大井川電源開発

 

 ここでは大井川流域での電源開発工事における朝鮮人の動員についてみていきたい。ここで対象とする時期は主に一九三〇年代以降、日本がアジア太平洋地域で戦争を拡大していった時期である。

 大井川は赤石山脈から駿河湾へとそそぐ全長一八〇キロメートルの河川である。一九三〇年代から四〇年代はじめにかけて、この大井川の水を利用しての電源開発がすすめられた。

 一九二〇年代後半、工事用資材を運ぶために大井川鉄道工事がはじまった。鉄道は一九三一年に完成した。その後、湯山発電所、大井川発電所、大間発電所、久野脇発電所がつぎつぎに建設された。導水路の掘削やダム建設などの一連の工事に多数の朝鮮人が就労している。その数は一万人をこえるとみられる。

 久野脇発電工事の時期は日本帝国主義による侵略戦争が拡大され、植民地朝鮮からの強制連行がおこなわれていく時期と重なる。この工事を請負った間組と大倉土木によって二二〇〇人をこえる朝鮮人が大井川の工事現場へと連行されてきた。

 以下、大井川流域における朝鮮人強制連行の前史として大井川鉄道工事、湯山、大井川、大間の各発電工事での朝鮮人の就労についてみ、そのあと、強制連行先である久野脇発電工事についてみていきたい。

 

一 大井川電源開発と朝鮮人

  1 大井川鉄道工事

 大井川での発電工事の経過についてみると、一九〇八年には東海紙料の地名発電所の建設工事がはじまり、一九一一年には本川根町の奥泉に小山発電所の建設工事がはじまった。以後、電源工事が頻繁におこなわれたのは一九三〇年代からである。

一九一八年に資材運搬用に鉄道建設が計画されたが中挫、一九二五年三月に大井川鉄道鰍ェ創立され、一九二六年六月から鉄道工事がはじまった。翌一九二七年には金谷・横岡間、二八年には横岡・居林間、二九年には居林・家山間、三〇年には家山・地名間、三一年には塩郷・下泉間、下泉・青部間、青部・千頭間が開通した。一九三一年には金谷から千頭までの約四〇キロメートルが開通することになったのである。

 この鉄道が完成したことにより、大井川の電源開発工事が急速にすすめられていくようになる。

 大井川鉄道工事は一〇の工区に分けられ、それぞれの工区におおくの朝鮮人の就労があった。

 金谷・横岡間の工事がおこなわれていた一九二七年の状況を新聞記事からみると、一月には横岡の朝鮮人七〇人余りが、一円八〇銭から一円五〇銭への賃金の切り下げに抗議して飯場頭へとおしかけるという争議がおきた。二月ころの現場での就労人員をみると日本人約四〇〇人に対し、朝鮮人は約二〇〇人とされている。三人に一人が朝鮮人であったことがわかる(静岡新報一九二七年一月二一日付、二月八日付)。

 一九二九年八月一日には現場監督による殴打に抗議して、六○人ほどが争議をおこしている。この動きにたいして、消防団が動員され、警察は数人を検挙した(静岡民友新聞一九二九年八月三日付)。

 このころの工事状況について第二区(下泉・田野口間)を請け負った滝川組についての証言からみてみよう。

 大井川鉄道工事を請負った間組の下請けとなった滝川組は、間組が調達した朝鮮人を使って工事を請け負った。労働者のほとんどが朝鮮人であった。工事はツルハシとスコップを使い、ノミで硬い岩盤を掘っていく手作業でおこなわれた。蛇篭に玉石をつめて護岸工事に使ったが、水が出れば蛇篭さら流されてしまうこともあった。難工事にくわえ、天候にも左右され、工期はのびた。一ケ月間仕事ができないときには牧之原の天皇訪問用の道路建設も請け負った。朝鮮人は食物がちがうため、みな自分たちで調達していたという(『よみがえれ大井川』五五頁)。

