三井財閥による朝鮮人強制労働

 

はじめに

ここでは三井財閥とその傘下の企業による朝鮮人強制連行・強制労働についてみていきたい。三井は日本最大の財閥であり、三菱とともに日本の戦争経済を支え、戦争で利益を得た。侵略戦争の拡大とともに朝鮮人の強制連行がすすめられたが、三井関連の企業による連行朝鮮人の数は鉱業関連で六万人を超え、連行者の総数は一〇万人近かったとみられる。さらに連合軍俘虜や中国人も連行された。三井の炭鉱や北海道炭鉱汽船など三井関連の事業所に連行された中国人は一万人近くになり、そのうち二千人近くが死亡した。

 はじめに三井財閥が戦争経済のなかで資本を増殖し海外に侵出していった動きについて示し、次に三井財閥とその関連企業への朝鮮人連行の状況についてあきらかにしたい。そして具体的な連行現場の分析として三井三池炭鉱での朝鮮人強制労働の状況についてみていきたい。

 

1 戦争経済下での三井財閥の成長と労働力動員

 三井財閥が戦争とともに資本を増殖し海外に侵出した動きについて、三井文庫編『三井事業史』第三巻や栂井義雄『三井財閥史 大正・昭和編』などを参照してまとめよう。

日本の資本主義化のなかで、三井は鉱業分野での経営をすすめ、三井鉱山を設立した。三井鉱山の中心には亜鉛と鉛を産出した神岡鉱山と石炭を産出した三池炭鉱があった。三井鉱山は戦争の拡大による石炭需要の増大の中で、筑豊(田川・山野)、北海道(砂川・美唄)での炭鉱開発をすすめた。三池炭鉱があった大牟田では石炭業・化学工業・鉄道港湾の整備による石炭化学コンビナートの形成がすすられた。

三井物産と三井鉱山は三井財閥の中核の企業であったが、三井物産は金融と石炭市場を握ることで主導的な地位を確立していった。さらに三井は台湾・朝鮮・樺太などの植民地で企業経営と資源収奪をすすめた。鉱業部門をみれば、台湾では基隆炭鉱、樺太で川上・内川・西柵丹の炭鉱、朝鮮では价川・長津・金剛・銀積・桃花・新延・成川・義州などの鉱山を経営した。

第一次世界戦争を経るなかで、三井は日本での産業支配を強固なものにした。一九三〇年代初めまでには、三井物産関連としては東洋レーヨン、豊田紡績、内海紡績、郡是製糸、豊田自動車機械、小野田セメント、小野田鉄道、朝鮮無煙炭、台湾製糖、三井鉱山関連としては太平洋炭鉱、松島炭鉱、北海道硫黄、神岡水電、三池窒素、東洋高圧、北海曹達、北樺太鉱業などを系列化した。王子製紙、電気化学工業、芝浦製作所、北海道炭鉱汽船、釜石鉱山なども三井系列企業である。特に北海道炭鉱汽船は北海道の主要炭鉱を所有し、日本製鋼や夕張鉄道を系列化するなど、北海道開発をすすめる中心企業だった。

中国東北部への侵略戦争がはじまると、三井は「満州」の企業への融資や物資の取り扱いを行い、南方への投資もおこなった。三井は戦争協力によって自らの利権を広げ、利益を倍増させていった。

中国への全面戦争とアジア太平洋戦争によって、三井による国内での石炭・金属・化学工業分野での生産は拡大した。三井は満州で鉱業・化学工業、中国占領地では石炭鉱業を開発し、南方での鉱業開発もすすめた。

戦争により三井財閥は勢力を拡大し、三井傘下の企業は敗戦時には二七〇社を超えた。このような経営の拡大にともない、日本の主要な炭鉱や兵器生産の現場に朝鮮人・中国人・連合軍俘虜が連行されるようになった。またアジア各地に拡大された三井関連の事業所へはアジアの民衆が動員された。

国内では三井による金属・石炭・化学・兵器生産分野での拡張がすすみ、三井系炭鉱の生産力は日本国内総採掘高の二五パーセントを占めるようになる。なお、三菱系は一五パーセントであった。金属では鉛・亜鉛生産の八割ほどを占めた。化学産業では毒ガスを含む軍需生産を担った。三井物産は企業への投資額を増大させて取引を拡大した。軍需航空機部門では中島飛行機の製品を取り扱って利益をあげた。三井物産は占領地や植民地へも投資し、三井系資本の経営の拡大と製品の販売権の支配をねらった。三井は流通分野を支配し物資の調達で大きな利益をあげていった。三井銀行は帝国銀行となり、戦争遂行にむけての資金供給をおこなった。

満州では、三井系の小野田セメント、東洋綿花、日本製粉、東洋鋼材などが活動し、鉱業分野では熱河鉱山、天宝鉱山、三宝鉱山の経営がおこなわれた。中国への全面侵略による占領地の拡大のなかで、三井は准南炭鉱や中興炭鉱の経営をおこなっていった。

さらにアジア太平洋戦争によって南方の占領地での鉱産資源などの開発をおこない、三井物産・三井鉱山・三井化学工業・三井農林・三井船舶・三井造船・三井倉庫・東洋綿花などが現地での生産や流通にかかわった。

戦争下のアジア各地での主な三井系企業や関連事業は以下のようになる。

朝鮮 南北綿業・朝鮮絹織・東洋製糸紡織・全北製糸・旭絹織・朝鮮レーヨン・東綿繊維・慶南合同製糸・全北織物・慶北機業・三成鉱業・北鮮産業・三井油脂化学工業(協同油脂)・三井軽金属・朝鮮飛行機・朝鮮鋼管・東海製材

台湾 台湾蓖麻蚕・基隆炭鉱・台湾製糖

満州 東亜鉱山・三宝鉱業・天宝鉱業・周杖子水銀・満州合成燃料・満州選鉱剤・大陸化学鉱業・松花江工業・三泰油脂工業・東綿化成工業・三江製油・龍江酒精工業・満州発動機製造・満州牽引車製造・太陽バルブ製作所・東綿紡織・満州蓖麻蚕・康徳被服・東洋製粉・満州豚毛工業・協和煙草・満州配合肥料・東亜農産工業・満州合板工業・三宝窯業・営口三泰桟・三泰産業・満州三機工業

