常磐炭鉱への朝鮮人連行について

 

 

1 常磐炭田の歴史

 常磐炭田は阿武隈山地にそって福島県富岡町から茨城県日立市にかけてひろがる。この炭田名は磐城と常陸の旧国名から採っている。常磐炭田は双葉・石城北部・石城南部・多賀の4地区に分類されるが、埋蔵量は石城北部と多賀地域におおく、ここでテーマにする常磐炭鉱は石城北部にある。

ここでの石炭採掘は江戸期末期の19世紀中ごろからはじまっている。常磐炭田の炭種は亜瀝青炭と褐炭が多く、北海道や九州の石炭と比べて品質はおちるが、工業地域である京浜地域に近く、鉄道で輸送できることから、資本主義の発達とともに開発がすすんだ。1884年には浅野資本が磐城炭鉱を創業し、その石炭輸送にむけて常磐鉄道の建設をすすめた。1897年には水戸から平までの路線が開通し、常磐炭田は東京と鉄道で結ばれた。このなかで1895年には入山採炭も設立され、川平や高倉で竪坑の開削を始めた。1906年には好間炭鉱が設立され、後にこの炭鉱の経営権を古河資本が握り、その規模を拡大した。

採炭現場が拡大して炭鉱労働者が増加する中で、労働者の運動も形成された。1897年には磐城炭鉱でストライキが起こされ、1914年には友愛会内郷分会が発会し、組織を拡大していった。労働者が団結して要求書を提出し、ストライキを起こすなど各炭鉱での労働運動も盛んになった。1927年には入山採炭や磐城炭鉱など各地の炭鉱で大きな労働争議がたたかわれた。同年、磐城炭鉱の内郷町田坑で坑内火災がおき、134人の労働者が死亡するなど事故による死者も多かった。

1920年代には朝鮮人労働者も雇用されたが、恐慌のなかで解雇された。アジア太平洋戦争が始まると朝鮮半島からの強制連行もおこなわれるようになった。1944年には入山採炭と磐城炭鉱が合併し、他の支山も併合して常磐炭鉱が設立された。常磐には連合軍俘虜も連行された。

日本の敗戦により解放された朝鮮人は生活の維持と帰国を要求して活動した。戦後も大小130余の炭鉱で採掘されたが、1976年に常磐炭鉱西部鉱業所、1985年には常磐炭鉱中郷鉱が閉山し、常磐炭田での石炭採掘は終わった。

2007年、常磐炭田跡地は近代化産業遺産に認定された。

 

2常磐炭田での強制連行調査

常磐炭田への朝鮮人の強制連行については、長澤秀氏による調査・研究によって多くの史実が明らかにされている。常磐炭鉱や石炭統制会東部支部関係の収集史料は、長澤秀編『戦時下強制連行極秘資料集』、『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』に収録されている。論文には「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」「ある朝鮮人炭鉱労働者の回想」「日帝の朝鮮人炭鉱労働者支配について」他多数あり、調査の中で300人ほどの死亡者名簿もまとめられている。

大塚一二『トラジ』、同「常磐炭鉱を中心とした戦中朝鮮人労働者について」には、現地の行政史料や福島県内各地での連行状況が紹介され。石田眞弓『故郷はるかに』には連行された朝鮮人証言がまとめられている。

 常磐炭田の歴史については『いわき市史別巻 常磐炭田史』があり、ここには戦時下の朝鮮人労働や解放後の動きについても記されている。最近では常磐炭田研究会や産業遺産の研究会による炭鉱史研究の動きなどがあり、『写真が語る常磐炭田の歴史』、『いわきの産業遺産ガイド』などの書籍も出版されている。おやけこういち『常磐地方の鉱山鉄道』には炭鉱鉄道の歴史とともに炭鉱の略地図が収録され、渡邊為雄『みろく沢炭鉱写真資料館写真集』には戦時下の炭鉱の写真も収められている。

 ここではこれらの研究から常磐炭鉱への連行状況についてみていきたい。

 

3 常磐炭田への朝鮮人連行の状況

常磐炭田での朝鮮人労働と連行の経過についてみてみよう。

「福島県特高要覧」には1926年6月末、福島県での鉱山労働に男531人とある。鉱山関係で働く朝鮮人は家族を入れると613人である。このころ磐城炭鉱・藤原炭鉱・勿来炭鉱などに朝鮮人が働いていた。恐慌の中で朝鮮人労働者は解雇された。磐城炭鉱高坂坑の廃坑が計画され、朝鮮人鉱夫60人、家族を合わせると150人が「満州」へと送られたという。磐城炭鉱では1933年に130人ほどが解雇された(『いわき市史別巻 常磐炭田史』512~513頁)。

