海南島調査・学習会2008・09・07
「日本が海南島を占領した6年半 それを調査した10年 」
佐藤正人さんの報告から
2008年9月7
日、海南島についての学習会を行い、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』をみ、海南島近現代史研究会の佐藤正人さんから「日本が海南島を占領した6年半それを調査した10年」の報告をうけた。以下は報告要旨である。(文責・人権平和浜松)
●日本の海南島侵略と抗日反日闘争の歴史
1939年2月10日に、天皇ヒロヒトと日本政府は海南島に日本軍を奇襲上陸させました。日本のマスメディアや「従軍作家」などは事実を隠蔽し、侵略を美化し宣伝しました。日本民衆は、領土拡大を喜び、支持しました。
その後、日本政府、日本軍、日本企業は、1945年8月までの6年半の間、残酷な侵略犯罪をくりかえしました。
日本軍は、村落に侵入して住民を虐殺し、放火し、略奪しました。日本政府と日本軍は、海南島をアジア太平洋侵略の基地とするため、軍用飛行場や港や軍用道路や鉄道をつくり、要塞、望楼、砲台、トーチカ、火薬庫、軍用洞窟などを整備・新設しました。また「軍票」を乱発し、金融を支配しようとしました。
日本政府と日本軍は、海南島に日本企業を招き入れ、鉱山資源、漁業資源、森林資源を奪いました。日本軍と日本企業は、鉱山開発、鉄道建設、港湾建設、軍用飛行場建設、道路建設のために、海南島の民衆だけでなく、中国本土や朝鮮から強制連行した人たちを働かせました。多くの人が、重労働をさせられ、虐待され、暴行をうけて死にました。事故死、餓死、病死した人も少なくありませんでした。海南島南部に「朝鮮村」という名の黎族の村がありますが、朝鮮人はひとりも住んでいません。そこには、朝鮮各地の刑務所から強制連行され、軍用道路や軍用洞窟を掘らされ、虐待され、殺された多くの朝鮮人の遺骨が、いまも埋められています(ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』をみてください)。
「現地調査」では必然的な偶然の出会いがあり、調査によって被害者のさまざまな人生・体験を知ることができます。証言を聞くと、一般の風景が虐殺の現場に変わることもあります。
海南島でも日本軍は、女性を性的に暴行し、軍隊性奴隷としました。海南島各地に日本軍は「慰安所」を設置しました。
日本政府と日本軍は、海南島民衆に「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけ、天皇賛美を強制し、日本語を使わせました。
毒ガス大量使用、組織的生体解剖以外の犯罪のほとんどを、日本政府と日本軍と日本企業(三井物産、日本窒素、石原産業、西松組、浅野セメント、王子製紙、武田薬品、資生堂、三越、トヨタ自動車……)は海南島でもおこないました。
海南島民衆は抵抗し、持久的に抗日反日闘争をすすめました。日本軍は、海南島全域を占領することはできませんでした。
●海南島月塘村虐殺
いま、海南島近現代史研究会が制作したドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』をみていただきましたが、月塘村の全村民は、虐殺63年後のことし4月26日(農暦3月21日)に、犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を除幕し、同じ日に、日本政府に、「村民虐殺を行った日本軍人の名を公布せよ」、「国際社会に公開で謝罪せよ」、「受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ」、 「月塘村に犠牲者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ」、「焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ」と要求しました。
月塘村で日本軍が子どもを含む190人もの住民を虐殺したのは、沖縄戦のさなかの、1945年5月2日でした。月塘村虐殺もそうですが、日本軍と日本企業による海南島における犯罪の実態は、長い間、ほとんど明らかにされてきませんでした。
●歴史認識の手段・方法について
1939年9月に、西からドイツ軍が、東からソ連軍がポーランドに侵入して分割占領し、第2次世界戦争が始まりました。
その7か月まえの1939年2月に日本軍が海南島に侵入していました。わたしは、アジア太平洋戦争はこのときに開始されたと考えています。
翌年1940年6月にドイツ軍がパリを占領し、フランスはドイツに降伏しました。その3か月後に、日本軍はフランスが植民地としていたベトナムの北部に侵入しました。
1941年7月に、約4万人の日本軍が、海南島三亜港からベトナム南部、カンボジア、ラオスに侵入し、さらにその4か月後の12月4日に、日本軍が海南島三亜港から出港し、12月8日午前1時半にイギリスが植民地としていたマラヤのコタバルに奇襲上陸しました。その後まもなく、日本軍は、パールハーバーを奇襲しました。
海南島近現代史には世界近現代史が内包されていると思います。
歴史を知るためには、証言を聞きとることとそれを記録することがたいせつだと思います。
日本の侵略犯罪の被害者が、自らの記憶をことばなどで記録することは、ほとんどありません。
海南島で聞きとりし記録しているとき、この人たちの被害事実を、いま、わたしたちが記録しなければ、まもなくこの人たちが経験した日本の侵略犯罪事実が消し去られてしまうという焦りの気持ちをもちます。
海南島で、6年半の間に、日本軍が、海南島民衆を何人殺害し、何人傷つけたのか、そのおおまかな人数すらわかっていません。
日本政府・日本軍・日本企業の隠された侵略犯罪事実を聞きとり、それを記録することは、その歴史的事実を明らかにするために急がなければならないことだと思います。
●解放のインターナショナリズムへ
この間、三重県木本(現、
木本のトンネルから紀州鉱山の坑道をとおって、海南島の日本軍用洞窟につづく道があるように思います。そして海南島の日本軍用洞窟から太平洋の島々に構築された日本軍用トンネルにつづく道もあると思います。
硫黄島の数百本、のべ18キロの地下坑道掘削にも朝鮮人が連行され、命を失わされています。
日本ナショナリズムと対決し、解放のインターナショナリズムを形成していく運動の一環として、国民国家日本による海南島における侵略犯罪を総体として把握していきたいと思います。
わたしは地域から侵略戦争を捉えなおしていくことが必要であると思います。
きょうは、そのような運動を10年以上すすめてきた浜松のみなさんといっしょに日本の侵略犯罪事実を明らかにする問題について話し合うことができてよかったと思います。竹内さんの『浜松の戦争史跡』で知ったのですが、浜松陸軍航空基地から派兵された飛行第31戦隊は海南島で空爆をおこなっていました。
わたしは、アイヌモシリのオタルに生まれ育ちました。オタルに、1997年9月にアメリカ合州国の航空母艦インデペンデンスが入港しました。これは、民間港へのはじめてのアメリカ合州国の航空母艦入港でした。それいらい、わたしは、オタルで「米空母に反対する市民の会」のなかまとともに、いっさいの軍艦のオタル港への入港を許さない民衆運動を進めてきています。
これからも、浜松のみなさんとともに民衆運動を強めていきたいと願っています。