清水の軍需工場・港湾

ここでは清水地域での強制労働についてみていく。はじめに、県内各地での軍需企業の増加についてみておこう。

 

 一 産業の軍事化と軍需工場の増加

 一九四三年七月の『藤岡今松知事重要事項事務引継書』(『地方長官会議綴』所収文書)のなかに都市計画課「静岡県総合改革開発計画要綱に関する件」がある。そこには県内各地の主要軍需工場の建設状況が記されている。

 中部地域をみてみると、静岡では三菱重工業(発動機・建設中),住友金属(プロペラ・建設中),内閣印刷局(印刷、建設中)、三光航空機(機械・転換中、三光紡績跡)、鐘ヶ淵紡績(転換済・兵器)、丸国航空機(機械・転換中、マルクニ鉄工所跡)、小糸製作所(機械・拡張中、綾羽靴下工場跡)があげられている。

清水では東亜燃料(製油・操業中)、日本軽金属(アルミナ・操業中)、日本発送電(火力・操業中)、日立製作所(機械・建設中)がある。清水での高等商船学校、国防理工科大学の建設についても記されている。

藤枝では朝比奈鉄工場(機械・建設中)、島田では海軍某工場(建設中)、東亜特殊製鋼(特殊鋼建設中)がある。

 富士宮では園池製作所(機械・建設中)、日本精工(ベアリング・買収交渉中)、東亜航空電機(機械・買収交渉中)がある。富士では、日産自動車(発動機・転換中、東京人絹跡)、東京芝浦電気(発動機・転換中、富士瓦斯紡跡)、軍火薬工場(火薬・転換中、王子製紙第三跡)、内閣印刷局(凸版・転換済、大昭和製紙跡)、凸版印刷(凸版・転換中、大昭和鈴川工場跡)があり、蒲原では日本軽金属(アルミニウム・操業中)がある。

 東部地域をみると、沼津では海軍工廠(拡張工事中、東京人絹工場利用)、芝浦工作機(機械・操業開始)、沼津工業(兵器・建設中)、中島飛行機(機械・転換中、日本特殊繊維跡)、三島では明治ゴム(タイヤ・建設中)、中島飛行機(機械・建設中)、電業社(水車・操業中)、国産電機(機会・操業中)、富士精機(機械・操業中)、大東紡三島航空補機製作所(転換中、大東紡跡)があげられている。

 西部地域をみると、浜松では日本楽器天竜工場(プロペラ・拡張中)、中島飛行機(組立・建設中)、中島航空金属(機械・敷地交渉中)、磐田では日本楽器見付工場(プロペラ)、新居の中島飛行機(機械・転換中、呉羽紡績)、湖西では日本金属(特殊鋼・買収交渉中)などが記されている。 

『静岡県農地制度改革誌』には、一九四一年〜四四年の軍施設・軍需工場建設の工事現場について記されている。ここにあげられているのは一〇町歩以上の「農地潰廃」にともなうものである。

 軍施設 函南陸軍共済病院・田方郡下海軍施設・駿東郡下陸海軍施設・富士田子浦飛行隊・上井田村少年戦車学校・清水市重砲兵学校・清水市航空隊・清水市高等商船学校・焼津海軍航空隊・大富村海軍市川部隊 榛原郡下飛行場・白羽村東京造兵廠・小笠郡下陸軍施設・磐田郡航空情報部隊・袖浦村飛行隊・浜松中部第一一三部隊・二俣町需品廠・浜松市陸軍部隊・新居町浜名海兵団

 軍需工場 清水蒲原日軽金・大岡芝浦工作機械・三島中島飛行機・清水日立製作所・静岡住友金属・静岡三菱重工・富士宮園池製作所・富士宮東亜航空・浜松日本楽器・東亜特殊鋼・日本火工。

 工場については地方長官会議関係史料と重なるものが多い。軍需工場や軍事基地建設によって大地が奪われ戦争のために使われていったのだった。

これらの史料から県内の企業の軍需化と軍需企業の増加を知ることができる。これらの工場が多くの下請企業を持っていた。工業地域が軍需生産を中心に再編成されていった。特に軽金属、発動機やプロペラなど航空機部門での軍需産業の拡張が目立っている。これらの軍需工場で作られた兵器はアジア太平洋各地での戦争に使われ、多くの市民を殺傷していく。さらに軍需工場は米軍による攻撃の対象となり、多くの市民が命を失う結末をもたらすことになる。三菱重工静岡、住友金属静岡、中島飛行機浜松、沼津海軍工廠などは、三〇万坪を超える巨大軍需工場だった。これらの軍需工場の建設現場には多くの朝鮮人が動員されている。

ここでは清水地域の軍需化と連行の状況についてみていこう。

 

 二 清水の強制連行前史

 静岡県の清水は貿易港としてよく知られているが、 戦時下の強制連行の実態についてわかっていることは少ない。一九二〇年代から清水の港湾や土木現場へと多くの朝鮮人が就労している。侵略戦争が広がる中で、清水は港湾、軍需生産、軍事基地の拠点とされ、そこに労働力として朝鮮人や中国人が強制連行された。

 朝鮮人の強制連行先で現在わかっているところをあげると、鈴与・日軽金・清水港運送・豊年製油・日本鋼管・黒崎窯業などがある。これらの連行先以外に港湾、基地工場建設、その他の土木現場に多くの朝鮮人が動員されている。そこには強制連行された現場から逃れてきた朝鮮人もいた。また中国人が港湾に連行された。

日本によって朝鮮半島が植民地とされたのち、朝鮮と清水をむすぶ定期航路がひらかれ、清水へと大豆・米・豆かすなどが運ばれてくるようになった。 また一九二〇年代後半から清水で働く朝鮮人労働者が増え、 三〇年代に入ると四〇〇人から六〇〇人ほどになった。

 このころ朝鮮人の労働者たちは土木・港湾荷役・製材・運送などの仕事をしていた。 朝鮮人が増えてくると相互扶助と管理統制のための組織がつくられ、清水融和親睦会(一九二八年)、清水内鮮同和会(一九三〇年)が設立された。当時朝鮮人が就労していた場所をみてみれば、 静清国道工事・清水上水道工事・港湾埋立工事・日本平道路工事などがある。