中国 海州鉱業開発・中興炭鉱・准南炭鉱・山東電化・大興化学工業・中華酒精化学工業・永礼化学工業・中支科学工業・広東油脂工業・豊田式鉄廠・上海電気廠・東亜染織工廠・東洋繊維工業・東生工廠・大丸布帛製品・天津製絨・明興染織工廠・上海紡織・日華麻業・美華印染廠・上海麻工業・東亜製粉・塘沽冷凍工場・東亜蛋業冷蔵・新興製油・日蒙製粉・宝豊合記麺粉・成豊合記麺粉・済豊新記麺粉・豊年合記麺粉・上海水泥経営処・揚子蛋業冷蔵・漢口製粉・亜州澱粉工業・三興製粉・南国煙草・海南物産・三豊・上海倉庫信託

フィリピン マンカヤン銅山・カドボ炭鉱・ポリロ炭鉱・ブララカオ炭鉱・リグアン炭鉱・バリンタワック麦酒醸造・サンミゲル麦酒醸造・ネグロス砂糖工場・フェデレイテッドインベストメント(セメント)・フィリピンリファイニングマニラ工場・ルソン製紙会社・比島製袋・(三井物産)・黄麻蓖麻栽培(三井農林)・綿花栽培(東洋綿花)・南国企業・サンフェルナンド港務所、カガヤン河流域開発、アパリ造船所

マレー 馬来鉱業所(イポー錫)・昭南製煉所・生ゴム錫等集荷・マングローブ開発・木材伐採・木造船建造購入・スパートケープ石灰工場(三井物産)、倉庫運輸(三井倉庫)・熱帯産業(南方全般でゴム栽培採取) ・ルムット造船所 

ボルネオ ヒマシ集荷・原皮開発・米作(三井物産)・苛性ソーダ工場・綿花・米作(三井農林)・南方油槽船会社

ジャワ チトコック鉱山・チコンダン鉱山(亜鉛・鉛)・ジャカルタ電解工場・チサート炭鉱・クノンテピー鉱山(セメント)・グノンカラン鉱山(石灰石)・マンガン・生ゴム・砂糖等集荷(三井物産)・スマランガラス工場・ソーダ灰製造・カーバイド製造・スパンジャン硫酸工場・綿花栽培(三井農林)・サイザル集荷(東洋綿花)、ジャカルタ造船所・ジュポロ造船所

スマトラ 砂糖・生ゴム等集荷・アチェ木材伐採・パレンバンタピオカ工場・製油工場(三井物産)・ブキトアサム炭鉱・シマウ金山・ブキトアサムセメント工場・オンビリン炭鉱・綿花蓖麻栽培(三井農林)・綿花栽培(東洋綿花)

スラウェシ ゴム・砂糖・玉蜀黍等集荷・ゴム園経営・レンガ工場・苛性ゾーダ工場・ペイント製造工場・煙草製造工場・ゴムタイヤ工場(三井物産)

小スンダ 綿花栽培(三井農林)  

ニューギニヤ 食糧生産(三井農林)

ビルマ ボードウィン鉱山(亜鉛・鉛)・屑鉄米等集荷・製材工場・精米工場・落花生油工場・造船工場・冷凍製缶工場(三井物産)・綿花栽培・ガラ紡工場(東洋綿花)・蘭貢製作所

タイ 生ゴム植物油等集荷(三井物産)・タイ国ゴム会社・ビスケット工場・綿花栽培・繰綿工場・紡績工場・麻袋工場(東洋綿花)・東洋商工・三井第一第二造船所・三井海軍造船所

インドシナ 米・油脂・生ゴム・鉱石ほか集荷・黄麻蓖麻栽培・燐灰石開発・バアンチャン造船所・第1第2造船所・ハノイ倉庫桟橋・サイゴン米糠油搾油工場・サイゴン精米所・サイゴン木炭工場・サイゴン石鹸工場・印度支那電化工業(カーバイト)・フタノール工場・製紙工場・森林伐採(三井物産)・銅塊黄麻ラミー集荷・黄麻苧麻綿花栽培・綿花栽培会社・麻袋工場(東洋綿花)

このように三井はアジア各地で事業を展開していった。侵略戦争の拡大にともない三井財閥が軍に協力する形で巨大な利権を得ていったことがわかる。

これらの企業のなかから現地労働者の数について、わかるものをあげてみてみよう。

朝鮮の東洋製糸紡織では1000人以上(1945年)、東綿繊維では560人以上(1943年)、協同油脂三渉工場では580人ほど(1943年)。

台湾の基隆炭鉱では16000人以上(1941年)、満州の東綿紡織では4000人以上(1943年)。

中国の中興炭鉱では12000人ほど(1939年)、准南炭鉱では7800人ほど(1941年)、海州鉱業開発では4000人ほど(1945年)、豊田式鉄廠では870人ほど(1945年)、永礼化学工業では720人ほど(1943年)、山東電化では900人ほど(1945年)、上海紡織では3200人ほど(1943年)。

フィリピンのマンカヤン銅山では7700人ほど(1943年)、サンフェルナンド港務所では1000人ほど(1943年)、アパリ造船所では250人ほど(1945年)、マレーの馬来鉱業では5700人ほど(1943年)、スマトラのブキトアサム炭鉱では4400人ほど(1943年)、ビルマのボードウィン鉱山では4500人ほど(1943年)。

これ以外にも多くの民衆が労働力として動員された。戦争の拡大により三井は現地労働力を動員することで利益をあげた。朝鮮半島から日本への強制連行・強制労働は、このような東アジアでの労働力動員の一環であった。三井財閥は日本の主要炭鉱の多くを傘下に収めていたが、そこに大量の朝鮮人、中国人、連合軍俘虜が強制連行されたのである。

 

