浜松を再び派兵の拠点にするな!
 
平和的自治権の確立を     1999年の報告

 

浜松基地の強化 AWACSと広報館

 

 静岡県浜松市の航空自衛隊浜松基地に一九九八年・九九年にかけて、空飛ぶ司令塔とよばれるAWACS(エーワックス・空中警戒管制機)が四機配備された。AWACSは一機五七〇億円、海外侵攻作戦で情報収集と戦闘指揮を担う力をもつため、新ガイドライン安保下の日米共同作戦でのカナメとされている軍用機である。AWACSはTMD(戦域ミサイル防衛)にも組み込まれているが、防衛よりも攻撃でその力を発揮することになる。

 AWACS配備にともない浜松基地の二五〇〇メートル滑走路は改修され、基地内に高さ三〇メートルの巨大な格納庫やAWACS関連施設がつぎつぎに建設された。このAWACS配備により浜松基地は実戦中枢拠点となった。

 AWACSの配備は九四年八月に防衛施設庁から浜松市へと通告され、九八年三月、九九年二月と二機ずつ計四機が配備された。二〇〇〇年には実戦態勢をとることになる。

 九九年四月にはAWACSのタッチ&ゴー訓練が頻繁におこなわれた。T4訓練機に加えてAWACSの飛行により、騒音の量は倍増し、騒音地域が拡大した。全長五〇メートルのAWACSが降下することによって発生する空を切る高音、機体のエンジンの重低音、逆噴射音が周囲を揺るがしていった。周辺住民からは怒りと恐怖の声があがり、遠く袋井市方面からも苦情が出るようになった。

 このAWACSに加え、防衛庁は空中給油機を導入しようとしている。ボーイング社はAWACSと同様のボーイング七六七型機を空中給油機に改造し、大型輸送にも兼用できる機体を売り込んでいる。浜松基地はこの空中給油機配備の候補になった(註・その後配備先は名古屋の小牧基地となり、一機目の配備は二〇〇七年)。

 AWACSが浜松に配備されたとき、現地で空自の将校が「AWACSは戦いの主導をとり戦力を集中させる」「絶大な戦力」と語っていた。この発言や湾岸戦争やユーゴ空爆での米軍AWACSの運用からわかるように、AWACSは日本の攻撃力、派兵力を飛躍的に高める。

 浜松基地にはAWACS訓練のために米軍やボーイング社の関係者が常駐した。米軍がAWACS使用法を教え、AWACSによって平時での情報収集、戦時での情報収集と戦闘指揮を日米共同でおこなうことができるようになる。AWACSは新ガイドライン安保を象徴する軍用機なのである。

 九九年三月末までに三沢にあった警戒航空隊司令部が浜松基地へと移転した。新しい隊舎の上には巨大な監視カメラがつけられ、外周を監視している。実戦拠点として基地が強化されることにより、市民の平和への取り組みに対する監視も強められた。

 九九年四月には空自で唯一の広報館が浜松基地内に開館した。この広報館には六〇億円が費やされ、展示館・展示格納庫・屋外展示場などがある。開館に際し市民団体がチラシまぎをおこない、開館中止を申し入れた。広報館は「無料で開放的」を装っているが、展示室入り口をはじめ各所に監視カメラがおかれ、開館当日、開館式をみていた市民をトイレにまで尾行するような監視がおこなわれた。

 広報館内にある戦闘機グッズを売る店、戦闘服を着用して戦闘機の横で写真を撮る「パイロット体験」、シミユレーターによる戦闘機操縦コーナーなどによって子どもたちに軍隊と戦争を肯定する意識が注入されていく。格納庫におかれた自由帳には、子どもが「かっこいい!」と殴り書きしていた。ここには戦争の悲惨を伝え、平和にむけての活動を考えていく視点はない。広報館は子どもたちを軍用機になじませてよろこばせることで、戦場に送り出すことになる施設である。

 AWACSや広報館はその存在によって平和にむかう心をおしつぶし、平和に生きようとする志を日常的に侵している。

 AWACS配備通告の際、浜松市への文書には「AWACSに武装はない」と書かれていた。市民団体が「浜松の実戦基地化反対」と抗議すると、基地側は「基地に実戦と訓練の区別はない」とし、「AWACSは武器そのものではない」とごまかしてきた。

 広報館にある「防衛新時代」を語るパンフをみると、ハイテク化・質の向上、日米安保の信頼性の向上、各種事態への効果的対応などの言葉がならんでいる。AWACS配備にともなう基地側の発言や広報館での展示をみると、この国の政府が戦争にむかう態勢をつくるなかで、「真実」をおおいかくそうとしていることを感じる。

 

浜松地域の軍事化への抵抗

 