 朝鮮人が増加し、また恐慌の波が清水をおそうなかで、 朝鮮人が階級的に連帯して争議をおこすようにもなった。 静岡民友新聞や静岡新報の記事を追うと朝鮮人による争議が起きていることがわかる。一九三一年には清水上水道工事の現場で二度にわたって争議となった。五月には朝鮮人一〇〇人と日本人二〇人ほどの労働者が賃上げをもとめてストライキをおこし、 九月には二五人あまりの労働者の解雇撤回をもとめて争議となった。 九月の争議のときには、 清水・三保間で埋立工事をしていた朝鮮人五〇人ほどか連帯のストライキをうっている(『清水市史資料現代』・『清水隣保館関係資料』)。

 この清水上水道争議のリーダーであったのが崔南守である。崔南守の活動をおってみると、 渡日後、一九二四年に駿東郡小山町で朝鮮人労働友和会の結成に関与し、翌年神奈川で朝鮮労働同志会の代表となり、一九二七年頃には在日本朝鮮労働総同盟神奈川県朝鮮労働組合の結成に参加、同労組の寒川支部長として活動してきた(石坂浩一『近代日本の社会主義と朝鮮』二〇〇頁)。その後、清水へ来て、清水上水道工事現場で争議団のリーダーとして活躍した。

 のち熱海へと移動し、一九三三年に熱海失業者同盟を結成、 翌年この失業者同盟を東豆労働組合へと改組した。東豆労組はメーデーの企画や争議にかかわり、朝鮮人と日本人との共同の闘いをすすめた。この東豆労組は日本無産党支部の柱となり、人民戦線運動を地域で担っていったが、一九三七年一二月に弾圧され、解散へとおいこまれた。東豆労組のような朝鮮人の民族的・階級的な活動がおしつぶされるなかで、朝鮮人の皇民化と侵略戦争への動員がつよめられていった。

 朝鮮人への皇民化政策の動きをみてみれば、一九三四年には清水内鮮同和会は二月十一日の「奉祝」へ動員された。そこでは「君が代」を歌わせ 天皇「遥拝」をさせた。中国への全面侵略がはじまると、一九三七年一〇月には「皇軍感謝」のために「慰問金」をあつめさせた(『清水市史資料現代』)。

 清水地域は軍需生産の拠点となっていき、軍需工場がつぎつぎに建設されていった。朝鮮人はこれらの工場建設や軍需生産に動員されていくようになった。

朝鮮人の強制連行がはじまると、静岡県協和会清水支会が一九四〇年三月に二二九〇人で設立された(『静岡県社会事業概覧』)。一九四一年秋には協和会清水支会が事業主と共催して日軽金青年学校講堂で六九人の会員に講習会をおこなった(「協和事業」一九四二年一月)。

 アジア太平洋戦争がはじまると、一九四二年八月に清水署で協和会清水支会の指導員会がもたれた。 そこでは日本語を教育し、勤労報国隊をつくり、報国貯金をすすめ、青年の軍事訓練をおこなうことを決めている。朝鮮人を翼賛体制へと統合していこうとしたのである。 一〇月には青年勤労報国隊がつくられ、同じころ、清水市万世町在住の青年が朝鮮人志願兵となっている。一九四三年には勤労奉仕隊による港湾荷役が三日間おこなわれ、 傷病兵への「慰問」もとりくまれた(『清水市史資料現代』)。

 これらは協和会の皇民化活動の一部であるが、 日本が侵略戦争を支えるために朝鮮人を動員していったことがわかる。皇民化とは精神的奴隷化であった。協和会清水支会についての資料発掘がもとめられる。

 

 三 鈴与

 

 清水の港湾業を握っていた鈴与商店ははやくから強制連行された労働者を使った。「移入朝鮮人労務者状況調」によれば一九四二年六月までに一一九人を連行した。 鈴与は朝鮮人を築地町の「清和寮」に収容した。そこで夜、訓話や日本語教育をおこなったが、一九四二年六月での実在数が四九人であることから半数以上が逃走などにより離脱したようである。一九四五年八月には四〇人が残っていたと鈴与は厚生省に回答をよせているが一九四二年六月から一九四五年八月までの連行状況についてはわかっていない。

 築地町での聞き取りによれば、 現在の鈴与港湾センターの敷地に朝鮮人寮(収容所)があったという。築地町には連行された人々のほか、渡日した人々が多く住んでいた。 これらの朝鮮人は鈴与の煉炭工場や船内の荷役運搬などに従事していた。

 一九四二年八月には港湾業への国家統制が一港一社の形で強められ、鈴与の港湾運送部門を中心に清水港湾運送が設立された。翌年、社名は清水港運送となった。

 一九四三年には軍と運輸通信省の統制下で日本港湾業界が設立され、 鈴与はその設立委員の一人となった。この業界の下に各地の港湾業者がくみこまれた。

 清水港の回漕業務は清水港運送へと統合され、のちには鈴与の倉庫業務・燃料販売部門もこの会社へと吸収された。このような状況のなかで鈴与は一九四二年一〇月、業務部を設立し、軍需工場・軍施設へと労働者を派遣し請負うという「労務供給」をおこなうようになった。この業務部が朝鮮人寮の管理をするようになった。業務部の一九四四年〜四五年の派遣先と労務内容をみてみれば以下のようになる。

 陸軍需品本廠芝浦出張所清水集積所 清水駅の木材建築材料のトラック輸送、 静岡周辺の材料の荷馬車輸送、積みおろし。

 横須賀海軍施設部清水集積所 駒越・宮加三の集積場所へ丸太材他を輸送、集積、船積作業。

 陸軍立川航空廠清水集積所 労務供給・貯油

 東亜燃料工業清水工場 燃料製品を立川航空廠集積所へ運搬、 製油原料用ゴム取扱、 場内雑作業

 日立製作所清水工場 建設材料の取扱、運搬、場内作業

 三菱重工・住友金属静岡工場 建設材料の運搬、製作機械の運搬、場内作業、静岡駅前に出張所設立。

 日軽金清水工場 労務供給

 豊年製油清水工場 原料大豆の揚荷、運搬、製品の貨車積、場内作業

 港湾内船舶 内航船の貨物取扱作業、 浜からの荷馬車運搬(『鈴与一七〇年史』三九二頁)。

このような派遣・請負を業務とした鈴与の下に、多くの朝鮮人が組みこまれていった。鈴与の業務部は戦時下朝鮮人の派遣業務を担ったとみていいだろう。

清水港運送への強制連行については、厚生省勤労局 「朝鮮人労務者に関する調査」から一九四四年九月、忠清北道陰城郡から七四名が連行されたことがわかる。朝鮮人労働者は陰城郡からの連行者以外にも多数いたと思われるが実態はわかっていない。  

