米軍人軍属による事故被害者への損害賠償法を

 2001年2月25日、海老原大祐さんを招いて講演会をもった。参加者は約30人、10代の参加者もあり、活発な討論が行われた。以下は海老原さんの発言の要旨である。
(文責:NO!AWACSの会)



●1996年2月の事故
 96年2月22日キャンプフォスター(北中城村)で息子の鉄平が米兵による事故で生命を失った。兵庫から沖縄に着くとどうやって調べたのか、米側から携帯電話に連絡が入った。米側は会うとすぐに補償の話をきり出した。息子の遺体がおかれた病院の安置室は雨もりがしていた。米側は遺体を兵庫に運ぶ手続きも、私たちが宿泊するためのホテルも一切の用意をしてはくれなかった。上司と事故の当事者の米兵が一万円をもってあやまりにきた。日本側も全く対応はしなかった。私たちは遺体を荷物扱いで運ぶ手続きをした。帰るとき、空港の片隅に那覇防衛施設局の職員が2人名前もなのらずに2万円を手渡そうとしてきた。うけとれるものではなかった。葬式には弔電のひとつもなかった。
 また、彼らは裁判をさせないために「弁護士をたてるな」「金がかかる」と言ってきた。そうやってこれまで問題をおさえ、かくしとおしてきたのだろう。マニュアルがあるようだ。
 このように小手先であしらわれて、腹から怒りがこみあげてきた。
 米兵は任意保険に入らず、人の命を奪っても逃げていってしまう。補償もせず、責任もとろうとしない。泣き寝入りを強いてきた日米両政府に対し、この現実をかえねばと思った。
 ひとりでは無理だと考え、96〜97年にかけ100回以上、沖縄へと出向き、被害者をさがし、たずねては共にたたかうことをよびかけた。はじめは2人からの出発だった。


●日米地位協定第18条の問題

 請求については日米地位協定第18条にあり、5項は公務中、6項は公務外について規定されている。公務外の場合は当事者同士の示談交渉となる。示談書には日米両国政府と当事者を永久に免責するの一文が書かれている。米軍には特権が与えられ、公務中・公務外の判定権は米側にある。復帰後米兵・軍属の起こした事故は約20万件にのぼるが、公務外とされたものがそのうちの75%にもなる。「慰謝料」(賠償)の額は低くされ、支払いもおそい。被告人の米兵が裁判中であっても「転勤」し不在となることも多い。裁判をおこしても被告が出廷しないことも多い。
 米側が支払えない分は日本政府がたてかえることになっている。日本政府は本来米側に要求すべきである。
 米側は、基地内の自分たちの家族は保護するが、基地外ではやりたい放題である。


●損害賠償法の制定を

 このような状況の中で被害者の会を結成し、4件の裁判をおこしてきた。
 私の場合、96年4月に7,860万円を請求して提訴し、97年12月に3,663万円の判決が出た。裁判の日、米軍がコンディション1を理由に基地から出てこないこともあった。米軍は占領意識のままの対応である。
 SACO合意(96年12月)での支払方法により、日本が3,107万円、米が556万円を支払うことになった。
 公務外民事訴訟で米兵を訴え、同時期に4つの勝訴をかちとったのは沖縄でははじめてのことだった。
 米兵の交通事故は年1,000件をこえている。このような実態があるのに国内法は全く整備されていない。
 被害者の救済のための法律が必要である。米軍は司令官が命令して任意保険に入るようになったが、そのとき保険期間3ヶ月という商品がつくられ、すぐに期限切れとなったケースが多いようだ。
 日米地位協定は不平等であり、運用でゴマかすのではなく根本的に改定すべきである。現在、沖縄ではあいつぐ米兵の事件によって改定の動きが高まっている。
 配布資料の新聞の社説にもあるように「地位協定を改定できないのは政府の怠慢だが そういう政府しかもてないのは国民の責任である」。現在問題になっているように放火犯の身柄も拘束できないし、補償もえられないのが現実である。
 損害賠償法の制定をめざし、いま活動をすすめている。被害者との面談もおこなっている。3月には法案を提出していきたい。そのための院内集会を3月13日に準備している。

 海老原さんの活動については
★ 森口豁『安保が人をひき殺す』高文研 1996年
★ 筑紫哲也の『ニュース23』海老原さんの活動の紹介・1998年(約20分)
に紹介されています。