常磐炭田に朝鮮人が強制連行されたのは日中戦争による労務動員政策による。常磐石炭鉱業会(磐城・入山・古河好間・大日本の4社)は1939年5月の例会で朝鮮人の「集団移入」について打ち合わせている(『いわき市史別巻 常磐炭田史』514頁)。

常磐炭田で連行がおこなわれた炭鉱は、福島の磐城(常磐内郷・磐崎)入山(湯本)、古河好間、大日本勿来、日曹赤井・常盤、小田、上山田、茨城の常磐中郷・神ノ山、櫛形、関本、山口、山一などである(石炭統制会「労務者移動状況表」「労務状況速報」による『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』T所収)。

常磐の炭田地帯への連行者数は長澤秀氏の調査表によれば2万人ほどである(長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」所収の表11による)。

このなかで、入山採炭と磐城炭鉱にはそれぞれ7000人ほどの人々が連行され、古河好間へは2000人を超える人々が連行された。これらの連行者で1万7千人ほどとなり、この3つの炭鉱で常磐炭田への連行者の大半を占めることになる。

1944年3月末には入山採炭と磐城炭鉱が合併して常磐炭鉱ができた。常磐炭鉱は内郷地区に住吉坑、綴坑、川平坑、湯本地区に湯本坑、鹿島坑、磐崎坑などを持ち、茨城側には中郷と神ノ山を持つ炭鉱であり、年産100万トン規模の炭鉱になった。この炭鉱での生産拡大のための労働力として朝鮮人の連行がおこなわれた。制海権を失い、北海道からの石炭輸送が困難になる中で、本土内にあり鉄道による輸送ができる炭田として常磐炭田はその価値を増し、いっそう開発されるようになる。連行朝鮮人の数は増加し、旧入山・磐城炭鉱のときからの連行者を含めると連行者数は1万5千人ほどになる。

 

4        常磐炭鉱への連行 @募集期

 

このように常磐炭鉱は常磐炭田での最大の連行現場になる。ここではこの常磐炭鉱への連行状況についてみることで、常磐炭田への連行の特徴について考えたい。

1939年10月1日には磐城炭鉱に63人、10月26日には入山採炭に170人が連行された(新聞記事から、長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」による)。元労務課員によれば、1939年の8月から9月にかけて慶南の4郡から500人を選考した(長澤秀「常磐炭田における朝鮮人労働者について」)。

連行地は死亡者名簿の記載から、磐城は慶南河東・泗川などから、入山は慶南山清、忠南などから連行したことがわかる。その後も連行が続き、1939年には磐城と入山にそれぞれ約500人の連行がおこなわれた。

炭鉱には「半島係刑事」が派遣され、炭鉱側は個人調査や所持品調査をおこなった。また、軍隊的な集団規律訓練や「皇国臣民」の訓育をふまえて実地訓練や作業訓練をおこなった。このような監視と統制のなか、連行された人々はすぐに抵抗をはじめた(以下、抵抗の事例については「特高月報」「社会運動の状況」による、長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」所収の「朝鮮人鉱夫の抵抗例」と『いわき市史別巻常磐炭田史』522頁の記事を参考」。

1939年10月27日には磐城長倉坑で150人が坑内作業を危険として入坑の拒否を申し合わせ、11月19日には磐城で強制貯金の返済を要求して入坑を拒否した(「紛争議一覧」1939年12月末『社会運動の状況』)。これらは、募集の甘言に騙されたことや強制貯金によって賃金が十分に支払われないことに対する抗議行動である。

抵抗は続き、12月18日には磐城内郷坑で同胞の坑内での死亡に対し、13人が入坑を拒否した(「特高月報」1940年1月分)。この入坑拒否は慶南道泗川郡?洞面から連行されてきた朴ト来、金鐘達が11月、12月とつぎつぎに労災で死亡していることへの抗議行動であろう。

1940年に入ると、磐城内郷坑では、1月に河東郡岳陽面の24人が出身面事務所に募集条件の賃金との相違と強制貯金への不当性を訴える陳情書を郵送した。1月3日には妻が病気になっても帰国させないことに対して5人がサボタージュをおこなった(「特高月報」1940年1月分)。2月には15人が同僚崔夢吉の全治一週間の負傷に対し、その切羽での作業の中止を要求するなどの闘いがおこなわれた(「特高月報」1940年2月分)。

このように連行された人々は強制労働による現場での死亡事故、賃金未払い、強制貯金などに抗議し、帰国を要求して闘いを繰り広げていったのである。

1940年1月23日には入山採炭で、430人が同胞の死亡の原因は怠業戒めの1時間の直立という私刑によるものと抗議、ストライキを起こし、労務係に反撃した。私刑によって殺されたとみられるのは忠南出身の金一斎である。死亡は1940年 1月19日である。警察は私刑による死亡ではないとし、3人を検束した(「特高月報」1940年2月分)。

