天竜 久根・峰之沢鉱山
ここではアジア太平洋戦争期における奥天竜の鉱山(久根・峰之沢)での連行の状況についてみていきたい。久根・峰之沢の両鉱山は主として銅鉱を産出していた。侵略戦争の拡大にともない、日本人鉱夫が兵士として動員され、鉱山では労働力が不足した。また、戦争のための銅増産が計画された。このため、労働力として朝鮮半島から一千人を超える朝鮮人が奥天竜の久根鉱山・峰之沢鉱山へと連行された。峰之沢鉱山へは中国人も約二〇〇人が連行された。
久根鉱山と峰之沢鉱山の概略については、
これらの史料や文献からまとめていきたい。
一 古河鉱業久根鉱山
久根における採鉱のはじまりは一八世紀、片和瀬鉱山という名での開坑による。一九世紀後半、日本の資本主義化にともない各地で鉱山開発がすすんだが、久根では一八九二年、原久根鉱山として採掘がはじまった。一八九七年には鉱脈が発見され、年産六〇トンにおよぶ鉱石が産出されたという。しかし、この鉱山開発は周囲への鉱毒汚染をもたらした。地域住民の鉱毒汚染反対運動のたかまりによって、一八九八年、鉱山は政府から採鉱・製錬の停止命令をうけることになった。
この鉱山を買収したのが古河市兵衛であった。古河資本による採掘により、一九○五年に通洞坑が完成し、一九一七年には削岩機が導入された。久根鉱山は古河資本にとって足尾鉱山についで第二の産出高を誇る鉱山へと成長していった。
侵略戦争の拡大にともない、一九三〇年代後半、銅増産がさけばれるようになった。久根鉱山名合支山での採掘もはじまり、久根であらたな鉱脈も発見されていった。このような増産態勢のもとで、職場の戦場化、収容所化がすすんでいった。「産銅報国」のかけごえとともに、一九四四年には「大増産運動」、「決戦皆勤運動」がとりくまれた。産出銅鉱量は、一九四一年には六万六千二百トンであったが、一九四四年には八万六千五百トンと増加した。
「出せ一山の底力」「今こそ示そう久根魂」の大のぼりがはためき、「ここより戦場」の立看板がだされた。鉱山では三交替で採掘がおこなわれ、労務係は休んでいる鉱夫を坑内へと送りこんだ。七時三〇分に入坑すると、一、二と連続して仕事につけさせられ、二一時まで働かされることもあったという。戦時下の増産のもとで労働者が酷使された。そして乱掘がすすんだ。
朝鮮人が久根へと連行されてきたのはこのような状況下であった。朝鮮人が三〇〜五〇人単位で連行されてきた。大半が単身であり、言葉は通じなかったという。収容のための朝鮮人長屋が二棟あり、一つは単身者用、もう一つは家族持ち用だったという。かれらは日本人鉱夫を「先生」と呼ぶようにされていた。
募集条件とは違うと、朝鮮人がストライキをおこし、リーダーが山香駐在所で特高によって縛られていたこともあったという。逃走に対し、会社の従業員が飯田線
鉱山は収容所化した。皇民化政策によって朝鮮人は民族を否定され、氏名を奪われた。かれらは警察と会社の労務係によって監視された。生きて故郷へ帰ったとしても、胸に蓄積された鉱滓はかれらの身体をむしばみつづけることになるのである。
「朝鮮人労務者に関する調査」から連行状況をみてみよう。
久根鉱山へと「募集」や「縁故募集」の形で連行がおこなわれたのは一九四〇年八月から一九四二年五月までである。慶尚南道尚州郡・忠清南道青陽郡などから一四〇人が連行されている。
久根で「斡旋」の形で連行がおこなわれたのは一九四二年一一月から一九四四年五月までである。忠清南道礼山郡・舒川郡・慶尚北道青松郡・全羅南進羅州郡などから、四次にわたり一七九人が連行された。この時期、持越鉱山からの転送(一一人)もある。
久根で「徴用」の形で連行がおこなわれたのは一九四四年一一月から一九四五年五月までである。忠清南道牙山郡・天安郡・江原道旌善郡などから三次にわたり、一三七人が連行され、一九四五年六月には峰之沢鉱山から三〇人が転送されている。ほかの鉱山からの転送もあったとみられる。現在わかっている人数でみれば、久根鉱山には五〇〇人近い朝鮮人が強制連行されたということができる。
「移入朝鮮人労務者状況調」によれば、労務動員計画によって一九四〇年に六〇人、一九四一年に六〇人の連行が承認され、一九四二年六月末までに一二〇人が連行されている。一九四二年六月末の現在数は八六人となっているから、三四人が減員している。『協和事業年鑑』によれば、連行された労働者に対する「皇民化」・就労訓練がおこなわれている。一九四〇年八月から一一月までの三ケ月間、連行されてきた三〇人に対し、鉱山内の「合宿所」での仕事の交替時間を利用して「一般教科」「国語」「礼儀作法」などの「指導」がおこなわれた。かれらは民族の言語・氏名をうばわれ、ここで「皇民」として生きることを強要された。
強制連行されてきた朝鮮人にとって現場からの逃走は自由への道であった。逃走は頻繁におこなわれた抵抗行動であった。「朝鮮人労務者に関する調査」のなかにある久根鉱山の名簿から連行と逃走の状況についてみてみよう。
久根に「募集」「縁故募集」「斡旋」「徴用」などの形で連行された朝鮮人は四五八人であるが、このうち二五九人が逃走に成功している。これ以外にも朝鮮人は就労していただろうし、逃走に失敗した者もあっただろう。ここであげている数字は逃走成功者の数である。持越鉱山・峰之沢鉱山などから久根へと転送された朝鮮人の逃走数については不明である。
これらの集団から断続的な逃走がおこなわれた。逃走者の多い集団から三つえらび、逃走状況をみていこう。