 各工区におおくの朝鮮人が配置されていた。山を削り鉄道を敷設するという難工事のなかで死傷事故もおおく、賃金不払いなどの問題もおおかったようである。

 一九三一年末、大井川鉄道の完成時、朝鮮人労働者たちは賃金不払いに抗議して支払いをもとめて争議をおこしている。かれらは二〇〇〇円の賃金不払いに抗議し、列車妨害をふくめた実力行動をとった。この争議は未払い分一五〇〇円を警察署長と相愛会のたちあいのもと、支給させることで妥結している(『静岡県労働運動史』)。

一番列車が金谷から千頭へと走ったのはこの争議を経てのことであった。

 

 2 湯山発電工事

 大井川鉄道の完成により、工事資材の搬入が効率よくすすめられ、大井川の電源開発工事は湯山(一九三一〜)、大井川(一九三四〜)、大間(一九三六〜)、久野脇(一九三九〜)とつぎつぎにおこなわれていくことになった。

 これらの電源開発工事では発電所建設、導水路掘削、ダム建設、工事用林道建設などがおこなわれている。支流から支流へと山を貫いて掘削された導水用トンネルはトラックが通れるほどの大きさであり、この導水路にダムでためた水を流して発電所へ送った。朝鮮人はこの導水路(トンネル)掘削に多数就労している。

 この大井川での電源開発工事は日本が朝鮮半島を大陸侵略のための出撃拠点とし、朝鮮での皇民化政策をつよめ、より一層の収奪をおこなっていった時期とかさなる。

 湯山発電所の建設工事は一九三一年からはじまり、工事が本格化したのは一九三二年一二月のことだった。第二富士電力鰍ノよるこの発電工事は大井川最大の支流である寸又川の水を利用した工事である。寸又川の上流に千頭ダム、大間川の上流に大間川えん堤をつくり、そこから導水路を掘削して水を流し、寸又川の千頭ダム下流の湯山発電所で発電するという計画であった。この工事におおくの朝鮮人が就労し、導水路掘削や資材運搬用林道の建設に従事した。

 この工事を請負ったのは鹿島組(土木関係)、と間組(水路、ダムエ事関係)であった(『日本土木建設業史』)。

 湯山発電工事にともない朝鮮人の子どもも増加した。このため寸又峡にあった大間小学校は一九三三年九月、校舎の増築をおこなっている。寸又峡へときた朝鮮人の数は当時の村の人口の数倍という。

 寸又峡の大間ダムの横にあるつり橋を渡り山道を登ると、寸又川にそって林道がつづく。約五キロメートル先に千頭ダムがあり、その下流に湯山発電所がある。林道を発電所にむかっていくと導水管があり、その下に発電所を見ることができる。この導水管から林道を上流にむかっていくと、小さな地蔵が林道横にある。そこにはこの近くで事故死した三人の朝鮮人の名が刻まれている。朴鎮玉は一九三四年二月に、金京萬と朴方友は一九三四年十一月二一日に死亡している。金京萬と朴方友は湯山発電工事現場で生き埋めになって死亡したとみられる。

三人が死亡した一九三四年の新聞記事をみると、一九三四年七月には谷川組、酒井組の労働者が待遇改善をもとめて争議となったことや(静岡民友新聞一九三四年七月一四日付)、九月には五〇〇〇人を超える日本人と朝鮮人の労働者が集められていたことなどがわかる(静岡新報一九三四年九月二二日付)。

 千頭ダム脇には追悼碑があり、一二人の名前が刻まれている。そこには慶尚南道出身の金鳳守ら三人の朝鮮人名がある(『本川根町史』四一二頁)。

 寸又峡には飛竜橋や天子トンネルがあるが、ここを森林軌道が通っていた。寸又峡入り口の駐車場に保存されている汽車がこの軌道を走っていた。この軌道の工事を担ったのも朝鮮人だったという。