2 三井財閥とその関連企業への朝鮮人連行

つぎに日本国内での三井系企業への朝鮮人の連行状況についてみてみよう。

三井鉱山は日本各地の主要炭鉱・鉱山を所有していた。この三井鉱山への連行状況からみてみよう。

三井系の炭鉱では三井鉱山は福岡の三池・田川・山野、北海道の砂川・芦別・美唄・新美唄、サハリンの川上・内川・西柵丹・千緒などを所有し、北海道炭鉱汽船(夕張・平和・真谷地・登川・角田・幌内・万字・新幌内・空知・赤間・天塩各坑)、釧路の太平洋炭鉱(春採・別保・新尾幌各坑)や長崎の大島炭鉱なども三井の系列企業であった。北炭は戦時下には茅沼炭鉱なども傘下におさめて事業を拡大した。夕張製作所や北海道炭鉱荷役も三井系である。

金属鉱山では岐阜の神岡、鹿児島の串木野、秋田の大沢、熊本の阿蘇などを所有し、系列下の鉱山としては、釜石鉱山、北海道硫黄、日本亜鉛中竜鉱山などがあった。鉱山からの鉱石の精錬のための三池製錬所の工場が大牟田と山口の彦島にでき、岡山の玉野には日比製錬所、広島の竹原には電錬工場を建設した。鉱石を利用しての化学工業には、三井染料、東洋高圧、電気化学工業などがある。セメントでは小野田セメントが三井系企業である。神岡鉱山への電力を供給した神岡水電も三井系である。

ここにあげた炭鉱・鉱山の全てに朝鮮人が連行されている。

工場では、三井物産の直系では東洋レーヨン、豊田紡績、内海紡績、郡是製糸、豊田自動車機械、傍系企業には王子製紙、東京芝浦製作所、三井造船などがある。北炭は日本製鋼を傘下としていた。多くの朝鮮人が連行されたのは軍需生産を担っていた東芝、日本製鋼、三井造船であり、内海紡績などの紡績分野にも朝鮮人が連行された。

石炭統制会の統計史料「給源別労務者月末現在数調」から、1944年10月の三井系炭鉱の朝鮮人数をみると(10台の数値は四捨五入)、三井砂川2900人、三井美唄・新美唄2000人、三井芦別1500人、北炭夕張7100人、北炭平和・真谷地・角田・登川2100人、北炭幌内・万字2700人、北炭新幌内1300人、北炭空知・赤間・天塩3700人、三井三池3600人、三井田川2500人、三井山野2900人、大島800人である。

合計すると、北炭で17000人、北海道の三井で6400人、九州の三井系で9800人の計33200人が強制労働の下にあったことがわかる。太平洋炭鉱はこの時点では、戦時下の生産統合によって三井三池などに労働者を転送しているが、転送前の1944年7月現在の朝鮮人現在員は700人ほどである(「主要炭鉱給源別現在員表」)。

各地の炭鉱での強制連行の状況を分析すると、この時点での現在員数の倍ほどの人数が連行されているケースが多い。三井系の炭鉱に連行された朝鮮人の数は、北炭を含めて6万人以上とあったとみていいだろう。

 

3 三井三池炭鉱での朝鮮人強制連行

 

三池炭鉱の鉱区は福岡県大牟田市南部から熊本県荒尾市北部にかけてある。三池で石炭が発見されたのは一五世紀中ごろである。一八世紀には三池での石炭採掘がおこなわれた。資本主義化にともない、1873年には政府による三池炭鉱の経営が始まり、1883年に七浦坑、1887年には宮浦坑が開坑した。三池には集治監がおかれて受刑者の強制労働がはじまり、三池での受刑者の強制労働は1931年まで続いた。

「払い下げ」によって三井による開発が1889年から始まった。三井は勝立坑を整備し、1898年に宮原坑、1902年には万田坑で採掘をはじめるなど、経営を拡大した。1905年には万田・四山間の三池専用鉄道が開通し、1908年には三池港が開港されるなど、輸送の近代化がすすんだ。さらに1923年には四山坑、1940年には三川坑での採掘の開始がはじまるなど、経営規模が拡大され、三井三池炭鉱は日本で最大の炭鉱になった。

この炭鉱からの石炭を源にして大牟田地域に石炭化学コンビナートが作られた。工場地帯ではコークス・ガス・コールタール・硫安・硫酸・ピッチ・ナフタリン・ベンゾール・合成染料・亜鉛製錬・カーバイド・人造石油・医薬品などが製造され、毒ガス原料も生産された。この炭鉱と工場群は日本の戦争経済を支えるものになったのである。 

三池炭鉱と朝鮮人については、林えいだい・白戸仁康・武松輝男編『戦時外国人強制連行関係史料集W下』に朝鮮人が収容された建物図や戦後に朝鮮総連大牟田支部が収集した史料がある。石炭統制会の文書史料には三池での朝鮮人数がわかるものもある。「特高月報」には朝鮮人の動向を示す記述がある。厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」には三井三池万田坑分の名簿、GHQ文書には3000人余りの朝鮮人の名簿がある。連行された朝鮮人の証言は、朝鮮人強制連行真相調査団の『九州朝鮮人強制連行の実態・新聞報道資料』『強制連行された朝鮮人の証言』『朝鮮人強制連行調査の記録中部東海編』などにある。これらの史料・証言などから三池での連行状況についてみていこう。

 

@三池炭鉱への連行者数

三井三池炭鉱の石炭は、三池港ができるまでは島原半島南端の口之津港から、三井物産によって国内外に搬出された。三井物産の請負人によって、口之津での港湾労働に朝鮮人を集めるために1898年には密航させる計画もたてられた。口之津へと与論島から移住があった1899年にはすでに2~30人の朝鮮人が来ていた(新藤東洋男『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者』59~63頁)。与論島民が移住した頃には朝鮮人が500人ほど荷役に募集されてきていたという記述もある(森崎和江・川西到『与論島を出た民の歴史』30頁)。2~30人から次第に増加して500人ほどになったということだろう。

三池での港湾や鉄道建設で働いた朝鮮人も多かったとみられる。

三井系の炭鉱では労務対策から坑内での朝鮮人の労働は少なかったが、戦時の労働力不足によって多数の朝鮮人が連行されるようになり、そこで過酷な労働を強いられた。とくに主要な炭鉱である三池へは多数が労務動員された。三池炭鉱での連行朝鮮人の使用は1940年から始まった。朝鮮人は三池炭鉱だけではなく、三池製錬所、三池染料、電気化学工業大牟田工場、三池港湾などでも労働を強いられた。これらの地に連行された朝鮮人は1万人ほどとみられる。

