反MDソウル国際会議 韓国の旅2009-1
2009年4月16日から18日にかけて開催された「アジア太平洋のミサイル防衛に反対し軍拡競争の終わりを求める国際会議」(反MD国際会議)に参加した。4月16日には坡州の南北分断線の視察、17日には国際会議、18日には平沢地域の米軍基地拡張状況の視察がおこなわれた。
関係HP
グローバルネットワーク
韓国での報告記事 掲載された浜松の記事
アメリカの報告記事1 掲載された浜松の記事2
アメリカの報告記事2
1 坡州の南北分断線 イムジン川を越えて
ソウルから北に20キロほど行くと坡州の町がある。イムジン川はこの坡州でハン川(漢江)と合流する。西は江華島である。坡州は南北分断の町である。軍事境界線はハン川とイムジン川との合流点から数キロ先で北に向かって伸び、郡内面・津西面を分断して東に向かっている。この軍事境界線をはさんで双方に2キロの非武装中立地帯がおかれ、この中立地帯に加え民間人統制区域も設定されている。坡州での民間人統制線はイムジン川南岸に引かれ、川に沿って鉄条網が引かれていて監視塔が各所にある。韓国内にあってもイムジン川は分断の川である。
反MD国際会議の前日の4月16日に、この坡州で分断状況と地雷被害についてのフィールドワークが李時雨さんの案内でもたれた。李さんは写真家であり、平和運動の活動者でもある。
烏頭山展望台はハン川とイムジン川との合流点の城址にある。展望台の目の前をイムジン川が流れ、川を隔てて北の領域が見える。川の中央が軍事境界線とされているが、統一を求める人々はこの川での航行を規制する法的根拠はないとし、民間船の航行を米軍(国連軍司令部)と交渉している。
道に沿ってイムジン川に連綿とつながる鉄条網は、その撤去への想いを湧かせる。
展望台ではイムジン川の曲が流れ、地階では北の商品を販売している。外の売店では平壌蜂蜜酒なども売られている。かつての反共の宣伝地は今では統一を展望する場になっている。民主化がすすむなかで米軍を追放して統一をかちとるという表現を公然と語ることもできるようになった。
展望台にば晩植の像が建っている。゙晩植は1883年生まれ、3・1運動に参加して投獄され、新幹会結成に参加、志願兵制度にも反対した。解放後には平安道の人民政治委員会会長となり、また北の行政局長にもなり、北で大統領となりえる人物だった。しかし米ソの信託統治案に反対したため、弾圧され、朝鮮戦争のなかで死亡した。
信託統治は新たな植民地支配であり、独立運動をすすめてきだ晩植はそれをうけいれることはできなかったのだろう。米軍の信託統治に反対して立ち上がった済州島の人々の復権とともに、゙晩植のような人物の再評価も南北統一の動きの中で高まる。
臨津閣は京義線
さまざまな形で記されたメッセージをみていると、民衆にとって南北の分断は家族の離散であり、知的な問題のみならず肉親の再開を求める感情の問題であることがわかる。2000年の南北会談以降、金剛山などでの離散家族の再会も増加し、民間人統制区域への立入ツアーもできるようになったが、分断地帯には多くの地雷が今も埋められている。坡州の米軍基地にはかつて核兵器も貯蔵されていた。
イムジン川に沿って設定されている民間人統制線には検問所がある。そこから橋を渡ると村があり、農業が営まれている。村の横は米軍基地である。ここから非武装中立地帯に接する都羅展望台にむかった。
都羅展望台に向かう途中、地雷を示す標識が並んでいた。展望台からは不武装中立地帯や分断線の一帯を展望でき、かなたに開城がみえる。右方には南北の宣伝村(大成洞・基井洞)の旗がみえ、その間に板門店(JSA共同管理地域)がある。中央には韓国資本の導入で形成された開城工業団地が見え、左方には都羅山の駅がある。朝鮮戦争から60年、鉄道沿いにある長湍面の事務所はいまも廃墟のままである。この分断地帯の南側は、韓国大統領の通行が国連軍(米軍)によって許可されるというように、実質的には米軍が支配している。
売店で売られている京畿線非武装地帯全景写真は合成されたものであり、基井洞や板門店などの位置が実際とは異なっている。写真には列車も挿入され、ソウルからピョンヤンまで、さらに新義州にむけて鉄道を運行させたいという想いが示されていた。