 AWACS配備にともなう基地の強化がすすむなかで地域の軍事化を示すできごとも増加した。

 九七年一二月にはブルーインパルス墜落事故(一九八二年)現場近くの小学校の二〇周年式で自衛隊軍楽隊の演奏計画がたてられた。この計画は市民団体が市教委・学校へと中止を申し入れるなかでとりやめになった。

 九八年一月にはイラク攻撃を訓練中の米インディペンデンス艦載機のFA18ホーネットが六機、給油を口実に夜間を含めて浜松基地に「緊急」着陸した。着陸は計画的であり、新ガイドラインによる米軍による基地利用であることはあきらかであった。九八年五月には米空軍参謀総長ら米軍高官が浜松基地を訪れ、AWACSなどを視察した。

県西部防衛協会による産業界への介入もすすめられ、九八年四月には浜松商工会議所によるAWACS見学会がもたれた。企業関係者からの連絡により市民団体は見学会の中止を申し入れた。九八年一一月には浜松基地祭が商工団体を取り込んでエアフェスタの名でおこなわれた。

 この基地祭に関連して一一月浜松基地准曹会が主催し、基地業務隊、会計隊、広報が一体となって支援する「ふれあいパーティ」(トップガンパーティ)が基地内のイベントとして計画されていることがわかった。パーティの挨拶状では基地関連業者に対し「広範な人脈」をとおして「健全な独身女性」を派遣することを求めていた。パーティは二部で構成され、一五〇人余りの女性を基地内にかりあつめようとしていた。市民団体はこの企画に対し、基地による関連業者の女性供出機関化、企業によるセクハラ加担の危険、司令の管理責任などを追及し中止を求めた。当日のパーティは中止・延期されたが、基地側の人権感覚が問われた事件だった。

 浜松市が戦争を肯定する動きに加担する事件もおきた。九八年六月、市教委は映画『プライド』を推薦した。この映画は過去の侵略戦争を自衛と解放のためのものとする立場で製作されたものである。市民団体による抗議に対して、市教委は推薦を取り消そうとしなかった。

 九八年八月には浜松市平和式典の前段に「英霊にこたえる会」などが企画した『天翔ける青春』と『天皇陛下とブラジル』という「英霊」と天皇を賛美する映画が上映された。市民団体は「浜松市は英霊賛美に加担するな」と上映中止を求めて抗議行動を展開した。抗議をすすめるなかで、これらの映画上映を「日本会議」が推進していること、浜松市役所の地域福祉課のなかに「英霊にこたえる会」の事務局がおかれていることなどがあきらかになった。「英霊にこたえる会」は靖国公式参拝をすすめる宗教的団体であるが、それを浜松市が公的に支援していたのである。市民団体は抗議を強め、九月には「英霊にこたえる会」の事務局を市から撤去させた。

 浜松市はAWACS配備に際し、「国の専管事項」を口実に反対の意志を示そうとしなかった。市議会は非核平和都市宣言を求めた請願を否決し、新ガイドライン安保に反対する意見書も採択しなかった。市長は市民団体との会見を拒否しつづけた。九九年五月に入り、浜松市議会は市民団体の新ガイドライン反対の陳情を否決する一方で、新ガイドラインの立法化への危惧を示す意見書を採択した。

 九八年七月、市役所市民生活課基地対策係の机上にはT2の模型がおかれ、AWACSをはじめ軍用機ポスターが貼られていた。市民生話課の一角が自衛隊広報所のようになっていた。それをみた市民団体の撤去要求によって、係は課長と共に撤去しはじめた。浜松市の平和行政に対する意識の程度を示す事件だった。

 九九年二月、市民団体によるAWACS追加配備抗議行動に対し、右翼宣伝カー二台があらわれ、「AWACS反対運動粉砕、AWACS賛成、反対するものは国賊非国民」と叫び、市民団体メンバーの写真を撮り、車を接近させて挑発をくりかえした。この挑発をかわして抗議行動はおこなわれ、「NO!AWACS、浜松を再び派兵拠点にするな」のコールが繰り返された。

 九九年三月のNO!AWACS全国集会には私服を含めてこれまでにない警察による監視体制がとられ、電話での雑音量の増加を語るメンバーもいた。AWACS配備前後から米軍機飛来、自衛隊の地域介入、浜松市の英霊賛美加担、右翼による挑発、権力による監視の強化といった形で地域の軍事化を示すできごとが増えてきた。これに対し抵抗する運動も強められ成果もあがっている。

 

新ガイドライン安保ヘの抵抗から平和的自治権への確立へ

 

