5月27日(土)「浜松基地の歴史3」
講演会
(証言のまとめ)

大村藤四郎氏(1925年生)
 1931年に小学校一年生、「満州事変」が始まった年。子供達の遊びは戦争ごっこで学芸会では爆弾三勇士が演じられ、ほとんどの子供達は将来、軍人になることを望んでいた。
 その頃、不況が深刻でわが村からも娘たちがおおぜい、豊橋や鷲津の紡績工場・生糸工場に雇用され、なかには給金を前借りする人もあった。また失業対策事業として村道が拡巾された。
 最近、庄内地区の戦争体験文集を編集するなかで新居の「英霊顕彰会」の1995年作成の「鎮魂」の文をみたが、そこには「殉国の精神」「民族の誇り」といった文が記されていた。
 これは「ロマンチック国防論」であり、戦争中、私達を徹底的に洗脳した論理であって、国際化の現代においては世迷い言にすぎない。
 「アジアの盟主、日本の防人」を自負させられた我々にやがて悲惨な恐怖の報復が降りかかった。
 1945年4月30日、十時頃、B29数十機が雲上より爆弾攻撃をおこなった。浜松郵便局の二階の電信室に勤務していた私は腹に響く爆弾の破裂音に恐怖感を抱いた。
 この時、連尺町のロータリーに大型爆弾が命中し、後日、私が入営する浜松第一航測連隊(中部百三十部隊⇒五五四部隊)の兵士約九〇名が爆死した。
 この厄日は前日の「天長節」(昭和天皇の誕生日)の代替休日で市中の娯楽街に兵士たちが散ったところに空襲警報が鳴った。連尺ロータリーに部隊のトラックが迎えに来ることになり集合したところに爆弾が命中した。
 さらに六月十八日深夜の浜松への焼夷弾空襲は浜松市の大部分を火炎地獄に化した。
 当夜、私は浜松郵便局の二階の電信室の当直勤務であった。
 後番勤務のため午後十時から電信室の隣の宿直室で仮眠していると翌日の〇時過ぎに鴨江方向でバリバリと破裂音がした。間もなく電灯が消えた。しばらくして空襲警報のサイレンが鳴り出した。
 浜松焼土化空襲を感知した私は新川へとびおり国鉄の架橋下まで退避した。
 間もなく紅蓮の炎が巨大な松菱窓から吹き出、炎がゴーゴーと風を呼び火炎地獄の様相であった。鍛治町民や浜松郵便局宿直の数十人が松菱の地下室に避難し、高熱と酸欠に苦しんだそうである。 
私は通信要員であった関係で、召集が遅れ一九四五年八月一日に浜松航測聨隊に入営した。この頃は東海地方の制空権は完全にアメリカ軍に奪われていた。このため七月中旬にわが部隊は滋賀県の日野町に移駐し方向探知機や無線機の操作教育に取組もうとした。その矢先の八月十五日、昭和天皇の終戦宣言が放送された。
 最近旅順の二〇三高地を巡ってきて改めて感じたことそれはロシア軍が旅順の背面の立陵上に十五の砲台を布陣し、日本軍の攻撃に備えた。このため、勝った日本軍に数倍の戦死者が出たのだ。しかし拙劣で硬直した作戦を強行した乃木将軍の評価は今に到っても高い。しかも先きの戦争でミッドウエイ海戦で愚劣な作戦を行使した山本五十六連合艦隊司令長官も依然として日本国民の評価は高い。
 戦時中、学者や文化人が戦争へと国民をリードした。神がかりの呪縛が解けた戦後であったが、百年の大計を構築する大切な教育の分野が狂ってきた。
 昨年度、庄内中学校の生徒が浜松市人権擁護委員連絡協議会の企画した「浜松市中学生人権作文集」に投稿したがその投稿文「ロボット?」が最優秀賞になった。全く優秀な作文で核心を突いている。しかし、せっかくの指摘が生かされない情勢である。
 教育の分野では沈滞と汚濁から抜け出せない苦痛と悲鳴があり、高校・大学の教場にも倦怠と絶望があるようだ。情けないことである。この情況の克服は私達戦争体験者の第一義の使命ではないか。
 