一九四五年一月、中国河北省出身の中国人が一六〇人連行された。中国人は連行途中に四人が死亡、就労中に三二人が死んでいる。これらの中国人は日本港運業会清水華工事務所によって管理された。清水では鈴与・清水港運送がこの華工事務所の中心になっている。

 強制連行された労働力を使うなかで、一九四五年三月、清水港運送では 「戦時服務規則」 がつくられている。この規則は一九四三年の「応徴士服務規則」(厚生省)をもとにつくられたものであり、兵営規則を職場に導入したものであった。そこでは、「帝国臣民」の本分を貫くため「至誠報国」にむけて「服従」を説き、職場内での「敬礼」をもとめ、「大御心」を「奉載」して事業場を「統率」すると説いている(『鈴与一七〇年史』二〇六頁)。清水港運送は一九四五年四月に準軍需会社の指定をうけるが、職場の統制強化・戦場化はこのようにすすんでいた。この下で、連行された人々への搾取はさらにつよめられていったといえるだろう。 

 当時の状況について、鈴与で親方として仕事をしていた八木新作さん(一九〇三年生)はつぎのようにいう。

 「一九三八年私は親方になった。当時五〇〜六〇人、多いときは二五〇人を使って沖の積み降ろしの仕事をした。 缶詰の仕事・お茶の仕事は船が夜中に入ってのことが多かった。 昼間は大連からの石炭・木材・大豆の仕事が多かった。当時、鈴与が港湾を一手に握っていた。国策によって清水港運送がつくられ、私は『組頭』から『隊長』とよばれるようになった。『小頭』は『班長』とよばれた。一九四三年には『指導員』となった。五〇〜六〇人くらいの朝鮮人が波止場の築地町に住んだ。朝鮮から手紙がきた。」(清水にて、八九歳、一九九二年談)。

 港湾を掌握していた鈴与と清水港運送のもとで多くの朝鮮人が動員されていったのである。

 

 強制連行中国人の証言

 次に連行されて中国人についてみてみよう。

  一九四五年一月に清水の港湾へと中国人一六〇人が連行された。日本港運業会清水華工事務所の「華人労務者就労顛末報告書」にはつぎのようにある。

中国人は華北労工協会が河北省などから「自由募集」した。年齢は一六歳から四六歳。三月には一人が新潟から転送されてきた。連行途中と労働による死者は三六人だった。連行直後の死亡者が多かった。連行された人々は、船内の荷役、木材・鋼材・糧秣などの運搬、雑貨貨車積み下ろし、鉱石の運搬・艀揚、大豆の貨車積みや雑作業など、清水港一帯で船内や沿岸での荷役作業を強いられた。朝鮮人とは関係させずに、日本人指導員が作業場で指示をだした。清水警察署から二〜三人が派遣され宿泊した。戦後、松崎警察署に留置されていた戦線鉱業の八人が清水へと送られてから、「反抗的態度」となった。中国人の宿舎前の梅陰寺に特別警備隊三〇人を配置した。報告書には「酷使、虐待ノ事実ハナイ」と記されている(東京華僑総会蔵)。

連行された中国人の過半数は「半死半生的過労ト衰弱ハ窮極」の状態だった。連行中での飲料水が悪く、食用とした小麦粉には細石粉が含まれていた(前清水保健所医師の記録、田中宏・松沢哲成編『中国人強制連行資料』四八頁)。

中国人の指導員とされた八木新作さんはいう。

「中国人は『華人』とよばれ、梅田町に寮がつくられた。中国人を阿部労務部長と指導員の私が下関へと迎えにいった。急行を貸し切って連行した。六つの班にわけてあちこちの現場に派遣した。派遣先は荷役・石炭部・日本鋼管・日軽金などだったと思う。青いゲートル姿ではしとコップをぶらさげて仕事にいった。寮内に警察がいて管理していた。新潟に余分な人間がいるということで特高課部長と私とで中国人通訳をひとり、連れにむかえにいった。途中上野駅で空襲にあった。亡くなった中国人は駒越の畑にいって埋めた。戦後それを火葬にした」(清水にて、一九九二年)。

 ここで清水港へ連行された中国人の証言をみてみよう。

 何天義編『日軍槍刺下的中国労工』四(新華出版社)には清水港へと連行された李鳳泰さん(三一五頁〜)、『二戦?日中国労工口述史』五には、戚田昌さんと楊宝珍さんの証言が収められている(三三四頁〜)。以下要約して紹介したい。

 李鳳泰さんは河北省大城県の日本軍の傀儡軍部隊の兵士だった。 一九四四年冬、この部隊は八路軍と連携して蜂起する計画をたてたが、秘密がもれ、日本車はリーダー二〇人を殺害、残った七三人を塘沾の収容所へと押し込めた。収容所内は湿って汚れ、臭気で息もできないほどだった。粗末な食事と劣悪な環境のなか、病気になっても治療されず、死があたりまえの状態だった。四〇日以上拘束されるなかで七三人のうち八人が死んだ。

 一九四五年正月すぎのある日、青色服に着がえさせられ、集団にわけられた。写真をとられ、輸送船に押し込められ日本へと連行された。接岸すると黄色服に着がえさせられ、各地へと分配されることになり、翌日一六〇人が静岡県の清水へと送られた。

 清水の収容所は、上に鉄条網をつけた木板で囲まれ、監視塔があり銃をもった日本兵がいた。まず訓練がおこなわれ、簡単な日本語と道具の使い方を教えられた。「大東亜共栄圏」の宣伝などの奴隷化教育もされた。食事はマントウと薄い粥のために餓え、そのために皆寝ることもできないほどだった。半月の訓練ののち二〇人が一組となり、駅や海岸の埠頭で貨物の積みおろしや工場でのゴミ掃除などの雑役仕事をさせられた。激しい肉体労働のため、一日やると力を失い、耐えられないほど腰と足が痛かった。