一九四一年四月、「募集」の形で慶尚北道尚州郡から連行された三〇人は一九四五年八月までに二二人が逃走に成功した。連行されてすぐの四月に四人、六月・八月には各四人、一〇月には七人が逃走に成功、連行されて半年の間に半数以上の一九人が、現場から姿を
消した。
一九四四年五月、「斡旋」の形で全羅南道羅州を中心に連行された五四人は一九四五年八月までに四五人が逃走に成功している。逃走率は八三%である。一九四四年の一〇月には一三人が逃走に成功するなど、連行されて半年のうちに二六人が逃走に成功している。
一九四五年一月、「徴用」の形で江原道旌善郡を中心に連行された四四人をみれば、二〇人が逃走に成功している。連行されて半年後の一九四五年六月には一五人が逃走に成功している。六月一四日には集団的逃走がとりくまれている。
逃走が集中している年月と逃走成功者数をみておこう。 一九四一年八月から一〇月、一九四二年六月から九月、一九四三年三月から四月、同年七月から八月にかけてそれぞれ約二〇人が逃走に成功した。一九四四年一〇月から一一月にかけては三〇人をこえ(一月の逃走は二五人)、一九四五年一月には一ケ月で逃走は二〇人をこえ、六月には三〇人をこえる。逃走者が増加していったことがわかる。
日本帝国主義の敗北局面である一九四五年六月・七月では、五〇人前後が逃走に成功している。一九四五年の一月から八月までの逃走者の数は八〇人以上となる。連行された朝鮮人たちは逃走によって日本の戦争遂行能力を生産現場からうちくだいていったのである。
「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、久根へと朝鮮半島から直接連行された四五八人のうち逃走者は二五九人、帰国送還などは七〇人であり、久根に残留していたのは一二九人であった。
つぎに現地での聞き取りから連行された朝鮮人の状況をみていきたい。久根鉱山に一九四一年に入社し、選鉱場での一年の見習いののち、事務を担当した松浦さんの話をまとめてみよう。
「労働者数は当時全部で六〇〇人ほどだったと思う。労働者の構成は、日本人鉱夫・学徒動員者・勤労報国隊・転換労務者・朝鮮人などだった。学徒動員者は約一年間、半年で交替した。三年生と二年生で構成され、沼津工専(沼津工業学校)の採鉱科(採鉱冶金科)からきていた。勤労報国隊は一ケ月交替で浜松や磐田方面の商店主などで構成され、板運び、丸太運びの雑用に従事した。伊豆の金山などから久根へと送られてきた転換労務者もいた。
戦時中、銅は重要産業として指定され、金山の金より、鉄を!銅を!人間を送れ!と叫ばれていた。太平洋戦争に入って朝鮮人の労働者が増えた。日本人が徴兵され労働力不足になったためだった。それまで村内には朝鮮人の古物商が一〜二軒あっただけだった。朝洋人は単身者が多かった。逃亡者もあった。飯田線で豊橋方面に出るしか道はない。労務担当が駅にはりこんだ。朝、出勤しないと現場から連絡がくると、労務が社宅にいるかいないかを調べ、不在ならはりこんだ。徴用された日本人は名古屋の三菱、豊川の海軍工廠などへと行った。」(久根にて、一九九〇年談)
久根鉱山の資料庫は豪雨で流され、資料は散逸したという。廃坑跡の坑口からはいまも鉱毒が流れでている。鉱山跡には鉱毒用沈澱池があたらしくつくられている。鉱山建屋の老朽化がすすんでいる。
名合支山へと詞査にむかう途中に出あった老女は、ダム建設によって水かさの増した天竜川の河原を示していった。「朝鮮人の家が河原にあった。隣に私の住んでいた家もあった」と。現在は水没しているところに家々があったのである。
「朝鮮人が増えたのは一九四二年ころだった。三五〇人くらい働いていたと思う。一度に三〇人、五〇人と連行されてきた。当時父は運搬夫として働いていた。父が働きはじめたのは一九二七年からだった。一九四二年ころ、朝鮮人が家にたくさん遊びにきた。父は『指導員』の立場におかれ、技術を教えることになり、『先生』『先生』と朝鮮人によばれた。連行されてきた人のなかには医者だったが不正をして仕事を失い、それを理由に無理やり日本へ行けといわれてきたという人もいた。私は一九四三年から四五年まで戦争に行ったから、私が見たのはその前のことになる。
朝鮮人の逃走は多かった。逃げても朝鮮人だから会話ができず、三信鉄道の切符が入手できない。仲間を探して豊橋方面へと逃げたようだ。当時、朝鮮人たちは集落をつくっていたから、そのなかへと入りこんで逃亡した。逃げると会社から警察へと連絡がいき、憲兵、警察が動き、連れもどしてきた。警察内に専門の人間がいた。連行者五〇人に一人の割合で監督者が朝鮮からついてきた。坑内には在郷軍人が入って、朝鮮人の監視をしていた。労務係になったのは朝鮮巡査や軍隊出身者だった。会社内に朝鮮長屋があり、在郷軍人の『塩沢』『青木』らが監視していた。単身者は六人ほどで一部屋に入れていた。大輪近くの名合支山にも朝鮮人がいた。
朝鮮人は人柄がよく、やさしく親切だった。仕事がきついときに日本人が無視して通りすぎても必ず手を出して助けてくれた。大事にしてやると恩義は忘れないという印象がある。父の体を心配して、戦後、朝鮮から手紙がたくさんきていた。カタカナで書かれた文字だったが、感動した思い出がある。
私は一九七二年からじん肺訴訟をおこない、朝鮮人労働者についても調べて陳述した。運動がなければ世の中はかわらない」(佐久間にて、一九九〇年談)
