国人が休むと樫の棒で殴っていた。中国人たちは殴った日本人に死体をみせつけているようだった。中国人連行者への扱いは「むごい」ものだった。この現場には一ケ月ほどいた。

敗戦後の一〇月、未払賃金を受取りに鉱山に行ったところ、鉱山に籍が残っていたという(春日井市にて、一九九〇年談)。

 以上が「龍好さんの大仁金山就労前後の軌跡である。「さんによれば銀行の労務士が調査したところ、大仁金山が社会保険に入り、「さんが在籍した記録があった。厚生省の確認もでき、年金を受け取ることができた。軍の管理下にあった工場、鉱山については名簿が現存するはずだという。「さんは一九九四年に亡くなった。

 徴用を逃れての鉱山への就労は、強制連行そのものではないが、在日朝鮮人を徴用と同じ扱いとしている点から強制労働のもうひとつの形といえるだろう。大仁金山へと朝鮮から直接の強制連行はなかったが、徴用を忌避し多くの朝鮮人が就労したことはあきらかである。

 在日していた朝鮮人の徴用の実態については未解明のままのことが多い。在日朝鮮人への徴用を含めての解明がもとめられる。

 

  三 日本鉱業河津鉱山への強制連行

 

1蓮台寺鉱山

 

 つぎに河津鉱山についてみてみよう。河津鉱山蓮台寺鉱の採掘は一七世紀ころから始まった。近代に入ると一九一〇年代はじめに鉱業がはじまり、一九一四年に久原鉱業鰍ェ買収した。一九二九年に久原鉱業は日本鉱業鰍ニ名称を変更し、日本鉱業河津鉱業所となった。蓮台寺鉱では一九四一年に機械選鉱場が完成した。

河津鉱山へは朝鮮人の強制連行もおこなわれた。厚生省名簿によれば、一九四〇年二月から一九四二年一一月にかけて二三八人が連行されている。忠北清州や慶南晋州からの連行者が多い。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」一九四二年調査によれば、河津鉱山には一九四二年六月末までに二〇〇人が連行され、現在数は一二八名である。厚生省名簿には欠落があることがわかる。帰国や逃走によって「皇国臣民」化による「鉱業報国」への動員は成功しなかったのである。

一九四三年、金山整備令にともない採掘は中止され、選鉱場では明礬石や蛍石の処埋がおこなわれた。「金鉱業整理二伴フ労務者配置転換案」によれば、河津鉱山から九〇人が日光鉱山に、一〇〇人が日立鉱山に転送を予定されている。厚生省名簿によれば日立へ九四人、日光へ六四人、木戸ヶ沢へ一〇人、吉乃へ四人が転送されている。

 一九三七年から河津鉱山で働いた渡辺佐吉さん(一九二二年生)はいう。

当時、日本鉱業は伊豆地域に蓮台寺鉱・小松野鉱・須崎鉱・白浜鉱・大峰鉱・大松鉱の六ケ所を所有していた。小松野鉱は南伊豆にあり、一九三七年に日本鉱業が買収した。白浜鉱からはマンガンが掘り出されていた。大松鉱は河津鉱ともいったが一九三七年ころには死山化し、一九四二年に金山整備令で休坑となった。蓮台寺鉱には猿喰坑・桧沢坑・掛橋坑などの坑口があった。

渡辺さんは、はじめ小松野鉱で雑役夫として働き、のちに火薬の管理者となった。一九四一年に蓮台寺に五〇万円の費用をかけて選鉱場が完成した。鉱石は馬鉄で下田の武ケ浜に運搬し、船に乗せた。鉱石のほとんどは日立鉱山の精錬所に運ばれ、一部は大分県佐下関へと運ばれた。蓮台寺鉱の労働者数は最盛期約一〇〇〇人であったという。

