米軍再編と神奈川の米軍基地の動き    

           2006423日浜松・木元茂夫さんの話から

 『戦後60年米軍再編と神奈川の基地』(木元茂夫監督)の上映と木元さんを招いての講演会をもった。以下は映画の紹介と講演のまとめである。

              

●『戦後60年米軍再編と神奈川の基地』の紹介

映画ははじめにミサイルを撃ち込まれても米軍基地再編を拒否するという座間市長の決意表明や相模原の市民集会、原子力空母の母港化に反対する横須賀の動きを紹介する。最近、米軍再編をめぐってできる限りの反対行動を自治体が市民とともにとり始めたが、その状況が示される。また御殿場でのイラク派兵反対行動の紹介もある。

映画では神奈川の基地のこれまでの歴史と民衆の反基地の歴史が紹介され、最近の米軍基地再編の動きを示して自治体と市民の反対行動を捉える。

反基地の歴史では、たとえば座間の新磯村で陸軍士官学校建設にともなう強制的土地接収と抵抗する農民の歴史が示される。陸軍の横暴に抗議し同盟休校さえおこなった歴史が大地の記憶となり、現在の抵抗に連なっていることをわたしたちは知る。米軍はこの陸軍士官学校跡地などを接収し、キャンプ座間を新たにつくった。横須賀以外の米軍基地は日中戦争以後に拡張された旧日本軍基地を継承したものである。朝鮮戦争・ベトナム戦争とこれらの基地は派兵の拠点となった。米軍の接収・軍事拠点化に対して、土地返還・基地撤去の要求がこれらの地域の歴史の軸心となってきた。

最近の米軍再編の神奈川での動きとしては、厚木基地の艦載機の岩国移転と自衛隊機の厚木移駐、横須賀での原子力空母の母港化・イージス艦増強、キャンプ座間への陸軍作戦司令部の移転、ノースドッグからキャンプ富士への輸送などがあり、その動きをめぐる状況が映像で紹介されている。またこれらの基地群の北方にある横田基地での空の共同司令部の形成やミサイル防衛にもふれる。

最後に横須賀のピースバンドの歌とともに無名戦士の像や基地工事の殉職者碑の朝鮮人名、平和をもとめる平塚の追悼碑や横浜の像が紹介され、反戦平和を呼びかけて映像は終わる。たくさんの史実が示され、一度見ただけでは消化しきれないが、幾度となくその歴史を学び続けいくこと大切さを、この映像から知ることができる。

 

     「米軍再編と神奈川の米軍基地の動き」 木元さんの講演のまとめ

@       神奈川の基地の歴史と現状

こんにちは、浜松のみなさん、木元です。

いま、米軍再編で問題になっている神奈川県の基地のほとんどは旧海軍・陸軍の基地だったところです。根岸住宅地区と鶴見貯油施設だけが戦後、米軍により接収されたものです。横須賀に海軍鎮守府が設置されたのは1894-明治27-日清戦争のあった年です。 その後、しばらくは基地の拡大はありませんでしたが、1930年のロンドン海軍軍縮条約により戦艦などの保有隻数が制限されると、空母の建造と海軍航空隊の強化が進められました。一方、陸軍基地のほとんどは1937-昭和12-北京郊外の芦溝橋での衝突を発端とする日中全面戦争の拡大とともに形成されました。

これらの膨大な旧軍基地・施設は敗戦とともに米軍の管理下に置かれましたが、重要な施設が米軍基地となり、朝鮮戦争・ベトナム戦争・イラク戦争で重要な役割を果たしました。兵站補給基地として、弾薬の補給、軍艦と戦闘車両の修理、負傷した兵士の治療などを担いました。ベトナム戦争後、いくつかの基地が返還されました。個人的な記憶としては1972年に返還された野戦病院だった「岸根兵舎地区」が印象に残っています。高校時代、友人が米兵の死体洗いのバイトをしていてその話しが頭に残っているからです。

その後も基地の統合と返還が進み、海軍基地としては空母戦闘群の基地=横須賀、空母艦載機の基地=厚木、上瀬谷・深谷の2つの通信基地、池子と根岸の住宅地区、燃料センターとしての鶴見貯油施設、一方陸軍基地としては、司令部のあるキャンプ座間、その管理下にある相模総合補給廠と相模原住宅地区、陸海軍共用の桟橋横浜ノースドックへと統合集約されました。ところが、今回の米軍再編では、キャンプ座間の司令部機能の強化と、米軍と自衛隊の共同運用の拡大がもくろまれています。

