筑豊の炭鉱史跡と朝鮮人追悼碑
北九州・筑豊の炭鉱から出された石炭は北九州で生産された鉄とともに日本の資本主義の核となった。石炭と鉄は労働者の血と汗の結晶であり、それらは日本各地へ運ばれ、産業化の骨格となり、その原動力となった。石炭は形を変えていまもわたしたちの眼前にあるといえるだろう。
ここでは筑豊に残る炭鉱史跡と朝鮮人労働に関する碑を紹介し、それをとおして戦争遺跡としての産業史跡の現状と朝鮮人強制連行への歴史認識について考えたい。
閉山後、資料は散逸し、建築物もほとんどが破壊された。朝鮮人連行に関する史料も焼却され、処分されたものが多いが、現存する建物や残された史料から戦時下朝鮮人連行の状況についてみていきたい。
@三菱飯塚炭鉱・捲揚場土台
旧経営者の中島徳松の別邸だった養和館の建物が三菱系のダイヤ機械飯塚製作所の中野倶楽部の建物として残っている。
三菱鉱業『飯塚礦業史年表』(一九五八年)や麓三郎『三菱飯塚炭礦史』(一九六一年)によれば、一九三九年十一月に朝鮮人九六人を連行、四二年には二〇〇〇人をこえ、四四年には全礦員の三八%を朝鮮人が占めたことなどが記されている。災害事故の増加についてもふれているが、朝鮮人死亡者については記されていない。連行者総数は五千人近かったとみられる。
A三菱鯰田炭鉱碑
鯰田炭鉱跡地は
この鯰田から鴨生にむかって三菱専用の線路が引かれていた。鯰田小近くには朝鮮人の収容地があった。鴨生にも朝鮮人集落があり、小さな丘陵地は「アリラン峠」とよばれた。
厚生省勤労局調査名簿(一九四六年)の福岡県分史料のなかに鯰田炭鉱分名簿がある。ここには三〇五一人分の名前と出身地が記されている。この名簿は第三抗を中心とするものであり、下鴨生の第五坑分は欠落しているとみられる。一九四〇年一一月に固城郡から連行された鄭正模さんの名はここにない(林えいだい『朝鮮海峡』に連行経過が記されている)。連行状況からみて鯰田への連行者数は四〇〇〇人をこえたといえるだろう。
この名簿から死者名をぬき出し、後に記す追悼堂「無窮花堂」に収められた遺骨名と照合したところ、何人かの連絡先が判明した。二〇〇一年四月、追悼堂建設をすすめてきた「来善さんが渡韓し、故文圭炳さんの遺族の文福礼さんと面会、七月には遺骨を引き取りに文さんが現地を訪れた。父を失い「血の涙」が出る思いをしたという文さんが、遺骨の前で慟哭する姿は人々の胸をうち、いまなお過去の清算が終わっていないことを示した。二〇〇三年には三菱鯰田炭鉱で死亡した金長成さんの遺族が遺骨を引き取った。
鯰田の碑に連行についての説明文はなく、ここに連行された人々の記憶を拒むかのようである。
方城炭鉱で死亡した朝鮮人を焼いたところは「人焼き谷」とよばれているという。方城、上山田にはそれぞれ四〇〇〇人ほどの朝鮮人が連行されたとみられる。
筑豊には三菱系炭鉱として飯塚、鯰田、方城、新入、上山田、勝田などがあり、それぞれ三〜四千人の朝鮮人を連行している。一九四四年一月のこれら筑豊の三菱系炭鉱への総連行者数は一七、一〇五人におよぶ(福岡県特高課「労務動員二依ル移入労務者事業場別調査表」)。四五年までの連行者を加えれば二五〇〇〇人ほどになるとみられる。
三菱では早くから朝鮮人を「募集」し炭鉱で使っている。一九二八年三月での朝鮮人数をみると飽田一、七三八人、飯塚一、七六八人、方城四一三人、新入九四四人、上山田三三九人とあり(『筑豊石炭礦業史年表』)、二〇年代から「募集」をおこない朝鮮人を使用してきた経験が連行と労務管理に利用されていったとみられる。