 千頭の望月恒一さんはいう。「朝鮮人はノミと鉄槌で岩に穴をあけ、岩盤を掘りすすんだ。ノミに藁をまき、水が飛び散るのをふせいでいた。金谷署から請願巡査が派遣されてきた。柔道や剣道のできる人を用心棒にして「工友会」という監視のための組織がつくられた。朝鮮料理屋ができ、チマチョゴリをきた女性が歌・踊り・太鼓をたたいたりして客の接待をした。今の公民館のすぐ上、旅館アルプスの横の駐車場の辺にあった。飯場は各地にできた。大きな飯場が求夢荘の下にあった。沢間まで資材を索道で運び、軌道ができる前は大八車でセメントなどを運んでいた」(千頭にて、一九九五年談)。

 湯山発電所が発電をはじめたのは一九三五年一〇月のことである。工事は林道を建設し、資材を寸又川上流まで運び、導水路を掘りすすめ、ダムと発電所を建設するというものであったが、三年余りにおよんだ。そこに数千人の朝鮮人が投入された。死傷者数も多かったと思われる。

  

3 大井川発電工事

 湯山発電工事がすすめられるなか、一九三四年十一月に大井川発電工事がはじまった。

 この工事は大井川電力鰍ェ出願したものであり、大井川の本流をせきとめての電源開発工事であった。工事を請負ったのは間組(第一工区)と大倉土木(第二工区)であった。大井川発電計画は大井川上流の奥泉に大井川ダムを建設し、そこから導水路で水を支流の

寸又川へ流し、寸又川ダムで水をため、その水を導水路で横沢を経て崎平にある大井川発電所に送って発電するというものである。

 大井川の西側の山に導水路を掘削する工事がおこなわれ、大井川と寸又川でのダム建設、干頭貯木場、専用鉄道、側線軌道(崎平から大井川発電所の間の約ニキロメートル)、崎平放木場などの建設がおこなわれた。これらの工事にもおおくの朝鮮人が就労した。

 大井川発電工事現場へと一九三四年に朝鮮半島から募集されて来た李日俊さん(慶北迎日郡出身)はつぎのようにいう。

 「私が大井川発電の工事現場にきたのは一九三四年のことだった。植民地支配下での生活を思い出すと今も涙が出る。困って仕方がなく日本にきた。私の村からの五人を含め約五〇人が船に乗り下関へ。下関から金谷まで汽車に乗った。金谷から大井川上流へ行き沢間の飯場に入った。四〇〇〇人以上の人が集められていた。黄さんという同郷の親方の下で導水路のトンネル掘りをした。皆朝鮮人で三交替だった。

 辛かった。穴掘りは危険で毎日のように死傷者がでた。仕事が仕事だったから、けが人や死ぬ人がでるのはあたりまえ。頭の上から突然大きな石が落ちることもあるし、水がどおっと流れ出すこともある。発破の振動でいきなり岩が崩れることもあった。真っ暗な穴の中でカンテラの光だけだから、何か起こっているのかわからない。私はそこで三年がんばった。故郷の家族は私がたよりだった。しばらくして家族を日本へ呼んだ。生きるため死にものぐるいで働いた。

工事場近くには遊廓があり、朝鮮から連れてこられた一七〜八歳くらいの女たちが二〜三〇人、客の相手をさせられていた。

大井川工事のあと、信濃川や富士川の発電工事の現場で仕事をした。八・一五のときは長野県の上田にいた。話をすれば一日ではおわらないよ。早く南北が統一してほしい。家族は南北に住んでいて会うことができない。本当のことを書いてあとの世代に伝えてほしい。」(静岡市在住・一九九六年談)