1940年2月と3月には、磐城で日本人との対立事件が起きた(「特高月報」1940年3月分)。4月には磐城長倉で、鉱夫による暴行に抗議して200人ほどがストライキで抵抗、警察は朝鮮人30人を検束して弾圧した(「特高月報」1940年4月分)。10月には入山採炭でも労務係の暴行に対し80人ほどが寮詰所に終結して抗議し、警察は4人を検束している(「特高月報」1940年11月分)。

1941年6月3日には磐城内郷で飯米の削減により40人がストライキをおこない(「特高月報」1941年6月分)、翌42年5月には飯米の増量を要求してハンストをおこなった。このハンストで3人が検挙された(「特高月報」1942年6月分)。1943年1月25日には磐城内郷では賃金値上げを求めて2人がサボタージュする行動も起きたが、警察は検挙し、誓約させて釈放した(『社会運動の状況』1943年2月分)。

これらの争議は、暴力的な労務管理と食料削減などへの抗議行動であり、抵抗のごく一部を物語るものであるだろう。

このような抵抗が続くなかで、連行も繰り返された。死亡者名簿の記載から1940年には、磐城に慶北義城・醴泉、慶南咸安・咸陽などから、1941年には、磐城へと全北淳昌・益山・長水など(12月分)から連行されたことがわかる。入山についてはこの頃の死亡者名簿の記事が少なく、連行状況は不明であるが、磐城と同様、連行が繰り返された。

入山採炭で募集に関わった労務課員によれば、1939〜40年ころ、全南潭陽から300人、全南高興から150人、全南木浦100人、さらに全南長城郡から、と4次にわたって連行し、3人の募集員によって集められた朝鮮人は特別ダイヤの列車で釜山に輸送されたという(長澤秀「常磐炭田における朝鮮人労働者について」)。この記事から、1940年頃の入山採炭への連行は全南からおこなわれたとみていいだろう。

連行者数は増加し、1940年度の連行者数は磐城1851人、入山1768人、1941年度の連行者数は磐城814人、入山731人、1942年度の連行者数は磐城1144人、入山1720人となった。

1942年1月から1943年3月までの連行については、常磐炭鉱「昭和19年1月以降満期者現在調」(『戦時下強制連行極秘資料集』V所収)から、連行者数と連行された出身郡がわかる。

磐城へは1942年前半に、慶北義城・漆谷・清道、京畿広州・楊州・高陽、全南海南と連行がおこなわれた。入山へは1942年前半に、全北高敞・任実・扶安・茂朱、慶北永川・慶州・清道・奉化から連行された。

この時期の1942年5月に、入山採炭に連行された林潤植さんの証言をみてみよう(石田眞弓『故郷はるかに』37〜49頁、長澤秀「常磐炭田における朝鮮人労働者について」から要約)。

林さんは21歳のときに慶北慶州から連行された。「福島の飛行場の建設」という2年契約の募集で集められ、厳重な監視のなか釜山から下関を経て、湯本の入山採炭に連行された。労務係は、寮では自由行動はできず2年辛抱すること、逃げたら死ぬことになると脅した。自治会館前に並ばされ「深川五郎」とされ、青葉第4寮に収容された。翌日から入坑させられ、先山について仕事をさせられた。一日中泣き通し、死んでもこんなところにいられないと思った。食事もだんだんと悪くなり、豆かすになった。風邪などでは仕事に出され、仕事を休むと料理の屑のようなものしか出さなかった。

 逃亡して捕まると、入坑・昇坑のときに並ばせ、皆の前で火箸を焼いて指で挟ませたり、コンクリートの上に座らせて水をかけながら叩いた。ひとりが逃げると後の9人が1ヶ月の間、連帯責任とされ、酷い目にあった。強制貯金され、通帳も渡されなかった。同胞が死ぬと棺桶にいれ、監視をつけて朝鮮人に焼き場に持っていかせた。涙の乾く時もなく坑内に狩り出された。満期が来ても戦局は継続しているからもう1年いろと言われた。1年延長して帰国を求め、1945年6月に帰ることになったが、清算したところ120円だけだった。7月に新潟に行ったが、乗船する船は爆撃で破壊され帰国できず、解放後の9月上旬に湯本に戻った。

 林さんは「わし達の命を何とも思っちゃおらん」「まるで犬扱いだ」「あのころの辛さ、といったら苦労なんてものじゃなかった」と語っている(『故郷はるかに』42・48頁)。

この証言から、この時期、入山採炭では炭鉱側が朝鮮人を人間として扱わなかったこと、創氏改名による氏名ではなく、炭鉱側が地名による姓を与え、一郎から十郎の名前をつけて管理したこと、暴力的な労務管理がおこなったこと、満期が来ても延長を強要したこと、食事も次第に悪化させていったことなどがわかる。