各地の炭鉱に朝鮮人女性が性の奴隷として連行されていたとみられる。炭鉱資本は朝鮮人管理のために政府の指示のもとで「慰安所」の経営に関与したようである。労働科学研究所『半島労務者勤労状況に関する調査報告』には、北海道の事例が多いが、業者に対し市街地での開業を許可したり、朝鮮人居住地の中心においたり、建物を無料で貸与し炭鉱病院で検診したり、「予防具」を各寮に配備し無料使用させる形で協力したり、建物を無償で貸与して指定業者に経営させたりしたケースが記されている
飯塚、鴨生、田川、折尾に女性たちが集められていたところ(「慰安所」)があったという証言(『消された朝鮮人強制連行の記録』)、三井田川、三菱方城、豊州、古河大峰などにも存在したことを確認した調査(『炭坑と強制連行』)などがある。
B田川・韓国人徴用犠牲者慰霊碑
三菱とともに大量の朝鮮人を連行したのが三井系炭鉱である。三池へは約一万人、筑豊の田川・山野にはそれぞれ六千人をこえる朝鮮人が連行されたとみられる。
三井田川へと連行された人々は田川小の南方にあった元町や仲通りの収容所や「共愛寮」に入れられた。朝鮮人女性が性的奴隷とされ「小松楼」などに入れられていた。
碑文には、日本が人道に反する政策をおこなって戦争へと駆り出し、強制連行し強制労働をさせたこと、労役に苦しみ故郷の山河をみることなく逝った人々には痛恨の思いがあることなどが記され、これらの凄惨な事実を埋めることなく慰霊し、再びくりかえさないための戒めの標として碑を立てたと刻まれている。
この連行犠牲者追悼碑の近くに一九八九年に建てられた「田川地区炭鉱殉難者慰霊の碑」がある。碑文をみると太平洋戦争が「惨禍と犠牲」をもたらしたとするが、国策・戦争・企業への批判はない。「戦争中には徴用や各国捕虜等老若男女を問わずに石炭増産に狂奔」したとし、石炭採掘での二万人といわれる殉職者の冥福を祈り、感謝を捧げ、「末永く筑豊炭田の歴史を伝えん」としている。連行や虐待、強制労働や労働災害についての国家と企業の責任については記されず、「狂奔」と表現され、そのうえで「感謝」が捧げられている。この碑は韓国人犠牲者の追悼碑を追うように「平成元年」に建てられた。この碑文が正しく書き直されることが平和と友好の芽をはぐくむことにつながると思う。碑文の内容は死者を再び殺すことのないようなものであってほしい。
二〇〇二年四月二九日には
C小竹・兵士庶民の戦争資料館
この兵士庶民の戦争資料館の別館が
D三井三池・馬渡朝鮮人連行碑
文字は一九八九年夏、強制連行調査のフィールドワークの際に馬渡社宅五一棟内の押し入れで発見された。そこには「壹心壹徳自力●生(更生)」「中山海鳳 平生壹心 正元慶力」「朝鮮京畿道長湍郡」などの文字があった。三井はこの社宅を九四年に破壊した。壁書は切りとられ、現在、
三井三池炭鉱は
三井三池での連行者を追悼する碑としては荒尾市の正法寺に中国人・朝鮮人を追悼する供養塔が1基ずつある(一九七二年建立)。大牟田市の甘木公園には「徴用犠牲者慰霊塔」があり、ハングルの碑文もある。
三井三池へと連行された朝鮮人は総計一万人におよぶとみられる。連行された朝鮮人は宮浦、四山、三川、万田などの各坑で労働を強いられた。武松輝男編『三池炭鉱の発展と支配と鉱害』には連行当時の状況を示す地図が作成されている。収容所は、馬渡、四山、新港、田隈、平野山、宮山、今井、西浜田、万田などの各地にあった。宮浦坑の収容施設は協和寮、三川坑の施設は大和寮とよばれた。
炭鉱跡については、中川雅子『見知らぬわが町 真夏の廃坑』、大牟田の歴史を考える会『燃える石』などを参考に歩くとよい。
E
明治鉱業は平山の他に赤池炭鉱(含明治坑)、豊国炭鉱を筑豊に持っていた。
赤池炭鉱への連行者は一九四四年一月までに赤池坑三〇六一人、明治坑二一八一人の運行があり、その後の連行予定者数などから、赤池坑四二〇〇人、明治坑二八○○人の計七〇〇〇人ほどが連行されたとみられる。
