ピースアート展上空を飛んだAWACS
3月16日から21日にかけて
ウォンの演奏は平和ポスターに囲まれるなかでおこなわれ、流れる即興はひとりひとりが存在の深部へとおり、自らの内面との対話をはじめる契機を与えていた。
戦争国家とその戦争機械との抵抗の根拠を個の尊厳をたたえる個々の内面におき、その横断を抵抗線とすること。たたみかけるメロディーはしなやかな生命の根源の扉をひらこうとし、飾ることのない心の奥底からの表現、それを「動機からの自由」といってもいいのだが、それをもとめるかのようだった。
100枚の平和ポスターは、まなざし、重なる手、光、裸身、花、波、風、抱擁、ふれあい、思い出、表現への想い、抑圧の自覚、共存への意思、想像力などさまざまな視点から、生を問いかけるものであり、たとえば、“希望は倒されても希望は希望のまま、手にとられるクサビとなり、われわれの前に横たえている。さあ手にとり、この灰色の世界をきりさき、光を”といったメッセージを語りかけていた。ひとつひとつの表現とゆっくり対話することでみる側はたしかにいやされていく。
ポスターをゆっくり見るため17日の17時ころ会場に向かうと上空からAWACSがゆっくりと舞いおりてきた。会場は基地の滑走路東方にあり、騒音もおおきなところだ。戦争機械であるAWACSは絶対的なものとしてここにある。無機物のかたまりであるこの機体は自ら言葉を発することはない。この存在を問うことから平和の表現ははじまる。ミュゼの平和ポスター展はこの国の具体的な参戦・派兵にどのような表現を提示したのだろうか。
アートは横断性・水平性・街頭性をもつ動きのあるものであってほしいと、私は日ごろ思っている。密室でのいやしと賞賛、他方で外部への沈黙の現実の戦争機械への無表現、それによって〈平和〉は商品となる。
4月6日〜7日とNO!AWACS・NO!WAR行動でさまざまな行動がもたれた。それは密室に固定されない動く「平和ポスター」としてあったと思う。
密室にきれいにかざられたポスターたちが戦争機械の前でぼろぼろになりながらもその意思を示すときを期待したいと思う。(竹)