関東大震災虐殺事件の追悼碑について

 

 関東大震災での虐殺事件に関する碑は人間の尊厳とその方向性を問いかけるものである。それらの碑は平和と人権の拠点となるものである。以下、各地の追悼碑についてみていく。

 

●追悼関東大震災朝鮮人犠牲者碑

 関東大震災朝鮮人犠牲者行事実行委員会 一九七三年九月建立 東京都墨田区横網町横網公園内。

 この碑はJR両国駅の北方の横網町公園(旧被服廠跡)にあり、碑の右方には東京大空襲犠牲者追悼碑がある。朝鮮人追悼碑には「この歴史を永遠に忘れず在日朝鮮人と固く手を握り、日朝親善・アジア平和を打ちたてん」と刻まれている。左側には建立の趣旨が記されている。あやまった策動と流言蛮語のために六干余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われたとし、一事件の真実を識ることが不幸な歴史をくりかえさないことになるから、民族差別をなくし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎とする、としている。

 ここには、あやまった策動と流言蛮語をだれがおこしたのか、だれの手によって朝鮮人が殺されたのかについては、記されていない。

 

●関東大震災犠牲同胞慰霊碑 

在日本朝鮮人聯盟千葉県本部 一九四七年三月一日建立 千葉県船橋市馬込町馬込霊園内。

 この碑は一九六三年七月に船橋市本町から馬込霊園に移設されたが、その際証言によって遺骨の発掘がおこなわれ、約一〇〇体分の遺骨が収集された。

碑文は朝鮮語で刻まれている。そこでは、軍閥官僚が人民大衆の暴動化を憂慮し、階級への憎悪を人民解放の指導者と少数民族に転嫁させたこと、無根の言辞で扇動して社会主義者と同胞を虐殺させ、六三〇〇余が殺され、負傷者は数万に達したことを記し、世界の民主勢力と提携して、内外の国粋的軍国主義の反動残滓勢力を撲滅し、民主朝鮮を建設して世界平和を維持し、宿怨の雪辱にむけて闘争することを誓っている。

 占領軍は在日朝鮮人聯盟を解散させてその財産を奪うが、この碑を見ると、朝鮮人の抵抗の歴史とその精神を消し去ることができなかったことを感じる。三・一革命記念日を期して竣成したこの碑には、八・一五解放を迎えた朝鮮人の歓喜の鼓動が脈うっているように思われた。

 この碑の横には「法界無縁塔」がある。この碑は一九二四年九月一日に、船橋仏教会が殺された朝鮮人を供養して建てたものという。

 千葉県内には他に市民の追悼活動によって八千代市高津区の観音寺に建立された関東大震災韓国人犠牲者慰霊の碑がある(一九九九年九月建立)。

 戒厳司令部は習志野の高津廠舎に三〇〇〇人の朝鮮人を収容したが、ここで朝鮮人が選別されて殺害され、さらに周辺の村の自警団に対し、殺害を前提に朝鮮人を引き渡した。この観音寺の碑は自警団によって殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼するなかで建立されたものである。

 

 ●関東大震災韓国人慰霊碑 

在日本大韓民国居留民団神奈川県地方本部 一九七一年九月建立 神奈川県横浜市南区堀の内町宝生寺内。

 震災後、横浜で社会活動をしていた李誠七は三ツ沢墓地・久保山墓地などから同胞の遺骨を集めて港北区篠原の東林寺、同菊名の蓮勝寺に埋葬、一九二四年から南区の宝生寺で追悼法要をおこなった。一九六一年に東林寺に納骨堂が建てられ、この碑は宝生寺境内に一九七一年に民団県本部によって建立された。

 碑には関東大震災の被害をうけ、空しく異国の露と消えた怨霊の冥福を祈ることが記されている。虐殺されたことや「怨」の原因については記されていない。

 一九九五年、神奈川県関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立推進委員会は県に対して、県による事実調査、県による追悼碑の建立、県下の教育現場での歴史教育の実行などをもとめる要請をおこなった。

 横浜市西区久保山墓地には、関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑(石橋大司建立一九七四年)がある。横浜市鶴見区潮田町東漸寺には震災時に朝鮮人を「暴民」から救った大川常吉(当時鶴見警察署長)の感謝碑がある(一九五三年建立)。

            