中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」からは1942年6月までに磐城3432人・入山3641人を連行し、同年6月の現在員が磐城1168人・入山1664人であったことがわかる。この数値は「募集」期における連行者数を示すものとみられる。磐城と入山を合わせてこれまでに7000人を超える朝鮮人が連行されたのである。

このように連行がすすめられていくわけであるが、常磐地域での逃亡率は1942年10月末までに34.2パーセントである。病気による送還は9.6パーセント、満期による帰国は11.6パーセント、死亡は0.8パーセントであり、常磐地域での現在員は41パーセントとなっている。連行しても自由を求めつぎつぎに逃走してわけである。なお、九州の逃走率は44パーセント、北海道は15.6パーセントである。北海道は死亡率が2.1パーセントと高い。(『いわき市史別巻 常磐炭田史』517頁)。

 

5 常磐炭鉱への連行 A「官斡旋」期

官斡旋による連行の状況についてみてみよう。

磐城へは1942年後半には江原江陵・襄陽、全南光山、全南長興・康津・宝城、京畿坡州から連行され、1943年に入ると京畿長湍からの連行がすすんだ。

入山へは1942年後半には江原伊川・准陽・平康、全南宝城・潭陽・求禮、全北茂朱・長水から連行され、1943年に入ると、江原平昌・旌善・准陽・平康から連行された。

 官斡旋による第1次連行者は1942年9月に磐城と入山に到着した。

1942年9月に伊川から連行された集団については、常磐炭鉱の「第1回伊川郡寮別満期者名簿」「災害原簿」「戦時下常磐炭田の朝鮮人鉱夫殉職者名簿」(ともに『戦時下強制連行極秘資料集』V所収)から60人ほどの名簿を作成することができる。伊川からは100人が連行され、10の姓に分けられ、一郎から十郎と命名された。ほとんどが入山6坑に送られて採掘の補助の形で労働を強いられていたことや死亡者名もわかる。

1943年の連行者数は磐城1194人、入山1392である。1939年から43年までの連行者総数は磐城5504人、入山6107人である。両炭鉱は1944年3月末に統合されて常磐炭鉱になるが、その後も2000人以上を連行し、連行者数は1万5千人近くなる。このうち茨城県側の中郷には440人ほど、神ノ山には100人ほどが連行された。

中郷炭鉱への連行は1942年12月のことであり、全北から69人が連行された(「櫛形炭礦ノ半島人労務管理ヲ見ル」長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」所収史料)。神ノ山については厚生省調査の茨城県分に名簿があり、全北からの連行者名を知ることができる。

このように常磐で連行が強化されたわけは、常磐での「石炭増産」に向けての取り組みによる。たとえば、1942年4月から5月にかけては「比較的輸送容易なる常磐炭を増産し、以て九州炭・北海道炭の海上輸送力逼迫せる窮状を緩和する」ために「石炭増産目標確保期間」が設定され、8月から9 月にかけては「戦時非常石炭増産期間」が取り組まれた(『いわき市史別巻常磐炭田史』466〜467頁)。

切羽を戦場とみなし、それを死守せよという掛け声の下で、労働者を産業戦士として扱い、職場を戦場化する動きが強められていったのである。このような職場の戦場化の中で連行された朝鮮人の状況について、日本人労働者は次のように回想する。

「常磐炭鉱では、ひとつの寮に2~300人を入れ、労務の管理人をひとつの寮に4~5人おき、具合が悪くても仕事を休ませなかった。寮のまわりに塀を作り出入り口をひとつにして詰所に助手をおいた。寮長は労務の親方で暴力を使い、ステッキでビシビシやるから生傷が絶えない。朝鮮人には日本各地の地名をつけ一郎から十郎までいて、大きな切羽ではこの10人を一緒に働かせた」( 要約・『いわき市史別巻常磐炭田史』520頁)。

入山の青葉第2西寮の労務係助手によれば、寮管理者の仕事は「入坑督励」と「逃走防止」であり、「入坑督励」とは木刀や革ベルトによる殴打がなされ、「逃走防止」のために通信は開封された。一晩に18人が逃亡することもあったという(坂本利和雄証言「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」所収)。

青葉寮での私刑が問題になり、江原道から警察が捜査に来たこともあるという(元長倉寮長・大田原宗三証言「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」所収)。なお、入山採炭では湯本町上川にあった宿と契約して性の売買もさせていたという(「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」の註58による)。

連行された朝鮮人を強制的に労働させるために、「入坑督励」と「逃走防止」が寮管理の柱になっていたわけである。また、私刑は朝鮮から警察が派遣されてくるほど問題となっていたのであり、性の奴隷を介在させての労務管理もおこなわれたとみられる。