日本の侵略戦争のために朝鮮人を強制動員し労働力として利用する政策は現場での逃走によって、久根においては成功したとはいえない。つぎにみる峰之沢鉱山での逃走率は久根鉱山よりも高く、日本の連行政策は現場での抵抗・逃走によってうちくだかれていったといえるだろう。
二 日本鉱業峰之沢鉱山
峰之沢地域での採鉱は一七世紀ころからはじまっている。当時の採鉱を伝えるものに「金山地蔵」「女郎塚」などがある。資本主義の発達とともに峰之沢での採鉱が再びおこなわれるようになり、一八八八年、峰之沢鉱山と命名された。一九○七年、日立鉱山を開発していた久原房之介がこの鉱山を買収した。峰之沢鉱山は一九一二年には労働者六一四人を雇用し、銅鉄鉱等を年に二万二九七四トン余りを生産するようになった。
一九二〇年、峰之沢鉱山は鉱山火災により一時休山したが、一九三四年から採鉱が再開され、一九三八年、日本鉱業が峰之沢鉱山を直営するようになった。日産コンツェルン下の日本鉱業は全国に鉱山を所有していた。戦時下日本鉱業は、朝鮮人強制労働に依存して鉱山経営をおこなうようになる。
強制連行期の一九三九年から一九四一年度にかけての連行者承認数をみてみれば、日本鉱業傘下の各地の鉱山へと一万一千人をこえる朝鮮人が連行されていったことわかる。峰之沢鉱山へも朝鮮人が連行された。
一九四二年には選鉱場が完成、それにより月五〇〇〇トンの処理が可能になった。政府の地下資源増産政策のもとでさらに増産がねらわれ、月九○○○トン処理が計画された。一九四四年一〇月には鉱山発展祝賀会がもたれていった。
一九四五年一月には中国人が強制連行された。同年二月に鉱山火災が発生し、休山となり、四月、中国人は日立鉱山へと転送された。朝鮮人労働者も一部は四月に尾小屋鉱山、六月には久根鉱山へと転送された。
連行された中国人たちはつぎつぎに倒れていった。中国人にとってそこでの労働は絶滅にむかう労働であった。鉱山側は連行した中国人を、生産を維持するための労働力として使用することはできなかった。
強制連行された朝鮮人について、連行者数と逃亡・争議などの抵抗を中心にみてみよう。
厚生省「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、一九四〇年から四五年の間に峰之沢鉱山へと四九六人が連行された。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によれば一九三九年に五〇人、一九四一年に二〇〇人が峰之沢への運行を認可され、一九四二年六月までに一八○人が連行されている。一八○人は「募集」の形で連行された人々であった。この時期に忠南洪城郡、京畿水原郡、始興郡、慶南固城郡などからの連行がおこなわれた。
一九四三年から一九四四年にかけて、「官斡旋」の形で、忠北清州郡、忠南洪城郡、全南海南郡・潭陽郡・長城郡などから六次にわたり、計二〇一人が連行された。
一九四四年一一月と一九四五年一月には「徴用」の形で、忠北清州郡、槐山郡から計九〇人が連行された。
ほかに「縁故」という名で一九三八年〜四四年の間に二五人が峰之沢鉱山へと連行された。
この名簿の記載によれば、これら四九六人のうち一九四五年八月までに逃走に成功した者は二四〇人であり、逃走率は四八パーセントになる。帰国、送還者などの数は七八人である。
峰之沢は一九四五年に入り火災のため休山となり、「募集」「斡旋」の形で連行された朝鮮人は一九四五年四月に尾小屋鉱山(石川県能美郡)へと六〇人、同年六月久根鉱山へと三〇人が転送されていった。日鉱尾小屋鉱山には一九四二年六月の段階で二四二人がすでに連行されている。
峰之沢へと「徴用」された朝鮮人は多くが現地に残留している。この「徴用」された集団の逃走率は低い。日鉱側の取り締りの強化がうかがわれる。「募集」「斡旋」された人々の逃走率は六一パーセントにおよぶ。
峰之沢鉱山でおきた二つの争議(直接行動)についてみてみよう。
一九四一年一〇月、原田星鶴ら二〇人余りが直接行動に出ている。きっかけは昼食の副食に予定されていた肉が入っていなかったことという。賄係が配給において手に入らなかったことを理由にわずかな肉で雑煮をつくったところ、二〇人ほどが憤激して、朝鮮人の賄夫婦を屋外に出し「殴打乱暴」したという。これにともない警察は七人を検挙した。そしてこの七人は本籍地へ送還させられた(『特高月報』一九四一年一〇月、『在日朝鮮人関係資料集成』四所収)。
強制連行、強制労働への怒りは食事を契機に直接行動へと転化した。おそらく、朝鮮人たちはさまざまな要求を鉱山側にぶつけていったのであろう。その結果、七人の検挙・送還となったと思われる。
「朝鮮人労務者に関する調査」の名簿によれば、原田星鶴は京畿道水原郡出身、一九四一年七月に連行されている。七月に連行された八四人のうち逃亡者は四二人、帰国送還者等は三六人であり、ほとんどが現場から姿を消した。連行された七月の翌月には八人の逃走と一人の送還、争議の発生した一〇月には一七人の逃走と七人の送還という状況であり、この段階で、連行した八四人のうち三三人が現場から離脱していった。ここに「募集」という連行への激しい抵抗をみることができる。
一九四三年九月二一日にも峰之沢において直接行動が発生した。「国民動員計画」によって連行された朝鮮人のうち三九人がかかわった争議であった。この争議は連行されて「訓練」をうけている期間におきた。飲酒を厳禁する「隊律」を破ったと飯場頭が労働者を叱責した。それに対し同僚の朝鮮人たちは飯場頭夫妻を殴打したという。その結果、中心人物二人が「検挙」され、他の労働者に対しては「厳諭」がおこなわれた。これらの動きを権力側は「誤解に基く闘争」としている(『特高月報』朝鮮人運動の状況 一九四三年一〇月『在日朝鮮人関係資料集成』五所収)。