 湯山発電工事現場から大井川発電工事の現場へきた人々や李さんのように朝鮮半島から募集されてきた人々、他の現場から大井川へときた人々などの数は数千人の規模となった。

 孫春任さん(一九三〇年生)の回想記をみてみよう。

父の孫慶祚さんが大井川の工事現場にきたのは一九三四年ころである。父は慶尚北道義城郡亀川面出身、孫春任さんが二〜三歳のころ、一九三〇年代はじめに渡日した。長野・岐阜のなどの工事現場を経て静岡へときている。父は近藤組の親方であり、発電所の隧道工事に従事した。本川根南小学校に兄と姉の記録があり、姉は一九三四年四月に入学し一九三五年一〇月転出となっていたから、このころ工事に従事したのだろう。住所は千頭御料地内とされている。その後、山梨県南巨摩郡早川町に行き、西松組の下で日軽金富士川発電工事に従事した。

 場所についてはよくわからないが、河原の高いところに朝鮮人の飯場がつくられた。みかん畠の丘に横一筋の道があり、朝鮮の子どもたちがはしゃぎながら学校へ通った。旧暦の月見盆にはたくさんの朝鮮人男女が集まり、はやし、歌い踊り、列をつくって歩いていたという(和歌山市在住、一九九六年取材)。

 朝鮮人労働者が増加するなかで朝鮮人の団結がつよめられていった。

 一九三五年六月末には朝鮮人が解雇に反対してストライキをおこしている。六月二八日、間組配下の一四八人の解雇に対し三〇〇人がストに突入、三〇日、朝鮮への帰国旅費の増額支給で争議は妥結した(『静岡県労働運動史』)。

 この一九三五年六月には大井川親睦会という互助団体もつくられている(四〇〇人、中心メンバーは崔道俊、辛興道ら)。

 大井川発電所の発電がはじまるのは一九三六年一〇月のことであるが、同じころ、寸又峡で大間発電工事がはじまっていく。

 大間発電工事は寸又峡に大間ダムを建設し、そこから導水路を掘り、下流の大間発電所へ送り発電するというものである。大間発電所は一九三八年十二月から発電をはじめたが、この工事にもおおくの朝鮮人が就労していった。

 本川根町青部にある大井川発電所の構内に「大井川発電所殉難者慰霊碑」がある(一九三六年十一月建立)。そこには四五人の名が刻まれているが、そのうち一二人が朝鮮名である。間組 金申植・朴長京・黄苛珠、大倉土木 安光根・金仁出・鄭極崑・金百振・崔在秀・朴徳龍・金洪祚・金洪植・朴八龍。

 この工事での死者がこれだけとは思われない。重傷を負ったものも多かっただろう。氏名不詳のまま葬られた人もいたのではないかと思う。

 以上みてきたように一九三〇年代の大井川での電源開発工事にはおおくの朝鮮人が就労してきた。大井川での発電工事は電源を開発し、それによって軍需産業を拡張するための「国策」としておこなわれた。この工事現場には日本帝国主義による収奪のために渡日せざるをえなかった朝鮮人の血と汗が刻まれている。朝鮮人は植民地支配による差別と搾取のなか、低賃金で働く労働力として電源工事に投入されたのである。

 日本帝国主義による侵略がひろがり、労働力が不足してくると、朝鮮半島からの労働動員が強制連行によっておこなわれるようになった。つぎにみていく日本発送電による久野脇発電工事は強制連行された朝鮮人を使っての工事であった。

 

二、久野脇発電工事への強制連行

  1 久野脇発電工事への連行者数

 電力産業への国家統制により一九三九年四月、日本発送電が設立された。日本発送電は大井川での電源開発工事をすすめ、三九年十二月末から大倉土木と間組が請け負う形で久野脇発電工事がはじまった。

 この発電計画は大井川発電所からの水を導水路で榛原川えん堤を経て久野脇発電所に送って発電するというものであり、導水路の掘削とダム・発電所の建設がおこなわれた。山を貫いて掘られた導水路は約一二キロメートルにおよぶ。これらの工事へと二二〇〇人以上の朝鮮人が強制連行された。