●埼玉県と群馬県の追悼碑

 埼玉県では護送されたり保護されていた朝鮮人が自警団などの群集によって殺害されている。県内務部は九月二日に「不逞鮮人を警戒せよ」と通達する。この指示の下で自警団が朝鮮人虐殺を担った。群馬新聞本庄支局長の馬場安吉は朝鮮人殺害を制止したが、逆に自宅をとりかこまれた。のち馬場は知事から表彰状と金一封をうけるが、その金をもとに本庄市長峰墓地に「慰霊碑」を建てた。

 現在、埼玉県内には上里町安盛寺にある関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊碑をはじめ、追悼のための碑が熊谷市熊谷寺大原墓地、本庄市長峰墓地、寄居町正樹院、児玉町浄眼寺、大宮市常泉寺などにある。

 群馬県では、藤岡市で警察署内に留置されていた朝鮮人を自警団が殺害している。藤岡市成道寺には、関東大震災犠牲者慰霊之碑がある(一九二四年建立、一九五七年再建)。殺害された朝鮮人一七人の氏名が判明している。

 震災時の朝鮮人殺害については、陸軍省関東戒厳司令部「震災後警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」(『関東戒厳司令部詳報』)があり、ここから軍による朝鮮人殺害の一端を知ることができる。軍はすでに九月一日から朝鮮人を殺害し、三日には江東区大島町で騎兵第一四連隊などが二〇〇人を撲殺している。

 江東区の亀戸署内では九月三日から五日にかけ数十人の朝鮮人が殺されたとする証言もある。

 習志野俘虜収容所への朝鮮人の収容が四日以後からはじまるが、この収容は軍警による朝鮮人殺害と併行しておこなわれた。

この収容所への連行は内部で朝鮮人を選別して殺害するためのものともみられ、千葉での自警団による被害者の一部はこの収容所から引き渡された朝鮮人であった。

 なお、九月二日に清水港を出港したプレジデント・ジェファーソン号が四日に横浜港についた際、乗船者たちは船内の朝鮮人二人を殺害、四人を海中に投下、中国人母娘をも海中に投棄した。

 

●亀戸事件犠牲者之碑

亀戸虐殺事件建碑実行委員会 一九七〇年九月建立 東京都江東区亀戸浄心寺内。

 この碑には亀戸地域で労働運動を担っていた人々を天皇制警察・国家権力が軍に命じて虐殺したこと、惨殺の日時・場所・遺骸は今も不明であること、労働者の勝利を確信し、権力の蛮行に倒れた革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑することなどが刻まれている。

 碑の前面に殺された九人の名があり、裏面にはその後確認された被害者一人の名が一九九三年九月に追加されている。平澤計七は三四歳、それ以外は皆二〇代であり、ほとんどが二五歳以下と若い。

 碑の前にたつと、労働運動の拠点、亀戸の地で労働者の解放と革命を求めて旗をかかげ、駆けぬけていた人々への想いが湧いてくる。

 亀戸事件では九月四日に殺された人々が多いとみられる。殺害を実行したのは習志野騎兵第一三連隊という。

 平沢計七を追悼する地蔵が新潟県小千谷市の成就院にある。また位牌も小千谷市の関係者宅に保存されている。

 

●王希天と中国人労働者の碑

一九二六年建立 一九九三年九月修復再建 中国浙江省温州。

 亀戸では在日中国人のリーダーだった王希天をはじめ中国人労働者が虐殺されている。震災時に殺された中国人の数は「中華民国留日人民被害調査表」「日人惨殺温州僑胞調査表」などから六五〇人をこえる。被害者の多くが温州出身の労働者である。

 吉林義士王希天紀念碑が一九二六年に建てられた。碑は侵略戦争のなかで倒されていたが、一九九三年に虐殺された中国人労働者も共に追悼する形で再建されている。

 

●大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の追悼碑

 大杉栄の墓は静岡市沓谷霊園にある。墓の右側に碑が一九七六年に建立された。そこには「軍憲のために虐殺」と刻まれている(荒畑寒村の文)。大杉の墓が沓谷霊園に建立されたのは一九二五年七月一四日のことである。その前年の一九二四年五月二五日に野枝、宗一の遺骨とともに埋葬されている。

 伊藤野枝の墓石は福岡市西区今宿の山中にある。墓石は移転をかさね、早良区の西光寺から現在の地に移された。墓石には文字も台座もなく自然石のままである。

 橘宗一の墓は愛知県名古屋市千種区法王町の日泰寺の墓地にある。墓石の裏面には「宗一(八歳)ハ再渡日中東京大震災ノタメ大正一二年(一九二三)九月一六日ノ夜 大杉栄野枝ト共二犬共二虐殺サル」と刻まれている。この牌は一九二七年四月一二日に建てられ

