東京麻糸紡績沼津工場・女子勤労挺身隊
一 東京麻糸紡績沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊裁判
一九九二年一二月、韓国釜山市などの元日本軍「慰安婦」と元女子勤労挺身隊の計一〇人が、日本に対し公式謝罪と賠償を求めて三次にわたり山口地裁下関支部に提訴した。この訴訟は釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟といい、略して「関釜裁判」と呼ばれている。この裁判の原告のなかの三人は静岡県沼津市にあった東京麻糸紡績沼津工場へと連行された朝鮮女子勤労挺身隊の元隊員だった。
関釜裁判の経過をみると、一九九八年四月の地方裁判所の判決では「慰安婦」原告に一部勝利の判決が出された。それは元「慰安婦」被害者に対する戦後の国の立法不作為を認めるものであった(下関判決)。しかし、二〇〇一年三月には広島高等裁判所は元「慰安婦」原告に対して逆転敗訴、元勤労挺身隊原告に対しては全面棄却の判決を出し、二〇〇三年三月、最高裁判所が上告を棄却したため、この裁判は敗訴となった。
この裁判がすすめられていた一九九七年四月には、東京麻糸沼津工場に連行された二人の女性が静岡地裁に提訴した。この裁判を東京麻糸紡績沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟という。
一九九七年七月に原告の意見陳述がなされたが、国側は事実の認否を拒否した。九八年四月の第四回口頭弁論で裁判長が認否を求めても、国側は拒否を続けて資料の提示もおこなわなかった。一九九九年に入り、原告の意見陳述、学徒動員者や学者による連行についての証言、最後の原告の口頭弁論がおこなわれた。二〇〇〇年一月に地裁判決が出されたが、この判決は事実の認定さえおこなわないものであった。原告は控訴するが、二〇〇一年に学者証人と本人への尋問がおこなわれ、二〇〇二年一月に控訴棄却の判決が出された。原告は上告したが、最高裁は二〇〇三年三月にそれを棄却した。この三月には関釜裁判や東麻裁判など六つの戦後補償要求裁判がいっせいに棄却されている。
韓国内では二〇〇四年に発足した日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会による調査がすすめられ、二〇〇八年には同委員会によって『「朝鮮女子勤労挺身隊」方式による労務動員に関する調査』が出された。そこには強制動員の概略が記されるとともに東京麻糸紡績沼津工場関係の四人の証言が収録されている。このほかにも市民団体や研究者によって証言が収集されている。
ここでは裁判と糾明委員会などの調査のなかで明らかになったことがらをまとめていきたい。
東京麻糸沼津工場と朝鮮人
東京麻糸紡績が設立されたのは一九一六年のことであり、沼津工場は翌一九一七年に開設された。東京麻糸紡績沼津工場は一九二〇年代後半から朝鮮の女性を三ヵ年契約で募集し、寄宿舎に入れて低賃金、深夜労働で酷使した。一九二九年二月、朝鮮人の寄宿舎からの火事で朝鮮の女性たちが焼け出された。会社は見舞品として櫛一本と草履一足を与えたのみで見舞金は出そうとしなかった(岩崎光好『東静無産運動史』六九頁〜)。
『静岡新報』一九二九年二月二三日付をみると、寄宿舎は二〇畳敷の広間が一階・二階の計一〇室あり、収容されていた朝鮮人女工の数は一二四人、舎監は朝鮮人の尹粉伊(三〇歳)であると記されている。
一九三〇年代に入ると、麻糸の軍需用受注が増えて工場は拡張された。東京麻糸紡績は一九三九年には満州麻工業を設立、一九四二年には南方からの資源の収奪をすすめ、一九四四年には三菱商事と連携した。東京麻糸では一九二〇年代から朝鮮人を使用してきたわけであるが、一九三九年に強制連行が始まると東麻沼津工場への朝鮮女性の連行もおこなわれた。
厚生省調査名簿によれば、一九三九年に四五人、四〇年に五〇人、四一年に一七四人、四二年に二〇〇人、四四年には三〇二人の計七七一人を連行した。
中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」には、一九四〇年の鹿沼製糸、広島大和紡績、倉敷絹織への連行が記されている。また郡是製糸や内海紡績、昭和紡績への連行もすすめられていった。
内海紡績への連行については金世国さんの証言がある。証言によれば、一九四〇年三月、金さんは小学校卒業直前に担任教師に呼び出され、動員を指示された。一九四〇年四月はじめに平安北道から一〇〇人(少年二〇人・少女八〇人)が内海紡績へと連行された。内海紡績では麻を使って艦船用のロープを生産していた。そこで一年の「実習」を経て、新義州の工場へと転送された(金世国証言『証言集二告発』三五頁〜)。
このような形での連行がその後も各地ですすめられていったとみられる。
ここで紡績生産の現場についてみておこう。紡績とは繊維をより合わせて引き伸ばし、糸を生産するというものである。その職場は、繊維を解きほぐす精練、繊維の束を一定の方向にそろえる練条、繊維の束を引き伸ばして撚りをかけ太い糸状にする粗紡、糸を一定の長さに伸ばして必要な太さや弾力のある糸にしていく精紡、この糸から布を織る織布などに分かれている。
東京麻糸紡績沼津工場は一九四四年二月に軍需工場に指定され、労働者数は三五〇〇人に増加した。朝鮮人女性の数は四〇〇人ほどになった。東麻ではこのころ軍用テント・袋・カバーや軍用機の翼用布などを生産していた。一九四四年になると朝鮮の女性たちが「女子勤労挺身隊」の形で連行されるようになる。その数は三〇〇人を超えるとみられるが、工場は一九四五年七月一七日の空襲で焼失し、朝鮮の女性たちは駿東郡小山町の富士紡小山工場へ転送された。