 一九四〇年に二〇〇人ほどの朝鮮人が労働者として連れてこられた。そのうち六〇人が須崎鉱・大松鉱へと送られ、一四〇人が蓮台寺鉱で使われたようだ。蓮台寺鉱で朝鮮人の飯場がつくられた場所は今の町営住宅の敷地だった。朝鮮人はトロッコを引く車夫として使われることが多かった。当時、かれらは写真を撮られ、名前を記入され、日本名をつけられてアルバムに貼りこまれた。

 渡辺さんは地下足袋を給与して証明印を押す仕事をしていた。当時二〇間トロッコを運ぶごとに一足の割合で地下足袋が支給されるようになっていた。坑内での事故死が一人あった。脱走してすぐ捕えられた者もあった。労働時間は七時から一五時までの間であったが、火薬の関係で六時前から仕事は始まっていた。

 戦時下、蓮台寺鉱の朝鮮人は全労働者の半数以上に達するようになったようだ。小頭が蓮台寺鉱の一区に四人、二区に二人おかれて労働者を管理したという(下田にて、一九九〇年談)。

 下田に居住する朝鮮人元鉱夫の神農孟龍さん(慶南晋州出身、一九二二年生)を訪ねた。蓮台寺鉱に動員された後も日本に残ったが、いまでは病床についている。厚生省名簿をみると、河津には一九四一年一月に来ている。つれあいによれば、鉱山で働いていたためか激しい咳が出るという。東京の専門医へと通院を続けているが、病状はかわらないという。神農さんは一九九九年に亡くなった。

「日本国民」としての強制労働は、鉱山性の肺疾患となって個人の身体を苦しめつづけた。日本帝国主義による戦争犯罪の処理は、強制労働に従事した個々人の救援をともなわなければ、それが清算されたことにならないといえるだろう。

 一九三四年から一九六二年まで蓮台寺鉱で車夫として働いた高野昇平さん(一九一一年生)はいう。高野さんは一トントロッコの押し方などの仕事を朝鮮人に教えた。朝鮮人たちは「先生どこへ行くですか」「先生何トンやるですか」と日本人鉱夫を「先生」と呼んだ。「先生」と呼ぶように教育されたのだろう。仕事は請負制だった。それを「ワッパリ」といった。朝鮮人は「きょうは三〇人、きのうは五〇人」という単位で連行されてきた。単身者は上大沢の口もとの八木山に居住し、家族持ちは日本人鉱夫の間に居住させられた。高野夫妻の近くに住んでいた一家は「金本」といい日本語が話せた。

 労務係は「山崎」といい、軍隊出身者だった。かれが朝鮮人を統率していた。朝八時前に職長のところへ割札を出すことになっていたが、事務所へと番割を聞きに行く途中、朝鮮人たちは四列に並べられ、軍隊式に行進させられた。かれらは名札を着けた服を着用させられ、事務所に近づくと歩調をとらせて歩くことを強いられた。かれらは戦闘帽までかぶらされていた。敗戦近くになると朝鮮北部からの連行者が増えた。話が全く通じず仕事を教えるにも苦労したという(下田にて、一九九〇年談)。

 ここで河津鉱山における労務管理についてみてみよう。日本鉱山協会が一九四〇年段階の調査をまとめた「半島人労務者二関スル調査報告」には河津鉱山の報告が収録されている(朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』二所収七七頁)。この報告から河津鉱山における労務管理状況と労働条件などをみることができる。

 河津鉱山では二〇人に一人の割合で「指導員」をおき、二ケ月間の「講習会」をひらき、毎夜六時半から一時間「国語教授」と「国民精神の陶冶」「鉱山知識」の「扶植」をおこなった。それによって「鉱業報国精神」を喚起させることをねらった。

 また全員を協和会に入会させ、創氏改名や女性・子どもを中心に「服装改正」などを通して「内鮮融和」をねらった。「民族意識」の台頭に対しては「警戒を怠」ることなく管理した。

 河津鉱山での朝鮮人の稼動率は九一・五%だった。「臣民義務の涵養」策として「国旗」所持、家族居住者に対しての「祝祭日」での掲揚、会合毎の「皇国臣民の誓詞」の朗読、「兵器献納基金」や「協和会下田支会旗新調費」の募金などを行った。さらに「神社参拝」、「出征」軍人の「歓送迎」、「警防団への加入」を計画した。「不良労働者」に対しては「戒告」をおこない、「改悛」しなければ「送還」するというあつかいだった。