1943年の連行についてみてみよう。各月の連行者数については、石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」(『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』)から知ることができ、石炭統制会の「労務者移動状況表」「労務状況速報」(『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集T』所収)などからは、1943年5月から44年8月までの雇用・解雇の数もわかる。「半島人労務者供出状況調」は朝鮮現地からの連行月と連行者数を示すものであり、「労務者移動状況表」「労務状況速報」などの史料は受け入れた企業側の雇用の月と雇用数を示すものである。このため2つの史料の数値は少し異なるが、連行状況は良く示されている。また、死亡者の名簿からもこの頃の連行先の一端を知ることができる。

これらの史料から、1943年の連行状況をみると、磐城へは、1943年前期には京畿坡州・長湍、慶南昌寧・河東、江原横城・洪川・原州などから約700人、後期には京畿、江原蔚珍、全北群山・沃溝・完州・任実などから約500人が連行された。入山へは江原道の平昌・旌善・准陽・平康・蔚珍・楊口・華川・横城・江陵・麟蹄と京畿から約1500人が連行された。両炭鉱への連行者約2700人のうち、輸送途中での逃亡などによって炭鉱に到着し雇用された数は2500人ほどになったとみられる。

 この時期に、入山採炭に連行された李竜八さんの証言をみてみよう(『故郷はるかに』124〜132頁、長澤秀「ある朝鮮人炭鉱労働者の回想」)。

李さんは1943年8月に江原蔚珍郡平海面から連行された。2年契約で100人が蔚珍から大邱までトラック3台で送られ、そこから列車で釜山に連れて行かれた。下関から入山採炭に連行され、「君山五郎」とされた。日本語ができるものが班長とされ、訓練が1週間ほどあった。青葉寮は8畳に7〜8人、はじめは同期で第2寮に入れられ、徐々に移された。夏は南京虫がでた。坑内は40〜50度の暑さであり、熱で倒れることがよくあった。寮の事務所では奴隷に等しい扱いを受けた。反抗的だとすぐに入牢させられた。処罰によって耳が遠くなったり、失明させられた人もいる。逃走して発見されると半殺しだった。怪我で通院中に同郷の3人が逃走したため、知り合いということで物置にぶち込まれ、殴る蹴るの暴行を受けた。8・15解放時に残ったのは30人、ほとんどが逃亡し、2人が死亡した。現場での作業中に8・15を迎えた。1週間ほどは作業が続いたが、早く帰せという就業拒否の声が高まった(以上要約)。

 この証言から、集団的な連行の状況と連行先で奴隷扱いされ、抵抗すれば暴行を受けたことがわかる。

1944年の連行状況をみてみよう。1944年2月には入山と磐城に計450人ほどが連行された。3月末の両鉱の統合以後、主として江原からの連行がくり返された。連行先は洪川・鉄原・襄陽・通川・伊川・麟蹄などである。

1944年2月に3年契約の「勤労報国隊」の形で江原道洪川郡瑞石面から連行された金起元さんの証言をみてみよう(『故郷はるかに』119〜123頁)。

金さんによれば、炭鉱は「全くの奴隷扱い」をし、「死に損」であり、補償も退職金もない。契約が期限になっても帰国させないこともあった。休めば食事は小さい茶碗に1杯だけに減らされ、同宿者が逃亡するとストーブの前で裸にしてベルトで叩いた。青葉第2西寮の寮長が暴力から死に至らしめた話も聞いている。特別訓練所の建物もあった。通帳をはじめ一切の書類は会社が持ち、逃走のおそれがあるからと交信も妨害された。手紙は開封され、現金が見つかれば没収された。どんなに貯金していても毎月3円未満しか渡されなかった。解放後、朝鮮人連盟が結成され、会社側の責任を追及し、物資を分配し、帰国を要求した。

金さんは、賠償も充分ではなく、「体にしみ込んだものは消せない」と語っている(『故郷はるかに』123頁)。

徴用による連行が始まると、このような管理・統制はいっそう強化されることになる。

 

6 常磐炭鉱への連行 B「徴用」期 

1944年7月、常磐炭鉱では昼休みに「全山総突撃職場大会」が開かれた。所長が飛行機、軍艦の不足は石炭が足りないからと訓示し、鉱員2000人がツルハシ・シャベルを挙げて、「帝国万歳」を三唱した。このような「鉱業報国」の動きの中で、常磐炭田での死傷者は増加の一途をたどった。鉱山監督局の統計では、1939年に88人であった労働者・職員の労災の死亡者数は、40年には116人、41年には80人、42年には109人、43年には94人、44年には131人と増加し、45年には176人と倍増、死者の合計数は800人近くになるのである(『いわき市史別巻 常磐炭田史』508・511頁)。