 静岡県内での新ガイドライン安保に関連する問題は、東富士での米軍実弾訓練、米軍による港湾の使用、浜松へのAWACS配備などがある。

 東富士では九八年二月に沖縄からの分散移転によって約五七〇発の実弾訓練がおこなわれた。東富士には米軍「キャンプ富士」があり、そこに一四〇億円余りの「思いやり予算」で施設がつくられている。すでに九四年には沖縄での実弾訓練の倍の六八〇〇発の訓練がおこなわれている。今回の分散移転により、実弾訓練の数量はさらに増加した。これに対し御殿場市裾野市では市民が「富士を撃つな!」と新しく市民運動をつくり、集会やデモをくりひろげてきた。

 港湾についてみれば、県内には一五の港湾があり、九八年一一月に日米地位協定のもとで米第七艦隊の駆逐艦カッシングが別府を経て清水へと入港した。カッシングは米艦ファイフと交代して、九八年三月に横須賀に入った駆逐艦である。ファイフは湾岸戦争時、横須賀から出撃しトマホークを最も多く撃ちこんだ艦である。カッシングもファイフと同様の役割を担うことになる。

入港は在日米海軍司令部から清水海上保安部に連絡され、県港湾管理局へと伝えられた。核のもちこみについては不明のまま、県は入港を認めた。海自「しらゆき」が先導して入港し、カッシングは港湾用のタグボートで方向をかえながら着岸した。民間の廃棄物処理車、給水車、レンタカーなどが動員された。それは新ガイドライン安保下、米艦による清水の港湾使用のための訓練だった。

 市民団体は埠頭の最前線で「清水を軍港にするな!新ガイドライン安保反対!カッシングは出ていけ!」のコールをつづけた。

 浜松へのAWACS配備に対しても市民団体による反対運動がとりくまれ、数次にわたって集められた署名者数は延べ一〇万人をこえている。配備時には抗議行動、市民集会・全国集会などがとりくまれてきた。

 九九年二月のNO!AWACS・NO!新ガイドライン全国集会では以下の五点が提起されている。@AWACS浜松配備のみならずAWACSそのものに反対する、AAWACSを海外に派兵することになる新ガイドラインと周辺事態法に反対する、B浜松がかつて爆撃・特攻・毒ガス戦の拠点であった歴史をふまえ、過去と現在を貫く戦争責任を自覚し追及する、C軍事基地の存在は人間の尊厳を侵すものであり、軍隊や基地のない社会をめざす、D少数であっても現地での非暴力直接行動をすすめ全国の市民団体と連携する。

 九九年三月一〇日、静岡県議会は「一方的に地方公共団体の役割が定められることは地方自治の観点からも深い危惧の念を抱き容認することはできない」とする新ガイドラインの立法化に反対する主旨の意見書を採択した。ここに憲法判断や政府の外交防衛政策への批判はないが、保守系議員の多い県議会が地方自治と県民の安全の観点から新ガイドラインの立法化に反対の意思を示した意義は大きい。この意見書採択の底流には市民の「富士を撃つな!」「清水を軍港にするな!」「浜松を再び浜松拠点にするな!」という市民の声と運動がある。県議会につづき長泉町清水市浜松市でも意見書が採択されていった。

 市民団体による行政へのアンケート調査によれば、「憂慮する点も出てくると思われ地方関係団体からの意見を尊重するよう要望」(富士川町蒲原町由比町)、「県会の意見が町民の意見」(新居町)、「町民の安全と福祉の保持を基本として是非を判断」(大井川町)などと答えている自治体もある。「国会での審議を見守る」(浜松市浜北市他)としたり、無回答の自治体もあるが、政府が地方自治体の意向を無視して新ガイドラインの立法化をすすめる動きに対し、保守を含め批判的な動きが出てきていることがわかる。米軍基地を抱える静岡県など一四都道県による渉外関係主要都道県知事連絡会も新ガイドライン法案が衆院を通過するなか、政府に対し更に説明を求めていく方針を示している。

 いま政府がすすめる戦争協力・参加は市民が平和に生きていこうとする権利を侵害するものである。この間、原子力発電・産廃施設・軍事基地をめぐって住民投票が実施されたり、自治体が強制労働などの過去の戦争犯罪の調査をまとめたり、あるいは自治体が新ガイドラインに反対する意見書を採択(五月末で二三〇余の自治体)するなどの動きがおきている。自治体が市民の側にたち、「専管事項」論を克服し、外交・防衛の領域にも積極的に発言して平和的生存権を創りあげていく、そのような時代の前に私たちはいる。求められているのは市民が平和に生きていくための自治権の確立である。

 地域で平和的自治権を確立していき、職場.戦争に協力する労働にNO!の声が強められ、抵抗の力が形づくられていけば、その力が戦争国家の動きを止め、現実を民衆の側へと変えいくだろう。

 AWACSが浜松の上空を旋回する姿をみながら、平和への想いをあらたにしている。

浜松を再び派兵拠点にさせてはならない。            

19995月記 (200612月訂正・補充)