相模原市座間市の集会に参加すると、年配の人々は「陸軍士官学校以来70年・・・」と口をそろえます。キャンプ座間は、もともとは陸軍士官学校で、陸軍の強制的な土地の接収によって発足しました。この時、敷地の中心部分に住んでいた新磯村の農民は陸軍に立ち向かい、一方的な用地の拡大を撤回させました。戦後、士官学校の付属練兵場用地の約半分は返還され農地にもどっていきますが朝鮮戦争がはじまると横浜から第8軍司令部がここに移転、朝鮮半島に出動する兵士の集結地点となりました。

2つあった陸軍病院のうち一つは国立相模原病院となりますが、一方は米軍医療センターとしてベトナム戦争の時期には負傷した兵士の治療にあたり、1981年にようやく返還されました。そして、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも相模補給廠は米軍戦車の修理・再生という重要な役割を果たしてきました。キャンプ座間をはじめとする基地から戦場の臭いが遠ざかったのは、ほんの二〇年足らずのことなのです。

「第一軍団司令部移転」の報道は、かつての戦争の記憶を呼び起こしました。相模原市座間市は市をあげて反対運動に立ち上がりました。驚くほどのがんばりでした。「基地の恒久化は絶対に認めない」とする年配の小川相模原市長、星野座間市長の発言には戦後60年を基地の町で生き抜いてきた重みがありました。相模原市は「基地の下で70年、もう我慢の限界」「黙っていると100年先も基地の街」というスローガンを掲げました。座間市も「次世代には基地のない街にしよう」というスローガンを掲げています。

新たに編成される陸上自衛隊中央即応集団司令部のキャンプ座間への移駐は、座間市の強い反対と1971年に座間市と横浜防衛施設局が調印した「覚書」に「施設部隊300人」とあるために座間市側に司令部をつくることを断念、キャンプ座間の相模原市域に司令部を建設しようとしていますが、相模原市は「厳しくチェックする」としています。陸自の中央即応集団の編成は、自衛隊内部の人員の関係で行き詰っています。司令部直轄の連隊の編成は今年度は自衛隊があきらめたようです。もちろん油断はできませんが。

東京と神奈川という行政区にとらわれずに地図を見ると、国道16号線に沿って北かに南へ米空軍の横田基地、米陸軍の相模総合補給廠、キャンプ座間とつながっています。かつての日本陸軍が16号線と一連の基地群をあわせて建設したのを、いまは米軍が利用しているわけです。今回の再編ではこの横田―相模原―座間が重要な基地とされています。横田の燃料は鶴見から鉄道で運ばれていることを最近知リました。横田の軍人軍属は4000人を超えます。1997年の新ガイドラインで提示された「調整メカニズム」が、今度横田基地につくられるという空の「日米共同運用調整所」です。わかりやすく言えば、空の日米統合司令部です。座間は陸軍の拠点司令部となり、横須賀は海軍の拠点とされるわけです。

 

A『日米同盟未来のための変革と再編』について

昨年秋の日米の合意文書『日米同盟未来のための変革と再編』に書かれている事柄をみてみましょう。

彼らは「共通の戦略目標」の理解に到達したとし、「新たな脅威」を示すのです。脅威に対抗してアメリカが前方展開し、日本が支援するというのです。そのための防衛協力があげられています。たとえば、ミサイル防衛、テロ対策、捜索救難、復興支援、在日米軍施設やインフラの警備、相互の後方支援、退避活動、港湾・空港・道路・空域の使用などですが、協力分野はこれだけではないとコメントを加えています。そして、包括的調整的メカニズムの確立を目指し、訓練を拡大し、施設を共同使用し、兵力の再編をすすめるというのです。 

そこで出されるのが、共同統合、運用調整をおこなう新司令部の形成であり、そのテコとなるのがミサイル防衛なのです。その一環で浜松にもPAC3が配備されるわけです。AWACSもこれに組み込まれます。米軍は移動のための高速輸送艇の導入をすすめています。キャンプ富士での海兵隊用のインフラ整備もすすめられてきました。後方支援においては日本に対して、海上のみならず空中からの給油をも求めています。

しかしこれらは閣僚間の合意文書に過ぎません。各地でこの再編に対して、反対の動きが形成されてきました。神奈川での相模原・座間・横須賀での自治体の反対の動きのみならず、沖縄での辺野古の抵抗、鹿屋市での米軍空中給油機反対集会、岩国での感動的な住民投票の勝利など全国各地で動きが起きています。このような自治体レベルでの反対運動が全国各地で続発したのは戦後はじめてのことであり歴史的な事態です。今年の3月までに最終合意がなされる予定でしたが、まだ合意ができていないのはこのような抵抗の力によります。