 日本の警察官と監督は労工を牛馬のように扱い、殴打し、ののしり、体罰を加え、生死をかえりみなかった。飢餓、過労、病気などで多くの人が死んだ。

 ある日、船の荷役を終えると、更に次の船の荷役をさせられることになった。空腹のため、劉石頭が荷袋から一キロほどの豆をとって食べようとしたが発見された。劉は服をはぎとられ、ムチで殴られた。かれの体は傷だらけとなり、地面に横たわり動けなかった。次の船がきたため、劉は一〇〇キロ以上の袋を担がされたが、数歩もいかぬうちに踏み板の上に倒れ、血を吐いて動かなかった。かれは荒波の中に投げこまれた。

 軽金属の工場で古い倉庫から物を外へ運ばせたが、運びおわらぬうちに日本人が支柱を移動させた。軍刀を抜き、すぐにも倒れそうな倉庫の中に入ることを強要した。倉庫に入ったとたんに倒れ、四人が下敷きとなった。二人が圧死、二人は重傷となり、数日後死亡した。

?亭祥と劉虎は逃亡したが捕えられ、リンチをうけた。皮のムチでたたかれ、破れた皮膚に塩水をかけられた。口中に電話線を入れて電流を流されたため、後ろに転倒し遠くへと転がった。悲惨な叫び声が絶えなかった。

 重労働と非人間的な待遇のなか希望を失い、病死したり、自殺したりと、八ケ月の間に一六〇人が一二〇人となった。

 日本が降伏すると米軍のジープがきた。アメリカ軍将校が、私たちに対して何者かと聞いたところ、同乗してきた日本人女性通訳は、私たちのことを泥棒や悪人だと言った。孟昭義は英語ができたからアメリカ軍将校に、私たちが一般民であり圧迫され労工として連行されたことを訴えた。孟は東京へ交渉に行くことになり、三日後に帰ってきて交渉が成功したことを伝えた。李さんたちは解放され帰国することになった(『日軍槍剌下的中国労工』四 三一五頁)。

 戚田昌さんは深南県?歯港鎮虫児村に住んでいる。連行当時は斉振英といった。一九四四年旧暦一一月はじめに、張各庄の日本軍と特務が村を包囲した。捕らえられ、雷庄に四日間留置され、汽車で塘沾の収容所に送られた。入り口には「冷凍公司」と書いてあった。食事は饅頭、水は二〜三日に一度だけ、眠るときは棒を持った監視人が巡回した。そのときに殴られた傷が肩に今もある。周囲の鉄条網には電気が流され、日本兵が塔から監視していた。凍死者・餓死者・撲殺される者が出た。一二〇人を二〇人毎六班に分けた大隊が編成され、船で下関に送られ、さらに清水に連行された。清水では汽車や輸送船からの物資の荷役をした。病気になっても治療されず、病人への食料は減らされた。日本が敗北し、アメリカの軍船で帰国したが、日本は賃金を支給しなかった。塘沾に下船し、汽車で唐山に帰った。母は連行された戚さんを案じ病気になっていた。その病を治すのにたくさんの費用がかかった(『二戦?日中国労工口述史』五 三三四頁)。

楊宝珍さんは、河北省昌黎県安山鎮王各庄の人、当時昌黎県で商店を五人で開いていた。一九四四年、八路軍とかかわる経済犯罪者にでっちあげられて一四人が長林部隊に送られた、さらに泰皇島の松本部隊に送られ、そこから塘沾の収容所に送られた。収容所では服を脱げと殴られるなどの虐待を受けた。収容所では毎日二〜三〇人の死者が出た。船で日本の送られるとき服に白い布を縫い付けられた。楊さんの布は「日本港運」の六二番だった。船上で昌黎県の仲間、叶銀豪、高玉賢、龍子洋が死んだ。一六〇人が清水に連行されたがほとんどが農民だった。清水では港湾荷役をさせられた。八木という日本人監督は扱いが悪かった。地方の保安隊の隊長だった?全山が大隊長になった。病気になっても治療されずたくさんの死者が出た。昌黎県から連行された仲間の一三人のうち、帰国できたのは四人だけだった。三〇人ほどが亡くなった。死者は梅陰寺に置かれ、その後火葬された。清水では空襲にあった。日本の敗北によって、生活費や衣服を要求し、生活が改善された。佐世保からアメリカの軍船で同郷の劉子珍、邱子千、張明華、張子文らと帰国した。連行されたために、母は悲しみ精神を病んでしまった(『二戦?日中国労工口述史』五 三三七頁)。

以上が連行された中国人の証言である。

鈴与は回漕・倉庫・燃料部門などを中心に清水港の支配的地位にあった。 清水地域での強制連行の実態をあきらかにするためには鈴与の史料公開が不可欠である。

 

  四 日軽金・富士川発電工事

 

 日軽金関係への強制連行については富士川発電工事、明礬石開発(西伊豆)、日軽金工場の三つの面から考えていくことができる。

 日軽金の富士川第一・第二発電所工事は一九三九年から一九四二年にかけておこなわれた。さらに一九四三年からは佐野川発電・本栖発電工事がすすめられた。日軽金の工場は静岡県では清水と蒲原につくられ、 アルミニウム生産に必要な電力供給のために富士川の水を利用して水力発電所がつくられた。富士川ぞいに導水路(トンネル)が静岡県内だけでも約二〇キロメートルにわたり掘削された。このトンネル工事にたくさんの朝鮮人が動員された。これらの工事の前には、富士川電力の波木井発電工事が一九三七年から三九年にかけて飛島組の請負ですすめられてきた。この発電所からも日軽金へと電力が供給された。静岡・山梨での一連の日軽金関連発電工事に動員された朝鮮人は一万人ほどとみられる。

 一九三九年からの日本軽金属による富士川発電工事を請負ったのは大倉土木・西松組・飛島組であり、 その下にたくさんの朝鮮人が集められた。一九三九年の「日軽金富士川発電所飛島組名簿」(七〇五人分)をみれば六〇パーセント近くが朝鮮人名である。