連行が始まった頃の証言としては、金福萬さんの証言がある。金さんは慶南梁山郡出身、一九三八年ころ(当時十一歳)、面の役人の甘言と暴力で連行され、解放までの7年間、東京麻糸沼津工場で過酷な労働を強いられたという(「朝鮮新報」二〇〇七年十二月十二日記事)。
また、一九四一年ころの連行については金文善さんの証言がある。それによれば、金さんは一九四一年ころ、一六歳の時に慶南統営の巨済島で募集された。沼津には二五〇人ほどが連行された。金さんは、麻を蒸して洗って干すという精練の現場にまわされ、大きな機械の前にたって三交代で働いた。精練は水仕事できつく、ホコリもひどかった。何枚も重ねた布を一日中鋏で切る現場に回されたこともあるが、そのときの労働のために右手の指二本は今も曲がっている。あこがれて日本に行ったが、がっかりして逃亡した。友人と三人で逃亡し、二回目に成功した。一度目は年上の友人の知り合いが富士宮の山奥でやっている飯場に行ってご飯炊きなどをしていたが、工場の人が探しにきて連れ戻された。会社には三年半ほどいた。解放前に、身を寄せていた知り合いの家で紹介された人と結婚した。相手も一九歳の時に募集され日本に来た人だった(「川崎の在日一世ミニ生活史」川崎在日コリアン生活文化資料館・聞き書き事業報告)。
東麻への一九四三年二月ころの連行についてみれば、鎮海から連行された「甲先さんへの聞き取りがある(小池善之「戦時下朝鮮人女性の動員」所収証言)。
それによれば、「さんは一六歳の時に、役所で動員の割り当ての紙を示され、契約は二年といわれた。鎮海から釜山・下関を経て沼津工場へと三五人が連行された。最初の日は工場見学だった。連行された三五人の職場は別々だった。「さんの仕事は巻かれた糸を赤い箱に入れて織布現場へと運ぶことだった。朝六時起床、七時三〇分から午後五時か六時まで働いた。朝起きると朝鮮人だけで軍隊式の訓練をさせられた。二年間のうち一度だけ外出許可を受けて、おかゆのようなものを食べた。外出は三〜四時間だけ許された。「さんは下関まで行き、そこからは一五人が乗った小さな船で韓国に向かい、三日間漂流した。船の穴からの浸水を汲みだしながら、やっとのことで蔚山に着いた。一八歳のときに帰国したが、友人は結婚して幸せに暮らしていた、という。
余舜珠『日帝末期朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究』にも、一九四三年二月ころに鎮海から連行された女性からの聞き取りがある。
それによれば、連行されて三日間の軍隊式訓練を受けるとすぐに働いた。寄宿舎一部屋に一五人ほどがいた。仕事は機械で糸を引き抜くことだった。居眠りをしたり、体が悪くて座って休むと班長にひどい目にあい、便所に行くのにも許可を得なければならなかった。仕事中、手首を傷つけて病院で縫った。日本人女性が夜間作業中に帽子がローラーに吸い込まれて死んだことがあった。空襲で避難したとき日章旗を踏んだといって日本人から容赦なく叩かれた。富士紡小山工場に移動しても空襲に悩まされた。賃金は一円も貰えず、貯金したという話も聞いていない。舎監の五二歳の女性が、逃亡して捕まった少女をひどく叩くのみならず、平素から「この女ども、私の言うことを聞かねば身体を売らせるぞ」と暴言を吐き、「こっそり外出すれば叩き殺される」と怖がっていたという。
この証言からは、このころに連行された一六歳ほどの女性たちが人身売買を脅迫され、撲殺されるかもしれないという恐怖のなかにいたことがうかがえる。この鎮海からの連行の証言は一九四二年度分の連行が翌年にかけてなされたものとみられる。
二 朝鮮女子勤労挺身隊の連行
このような連行がすすむなかで、朝鮮少女の労働力動員が制度化され、一九四四年八月には女子挺身勤労令が出された。すでに春ころから朝鮮女子勤労挺身隊としての軍需工場への連行がすすんでいた。紡績関連工場のみならず兵器工場へと、勉強もできるといった甘言によって、一二〜三歳の少女を募集し、挺身隊として軍事的に組織化して連行していったのである。
このころの動員に向けての記事が『毎日新報』に連載された『戦う半島女工 東京麻糸○○工場訪問記』(一九四四年三月一五、一六、一七日)である。そこには、生産第一線の女兵、内鮮一体での増産、殉国精神、生産戦に敢闘、二四時間敢闘、職場の戦友愛、生産決戦場、舎監老女工が陣頭へ、工場即学校、裁縫や家事の教授といった言葉が並ぶ。
この記事から工場労働の一端をうかがうことができる。工場には加工・練糸・織機・仕上などの職場があった。東京麻糸には三〇年の朝鮮人使用の歴史があり、一九四一年から二年契約の集団募集を始めた。担当者は三好といい、青年学校の責任者でもある。日本人の女性が見回りをする。舎監は釜山出身の「松山」といい、一八歳で渡日し、福山の紡績工場で働き、一九二七年に沼津に来た。舎監は女性たちを直接指導し、戦力増強に向けての労務管理をおこなっている。工場の標語には「この手を緩めれば戦力が減退する」、「職場を守れ、愛の家族」がある。朝鮮の女性たちは皇国女性、女子産業戦士とされ、神社参拝、正座、国語学習によって日本式の生活を教育される。出身は慶南の密陽、梁山、統営、金海などであり、年齢は一三歳から二〇歳未満、国民学校出身は二割である。休日は一ヶ月に二回だが、それを返上して機械の前に立って仕事をすることが美談とされている。朝鮮女性の編成をみると、甲班は午前五時から午後二時、乙班は午後二時から夜中の一一時までとされている。また、昼鮮班があり、午前七時から午後五時まで仕事をし、その後に青年学校で「協和読本」などを読む。
この記事は東京麻糸への女子勤労挺身隊が組織されていったころのものであるが、これらの表現から、生産現場の軍隊化とそのなかでの非人間的な労働をうかがい知ることができる。後の証言でみるように、勉強は全くおこなわれなくなる。
この記事に記されている労働時間は実態とはかけ離れているものであり、深夜の長時間の労働についての詳細は記されてない。実際には一〇時間から十二時間の労働もおこなわれ、深夜労働による交代制労働によって工場は稼動していた。