明治鉱業での朝鮮人死者の事故状況については「変災報告書」の一部が復刻され、落盤や事故で生命を失ったときの状況を知ることができる(林えいだい編『戦時外国人強制連行資料集U』朝鮮人1)。
F古河大峰・日向墓地
田川から南に向かい
墓には名前も死亡年月もない。ボタ石をおかれ、名もなく埋められた人々の墓石は無念の想いと恨を放っている。墓石はこのような形で放置しつづけてきた戦後の虚偽を撃ち、正義の実現にむけての意思のありかを問い、解放を求めつづけているように思われた。
日向墓地に埋められた朝鮮人は
大峰炭鉱の跡としては選炭場の基礎跡などが残っている。大峰では朝鮮人坑夫の虐殺を契機に朝鮮人が蜂起している(一九四四年三月)。
連行された朝鮮人は愛汗寮、鉄心寮、陽信寮などに収容された。伊予屋、昭和亭、大和屋などには性的奴隷とされた朝鮮女性もいた。峰地坑への連行者は昭和寮、日輪寮へと入れられた。
古河大峰炭鉱については一九四二〜四四年分の社内誌『古河大峰』があり、連行された人々の氏名の一部がわかる記事や、連行された人々の写真なども掲載されている。
この地域での炭鉱と強制連行についての調査をすすめる芝竹夫さんは
G古河目尾・松岩菩提
古河目尾炭鉱があった
炭鉱跡地の墓地がゴルフ場開発にともない改葬された。そのときに無縁の骨が集められ、一九九四年八月、
左側には碑文がある。そこには大資本による利益追求が安全性を軽視して労働力を確保したこと、戦時下、若者が強制連行され、危険な切羽などで過酷な労働に従事させられたこと、死後、戒名もなく墓石がわりに松岩をおかれたものもあったことなどが記され、犠牲者の冥福をいのり、かれらの復権を求めること、炭鉱の歴史を教訓とし、命の重さを訴えること、再びこのような歴史をくり返さないための墓標としてこの塔を建てたことなどが刻まれている。
筑豊のボタ山周辺には無縁仏がいまも存在しているところがある。日本人の墓地の拡大により、ボタが取り払われ、その上に墓が建てられることもあり、埋葬場所がわからなくなることも多いという。古河下山田炭鉱跡の雑木林のなかにも二〇〇余の無縁墓があるという。市民団体がその一帯の霊園化を求める動きもある。
古河目尾・下山田へ連行された朝鮮人はそれぞれ三〇〇〇人前後とみられる。
H日鉄二瀬炭鉱・「倶会一処」墓
日本製鉄は筑豊に二瀬炭鉱をもち中央坑・高雄坑・稲築坑での採掘をすすめた。連行された朝鮮人は三坑あわせて約五〇〇〇人とみられる。
この「倶会一処」の墓は石松工業横の跡地を入ったところの小墓地にある。近くには九州工大情報学部の建物がある。この一帯には二瀬炭鉱の石炭積込場があったという。
日鉄二瀬炭鉱中央坑については五四五人分の名簿が残っている。一九四二年全北・忠南、四三年忠北・全北、四四年黄海・京畿などから連行された人々の氏名・住所がわかる(『礦員索引』)。
西光院安楽寺の過去帳をみると朝鮮人については住所を記さずに、「半島報国隊員」「二坑半島合宿」「二坑第三高雄寮」とするものが多い。この寺の過去帳からは二〇人分の朝鮮人死亡者を拾いあげることができる。二瀬炭鉱中央坑の収容所は「浩々寮」、高雄坑のものは「高雄寮」とよばれていた。
「倶会一処」墓内の遺骨の現状は戦争と強制労働の歴史を如実に示している。遺骨を入れた骨壷のいくつかは砕かれ、ふたを失った壷も多い。散らばり変色した骨は、消し去られた自らの歴史を語り、その復権をよびかけているように思われた。
I日炭高松・十字架の墓標
日炭高松炭鉱(日鉱遠賀炭鉱)は
日炭高松炭鉱の跡を示すものは現在では数少ない。