ここには連行された朝鮮人の死亡者も含まれる。自由を求めての現場からの逃走や帰国を求めての闘いも起こされていく。

1944年9月には、常磐炭鉱で500人が参加する争議が起きている。湯本坑第1青葉寮に収容されていた60人は官斡旋第1次の連行者であったが、9月21日には契約期限が満了することになっていた。しかし会社側は期間の延長を強要したため、連行者53人は9月30日に帰国しようと退出した。これに対し、警察は全員を国家総動員法違反の容疑で検束、全員に1年の延長を承諾させた。この湯本坑の動きに連動して、内郷坑の官斡旋第2次の連行者66人は9月26日の満期とともに休業し、湯本坑青葉第3西寮の300人、高倉坑第1西寮の75人も連帯して休業に合流した。警察は休業した第2回の連行者66人を検束し、期間延長を強要した。休業中の375人も警察の説得により就業を強いられた(「特高月報」1944年10月分、『いわき市史別巻 常磐炭田史』522頁)。

この湯本坑の官斡旋第1次の連行者53人は江原伊川からの連行者であり、内郷坑の官斡旋第2次66人は江原江陵からの連行者である(常磐炭鉱「昭和19年1月以降満期者現在調」『戦時下強制連行極秘資料集』V374頁)。

満期を迎えた朝鮮人は帰国にむけて直接行動に出た。その行動に多くの労働者が連帯して行動したのである。

現場では国家総動員体制によって徴用が適用され、さらに朝鮮人を徴用の形で動員・連行するようになる。それはこのような官斡旋による集団の帰国の動きや抵抗を抑圧し、懲罰を以って労働現場に連行者を束縛することをねらっての動きであった。

徴用による連行が始まると、1944年10月には600人ほどが、遠方の平安南道平原・中和・龍岡や江原道などから連行された。ここで判明した連行先は死亡者名簿から推定したものであり、これ以外の地域からの連行もおこなわれたとみられる。

 徴用による連行が始まった1944年10月に、常磐炭鉱(湯本坑)へと連行された秦点出さんの証言をみてみよう(『故郷はるかに』99〜102頁)。

秦さんは青葉第1西寮に入れられた。未経験で入坑させられ、切羽でダイナマイトを仕掛ける助手、巻揚げ機の助手、運搬路での手押しの仕事、湯本坑での石炭輸送専用線の敷設などで仕事をさせられた。病欠すると食事は粥に切り換えられ、働くときの食事は与えられなかった。解放は鹿島坑でむかえた。

連行はいっそう強化され、奴隷扱いの強制労働がおこなわれた。

1944年以降の連行者数については、長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」に連行者の総数が計上されている。それによれば、1944年には内郷・磐崎へと1649人、湯本へと616人、1945年には内郷・磐崎へと228人、湯本へと68人が連行された(「表11被強制連行朝鮮人の総数(2)」「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」所収)。

連行された朝鮮人は、内郷では宮沢第1寮、第2寮、綴第1寮、綴第2寮、御殿寮、金坂寮、協和寮、磐崎では長倉寮、湯本では青葉第1寮、第2寮、第3寮、第4寮、協和寮、鹿島では睦寮などに収容された。1944年をみれば青葉寮の4つの寮に1700人を超える朝鮮人が収容され、綴第1寮、綴第2寮、宮沢寮、長倉寮にもそれぞれ400人ほどが収容されていた(磐城炭鉱「労務月報」・常磐炭鉱「昭和19年勤労者関係綴」、長澤秀「日帝の朝鮮人炭鉱労働者支配について(続)」・「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」所収の表による)。敗戦時の主な収容寮は、青葉寮・長倉寮・鹿島寮・宮沢寮・桜寮である。

 連行された朝鮮人が逃亡すると国家総動員法違反とされ、処罰された。大塚一二「常磐炭鉱を中心とした戦中朝鮮人労働者について」には、常磐内郷・王城・日曹赤井の例が紹介されている。常磐内郷からの逃走者についてみてみよう。

 林炳学さんは江原江陵郡江陵邑から常磐内郷・綴第1寮へと連行され、1944年4月25日に「現員徴用」された。1945年3月21日に逃走したが、「国家総動員法違反」により逮捕され裁判にかけられた。7月20日の判決は懲役5月であった。

 1944年4月には連行されていた朝鮮人たちは「現員徴用」され、徴用扱いにされた。逃亡すれば国家総動員法違反・国民勤労動員令違反とされ、懲役刑に処されたのである。

 常磐炭鉱鹿島坑には連合軍俘虜も連行された。1943年4月に捕虜収容所(湯本分所)が開設され、600人ほどが連行され、32人が死者した。古河好間にも250人ほどが連行された(POW研究会調査による)。

戦後、米軍による横浜軍事法廷で指導員5 人がその戦争犯罪を問われ、有罪になった(『いわき市史別巻常磐炭田史』528頁)。

 

7 解放後の闘い

 8・15解放後の闘いについては、長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」同「8・15直後の朝鮮人炭砿夫の闘い」にまとめられ、同編『戦時下強制連行極秘資料集』に朝鮮人連盟の活動を示す史料が収録され、『いわき市史 別巻常磐炭田史』にも記載がある。これらの記述から、常磐炭鉱での帰国までの経過をまとめてみよう。