 支流と支流の間を一つの号区として、全体が一〇の号区にわけられ、一つの号区に一五〇〜二〇〇人が動員された。導水用のトンネルが一つの号区の上流と下流の両方から掘られた。支柱として松丸太が使われた。警察や世話役らの監視のもとで、朝鮮人は発破で砕いた岩をツルハシやスコップでとり出し、トロッコで外へ運び出した。

 飯場が小井平・水川・長尾川・中津川・柿間沢・三ツ間などの工事現場近くの山腹、農地やあき地につくられた。強制労働からの自由をもとめ、逃亡する人も続出したが、発見されれば世話役の監督らによる殴打などの虐待をうけた。

 大倉土木と間組は久野脇発電工事に必要な大量の労働力を朝鮮半島にもとめた。国家がそれを承認し、人数を割りあてた。大倉と間の募集人が朝鮮におもむき、五〇人、一〇〇人と久野脇へと連行した。連行がうまくいかなくなると、朝鮮総督府が斡旋を強めた。連行された人々は協和会(金谷支会)に組織され監視された。それは政府と企業が結託しての労働奴隷狩りであった。

 中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」(一九四二年)、厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」(一九四六年)から強制連行された朝鮮人の数と連行状況についてみてみよう。

 間組は政府から一九三九年八〇〇人、四一年四〇〇人、四二年二〇〇人、四三年一五〇人の計一五五〇人の割りあてをうけた。実際に連行した人数は一九四〇年七九七人、四一年四〇二人、四二年三九七人、四三年一三一人、四五年七人の計一七三四人である。

 一九四二年六月現在での連行者数は一三二一人であり、そのうち現存者数は六二五人となっている。間組では一九四二年三月から六月までの間に二五〇人が減っている。

 逃亡者数についてみてみると、一九四一年に二一八人、四二年に二九三人、四三年に三三八人、四四年に一〇〇人あり、合計すると九四九人となる。逃亡率は五四パーセントであり、そこに連行された人々の自由への想いをみていくことができる。帰国者数は五〇八人である。帰国後も再び徴用された人や徴兵された人もいたであろう。

 一九四四年末までに現地に残っていた人は二六七人にすぎない。工事がおわると他の現場へ連行された人もおおかったであろう。記録上は「逃亡」とし事後の責任から逃れようとしたケースも多いと思われる。

 死亡者数をみてみると一〇人とされている。

 久野脇・間組へと連行された人々の氏名と本籍地を記した名簿の一部(三五二人分)が残されている。この残存名簿は慶南密陽郡一〇二人、梁山郡一一八人、慶北醴泉郡八二人、栄州郡五〇人分である。名簿記載状況から密陽からの連行は一九四〇年か四一年、梁山郡からは一九四一年、醴泉郡からは四二年か四三年、栄州郡からは四三年七月の連行であることがわかる。

 密陽郡の名簿をみると武安面・下南面からそれぞれ約五〇人が割りあてられて連行されたことがわかる。人員をそろえるために甘言や強要がおこなわれたであろう。梁山郡の場合、院洞面、上北面ほか各地から一〇〜三〇人が割りあてられて連行されている。醴泉郡をみると各面に一五〜二〇人の割りあてがあったことがうかがえる。栄州郡の場合五〇人を連行するために、栄州邑をはじめ各面からかきあつめるように動員して連行してきた。慶北からの連行者は創氏改名されている人々が多い。

 つぎに大倉土木による連行についてみてみよう。

 大倉土木は一九四〇年二〇〇人、四一年二〇〇人、四二年二八〇人、計六八〇人の割りあてをうけている。大倉土木徳山出張所へと直接朝鮮から連行された人数は一九四一年一八七人、四二年二七五人、四三年七三人の計五三五人である。