一九三九年八月末には各組毎に協和会がつくられた。協和会発会式では必ず実行すべき事項として、国旗の祝祭日等掲揚、節約貯金、日本語使用、日本服使用、清潔整頓、寄留届、表札掲示、児童の就学などを決めている(『協和事業彙報』三号『朝鮮問題資料叢書』四所収)。これらの組の協和会は一九四〇年三月に静岡県協和会の清水支会と大宮支会に統合されたが、大宮支会は一三九七人である(『静岡県社会事業概覧』)。この大宮支会のかなりの人々が富士川発電工事と日軽金建設に動員された朝鮮人とみられる。

 中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」によれば、県内の富士川発電工事へと一九四二年六月までに西松組は五四五人、飛鳥組は二五五人、大倉土木は五九一人を連行している。 合計すると一三九一人となる。これらは日本の労務動員計画による 「募集」 段階での連行者数である。ここでの山梨県と静岡県での連行者数を合わせると四六〇〇人となる。これ以外にも多数の朝鮮人がさまざまな形であつめられている。

 清水から東へ約二〇キロメートル先に富士川があり、 日軽金蒲原工場を横にみながら富士川を上っていくと、 支流に当時朝鮮人によって掘削された導水路の露出部分がある。富士川支流の矢久保沢、吉津川、血流川、有無川、稲子川に導水路の露出部がある。

 当時、西松組の下で導水路の建設に従事した松本竜衛さんはいう。

 「西松組の準社員として機関車や削岩機用のコンプレッサーを扱っていた。工事をしたのは十島、吉津、井出、寄畑の工区であり、西松組の工区だった。西松組の下請けには中村組・斉藤組ほかがあり、それらの組が朝鮮人を連れてきた。自由労働者の朝鮮人は逃亡しても追いかけなかった。一二時間労働で朝六時から夜の六時まで働いた。削岩機とダイナマイトで掘りすすみ、朝鮮人がツルハシとスコップで作業をし、ズリをトロッコで運んだ。労働者のほとんどが朝鮮人だった。吉津には飯場が三軒できた。台風の大雨で十島の取水口の板が壊れて水が浸入し、工事をしていた朝鮮人が亡くなった。新潟の信濃川発電工事にもいった。一九四三年に徴兵された」(七三歳、一九九〇年談)。

 吉津の滝井久雄さん(一九二六年生)はいう。

「余水吐の上流に火薬庫があった。余水吐のところから掘り進み、本線につないでいった。少量事情が悪く、朝鮮人が山芋を掘った。逃亡したという話もあった。穴の中で怪我をしたり死んだりした。葬式が朝鮮式のものであり、記憶に残っている。」(一九九〇年談)。

 聞き取りでは、矢久保沢、北松野、南松野、内房など各地に飯場がつくられた。朝鮮人が多かったという。

 伊豆大仁鉱山の項で紹介した「龍好さんは、一九四〇年に募集されて瀬戸から富士川にきた。身延線の県境付近には朝鮮人の飯場が立ち並んでいた。発破のにおいが残る現場でズリをトロッコに運ぶ仕事をしたが、甘言に騙されたと思い、一週間ほどで現場を離れたという(一九九一年談)。

 成錫均さんは日軽金工事で働いていた人々を見ている。かれの証言をまとめてみよう。成さんは一九三八年に渡日し、一九四二年ころ富士川町の羽衣工場で働くようになった。日軽金の飯場の人たちはトンネル掘りや工業用水を引く仕事をしていたが、飯場は人間の住めるところではなく、奴隷のような姿だった。町に外出するときには班長が監視し、工場は門番が厳しく見張っていた。奴隷扱いされて事故などで死んでいった同胞のことを思うと胸が締め付けられる。祖国の統一を果たすまでは、死んでも死に切れない(『朝鮮人強制連行真相調査の記録四国編』五五頁〜)。

 連行された人々の抵抗が起きている。慶尚南道晋州から富士郡松野村下稲子八幡沢の大倉土木の現場へと連行された金在山、 鄭成和らは、一九四〇年九月に強制貯金反対ストライキをおこしている。当時、大倉土木は約三〇〇人を連行し各現場に分散させ労働を強いていた。金在山、鄭成和ら二三人は、逃亡防止のために強制貯金されて賃金が五円以上渡されないことに抗議してストライキを起こした。大宮警察は特高係・署員を派遣し、金は本国へ送還されたという(司法省刑事局「労務動員計画に基く内地移住朝鮮人労働者に関する調査」『在日朝鮮人関係史料集成四』)。このような争議や逃走による抵抗が各地で起きていったとみられる。

連行朝鮮人が逃走すると警察は手配書を作成し、全国の警察に配布した。その一部がサハリンの旧豊原警察署の文書類のなかにある(長澤秀編『戦前朝鮮人関係警察資料集』V)。この史料の「移住朝鮮人労働者逃走手配」に関する書類には、富士川発電工事現場からの逃亡者のものもあり、山梨・静岡両県分で三〇〇人ほどの記載がある。この記載から逃亡者の氏名・出身・就労場所などがわかり、連行状況の一端を知ることができる。

 飛島組は日軽金の工場近くの中之郷の工事を担った。矢久保沢には松本事務所を持ち、その下に金本飯場を置き、小池には坂井配下に朝鮮人を連行した。連行者は金海出身者が多かった。飛島組は金海、梁山、蔚山、密陽などから連行した。

 西松組は松野の吉津(岩淵)南松野(平清水)・北松野を工区とした。岩淵の藤井配下、南松野の平清水の大野配下、北松野の坂本配下などには密陽などから朝鮮人を連行した。北松野の坂本配下の今井飯場には陝川からの連行者が収容された。

 大倉土木は芝川・下稲子の工区を担い、下稲子の今井、小田、西本、田島、野崎、芝川の片岡事務所などには晋陽から連行された。芝川の松田事務所には昌寧出身者が多かった。

 「移住朝鮮人労働者逃走手配」の史料から山梨県側の連行状況についても、南部町の十島・井出・佐野川・寄畑・内船、冨沢村の西行、身延町の大島・米倉・角内・丸滝・波木井などの各地に連行朝鮮人が収容されたことがわかり、そこから逃亡が繰り返されたことがわかる。

山梨の現場からの逃亡者の出身地をみると、慶南の南海・晋陽・昌原・昌寧・居昌・陝川・咸陽・咸安・河東・蔚山、慶北の達城・慶山・奉化・義城、忠南の論山など各地にわたっている。

