伊豆特攻基地建設
一 第一五突撃隊基地建設
二 第一六突撃隊基地建設
アジア太平洋戦争末期、日本は敗北を重ねていくなかで「特攻」を計画した。各地に「特攻」用基地を含めて「本土決戦」用基地が建設されていった。水上での特攻兵器として「震洋」が採用され、水中での特攻兵器としては「回天」「海竜」「蛟竜」などがつくられていった。
各地に建設された特攻基地をみてみると、九州では鹿児島・宮崎、四国では高知、本州では伊豆と房総半島に集中している。
特攻基地建設では地下壕が掘られているケースがほとんどであり、建設のために兵士や軍属、朝鮮人が多数動員されている。朝鮮人の動員状況をみれば、沖縄では陸軍輸送部隊(船舶司令部部隊・暁部隊)の「特設水上勤務部隊」へと約三千人が連行され、荷役や特攻用壕掘りに動員された。
一九九〇年代の調査によって、四国では高知県宇佐、柏島、香川県小豆島、徳島県小勝島、椿泊などでの朝鮮人連行が確認され、九州では大分県大神での連行が確認されている。
基地建設の全国各地での建設状況については特攻基地建設状況図、各地での朝鮮人の連行調査については、文末の参考文献を参照してほしい。
一 第一五突撃隊基地建設
静岡県内の特攻基地は伊豆半島に集中している。
基地は沼津市江ノ浦、戸田村戸田、土肥町土肥、賀茂村安良里、西伊豆町田子、南伊豆町長津呂、南伊豆町小稲、下田市和歌ノ浦、東伊豆町稲取、熱海市網代などにつくられた。各基地に一〇〜三〇の壕が掘られている。伊豆半島に掘られた特攻用基地の壕の数は二〇〇本をこえた。
伊豆半島のほかに県内では清水市三保、
伊豆半島に配置された特攻部隊の編成は、西伊豆が第一五突撃隊(本部は江浦)、伊豆の最南端の長津呂(石廊崎)を含めた東伊豆が第一六突撃隊(本部は下田)だった。
震洋の配備状況をみてみると、一九四五年五月に小稲、六月に石廊崎・清水、七月に和歌ノ浦・稲取、八月には江浦へと配備されている。安良里と田子への配備は計画のみだったようである。
海竜の配備先は和歌ノ浦、田子、戸田、江浦、蛟竜の配備先は江浦、戸田、回天の配備先は土肥、江浦、網代である。蛟竜については配備計画でおわった。
沖縄戦での敗北にともない、米軍の上陸作戦が想定され、伊豆半島は「本土決戦」にむけての特攻基地とされ、最前線となっていったわけである。
防衛庁防衛研究所図書館には第二復員局関係史料があり、この史料のなかの米軍への「引渡目録」にはおおくの軍事基地の図面が含まれている。そのなかの「突撃隊引渡目録」には第一五突撃隊の基地の図面がある。また「嵐部隊引渡目録」には第一六突撃隊の基地などの図面がある。嵐部隊とは突撃隊の別称である。
以下これらの突撃隊関係史料と現地調査から伊豆の特攻基地の建設状況をみていきたい。
江浦
江浦から多比にかけては蚊竜、震洋、回天の基地がつくられ、二七ケ所の壕が掘られた。口野には回天と震洋の基地がつくられ、一五ケ所の壕が掘られ地下指揮所もつくられている。重寺には海竜と震洋の基地がつくられ、二〇ケ所の壕が掘られた。重須には海竜の基地がつくられ、一二ヶ所の壕が掘られた。重須の湾には一六隻の海竜が配備されていた。
特攻基地としてはこの江浦の四地区の壕は伊豆半島で最大の規模である。敗戦から半世紀を経たいまもこれらの壕の多くが現存している。
江浦の静浦ドッグ(現沼津マリーナ)は潜水艇の基地とされ、静浦ドッグの北側の民家はたちのきを強いられた。そこに格納壕が掘られていった。現地での証言によれば、ここには海竜が配備されている。海竜が配備されるとドッグ周辺の「防諜」がつよめられた。江浦や口野への入り口の道には海軍の兵士が番兵にたち、出入りする者を検査した。沼津からのバスは江浦に入ることを禁止され、江浦の手前の獅子浜で折りかえし運転になった。海竜用レールがひかれると車の通行も禁止された。住民には証明書が発行され、常時携帯が義務づけられた。隣の地区へ行くときもその証明書をみせないとスパイ扱いされた。静浦ドッグの看板ははずされ、「護国五三四一工場」とされ、ドッグの労働者は「護国五三四一義勇隊員」とされた(田中勇「当時の江浦の状況と空襲」『忘れまい沼津大空襲・第一集』所収)。