 逃亡者数をみれば、一九四一年六六人、四二年八七人、四三年一六三人、四四年一一六人であり、計四三二人となる。帰国者は七八人であり、現場に残っていたのは二〇人だけとなる。死亡者は五人となっている。一九四二年六月までの連行者数は四〇二人とされている。このうち現存者数は三〇〇人であり、四二年六月の段階で一〇〇人近くが現場から姿を消している。

一〇〇人を連行単位とすれば朝鮮半島の各郡から二〇回以上の集団的連行がおこなわれていったとみることができる。このような連行の繰り返しによって、二二〇〇人以上が連行されたわけである。

 連行された朝鮮人は自由と解放をもとめ、つぎつぎに現場から姿を消した。逃亡した人々は各地の同胞飯場に入りこんだ。一九四四年〜四五年にかけて日本各地で軍事基地や工場関連の地下施設づくりがすすむが、そこには連行されたのちに転送されたり、逃亡した人々の姿があった。

 強制連行された人々以外にも多くの朝鮮人が久野脇現場に就労していったと思われるが、詳細は不明である。

 連行されてきた朝鮮人を管理・統制するために協和会が設立された。金谷警察を拠点にして金谷支会がつくられ、各現場に協和会の分会が組織された。金谷支会の設立は一九四〇年三月一六日である。久野脇での工事が始まって約三ケ月後のことであり、朝鮮からの連行者をふくめて九六二人を組織している。間組、大倉土木は企業毎に協和会をつくっている。静岡県協和会の組織人員は一九四〇年では一万一八一六人であり、久野脇工事関係の朝鮮人は県全体の協和会の朝鮮人数の約八パーセントを占めている。

 『協和事業年鑑』から県協和会金谷支会の活動についてみてみよう。

一九四〇年四月、間組事務所で七六〇人に対し軍隊訓練と表彰をおこない、五月から十月にかけて間組七九八人に毎日二時間の団体訓練、精神訓話、日本語指導がおこなわれた。八月には一八五五人をあつめ「道は一つ」「日の丸兄弟」と題した講演と映画会をおこない、十一月には間組事務所で体育大会を七二〇人でひらいている。

 一九四一年の動きをみれば、二月、金谷支会の優良会員一六人を連れて浅間神社参拝と静岡連隊の見学、間組では協和寮をつくり「精神的慰安」、十月には支会係員と大倉土木協和事業係主任の引率のもとに静岡陸軍病院への慰問と市内見学をおこなっている。

 一九四一年五月一〇日に慶北高霊郡から大倉土木の現場へ連行された「高山隆雄」らは支会のひらいた補導員養成会に参加した。『協和事業』一九四一年十二月号には「高山隆雄」名による報告が掲載されている。そこでは「内鮮協和」のもと「皇国臣民」の「尖兵」となるため、日本語を習得し生活を改善することが訴えられている。 

 なおこの時期、帝室林野局名古屋支局千頭出張所に動員された朝鮮人もいた。一九四一年の「四月入山増員氏名簿」には渡辺組、杉山組、杉本組の人夫三二人分の朝鮮人名が記されている。慶南・慶北出身者がほとんどである(本川根町史資料)。四一年九月二四日には労災で李秉權が死亡した(金雙甘宛文書・同資料)。

 

  2 久野脇発電工事・連行の足跡

 つぎに久野脇発電工事での強制連行の足跡を下流から上流へと追ってみていきたい。 久野脇発電所から三ツ間地区に入ると、茶畑の中に飯場の井戸跡を示すパイプが一つ残されている。三ツ間には日発の建屋や朝鮮人飯場があったという。

 三ツ間から瀬沢にむかい、境川にそって上ると境川ダムがある。このダムは当時建設されたものである。そこからハナツラ峠を越えると下長尾に入る。川のむこう側が下泉である。

松下麟一さんの調査によれば、下長尾の河原、南部小学校付近に「慰安所」がつくられ、一〇人ほどの朝鮮人女性が連行されていた。監督が労働者を隊列にくんで「慰安所」へ連れてきたという。若い女性たちも性の奴隷として大井川へと連行されてきたのである。