ここにある三九人とは一九四三年六月に連行された忠北清州郡などの四八人のなかの人々であろう。この集団からは連行された六月に九人が逃走、九月には八人、一〇月には三人、一一月には一人が逃走した。連行されて四ケ月の間に二二人が現場から離脱している。一九四五年六月までに残っていたのは六人であり、逃走に成功した人数は三九人である。一九四四年には六人がさらに逃走、一人が帰国。一九四五年六月に二年満期をむかえるが、三月一人、四月二人、五月四人、六月五人がつぎつぎにと逃走し、満期帰国したのは一人だけであり、帰国を期待していたとみられる六人は、久根鉱山へと転送されていく。
この集団は連行された直後と二年満期を迎えるときの逃走が多かった。一九四三年九月の直接行動はこのような動きのなかで発生している。連行され隔離収容され、隊律に束縛された訓練と暴力的管理のなかで、朝鮮人たちは直接行動をおこなったとみることができるだろう。
なお、この名簿の記載には誤りがあることが、小池善之さんの現地調査で明らかになっている(小池善之「『厚生省調査報告書』と朝鮮人強制連行」)。それによれば、一九四二年五月に全華寿さんは慶南固城郡から連行された。面の役人と警察官による命令だった。飯場は外から出られないように鉄の棒で閂がかけられた。暴力は日常的におこなわれ、逃亡者は皆の前に出され棒で叩かれて半殺しにされた。全さんは二年経って帰国したが、名簿では六ヵ月後に逃亡したことになっている。全さんの知人の巴山点王さんは連行された四ヵ月後に落盤事故で足を切断し帰されたが、名簿では四三年九月に逃亡したとなっている。名簿では逃走日が月末とされているものが多く正確とはいえない。だが逃亡が多かったことは事実だろう。
強制連行による増産が狙われた。しかし、連行された朝鮮人は現場からの逃走や争議などで抵抗しつづけた。「所長会議資料三」(日本鉱業一九四一年度・『朝鮮人強制運行の記録』所収)によれば、日本鉱業峰之沢鉱山は作業能率の低下に不安を抱き、「取締方法」の確立をもとめている。「内地人ヲ割当テズ総テ移入半島人二依リ労務供給」がおこなわれることに対し、資本の側は作業能率低下の点からいだっていたのである。逃走やサボタージュ、帰国要求のたかまりのなかで鉱山側はさらに監視と統制を強めていったようであるが、抵抗をおさえることはできなかった。朝鮮人の逃走者は増加し、名簿から一九四四年、四五年の逃走成功者数をみれば一二〇人ほどとなっている。
このように現場での逃走を中心とする抵抗がつづいた。それにより日本の戦時動員体制は現場からうちくだかれた。峰之沢鉱山においても久根と同様、強制連行による生産態勢の確保は成功しなかったといえるだろう。
つぎに峰之沢での現地調査をまとめていきたい。
一九四三年から峰之沢で事務員として働いた山本萬さん(一九二六年生)はつぎのように語る。
「入社してはじめに現場事務所で働き、その後事務所に入った。戦時中、増産のために乱掘したため坑内が荒れた。落盤が多くなり危険な状態となり、一九四七〜四八年に事故が増えた。入社したころの労働者の構成は日本人が七〜八○○人、朝鮮人が三〇人くらいであり、のちに中国人が二〇〇人ほど入った。
事務の担当者として朝鮮人をうけもった。私の仕事の内容は出勤状態をつかみ賃金を算定する経理だった。坑内は一交替だったが、忙しくなると二交替となった。終戦前に相当数が逃亡した。秋葉山の山を越えて逃げた。川ぞいに逃げればみつかってしまうからだ。
戦後、偶然、
鉱山には生産管理のために軍政官が駐在した。賃金には本番式(日給固定給)、半請(半分が本番、半分が請負)、請負式(切羽から○○トン掘り搬ぶと○○円など)の三つがあり、日給制だった。労働者は四人で一集団(掘削一、支柱一、運搬二)をつくり、グループ毎に賃金を払うことがおおかった。職域毎に賃金がきめられていた。
朝鮮人の名簿には番号とともに朴○○、金本○○と書かれていた。はじめは名前を覚えることができず番号で呼んだ。軍隊出身者や朝鮮巡査出身の労務担当者が六〜七人いて、見張り、警戒をしていた。逃亡して捕らえられた朝鮮人もいた。
朝鮮人の飯場は鉱山事務所北側の「赤ズリ」にあり、「半島飯場」と呼ばれていた。飯場では豚をさばいて食用にしたり、ドブロクをつくったり、キムチをつくったりしていた。労務は近づくが、一般の労働者は近づくことがなかった。単身者は飯場で暮らし、家族持ちは日本人の社宅内に居住した。当時、飯場頭の娘が婿をとり、結婚式があり、招かれていった。飯場の婆さんの喪式もあり、皆アイゴーアイゴーと泣いていた。
朝鮮人が増えたのは一九四四年ころだった。はじめは三〇人くらいだったが、四四年ころ増加し、労務担当が朝鮮人を連れに行き連れてきた。一回に三〇人くらいが連行されてきたが、頻繁に逃亡した。とくに中国人が連行されてきたころは逃亡が多かった。飯場に帰ってこないという連絡があると労務が探しに出ていった。
中国人は坑外の仕事をしたが、衰弱していて皮膚病が多く、戦力にならなかった。饅頭を食べていた。」(龍山にて、一九九〇年談)
ここから、朝鮮人連行者の増加と一九四五年における逃走者の増加、朝鮮人飯場の存在、軍による管理、朝鮮人名簿の存在などがわかる。