江浦での基地建設にともない「嵐部隊」(突撃隊)が配備された。「嵐部隊」の本部は口野港の船揚場近くにおかれた。その土地は東京麻糸紡績沼津工場の社長の土地であり、そこを新井石材が管理していたと新井数馬さん(七八歳)はいう。新井さんによれば建設状況は以下のようになる。
嵐部隊は何百人もの大部隊だった。将校は一〇人ほどいたが、その人たちはいまの狩野川放水路のところにいた。兵士は寺や学校に配置された。現・東洋醸造の倉庫になっている石切りでできた洞窟のなかに居住した兵士たちもいた。本部へは皇族の中将も視察にきた。そのときには本部の周囲を憲兵が監視していた。
口野の辺の人たちは石屋がおおかった。新井石材が使っていた人数は五〇人ほどだった。その人たちも壕掘りに動員された。嵐部隊の仕事を工作隊がうけてツルハシで掘りすすんだ。兵士はうまく掘れないし危険がともなうので、専門の石屋が掘り方や落ちてくる石からの逃げ方を指示した。壕は江浦、多比と口野の境、重寺、重須に掘られた。
工作隊のなかには朝鮮人もいた。作業は昼夜交代、寝ないでの作業だった。食糧不足のため兵士たちは腹をすかしていた。畑へ入って盗み、そのため上官に大きな棒で殴られていた。上の者はいいものを食べていたが、兵隊がいちばんあわれだった。この辺の石は、当時コンクリートが不足していたから、浜松の航空基地の滑走路用にも出していた。嵐部隊へと東伊豆から海中電線も引かれていた(沼津にて、一九九五年談)。
江浦多比の基地跡が沼津マリーナ周辺に残っている。マリーナの北側の山に一二本の壕が掘られた。新道建設のために数本がコンクリートでふさがれているが、道路の横の斜面をみると周囲の色調とはことなる四角の部分があり、壕の存在を知ることができる。民家の裏にも壕が残っている。これらは蛟竜用格納壕である。
古代遺跡である江浦横穴群にむかう道がある。その入口近くの民家の壕内には「昭和二十年六月十六日治作工四キオレ」という文字が残っていた。住民によれば「壕があるために湿気が多い。近くこの壕はとりのぞかれる」とのことだった。この壕は燃料庫として掘られくの字形をしている。
周辺でのききとりによれば、壕は軍の嵐部隊によって掘られた。腹をすかした兵士たちが畑の大根やさつまいもをとって苦情が出たため、兵士らは立たされ体罰をうけたという。
これらの壕から東にむかって小道をいくと五本の壕がある。倉庫がわりに使われているものもあり、壕の側面には茶色くさびた太い釘が残されていた。支柱跡が残っている壕もある。これらの壕では魚雷のエンジンをかけていたという。これらの壕は魚雷格納庫である。
多比船越のバス停の北側にある二本の壕は回天用格納庫である。ここからレールが引かれ、海岸に回天用の斜路がつくられた。
多比第一トンネルから海にむかって突きでた山には、震洋と回天の格納庫が掘られた。二本の壕が残っている。海岸には震洋と回天の斜路がつくられた。
多比と口野の境に狩野川放水路があるが、この放水路の西側の山に二つの出入り口をもつ指揮所兼電信室がつくられている。また回天用の壕と斜路もつくられた。現・昭和シェル石油の配送センターの敷地内に、指陣所の入り口があるがコンクリートでふさがれている。入り口には電気用部品が残っていた。ヤマハのマリンセンターの裏側にも壕があり、倉庫として転用されている。はまぐりセンター近くの民家の奥には回天用の壕が残っている。狩野川放水路の口野隧道のあたりに震洋用格納壕が掘られている。この格納壕は指揮室兼電信室と同様の形をした地下室であったが、放水路建設にともない所在は不明である。