 下泉でのききとりによれば、久野脇発電所の工事では資材が不足していた。そのためか戦後建屋の天井がおちたこともある。工事は電線を山伝いに通しておこなわれた。朝鮮人の飯場が各地につくられ、家族連れの人も来た。資材が田野口から上長尾に送られていた。

川で砂利を取り、山上まで引きあげていた。

 下泉の松島英吉さんはいう。「私の家の地所に飯場があった。中川根村の自然キャンプ村付近。当時工事用機械やトロッコに乗って遊んだ思い出がある」(五六歳、一九九〇年談)。

 下長尾の民家をぬけると柿間沢がある。柿間沢は境川ダムと長尾川の水路橋の間にあたる。柿間沢の上流、下長尾の権現原に飯場がおかれ、ズリは柿間沢へと捨てられた。原の南側から沢へおりていくとコンプレッサーの台座の跡がある。

下長尾の大池長太郎さんはいう。「権現原はいまでは茶畑だが、当時は上流から水を引いて田地だった。ここでの工事は一九四〇年ころからはじまった。どんどん朝鮮人が入ってきた。権現原には五棟ほどの飯場ができ、親方衆の飯場も二棟つくられた。柿間沢の下流から上流までトラックで資材を運んでいた」(一九九一年談)。

 一九四二年七月六日、柿間沢で争議がおきている。朝鮮人一人が行方不明になったことを契機に一三〇人がストライキに入った(『特高月報』一九四二年七月分)。このときの朝鮮人数は一〇三八人とされている。強制連行・強制労働への怒りは一人の行方不明を契機にストヘと転化したといえるだろう。

 高郷と上長尾との境を流れる長尾川の上流(三六二号線から約一キロメートル先)に水路橋がある。この橋の中を導水管が通っている。

 上長尾の坂下芳次さんはいう。「この水路橋を建設したのは朝鮮人だった。水路橋から五〇メートルほど上流に大きな飯場があった。今は茶畑だが当時は田んぼだった。一〇〇〜二〇〇人くらいの労働者がいた。下流の川端にも飯場が三軒ほどあった。夜になるとたくさん逃げた。奴隷扱いだった。汽車に乗りおくれて線路づたいに歩いていたら、むこうから逃げてきた人と会ったことがある。逃亡すると間組の用心棒がつかまえにいった」(七六歳、一九九〇年談)。

 上長尾では「間組の親方の名は野本・近藤・辺見・足立といったか。近藤は逃亡者を捕らえる仕事、野本・辺見は土木技術専門、足立は事務所をもっていた」という話もあった。親方の正確な氏名はわからないが、朝鮮人管理や土木専門等さまざまな仕事をもって現地にいたようである。

 上長尾へと朝鮮人が入ってきたことは、一九四〇年春、上長尾小に三四人の工事関係者の子どもの入学があったこと、小学校が増築されたこと、四三年三月の上長尾小の卒業生七七人中七人の朝鮮人名があること(『私たちの街にも戦争があった』五四頁)、クラスのなかに五〜六人の朝鮮人がいて今も文通していると語る人がいることなどからもわかる(『よみがえれ大井川』五〇頁)。

 上長尾に残る水路橋は戦時の強制労働を示す戦争遺跡であり、それは日本帝国主義による植民地支配の強化と戦争犯罪をものがたる構築物である。

 上長尾から水川に入る。水川川の上流には導水路の一部が川底から露出しているところがある。

 一九四一年四月に水川の小学校に赴任した平松代四雄さんによれば、当時水川の小学校は全校で一二〇人ほどであり、五、六年生の担任となったが、秋のころから発電工事のために朝鮮人の子どもが多数人学した。学級人員は倍増し、自分の学級でも二四〜五人を数え、日本人と半々くらいになったという(小笠農学校昭和一三年卒同級会誌『卒業五〇周年記念高田ヶ丘』)。