 日軽金工場と発電所はこのような連行朝鮮人の労働力を利用して建設された。蒲原・清水の両工場で生産されたアルミは航空機材料としても利用され、侵略戦争で使われていった。アルミ生産の主な原料は東南アジアのビンタン島から収奪したボーキサイトであった。しかし、日本が東南アジア・太平洋地域で敗北を重ね、ボーキサイト輸入がとだえるようになると、代用鉱のひとつとして第三章でみたように西伊豆の明礬石の開発がすすめられた。

 一九四三年には西伊豆に宇久須鉱業と戦線鉱業が設立され、 日軽金は戦線鉱業仁科鉱山に積極的にかかわった。一九四四年、日軽金は清水工場で明礬石からアルミナを生産する態勢を確立した。一九四五年には仁科港の整備がすすめられ、西伊豆の明礬石を海上輸送で清水へと運び、アルミ生産をする準備をすすめた。

 鉱山労働力として一九四五年二月までに宇久須鉱業と戦線鉱業へと朝鮮人がそれぞれ約五〇〇人ずつ、中国人がそれぞれ約二〇〇人ずつ強制連行された。戦線鉱業の索道建設を請け負ったのは鹿島組であり、仁科選鉱場建設は栗原組が請け負った。この下にも多数の朝鮮人が動員されている。宇久須や戦線鉱業で働いていた朝鮮人は土木関連の労働者を含めると三〇〇〇人ほどになった。

 このようにアルミ生産のための原料採掘の場でも朝鮮人が強制連行されているが、 西伊豆での明礬石によるアルミ生産が軌道に乗る前に、連行された人々は八・一五解放をむかえた。

 ここでみてきたように日軽金は建設と原料採掘において、多数の強制連行者を使った。日軽金清水工場の桟橋(一九四二年完成、清水組請け負い)、日本発送電清水火力発電所(一九四一年完成、間組請け負い)などの建設現場にも多数の朝鮮人が動員されていたと思われる。

日軽金清水工場内には竹中工務店の現場事務所があり、その下に朝鮮人が就労していた。

 「周吉氏さん(一九二三年生)はいう。

「一九四四年末、三保の日軽金工場のなかにあった竹中工務店運輸部の運転手となった。日軽金敷地内に朝鮮人が一〇〇人くらいいた。工場は完成していたが改造や拡張の仕事がおこなわれ、朝鮮人が基礎づくりなどの土木作業をしていた。日軽金へは中国人を村松から毎晩小さな船に乗せて連れてきて働かせていた」(清水にて、一九九六年談)。

日軽金の蒲原・清水工場内への強制連行については、日軽金の青年学校内で事業者と共同しての協和会の講習会がおこなわれていること(「協和事業」一九四二年一月)、「移入朝鮮人労務者状況調」に日軽金の項があることから、工場内へと朝鮮人が連行されたとみられる。

 日軽金は関係史料を公開し、企業の戦争責任を明らかにすべきであると思う。

 

   五 清水の軍需工場

 

清水で軍需工場がつぎつぎに建設されたのは一九三九年ころからであった。 当時建設された工場をあげれば、日軽金清水工場・東亜燃料・日本鋼管清水造船所・日立製作所清水工場・黒崎窯業 (鶴見窯業)清水工場などがある 他の工場での軍需生産への転換もすすんだ。それにともない、工業用水の整備、鉄道、上水道の三保への延長、道路整備、 岸壁建設、埋立工事、電力施設の建設などがすすめられた。これらの工事にはたくさんの朝鮮人が動員されていった。

 労働力が不足するなかで、朝鮮人を強制連行して動員した工場もあった。

 厚生省勤労局 「朝鮮人労務者に関する調査」をみると清水地域での連行の一端を知ることができる。 強制連行にかかわりの深い鈴与と日軽金については不明な点が多いが、他の工場への一九四四年からの連行についてはつぎのようになる。

 レンガを生産していた黒崎窯業についてみてみよう。共同出資により一九四〇年八月、鶴見窯業清水工場が完成し、 一九四四年九月、 この清水工場は黒崎窯業へと合併された。

 この工場へは一九四四年八月に、 慶尚北道高霊郡を中心に五〇人、一二月に京畿道開城から二四人、 一九四五年二月にはソウルを中心に三九人が連行された。連行総数は一一三人であるが、このうち六三人が逃走に成功している。連行者から三人が徴兵された。

 一九四五年三月には黒崎窯業から一〇人余が逃走に成功した。 黒崎窯業での逃走率は五六%であり、 この数字から連行された人々の自由への想いをみることができる。 なお 『黒崎窯業五〇年史』 では一九四四年九月現在の推定人員として清水工場での朝鮮人労務者数を四八人としている(四二五頁)。

 日本鋼管清水造船所へは一九四五年四月、 金羅北道完州郡を中心に八人が連行されている。 日本鋼管の清水造船所へと連行されて働いていた朝鮮人は八人だけではなく、他にもいたと思われる。学徒動員された人によれば、「朝鮮人が最も高く危険な所で働いていた」という。

 現地調査に同行した趙甫連さんは「日本鋼管は朝鮮人・受刑者・学徒を大量に動員した。 受刑者の収容所は折戸の陸上貯木場の近くにあった。戦後すぐに朝鮮人が争議をおこした。日本鋼管への労務動員は日の出埠頭からおこなわれていた。かつて日本鋼管に史料を出すよう求めたが出さなかった」という(一九九三年談)。

 豊年製油清水工場へは一九四五年四月、全羅北道益山郡から四二人が連行されている。 そのうち一九人が逃走している。豊年製油は日本が中国侵略によって奪った大豆を大連から輸送して製油をしていた。この製油労働に朝鮮人を使ったのである。

清水市松原町には豊年製油で働いていたという朝鮮人の飯場跡がある。近くの岡町にも朝鮮人飯場があったが、そこにいた人々はすでに帰国したという。岡町の飯場の人々がどこで働いていたのかについてはわからなかった。

日本鋼管と豊年製油は全羅北道から連行しているが、全羅北道での生存者調査によれば数名の生存が確認されている。被連行者の中には一九三〇年生まれ、当時一五歳の人もいた。

 日通静岡支店には一九四四年一二月に忠清南道論山郡から四七人が連行されたが、 二一人が逃走した。当時日通は軍需関係の輸送部門を担当していた。ここで働かされていた朝鮮人は清水へと仕事にくることもあったであろう。死亡者が一人でている。