嵐部隊本部のあった口野港を経て重寺に入り、淡島にむかう橋を右手にみながらカーブをまがると左手に壕跡がある。重寺には二〇本の壕が掘られているが、道ぞいにみえる壕は海竜用格納壕である。民家の裏側に壕が並んでいる。内部が一部くずれている壕もあるが、入口はコンクリートで固定され、五〇年を経たいまも当時のままである。ここからレールが引かれ、海岸に斜路がつくられた。淡島マリンパークの寮の裏には、魚雷調整庫用の壕が二つ残っている。
これら海竜用壕から道をへだてた西側の山には震洋用の壕が掘られた。内海漁業作業所の裏側にあたる船の係留地は、かつて震洋用斜路だった。
内浦小海でのききとりによれば、「軍工作隊がきて壕を掘った。兵士たちは学校、寺、旅館に泊まった。食べるものが不足し、漁でとれた生いわしを食べたりした」とのことだった。
重須は海竜の基地とされた。重須浜の弁天には爆薬庫が掘られた。この壕は民家の裏側に残っている。海竜用格納壕は四本掘られた。長井崎トンネルの建設により一本はくずされたが、三本がトンネルの右側に残り、倉庫として利用されている。ここからレールが浜へと引かれていた。魚雷発射格納庫、燃料庫がヨット駐車場内に残っているが、金網がはられている。
現地調査によって、壕の掘削が嵐部隊のもとで工作隊によっておこなわれたこと、付近の石屋が動員されたこと、朝鮮人がいたことなどの証言をえることができた。動員された人々の食糧は不十分であり、昼夜の労働を強いられた。聞き取りでは兵士が空腹であったことと兵士への暴力的制裁を語る人がおおかった。
戸 田
戸田には沢海(海竜用)と御浜(蛟竜用)の二地区に特攻基地がつくられた。
沢海には二三本の海竜用の壕が掘られた。そのうち二本は崩壊し四本が未完のうちに敗戦となった。海竜の格納壕の長さは二五〜四〇メートルのものが予定されていたが未完成だった。
御浜には蛟竜用の一〇本の壕が掘られた。この基地も未完成だった。数ケ所の壕が残っている。
基地建設の状況について現地でのききとりによれば、一九四五年二月末に物資が戸田小に運びこまれた。校舎は兵士の宿舎になった。子どもたちは村内の寺院へと分散した。横須賀鎮守府から海軍中佐がきて陣地構築の交渉をした。陣地作業の主力は四二〇人ほどの岡崎第二海軍航空隊の一五〜一八歳の予科練の生徒だった。海軍設営隊も動員された(山田曼さんによる、一九九五年談)。
海軍設営隊にはおおくの朝鮮人が徴用されているが、戸田に動員された部隊内の朝鮮人の状況については不明である。
土 肥
土肥の特攻基地は通り崎の一帯につくられた。土肥では回天用の一四本の壕が掘られた。
現・桂川シーサイドホテルの前の遊歩道を降りていくと電信室、爆薬庫跡とみられる壕がある。
ききとりによれば海軍の潜水艇を土肥の大和館と屎尿処理場の辺でつくり、周辺には柵をはり内側をみせないようにして秘密作業をしていたという。
一九四五年三月から四月にかけて海軍清水航空隊から三〇〇人が基地建設に派遣されている(中村英雄『清水三保青春の雄叫び』)。
回天の格納庫の大きさは幅三メートル、高さ三、五メートル、長さ五八メートルであり、この壕は二本掘られた。居住施設は未完成だった。
安良里
安良里には震洋の特攻基地がつくられた。漁船の係留地から藤高造船にかけての山に壕が掘られた。民家の裏に七〜八ケ所の壕を確認できる。森本造船近くにも壕が掘られた。掘られた壕の数は二一本である。
このうち震洋用格納庫の大きさは幅三メートル、高さ二、五メートル、長さ二八メートルであり、一四本が掘られている。
田 子
田子には震洋と海竜の特攻基地がつくられた。 田子での基地建設は一九四五年三月から六月にかけておこなわれた。岡崎海軍航空隊(安達隊)が動員されて基地建設をおこなっている(『史跡が語る静岡の一五年戦争』)。陸軍船舶司令部部隊(暁部隊)の基地もつくられた。
壕は三六本掘られた。海竜の格納壕の大きさは幅四メートル、高さ四、五メートル、長さ三八メートルであり、四本掘られている。震洋の格納壕の大きさは幅三メートル、高さ二、五メートル、長さ二八メートルであり、一四本掘られている。海竜の引接装置は未完成であった。