8・15解放にともない、各地で帰国を求めの行動が起きた。しかし、具体的な帰国の動きが示されない中で、10月7日、常磐炭鉱湯本坑の800人ほどの朝鮮人が帰還日時の判明まで就労の拒否を申し合わせてストライキにはいった。10月12日には朝鮮人連盟福岡県本部が結成され、13日には磐崎坑、14日には鹿島坑、16日には内郷坑と全坑がストライキ状況になった。17日には自治会館で集会が持たれ、「朝鮮独立」を叫んでのデモ行進もおこなわれた。

この動きに対応し、朝鮮人連盟本部の金斗鎔らが来山、21日には会社の物資配給所を調査、会社に対し、朝連湯本分会が書面で作業服や石鹸などの配給を求めた。23日には7〜800人で朝鮮人大会を持ち、要求事項を決議した。要求条件は、11月末までの帰国、退職金・帰国費用の支払、賃金の追加支払い、食糧・医療の支給、死亡者への弔慰金と遺骨の返還、再徴用の強制性の認知、逃走者の呼寄せと未払い金の支払などであった。この間、労務係への殴打や倉庫の物資の分配などもおこなわれた。

この動きに対し、GHQが介入した。27日には内郷と湯本の朝鮮人に対し、朝連を信用しないこと、倉庫調査に対しては軍法会議で処罰すること、就労などをもとめ、さらに朝連幹部に声明書を出させた。声明書は、平和的解決に努めて暴動的行為をなくし、休業中の朝鮮労務者をできるだけ多く職場にもどすよう努力するというものであり、石炭増産への協力を約束させるものであった。28日には平警察署で会社から朝連に回答書が出されたが11月中の帰国を見込みとするものであり、不十分なものであった。米軍の介入は強化され、29日に持たれた朝鮮人集会には米軍が立会い、演説が天皇制廃止に及ぶと集会は解散させられた。

このころ朝鮮人連盟が湯本に貼り出したポスターには天皇制打倒、戦争責任者の処罰、民主主義の樹立、人民の共和制などがかかげられていたという。11月8日には朝連福島県本部委員長の金鐘生が占領軍司令違反で検束された。

この中、常磐炭鉱からの帰国は11月2日に200人、8日に60人、17日に2355人とおこなわれ、朝鮮人鉱夫2291人・家族339人のほとんどが帰国した。残留は15人だった。常磐の他の炭鉱でも帰国がすすみ、16日まで帰国が終わり、常磐炭鉱の11月17日の2355人が最後の帰国集団であった。

朝鮮人の帰国を求めてストライキに入って1ヶ月ほどで帰国が実現したようにみられるが、16日と17日に新潟に送られた人々は1ヶ月ほど待機させられ、博多や佐世保に転送され、さらに1ヶ月ほどたって帰国できたという。

 

8 強制連行を語り伝えるもの

 いわき駅の南西の松ヶ岡公園近くに性源寺があり、その墓地の中に「常磐炭田 朝鮮人労務犠牲者之碑」がある。

碑は常磐炭鉱朝鮮人労務犠牲者慰霊祭実行委員会によって1947年10月に建設された。碑文には、侵略戦争と大東亜共栄圏建設のために産業戦士として徴用され、酷使のなかで夭折した朝鮮人労務犠牲者を悼み、人類史の教訓とする旨が刻まれている。ここでは犠牲者を常磐・沈基福ほか128人、古河・金白壽ほか30人、大日本・李鐘徳ほか12人、日曹赤井・崔然変ほか8人、大昭・愉長金ほか1人、小田・「在殷ほか8人の計193人としている。この数はこの時点で判明していた数であり、現時点では病死を含め、炭鉱関連で300人ほどの朝鮮人労働者の死者名を確認することができる。

湯本の傾城には妙覚寺があり、無縁の炭鉱死者を追悼する供養塔があり、連行朝鮮人についても追悼している。

妙覚寺は常磐炭鉱の火葬場の跡地に建てられた。20世紀に入ってここで多くの死体が焼却されたが、無数の遺骨が散乱したままになっていた。それらの遺骨を収集し、旧火葬場の煙突の下に集め、その煙突を供養塔として保存し、寺が建てられた。1995年には塔の横に碑が立てられ、そこに「常磐炭鉱朝鮮人強制連行労務者一同之精霊」という文字も刻まれた。碑には、無数の遺骨の散乱という人命軽視はよき社会建設の障害であり、萬霊供養のために一宇を建立したという経過が刻まれている。この碑の横には、法要の際に使われた「常磐炭鉱殉難者之諸精霊」「朝鮮人強制連行労務者一同之霊」と記された木板が置かれている。散乱したままになっていた遺骨はその時代に労働者がどのように扱われていたのかをよく示している。