日炭高松炭鉱跡地近くの墓地にオランダ兵捕虜を追悼する「十字架の墓標」がある。日炭高松は戦犯調査の折に十字架の塔を建て、免責をはかった。その塔が形をかえて今に至る。現在の碑は一九八七年に
一九八七年九月と八九年十一月に設置されたプレートには日本国内で死亡したオランダ兵捕虜八一六人の名前が刻まれている。名前がわからない無名の兵士もいる。連合軍オランダ人捕虜の追悼の場はこのように整備されている。しかしこの炭鉱へと連行されて死亡した朝鮮人の存在を示すものは全くない。一〇〇人をこえる死者が出たとみられる日炭高松での死者については、大日本産業報国会の作成した名簿から連行初期の二二人の名がわかるが、他は不明である。
J貝島・頌徳碑と復権の塔
貝島大之浦炭鉱では一九一七年から朝鮮人を雇用してきた。この連行前史を示す碑が「頌徳碑」と「謝恩碑」である。この二つの碑は
頌徳碑は大之浦炭鉱第七坑坑長の俵口和一郎の退職にともない、配下だった朝鮮人がかれを讃えて一九二九年に建てたとされるものである。このころの大之浦の朝鮮人坑夫数は約二五〇人、家族は約二〇〇人だった。
謝恩碑は大之浦第七坑での露天掘り終了にともない、朝鮮人たちが貝島会社への「感謝の意」を示して一九三五年に建てたものである。謝恩碑については
謝恩碑の横には発起人・寄附人の名前が刻まれた石柱がある。発起人名をみると洪徳允、河基鎬、李鳳権とあり、世話人には洪鐘泰、朴尚伯、李元澤、李仁鎬、孫鳳雲、孫五用、河基鎬らの名が刻まれている。
大之浦炭鉱の炭住や事務所で現存しているものがある。
中央協和会の史料から連行状況をみると、一九四二年六月までに四三七八人を連行している。石炭統制会京城事務所の統計によれば、一九四三年に二二二一人が連行されている。貝島大之浦は筑豊で一万人をこえる朝鮮人を連行した事業所の一つである。日炭高松炭鉱や麻生鉱業へも一万人をこえる朝鮮人が連行された。
貝島大之浦への連行状況と死亡者については長澤秀「貝島炭礦と朝鮮人強制連行」に詳しく記されている。
復権の塔の後方にはアメリカの労働組合から送られた「すべての国の働く人々は世界の仲間である。かつては孤絶や抑圧があったが、今後には連帯と尊厳があるように」という英文のメッセージが刻まれている。
この塔は強制労働によって死を強いられた人々を含む全炭鉱労働者を追悼し、孤立と抑圧をはねかえし、連帯と人間の尊厳の回復を求める意思を示すものである。塔の上の男女の労働者像は人間疎外からの解放と尊厳の復権にむけて、公園の丘の上から希望をもって彼方をみつめているように思われた。
K
田川や飯塚からの石炭は直方を経て北九州へと送られていった。
館内には図書室があり、石炭関連の図書が多数収められている。ここで基本的な書籍の閲覧や資料調査をおこなうことができる。
L麻生の炭鉱史跡
麻生は飯塚を拠点とし
麻生鉱業へは上三緒に約四〇〇〇人、吉隈と綱分にそれぞれ三〇〇〇人ほどが連行され、麻生系炭鉱への総連行者数は一万人をこえるとみられる。
麻生は天皇の下での労使一体を宣伝していた。労働現場には崇神会などの職場組織をつくり、労働者を統制し搾取した。
『麻生百年史』は一五六〇ページをこえる大著であるが、この百年史の本文には朝鮮人労働者については一言もふれられていない。
後半の寄稿論文が三九年の麻生各坑の朝鮮人数にふれ、筑豊の労働運動の対談のなかで愛宕や山内での朝鮮人のエピソードが語られているだけである。寄稿のエッセイで、森崎和江が三二年の麻生朝鮮人争議(参加者約千百人)についてふれ、遠賀川で光芒を放つ葦を「骨片が養う幻」のようとし、朝鮮人坑夫の失われた生命へと想いをよせている。