金文善さんの証言にあるように、実際は「あこがれてきたが、がっかり」というものであり、甘言・詐欺による集団的強制動員がおこなわれていくのである。
朝鮮人女性の証言
ここで一九四四年の春に女子勤労挺身隊として連行された人々の証言からその実態をみていこう。
東京麻糸沼津工場へと連行された李英善、姜容珠、鄭水蓮さんらついては、関釜裁判での「意見陳述」や「最終準備書面」からまとめてる(『関釜裁判判決文全文』『強制動員された朝鮮の少女達』所収)。
禹貞順、゙甲順さんについては、東京麻糸沼津工場裁判での「訴状」、「準備書面」、「意見陳述」、原告の証言などからまとめる(東京麻糸紡績株沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊訴訟を支援する会資料と聞き取りによる)。
朴君子、オイルスン(仮名)、金ドクジョン、金ナミの四人については『「朝鮮女子勤労挺身隊」方式による労務動員に関する調査』(日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会)からまとめていく。
はじめに関釜裁判の原告の証言をみてみよう。この三人は釜山から連行者である。
李英善さんは一九三一年四月生まれ、当時慶尚南道釜山の有楽国民学校六年生だった。創氏改名により、岩本栄子となっていた。校長と担任は「勤労挺身隊として工場に行けば給料をたくさんやる。勉強もさせてやる。韓国の女はみんな行くことになるのだから、どうせ行くのなら一番に行ったほうがいい。二年の満期だ」などといって勧誘した。先生の言葉は神の言葉と信じていたので、行くことを決意した。両親に話せば絶対反対されると思い、行くことが決まってから両親に話した。一九四四年四月ころ、担任に引率されて旅館に集まった。一泊の後、連絡船で下関に渡り、そこから汽車で東京麻糸沼津工場に着いた。
朝五時に起床し、朝食をとり、掃除をしてから出勤した。寄宿舎は一〇畳ぐらいで一二人くらいが一緒にいた。外出は許可が必要だった。食事は主にサツマイモで量が少なく、いつもおなかを空かしていた。両親といるときには食事に困っておなかを空かしたことはなかったのに、夜になるといつもおなかが空き、家族を思い出して泣いた。始業時間は午前七時ころから、終業は午後七時ころまでで一二時間働かされた。仕事は綿状になった麻の繊維を電動の心棒にまきつける仕事のなかの、ローラーに巻きついた繊維を取り除く作業だった。腹をすかして一日中立ちっぱなしで力仕事強いられ、辛くて毎日泣いた。
辛いときにはつぎの数え歌を歌った。「一つとや、人も知らない静岡の、麻糸会社は籠の鳥。二つとや、二親別れてきたからは、二年の満期を勤めましょう。三つとや、皆さん私の事情を見て、哀れな女工さんと見ておくれ。四つとや、夜は三時半に起こされて、(以下不明)。五つとや、いつも見回り言うとおり、心棒遅れず綿を取れ。六つとや、向こうに見えるは沼津駅、乗って行きたいわが故郷。七つとや、長い間の散る涙、流しているのも国のため。八つとや、山中育ちの私でも、会社の芋飯食い飽きた。九つとや、ここで私が死んだなら、さぞや二親嘆くでしょう。十とや、とうとう二年の満期が来、明日はうれしい汽車の窓」。
空襲が数日に一回はあるようになり、空襲警報が鳴るたびに防空壕に逃げ込み、爆弾で怪我人が出たこともあった。四五年七月一七日には空襲で工場や寄宿舎が燃えた。爆弾の大きな音におびえ、田んぼの水に浸かったり、岩場に隠れたりして避難した。このときの空襲の爆弾の音や恐怖からいつも頭痛がするようになった。焼失により、富士紡小山工場に移された。戦争が終わると日本人たちは幼い私たちを残していなくなり、家に帰れない状態になった。給料は、貯金しておいて帰るときに渡すと工場長に言われていたが、一銭も貰わず、勉強もさせてもらえなかった。空襲にあったときのままの姿で船に乗って帰郷した。鼻緒が切れた下駄をぶら下げて、オンマー(お母さん)といって家に入った。現在夫と息子と三人で暮らしているが、今も頭痛に悩まされ、全身のあちこちに痛みを感じ通院している。
日本は戦争中に犯した非人道的な犯罪に責任を負うべきであり、言い訳も無視も許されない。良心ある謝罪を期待する。
姜容珠さんは一九三〇年一二月生、当時慶尚南道釜山の有楽国民学校六年生、創氏名を河本ハナ子とされた。担任が日本の工場に働きに行くことを勧め、「これからみんな順番で行くようになる。どうせ行くなら先に行ったほうが給料も多いし、勉強もゆっくりできる。立派な寄宿舎生活ができる」などといった。先生を神様のように思っていたのでどこに行くのか知らなかったが、勤労挺身隊に入ることを担任に承諾した。日本に行くことが決まった後に両親に告げたところ、両親に大変叱られた。
東京麻糸へと動員され、激しい労働と空腹と空襲の恐怖のおびえながら日本国民として働かされ、一銭も貰えず戦争が終わると朝鮮人として捨てられた。工場では糸巻きに巻きつける途中で切れた麻糸を紡ぐ作業をした。一日一二時間働かされ、いつも腹をすかして一日中立ちっぱなしだった。大変苦しく辛い毎日だった。仕事中になんども地震や空襲に襲われ、生まれて初めての体験だったので非常に恐ろしかった。空襲によって麻糸の建物のほとんどが焼失したので富士紡小山工場に移された。戦争が終わり、仕事をしなくてよくなった。外出許可を貰って数時間外出していたら普段はしまっている鉄の門が開いていて、寄宿舎には誰もいなくなっていた。誰もいない工場にいるのが怖くなり、泣きながら外に飛び出し、あてもなくみんなを探した。五〜六〇歳の朝鮮人の男性が同情し家に連れて行き、一ヵ月後その男性の家族とともに汽車で下関に行き、船で釜山に戻った。船の中で怪我をしたが止血しかできなかった。父母はみなが帰ってくるのに戻ってこないため、死んだのではと心配し、泣き暮らしていた。波止場に父が迎えに来た。