 日通静岡支店分の史料には「退職手当については後、朝鮮人連盟より一人宛千円(逃亡者五〇〇円)の要求があり、之を一人三〇〇円 (逃亡者百五〇円) にて承諾せしめたるも委員長・労働部長更迭の結果、要求固執、未解決の状態なり」とあり、朝鮮人連盟の側が要求を掲げて闘いをくんでいったことがわかる。

 厚生省名簿にある黒崎窯業・清水港運送・豊年製油・日本鋼管の連行者名簿から逃走率をみれば二四八人中、一一八人が逃走しているから逃走率は四二パーセントとなる。

 厚生省名簿と現地調査によってわかったことは以上である。 名簿に掲載されている企業が過去の強制連行について自ら究明し、実態をあきらかにしていってほしく思う。

 

  六 清水の軍事基地

 

 清水地域へは軍事基地も建設されていった。一九四四年九月に開隊した三保の海軍航空隊基地の建設にも朝鮮人が徴用された。さらに三保へは「特攻艇震洋」の基地も建設された。三保には今もコンクリート製の収艇庫が残っている。各地の朝鮮人動員による震洋基地建設状況からみて、三保基地建設へも朝鮮人が動員されたと思われる。周辺でのききとりによれば、「住民の立ち入りは禁止されていたため、詳細は分からない」とのことであった。また袖師と有度山には本土決戦用の壕のある砲台建設もすすめられた。

 同じころ重砲兵学校・航空学校なども建設されている。これらの軍関係施設建設へも朝鮮人動員があったと思われる。「三保にあった高射砲部隊には朝鮮人兵士五〇〜六〇人がいた。日軽金の同胞と兵士が会えば話をしていた」と「周吉さんはいう(清水にて、一九九六年談)。清水への朝鮮人兵士の連行もあったようである。

 朴得淑さんらは佐世保・長崎・熊本・富士・三保へと軍事飛行場関係の建設工事へと動員された。 一九四五年春には清水から掛川の中島飛行機地下工場建設現場へと連行されている。

 アジア太平洋戦争期、 清水へと二千人をこえる朝鮮人が移動してきているが、 これらの人々が総動員体制下、 どのような形でどこへ動員されていったのかについてはあきらかではない。 それをあきらかにするためには清水警察署内におかれていた協和会支会などの関係史料の発掘がもとめられる。

 朝鮮半島から強制連行されたがその現場から逃走し、仕事をもとめて清水へとやってきた人々もいた。

 樺太へ連行されたのち逃走し、清水へきた朴基男さん(故、一九二二年生)の場合をみてみよう。朴さんは二〇歳で一五歳の妻をもつことになった。結婚して七ヵ月後の夏のある日(一九四二年ころ)、外へ出たきり連行されて消息を絶った。徴用され樺太へ連行されたが、逃走して清水へきた。やっとのことで家族に連絡し、出会うことができた。家族が清水へきたのは一九四五年のことだった。朴氏は一九六七年に四五歳で亡くなった。「日本はひどいことをした。忘れません」と妻の全徳順さんはいう(清水、当時六六歳、一九九四年、『朝鮮人強制連行の記録中部東海編』)。

九州・飯塚の炭鉱へと連行され、のちに逃走して清水へときた金應斗さん(八三歳)はつぎのようにいう。

 「日本は怨恨の地、一生を台無しにされた恨の地が日本だ。一九四二年、私は三六歳だった。結婚して子どもが二人いた。二年間の条件で徴用され、勤労報国隊の名で一二〇人が順天から九州・飯塚の炭鉱へと連行された。腹が減って仕事ができなかった。落盤によって一人、二人と死んだ。私は額に傷を負った。圧迫された。一二〇人のほとんどが逃げた。泣いても泣ききれない。女房や子どもと生き別れにされた。上の子は五六歳になるはずだ。裸で、パンツ一枚で仕事をさせられ、一二時間働いた。九ヵ月後、辛抱しきれず、四人の友達と便所の小窓を外し、一人出ては縄で引っぱりだして逃げた。九キロほど歩くと駅があり、朝六時半ころ切符を買い、今の大村収容所の辺りにいった。そこでは軍の飛行場を建設中であり、親方に人夫にこないかといわれ、飯場に入って仕事を得た。飛行場工事で働いていたのは全て朝鮮人だった。そこでトロ押しの仕事をして四〇日くらい働いた。そこから名古屋の飛行場建設現場へいき、その後、鳥取県米子で堤防工事をし、岩手県から姫路へいき、四国では鹿島組の仕事をした。そして日立清水工場の石垣積みの仕事をした。空襲があって八・一五となり、われわれは解放された。つらいのは自分の子ども・女房とはなればなれになったことだ。弟は七四歳、とても気になっている。南北統一すれば故郷へ帰れるのだが…。私から故郷と青春、家庭を奪い、あの惨めな人生を強いた悪魔の亡霊を、八〇歳の峠をこえた人生の末路から消してくれる日はくるのだろうか」と(清水、一九九三年談、『朝鮮人強制連行の記録中部東海編』二九四頁)。

 ここで紹介した朴さんや金さんのような人々が清水には数多くいたであろうし、これらの人々の多くが軍需関係工場の建設、軍需工場での労働、港湾荷役の仕事へと動員されていったと思われる。

 日本は一五歳の少年や結婚したてや子育て中の青年らをつぎつぎに強制連行した。それにより故郷と青春と家庭を奪われた人は数多い。この強制連行という戦争犯罪は戦後六〇年を経た現在も清算されていない。

 

  六 清水朝鮮人無縁納骨堂

 

  一九四五年の八・一五解放にともない、連行された人々の帰国にむけての取り組みがはじまった。清水地域でも朝鮮人連盟が結成された。朝鮮人は団結し、未払い賃金を要求し争議に参加した。また帰国を要求し、民族教育にもとりくんだ。清水市浜田町には朝鮮人連盟清水支部の事務所がおかれた。

 清水の中央図書館に「朝鮮と日本の親善のために」という碑と記念に植樹された松がある。この碑は一九五九年に朝鮮への帰国者と総連清水支部(委員長金竜学) が建てたものである。