百年史の対談でふれられている連行期の朝鮮人についてみておけば、山内では朝鮮人が七割を占めるようになり、睡眠二〜三時間の労働が強制された。朝鮮から青年を直接動員してきて「譲和寮」五棟に入れたが、逃亡率は高まる一方だったという。
金鳳善「麻生吉隈炭坑略図」によれば強制連行された朝鮮人は金剛寮(末広町)と本町の寮に収容された。捕虜収容所は山ノ神の忠霊塔の裏手にあった。
鄭清五『怨と恨と祖国と』によれば、鄭さんは麻生吉隈へと連行されたが逃亡した。この本には飯塚へと連行され性の奴隷とされた朝鮮女性についても記されている。
麻生系での死者数は二〇〇人をこえたとみられる。天皇主義による統制と搾取により麻生は巨利をえたが、そのなかで放置されたままの遺骨は、麻生の労働者酷使の歴史を語り、麻生の現在を問いつづけている。
M住友忠隈ボタ山
筑豊のボタ山の多くが開発によりその姿を消したが、住友忠隈炭鉱のボタ山は今も残っている。
『殉職産業人名簿』をみると住友忠隈へと連行され死亡した八人の名前が記されているが連絡先は全て不詳とされている。このような記述は、かれらが人間として扱われず、ずさんな管理の下で酷使されたことを示している。
住友忠隈炭鉱へは一九四四年一月までに三〇八一人が連行され、その後の連行者数をみると四五年八月までに四〇〇〇人近い人々が連行されたと考えられる。
林えいだい『消された朝鮮人強制連行の記録』には、忠隈の朝鮮人寮の状態を示す姜九声さんの証言がある。
住友忠隈のボタ山は残っているが、連行され死亡した朝鮮人の足跡を示す史料の多くは失われている。
N豊州炭鉱と嘉穂炭鉱
豊州炭鉱への連行者は一五〇〇人ほどとみられるが、連行された安龍漢さんは独白に名簿を作成している。
豊州炭鉱には特別訓練所がおかれていた。そこは逃亡したり抵抗する朝鮮人を送りこむところであり、軍隊式訓練による「大和魂」の注入がおこなわれた。訓練期間は二〇日とされていたが、四〇日〜一〇〇日と延長されることもあったという。
戦後、豊州炭鉱では中元寺川の河底が陥没し労働者六七人が死亡した。死体はいまも埋没したままである。陥没地近くに追悼碑がある(一九六五年建立)。中元寺川の川辺には炭鉱のコンクリート施設跡が残っている。
嘉穂炭鉱跡は
『嘉穂炭鉱史』には「朝鮮人労務者の雇用増大」の項があり、連行状況が記されている。それによれば、一九四〇年一〇月第一次分六九人が連行され、四二年には「定着指導」「家族呼寄」で逃亡を防ごうとし、四三年には朝鮮現地で直接交渉をおこなうようになった、という。
連行された朝鮮人(単身者)は大分坑では若葉寮と他の改造社宅三ケ所、上穂波坑では改造社宅三ケ所に収容された。逃亡が多く土曜には上穂波、桂川、内野駅に見張りを出したが、風呂帰りなどに突然いなくなったという。半ば強制的な就業により朝鮮人の出勤率は九〇〜九五%を示した。『嘉穂炭鉱史』には各年別の朝鮮人数(現在員数)が示されている。それによれば四〇年二七七人、四一年三一五人、四二年八五三人、四三年九八〇人、四四年八六七人である。連行者総数は四千人をこえたとみられる。
小倉
O小田山墓地遭難者追悼碑
八・一五解放をむかえ、連行された人々を含めて朝鮮人の帰国がはじまった。しかし帰郷途上で遭難した人々も多かった。
一九七四年に朝鮮人強制連行真相調査団の調査があり、証言が得られている。その後市民団体の要求によって、市は七〇年代に墓地の一角を無窮花で囲い、九〇年に碑を建立し、九五年に説明板を立てた。
産業地帯である北九州へは朝鮮人が大量に連行されてきた。帰国の際にも門司や若松に多数の人々が集結した。