給料は一円ももらっていないし、勉強もさせてもらえなかった。小山工場では一人はぐれてしまい、一人でさまよい歩いた。息子は脳出血のため働けず、今は息子とその家族を抱え、夫が残してくれた借家の家賃で暮らしている。あの時失った健康は今でも体を苦しめている。勤労挺身隊として動員され、朝鮮人ゆえに捨てられた人々に対し、正しい意味での謝罪と補償を求める。
鄭水蓮さんは一九三一年一月生、かの女も有楽国民学校の六年生であり、姜容珠さんと同じ組だった。創氏改名によって「東本」の姓にされた。父母は入隊に泣いて反対したが、担任の先生が日本人だからとなおさら信頼し、先生の話は聞かなくてはと思い承諾した。姜容珠さんらとともに連行され東京麻糸に来た。沼津の駅前には楽隊が来て出迎えの式をして、三〇分くらい歩いて工場に行った。仕事は糸状になった麻の繊維を電動の心棒に巻き付ける作業だった。日本が幼い自分たちを動員し、天皇に忠義を誓わせ愛国者として奉りたてておいて、賃金も支払わず、朝鮮人として捨てたのか、どうしても理解できない。
以上が関釜裁判の原告の証言のまとめである。
つぎに東麻裁判の原告の証言をまとめてみよう。この二人は昌原と鎮海からの連行者である。
最初に゙甲順さんの証言をみてみよう。゙甲順さんは一九三〇年一月生まれ、慶尚南道昌原郡上南面の出身。゙さんは次のようにいう。
家庭は父が農業をし、人も使う中農だった。兄弟姉妹は六人だった。上南国民学校では日本語が使われ、日本語を使わないと全員が罰を受けた。自宅では朝鮮語を使っていた。四〇年ころ創始改名によって、「夏山」という姓になった。父母は怒ったり悲しんだりしていた。幼い心にも失望感を持った。父は卒業するころ四九歳で亡くなった。
母は父を失い六人の子を抱えていた。私は小学校六年を出て家事の手伝いをしていた。学校を出たばかりだったが、面の書記が尋ねてきた。国民学校も出て日本語も読める、二年満期の挺身隊で働く、日本に行って働く、甲順が該当すると令状のようなものを示していった。母は驚き、行かせないと断った。再度、面書記と刀を持った巡査が来て、娘を出さないと長男の喜甲を徴兵すると脅した。長男は馬山中学を出ていたが家にいた。母は涙を流して仕方がないと泣く泣く承諾した。私は一三歳だった。母のやり取りを横で見ていた。ひとつ上のいとこは兄がいなかったので母方の祖母のうちに身を隠して逃れた。隣の邑でも先輩と後輩が兄の身代わりとなった。
そのころ父の服喪のため白い服を着ていたが、その姿で鎮海の邑事務所に連れて行かれた。同じ年頃の五〇人ほどが集められていた。兄の代わりに日本に行くが、どこにいくのかわからなかった。鎮海駅から汽車に乗ったが、釜山の慶尚南道の道庁(現釜山高等法院)で総勢一〇〇人くらいになった。わたしも他の少女も泣いていた。役人が、泣くのをやめなさい、あなたたちの父母は保護するから心配しないで行きなさい、といった。注意事項を聞かされ、関釜連絡船に乗った。船酔いに苦しんだ。船で会社の国防色の制服、女子勤労挺身隊産業戦士のタスキをかけられた。
指示されるままに、下関から汽車で沼津に行き、東麻工場に着くと、運動場に役員が並んでいた。そこは軍需工場であり、麻糸を茹でて飛行機用の布をつくっているということだった。爆撃されてここで死んでしまうのかなと思った。会社は「お国のために働く工場」といっていた。寄宿舎は月の寮七号室だった。一二人が同じ部屋で畳は一二畳ほどだった。部屋長は背も高く体の大きな年上の人だったが、私は体も小さく弱かった。布団一枚に二人で寝た。
身体検査ののち、精紡課へ配属された。機械の前に一二人の女子が立ち、上からの糸を直した。悪い糸をはさみで直し、切れた糸をつなぐという仕事で、立ちっぱなしの大変な仕事だった。足が痛く足が腫れてしゃがみこんだこともあった。座っていて見回りの日本人に見つけられるとひどく叱られ、「朝鮮人は仕方がない」と差別的侮辱を受けた。生き地獄だった。運が悪いと機械に手を挟まれてケガをした。一緒に来た隣の邑の二人は精練課にまわされ、黒い長靴を履いて茹でた麻を水の中で踏みながら濯ぐという重労働だった。四時半ころに起床し、運動場で朝礼、愛国歌や勤労挺身隊の歌を歌わされた。五時半から六時の間に食事をしたが、大豆や麦のご飯と味噌汁に漬物で、自宅の食事とはまったく違った。六時か六時半ころから仕事、一二時間労働だった。休めなかった。夕食は七時か八時ころだった。遅番の時には夜の一〇時か一一時ころになった。給与の話はなかった。
冬は寒く、右手にはしもやけの跡が残っている。寮も寒く暖房がなかった。防空壕に駆け込む訓練もおこなわれた。靴を履いたまま眠った。故郷の母に手紙を書いたが、寮長の検閲があり、仕事については秘密にする命令があり、本当のことが書けなかった。安心させるために元気ですと書いた。
警戒警報が何度も出され、工場が爆撃された。そのとき足のすねをいためる怪我をして、痛みは今も消えない。四五年七月の沼津大空襲の時には布団をかぶって逃げた。寄宿舎は焼けてしまい寝泊りできなくなった。
集団で小山工場に汽車で行った。仕事は二交代で綿を織ることだった。富士山は哀れな私たちを励ますかのようだった。八月一五日、天皇の放送があった。長い悪夢から覚めてやっと帰れる、これで故郷の帰れると喜んだ。数日して責任者の引率で故郷に帰ることになり、新潟から釜山に送られた。日本に連行した責任者が同行した。船の中で旅費を渡され、これまでの積立金を賃金として自宅に送って支払うというので住所と氏名を書いた。渡されたお金で切符を買った。母は、九死に一生で帰った私を喜んで迎えた。その後東麻からは一銭も送ってこない。日本に問い合わせたくても、李承晩・朴正熙の時代にはできなかった。