地元の鉱山管理者は「峰之沢には中国人が強制連行されたが、朝鮮人の強制連行はなかった」と語った。史料、証言などから朝鮮人強制連行があったことはあきらかであるが、峰之沢地域において朝鮮人強制連行は事実認識として共有は不十分である。日本が植民地支配と戦争犯罪の責任をはっきりさせることなく、現在に至っていること、それは峰之沢においては「朝鮮人強制連行はなかった」という発言になってあらわれてくる。
村で出会った老女は「朝鮮人のことを『半島さん』と呼んでいた。山の中で百姓をしていたら、時々朝鮮の婆さんがチョゴリ姿でおりてきた」という。鉱山への動員は「内鮮一体」の名のもと、「半島人」という名でおこなわれた。民族性を奪い朝鮮人を「皇民化」し戦争へと動員する政策によっておこなわれた朝鮮人強制運行。この強制連行・強制労働についての事実認識がいまも共有されていないということは、峰之沢においては、朝鮮人は「皇民」「半島人」のままであり、未解放のままであるといえるだろう。
つぎに峰之沢鉱山への中国人強制連行についてみておきたい。
日本鉱業峰之沢鉱山の「事業場報告書」のなかにある「華人労務者就労顛末報告書」から連行に至る経過をみてみよう。
峰之沢鉱山では一九四二年に一ヶ月で五五〇〇トンを処理できる選鉱場ができ、拡張工事がすすめられて一九四四年には九〇〇〇トン処理施設が完成した。さらに一ヶ月一万三〇〇〇トンの処理施設の工事がすすめられていた。その操業のためには一〇〇〇人が必要だった。当時の労働者は六七〇人であり、三三〇人が不足していた。これまで朝鮮人を連行してきたが、予定人員の五〜六割しか連行できず、それらは逃亡者や帰国者の補充分にすぎないという状況だった。このため一九四四年三月に連合軍俘虜の連行を予定したが、戦局の悪化によって連行は中止となった。このなかで連行されたのが中国人だった。
峰之沢鉱山への中国人強制連行については、静岡県中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会『静岡県峰之沢鉱山中国人俘虜殉難者慰霊報告書』(一九五三年)、沢田猛『石の肺』に記録があり、田中宏・内海愛子・石飛仁編『資料中国人強制連行』にも峰之沢における中国人の状況が記されていれる。
峰之沢鉱山の労務係の板津久一さんは連行するために中国塘沽の港まででむいた。そこで、かれが見たのは衰弱した中国人の姿であった。「これではとても使えない」とかれがいうと、「これは良い方だ」といわれたという(『静岡県峰之沢鉱山中国人俘虜殉難者慰霊報告書』)。
日本帝国主義によって中国・河北省地域で狩りあつめられて収容所へ連行された人々は、拘禁と粗悪な食糧と虐待によって衰弱しきっていた。日本はそのような人々を労働力として日本へと連行したのである。
峰之沢鉱山は二〇〇人の「契約」を結んだ。二〇〇人のうち三人は収容所から埠頭までの三〇〇メートルの間で死んだという。一九七人が乗船し、一九四四年一二月二三日、塘沽の港を出た。二週間の船旅の間に一〇人が死亡した。下関で三人、二俣町でさらに二人が死亡した。四五年一月六日、峰之沢へと入るが、翌朝一〜二人が死亡した。死亡した中国人の死因の三分の一は「疥癬」、三分の二は「大腸カタル」とされている。
峰之沢では中国人を水窪警察署の特高が監視した。そして巡査部長ほか二人が中国人担当として常駐した。中国人たちは選鉱や運搬をさせられたという。三ケ月ほどで六六人が死亡した。死者を合計すると八四人となる。二〇〇人の連行者のうち四二パーセントが死亡した。中国人にとって峰之沢鉱山は絶滅にむかう労働を強要される現場であった。
「華人労務者就労顛末報告書」によれば、峰之沢に連行された中国人は河北省秦皇島・唐山・雷荘・大沾・天津・景県付近から塘沾の北砲台労工収容所へ連行された。「募集」機関は華北労工協会塘沾弁事分処であり、峰之沢への連行者は「自由募集」「行政拠出」「俘虜」が混在した集団とされている。
連行された一九七人は河北省出身であり、約半数は?県出身者、他は景県、豊潤県・寧河県・天津県・昌黎県等の出身者であった。職業別にみれば、農業が一四四人、商業が一二人、「苦力」が四人、他となる。生存者のうち独身六三人、家族持ちは九七人となっている(三七人は調査前に死亡)。
中国人は一九四四年一二月二三日、塘沾北砲台労工収容所で二〇〇人が峰之沢鉱山側へと引きつがれたが、長期による収容所生活のため疲労していた。そのため、峰之沢鉱山側は当初予定していた坑内作業に中国人を就労させることができなかった。
連行された中国人は二俣警察署長、磐田勤労動員所長の臨席下で、入山式をおこない「興亜寮」に入った。一人あたり〇・五六畳の割合だった。中国人は選鉱、選鉱場内清掃、鉄工補助、鉱石・木材の運搬、坑木・杉皮の運搬の仕事をさせられた。労働時間は午前七時から午後四時半までとされていた。稼働率は一月一九パーセント、二月六四パーセント、三月六八パーセント、四月五七パーセントであり、日本人・朝鮮人と比べると七〇パーセントの稼働状況であった。
一月二六日を期して韓貴・鄭小牛が隊長(于景林)通訳(李長清)を暗殺して逃亡する計画をたてたが、事前に発覚し検束された。のち二人は釈放された。
逃走は二度あり、二月二八日蘇向武他三人、三月二七日李茂徳他一人が逃走し捕らえられた。峰之沢鉱山は二月二八日火災となり、四月五日、中国人たちは日立鉱山へ送られた(以上峰之沢鉱山の「華人労務者就労顛末報告書」による)。