「東録さん(一九四三年生)によれば、アボジ(父)が日本製鉄八幡工場の下請の組で働きはじめたのは四〇年のことだった。八幡での朝鮮人の仕事は溶鉱炉の高熱のなかで、流れ出た鉱滓を水で冷やして貨車に積み込み、戸畑で埋めたて、海岸に山積みにされた鉄鉱石を四人で手積みにして運搬するという重労働であり、「生き地獄」のような現場であった。
下請組のハーモニカ長屋の住人は全て朝鮮人であり、約六〇世帯が暮らしていた。解放後は三〜四畳の二間に九人の家族が暮らし、山でヨモギ、フキ、セリ、ヌルデなどの山菜取りもしながら生き延びてきた。
「在日がどんな思いで生きてきたのか」「その思いと知識を結びつけていくことが大切だと思う。私は民衆の力を信じている」と「さんは語る。
現在、新日鉄八幡工場の一角はスペースワールドとして観光化され、溶鉱炉は産業遺跡として展示されている。
八幡製鉄の工場へは四五年八月までに約三八〇〇人が連行されたとみられる。入江組などの運搬請負業組合へは一九四二年六月までに二七八五人が連行されているから、四五年八月までには倍増したであろう。八幡製鉄や八幡製鉄運搬請負業組合へと連行された朝鮮人は八千人を超えるだろう。
ここで福岡県特高史料、厚生省勤労局史料、協和会史料などから北九州の工業地帯で朝鮮人を連行した企業をあげておけば、日通博多支店、日通博多港支店、日通若松支店、博多港運、日本製鉄八幡、三菱化成牧山工場、同黒崎工場、黒崎窯業、九州兵器、日本鋼業、日立製作所戸畑、同若松、大日本乾溜工業、日華二ツ菱組、東海電極製造、大林組二島工事、日本製鉄八幡港運、日本曹達、日華油脂、宇部興産小倉、磐城セメント、浅野セメント、栃木造船若松、昭和鉄工、小倉製鋼、多々良製作、鉄道小森江工場、小倉造兵廠など、多数におよぶ。
北湊地区には朝鮮人集住地が残っている。黒崎には朝鮮初級学校があるが、この学校の壁に描かれた卒業制作品にペンキを吹きかける事件が一九九九年におきている。越えていくべき差別の壁はいまもある。
若松湊には観光用に沖仲仕の労働を再現する「ごんぞう小屋」が建てられ、一九四〇年代の労働を示す写真も掲示されている。しかし労働の過酷な実態や朝鮮人の強制労働については記されていない。
P 飯塚・無窮花堂
同実行委は現在も放置されたままの遺骨を収集し追悼することをめざし、一九九五年に結成された。九六年には
実行委は四〇〇体の遺骨を収納できる追悼堂の建設をすすめてきたが、二〇〇〇年一一月、納骨堂(無窮花堂)が完成した。その後、周囲に強制連行、強制労働の史実を記す壁を製作する活動がすすめられ、二〇〇二年に歴史回廊が完成した。
実行委代表の「来善さんは一九二一年生れ、全南高興郡の出身。四三年に川南工業浦之崎造船所へと連行された。暴力に抗議したところ伊方警察署に送られ拷問をうけた。父の死を理由に帰郷するが再び連行され、貝島大辻炭鉱に送られた。収容された納屋の一部屋は約一〇畳、そこに一五人が押しこめられ、竪坑の支線の最先端で石炭採掘を強制された。給料は支払われず、炭鉱内に拷問による悲鳴や呻き声がこだましていた。四四年二月、脱出に成功し、佐賀、熊本、福岡などの飛行場建設現場を経て原田の陸軍壕掘削現場で解放を迎えた。
「さんは共に連行された同胞を想い、放置された遺骨の送還と追悼の活動をとおして戦後処理をすすめたいと考えている。そしてこの活動によって正しい歴史認識のもとでの友好がすすみ、無窮花堂が文化の拠点となることを願っている。
今回、納骨された四一体を納骨時に調査したところ、遺骨の一部が三菱鯰田、日鉄二瀬、久恒炭鉱のものであることがわかった。前述のように二〇〇一年七月には遺骨一体が益山市の遺族のもとへ返った。二〇〇二年五月には実行委員会を中心とする市民交流団が益山市を訪れた。
実行委員会は二〇〇四年に無窮花堂友好親善の会となった。また朝鮮人強制動員真相究明筑豊委員会が結成され、