このように朝鮮人を「半島人」としてあつかい、かれらを天皇の「臣民」とすることで、民族意識の解体をねらい、抵抗するものは追放するというやり方であった。

 河津鉱山では朝鮮人は主として坑内の運搬夫(車夫)、雑役夫として利用され、臨時的に鉱石の船積などをさせていた。

 労働条件についてみてみよう。賃金は日収最低一円八○銭が「保證」されていた。日給制と出来高制の併用賃金制であった。休日労働は三%が割増された。時間外労働に対しては、坑内夫が一割三分、抗外夫が一割二分の割増だった。一ケ月収入は平均、「五八円九八銭」となっている。「稼働奨励」のために「精勤不当」(二工賃分)・「臨時手当」(出面一日に付一〇銭)があったとしている。

 社宅については家族持ちに対しては一戸一〇畳半、単身者には一三畳〜九畳の部屋が六〜四人に対して支給された。食費は一日三〇〜四〇銭が徴収された。寝具貸与は一組一日六銭であり寝具の購入金額に徴収金が達した場合、本人に支給された。

 朝鮮人の「契約期間」は二ケ年であった。 河津鉱山では「鉱業報国」のために「温交会」が組織され、親睦・福祉・労資協調・共済が計画された。

 「送金・貯金」については一人平均毎月、送金は「七円九六銭」、貯金は「一一円八銭」であったが、金銭管理は事務所でおこなわれ、「班長、指導員の證明なき限り払戻を為さず」というものであった。

これらの金銭が実際に送金されたのか、強制貯金が払い戻されたのかはわからない。賃金平均が月五八円九八銭であり、ここから貯金・送金分の平均額を引けば四〇円弱となり、一日の食費を四〇銭とすれば月一二円となり、食費を引けば労働者の手元に残るのは二八円である。これらが実際に支払われていたのかは不明である。

 河津鉱山で発生した争議についてここでみてみよう。一九四〇年四月二〇日、蓮台寺鉱山で朝鮮人監督の更送を要求して争議となっている(「特高月報」一九四〇年四月分『集成』四所収五四〇頁)。当時六〇人におよぶ労働者が連行されていた。会社側は日本人の指導者を一人増加させることで、四月四日に「解決」させた。この争議は下級職制として朝鮮人を使い、同胞を搾取・支配させることに対しての怒りの爆発であったとみることができる。前掲の河津鉱山の労務報告はこの争議への対応と「反省」を含むものである。

 日本鉱業の「所長会議資科()」(一九四一年度)における河津鉱山の発言をみると、河津鉱山では「役付半島労務者」を「半島事務所」から派遣して労務管理をつよめ、米穀の特配をおこなうなどの融和をねらい、一方で警察との連携を強化して統制することをねらっていることがわかる(朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』所収資料二六二頁)。

  

2須崎鉱山

 

 つぎに河津鉱山の須崎鉱についてみてみよう。須崎鉱は一九一〇年代に発見され、一九一五年に久原鉱業鰍ェ買収した。金・銀・硫化鉄を産出し、高品位のテルル金鉱も発見されたが、一九四一年七月の大豪雨によって全坑内に侵水し、採掘が中断された。

 一九三三年ころから八年間ほど須崎鉱の選鉱場で働いた田中重利さん(一九一七年生)はいう。

朝鮮人は坑夫・雑夫として働き、雑夫は選鉱・選鉱片付け・貯石場への運搬などをした。連行前から朝鮮人鉱夫は働いていたが、「割りあて」の形で送られて来るようになった。選鉱場には三〜四人の朝鮮人が働いた。言葉を教えたり、選鉱してトロッコで運搬し船積みをした。