いわき市石炭化石館は湯本坑の跡地にある。入口には1944年の軍事生産美術推進隊による産業戦士の像があり、館には巻揚げ機が立つ。館の中には「6坑区世話所」の建物が保管されている。館の近くには自治会館の建物跡と戦時にも使用されていた湯本5坑・6坑の坑口が残っている。6坑の人車坑入口には昭和天皇裕仁が戦後直後に入坑して詠んだ「炭山にはたらく人ををゝしとぞ見し」という短歌の碑がある。

館の近くには1984年の「慰霊碑」があり、そこには「尊い命を捧げられた」と刻まれている。捧げたのではなく奪われたというべきだろう。常磐炭田での1939年から45年にかけての労災や病気による死者は朝鮮人だけで300人を超えている。常磐での100年にわたる採掘での死者数は数千人に及ぶだろう。生命を奪われた労働者一人一人の名前が刻まれていく歴史が、天皇の短歌碑を廃棄する力になるように思う。

内郷には住吉一坑の坑口や綴坑の煙突が残っている。みろく沢炭鉱資料館には、戦時期の写真も展示され、館が出した写真集はここで働いた人々の歴史写真集になっている。館の近くでは常磐炭の露頭も見ることができる。

常磐炭田跡地は2007年に近代化産業遺産に認定され、「いわきヘリテージ・ツーリズムマップ」や『いわきの産業遺産ガイド』が出されている。ここで労働し生活した民衆、労働運動をおこなった人々、ここで生命を失った労働者民衆の歴史をふまえての産業遺産の保存であってほしい。

1976年の常磐炭鉱西部鉱業所の閉山から30年を経て、2006年には『写真が語る常磐炭田の歴史』が出版されている。そこには「外国人労働者」の項もあり、大日本炭鉱勿来坑に連行された洪城隊の写真なども収録している。

記述をみると、官斡旋の段階では「移住は任意で行われ」、賃金の高い日本に渡ってきたとし、1944年からの徴用を「強制的な移住」としている。そのような認識ではなく、募集から官斡旋、徴用と続く朝鮮人の連行を強制連行として理解することがもとめられる。そのような歴史認識が共有されるためには、この間の強制連行調査の集約も必要だろう。

2007年いわき市の願成寺で慶南蔚山出身の朴守福さんの遺骨が保管されていることが明らかになった。入山採炭に連行されたとみられる朴さんは1943年3月に病死している。解放後60年を経た今も残る遺骨は強制連行の歴史的解決に向けての行動を呼びかけているといえるだろう。

 

参考文献

中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」1942年

厚生省勤労局「朝鮮人労務者の関する調査」茨城県分1946年

長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』1992年緑蔭書房

長澤秀編『戦時下強制連行極秘資料集』1996年緑蔭書房

長澤秀「常磐炭田における朝鮮人労働者について」『駿台史学』40 1977年(梁泰昊編『朝鮮人強制連行論文集成』1993年所収)

長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」『史苑』47 1987年(『同』)

長澤秀「ある朝鮮人炭鉱労働者の回想」『在日朝鮮人史研究』4  1979年(『同』)

長澤秀「日帝の朝鮮人炭鉱労働者支配について」『在日朝鮮人史研究』3  1978年

長澤秀「日帝の朝鮮人炭鉱労働者支配について(続)」『在日朝鮮人史研究』5  1979年

長澤秀「8・15直後の朝鮮人炭砿夫の闘い」『いわき地方史研究』23 1986年

長澤秀「戦時下・磐城炭礦(株)朝鮮人労務管理」『いわき地方史研究』24 1987年

朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社1965年

朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』4・5 三一書房1976年

大塚一二『トラジ 福島県の朝鮮人強制連行』鈴木久後援会 1992年

大塚一二「常磐炭鉱を中心とした戦中朝鮮人労働者について」『東北経済』64東北経済研究所1978年

石田眞弓『故郷はるかに』アジア問題研究所1985年

白恩m「戦時下常磐炭田における朝鮮人労働者」『社会学年誌』42早稲田社会学会2001年

『いわき市史 別巻常磐炭田史』いわき市1989年

『写真が語る常磐炭田の歴史』常磐炭田史研究会2006年

「内郷 たから物 見て歩き 炭鉱・史跡マップ」内郷ふるさと振興協議会

「いわきヘリテージ・ツーリズムマップ」いわきヘリテージツーリズム協議会・常磐炭田史研究会

常磐炭田史研究会編『いわきの産業遺産ガイド』いわきヘリテージツーリズム協議会2008年

おやけこういち『常磐地方の鉱山鉄道』2006年

渡邊為雄『みろく沢炭鉱写真資料館写真集』2002年

田中直樹『近代日本炭礦労働史研究』草風館1984年

POW研究会HP. http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/j.htm