帰国後、鎮海女子高等学校に編入した。朝鮮戦争が始まる直前、二二歳のときに結婚した。夫には勤労挺身隊のことは話したことはなかったが、長女が生まれたころ、行ったことがあるのかと聞かれた。反日の雰囲気が強い時期であり、英語の教師だった夫はそれを嫌い、「日本に協力した不潔な女」といって殴り、子どもは引きとるからと別居を求め、結局離婚することになった。別居中に長男が生まれ、その子は私が引き取り、保険の外務員などをしながら苦労して育て、大学も出した。
挺身隊として連行されたことを夫が知って暴行され、親類縁者も夫の側に立って離婚させられた。今、息子と娘がいるが、一生傷を抱いている。誰もわかってくれない。結婚しても不幸だった。骨が折れるほど働かされた。五〇年以上待ってきた。話をすれば涙が出て、心臓が張り裂けるようだ。今は心臓病を患っている。一年前には胃がんの手術を受けた。治療費がかかるが、収入はほとんどない。長兄が、若いとき代わりに挺身隊にいってくれたことを恩に感じ、生活費を援助してくれている。元挺身隊員は「慰安婦」だったと誤解されるのを恐れ、罪人のように生きている。
五〇年以上前のことだが、目の前に鮮やかによみがえる。苦労は語りつくせない。虐待され酷使され賃金さえもらえない。奴隷のようだった。自分が不幸に思えて仕方ない。熱い涙をおさえることができない。日本は何を考えているのか。こういった気持ちを日本人に言わずにどこに訴えればいいのか。経済大国といっているが、日本は産業戦士として働かせた財貨を返せ。これ以上延ばさないでほしい。祖先が解決していない問題の責任を痛感して正当な代価を支払ってほしい。年老いた弱き者を助けてほしい。
日本政府に訴える。幼い少女が命がけで働いた賃金を生きているうちに受け取りたい。それで胸の痛みの一万分の一が慰労されるくらいだが、すぐに支払え。積極的に対処してほしい。一九ヶ月間の未払い賃金を支払ってほしい。責任と使命を持って願いを聞け。あの当時天皇と為政者たちの犯した過ちを問うている。正しい判断を信じている。七五歳目前となり、残った命はどれくらいかわからないが、恨みを抱いて死ぬ前に解決を求める。
以上が゙甲順さんの証言である。その後、゙さんは亡くなった。
次に禹貞順さんの証言をまとめてみよう。禹貞順さんは一九二九年五月生まれ、慶尚南道鎮海市慶和洞の出身。禹さんはいう。
五人姉妹の二番目だった。創氏改名で「新山」とされた。鎮海の慶和国民学校を卒業すると高等科に進学した。家は貧しく、朝鮮人は私だけで、食事のときにもからかわれて中退した。女子青年団で防空訓練などをさせられた。
当時一四歳だったが、東京麻糸への連行は残酷な仕打ちであり、過去をたどると限りなく悲惨だった。一九四四年三月ころ、青年団が持った国民学校での集まりに東京麻糸紡績沼津工場の幹部二人と鎮海邑の事務員が来て、会社の紹介をした。会社の写真を見せ、富士山も見える、昼は産業戦士として働き、夜には勉強ができる、施設は最高のもの、二年の満期と勧誘した。学校にも行け給料ももらえる、故郷に帰ると土地も買えるといわれたため、一四〜五歳の五〇人が皆志願するといった。勉強ができると思い、姉の手を振りはらって志願した。両親の承諾書はなかった。
邑の事務所に集められ、鎮海駅から釜山に行った。昌原・金海・密陽・釜山などからも連れてこられ、一〇〇人が集められた。道庁で知事が、君たちは産業戦士となり故郷にお金をたくさん送れる、特別待遇であり一生懸命仕事をするようにと訓示して激励した。連絡船内で東京麻糸の職員から服・帽子・鉢巻・タスキをわたされ、タスキには女子勤労挺身隊と書いてあった。船中では救命具を抱えていた。下関には医者や看護婦がいた。汽車に二四時間ほど乗って沼津工場に行った。
月の寮五号室にはいったが、一二畳に一五〜六人が生活した。身体検査の後、甲班・乙班に分けられた。甲班になり、粗紡第三工場に配置され、後に第二工場へと移動した。乙班は雪の寮で、七時くらいからの仕事だった。一四歳の幼い娘が働かされた。つらい毎日だった。一日一〇時間から一二時間の労働だった。麦の混じったおこげのご飯でいつも空腹で、食事が足りなかった。いつになったら腹いっぱい食べれるのかと思った。韓国に手紙を書いた。母からあとになって聞いたが、姉が粉を煎って作ったものを送ってくれた。それを水に溶いて食べた。姉は夜寝るとき、日本にいった貞順はどこに行ったのかと泣いていたという。私も故郷を思い出しながら泣いた。
約束された勉強についての説明はなくうそだった。勉強を目的に来たが、それはなく、防空訓練の説明があっただけだった。日本人にだまされたと思った。食事は粗末でいつも空腹の状態だった。外出は八時三〇分まで、点呼の時間に寮に入った。大きな麻糸の塊三〇個を、二回に分けて一五個ずつ荷車に積み上げて、粗紡から精紡課に持っていった。わたしは背も高く体格もよかったから荷車を一人で押した。日本人よりつらい重労働だった。一度に一五個を精紡に運んだ。今でも腕が痛く、重いものを左手で持ちあげられない。遅番と交代するまで一二時間の仕事だった。機械の横に生産量を測る時計があり、数字の確認をされ催促され、叱られた。生産性が悪いと「朝鮮人」と罵った。どんなにやっても見回りは怒鳴ったり、叱ったりした。少しでも座ると厳しく叱られた。工場は埃っぽかった。冬の工場は暖房がなく寒かった。凍傷になり、今でも再発する。日本人も働いていたが私たちのほうがつらい仕事だった。何よりも差別がつらかった。
一九四五年の七月中旬に爆撃を受けた。舎監が逃げろといった。川のほうに走り、木の陰に隠れて避難した。運動場に一人二人と集まってきた。命からがら一人の死者も無かったが、工場はすべて焼け、食堂だけが残った。食堂でつくった白いご飯のおにぎりをはじめて食べた。その後富士紡小山工場に連れて行かれた。木綿の力仕事をした。食堂で昼飯を食べていると、天皇の放送があり、日本人は泣いていたので、戦争が終わったことがわかった。故郷に帰れると思いうれしかった。わたしたちは「さらば鎮海よ、また来るまでは」といった歌を歌ったり、跳んだりはねたりした。