当時、選鉱場からトロッコ一台を一人で押して船着場へ運んだが、六人で一つの組をつくり請け負った。一台運ぶ毎に一〇銭の手当が出た。当時労働者の平均賃金は日給一円二〇銭ほどであった。請け負いの仕事をすれば、月四〇円ほどになることもあった。外浦地域は漁師や船員が多く、鉱山で働いたのは二〜三人だったし、皆二〜三年でやめた。白浜・大賀茂からも働きに来ていたが、東北地方から多く来ていた(下田にて、一九九〇年談)。

 現・練馬区立下田学園敷地に鉱山の貯鉱場・事務所・竪坑があった。周辺住民によれば、当時、須崎国民学校には朝鮮人の子どもが各学年に二人ほど、全体で一二〜三人くらいが来るようになったが、鉱山が水害のため閉鎖されると、急に学校からいなくなったという。

 須崎鉱で強制連行された朝鮮人がストライキに入ったのは、閉鉱の約一年前、一九四〇年七月一七日であった(司法省刑事局「労務動員計画に基く内地移住朝鮮人労働者の動向に関する調査」『集成』四所収 一二四一頁)。

 林海成ら二八人は以前から鉱山側に家族呼寄せの履行を要求していたが、鉱山側はそれを実行しようとはしなかった。これに対し連行された人々は、家族の呼寄せ・労働条件の向上・賃上げ・差別待遇廃止を問題にしてストをおこしたのである。ストの発端は七月一六日の鉱山の祭神例祭での酒の分配の差別であった。一七日、午前六時三〇分の始業からストライキが始まる。かれらは家族を呼寄せること、硫化鉄鉱採取に伴う有害性に対しての労働条件の向上、物価高にともなう朝鮮への送金額の問題、日本労働者と比較しての差別待遇などを改善要求として掲げた。

 争議に参加した労働者の多くは坑内運搬夫であった。日収最低額は一円八○銭、請負制によって最高賃金は二円六五銭、最低は一円八○銭であり、平均日収額は一円九八銭ほどであった。下田警察が調査に入り、朝鮮人の要求を調査している。要求は、家族呼寄の即時履行、坑内作業に対し日収二円以上の支給、坑外労働に対し日収一円八〇銭の支給、以上が不可能であるならば帰国させよ、というものであった。一〇名が午前九時にストから脱落したが、一八名はストを続けた。しかし午後五時、労働者側は要求を撒回して従来通りの条件で就労した。鉱山側は待遇の「迅速」な「善処」を約束したようである。

 須崎鉱では前年の一九三九年七月一二日にも朝鮮人坑夫が日本人同様の待遇改善を要求し争議に入り、一六日、要求を貫徹している(『静岡県労働運動史』)。

 労働者の抵抗は逃亡という日本帝国主義の生産現場から姿をかくすこと、改善や帰国を求めて争議に入ることなどさまざまな形でおこなわれていった。

 一九四〇年二月、静岡県産業報国会連合会が結成され、県下一四三工場に産業報国会がつくられていく(『静岡県労働運動史』一一三九頁)。そのような状況下、これらの連行者による抵抗は地域の労働運動史のなかで光彩を放っている。

 

  四 土肥鉱業への強制連行

   1 土肥鉱山

 

 土肥における金鉱開発の歴史は古い。一二世紀末には八幡神社が建てられ、一四世紀には足利政権による採掘、一七世紀には徳川政権による採掘がおこなわれた。

 近代に入り、一九世紀末、土肥有志による開発計画、二〇世紀はじめの探鉱を経て、一九一七年土肥金山株式会社が設立された。同社は住友の別子銅山と精錬契約を結び、一九三一年には住友資本の系列下に入った。一九三四年に土肥鉱山労働者のストライキが起きた。一九三六年には浮游選鉱場を設置し、一九三七年になると政府の産金奨励政策の下で増産態勢をとった。湯ケ島鉱山を開発し、一九三九年には縄地鉱山を併合した。一九四二年、名称を土肥鉱業株式会社と変更、一九四三年の金鉱業整備令のなかで酸硅鉱を伴う有望金山とみなされ採掘がすすむ。労働力不足は「勤労報国隊」の導入、女性の坑内労働、朝鮮人の動員となった。