案内の李時雨さんは米軍を監視し、地雷や劣化ウランの存在を明らかにした。それにより国家保安法違反で起訴されて裁判となったが、勝訴した。李さんはいう。「人々には平和に生きる権利がある。平和の権利の実現のためには軍隊を監視する権利がある。裁判での勝利は『平和のために監視する権利』を確立させた」と。
朝鮮半島の分断線には多くの地雷が埋設されている。そのため坡州では地雷被害を受けた人々も数多い。坡州の坡平面金坡里に住むイトクチュンさん(87歳)もその中の一人である。
イトクチュンさんはいう。「村の人々は米軍基地(第8師団の駐屯地)で仕事をした。10年働いたが、定年で退職し仕事がなくなった。農業をしようと思い、立ち入り禁止区域で地雷を踏んで足を傷つけた。1979年、57歳のときだ。禁止区内に入るときには何がおきても政府を訴えないと署名させられた。法的根拠はないものだが、補償は求めることができなかった。地雷によって、金坡里で9人、長坡里で8人が被害を受けた。生存しているのは金坡里で2人、長坡里で3人だ。唯一の働き手を失い、生活は苦しく、子どもに教育を受けさせることができなかった。被害者の多くが亡くなったが、(地雷の撤去や補償などを)やり遂げた気持ちで人生を終えたい」と。
支援メンバーは次のようにいう。「韓国では対人地雷禁止の運動があり、被害者もいる。韓国政府だけでなく米軍を訴えることが必要だ。地雷を埋めたのは米軍であり、埋設した地図は残されていない。イさんに義足を提供したのは地雷禁止国際キャンペーンのジョディウイリアムスだった。ジョディはこの坡州を訪問し、地雷被害の実態調査をおこなっている。アメリカ政府は2006年までに地雷の撤去を約束したが、今も多くの地雷が残っている。アメリカが対人地雷禁止条約を批准できないのは韓国に地雷があるからであり、非武装地帯には100万個という地雷がある。農業地帯での地雷の撤去は農民自身が行ってきた。地雷の多くがキューバ危機のころ、ケネディ政権期におこなわれた。地雷を敷設する動きを基地内で働いていた人々が目撃している。しかし、米軍はそれを否定している。現在韓国政府と裁判で争っている。」
分断地帯では、鉄条網と監視塔、地雷のなかで人間が生活している。それが、平和と統一にむけての想いをより強いものにする。歴史をこの分断のなかで苦しんだ人々の地平からみつめ、その恨の解放にむけてともに歩んでいくこと、イムジン川岸の鉄条網と敷設された地雷の存在は、その行動を呼びかけているように思う。分断線という壁をなくす行動はそれぞれの場所からつくりあげていくことができると思う。
その後に送ってもらった李時雨さんの写真集には自筆でメッセージが記されていた。写真集をめくると、人間の平和への力がイムジン川の鉄鎖を越えていくことや生きるものたちが軍事の世界を凌駕していくことへの熱い想いが伝わってきた。
2「アジア太平洋のミサイル防衛に反対し軍拡競争の終わりを求める国際会議」
4月17日にソウルで「アジア太平洋のミサイル防衛に反対し軍拡競争の終わりを求める国際会議」がもたれた。主催は「宇宙への兵器と核配備に反対するグローバルネットワーク」であり、この運動体の趣旨に賛同する韓国委員会がこの会議を運営した。会場には世界各地のMD反対運動の横断幕が掲げられた。そこに浜松のNO!PAC3の幕も貼り付けた。
韓国委員会は、アメリカが東欧とアジア太平洋でMDの配備をすすめるなかで急速な軍拡競争が生まれている、MDが北東アジアにおける平和を不安定にさせる中心的な要素となり、韓国がMDの前哨とされている、国際社会の市民がそれに反対する必要が緊急に生まれている、と会議の意義を記している。
この国際会議での主な発言と進行は以下である。
基調報告ブルースギャグノン「アメリカの宇宙支配計画とグローバルネットの対抗」
第1討論 MDと世界
ローリングウィルベル「オバマの世界的軍事政策-変化は政治ではなく経済崩壊から」
ディヴウェッブ「MD-ヨーロッパと新冷戦」
チョンウシク「MD-軍拡と北東アジアの未来」
マリーベスサリバン「MDへのオルタ‐グローバル戦争マシーンの改造によるグローバルな安全保障」
平沢の反基地運動の映像とリジサンの歌
第2討論 グローバルな反戦・平和運動