震洋用の斜路が現・飯作造船所、海竜用斜路が現・田子造船所のあたりにつくられた。震洋用格納壕は飯作造船所から港にむかって右側の山に掘られていった。田子の港を東から西へとすすんでいくと、残っている壕をみることかできる。
陸軍暁部隊には多数の朝鮮人が動員されている。田子に動員された部隊にも朝鮮人が含まれているとみられるが、詳細は不明である。
妻 良
南伊豆町妻良も「本土決戦」にむけての出撃基地として整備がすすめられた。子浦地区には海軍警備隊や陸軍潜水輸送部隊、暁部隊が駐屯した。
子浦の西林寺には横須賀海軍警備隊(桑原隊)が一九四五年三月ころ派遣されてきた。この部隊は朝鮮人を含めた混成部隊であった。約八〇人が西林寺に泊まって壕の掘削をした。寺の忠魂碑近くでツルハシを研いだ。壕は境内に三本掘られ、二本は寺の裏側、一本は寺の南側に掘られた。南側の壕は内部で曲かり、浜へと抜けていく形で掘られ、内部に銃器や無線をおくという計画であった。現在、境内に小泉策太郎の墓があるが、その墓の奥に壕が残されている。寺の裏側に掘られた壕は埋められて残っていない。壕掘りで出された土が寺の池を埋めた。
八幡神社には陸軍潜水輸送部隊の兵も泊まった。暁部隊の上陸用舟艇の基地もつくられた。西林寺対岸の浜の近くには上陸用舟艇を隠した壕も残っている。入江には木々で偽装した潜水艇が配備された。陸軍潜水輸送部隊は下田を拠点に妻良(子浦)と稲取におかれていた(西林寺・土屋光明さんによる、一九九五年談、梅原貞夫・好代『伊豆半島の空襲戦災年表』による)。
「本土決戦」にむけて特攻基地建設以外にも海軍警備隊や陸軍暁部隊などが動員された。妻良では朝鮮人軍属を含めての動員があった。妻良以外の場所でも朝鮮人が軍属として基地建設に動員されたとみられる。
以上が、伊豆半島の第一五突撃隊関連の基地である。
清 水
第一五突撃隊の基地は清水にもつくられている。
清水市三保にあった海軍清水航空隊の北西の浜(現海水浴場)にコンクリート製の壕がつくられ上に土がかぶせられた。このような形の震洋用格納庫が一二ケ所つくられている。三保の震洋基地建設の実態については今後の調査課題である。
御前崎
御前崎の下御崎につくられた特攻基地についてみてみると、三一本の壕の掘削が計画された。
下御前の七軒ほどの家が軍の宿舎となり、住民は強制疎開させられた。壕掘りは軍属によっておこなわれたという。震洋用の斜路ができる前に敗戦となった。戦後、壕内の補強用木材をとりだして使ったため壕は崩壊し、いまはない。
壕の掘られた場所は「急傾斜地崩壊危険地域」に指定され、壕の跡付近に東大地震研究所の観測点がおかれている。
壕の崩壊地から駿河湾がみえ、海のかなたに富士と伊豆半島が眺望できる。この御前崎の特攻基地の建設は西伊豆の基地とともに駿河湾への米軍上陸を想定してすすめられた。
新 所
静岡県西部、浜名湖の西側の湖西市新所にも特攻基地がつくられている。この基地は第一三突撃隊に属していた。特攻基地の壕が掘られたのは、湖西市新所の女河浦付近である。湖岸に接する小高い山に浜名海兵団によって壕が掘られたという。戦後、壕に利用されていた木材を撤去したため、いまは崩れて跡形もない。
小石まじりの女河浦の浜を歩くと、ざくざくという足音とともに穏やかな波音が聞こえる。海苔が打ちよせられるこの女河浦一帯にかつて軍用壕が掘られていた。
新居には浜名海兵団の基地があった。四五年に、浜名海兵団は浜名警備隊となり、横須賀鎮守府から大阪警備府の指揮下に入った。浜名警備隊は伊勢・伊良湖・御前崎・網代に各分遣隊を派遣し陣地構築をおこない、
敗戦後の九月から十月に浜名海兵団へと朝鮮・台湾出身の兵がそれぞれ二百人ほど送られてきた。朝鮮出身の兵は解放状況のもと、さまざまな要求をかかげて活動したようである(杉浦克己『艦砲射撃のもとで』四二頁)。