その日からご飯を腹いっぱい食べ、休みを取ることができた。日本は灰の山となり、韓国へ帰ることになった。他の人は履くものも無かったが、服を支給されて新潟から帰った。船には、杉山さんと工場の人がついて来た。
そのとき、名前を呼び、現住所を書きとめ、旅費を渡し、稼いだ金は貯金してあり国に帰ったら送るという話だった。しかし五〇年たった今も会社からも国からも連絡は無い。生活が困難で女学校にいくことはできなかった。戦後、体験を自由に語ることはできなかった。挺身隊に行ったと聞くと「慰安婦」と間違えられ、男たちは避け、結婚もままならない。三〇歳をこえて結婚できた。今も連行された五〜六人と連絡があるが、夫に隠して生きてきた。故郷に帰っても妹たちのために進学はできなかった。
沼津や静岡はこんなに発展した。日本は第二の故郷でもある。腕が曲がるほど働いたのに、勉強もできず、給料も受け取れなかった。一日も早く支払ってほしい。私たちが死ぬのを待っているような日本人の気持ちがまったくわからない。問題の本質を見極め、過去を反省する国民であってほしい。
以上が、裁判のなかで明らかにされた女子勤労挺身隊員の連行と労働の状況である。
つぎに韓国で収集された証言をみてみよう。以下の四人は鎮海、釜山、晋州からの連行者である。
朴君子さんは、一九二八年生まれ、慶南鎮海の慶和国民学校を卒業し、一九四四年五月ころに東京麻糸に連行された。
一六歳のときに慶和国民学校に集められ、募集の話を聞いた。一年後輩と一年先輩も集められた。募集に応じることになり、庁舎に集められ、進一旅館に泊まった。釜山に行くと釜山、金海、昌原などからに人々を含め、二〇〇人ほどになった。消毒を受け、連絡船に乗り、下関で会社の幹部と舎監の出迎えを受けた。
鎮海は軍港都市であり、日本人も多く、子どものころ日本人と遊ぶこともあり、日本語ができた。工場から看護学校に通い、看護と産婆の資格を取って、工場の看護員に配置された。看護員は五人いたが、二人が朝鮮人だった。工場では怪我をする人があり、それを看護した。しかし、挺身隊員としてきていたため、月給はなかった。
工場は朝、昼、夜の三交代制だった。甲、乙、丙の3班に分けられた。力のある人は長靴をはいて麻を煮て洗う現場に行った。親戚が面会に来て、そのまま工場を抜け出す人もいた。それまでに動員されてきた人は貧しくて弟たちを勉強させるために来た人が多く、字を知らない人もいた。空襲によって沼津工場が破壊されると小山の工場に移された。そこで工場で事務と書記をしていた姉さんらと三人で工場を抜け出して逃亡し、下関に行った。船の切符が二人分しか取れず、一人残ったが、下関で叔父さんと出会った。そこで八.一五を迎えたが、友人たちのことが気がかりで小山工場に戻り、友人たちと帰国した。
連れて行かれるときの会社の話は、お金が稼げ、夜間中学にも通えて勉強もできる、日本見物もできる、何もかもよいというものであったが、それは嘘であり、騙されて行った。給料は何ももらえなかった。
オイルスンさん(仮名)は一九二八年生まれ、鎮海の慶和国民学校を卒業して海軍施設廠で給仕をしていた。創氏名は「伊原マキコ」だった。
一九四四年四月の土曜に校長が慶和国民学校の校庭に卒業生を集めた。校長は、東京麻糸の工場や学校の写真を見せ、「朝鮮では進学したくてもできない人が多いが、東京麻糸という工場で昼に働けば、夜は中学校課程を受けさせてくれる」という話をし、「内鮮一体」について語った。当時、学校に行きたかったが、進学の道は閉ざされていた。日本に行けば中学校の課程を勉強できる、二年間、いう話を聞き、勉強に行きたい、学校の先生になりたいという思いから、施設廠を辞め、行くことにした。
学校での勧誘によって、先輩の卒業生からは七人ほど、卒業したばかりの後輩からは二二人、伊原さんらの学年からは三六人中一二人が募集に応じ、四〇人ほどが東京麻糸の工場に行くことになった。
鎮海の庁舎で書類を書き終え、近くの進一旅館に泊まったが、そこに一〇人ほどの上南国民学校からの募集者も来た。鎮海から釜山に向かい、旅館に泊まり、翌日の午前に小島で消毒され、午後連絡船で下関に向かった。船内で日本式のモンペに着替えさせられた。腕に徴用の腕章をつけるように言われたが、皆は拒んだ。すると今度は「挺身隊」の腕章をつけるように言われたため、言い争いになった。上南国民学校の子は出発時から鉢巻をして挺身隊の腕章をつけてきていたが、慶和の子は挺身隊の話は聞いていなかった。下関で混雑し、列車に乗るための目印として必要という理由で腕章をつけさせられた。下関では「東京麻糸女子挺身隊歓迎します」の旗で迎えられた。夜の七時頃列車に乗り、翌日の午後二時頃に到着した。工場の塀は刑務所のように高く、そこに「女子挺身隊歓迎」のプラカードが掲げられていた。
寄宿舎は二階建てで五棟あり、二つが朝鮮人用だった。一部屋は一〇畳ほど、二〇個の部屋があり、最初は一部屋に一〇人が入り、後に再配置された。二年前に来た姉さんたちが満期になるとのことだったが、解放を迎えるまで一緒だった。空襲で工場が焼失し、小山工場に向かうときには姉さんたちは半分以上がいなくなった。乙班に入れられ、九号の室長になった。粗紡の現場に配置された。体格のいい姉さんたちは精練の大洗機などの現場に送られた。一週間は昼働き、一週間は夜働き、日曜に交替した。一日に一一時間ほど働いた。豆粕やサツマイモを混ぜた少量のご飯と味噌汁一杯の食事のため、毎日空腹だった。空腹を手紙に書くと、母がもち米や炒り麦を送ってくれた。冬には国防服を着た。
沼津が空襲された夜、甲班は仕事をし、乙班は寝ていたが、盧ハルモニ舎監が空襲だと寝ていた乙班を寄宿舎の非常口から外に出した。空襲で寄宿舎は全焼し、所持品は皆、燃えてしまった。空襲の後、小山の富士紡の寄宿舎に送られた。そこでは国防色の軍服や靴紐などを生産していた。撚り糸を作る仕事をあてられ、昼夜働いた。富士紡も空襲を受け、機銃掃射を受けて、銃弾が頭の先をかすめて食堂の壁に当たったこともあった。日本の敗戦によって日本に親戚がいる人は連れに来たものもあった。叔母が大阪から連れに着たが、友人たちと帰ることにした。