連行された朝鮮人の数について詳しくみてみよう。

一九四六年の厚生省勤労局調査の福岡県分の集計表では、三井三池への連行者数を1940年93人、1941年96人、1942年1834人、1943年2889人、1944年2466人、1945年1886人の計9264人としている。この史料からは9000人以上が三池炭鉱に連行されたことになる。この報告書には、三井三池万田坑の朝鮮人名簿1756人分(募集73人、斡旋・徴用1683人)が含まれている。

別の史料をみてみよう。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」では1942年3月までに367人、6月までに618人を連行している。それ以後さらに1942年末までに1400人ほどが連行され、連行者総数は2000人を超えたとみられる。

1943年の連行状況については、石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」から、この年に2738人が連行されたことがわかる。内訳は4月京畿557人黄海600人、5月京畿220人、8月京畿359人、9月京畿695人、11月江原78人、忠北105人、京畿56人、12月京畿68人である。この史料から三池炭鉱へと1943年に京畿道約1900人をはじめ2700人を超える人々が動員されたということができる。中央協和会の史料にこの数を加えると1944年初めまでに三池に連行された人々は4700人ほどになる。

石炭統制会の統計「労務状況速報」「雇入解雇及就業率調」などからは1944年1月から8月までの連行者数が2100人ほどであることがわかる。この数値を加えれば、1944年8月までに6800人ほどが連行されたといえるだろう。他に勤労報国隊としての朝鮮人の短期動員や在日朝鮮人の徴用もあり、この段階で7000人を超える朝鮮人が連行されたといえるだろう。

なお、石炭統制会「樺太釧路整理炭鉱勤労者転出先調」などの史料によれば1944年8月末には北海道の春採炭鉱から470人が転送された。三池は重要炭鉱であり、1944年9月以後も2000人ほどの朝鮮人が連行されたと考えられる。

このように厚生省勤労局調査以外の史料からも、1945年の八・一五解放までに三池へと連行者された朝鮮人の数は9000人以上とみることができる。

ここで、1944年8月末の三池での労働者の現在員数をみておけば、日本人が約15000人、朝鮮人は「移入」朝鮮人が3848人(内徴用が3422人)、既住朝鮮人84人(内徴用が82人)であり、朝鮮人の在住者は3900人を超えている。このときの中国人は640人、俘虜は922人である。12月をみると日本人が約17000人、朝鮮人が3459人、中国人917人、俘虜1117人となる(石炭統制会「給源別労務者月末現在数調」)。なお、三池への連行中国人の総数は2480人ほど、俘虜の連行者数は1700人以上である。

米国戦略爆撃調査団の報告書では、三池炭鉱での1945年6月の朝鮮人の現在員数を5152人としている(『戦時外国人強制連行関係史料集W下』)。1945年4月の全労働者数は2万5千人ほどとなり、そのうち日本人の長期労働者が49パーセント、朝鮮人・中国人・俘虜が34パーセントを占めるようになった。三池では1944年には月30万トン以上、年間403万トン余りを産出したが、この産出量は日本本土での総産出量の8パーセントほどを占めた。そのような増産は朝鮮人などの連行労働力に依拠したものでもあった。

ところで、1944年1月までに三井三池へと連行された朝鮮人数を福岡県の史料「労務動員計画ニ拠ル移入労務者事業場別調査表」では2376人とし、そのうち743人が逃亡、死亡者が15人としている。この史料での連行者数の数値は他の史料と比較すると少ないものであり、2300人ほどが欠落しているとみられる。

電気化学工業大牟田工場についてみておけば、中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」では1942年6月までに329人を連行、福岡県「労務動員計画ニ拠ル移入労務者事業場別調査表」では1944年1月までに572人を連行したが、234人が逃亡とある。戦後、三井が朝鮮総連に提出した資料には電気化学工業の帰国者217人分・死者4人分の名簿がある。他には三井三池の34人の死亡者名簿と三井染料の1945年3月の連行者127人と死者等8人分の名簿があるが、この電気化学工業の名簿をみると、1944年以後に連行された人々で残留者していた人々が150人ほどいる。この数を1944年までの連行者数572人に加えると、720人を超える。逃走者を想定すれば、電気化学工業への連行者数は750人以上といっていいだろう。

このように残存する史料から三池地域への連行者数をみてみたが、連行された朝鮮人数は三池炭鉱で9200人を超え、電気化学工業大牟田工場では750人以上、三池染料で少なくとも135人の連行があったということができる。三池炭鉱関連では本所・万田坑・宮浦坑・三川坑・四山坑などの各坑、三池製錬所、三池港湾などへと連行された。

このように、三井三池炭鉱や三井関連の周辺工場などへの朝鮮人連行者数は1万人以上といっていいだろう。

また、在日朝鮮人が勤労報国隊などの形で3ヶ月ほどの短期の強制動員にあっているケースもあり、その数は数千人とみられる。この数を入れれば連行者数はさらに増える。

ここで厚生省勤労局調査史料にある三井万田坑の朝鮮人名簿から連行状況について具体的にみておこう。

1942年には2月に忠南牙山から98人、9月には忠北忠州などから82人、11月には忠南保寧などから70人、12月には京畿楊平・驪州・江原洪川などから49人を連行した。

1943年には4月に黄海黄州・京畿驪州などから195人、8月には京城などから92人、9月には京畿水原から195人、11月には江原蔚珍・京城などから54人を連行した。

1944年には1月に慶南晋陽・宜寧から104人、2月には晋陽から23人、3月には京城などから54人、4月には京畿竜仁・京城から98人、6月には京城などから30人、7月には京畿平沢・安城などから87人、8月には北海道春採炭鉱からの転送者など202人(全北金提・高敞・淳昌・長水・慶南南海などの出身者)、12月には忠南公州・扶余などから61人が連行された。

1945年には1月に忠南大徳から64人、4月には全南海南・珍島・高興から49人が連行された。

ここでの連行者の人数は着山者数である。現地での連行者数はさらに多く、現地での逃走も多数あったとみられる。着山後の逃走も1683人中762人であり、45パーセントほどの人々が現場を脱出していることがわかる。この万田坑への連行者名簿は三池炭鉱への全連行のうちの5分の1ほどの名簿であると考えられる。