仲間たちが倒れ死んでいくなかで抵抗や逃走が試みられた。『慰霊報告書』には、山へ逃げこんだ中国人を村の人たちも探しに出たが、捕えられた中国人は殴られ蹴られたと記されている。村の警防団、労務、警察が一体となって山狩りをおこない、逃走者を捕捉し、虐待していったことが想像される。
ここで連行された中国人の証言をみてみよう。
何天義編『二戦?日中国労工口述史』三には峰之沢鉱山へと連行された中国人一一人分の証言がある。また、畢兆亜・畢兆倉・劉玉洪さんら三人の証言が『中国人強制連行強制労働損害賠償請求第二次訴訟「訴状」』にある。この二人の畢さんの証言は小池善之「強制連行された中国人(その一証言編)静岡県の事例」にもあり、詳細にまとめられている。これらの証言を要約し、連行の経過と強制労働の状態についてみてみよう。
康慶和さんは河北省秦皇島市山海関出身、一九四四年五月に鉄路警務隊に入ったが、青年協進社にも参加した。隊長卓季平らは八路軍と連携していた。八路軍は秋、範庄で県の日本顧問や偽軍を襲撃し打撃を与えた。このため隊の関係者が捕らえられ、拷問された。一一月に卓さんら七人は北京へ、康さんら九人は塘沽収容所へと送られた。虐待と非衛生的な環境のなかで、つぎつぎに死者が出た。この中で脱走のための暴動が起きたが、日本軍に虐殺された。
一二月中ごろ、四〇〇人が日本へ連行され、下関を経て、二〇〇人が峰之沢鉱山に連行された。隊長は唐山出身の于だった。日本人係は罵倒し殴打した。康さんは病気になって隔離された。劣悪な環境のなかで多くが疥癬となった。連行された人々のうち八〇人余りが死んだ。鉱山で火災が起きたが、ある朝鮮人が放火したという。
火災のため、日立鉱山へと転送され華人寮に収容された。日立では疥癬が直り、二三班の班長になった。しかし日立鉱山は中国人から一回に四〜五〇〇CCも採血した。弱って死んでいった孟憲奎は泣きながら康さんの手をとり、骨を祖国に持って帰ってほしいと頼んだ。康さんは九死に一生を得て帰国した(『二戦?日中国労工口述史』三二六頁〜)。
畢兆亜さんたちは現在唐山市豊南県に住んでいる。畢兆亜さんは当時一八歳、畢兆倉さんは当時一七歳、ともに家族を手伝う農民だった。一九四四年旧暦九月二三日ころの朝、仕事に行くため一〇人ほどで歩いていたところを日本軍に取り囲まれ、銃剣をつきつけられ、縛られて日本軍の駐屯地まで連行された。畢兆亜の兄・畢兆存もともに連行された。日本軍は食も与えずに、八路軍だろうと尋問し暴行した。
劉玉洪さんは当時天
四日ほど監禁された後、三人を含む一四人が労工を収容するための寨上五分所に連行され、さらに塘沽収容所へと送られた。食事は饅頭のみ、水はなく尿水を飲まざるをえなかった。夜は逃亡防止のために裸にされた。収容されて二〇数日目のこと、収容された人々は電灯を割って逃走したが、発見され機関銃で撃たれた。ある者は感電死し、隠れていた者も殺された。畢兆亜さんは収容されて四日目に水を探しに出たところを捕らえられ、暴行され、歩けなかった。そのため逃走できずに生き残った。この逃走事件で数百人が殺された。中国人にその死体を埋める穴掘りをさせた。餓死者や凍死者も出た。さらに五〇〇人ほどが連行されてきた。日本人は日本へ送るといい、布団と服を配給した。労働の契約はないまま、一二月二三日(新暦) 、五〇〇人ほどが塘沽から、船に乗せられて出発した。
船では饅頭が支給されただけだった。水はなく夜中に兵士の風呂の水を飲んだ。一九七人が峰之沢鉱山に連行されたが、船中で一〇人、移動途中に五人が死亡した。ともに連行された李俊嶺はトラックから降り山道を歩く途中に死んだ。
鉱山では塘沽で支給された上着一着で過ごした隊長は于景林、小隊長は李志芳・于守業・康慶和だった。収容所は守衛や警察に監視され、朝は饅頭二つ、夜にはおかゆが一杯だった。みかんの皮と葱を拾って食べた。中国人が何度も暴行されて血だらけになった。暖房はなく夜は冷え込んだ。風呂はなく疥癬が蔓延し、医者はいなかった。畢兆亜さんは若かったので野菜作りをした。逃げた人は死ぬほどの暴行を受けた。鉱山が火災になり、労工は木の伐採やイモ栽培をさせられた。何日かするとまた火事があった。ともに連行された一四人のうち李俊嶺・畢兆龍・畢汗樹・畢紹青が死んだ。峰之沢で三ヶ月の間に六六人の中国人がなくなった。事故死はなく、不十分な食事、不衛生、重労働のために、過労死・病死・餓死で死んでいった。一一六人が日立鉱山へと転送された。
畢兆亜さんと兄の連行によって農地は荒れ、借金の生活になった。母は連行を悲しみ、失明した。父も長兄も日本軍に捕まったが、母が頼み帰してもらった。連行され、頭を殴られたから耳鳴りやめまいの後遺症がある。労工とされた畢兆亜さんは日本政府が侵略戦争であったことを認めていないことに対して憤慨し、謝罪と賠償を求めている。遺骨は遺族に帰っていない(『中国人強制連行強制労働損害賠償請求第二次訴訟「訴状」』、小池善之「強制連行された中国人その一証言編 静岡県の事例」)。
宋雨田・于慶祥・于従沢さんらは河北省唐山市開平区栗園鎮于庄の出身、一九四四年旧暦一〇月に路上で捕らえられ、唐山の中島部隊に送られ、尋問された。その後塘沽収容所三号棟へと送られた。二号棟の滄州の人々は逃げようとして暴動を起こしたが、六〇人余りが殺された。塘沽から峰之沢鉱山へと連行された。総隊長は于景林、三小隊のうち小隊長于守業、班長は于従沢、于広聚。日本人は中国人幹部に中国人を殴らせていた。日立鉱山へと転送され、四五年一一月に帰国した(『二戦?日中国労工口述史』三三九頁〜)。