新居におかれていた海軍施設部や海兵団内にも朝鮮人が編入されていたとみられるが、詳細は不明である。浜名海兵団に台湾からの動員者がいたことはあきらかになっている。
なお、浜名海兵団の建物位置表示図・地上及沿岸防備施設図が第二復員局史料「『阪復』静岡県区内接収関係」のなかに収められている。
二 第一六突撃隊基地建設
つぎに第一六突撃隊の特攻基地についてみていきたい。
長津呂
伊豆の南端、長津呂(石廊崎)に震洋の特攻基地がつくられた。石廊崎港の駐車場北側にある商店の裏側と港の東側の遊歩道ぞいの山に壕が掘られた。遊歩道を歩いていくといくつかの壕をみることができる。観光店の駐車場に二つ、トイレの裏に一つ、港入口に二つ、さらに民宿の横に大きな壕が一つある。観光店の裏にも二つほどあったようである。引渡目録の図面をみると、一一箇所の壕が掘られている。石廊崎には横須賀海軍警備隊の特設見張所がおかれた。燃料格納
壕や発電機室が作られている。この石廊崎の海軍警備隊にも朝鮮人軍属が配置されていたとみられる。
建設に従事した人々は付近の家に分宿していた。
現地での聞き取りによれば、人間兵器の特攻基地として掘られ、予科練生が訓練していたという。村人は立入禁止であり、戦後、船を燃やし関係資料を海に沈めていた。徴用された三〇〜四〇歳代の人が若い将校にどなられ、青竹でぶん殴られていた。壕は火薬をつめて発破し、掘りすすんでいた。徴用された人々は村の家を借りて住んだ。村人は工事をみていたが、あんな将校にイモなんてやれるかと語りあい、徴用された人々にイモを分けてやったという(民宿龍宮にて、一九九五年)。
小稲・手石
南伊豆の石廊崎から大瀬を経ると弓ケ浜に至る。弓ケ浜の西側の湊地区の手石と小稲に特攻基地がつくられた。荒波が飛び散る小稲の検潮所にむかう途中、漁協の建屋の奥に七本の壕をみることができる。秋山造船の裏にも三本の壕がある。一本は貫通しているという。
聞き取りによれば海軍の佐野部隊・嵐部隊がきていたという。四五年より前からの建設であったという。引渡目録をみると、二三箇所の壕がある。
手石港・弥陀の岩屋にむかう途中にも壕が残っている。 防波堤に立つと四本の壕が水面にそって並んでいる。壕の入口には「菅原邦夫・岩本博・稲葉□夫・杉原一人」の字が刻んであった。岩壁にそって岬にむかっていくと小さな砂浜があり、入口がコンクリートで固定された比較的大きな壕がある。入口近くに「飛練四十期・轟沈 昭和二〇年五月」と刻まれていた。
聞き取りによれば、工事は早くからはじまり、軍の工作隊がきていた。手石の対岸の盥岬にも壕がある。当時軍は住民にみえないように覆いをして建設していたという。
小稲・手石の基地建設には予科練生も動員されている。予科練生のみならず海軍の設営隊の動員もあったとみられる。
この基地への震洋の配備は四五年五月のことであり、伊豆では最も早い配備である。本土決戦を想定して、工事も早くからとりくまれていたようだ。
和歌ノ浦・柿崎
下田の和歌ノ浦につくられた特攻基地跡をみてみよう。下田には第一六突撃隊の本部がおかれた。本部がおかれたのは一九四五年三月末のことであり、同じころ、藤沢海軍航空隊所属の抜井部隊が派遣され、和歌ノ浦周辺に特攻艇用の壕を掘りはじめた。七月には震洋、八月には海竜が配備された。敗戦後、これらの特攻兵器は占領軍によって破壊された。柿崎にも特攻用の壕が掘られた。引継目録をみると和歌ノ浦には一九の壕が掘られ、戦闘指揮所も作られている。柿崎には一五の壕が掘られている。
下田は四五年三月末、陸軍潜水輸送部隊(暁第一九八九六部隊)の基地にもなった。この部隊は下田の鍋田湾を拠点とし、下田と八丈島・新島の輸送を担当している。
