NO!AWACS」の15

                               

AWACS(エーワックス・空中警戒管制機)の浜松基地配備が話題になったのは1993年のことだった。翌年、NO!AWACSの会を結成し、冊子『NO!AWACS 浜松を再び戦争の拠点にさせるな!』を発行した。以来、会の活動はこの2009年で15年になる。

4機のAWACSの配備は1998年・1999年におこなわれた。1999年には空自の浜松広報館もでき、墜落事故から実施されてこなかったブルーインパルスの曲技飛行も再開された。それは新ガイドライン安保関連法が成立し、海外派兵に対応する兵器の導入がすすんだときのことである。このAWACS配備に抗して、全国集会や基地へのデモ、配備当日の抗議行動など取り組んだ。10年ほど前のことである。

2001年の911からアフガン戦争、2003年のイラク戦争とアメリカによるグローバルな戦争が展開され、それに抗するグローバルな反戦平和の運動もすすんだ。2003年末から自衛隊のイラク派兵も始められ、浜松基地からも幾派にもわたって派兵されていった。このような海外派兵の動きに対して旭川から熊本まで全国各地で抗議行動が取り組まれ、浜松でも基地からの派兵のたびに抗議文を出した。市民の反戦の声は2008年になって名古屋高裁での空自のイラクでの活動を「違憲」とする判決につながった。この2008年には浜松基地でパワハラによって死を強いられた自衛官の遺族による損害賠償裁判もはじまった。

このような軍拡と派兵のなかで、浜松基地の歴史を読み直していく必要を感じ、浜松の陸軍爆撃隊の歴史と地域の戦争遺跡を調査した。調べてみると、浜松の爆撃隊が毒ガス戦を研究したこと、重慶や蘭州などへと戦略爆撃をしたこと、そのような中国爆撃の歴史は満州侵略戦争にさかのぼること、さらにシンガポール、ビルマ、インドへと爆撃をおこなっていたことなどがわかった。浜松大空襲はそのようなアジア爆撃の結果でもあった。

地域調査の記録は『浜松の戦争史跡』(2005年)、『浜松磐田空襲の歴史と死亡者名簿』(2007年)の形でまとめ、最近出版された『静岡県の戦争遺跡を歩く』『浜松の戦争遺跡を探る』などにも調査結果は反映されている。

このような地域調査や人権・平和に関わる企画をすすめるなかで、2004年に人権平和・浜松を設立した。NO!AWACSの会結成から、10年後のことである。

アメリカは宇宙の覇権によるグローバルな戦争をおこない、そのための「ミサイル防衛」をすすめてきた。このミサイル防衛という軍拡の道具であるPAC3ミサイルの浜松基地への配備は2005年に話題になった。このPAC3の首都圏への配備に際し、市民が各地で抗議行動をおこなったため、浜松基地への配備は20085月から秘密裡に行われた。この浜松のPAC320093月になると「北朝鮮のミサイル発射」を口実に東北へと実戦配備された。そのような動きに対しての抗議行動もおこなった。

この20年はグローバリゼーションの時代であり、軍事的にはアメリカの宇宙覇権によるグローバルな戦争、それによる米軍の世界的再配置と日本の自衛隊の海外派兵がすすんだ時代だった。浜松ではAWACSPAC3という兵器がその時代を象徴するものとして現れ、実際に地域からの海外派兵もおこなわれた。そのような軍事の展開に対し、反戦平和の表現をささやかではあるが、地域ですすめてきた。グローバルな平和にむけてその歩みをこれからも続けていきたい。会報『NO!AWACS』はこの12月で144号になった。

『派兵チェック』の存在はひとつの励ましだった。それがなくなっても、チェックせざるをえない現実があり、言わなければならないことがある。先日も目の前をAWACSが「キーン」と「グヲーン」の複合音とともに上昇・旋回していった。そのような現実にどのような表現をつくることができるのかが問われていると思う。(派兵チェック2009年12月号・T)