土肥鉱山への朝鮮半島からの連行についてみてみよう。厚生省調査の名簿によれば土肥鉱山へは三六四人が連行され、湯ケ島鉱山へは三三人が運行されている。中央協和会史料では縄地鉱山へは四一人が連行されている。土肥鉱山関係で四四〇人ほどの連行者があったことになる。

土肥鉱山への連行状況をみてみれば、一九四〇年十月慶尚北道迎日郡等から五九人、十一月同郡等から二〇人、一九四一年四月忠清南道天安郡等から三一人、六月同郡等から八三人、一九四二年二月には忠清北道清州郡、報恩郡等から九〇人、一九四三年十二月には江原道通川郡、楊口郡、麟蹄郡等から五〇人、一九四四年七月には江原道楊口郡、麟蹄郡から三一人が連行されている。湯ケ島鉱山へは一九四三年一月忠清南道牙山郡等から三三人が連行された。

土肥鉱業は一九四五年に休業命令をうけ採掘を中止、住友鉱業は宇久須鉱業の経営をすすめ、明礬石採掘に力を入れるようになった。土肥の朝鮮人九〇人余りが宇久須へと転送された。

現地調査からみてみよう。

 朝鮮人が居住した寮は現・土肥中学校舎の南側の斜面を上った場所にあった。三段の敷地に三棟あった。一棟に七世帯ほどが居住できる大きさだった。朝鮮人寮の跡を残すものに水槽跡のコンクリートが残っていた。一九四一年ころ二〇〇人弱がいたという。

平井和子『西伊豆土肥の女たち』には朝鮮人強制連行についての調査報告が入っている。ここで元労務係・朝鮮人寮保健婦・補導員の妻・選鉱婦らの証言をまとめておくとつぎのようになる。

「毎回五〇人くらいの朝鮮人を労務が下関や名古屋へと迎えに行った。そのうち名古屋からの五〇人は宇久須へ連行した。「協和寮」の朝鮮人は二〇代の青年が主であった。毎日『今日は何人逃げた』といっては逃亡者を捕えてリンチしていた。寮の中での娯楽といえはバクチくらいであり、給料を支払うと翌日仕事に出なくて困るといわれていた。朝鮮人を枕木のようなものの上に座らせて鞭でたたいていた。朝鮮人は坑内作業・雑夫・車夫の仕事の外に会社の所有していた田畑作業にも従事させられていた。朝鮮青年に慕われ交流した女性や恋をして子を生んだ女性がある一方、差別し喧嘩となった事件もあった。敗戦の時、赤痢となって隔離された五〜六〇人のなかに三人の朝鮮人がいたが、敗戦を伝えると興奮しあばれ出し、一人はその夜死亡した」(『西伊豆土肥の女たち』一九〜三〇頁)。

 鉱山側は敗戦時、みずからに不利な資料は燃やしたようである。それは戦争犯罪とその責任を隠滅する作業であった。

「土肥鉱山の社宅は朝鮮の人たちがほとんどでトンガラシを入れてかぼちゃを煮てくれたり米を石臼でつぶした粉でふかしてくれました」という(『戦争中の暮しの記録』一七八頁)。この証言は、父が縄地鉱山の運搬夫・母は選鉱婦であったが、父の「召集」によって母が土肥へと転勤したという子どものものである。

土肥鉱山で支柱夫として働いた佐藤幸四郎さん(一九一三生)はいう。

朝鮮人は一九三九年ころから「募集」されてやってきた。数回にわかれての渡日だったが、はじめは学歴があり日本語ができる人が多かった。けれども最後に来た人々は会話ができなかったから、仕事を教えるにも苦労したという。かれは朝鮮人に仕事を教えたが、一九四四年に徴兵された。一九三八年に建設された日本人社宅が残っている。