清水に住む趙貴連さんの証言をまとめてみよう。

趙さんは一九三二年、日本で生まれた。兄弟は八人、東京の品川で生活した。父は全羅南道の光陽の農民だったが、植民地下、故郷では生活できずに渡日した。日本では古物商をしたが、青森の弘前に疎開し、八・一五は弘前で迎えた。祖国へ還りたいと思ったが、生活の基盤が無く、父母と下の四人は一九四六年に帰国し、上の四人は日本に住むことになった。清水に来たのは、四人でおじさんを頼って一八歳の頃(一九五〇年頃)だった。

当時の在日は生活基盤が無く、闇の焼酎づくり・土木・養豚などをしていた。しかしこれではいけない、手に職をつけようと造船所で仕事をするようになった。当時盛んだった造船所で仕事をした。三保・金指・日本鋼管などの造船所に孫請けの形で入った。当時清水には七〇〇人ほどの朝鮮人がいた。

当時、私は朝鮮人青年同盟の仕事もした。その関係か、一九五六年には三保の造船所にいく途中の路上で、外国人登録令違反で逮捕され、静岡刑務所に送られたが、証拠不十分で釈放された。さらに一九五八年四月には金指造船所の仕事場で、外国人登録令違反で逮捕され、横浜出入国管理所に五八日間も収容された。その時に、長崎県の大村収容所行きだ、韓国に強制送還だと脅かされた。しかし、証拠不十分で釈放された。戦後もこのように弾圧は続いていた。

一九四九年には朝鮮人連盟への組織弾圧がおこなわれ、今の新静岡センターのところにあった静岡県の朝鮮人連盟の事務所などの財産が没収された。各地の県内の事務所も同様で、それらの財産は今も返還されていない。

戦争期には、清水へ強制連行された朝鮮人が数多くいた。清水には鈴与・日軽金・日本鋼管・黒崎窯業・豊年製油などの軍需工場がたくさんあったし、港湾で働く朝鮮人も多かった。

清水の東海寺に他の寺から無縁の遺骨が集められ、これらの遺骨を安置するための朝鮮人の納骨堂が、火葬場の日当たりの悪いところに作られた。この納骨堂が老朽化するなか、総連と民団とが市に要求し、一九九三年に新しい納骨堂ができた。これらの遺骨以外にも未収集の遺骨が足元にある。現在は九三体の遺骨がある。名前だけや日本名のみ、あるいは名前さえないものもある。三分の二は不明の遺骨。企業に対して史料を出すように求めてきたが、出そうとしない。真相を究明して故郷に戻すには、当時の埋火葬関係書類の調査が必要だ。二〇〇五年になって政府は朝鮮人遺骨の調査を始めたが、調査は不十分であり、日軽金や鈴与などに対しての調査が必要だ。

強制連行という言葉が中学の歴史教科書から消えるなど、過去の史実の隠蔽がすすんでいる。朝鮮人強制連行は史実、アジアの平和と戦争と差別のない社会にむけ、歴史を正しく伝えていくことが大切だ。また、朝鮮人強制連行被害者の遺骨問題の解決についても日本政府は道義的な責任があり、謝罪と補償を含め誠実に対処すべきだ。被害者は決して忘れることができない(清水、二〇〇五年談)。

 趙さんの話にあるように、清水地域へ連行されたり、渡日して働いたりするなかで無縁仏となった人々の骨を納める「清水市朝鮮人納骨堂」が清水市北矢部の火葬場入口左側にある。 この納骨堂にある骨は清水の各寺から東海寺へと委託されていた無縁仏である。 一九五六年五月、総連清水支部が市長に要請して小建物を設置した。一九六五年七月には旧納骨堂が北矢部(火葬場)に建てられ、同年九月には石碑もつくられた。

 旧納骨堂の石碑には次の詩がハングルで刻まれた。

 異域万里 他国で

 つらく かなしくも 犠牲となり

 無住孤魂となった あなたがたよ

 あなたがたの 白骨も 霊魂も

 主人があり 祖国が あるものを

遠くない 将来に あなたがたを

 つれにくる その日まで

 安らかに ねむりあれ

 一九六五年九月五日、 清水朝鮮人有志 (?妙達さん訳)

 旧納骨堂は山の斜面にあり、暗く湿気の多いところにあったため、扉は腐り、内側の骨壷用の台は朽ち、遺骨は変色し、包装布等は見るに耐えられない状態になっていた。

 一九七七年九月、納骨堂の移転新築を総連清水支部が要求し、改修をおこなった。一九九一年、清水の朝鮮人団体(総連と民団)が共に新築を市に要求し、その結果新しい納骨堂がつくられることになった。新築をもとめるなかで、一九九一年七月、旧納骨堂内の調査がおこなわれた。そのとき、九三人分の骨が確認されたが、氏名があったのは三〇骨であり、そのうち四骨は判読不明であった。他の六三骨については氏名不詳であった。

 一九九三年三月、新納骨堂前で一二〇人ほどが参加して追悼会がもたれた。この会は新納骨堂の完成を祝い、日帝統治下に渡日し無縁仏となることを強いられた人々を心に刻み追悼する会であった。

 そのときの追悼会での追悼文(ハングル)をまとめると以下の内容になる。

「国を奪われた者は言葉も文字も名前も奪われ、臣民として日本帝国につくすことを強制され、希望も体も奪われて悲運の生涯を送ることになりました。名前も故郷も知ることのできないあなたがたは、侵略者の本性を告発し、全ての原因がどこにあり、元凶がだれであるのかをよく知っています。同胞を強制連行し、無住孤魂の悲惨な姿に落とした者たちの犯罪は決して許されません。歴史は必ずそれを清算するでしょう。日本国民と平和・友好のなかで共存し、民族の自主独立と尊厳を守りぬき、統一された祖国の地へあなた方を安置する日まで、安らかにお眠りください」。

 無縁の骨たちは今も、日本帝国主義の植民地支配のもとでおこなわれた朝鮮人強制連行という戦争犯罪を告発しつづけている。強制連行の実態はここ数年少しずつあきらかになってきたが、清水地域についてみれば、強制連行にかかわった企業の関係史料の多くが隠されたままである。

無住孤魂となった人々の鎮魂のために、また日本と朝鮮に住む民衆が平和な関係をつくっていくためにも、真相究明は大切な課題である。