砲兵隊の配備もすすめられ、須崎には洞窟式の砲台が建設されていった。和歌ノ浦・鍋田浦一帯は軍によって住民の立入が禁止された(『海鳴り 昭和の戦争と下田』)。引渡目録には下田の防空砲台関係の図面もある。機銃陣地用の壕が三箇所作られ、兵器の格納庫、弾薬庫、機銃庫、送信室なども作られている。これらの工事には朝鮮人も動員されたとみていいだろう。
和歌ノ浦の現・水族館駐車場の左右の山に壕が残っている。壕は大浦の海岸や柿崎にもあるという。駐車場の右側に五ケ所、左側に四ケ所の壕をみることかできる。一部は物置にされている。海岸ぞいの格納庫からレールが引かれていたという。現在では波打ち際に遊歩道がつくられ、壕の上部が露出している。
この工事に従事した伝道昭さんによれば、工事のために海軍抜井部隊が配置され、山田旅館を本部にして工事にあたり、兵士は寺に収容されたという(広島県在住、一九九五年談)。
一九四五年六月一〇日の八時一五分ころ、下田の了仙寺と理源寺が空襲をうけた。了仙寺には第二八突撃隊員が集合していたため多数が死傷している。理源寺本堂には朝鮮人二〇数人が泊められていた。これらの朝鮮人も多くが死傷したという。
当時、理源寺内に留守番として家族と住んでいた松田ふじ江さん(一九二七年生)はつぎのようにいう。
「当時本堂に二〇人くらいの朝鮮人がいた。空襲の一ケ月くらい前から来たと思う。朝仕事に出ていき夕方帰ってきた。監督者が来て交代で連れていったようだった。皆若く二〇歳代だった。話す言葉はわからなかった。理源寺の本堂は直撃をうけて全壊した。一人の青年がアイゴーアイゴーと叫んでいた。国もちがうのに連れてこられてみじめだった。朝鮮人にやたらにものを言ってはいけないといわれていた。防空壕から忘れ物を取りに行った養父もこのときに亡くなった」(河津にて、一九九八年談)。
朝鮮人の死傷者の数はわからない。陸軍・海軍の本土決戦用部隊の位置からみて理源寺の朝鮮人はこれらの部隊の基地建設に動員されていた可能性が高いといえるだろう。動員された朝鮮人は軍属としてあつかわれていたとみられる。死傷者の管理は軍がおこなっただろう。動員先、死者数、遺体の行方などはわかっていない。
稲 取
稲取での震洋基地建設は一九四五年三月からはじまっている。基地は稲取港の北側にあたる向井地区につくられた。一二世帯が強制的に建物を撤去され移転させられた。
壕の構築作業は海軍設営隊(八田隊)によっておこなわれた。縄地や蓮台寺の鉱夫や石屋も徴用された。八田隊約一〇〇人は東町の正定寺に泊まった。この基地の秘密保持のためにさらに三〇世帯の強制疎開がおこなわれ、監視がつよめられた(東伊豆町老人クラブ『歴禍』)。
海軍設営隊員や動員された鉱夫のなかには朝鮮人が含まれていたと思われるか、詳細はわからない。縄地や蓮台寺鉱山に朝鮮半島から強制連行された朝鮮人がいたことはあきらかになっている。
一七世紀前半におこなわれた江戸城修築用の石が、向井地区の民家の前に二つ置かれている。この家の裏側の斜面はコンクリートで塞がれているが、ここに壕があった。この辺一帯に七〜八本の壕が掘られたという。これらは震洋用の壕と武器庫だった。さらに大川に沿って居住用の壕が掘られた。引渡目録によれば一七個の壕が掘られている。
岬にある赤屋ホテルの付近には「高崎部隊」が配置され、大砲陣地が構築され壕も掘られたと住民はいう。引渡目録をみると、特攻用壕の上部に機銃陣地壕がひとつ、ホテルの付近には二箇所の陣地壕が作られていたことがわかる。
網 代
熱海市網代には回天の特攻基地がつくられた。網代港の西側にある小山臨海公園内に南熱海マリンホールがある。その入口の向い側の山に数本の壕が残っている。壕のひとつは東大地震研究所下多賀地震測定所としていまも利用されている。旅館平鶴からマリンホールにかけて回天基地の壕が掘られた。レールも引かれていたという。引渡目録によれば六個の壕が掘られ四個が回天用格納庫だった。
熱海では一九四四年ころから笹良ケ台付近で軍の陣地建設(壕掘削)がはじまり、この工事に住民が動員された。桃山台でも陣地構築がおこなわれた。引渡目録には網代の水平砲台の図面がある。