汽車に乗って小山から東京を経て新潟まで送られた。途中、車内で女性に、こんなに痩せて骨と皮だけになり、目だけ大きくなって、と同情された。新潟では捕虜収容所だったところに泊まった。二隻の木船のひとつに乗船し、台風の中、二日かけて釜山に着いた。出迎えた青年団員は日本人の付き添い者に、子どもたちに俸給も与えず、苦労させて、あんなに痩せこけさせて連れてきたと怒った。家族は、連絡船は途絶え、沼津は空襲にあって工場は焼失したとのことから、皆爆弾にあって死んでしまったと思っていた。鎮海で家族と再会し、互いに泣き喚き、抱き合った。暦を見たら一〇月三〇日だった。
金トクジュンさんは一九三〇年生まれ、釜山の出身。東莱国民学校を出て、釜山府庁の庶務課で給仕をしていたが、一九四四年に東京麻糸に連行された。工場には、密陽・三浪津・馬山・鎮海・昌原・進永などからも集められていた。寄宿舎で一部屋に七人が入れられ、そのなかで班長が決められた。同室は密陽・三浪津の人だった。工場では、麻を撚る仕事や糸を繋ぎあわせる仕事をさせられた。朝四時半に起こされて五時から働き、昼過ぎに交替するという八時間の三交代制だった。休みの日はなく、鳥籠の中の鳥の状態だった。姉さんたちは二年満期を待ち望み、「ままならぬ浮世はね」「籠の鳥」「朝は四時半に起こされて、目こすり、目こすり仕事する」などと唄っていた。浴場は大きく食堂もきれいだったが「自由」がなかった。機械的に動き、朝起きても話すことはなく、洗濯して寝て、起きて働くという日々だった。
沼津の空襲の後小山に移されたが、小山では二階建ての家に入れられた。小山の工場も空襲にあい、機銃掃射を受けた。「まもなく皆死ぬんだ、それだけ辛い」と手紙を書いたが、手紙が着いたのは解放後のことだった。帰国は新潟からだった。
所持品もないままで動員され、お金もたくさんやるといったが、くれなかった。セメントの床での仕事で、足は凍傷になり、足の爪が残らなかった。毎日、凍傷になった指を縛り、血を抜いた。逃亡はできなかった。いじめはなくとも、ひたすら仕事をさせ、ご飯を食べて機械のように働く日々であり、リスがフルイの丸い枠を回るように、ぐるぐると回るという生活だった。甘言を弄され、そそのかされて連れて行かれた。
金ナミさんは一九二九年生まれで慶南晋州出身、令状を示され、一九四四年に東京麻糸に動員された。大きな船の下層に入れられて海を渡り、沼津へと連行された。寮の姉さんたちは河東出身の人が多かった。姉さんたちは「麻糸工場いやじゃありませんか、麻糸いやでもないけれど、いやなあの奴いるために、好きの麻糸いやになる」などと唄っていた。休日に「朝鮮人汚い」と石ころを投げてからかわれたこともあった。沼津空襲で工場が燃えてしまい、小山の工場に移された。小山には全羅道出身の人の飯場があり、その家族とともに下関に行き、小船で帰国した。
以上が『「朝鮮女子勤労挺身隊」方式による労務動員に関する調査』に収められた四人の証言のまとめである。
ここでみてきた何人かの証言から、連行、工場労働、空襲、帰国などの具体的な状況とそこで働いた人々の思いを知ることができる。暴力のみならず甘言による詐欺も強制である。向学心に燃える子どもたちの心を操って連行して労働を強制したことは明らかである。
動員された日本人の証言
つぎに東京麻糸へと動員されていた日本人女性四人の証言をまとめてみよう。
鈴木孝子さんはいう。
動員学徒は精紡、朝鮮人は粗紡に配置されていた。精練は麻の原木を砕く大変な仕事だった。防空頭巾を歯車にはさまれて労働者が死亡するという事故があった。沼津空襲まで働いていた。指導教官が朝鮮人には近寄るなといった。学徒は日当たりのよいところだったが、朝鮮人は洗濯場も隅の方だった。暗く陰鬱な隔離されたところにいた。朝鮮半島の人を見下す人もいた。だからこそ今はできるだけ支援したい(聞き取りおよび読売新聞二〇〇〇年一月二八日付記事)。
杉山敏子さんはいう。
一九二九年六月生まれ、高等小学校高等科二年を終えて、東麻の募集に応じて、一九四四年四月から同級生三人と挺身隊に入った。寮で毎日さびしい思いをした。一部屋に三人、五〜六人で暮らした。寮は朝鮮人と別だった。食事は高粱や大豆、芋の粉で大変まずかった。週一回の休日には自宅に帰った。勤務は朝五時から午後二時と午後二時から九時の二交代、職場は精紡での糸紡ぎ、給与は一八円だった。
男性の見回りが棍棒のようなものを持ちあるいていて怖かった。朝鮮人が棍棒でたたかれる現場も塀越しにそっと見た。朝鮮人の職場を覗くことは厳しく禁じられていた(支援する会ニュース一九九八年六月)。
斎藤初音さんはいう。
一九二九年七月生まれ、沼津女子商業在学中、一九四四年四月ころから学徒動員され織機部門で機織作業をした。空気は埃っぽく湿気が多く毛髪に埃がたまった。一日中たち仕事だった。朝鮮人は織機部門にはほとんどいなかった。朝鮮人は精練職場で大きな釜で麻糸の原料を煮ていた。いつもくらい感じがした(支援する会ニュース一九九八年六月)。
鈴木静子さんはいう。
一九二八年四月生まれ、沼津女子商業三年のとき、学徒動員されて約一〇ヶ月東麻で働いた。午前八時から午後三時まで働いた。私の仕事は糸を調整する仕上げの職場だった。日本人はほかに織機や撚り糸の職場があった。数はわからないが朝鮮人の少女たちが働いていた。朝鮮人は精練や粗紡の仕事だったが、精練は一番過酷で大変な仕事だった。狩野川に糸を晒し、大きな熱湯の釜に入れた。見回りの扱いが日本人と違い、見回りが棒を持って歩き、手を抜いたりすると叩いたと聞いている。仕事場を覗きに行ったら、やくざのような人たちから怖い言葉で帰りなさいと言われたことがある。朝鮮人は寂しそうな雰囲気だった。昔、人さらいのように連れてきたり、金で買われた人があると母から聞いていて、動員先が麻糸と聞いてがっかりした記憶がある。「チョウセンジン」と差別的な言葉が周辺では交わされていた。食堂で高粱・大豆などを食べさせられていた。暗い感じで笑い声もなかった(裁判での陳述、支援する会ニュース一九九八年六月)。