趙文秀さんは河北省?県小馬庄鎮?各庄出身、一七歳のとき、庄で日本軍に捕らえられた。楊宗祥さんは同鎮新庄子出身、一九四四年旧暦九月二九日に光庄で、?景勝さんは同鎮金各庄出身、一六歳のとき光庄で捕らえられた。董連福さんと王凱さんも同鎮金各庄出身、董さんは九月二九日に二七歳の弟とともに日本軍に捕らえられた。捕らえられた人々は雷庄に送られ、そこから塘沽収容所へと送られている。収容所での虐待を経て、日本へと四〇〇人が乗船させられ、そのうち二〇〇人が峰之沢に連行された。
峰之沢で同郷の李茂徳・?丙超は逃走したが捕らえられ、日本人によってリンチを受けた。そのときの李茂徳の足の怪我は解放後も直っていなかった。趙文秀さんはいう連行されたが一銭も支払われていない。日本軍によって郷里は破壊され、家屋は焼き尽くされた。日本政府と企業に対し、賠償と謝罪を求めている(『二戦?日中国労工口述史』三五四頁〜)
楊生さんは河北省?県雷庄鎮徐庄出身、一九四四年旧暦九月二六日に日本軍に捕らえられ雷庄守備隊に連行され、その後塘沽収容所に送られた。峰之沢で王景海と王瑞徳が逃走したが捕らえられた。日本人は中国人に円陣を組ませ、二人を中に入れ、隊長に棒で殴らせた。二人は病棟に送られたが、王景海は翌日死亡した。死者は木箱に入れて埋葬されていたが、多くなるとそのまま埋葬した。解放後、唐山から金各庄の王凱・王哲・?景勝・?建超・範俊方・董敏、新庄子の李雲忠・楊宗明・楊宗祥・李茂徳らと帰った(『二戦?日中国労工口述史』)。
黄玉書さんは寧河県出身、一九四四年一〇月に日本による労工狩りで捕らえられて連行された(『二戦?日中国労工口述史』三七二頁〜)。
中国人収容所がつくられたのは藤下さん宅の麦畑だった。ききとりによれば「麦が五〇センチくらい育ったころ、貸すと答える前に麦が掘りおこされ、飯場がつくられた。今は杉林になっているけれど、かつては麦畑だった。棟は一棟だったと思う。家からみて右側に炊事場、左側に番人が住んでいた」という。
解放後の四五年九月一九日、中国人于景林ら二人が峰之沢へと遺骨を取りにきた。数人の骨を八一人分に分骨した。一九五三年八月一八日、遺骨が「慰霊実行委」の手により発掘され、九月一四日
奥天竜の平岡ダム建設現場では連合軍の捕虜が酷使され、戦後、連合軍捕虜虐待が戦争犯罪としてきびしく追求された。秋田県花岡鉱山でも中国人への虐待が犯罪として追及された。
峰之沢鉱山においては中国人の強制連行や虐待暴行の罪は問われなかった。日本が中国河北省でおこなった人間狩りと強制連行の実態は解明されつくされてはいない。戦後、遺骨送還と慰霊碑の建立などがおこなわれてきた。しかし、中国へと送還された遺骨は遺族のもとへと送りかえされることなく、多くが天
朝鮮人強制連行についてみれば、その実態はおおいかくされたまま、現在に至っている。民族性を抹殺され、「皇民」「半島人」という名で侵略戦争に動員された人々は、八・一五解放後、「外国人」とされた。日本政府は植民地支配を正当化し、その責任や戦争犯罪については隠蔽し、天皇制を中心とする支配体制を温存してきた。連行された人々の生死の確認や賠償はおこなわれなかった。朝鮮人強制連行の歴史認識は連行名簿や連行証言があるのにもかかわらず、共有されていない。
奥天竜の鉱山への連行については未解明の点も多く、厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」、『華人労務者就労事情調査報告書』(外務省報告書)などの分析と現地調査が求められる。
3 峰之沢から尾小屋鉱山へ
峰之沢鉱山の朝鮮人の一部は石川県の尾小屋鉱山に転送された。ここで尾小屋鉱山への朝鮮人連行についてもみておこう。
尾小屋鉱山は石川県小松駅から南に向かって約二〇キロメートル先にある銅山である。東に白山を望み、郷谷川にそって大倉岳へと南に向かっていくと尾小屋鉱山の跡がある。鉱山の社宅跡地には尾小屋鉱山資料館が建てられている。
鉱山の建物の多くはとりこわされている。資料館内のマインロードの坑道、製錬用の大煙突、沈殿池、尾小屋駅跡地の機関車、共同墓地内の横山鉱業の追悼碑、山神などが当時の面影を残している。
尾小屋での採掘は一七世紀末からはじまり、一八世紀末には金山谷で、一八世紀後半には松ケ溝で銅鉱が採掘されていった。尾小屋鉱山の開発は一八八一年に横山隆平らによって本格的にすすめられた。一九〇四年には横山鉱業部が設立された。横山鉱業部は一八九五年から経営していた平金鉱山(岐阜の銅山)に加えて、波左羅・五十谷鉱区、五国寺・大谷鉱区、阿手鉱山、白山支山、倉谷鉱区、金平鉱山などを買収し、尾小屋での鉱山経営を拡大していった。
一九一九年には尾小屋鉄道による輸送も始まった。この年、尾小屋鉱山に友愛会の支部が坑外夫を中心に結成され、労働運動もすすんだ。翌年には鉱内夫へと組織が拡大し、争議へと突入、結成された全日本鉱夫総連合会へと尾小屋の鉱山労働者も参加したが、二一年、組織は解体した。
一九二七年、横山鉱業部は第一次世界戦争後の不況による経営危機のため、発電、運輸、鉱山の三部門を分離し、尾小屋鉱山鰍設立する。しかし経営は好転せず破産となり、売山へとむかう。この過程で売山権をめぐって労働者側争議団と会社側との交渉となり、一九三一年、争議団が売山権を獲得した。一九三一年、鉱山は最終的に日本鉱業へと移管されることになった(『尾小屋鉱山争議史』)。