 水川から藤川に入ると、藤川の旧保育園の北側に竪坑がある。コンクリート製の階段が導水路にむかっている。

 藤川の助産婦の証言によれば、朝鮮人の子どもを四〇〜五〇人とりあげたという。子どもたちは地元の小学校に通った。藤川で青年学校の指導員が朝鮮人の訓練指導を依頼され、二〇歳くらいの朝鮮人二〇〜三〇人を大井川と中津川の合流点に連れていき、軍隊式の訓練をさせた。不動の姿勢をとらせ、前進・駆足・体操などをさせた。朝鮮人は若く体力があり、なかには漢文書を読む人もいた。悪い人はいなかったが、日本人は朝鮮人をアゴで使っていたという(『私たちの街にも戦争があった』五三頁〜)。

 藤川から大井川をはさんでむこう側が徳山である。徳山には大倉土木の徳山出張所がおかれていた。大井川鉄道徳山駅の東にある山本園という茶店は当時旅館であり、ここに大倉土木の事務所があったという。

 藤川の中村為作さんはいう。「この地域で工事をしていたのは大倉土木。山際という親方がいた。請願巡査がきていた。藤川での労働者は日本人と朝鮮人半々くらいだった。朝鮮人は世帯持ちが多かった。榛原川から小井平へとのぼる坂の付近に飯場がつくられた。この飯場や水川の飯場の朝鮮人は徴用者だった。藤川から大井川へと排出口がつくられたが、ずい道が完成するとそこは埋められた。ズリは周辺に捨てられた。労働者は飯場をつくったり、空家に入ったりした」(七八歳、一九九〇年談)。

 藤川と小井平の間に榛原川があり、そこにはえん堤が建設され取水口がつけられている。

 小井平の小川与平さんはいう。「えん堤から小井平へと入る坂の下に朝鮮人飯場があった。工事資材は徳山から青部のトンネル口に運ばれ、そこから榛原川の川上へと運んだ。索道を利用して山上へあげて工事をしていた。日本人は技術者、労働者はほとんどが朝鮮人であり、河原には飯場がたくさんできた」(一九九〇年談)。

 小井平にある観天寺の上の丘に共同墓地があり、そこに追悼碑「三界萬霊塔」がある。この丘からは大井の山々と川が眺望できる。碑は一九七二年八月、中部電力と大成建設(大倉土木)によって建てられたものであり、一二人の名が刻まれているが、そのなかに金金介・李春植・金弼純・「不詳」と三人の朝鮮人名と一人の不明者が記されていた。この墓地の中央上部には「忠魂碑」があり、追悼の碑は侵略戦争への「忠魂」を支えるかのように、下段の左端におかれていた。ここに刻まれている氏名は久野脇発電工事での死者の一部にすぎない。

 

 ここでみてきたように、大井川の電源開発工事にはおおくの朝鮮人が使われている。久野脇発電工事へと強制連行された朝鮮人は二二〇〇人をこえている。湯山・大井川・大間の各発電工事でもそれぞれ二〇〇〇人以上の朝鮮人が就労していたといえるだろう。大井川鉄道工事に従事した朝鮮人を含めて、大井川での電源開発工事に関わった朝鮮人の数は一万人をこえるとみることができる。導水用に掘られたトンネルは約三〇キロメートルもある。これらの電力施設は今も使われている。

 侵略戦争下、植民地の労働力を強制連行し、戦時労働奴隷として使った歴史の解明は充分になされていない。政府と企業により史料は隠蔽されたままである。この強制連行という戦争犯罪は事実究明の段階にあり、被害者個人への国家賠償はおこなわれず、連行を計画し実施した責任者の処罰への扉は閉ざされている。

 強制労働によってつくられた発電所・ダム・導水路などは戦争遺跡である。これらの史跡はわたしたちに歴史認識のありようと人間の方向性を問いつづけ、想像力を喚起しつづけているように思う。