ナラヤノラオ「宇宙技術開発へのインドの動向‐インド・パキスタンの核と宇宙の政策」
アグニタノバーグ「スカンディナビアと宇宙戦争-米国計画を支える宇宙配備と宇宙産業」
リンディスパーシー「イギリスでの米国軍事基地帝国の経費」
ティムリン「韓国とネブラスカの戦略司令部」
ハンナミドルトン「オーストラリアの米国基地とMDへの反対闘争」
アナポロ「チェコ共和国民衆のMDへの非暴力抵抗とヨーロッパの連帯運動」
杉原浩司「米日軍産複合体への挑戦という緊急の課題-MDへの反対運動から」
キャシイローズ「宇宙の侵略者-ハワイでのスターウォーズ」
カンサンウォン「平沢での反基地平和運動」
第3討論 アジア太平洋での平和の課題
田卷一彦「北東アジア非核兵器地帯条約のモデル」
藤岡惇「北東アジアに非核・非ミサイル地帯をどうつくるか」
ファブロスコラソン「フィリピンでの米軍の基地なき基地化」
イデフン「地域の平和と軍縮への「平和国家」への変革の影響」
平和にむけての共同声明採択
このように会議では多くの発言があったが、ここではいくつかをまとめておきたい。
アメリカは資源の確保のために米軍の迅速性・広範囲な展開・即応性を強化し、世界各地に800を超える軍事基地を持ち、毎年1400億ドル以上の経費を使っている。アジアでは中国との軍拡競争をすすめている。北朝鮮包囲の軍事的拡大は仮装であり、実際は中国への先制攻撃能力の形成が狙いである。アフガンの戦争はカスピ海の石油・天然ガス・供給のパイプライン確保のためである。
アメリカはさらに東欧とアフリカへの軍事的拡大を狙い、東欧ではチェコとポーランドへとMDを配備しようとした。しかし、チェコでは70パーセントの市民がMDのレーダー建設に反対し、下院でレーダー協定の批准投票が撤回され、政権が倒された。この背景には、チェコにドイツやロシアの基地がおかれた歴史があり、アメリカの基地は要らないという国民感情がある。ポーランドへは10基の迎撃ミサイルの設置が計画され、「グルジアへのロシアの非道」が宣伝される中で2008年8月に設置が合意された。
イギリスではヨークシャーのメンウイズヒルとフライングデイルズの2つの基地がMD基地として使用されている。ブレア政権は下院にも諮らずに導入を決定した。
スウェーデンの企業はサブスペースがロッキードマーティンに部品を提供するようにアメリカ市場に関わっている。エスランジロケット基地は衛星を統制し、そこからの映像はアメリカに送られ、アメリカのバンデンバーグ基地とも連携している。ノルウェにはレーダーが設置され、ロケット発射場もある。グリーンランドには戦略ミサイル早期警戒レーダーシステムがおかれている。
韓国では烏山基地などにPAC3が配備され、イージス艦の配備もすすみ、サードミサイルの配備や新型レーダーの導入も計画されている。2012年にはMD作戦センターの設置が計画されている。この韓国のMDは米軍によって統合運用される。
アメリカのネブラスカのオファット空軍基地には戦略司令部(StratCom)がおかれている。この司令部は宇宙兵器を含むアメリカの攻撃的な全兵器を指揮するところである。ここは核作戦、先制攻撃、ミサイル防衛、諜報戦、情報戦などの拠点である。戦略司令部はグローバル司令部へと姿を変えつつある。ここは地球でもっとも危険な場所である。
2009年4月、米空軍は大きな変革を行い、戦略的司令のための宇宙司令部をバークスーデル空軍基地のグローバルストライク司令部の下においた。ここが核兵器の管理をおこなう。グローバルストライク司令部が重要視されている。また、空軍は宇宙司令部の下に空軍第24部隊としてサイバー司令部を創設した。
オバマ政権は経済危機のために軍事費の一部を削減するが、グローバルな軍事帝国、グローバルな戦争マシーンの縮小には至らないだろう。民主党も共和党も帝国に賛同し、ともにカーボーイ気質であり、良いカーボーイか悪いカーボーイかの違いにすぎない。オバマも攻撃的な宇宙政策を継続し、他方で交渉と対話も強化される。しかし、「希望」や「変革」を語るものたちの本質を見極めるべきだ。
宇宙軍拡とグローバルな戦争がすすむなかで、MD自体が攻撃的なものであり、新たな軍拡と戦争を始めるものであるという共通認識が形成され、その反対の動きがチェコでは政権の交代を生んでいる。