万田坑の労務係であった麓武秀さんの出張復命書がある(森崎和江・川西到『与論島を出た民の歴史』160・161頁)。それによれば、麓さんは1943年11月7日から26日まで朝鮮での連行に出かけた。9日に京城に到着すると、朝鮮総督府・石炭統制会・京畿道庁社会課・職業指導所三池事業所各係に「供出」を依頼した。23日には80人が集められ、56人が合格になった。24日朝清涼里駅を出発し、26日に荒尾駅に到着した。

厚生省勤労局の名簿にある1943年11月の江原蔚珍・京城などの54人はこのときの連行者である。

万田坑への連行はこのような形でおこなわれたが、宮浦・三川・四山の各坑でも同様な形で連行がおこなわれたといえるだろう。

宮浦坑については、元補導員の坂本盟さんの証言がある。それによれば、坂本さんは1944年に朝鮮に行き、安養駅付近から40人、仁川から50人を宮浦坑に連行した。宮浦坑には多いときには第6協和寮まであったという(『兄弟よ安らかに眠れ「朝鮮人殉難」の真相』)。

この連行は万田坑への連行状況からみて、1944年の3月から6月にかけての連行の一部だろう。

 

A連行朝鮮人の証言

 次に連行された人々の証言をまとめることで、連行と労働の実態をみてみよう。

 金東玉さんは1928年生まれ、1942年9月10日、14歳のときに忠北槐山郡仏頂面から金剛丸に乗せられて三池の三川坑に連行された。このとき槐山郡からは100人が連行された。日本行けば勉強ができると騙されての連行だった。就労年齢に達していなかったため、連行時に昭和3年生まれを大正13年生まれにされた。待遇は、はじめはよかったが、1943年に入るとひどくなった。4〜5メートルの柱を枕に10人が寝、朝になると監督がその柱を叩いたが、頭が割れるようだった。食事は外米と塩昆布がいくらかというものだった。約束どおり学校に行かせてほしいというと青年学校に行かされたが、兵隊の訓練ばかりだった。落盤で7〜8人が犠牲になったこともある。内臓が破裂したり、手足がちぎれたり、頭が鉄板のように平たく割れている死体を見て怖くて耐えられなかった。日本語が話せたことから事故をきっかけに同郷の人々に頼まれ、1943年12月、朝鮮人飯場の知り合いに頼んで6〜7人の同僚を逃がした。金さんは捕らえられ、逃がした同僚の行方を吐けと竹刀で殴られ半殺しの目にあった。法律違反とされ久留米少年錬成所に6ヶ月間送り込まれ、その後、1944年6月に窒素のボイラー室の警備員とされ、1945年2月には徴兵されてソウルの連隊に行くようにいわれたが、船が無いため行かなかった。7月30日の空襲では多くの同胞が犠牲になった。死体を焼いていた臭いと情景が忘れられない。勉強ができると誘われて連行されたが、叩き込まれたのは「皇国臣民の魂」だった(『朝鮮人強制連行調査の記録中部東海編』242〜3頁)。

1943年4月に連行された李康元さんの証言をみてみよう。李さんによれば、戦闘服や脚絆に着替えさせられて、釜山から四山坑に連行された。収容された寮は有刺鉄線で囲まれていた。地下の奥深くで働かされ、死者が出た。休むと寮の事務所に連れて行き、ムチなどで殴り続け、割竹の上に座らせて膝に重い石を載せる体罰もおこなわれた。「どうせ死ぬ。いずれ死ぬんだから、逃げなくちゃいけない」と逃走した。宮崎・熊本・鹿児島と渡り歩き、8・15は飛行場の工事現場で迎えた(石田真弓『故郷はるかに』145~147頁)。

1943年11月に連行された李鐘泌さんの証言をみてみよう。李鐘泌さんは忠北槐山郡出身、1943年11月、22歳のときに槐山郡から故郷の60人とともに三池の四山坑に連行された。釜山からは11部隊、700人が乗船した。

 竪坑を500メートルほど降り、坑道で石炭を掘らされた。1日の最低ノルマは1箱2トンのトロッコ15箱分、賃金は1日七〇銭から1円だった。槐山隊からは死者が出なかったが、2日に1人は負傷者が出た。怪我や病気で休むと「勤労報国精神が足りない」と怒鳴られ、「欠勤食」にされて食事の量を3分の一にされた。1ヶ月に20日以上仕事に出ないと労務が殴った。逃亡防止のために賃金の30〜40パーセントが強制貯金されたが、日が経つにつれ逃亡者が増え、1945年2月頃には槐山からの連行者は4人になった。残ったものに対し、ノルマは1日20箱に増やされた。福岡ではB29の爆撃もあり、日本の降伏も早い、こんなところで死ねないと考え45年の2月に残った4人で逃亡した。四山には李正基という朝鮮人が強制労働に反対し独立を語ったが、憲兵隊に連行されて懲役刑になった。彼の思想的影響で仕事を休んだり、逃亡者も増えた。(『強制連行された朝鮮人の証言』35〜40頁)。

 1944年ころの連行証言としては、京畿驪州郡から連行された崔福男さんと文ヨングンさんのものがある。

崔福男さんと文ヨングンさんは京畿驪州郡から1944年ころに130人とともに連行され、坑内事故の後、恐怖を感じて脱走した。途中手配師によって北海道に連行されそうになったが、そこからも逃走した。李昌鎔さんは軍属で徴用され三池港で荷役を強いられた。同僚が荷役機の下敷きになり圧死したが会社側は葬式もしなかった。葬式は解放後、故郷でしたという(「東録「同胞の恨、歴史の証に」『パトローネ29』1997年4月)。

