2008年4月 9条ピースウォーク浜松・袋井へ
新居町に到着
「9条ピースウォーク」が4月9日に新居に到着し、10日には浜松でピースアピールとデモをおこない、12日には袋井で交流集会をもった。このウォークは2008年5月4日〜6日にかけておこなわれる「9条世界会議」にむけて、2月24日に広島を出発したものである。これは、グローバル戦争の展開とその戦争への参加のために憲法の改悪がねらわれるなかで、憲法9条の平和主義の精神に立ち返り、その精神を世界に広めることでグローバル戦争と憲法改悪に対抗しようとする取り組みである。
9日、県西部の実行委員が湖西で出迎え、夜、新居で交流会と打ち合わせをおこなった。10日、浜松に到着し、
12日には
「モノ中心から精神的な文明、心が響きあう文明を求めたい。」「モラルや良心が破壊されている現代の中で、9条は息をのむような内容だ。簡単な行進をしながら祈っている。」「広島・呉・大久野島にいき悲惨さを実感した。それから60年、戦争と軍事産業の時代になった。どうやって戦争放棄の思想を伝えていけるのかを考えている。」「一生のうち一回は行動に参加したくて参加した。多くの犠牲者の魂を以って手に入れた9条は人類の宝だ。」「力で人は変えられない。愛情で接するべき。暴力は暴力で止められない、愛情だけが変える。人類は戦争のために生きるのではなく、平和のために生きるべき。」「無関心な人も多い。チラシを渡しても横を向いたり、断わる人・・。でも目で見て何かを感じてほしい。」「愛・平和・正義を言葉だけでなく行動で示したい。」「音楽や絵など芸術には伝える力がある。」「消費社会のなかでみんながゾンビのように心を失っている。平和は爆弾ではつくれない。」「何をどうするのか、どのように考えるのかが教育では教えられるべき。」「環境問題と戦争とは結びついている。貧困や食糧難など問題は多いが、戦争が第1に無駄。」このような日々歩きながら感じてきた熱い想いが集会場を包んだ。集会では地元も被爆者、戦争体験者や青年などが発言し、想いを語った。
イラク戦争に送られたアッシュウルソンさんは次のように発言した。
「今26歳だが、1999年に陸軍に入隊した。軍に入ると大学の授業料が免除されるからだ。2003年から1年間イラクに派兵された。そこで戦争を正当化する想いを根本から変えられた。そこは恐怖と人間性の破壊の場であり、すべての人を傷つけるものだった。派兵される前に「子どもが手榴弾を持っているから近づけるな」と聞かされた。子どもたちにM16ライフル銃を向ける日々だった。部隊がクウェートからの移動中に9歳の娘とヤギをひき殺したが、9歳の娘の賠償金はヤギよりも安かった。戦争は人間の存在価値を無くすものだ。イラク帰還兵には自殺やアルコール依存、殺人や身内への暴力が絶えない。毎日のように戦争機械の一部であったことを罪に思う。私の悲しみは、イラクの100万という死者の痛みに比べれば小さなものに過ぎない。イラクでは市民同士の戦争になっているが、アメリカは双方に武器を売り、暴力を加速させている。イラク戦争には必要性などなく、得るものは何もなかった。戦争は欲望や利潤を追うものによっておこなわれる。人類はおおくの戦争を経験し、戦争を超えて発展してきた。もうこれ以上の戦争はいらない。平和に感謝する。」
集会では最後にイロックとオプティマスのヒップホップグループ「ファンデーション・ムーブメント」とジュゴンの歌が唄われた。イロックとオプティマスはラップで平和と反差別を叫び、身体で不平等や政治的退廃を超える想いを表現した。ジュゴンは「ダンマルダンの歌」や9条ピースウォークの歌で、真の文明と平和への想いを唄った。
ピースウォークは13日、袋井から掛川、金谷に向けて出発した。ウォーカーたちの行進は大きな声をあげるものではないが、共に歩く一人一人の心の内側に深い想いを刻んでいくものである。
12日の午前、ウォーカーの何人かを連れて浜松の戦争史跡を案内した。見学先は、浜松基地のPAC2、弾薬庫、基地正門、広報館、長池、毒ガス戦部隊跡、被爆夢告地蔵、円通寺の被災門・墓碑、冨吉・戦争死者の碑、本誠寺の平和観音などである。3時間ほどのフィールドワークであったが、それはウォーカーとの対話によって、人権・平和の9条「夢告地蔵」巡りと命名された。
(T)