今後の課題としては、ミサイル軍拡からミサイル軍縮へ、朝鮮戦争と終結と南北統一、東アジアでの非核地帯の形成、外国の軍事基地の廃止と軍縮、先制攻撃の禁止と宇宙兵器の禁止、ミサイル軍縮条約の締結、軍事的集団防衛から人間的安全保障にむけての思考と行動の形成などがあげられた。
共同声明ではMDと軍拡競争に共同で反対していく決意が示され、軍事パラダイムの転換と平和共存・紛争解決への新たなメカニズムの提示が謳われた。
会議場は集まった人たち一人ひとりにそれぞれの運動の歴史があり、会議はその意志と思想が交差する場だった。ゆっくりと一人ひとりの話を聞きたいと思った。この会議の後、近くのライブハウスでそれぞれが各国の歌を歌っての交流会が持たれた。韓国の平和と統一についての歌も歌われた。
3平沢での米軍基地拡大と平和運動 鉄条網を越える想い
平沢(ピョンテク)市はソウルの南方40キロほどにある京畿道最南端の街であり、交通の要衝である。この平沢地域は米軍拠点とされ、平沢市北方にある松炭の新場洞・西炭面一帯には烏山空軍基地と弾薬庫があり、平沢市南西の彭城一帯には彭城陸軍基地(キャンプハンフリース)がある。さらに平沢市駅には平沢第25輸送団も置かれている。
現在、米軍の再配置によってソウル南方の平沢地域への基地の強化・集中がすすめられ、2013年までにソウルの龍山基地、第2師団など米軍基地の多くがこの平沢の彭城などに移転する計画である。このような基地の拡張が住民の居住地や農地を奪う形で行われるため、収容対象となった彭城の棹頭(トドゥ)里、大秋(テチュ)里などの住民は基地の拡張に対して激しく抵抗した。この彭城の基地の歴史はアジア太平洋戦争末期の日本軍の飛行場建設からはじまる。
4月18日の午後、反MD国際会議の参加者は松炭の烏山空軍基地の前で平和アピールをおこない、基地周辺の状況を視察した。
参加者は現地の平沢平和センターなどの仲間とともに烏山基地正門前に集まり、さまざまな平和の幕を広げ、平沢の仲間が作成した緑の平和スカーフを着けて簡単な集会を持った。そこで基地の撤去やミサイル防衛反対が訴えられ、基地前での平和アピールが兵士の心を動かす力になった例なども紹介された。各国語での平和のコールもおこなわれた。
平和アピールの後、烏山基地周辺を視察した。
烏山基地の建設は朝鮮戦争にともなうものであり、1952年3月からはじまった。西炭面の住民は代替地も補償金もないなかで強制移住させられた。52年12月には第18戦闘爆撃集団とF51戦闘飛行中隊が配備され、朝鮮戦争に投入された。1954年1月には第5空軍司令部が移転し米空軍の中核になるが、年末には撤収し、基地には第314空軍師団が残って司令部を代行した。1955年には第58戦闘爆撃飛行団が移転し、58年にはこの飛行団が再編され、烏山はミサイル爆撃の主要基地になった。
現在では烏山基地に米第7空軍司令部がおかれている。太平洋地域では最大規模の空軍基地となり、第51戦闘飛行団が配置されている。この戦闘飛行団はA10,F16,U2,コブラヘリなどを持ち、パトリオットも配備されている。また、周辺にはアルファ弾薬庫、マグナム弾薬庫がある。さらに基地の拡張がおこなれようとしている。
視察は滑走路の東端のクジャント(旧市場)の集落跡から始まった。ここはかつて市場があったところであるが、米軍基地が拡張されるなかで集落が減少し、騒音に伴い2007年に集団移住がおこなわれた。移転によって破壊された家屋の残骸が一角に残っている。ここは東西3500メートルの滑走路の飛行直下にあるため、大きな騒音に襲われる。かなたに輸送機が霞んで見えた。
滑走路中央部の北側から川を隔てて基地を見ると、パトリオットミサイルが配備されていることがわかる。烏山基地にはPAC3も配備され、ミサイル防衛にも組み込まれている。このパトリオットミサイルは先制攻撃を担う米第7空軍司令部を防衛するものである。
滑走路西端に行くと、金角里一帯の集落が基地の拡張のために強制移転させられていることがわかる。政府による土地収奪は2006年のことだった。金角平野の多くが基地拡張対象地とされ、道路の両脇には鉄条網が筒状に張り巡らされている。騒音被害も大きい。金角2里には基地の拡張に反対する一坪共有の「平和の田」があった。