 1945年に慶北金泉郡から三川坑に連行された慎瑛縡さんの証言をみてみよう。 

慎瑛縡さんは慶北金泉郡大徳面加礼里出身、1945年5月に徴用され、面からは17歳の7人が集められ、金泉郡全体では27人が連行された。両親は、死ぬな、逃げて帰って来いと逃亡用に米粉を渡した。釜山から博多に着いたが、4人が逃亡した。5月17日に三川坑に連行されたが、収容された寮では6畳に6人が詰め込まれ、食事は大豆かすに麦を混ぜたものだった。出水の多い現場に送られ、1日12トンの出炭を強いられ、労働時間は1日14〜5時間に及んだ。半月たらずで12人が逃亡した。逃亡者は見せしめにされ、木刀で殴られた。気を失っても水をかけられ殴られた。慎さんは7月はじめに外出証をもらい坑内着のまま4人で逃亡した。(『朝日新聞』『熊本日日新聞』1974年4月23日付、『九州朝鮮人強制連行の実態・新聞報道資料』所収)。

これらの証言から、集団的な連行がおこなわれたこと、負傷が日常的であり、休むと食料を減らされたこと、激しく殴打されるなど暴力的な管理であったこと、強制貯金されたこと、抵抗するものは検挙されたこと、長時間の過重労働や事故のなかで逃亡が相次いだことなどがわかる。

李鎔世さん(1921年生まれ)は忠北清原郡悟倉面出身、三池へと連行され、炭鉱労働を強いられていたが、軍人とされミンダナオに送られ、1945年6月に米軍の爆撃によって死亡した。遺族は2005年になって犠牲者遺族確認書を日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会から受け取った(『東亜日報』2005年12月10日付)。 

 このように連行されたのちに徴兵され、アジア各地に再び連行され、そこで死を強いられた人々もいた。遺族の中には死亡通知を受け取れなかった人々もいた。

日本に在住していた朝鮮人も数多く三池に連行された。各地の協和会によって「勤労報国隊員」とされ、炭鉱現場へと強制動員されたのである。

たとえば、1942年1月下旬から2月上旬にかけて、奈良・熊本・福岡など各県の協和会の350人が勤労報国隊に組織され、三池炭鉱へと連行され、80日間の労働を強いられている。奈良県の部隊では150人中30人が残留してさらに労働することになり、さらに奈良県からは第2次勤労報国隊が来る予定という(「日本鉱業新聞」1942年4月21日付)。しかし、この福岡・熊本からの勤労報国隊員206人中38人は、食事に抗議して引きあげるという抗議行動に起ちあがり、1人が検束されるという弾圧を受けている(『在日朝鮮人関係資料集成』4)。

奈良県の報国隊については美化されて宣伝されたが、実際には現場でさまざまな抵抗が繰り広げられていたとみていいだろう。たとえば、四山坑では1943年5月17日に滋賀県協和会隊員への労務による殴打に対して40人が反撃、2人が検挙されている(『在日朝鮮人関係資料集成』5)。

そのほかの勤労報国隊についてみれば、大分県の宇佐郡協和会からは「半島農民隊」が組織され、隊長の朴来星以下22人が1942年8月17日に三井三池炭鉱三川坑の共愛寮に連行され、「出炭報国」を強いられた(「日本鉱業新聞」1942年10月11日付)。

このように勤労報国隊の形で連行された人々の数は年間で1000人を超えたとみられる。

連行された朝鮮人に対しての拷問には、膝の後ろに青竹を挟ませて座らせる、ベルトコンベアーの裁断したものを鞭にして叩く、水道のホースを口に加えさせてふくらんだ腹を蹴るといったものがあった(三池労組機関誌『みいけ』1988年7月1日、武松輝男「解説」『戦時外国人強制連行関係史料集W下』1625~26頁)。

この解説によれば、作業が遅いと叩かれ、ひもじいと言えば兵士は食べずに戦っていると叩かれ、規定量を掘ることを強いられた。事故で怪我をしても精神力が足りないと罵られた。このなかで死亡災害件数での朝鮮人の比率は上がっていった。

三井三池炭鉱の元労務係の上甲米太郎さんの回想録が新藤東洋男『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者』にある(44~51頁)。

上甲さんは、1941年に太平洋炭鉱釧路鉱業所の朝鮮人労務係とされ、1944年に朝鮮人500人ほどと三池に転送された。回想によれば、万田坑での事件で捕えられた朝鮮人が荒尾署で特高によって肛門にササラの筆を突っ込んでひねり回され、冬、裸にされて背中に水をかけて団扇で扇ぐなどの拷問を受けた。三池の警備係は労働者の思想動向を特高のように調べ、朝鮮人の取締りと逃亡者の捜査をした。

このような連行と強制労働のなかで、抵抗も高まっていった。自由を得るために現場から逃走するものも増えた。先にみたように、万田坑では45パーセントほどの逃走者があった。争議も起きている。勤労報国隊のところで示したもの以外をみてみよう。

1943年6月には45人が舎監の懲戒に抗議、同月万田坑では「注意」した日本人に反撃、9月には当時500人が連行されていた四山坑で6人が通訳を殴打、10月には宮浦坑の第1協和寮で京城と務安からの連行者が対立、10月19日には、宮浦坑第四協和寮で1943年8月31日に京畿広州から連行された人々が作業環境の変更を要求したが、逆に殴打されたため、舎監を攻撃する事件が起きた。この争議には57人が加わり、22人が検挙された。1944年6月には四山坑で京城から連行された集団の第2隊長が隊員を殴打したことから60人余が反撃し、11人が検束された。この頃、四山には895人の朝鮮人がいた(『在日朝鮮人関係資料集成』5所収の社会運動の状況」などの記事による)。

権力側の表記には内部的な対立のように描かれているものもあるが、その本質は、強制連行され暴力的な統制のなかで労働を強いられたことへの抵抗である。これ以外にも数多くの抵抗があったとみられる。

なお、三井染料に連行された朝鮮人の証言もある。金翰中さんの場合、1942年に全北高敞郡から咸鏡南道長津郡の現場や平壌鎮南浦の飛行場工事に連行され、1945年になって三井染料に連行された(『強制動員口述記録集1』69頁〜)。

三池染料の元労働者足立忠澄さんはつぎのように言う。職場に16歳から21歳の84人の朝鮮人が配置され、21歳で団長とされた朝鮮人以外は日本語が話せなかった。仕事着のみで着替えを持っているものはいなかった。徴用にいった労務係長からは憲兵とともに朝鮮に行き、役に立ちそうな者を手当たりしだいトラックに乗せて連れてきた。徴用というより人さらいという話を聞いた。鷹山に集団収容していた。朝鮮人を人間扱いせずに打ったり殴ったりするものもいた、と(『兄弟よ安らかに眠れ「朝鮮人殉難」の真相』)。