ている。宗一は一九一七年四月一二日生まれであり、碑は生後一〇周年目に建立された。建立した人々は軍によって若くして殺された宗一の無念を共有しながら「犬共二虐殺サル」と刻んだ。

 この宗一の墓のある日泰寺には在日朝鮮人連盟愛知県本部建立の冤死同胞慰霊牌がある(一九四八年九月一日建立)。二〇〇〇年には強制連行されて死亡した朝鮮人(愛知県内判明分)の氏名を刻んだ碑が横に建てられた。建立の日付からみて、この碑は第二次大戦期の死亡者のみならず関東大震災での死亡者を含めての追悼碑であるといえるだろう。

 

●千葉・福田村事件追悼碑

 一九二三年九月六日、千葉県野田市(当時は東葛飾郡福田村)で香川県出身の売薬行商団一五人が自警団によって襲われ、幼児・女性を含む九人が虐殺された。死体は利根川に流された。被害者は香川の被差別部落出身者だった。被害者の墓は香川にあるが、その中に遺骨はない。

 生き残ったメンバーの一人はのちに部落解放運動のりリーダーになった。香川県側で真相調査会が二〇〇〇年三月に結成され、同年七月には千葉県側で心に刻む会が結成された。この事件を朝鮮人差別・部落差別・職業差別のなかでおこされたものとし、差別を克服し、殺された人々を追悼するための追悼碑の建設がすすめられた(二〇〇三年九月建立)。

 

 追悼碑を訪れ、震災下での虐殺事件について調べてみると、真相の多くが隠蔽されたままであることがわかる。殺害された朝鮮人の氏名はほとんどが不明である。軍警の虐殺責任が転化される形で自警団の一部が処罰されてはいるが、流言を仕組み虐殺をすすめた戒厳軍指導部や殺害を実行した軍人は何の処罰もうけていない。

 中国人虐殺についても中国側の調査によって被害者の氏名の多くがあきらかにされているが、殺戮を実行した軍人は無処罰のままである。亀戸事件については、社会主義者たちが殺害された日時さえ未確定である。侵略戦争はこのような国家暴力とそれに煽動された民衆の排外主義的暴力の放置のうえにすすめられていった。

戦後、日本政府・自治体はその真相を自ら究明することなく、震災下での犯罪行為は放置されたまま現在にいたっている。これに対し、真相を問い、虐殺の状況をあきらかにし、殺された人々ひとりひとりの存在の地平から歴史を語り、それらの人々の尊厳を回復していく作業はいまもつづいている。その作業は、この国がいまも人間性を疎外させ戦争国家化をすすめている動きと対抗していくことにつながる活動でもある。

 

 参考文献

神奈川県開東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立推進委員会『関東大震災下の朝鮮人虐殺』一九九六年

梶村秀樹「在日朝鮮人の生活史」(『神奈川県史各論編I』)

朝鮮人強制連行真相調査団編『朝鮮人強制連行調査の記録・関東編1』柏書房二〇〇二年

『埼玉と朝鮮』編集委員会『くらしの中から考える埼玉と朝鮮』一九九二年

『関東大震災と埼玉における朝鮮人』文化センターアリラン一九九四年

『福田村事件の真相』千葉福田村事件真相調査会二〇〇一年

『福田村事件』(『別冊スティグマ』一四号)千葉県人権啓発センター二○○一年

「朝鮮新報」一九九七年二月七日戒厳司令部資料記事

二村一夫「亀戸事件小論」(『二村一夫著作集』一〇)

猪上輝雄『藤岡での朝鮮人虐殺事件』一九九五年

「朝日新聞」一九九三年九月一七日付(夕)王希天記事

「野枝さんの墓」(『彷書月刊』三)二〇〇〇年論争壮

藤田富士男大和田茂『評伝平澤計七』恒文社一九九六年

仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』青木書店一九九三年

千葉県における追悼調査実行委員会『いわれなく殺された人々』青木書店一九八三年

加藤文三「亀戸事件』大月書店一九九一年

「静岡県近代史研究会会報」五二・五三号 一九八三年一月・二月

鈴木英夫・吉井哲編『歴史にみる日本と韓国朝鮮』明石書店一九九九年

関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘・追悼する会『風よ鳳仙花の歌はこべ』教育史料出版会一九九三年

在日韓国朝鮮人生徒の教育を考える会東京『東京のなかの朝鮮』明石書店一九九六年

                             (竹内・2002年記)