朝鮮女性と同世代の住民は当時の状況について、休み時間になるとシーソーをして楽しんでいた。たぶんその時だけが悲しみや寂しさを忘れさせるものだったのだろう、と回想している(『戦争体験記』県老人クラブ連合会六頁)。
以上が、動員された日本の女性や住民の証言のまとめである。
三 精神の奴隷化としての皇民化
さて、以上の証言から連行と労働の状況についてまとめてみよう。
朝鮮から女子勤労挺身隊として連行された少女たちは「勉強ができる」などといった甘言とともに「志願」させられた。連行されることで親元から隔離され、学業の場を奪われた。軍需用麻糸の生産現場では、寄宿舎に拘束され、生活を監視された。空腹で一〇時間から一二時間の間、立ち続けるという長時間の労働を強いられた。精練に送られるなど日本人の学徒動員者よりもきつい労働を強いられ、児童であるのに酷使された。空襲の標的にもなり、賃金は支払われていない。
少女たちは、皇民化教育によって日本語を植えつけられ、日本への愛国心を注入された。それによって父母よりも日本人教師を信用するような信条を作られた。かの女たちは幼かったために自分自身で逃亡できたものは少ない。向学心は利用され、甘言による欺瞞によって、軍需工場の労働現場に追い込まれた。
一九四四年は集団的な連行が行き詰まり、労務動員での徴用の適用がもくろまれていった時期である。そのなかで国民学校卒業前後の少女たちが、皇民化された従順な労働力として、女子勤労挺身隊の名で労働現場へと連行された。
それは「人間の精神に対する人権侵害」であり「人格の破壊」による連行であった(山田昭次意見書『朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟高裁編』七五頁)。
皇民化とは精神の奴隷化である。朝鮮女子勤労挺身隊は、天皇制国家による精神の奴隷化とそれによる労務動員を象徴するものである。それは他の民族の少女の人格を操作し、詐欺と強要で動員し、戦争のための生産へと組み込んでいった歴史を示している。
東麻裁判の中で、連行された女性たちの名前が一部であるがわかっている。それをあげておこう(「支援する会ニュース」東京高裁編三号 二〇〇一年二月)。
鎮海関係では、金玉仙(金本玉仙)一九一九生、「甲先(竹原甲先)一九二七年生、尹任珠(伊原美賀子)一九二八年生、金成南(金本成南)一九二八年生、洪玉今(豊山玉子)一九二八年生、巌孟連(大林孟連)一九三〇年生、姜泰任(青丘泰任)生年不明などがあり、釜山・馬山ほかの関係者は、金尚今(海金静子)一九二八年生、朴君子(月本君子)一九二八年生、具外先(栗山外先)一九二九年生、金正玉(金原正子)一九二九年生、禹熙生(丹羽菊子)一九二八年生などである(敬称略)。これらは七〇〇人を超える東京麻糸へ連行者の一部に過ぎない。厚生省名簿には死亡者があったとされているが、その名前は不明である。
戦後、東京麻糸沼津工場は帝人に吸収合併されている。高裁での訴訟とともに、原告らは継承企業である帝人に対し、未払い賃金の支給を要求した。最高裁判決以後も鎮海から連行された尹任珠さんらは帝人と交渉を継続した。それに対し帝人は株主への説明を経て「見舞金」の支給を決め、二〇〇四年一月に一〇数人に一人二〇万円を支払った。被害者の要求が継承企業を動かしたが、それは「見舞い」というかたちであり、企業が連行の責任を認めて賠償するというものではなかった。政府は裁判においてその事実を認知しようとしなかった。
東京麻糸紡績沼津工場での朝鮮人の未払い賃金の供託については、二〇〇八年に発見された労働省の集計史料「帰国朝鮮人労務者に対する未払賃金債務等に関する調査統計」一九五三年(『経済協力 韓国105 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調』所収)から明らかになった。
それによれば、当時の金額で七一件分の三千円を超える退職金と退職精算金が、一九四八年五月に静岡司法事務局沼津出張所に供託されている。また、一〇七件の四万円を超える貯金と一千円を超える一〇八件の退職積立金が未供託である。この一〇七件の貯金は一九五〇年一〇月に東京麻糸国民貯蓄組合預金へと移され、一〇八件の退職積立金は一九四五年九月に駿河銀行本町支店預金に個人別で保管とある。
このときの調査資料の静岡県分のメモには、「未供託の積立金、貯金等は一定の利子を付す条件を持って確実に預金してあり、各個人別に口座を設け、何時でも債権者の要求によって払い戻しが許されるようになっているので供託する必要がないとの監督官庁から指示があったため供託はしていない」と記されている。集計表には、静岡県分の未供託金は東京麻糸分の退職積立金と貯金しか記されてないから、このメモは東京麻糸の未供託金についてのものである。メモに「何時でも債権者の要求によって払い戻しが許される」と記されていることは重要である。
これらの四万五千円ほどの供託関連の金銭は払い戻されてはいない。その支払い請求権は、一九六五年の日韓での請求権に関する協定では消し去ることができない個々人の権利である。
一九九〇年代初めには東京麻糸沼津工場の事務所や東京麻糸沼津工場の看板は残っていたが、裁判が始まるころには建物の取り壊しがおこなわれ、現在では駐車場になっている。敷地内には、一九九一年に建てられた東京麻糸沼津工場の碑だけが残っている。ここで働いた人々の歴史とその尊厳については記されていない。
精神の奴隷化をすすめていった皇民化政策とその下でおこなわれた強制動員への清算は新たに明らかになった未払い金の問題を含め、終わってはいない。
2009年12月改稿