 

B朝鮮人の収容所跡と追悼碑

 朝鮮人の収容先については三池についての武松輝男「解説」(『戦時外国人強制連行関係史料集W下』1622~1624頁)に記されている。

それによれば、朝鮮人を収容した場所(合宿寮)は、三池炭鉱が朝鮮総連大牟田支部に出した書類では20箇所とある。このうち三池炭鉱分の収容施設は12箇所、三池製錬関係では3箇所が判明している。三池炭鉱の「使役延人員調」などから、本所と万田坑では1941年2月、四山坑・三川坑では1942年2月、宮浦坑では同年9月からの朝鮮人の労働が確認される。合宿寮という名の収容所では6畳に4人が普通だが、5人のときもあったという。

 宮浦坑では、宮山町に360人ほどを収容する第1協和寮とみられる建物ができた。他に185人ほどを収容する建物もできた。特高月報には第4協和寮の存在を示す記事があり、証言からは第6協和寮までの存在がわかる。馬渡町の社宅内には5棟の朝鮮人用の収容所ができた。

 三川坑では、西港町の諏訪川沿いの今井埋立地に250人ほどを収容する第2大和寮が作られ、その横が第1大和寮であったとみられる。坑口があった新港町には室外訓練場を持つ収容所がつくられた。また、新港町には従業員クラブを改造した収容所も作られた。この建物は当初、与論島出身の荷役労働者用の集会所としてできた。そこに三池刑務所の10番建物を移転改築して講堂とされ、後に新港町従業員クラブに増築され、さらに増築して朝鮮人用の収容所とされた。西原町荒尾市)にも収容所ができた。

 新港従業員クラブの収容所には1944年11月19日に多数の朝鮮人が収容された(森崎和江・川西到『与論島を出た民の歴史』159頁)。

 四山坑では、1941年に原万田導僧に収容所ができ、当初は100人ほどの収容であったが、増築された。また、四山町の社宅北側の建物を改造して3棟の収容所ができ、社宅南方のグランドにも収容所ができた。

 万田坑では、大谷の社宅内に収容所が設置され、古庄原の娯楽施設の家屋が買収され収容所になった。ほかに数箇所の収容所があった。万田坑の元労務係の麓武秀さんは朝鮮人寮8寮、2000人を担当した(森崎和江・川西到『与論島を出た民の歴史』161頁)。

 各坑を統括する事務所のある本所(露頭坑)では、1941年に歴木の平野山に寄宿舎とよばれた収容所ができ、その向かい側には朝鮮人用の社宅ができた。

 三池製錬所では、銀水・田隈に収容所ができ、健老や西浜田の社宅にも収容所があったという。三井染料では平原町に収容所、電気化学工業大牟田工場では小浜町に収容所があった。

 以上がこれまでの調査で判明している朝鮮人の収容施設である。三井三池の連行朝鮮人の現在員数は米国戦略爆撃調査団の報告書では5000人を超えるから、朝鮮人を監視する三井や特高の態勢もいっそう強化されていったとみられる。

連行された朝鮮人と中国人を追悼する碑が荒尾市樺上の正法寺にある。朝鮮人を追悼する碑は「不二之塔」といい、過酷な労働・差別待遇のなかでの死に哀悼の意を示し、南北統一への想いを記している。中国人を追悼する碑は「中国人殉難者慰霊碑」であり、殉難への哀悼の意や平和と共存共栄、国交回復と国際親善などへの想いが記されている。これら2つの碑は1972年に建てられたものである。

 大牟田市の北方にある甘木公園には「徴用犠牲者追悼碑」がある。この碑は戦後50年にあたる1995年3月に在日コリア大牟田の人々によって建てられた。この碑は、朝鮮半島から徴用され過酷な労働によって不帰となった人々を追悼するものである。碑文が日本語とハングルで記されている。馬渡の朝鮮人収容所後に残されていた落書を刻んだ碑も横にある。

 宮浦坑に連行された朝鮮人を収容した馬渡社宅跡近くの公園にも、1997年に記念碑が建立され、馬渡社宅で発見された落書が刻まれている。馬渡町の社宅跡地は、現在では量販店の敷地となっている。 

佐古町の円福寺には死亡した朝鮮人の位牌が残されていたというが、今ではその位牌の行方は不明である。

荒尾市の小岱山の西峰の公園「不戦の森」には「三井三池炭鉱中国人殉難者慰霊塔」がある。この追悼碑は1983年12月に建てられたものであり、追悼塔の裏には強制連行強制労働によって564人が死亡したこと、その加害への反省、追悼と永久不戦への想いなどが記されている。この塔は元炭鉱労働者の深浦隆二さんが「慰霊なしでの真の友好はない」という想いで建設をすすめたものである。深浦さんには1944年5月16日の三川坑での坑内火災で中国人37人と日本人11人が死亡する事故に際し、救護隊員として駆けつけた体験がある。日本人は担架で運ばれたが、中国人は炭車に数体ずつ乗せて運ばれた。その際救護隊員が許してくれと口走る姿もみた。そのような状況を目撃したことが、この追悼塔の建設をすすめる原動力になったという(「朝日新聞」1982年9月21日付)。

 宮浦坑の坑口跡・煙突(1888年)、万田坑の第2竪坑(1898年)、三池港湾(1908年)、三井化学工場(1938年)、炭鉱電車(1909年)、大牟田市役所の本館(1936年)などは、強制連行がおこなわれていた時代の遺構でもある。連行された人々が時空を超えて、坑口などの遺構から語りかけているように思う。