今後の遺骨収集と平和友好にむけての活動がすすみ、この堂が文化の発信拠点となることをねがう。
*
協和、大和、愛汗、陽信、鉄心、浩々、親和、譲和、日親、清和、若葉、富士・・・、これらは連行された人々が収容された「寮」の名前である。美辞麗句で示されている収容所では、天皇に忠誠を尽くす人間へと朝鮮人を統制し、自由を奪い奴隷的労働を強制することがおこなわれた。それに対し「特高月報」や「社会運動の状況」などの記述にあるように争議や逃亡などの抵抗がたえなかった。連行された人々はそこで自己の生命をみつめ、未来を想い自由を求めた。
筑豊の炭鉱地帯への連行者は約一五万人とされる。この数字は福岡県の事務引継書や特高史料などからも妥当な数であるが、はっきりとした死者数はわからない。現存史料から朝鮮人死者数を拾いあげ死亡者名簿を作成したところ、六〇〇人ほどの人数となった。さらに情報公開などで収集されたものをあわせると一〇〇〇人をこえた。
筑豊で死を強いられた朝鮮人の数は数千といわれるが、死亡者が増加した四四年・四五年の時期の死者については不明の炭鉱が多いため、正確な名簿が作成できない。
いまも残る炭鉱史跡や遺骨、のちに建てられた追悼碑は民衆が自らの精神をたかめ、多数の死の原因を問い、死者の恨を解き放ち、人間の復権にむけて平和な文化を形成していくことをよびかけているように思う。
ここでは炭鉱史跡と追悼碑をみながら、朝鮮人強制連行について考えてきた。未調査地も多いが、それらの調査については今後の課題である。この調査は一九九九年、二〇〇〇年にかけておこなった。
最後に、筑豊での朝鮮人強制連行に関する文献について紹介し、今後の真相調査の参考資料としたい。
参考文献
厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」(福岡県分)一九四六年(三菱鯰田、三井三池万田、中津原、振興、眞岡、宝珠山各鉱の名簿を含む)
中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」一九四二年(朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』所収)
石炭統制会文書「主要炭砿給源別現在員表」「給源別労務者月末現在数調」一九四四年(長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』一 緑蔭書房 一九九二年所収)
内務省警保局「特高月報」「社会運動の状況」(朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』四・五 一九七六年所収)
福岡県特別高等課「労務動員計画二依ル移入労務者事業場別調査表」一九四四年一月末(福岡県『県政重要事項』一九四四年七月所収の特高課「移入半島人労務者二関スル調査表」内の文書)
福岡県『事務引継書』一九四五年一〇月
明治炭礦労働課『雇人異動簿綴』(一九三九年分)、日鉄二瀬中央坑『礦員索引』、「貝島炭鉱殉識者名簿」、『安楽寺過去帳』、貝島炭礦『事故報告書』、「明治赤池炭礦殉職者名簿」、明治礦業『変災報告書』『明治鑛業所労務月報』(以上、林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』朝鮮人1 明石書店 一九九一年所収)
員島炭礦会社文書『重役会議事録(一)(二)』(抜粋)、解題・長澤秀(『海峡』一九朝鮮問題研究会二〇〇〇年所収)
明治平山坑「朝鮮人坑夫移入人員推移表」(田中直樹『近代日木炭礦労働史研究』草風 一九八四年)
北海道炭礦汽船「徴用労務者五月輸送状況報告ノ件」(北炭『朝鮮募集関係』一九四五年)
