横田基地の日米共同利用とPAC3配備に反対する120横田集会・デモ

● 120横田集会

   

2007120日、横田基地への日米共同司令部の形成とミサイル防衛・PAC3配備に反対する集会とデモが横田基地近くの福生市さくら会館でもたれ、70人が参加した。この行動は三多摩の反戦市民グループで構成する横田行動実行委員会が主催した。

 今回は、アメリカのグローバル戦争による米軍再配置がおこなわれ、横田ではミサイル防衛を梃子としての日米共同統合作戦司令部の形成がすすめられるなかで取り組まれた。

集会では、北東アジアでの非核地帯形成の取り組みの重要性、横田基地の第5空軍や第13空軍を統合運用しての司令部再編の状況、PAC3ミサイル配備の問題点、ミサイル防衛の現状と計画、三沢のXバンドレーダー配備調査などが報告され、入間や浜松での反対行動の経過や防衛庁前での沖縄辺野古基地建設反対運動の報告もおこなわれた。

集会後、横田基地へのデモをおこなった。雪がちらつくなか、デモでは日米共同司令部設置反対!ミサイル防衛反対!ミサイル配備反対!のコールとともに、英語で、横田基地はいらない!イラクから撤退しろ!戦争で平和は作れない!米兵も参加しよう!という内容の呼びかけがおこなわれた。基地前では要請行動がおこなわれたが、米軍はゲート入口に黄色の壁を設置して扉を閉め、申し入れ書を受け取ろうとしなかった。

アメリカのグローバル戦争は、宇宙空間を支配して先制攻撃や諜報戦をおこない、その先制攻撃のために世界各地にミサイル防衛網を作ろうとするものである。このグローバル戦争のためにアメリカは、「同盟強化・柔軟性・能力強化・迅速性・脱地域」をかかげて、日本を主要作戦地域と位置づけている。そのなかで、米軍の再配置と自衛隊の再編、日米共同司令部の形成がすすめられ、日本各地へのPAC3配備もおこなわれようとしている。このようなアメリカの新たなグローバル帝国主義への抵抗は世界各地で起きている。アメリカの軍事政策に追従するのではなく、21世紀は軍事力によらない平和的な非暴力な関係を強めるべきだろう。

 

横田基地行動に参加する前に、立川・横田基地の一部を見学した。

     立川・横田の基地見学

立川

 立川は東京の中心に位置し、かつては飛行第五連隊の基地ができ、アジア太平洋戦争などの侵略戦争期には派兵の拠点となった。立川には陸軍航空技術廠もおかれ、軍事研究の拠点にもなった。また、陸軍立川航空工廠・立川飛行機・日立航空機立川工場などの軍需工場もできた。立川は軍需生産と派兵の拠点となり、米軍の空爆をうけた。

戦後は米軍に占領され、米軍立川基地となった。基地が拡張される北部の砂川では1950年代後半から砂川闘争が展開された。この闘争を経て、米軍立川基地は1977年には全面返還された。この間に自衛隊の移駐がすすんだが、全市的な移駐反対運動もおこなわれた。その中で基地南側にはテント村が形成された。

 現在、米軍立川基地跡地は「昭和」記念公園、陸自立川基地、官民有地になっている。陸自の立川基地は1200メートルの滑走路を持ち、ヘリを主要な部隊軍用機としている。ヘリの整備工場もあり、立川は輸送拠点、治安防災拠点とされている。基地周辺に警視庁や機動隊、海上保安庁施設、都の防災施設、第二首相官邸ともなる防災合同庁舎などが集中している。ここの機動隊は横田基地の警備に動員されているという。最近では「昭和天皇」記念館まで建設された。

基地南側の「昭和」記念公園からは、基地の一部が遠望できる。立川基地は今では有事・治安管理の拠点となっている。

 旧米軍滑走路は今では道路になっている。基地北方には、基地拡張に反対した一農民の土地に向かう私道が残っている。立川基地の北側は砂川闘争が繰り広げられた現場であり、団結街道の近くには、買収された人々の土地を再利用した野球場や砂川自主耕作者連絡会による自主耕作地がある。自主耕作者連絡会は1997年の大蔵省管財局による耕作者追い出しに対する抵抗のなかで作られ、耕作権を今も維持しているという。

かつて砂川闘争のときには、この近くに反戦塹壕も掘られたという。抵抗運動に参加していた日本山妙法寺の塔もある。反対同盟の行動隊長だった方の家族の墓碑もあり、そこには無縁の小さな地蔵像や慶応年代の墓石も置かれていた。このよう墓碑群は、この地に長い系譜を持つ人々が、米軍基地拡張という収奪に立ち上がっていった歴史的背景を物語るように思われた。

 自主耕作地に立ち、冬の寒風が巻きあげる土の湿った香りに包まれながら、ここで耕作を続けることになった人々の系譜や経過などを聞いた。この耕作地に民衆の歴史が刻まれていることを知った。耕作地の近くには、「木を植える会」によって植樹された木が10年余を経て成長し、土の精を吸い上げて紅花を咲かせていた。

 

 横田

 この立川から横田へと五日市街道を西に向かうと横田基地がこの道をさえぎる。基地の拡張によって五日市街道は本来の道を奪われ、基地に沿って曲げられたのである。ここから基地を遠望すると、C130の姿が見えた。

 横田基地の歴史は1940年の旧陸軍による多摩飛行場の建設から始まる。敗戦によって米軍が接収し横田飛行場となり、拡張がすすんだ。現在では4000メートル近い滑走路を持ち、外周は約14キロに及ぶ巨大な米軍基地となっている。

 この横田基地からは朝鮮戦争時には爆撃機が飛び立ち、近くの当時はジョンソン基地とよばれた入間基地とあわせ、朝鮮半島での空爆の8割近くを担ったという。ベトナム戦争でも輸送や出撃の拠点となった。基地機能の集約によって横田には1974年に在日米軍司令部と第五空軍司令部がおかれた。横田は司令と輸送の拠点となった。横田はイラクでの戦争にも使われた。

現在では米軍の再配置によって、日米共同統合作戦調整センターという名の日米共同司令部が設置され、ミサイル防衛を通して集団的自衛権を行使しようとしているわけである。それはグローバル戦争にむけて、日本の航空自衛隊を組み込んでの司令部の再編成といっていい。米第五空軍と第一三空軍と統合して運用し、ここに司令部におき、グアムと韓国には作戦基地をおき、三沢や嘉手納から侵攻していく形が作られている。さらに岩国を強化して前線基地とする動きがすすんでいる。

横田基地の南方の掘向地区は騒音のために1968年に集団移転を強いられている。今では国が管理する緑地帯になっているが、軍事基地による住民被害を物語る場所である。基地の南側には鉄道の引込み線があり、今もこの線路を使ってジェット燃料が運ばれている。

横田一号踏み切り付近の玉川上水には線路橋が架けられている。橋を見ると「平和橋」と命名され、そこには福生市による世界の恒久平和を求める碑文もあった。軍需燃料を運ぶルートに平和への願いが記されているのであり、ここには憲法の平和主義が息づいているように思われた。このような地平から横田基地の撤去に結ぶ動きを展望したいと思った。   

(竹)