 安達礼三氏(1927年生)

 私は17歳で海軍に志願した。1944年に牧の原の大井海軍航空隊に配属された。東京湾で輸送艦が襲撃され、26人中2人だけ生き残ったが、そのうちの1人である。父は県の刑事課長・浜松警察署長を勤めるなど上級警察官だったが、家庭のことは全くかえりみなかった。子どものころから満州事変や南方の映画(マレーのハリマオ)などをみ、南方へ行きたいと思うようになった。少年のころは何も遠慮せず、こわい者知らずの性格だった。自分が死ぬという感覚がもてず、大井航空隊の空襲をみにいくといった具合だった。
 兵隊から帰ると細江の山中、出ケ谷には本土決戦用の兵舎がたくさんあり、横穴が各地に掘られていた。近くの古墳ではゲリラ戦の訓練をしていたという。細江の伊東町長の家には星という陸軍の上級将校が住みこんでいた。ゲリラ戦の指揮官だったのかもしれない。井伊谷では中野学校の生徒も訓練していたという。
 出ケ谷では戦争末期、陸軍の兵士がやけどした状態のキャハンの足を洗っていたという話があり、毒ガスの訓練の事故によるものではないか。中川小学校の理科室が空爆されたが、ここでは毒ガスなどの研究をしていたのではないか。細江町広岡の北川の小さな工場では岡山からウラニウム鉱を運びこみ研究をしていたという。出ケ谷の奥には戦後も兵舎が残っていたが、なかにはドラム缶もあり「ふれてはあぶない」といわれていた。
 大井航空隊時代、短波でアメリカの日本むけ放送をきき、大本営発表との違いを知り、敗戦は近いと思った。
 大井航空隊で特攻にいく人々と対話したが、皆、涙を流して別れた。「天皇陛下バンザイ」「日本のために」などとは言わなかった。たとえば、あさって台湾沖へと特攻にいく人は一晩中手を握り、だれそれによろしくと涙を流して語った。
 細江の戦没者明鑑をつくるときに死亡状況のききとりもしたが、皆悲惨な死に方をしている。戦争はとてもむごいものだ。その真実が本などには描かれていない。
 泣きながら死んでいったのだ。

                          (編集:NO!AWACSの会)

5.27 「浜松基地の歴史3」講演会
             アピール

浜松市長様

 

 わたしたちは、3回にわたり浜松基地の歴史を学び、検討してきました。浜松基地が先の戦争で派兵拠点としてどのような役割を果たしたのかを知り、再び浜松を派兵拠点にしてはならないという意志をさらに強くしました。

 現在政府防衛庁は、次期防衛力整備計画で、空中給油機の導入を計画しています。空中給油機は1200億円、空中輸送もできる型が予定されています。空中給油機の導入は日本の海外での指揮・戦闘能力を飛躍的にたかめることになります。こうした日本の軍拡にアジアの人々も不安を感じていると考えます。この空中給油機の配備先として浜松基地が予定されていると1995年末から報道されています。AWACSの浜松配備は1994年夏に一方的に浜松市へと通告されています。空中給油機もおなじような形で通告されると考えられます。

 199911月末にもたれた浜松市基地対策協議会では地元の多くの市会議員が反対の意見をのべ、浜松市としての反対の意思表示をもとめました。しかし、市長は反対の意思を示していません。

 今こそ浜松市長は空中給油機に反対の意思を示すべきであると私たちは考えます。

 浜松市長に求めます。

・市民の声である空中給油機反対を浜松市長も表明してください。

・今年度より実戦・運用配備となったAWACSの廃棄を市民とともに訴えてください。

・浜松を再び派兵拠点としないために、市民とともに反戦・平和の声をあげてください。

 

2000527日 「浜松基地の歴史を知る講演会3」参加者一同