来宮には陸軍暁部隊(船舶工兵第二二連隊)の本部がおかれた(『熱海歴史年表』)。暁部隊は伊東港を拠点に網代・宇佐美・川奈などに配置されていた。
陸軍船舶兵とされて伊豆へ連行され朝鮮人もいた。「朝鮮人陸軍軍人名簿」から金岡漢明、河鄭基賢、洪雲鶴の名前を拾い出すことができる。
真 鶴
神奈川県真鶴にも特攻用基地がつくられた。
真鶴港の宮前地区、ニッサンマリーナマナヅルの近くの山に地下壕が二つ残されていた。海竜用壕と思われる。他に貴船神社の崖下にも壕が残っているという。
真鶴での朝鮮人については石切り労働や築港での動員が記録されている(神奈川と朝鮮の関係史調査委員会『神奈川と朝鮮』)。真鶴で採られた石は横須賀軍港や厚木飛行場などの海軍基地建設に利用された。特攻基地建設への動員もあったのではないか。この貴船神社下の陣地の構築作業は沼津の工作隊がおこなったという(神奈川歴史教育者協議会『神奈川の戦争遺跡』)。
真鶴で採石に従事していた朝鮮人は一九四五年八月一六日に宿舎に集まりマンセーマンセーと町を練り歩いた。真鶴の人々はその姿に新しい時代の到来を思い知らされたという(『真鶴町史』七六三頁)。
以上みてきたようにアジア太平洋戦争末期県内には伊豆半島を中心に各地に特攻基地がつくられている。
三 特攻基地跡と現代
陽光のなかの伊豆は黄と緑と青と赤の原色で分割して描くことができるようだった。伊豆の特攻基地跡を歩きながら、戦争末期のこれらの壕口が語りかけていることはいったい何なのだろうと考えた。特攻用壕の暗い穴はみるものに対して平和にむけて考えていくことを訴えているように思う。
日本の帝国主義は愛国心をもって人間をあやつり、侵略戦争へと総動員した。生命を天皇の国家のためになげすてることが美徳とされた。諸個人の生命の尊重は否定され、天皇の国家への隷従を強いられた。
特攻基地など本土決戦用基地の存在はこのような生命の隷従と収奪を象徴している。特攻兵器とその基地は日本の帝国主義戦争の末期的症状とこの国家の当時の人間観をあますところなく示している。国家が人間から人間性を奪い、青年たちを人間兵器に改造した歴史をこれらの基地跡は語りつづけている。これらは『海ゆかば』とうたわれたような、天皇のために死んでいく姿を賛美した時代を象徴する史跡である。
これらの基地建設に動員されたのは海軍施設部隊、陸軍暁部隊、予科練生徒などの軍人軍属や住民であった。伊豆での特攻基地建設においては十分にあきらかにされてはいないが、各地で朝鮮人が動員されていたとみられる。江ノ浦と妻良では朝鮮人動員を示す証言をえることができた。下田では動員された朝鮮人の爆死証言があった。全国での調査では、特攻基地建設現場への朝鮮人連行があきらかにされつつある。
特攻基地など本土決戦用基地の歴史は、民衆を奴隷化して身体ごと使いすて、それを「英霊」として賛美した棄民の歴史である。これらの基地のいくつかは「皇民化」によって朝鮮人を強制連行した天皇の国家の搾取と犯罪を示すものでもある。
それは人間が非人間化された歴史であり、沖縄戦にみられるようにこの戦争がけっして大地と民衆を守るものではなかったことを物語っているように思う。
このような時代を支えた精神は形をかえていまも生き残りうごめいている。それらの精神は「国益」や「民族の誇り」をかかげて偽りの歴史を宣伝し、天皇を核心としながら死を賛美している。そこでは脆弁が弄され、強制連行をふくめて戦争犯罪の究明については語られない。真実をあきらかにし、過去のあやまりに学ぼうとする意味での人間の方向性がない。
このような歴史を隠蔽し偽造する力にたいし、特攻基地跡に刻みこまれた血と汗の歴史から学んでいくことはおおい。無告の壕口から人間の方向性についてききとっていきたいと思う。
伊豆に残る特攻基地跡を調査しながらこのような想いが断片的に頭のなかをよぎった。