当時、産金が奨励されたが、日本人は兵士として徴兵され、労働力が足りず「増産」のために朝鮮人が労働力として集められた。朝鮮係の守衛が配置されたり、警察要員として朝鮮巡査が、朝鮮語ができるということで配置された。逃亡者もあり一〇人ほどの集団で逃げたこともあった。逃げる方法は二つであり、海岸づたいに逃げるか、山を越え修善寺方面へ逃げるかであった。山中に数日入っていたが空腹のため帰ってきたこともあった。朝鮮人は言葉が通じないために行き違いがおきた。発破の方法に熟練できず、事故にあい死んだ事もある。坑道をあけるため発破を二人でかけに行くことが通例であったが、事故も多かった。朝鮮人の発破の失敗で親方が二人死んだこともあった。

 同僚の鉱夫は三〇代で死ぬ者か多かった。鉱山を渡り歩き「ヨロケ」で死んだ。咳込み、骨と皮になって死んでいく。焼くと肺が石になって残る。三〇〜四〇度の高熱のなかで働き、胸に鉱滓をすいこんだ(土肥にて、一九九〇年談)。

戦後、朝鮮に帰った労働者の胸の中にも鉱滓は残り、咳の根となっているだろう。

 湯ケ島鉱山で採鉱係だった中山輝明さんによれば、湯ヶ島には一九四〇年ころ朝鮮人労働者がやってきた。中山さんが一九四三年に土肥鉱山に転勤した時、湯ケ島には四〇人ほどの朝鮮人がいた。単身の労働者が多かったようだ。土肥では二〇〇人くらいが使われていた。金山の労働者がピーク時全体で一二〇〇人ほどであったというから、かなりの割合になる。のち、中山さんも徴兵された(土肥にて、一九九〇年談)。

 地域住民からのききとりによれば、祭典の時「チョゴリで正装して見物にきた」「タクアンを渡して交流した」「夫が徴兵にとられて不在中、朝鮮の男性と仲良くなり夫婦喧嘩になった」「小学校に朝鮮人の生徒がきた。一二歳位で小学校一年に入り、一学期が終ると二年、二学期が終ると三年となり一年間で四年生に入ったという子もあった」「朝鮮から来た人が多かった」「憲兵隊が入って朝鮮から人を入れていた」などといった発言があった。

「従順で性質はよかった」「土肥では優遇した」「肉をやったりして朝鮮人をかわいがった」という関係者の発言もあった。しかし、強制連行の性格をみることなく「従順」「優遇」としてしまう表現には偽りがあるとみるべきだろう。土肥での強制連行への抵抗は、逃亡・事務所襲撃・帰国要求サボタージュなどの形をとっておこなわれていた。

 一九四一年一〇月一一日、日本人寮長による暴力的労務管理への怒りが爆発した。「協和寮」には当時一七六人が居住していた。事務所係員が一〇日、忠清南道出身者を殴打したことに対し、同出身者一〇〇人余りが事務所に押しかけ乱入した。日本人関係者(大屋市太郎・中川福弥・鈴木為雄ら)は傷をうけ、窓ガラス五〇枚が粉砕された。警察官が導入され、一一人が検挙され、八人が「傷害罪暴力行為等処罰に関する件法律違反」で送局された(「特高月報」一九四一年一〇月分『集成』四所収七六七頁)。

このような抵抗があったのである。

 当時、連行労働現場から逃走し、自由労働者となることか多かったようである。朝鮮人飯場に入り込んで逃亡した。昼間は発見されやすいため、夜間の逃亡が多かった。逃走ルートは鉄道線・主要幹線は利用せずに、山岳地帯にむかって逃げ、追捕の手がゆるんでから目的地にむけて逃走する手もとられたようだ。逃走日は、勘定日の前日や勘定日の翌日が多く、「二人逃げたら全部逃げたほうかよい」「警察に捕っても殺されない、本籍送還ですむ」といった認識もあったようである(「特高月報」一九四二年十一月分・『集成』四所収一〇〇四ページ。富山県日本カーバイド工場「集団逃亡計画」に対する調査報告による)。