西端を南に下ると空軍弾薬庫がみえる。さらに基地外周をすすむと米第7空軍司令部の建物や基地とともに形成された英文字が並ぶ街が現れる。ここは韓国の中の米国である。
2006年5月には平沢市南西の彭城では基地拡張をめぐって激しい攻防があった。その状況を写し撮った梁容銅の写真集を手にした。米軍の世界的再配置が民衆の生存権を破壊し、そのような状況下、民衆が文化的な表現を持ちながら抵抗している状況がわかる。このように、命の芽を育てる農地を奪い、命の破壊につながる軍事の場とする行為は終わらせねばならない。
平沢での基地拡張対象地の収奪はおこなわれたが、基地問題が解決したわけではなく、反基地運動はこれからである。平沢には平和センターが設立され、日本語での記載もある『いのちと平和を探して‐平沢米軍基地平和巡礼資料集』『平沢米軍基地平和巡礼地図』などを発行している。平沢地域は米軍の世界的再配置を象徴する場であり、ここでの抵抗へのグローバルな連帯行動が求められる。
なお、平沢は独立運動を担った安在鴻の出身地であり、彼の生家が保存されている。彼は1891年に生まれ、独立運動に参加し、新幹会にも参加、敗戦が近づくと呂運亨らと建国同盟を組織し、解放後には民族国家の建設を目指した。朝鮮戦争の際に北に連行され、1965年に死去した。未完の想いは地下水脈となってさまざまな形で継承される。呂運亨、安在鴻、゙晩植や多くの無名の活動者の行動が交差するなかで、独立運動があり、解放後の活動があった。対立もあったが、そのような諸活動を平和と共存、統一の視点で再評価し、歴史の遺産として継承していくことが求められているように思う。
行動と視察の後、郊外の民俗食堂で交流会がもたれた。その後、地域在住の若い英語の先生に松炭の駅まで案内してもらった。その際、地域や職場の話を聞いたのだが、そのような時間をもう少しとりたかった。
4 西大門刑務所歴史館
空き時間を利用してソウル市内にある西大門刑務所歴史館を見学した。この歴史館が開館したのは1998年のことである。韓国での民主化と過去清算の動きが強まるなかでの開館だった。
歴史館には日本統治下での独立運動弾圧の状況が展示されている。ここに京城監獄が建設されたのは1908年のことであり、1905年の「保護条約」によって抗日戦争が強まっていた時代である。日本の強制占領下では西大門刑務所の名で使われ、多くの独立運動者が捕らえられて投獄された。
入り口には塀と望楼が保存されている。これは1923年に作られたものである。正面にあった保安課の庁舎の跡に展示館が建ち、2階では民族の抵抗運動や刑務所の変遷が展示され、壁棺や独房なども再現されている。地階には臨時拘禁室や拷問室が再現されている。
7棟の獄舎も保存され、なかには1915年に建設された古いものもある。中央舎ではクイズ形式での展示がなされ、独立運動者の映像が流されている。工作舎では拷問、裁判、処刑など状況が示されている。ハンセン病の隔離室、死刑場、地下監獄(女性用)などもあり、処刑した死体を刑務所の裏にある共同墓地に捨てるためのトンネルも一部復元されている。
この刑務所は、解放後はソウル刑務所(後、教導所、拘置所と名称変更)として使われた。1987年にこの拘置所が義旺市に移転することになったため、廃止された。民主化運動の高揚の中での出来事である。本来、解放後の民主化運動の犠牲者の名も刻まれるべきなのだろう。けれども、日本による強制占領期の真相糾明と被害者の確定も重要な課題である。館の冊子を見ると「愛国」や「殉国」に関わる表現あり、これには違和感を持つのだが、独立運動者を人間解放、平和共存と国際連帯に向かう方向で捉えなおして評価する方向性も必要なのではと思う。
歴史館内には追悼碑も作られ、判明した死者の名が刻まれているが、まだ数は少ない。調査がすすみ、無名のままの数多くの人々の名前が明らかにされ、刻まれていってほしく思う。共同墓地につながる秘密のトンネルには迫力があった。闇に消されていった人々の無念が奥底から響くようだった。多くの資料を隠滅して日本の帝国主義は去った。そのように消された人々の足跡を復元する作業は、今からでも為さねばならないものである。
(竹内・2009年5月)