日本鉱業は鉱区の買収をすすめ、金平支山、岩淵支山などの鉱区を拡大していった。侵略戦争の拡大による銅開発のなかで、朝鮮人が労働力として強制連行された。一方、銅生産がすすめられるなかで鉱毒水や煙害による環境破壊もすすんだ。
一九三九年に日本鉱業は尾小屋鉱山へと六〇人の朝鮮人を連行する承認を日本政府からえていた。四〇年二月、尾小屋鉱山の労務課長久手嘉平は朝鮮半島へと派遣され、忠清北道清原郡米院面などから「募集」し、二月一四日に三〇人、三月一八日に三〇人の計六〇人を連行した(「北国新聞」一九四〇年三月二四日、「朝日新聞(石川版)」一九四二年四月七
訓練所は本山と波佐羅の二ケ所におかれた。三〇人を一班として軍隊的訓練をおこない、宮城遥拝や神社参拝などを強制し、皇民化をすすめた(日本鉱山協会資料)。
連行者が増加するなかで、朝鮮人を監視・統制するために、四〇年四月一二日、石川県協和会が設立され、これまで警察署単位に設立されていた同仁会は協和会の支会へと再編されていった(『協和事業年鑑』)。
一〇月一〇日からはあらたに連行した六五人に対し、第二回目の労務者訓練がおこなわれた。この年の一一月までに一二四人が尾小屋へと連行されてきた。
尾小屋鉱山は一九四一年に一五〇人、四二年には二○○人の連行の承認を受けている。四二年一二月までに二四二人が「募集」の形で連行され、さらに「斡旋」によって二二三人が連行され、あわせて四六五人が連行されている。けれども逃亡者は増加し、募集二四二人中九三人、斡旋二二三人中二一人が逃亡している。現在員をみると募集九二人、斡旋一九六人の二八八入となっている。(「移入朝鮮人労務者状況調」「特高月報」などによる)。
四二年一二月までの呼寄せ家族の数は一二八人ある。四二年一二月までに連行された朝鮮人の数は呼寄せ家族をあわせると五九三人におよぶ(「特高月報」)。
日本鉱業尾小屋鉱山での「民族別職種別鉱員数」一九四三年三月末)には朝鮮人二二四人中一九六人が坑内、日本人は七二六人中、二三七人が坑内であり、朝鮮人の坑内労働の率が高く、ほぼ坑内の半分の労働力が朝鮮人であったことがわかる(小松現代史の会資料集所収資料)。北幸作『銅に咲く華』所収の証言も、四二年ころから坑内の労働者は日本人と朝鮮人が半々くらいになったとしている。
朝鮮人は四三年に入っても連行されたとみられる。四四年には尾小屋鉱山は重要軍需工場に指定され、一〇月一六日には「半島壮丁労務者錬成所」が開かれている。ここに記した労務者錬成所の開設については当時の新聞で確認できたものだけであり、この時期以外にも連行に応じて訓練所が開設されていったと考えられる(「北国毎日」一九四四年一〇月一六日付)。また朝鮮人の「慰安婦」も連行されたという。
一九四五年四月には静岡県の日鉱峰之沢鉱山から六〇人の朝鮮人が転送された。
このような連行状況からみて四三年から四五年にかけて少なくとも二〇〇人の連行があったとみることができる。四二年までの連行者約六〇〇人にこれを加えると約八〇〇人となる。連行された人々は次々に逃亡しているから、尾小屋鉱山での朝鮮人の現在員数は二〜三〇〇人であった。
鉱山資料館で資料調査をしたところ、写真目録から「第一回鮮人家族呼寄」「第二回半島人家族」という写真があった。鉱山側は家族を呼び寄せることで逃亡を防ぎ、定着をねらった。写真の人々は初期の連行者の家族である。
連行して二年後の四月、四〇年三月に連行された忠清北道清原郡米院里の一三人が、一生を鉱山で働くと連署し国防献金したことが報道されているが、このことは鉱山側が意識を操作し、朝鮮人の皇民化をすすめていたことをよく示している(「朝日(石川版)」一九四二年四月七日付)。
一九四五年四月、峰之沢鉱山から尾小屋鉱山へと連行された六〇人の名前と住所が「朝鮮人労務者に関する調査」名簿からわかる。尾小屋鉱山へと転送されたのは忠南洪城郡、全南海南郡、潭陽郡、長城郡などから峰之沢へと連行された人々であった。
石川県で調査をすすめている朴仁祚さんは、この名簿から一九九九年に忠南洪城郡金馬面で調査をおこなった。そこで遺族から、一九四三年に連行された趙萬元(創氏は
また、二〇〇〇年五月には一九四四年に連行された全南長城郡森西面の金炳必さん(一九三一年生)を探し当てた。金炳必さんが連行されたのは一三歳のときだった。ききとりによれば、金炳必さんは、父が徴用を逃れたため、代わって峰之沢へと連行された。友人ら四人で逃亡して朝鮮人飯場に入ったが、一週間ほど経って捕らえられた。リーダーは殴打されたが、金氏は一四歳と若かったためリンチをうけなかった。若年であったから鉱山では雑役をさせられた。その後、尾小屋へと転送された(朴仁祚「未知の国に一三歳で連行された金炳必さん」『キョレイ通信』七)。
朴さんの調査から、一三歳で父の代りに連行された少年や帰国後も病に苦しみ早く亡くなった人がいることがわかった。
おわりに
奥天竜の山々と川の風景に、鉱滓をすって働いた人々、鉱毒汚染のなかに生きた人々、強制連行された朝鮮人・中国人たちの「叫びとささやき」を聞く。その声は、かれらを強制的に連行し、その後その罪を問われることもなく、また悔い改めることもなく延命し政治的・社会的権力を探りつづけている者たちを告発する。みつめればきこえてくる「叫びとささやき」の地平から「戦後」を問い直す作業は、はじまって間もないことであり、その声を発する者たちの魂はいまもいやされることなく、わたしたちに連なっていると思う。