同胞の飯場をめざしての脱出行為が連行された朝鮮人の抵抗手段のひとつであり、国家・資本にとって現場での労働者の逃亡は生産システムの停止をともないかねない脅威であった。

 一九四四年二月一日、土肥鉱山でサボタージュが発生した。二月一四日が「雇用期間満了」のため帰国を要求していた朝鮮人労働者に対し、鉱山側は「鉄道乗車券の発売制限」を口実に帰国延期を伝えた。労働者は即時帰国を要求しサボタージュに入ったのである。警察は一同を「説得」し就労させたという(「特高月報」一九四四年三月分『集成』五所収 三七六頁)。

 資本は朝鮮人の足止めのために「定着」を「説得」し「再契約」を強要したのである。協和会による「定着指導」は「産業戦士としての自覚」の宣伝であり、「戦争に勝つまで働け、帰国してもすぐに徴用されるぞ」という脅迫でもあった。「有能ナル作業労務者の育成」「皇国臣民タル資質ノ錬成」という「指導」の内実は「徴用」をちらつかせての定着・再契約の強制であった(中央協和会「移入労務者定着指導二関スル申合事項」一九四四年二月、『集成』五所収七一〇頁)。

 

   2 縄地鉱山・湯ケ島鉱山

 

 つぎに土肥鉱業鰍フ系列下にあった縄地鉱山についてみてみよう。

縄地鉱山の採掘は一六世紀末にはじまった。近代に入り、縄地鉱山の開発は土肥金山株式会社がおこない、住友資本は高根鉱業所として採掘した。この鉱山は一九四三年金鉱業整備令によって休山となる。縄地鉱山へも強制連行があった。住友資本系列下の土肥金山鰍ヘ一九三九年縄地鉱山を直営し、朝鮮人を送り込んだ。

当時、県道に沿って商店を出していた加藤ツルさん(一九一八年生)はいう。

四O〜五〇人ほどが単身で連行されてきた。朝鮮人の飯場は現・国道から縄地川にそって降り、縄地川下流の北側の地点に建てられた。店に日本人間監督の妻が買物にきたり、「宮本」という朝鮮人が買物にきたり、店で遊んでいったりした。親しくなりリンゴのみやげを買ってきてくれたり、モチや寿司をわたしたりした。朝鮮人が雑貨を買いに来たが、家族持ちは一人もいなかった。現在残っている人は一人もいない。当時、縄地の人たちは鉱山で働いた。三交替制であったから、一の番で働き、昼間は農作業、三の番でまた働くという形で仕事をして体をこわした人も多い(縄地にて、一九九〇年談)。

 戦前の縄地鉱山の労働者数は一五〇人ほどというから強制連行されたという五〇人ほどの労働者は全労働者の三分の一にあたる数である。縄地鉱山も金山再編の中で連行朝鮮人は転送されていった。「金鉱業整理二伴フ労務者配置転換案」には、縄地鉱山の朝鮮人三五人を山梨県の土肥鉱業茂倉鉱山に転送の予定とある。

湯ケ島鉱山は一六世紀末から採掘され、近代に入り土肥鉱業が経営した。ここにも朝鮮人が連行された。厚生省名簿によれば一九四二年一月に忠南牙山から三三人が連行されている。

戦後、中外鉱業が買収し経営するが、一九七四年に鉱脈が枯渇して採鉱は中止された。元坑夫は当時の思い出を塵肺で苦しみながら語った。

湯ケ島鉱山事務所の労働者用ロッカーのなかに、戦後に結成された全日本金属鉱山労働組合連合会関係資料が置き捨てられていた。付近の農家が置いている農作物のかなたに「全鉱湯ケ島鉱山労働組合」の赤旗が泥にまみれていた。廃鉱後一O数年にわたる月日が、赤旗の白抜きの文字に赤い染料をにじませ、旗の各所に虫喰いの跡を残していた。だが一枚の赤旗は朽ちたとしても、赤旗に刻まれた階級の魂は永遠であるように思われた。

 

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