三池炭鉱周辺には、解脱塔(新勝立町)、三池工業高校の監獄外壁跡(上官町)、合葬の碑(竜湖瀬町)、墓地(一浦町)など受刑者の強制労働の歴史を語る遺跡も数多くある。

また、荒尾市下井出の成田山大勝寺には、戦後の三池争議を物語る「久保清君殉難乃碑」が保存されている。三池争議の際、久保清は1960年3月に四山坑前でスト破りの集団に殺されたが、当時32歳だった。かれの碑には、国内外の全ての働く仲間が死を悼み、その志を受け継ぎ、働くものの真の解放までどんなに辛くても闘い抜く決意を固めたことが記されている。万田坑周辺は「三井グリーンランド」となり、遊園地やゴルフ場に変わっているが、その近くの寺に移転され置かれたかれの碑は、苦闘した労働者の歴史を語り伝えるものである。

 

C求められる真相究明と被害者の尊厳回復

ここでみてきたように三井三池関連では1万人ほどの朝鮮人連行があったが、残存する史料から三井三池炭鉱分の3000人ほどの名簿を作成した。この名簿は連行者の3分の1ほどにあたるが、そのうち約半数は氏名のみの判明である。

高木尚雄『わが三池炭鉱』には、四山人事『遺族名簿』と宮浦鑛人事係『公死者名簿』の写真が収められている(122,123頁)。これらの名簿には死亡者の名前と連絡先などが記されている。これらの名簿類は永久保存のものであり、閉山後の今も保管されている可能性が高い。公開されれば、戦時の朝鮮人の死亡状況もあきらかになるだろう。今後の企業側の史料公開が求められる。

連行朝鮮人の死亡者については三池炭鉱で51人分、三井染料で8人分、電気化学工業大牟田工場で4人分が明らかになっているが、三池炭鉱についてはこの倍近くの死亡者があったとみられる。

万田坑の名簿では三池の連行朝鮮人は、1945年9月から10月にかけて解雇されている。この朝鮮人の帰国は10月22日であり、連合軍俘虜は9月16日、中国人は11月22日である(『資料三池争議』16頁)。朝鮮人の遺骨の多くは、帰国の際に持ち帰ったようであるが、詳細は不明である。

1989年8月に市民団体「強制連行の足跡を若者とたどる旅」のメンバーによって、馬渡朝鮮人収容所跡で51号棟に連行朝鮮人による落書が発見された。1993年3月には保存する会が結成され、大牟田市や三井との交渉がはじまったが、1994年9月三井は棟を解体した。1997年3月、馬渡第1公園内に記念碑が建立された。壁の落書は大牟田市の産業科学館に保管され、展示された。壁の落書の文字から、棟内には京畿道長湍・驪州・高陽郡から連行された人々が収容されたことがわかる。この落書の発見は、強制労働の歴史を忘却するなという過去から問いかけでもあった。

元連合軍俘虜の動きをみれば、1999年8月には、元連合軍俘虜のレスターテニーさんが三井鉱山と三井物産とそのアメリカの子会社に対して、賠償と謝罪を求めてロサンゼルス地裁に提訴した。テニーさんは1942年4月にフィリピンのバターンで捕虜になった。収容所から逃走し、ゲリラに加わるが捕えられ、拷問を受けた。バターン、カバナチュナンを経てマニラから大牟田の収容所に送られた。テニーさんは三池炭鉱で1日12時間の強制労働と虐待をうけた。時にはショベルやツルハシ、石炭運搬用の鉄鎖で殴打されている(レスターテニー『バターン遠い道のりのさきに』246頁)。

テニーさんが収容されたのは1943年8月に新港町にできた福岡捕虜収容所第17分所である。連合軍俘虜は1737人が連行され、連行途中や三井三池での強制労働のなかで138人が死亡した。テニーさんは最初の連行者集団約500人のなかにいた。大牟田市の新開町には1944年9月に電気化学工業での強制労働用に第25分所が作られ、390人が連行され、4人が死亡した。これらの死亡者の名簿はPOW研究会のHPで公開されている。

中国人の動きをみれば、1993年には三井三池炭鉱(万田坑)に連行され死亡した中国人・王連赫さんの遺族が賠償を求め、1996年には同坑で死亡した朱玉藻さんの遺族が三井三池に対して要求書を出している。朱玉藻さんの遺族は、賠償や死亡状況の説明、強制労働の記録作成などを求めた。

さらに、2000年5月には三井の炭鉱に連行された中国人9人が政府と三井鉱山に対して、謝罪と損害賠償を求めて裁判に起ちあがった。提訴者は2001年5月に第2次3人、2001年10月に3人と増加し、15人になった(三井三池炭鉱11人と三井田川炭鉱4人)。

中国人の原告は、三井三池では張五奎・高国棟・劉星祥・陳桂明・葉永才・楊大啓・劉千・占勤・盧占龍・馬徳水・杜宗仁さんらである。三井三池への強制連行と強制労働の状況が当事者によってつぎつぎに明らかにされた。原告たちの証言は、福岡訴訟の原告と弁護団がまとめた『過ちを認め、償い、共に歩むアジアの歴史を』に掲載されている。

原告の劉千さんのケースをみておけば、劉さんは1944年春、河北省から三池の宮浦坑に連行され、暴力的な管理の中で強制労働をさせられた。劉さんの右足は労務監督者に斧で叩かれて骨折し、変形したまま結合している。裁判で示されたレントゲンフィルムは強制労働と虐待の歴史を証明するものだった。しかし、2007年4月、日本の最高裁判所は中国人連行者の賠償請求権は日中共同声明で放棄されているとし、中国人側の上告を棄却し、中国人被害者の賠償請求権を認めなかった。

今も被害者の尊厳は回復されていないのである。政府と三井は被害者個人への賠償が政府と連行企業自身の名誉と信用の回復につながるものであることを理解し、尊厳回復に向けて行動すべきであろう。

先に記した「久保清君殉難乃碑」に横には三池の労働者の想いを刻んだ「同志久保清に捧ぐ」の碑があり、次のような詩が記されている。この詩の想いは、連行被害者の尊厳回復への想いに繋がるものである。

「やがてくる日 歴史が正しく書かれるやがてくる日に 私たちは正しい道を進んだといわれよう 私たちは美しく生きたといわれよう 私たちの肩は労働でよじれ 指は貧乏で節くれたっていたが そのまなざしは まっすぐで美しかったといわれよう まっすぐに 美しい未来をゆるぎなく みつめていたといわれよう 日本のはたらく者が怒りにもえ たくさんの血が 三池に流されたといわれよう」。

 

 

参考文献

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