現在、沖縄海兵隊のグアム移転費一兆二千億円の日本分負担額をめぐっての駆け引きが報道されていますが、問題はこれだけではありません。政府は今後も各自治体と交渉せざるを得ませんし、多くの矛盾が出てくるでしょう。

視点をアジアに移してみると、日米軍事協力を拡大する― つまり、自衛隊を米軍の補給部隊として各地に派兵していくという小泉内閣の外交路線は、遠からず破綻すると思います。これを自国に対する脅威と見る中国は、対抗的な外交政策を次々に打ち出しています。ロシアとの軍事協力の拡大、インドとの合同軍事演習、北朝鮮への経済援助の拡大などです。一方で、アメリカの資本を呼び込むためにアメリカとの経済関係の強化にも相当な努力を傾けています。小泉首相が靖国神社公式参拝を継続し、これに追随する勢力が「かつての戦争も植民地支配も正しかった」などと大合唱を続ければ、アジアとの関係は悪化していきます。韓国も北朝鮮との強調、対ロシアの独自の外交をすすめています。日本の軍拡に対抗して、「独島」という大型揚陸艦を建造し、中国はイージス艦の建造をしました。中国が脅威なのではなくて、日米軍事協力の拡大が中国の対抗措置を呼び起こし、中国政府も靖国参拝を批判するついでに漁場や資源問題で自国の立場を押し付けることは問題だと、私は思います。

 

B 横須賀の動き

 横須賀では原子力空母の母港化のための12号バースの建設がすすんできました。これまでの原子力船の事故の詳細については、アメリカで市民が要求しても肝心なところは非公開です。住民への報告義務は果たされてはいません。20年前の米軍の文書によれば、横須賀で事故が起きたとき、それを公開する権限はハワイの太平洋海軍の司令官にあり、横須賀にはないのです。そこには事故隠蔽の秘密体質があります。日本の原子力安全関係法規では日本自身が米軍の艦船の安全を検査することができません。米艦は対象外なのです。

 横須賀の海軍、空母戦闘群の強化は防衛艦のイージス艦化の形ですすんできました。駆逐艦はミサイル90発、巡洋艦は120発を搭載するのですが、ミサイル防衛関連で、9隻がイージス化されました。配備が艦船であるために、ミサイルの増強として理解されにくいのですが、これらの艦船の配備はミサイルの増強ということです。横須賀の艦船がイラク戦争のときに多くのミサイルを撃ち込んだことを想起してください。

 座間について言えば、今のアメリカの軍事戦略では海・空や宇宙が重視され、陸軍が軽視されてきました。かつてベトナム戦争のころには157万人の陸軍があったのですが、今では48万人です。ちなみに海兵隊が36万人です。しかし、現場の指揮官から見れば、占領統治には陸軍が必要です。イラクでは兵力不足になっています。もちろん、増強したからといって事態が好転するわけでもないと思いますが、少ない兵力での占領統治が現場指揮官の反発を呼んでいます。座間への司令部の移転は米陸軍の生き残り策ともみられます。政府はたいしたことはないといって受け入れを求めていますが、司令部だけの移駐になるとは限りません。また、陸上自衛隊との訓練の場としては、宿舎の増設著しいキャンプ富士が有力候補だと私は考えています。

 

C       米軍再編への抵抗を

全国各地のつよい抵抗の中で米軍の再編への合意は形成されていません。自治体により創意工夫あるさまざまな抵抗ができることを今回の動きは伝えています。政府の再編は躓いています。それは防衛庁への打撃となっています。自衛隊員にも事件がおきています。習志野の空挺部隊員が万引きで捕まったのですが、その理由はイラクへ派遣されたくないからとしました。階級が比較的上の派遣隊員の中から帰国後に自殺者が出ています。インド洋派兵では、心筋梗塞で死者が出ました。そのときの政府の対応が余りにも冷たく、「もともと持病がありました」と説明したのです。それに対して「それでは帝国陸軍以下の扱いじゃないか。病気もちは戦場に派遣しなかっぞ」と抗議の声が出て、労災扱いになったということもありました。

自衛隊の動きを抑止するものとして憲法9条はまだ生きています。隊員にとって、小泉政権は冷たいのです。イラク情勢は混沌としています。一部の幹部はともかく、隊員は確信を持って行動できないでしょう。政府の意図とは違う状況になっています。にもかかわらず第10次派兵までおこなわれようとしています。小泉外交はアジアでの孤立の道をすすめました。反対運動はこれからも続きます。ともにこの地から反戦平和の運動を創っていきましょう。