電気化学大牟田工場・三池染料工業所「朝鮮人労務者徴用調」「死亡者調査表」、三井三池炭鉱「死亡者調査表」(戦後、朝鮮人団体に報告した書類、三井三池・三池染料工業所・電化大牟田分)
大日本産業報国会『殉職産業人名簿』一九四二年ころ
三菱鉱業セメント社史編纂室『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント 一九七六年
三菱鉱業『飯塚礦業所年表』三菱鉱業 一九五八年
麓三郎『三菱飯塚炭礦史』三菱鉱業 一九六一年
麻生百年史編纂委員会『麻生百年史』麻生セメント 一九七五年
明治鉱業社史編纂委員会『社史』明治鉱業 一九五七年
日鉄嘉穂炭鉱史編纂委員会『嘉穂炭鉱史』日鉄鉱業嘉穂鉱業所 一九六七年
朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』明石書店 一九九〇年
朝鮮人強制連行真相調査団『一九七〇年代の朝鮮人強制連行真相調査の活動』(復刻)一九九二年
筑豊石炭砿業史年表編纂委員会『筑豊石炭砿業史年表』田川郷土研究会 一九七三年
全国交流集会九州編『九州の強制連行』全国交流集会九州実行委員会 一九九九年
金鳳善「麻生吉隈炭坑略図」(青丘歴史文化研究会作成資料所収)
武富登巳男「いま炭坑遺跡は・私の案内記」(『戦争と筑豊の炭坑』所収)海鳥社一九九九年
武富登巳男・林えいだい『異郷の炭鉱』海鳥社一九九九年
林えいだい『清算されない昭和』岩波書店 一九九〇年
同『夜香花・兵士庶民の戦争資料館』燦葉出版杜 二〇〇〇年
同『消された朝鮮人強制連行の記録』明石書店 一九八九年
同『強制連行強制労働』現代史出版会 一九八一年
同『地図にないアリラン峠』明石書店 一九九四年
同『朝鮮海峡』明石書店 一九八八年
長澤秀「貝島炭礦と朝鮮人連行」(『青丘学術論集』一四 韓国文化研究振興財団 一九九九年所収)。
鄭清正『怨と恨と故国と』日本エディタースクール出版部 一九八四年
上野英信・趙根在『アリラン峠 写真筑豊万葉録 筑豊九』葦書房 一九八六年
金光烈『田川地方における石炭山と朝鮮人労働者』岡まさはる長崎平和資料館 一九九九年
服部団次郎『沖縄から筑豊へ』葦書房 一九七九年
「百萬人の身世打鈴」編集委員会『百萬人の身世打鈴』東方出版 一九九九年
芝竹夫『炭坑と強制連行』筑豊塾 二〇〇〇年
芝竹夫「大峰炭鉱関係過去帳調査報告」
森岡武雄・蔡晩鎮『はるかなる海峡』空知民衆史講座一九八二年
森本弘行「田川嘉穂地方に残る石炭産業遺産について」(
横川輝雄「福岡県における朝鮮人強制連行」(「同」六)一九九四年
「東録「同胞の歴史の証に 大牟田馬渡記念碑除幕」(『パトローネ』二九号)一九九七年
李鐘泌『私の見てきた大分県朝鮮民族五〇年史』一九九二年
山田昭次「筑豊炭田の朝鮮人強制連行」(梁泰昊『朝鮮人強制連行論文集成』明石書店 一九九三年所収)
新藤東洋男『赤いボタ山の火・筑豊三池の人びと』三省堂 一九八五年
新藤東洋男『三井鉱山と中国朝鮮人労働者』人権民族問題研究会一九七三年
大城美知信・新藤東洋男『三池大牟田の歴史』古雅書店一九八三年
中川雅子『見知らぬわが町一九九五 真夏の廃坑』葦書房 一九九六年
西成田豊『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』東京大学出版会 一九九七年
田中直樹「第二次世界大戦期における朝鮮人『移入』労働者について」(『日本大学生産工学研究報告B』二六−一所収)一九九三年
『燃える石』大牟田の歴史を考える会 一九九〇年
武松輝男編『三池炭鉱の発展と支配と鉱害』古雅書店一九七九年