4.11「ピースウォークfrom沖縄」浜松基地1周ウォーク
 
                                       

2010年4月11日、「ピースウォークfrom沖縄」の一行が浜松に到着した。浜松の実行委員会は午後に浜松基地1周のピースウォークを企画した。

浜松基地近くのオートレース場バス停近くに20人ほどが集まった。13時30分、基地1周約10キロに向けてウォークが始まった。先頭は1月1日から沖縄を歩いてきたピースウォークの仲間たち。ウォークとともに日本山妙法寺の2人の僧侶の太鼓の音が響く。

     

20世紀末のAWACS配備とグローバルな戦争の拡大のなかで、浜松基地からはイラク戦争に120人を超える隊員が派兵され、また、「ミサイル防衛」によってPAC3ミサイルの配備もおこなわれた。その間、何度も軍拡と派兵反対の要請がおこなわれてきた。

浜松基地正門の入り口は閉鎖されていた。正門を過ぎ、基地司令部の建物近くを経て、基地資料館の陸軍飛行学校当時の建物、古くからある弾薬庫をみながら、高射教導隊の本部近くを歩く。ここにはPAC3部隊が配置されている。朝鮮のロケット発射騒ぎのあった2009年春にはここから東北へと実戦配備された。PAC3の器材の上部が外からも見える。

高射教導隊を過ぎると運動場があり、そこから基地の滑走路西端に向かう。西端部には基地内の道路だけを防護するコンクリート製の覆いがある。少し行くとかなたにAWACSの機体がみえた。西端から基地北門にむかい、基地を守るかのように掘られている浜松市の下水道ぞいに基地北側を歩いた。

中村組の大きな看板がみえ、基地内でのあらたな工事もすすんでいることがわかる。途中、滑走路中央の北側から巨大なAWACS用の整備用施設や格納庫がみえ、AWACSの機体も1機あった。緑色の金属板やプラスチック製の板、緑のネットなどでの基地の遮蔽がすすんでいる。

かつて陸軍の飛行第7連隊があった場所はホンダの施設になっている。その角を滑走路方向に曲がり,滑走路東端を経て、15時30分に、基地の広報館に着き、そこで休息を取った。休日の広報館には大型バスが止まり、子ども連れも多い。この広報館は「ミュージアム」を語ってはいるが、軍事施設である。館の事務室は高圧的であり、普通のミュージアムのような対応はとらない。この日も事務室の入り口にはロープが張られていた。休日用の見世物として、基地上空にはヘリや小型飛行機が旋回していた。

広報館入口から基地の正門に向かって歩く。途中、AWACS用の燃料施設や防衛施設局の建物があり、旧軍時代の警衛兵用のボックスもみえた。防衛施設局の建物用の柵と基地のフェンスの様相は違っていて、基地用には有刺鉄線がある。また、基地周辺にはフェンスに沿ってセンサーの糸が張り巡らされている。AWACS配備に際してできた警戒航空隊の宿舎の上部には今も大きな監視カメラが据え付けられている。ウォークの先頭にあわせて大きなカメラが動く。

16時15分、ウォークは基地1周を終えて、基地正門前に到着し、要請書を手渡した。要請後、ウォークの一行と浜松の実行委員会の仲間は16人で交流会をもった。

日本山妙法寺の石橋さんは沖縄から歩いてきたなかで印象に残ったことと密約問題にある日本の主権状況について語った。その後、自己紹介をおこない、最後にNO!NO!BANDがウォークの成功を願い、命こそ宝、ウォークの跡に花よ咲け!と沖縄と韓国の歌を歌った。                    

(T)

                                              2001年4月11日

防衛省大臣様

浜松基地司令様

浜松基地内自衛隊員様            

      「ピースウォークfrom沖縄」浜松実行委員会

 

           「ピースウォークfrom沖縄」浜松からの要請書

 

「ピースウォークfrom沖縄」は、「核兵器廃絶・沖縄に新たな米軍基地を作らせない」をテーマに、2010年1月1日に沖縄を出発し、4月30日に東京に到着する予定で、今日は浜松基地を一周しました。

沖縄では、米軍のグローバルな再配置のもとで、普天間基地の移転を口実にさらに大きな米軍基地がつくられようとしています。それは、新たな戦争の態勢の強化です。そのような動きに対して、私たちは核の廃絶と新基地建設の反対を願い、それをかなえるために歩き続けています。

かつて浜松基地は、陸軍の爆撃部隊の拠点であり、浜松から飛び立った爆撃機は重慶をはじめ、中国各地やシンガポールなどアジア各地を爆撃しました。その爆撃機の無差別爆撃によって多くの市民が殺傷されました。また、多くの人々が天皇の兵士としてアジア各地に派兵され、アジアの人々を殺し、そこで死を強いられることになりました。さらに、戦争末期に浜松は米軍の激しい空襲を受け、浜松市民の3500人以上が命を失いました。戦争が終わり、日本は平和主義を掲げ、戦争を放棄し、交戦権も戦力も否定しました。命こそ宝、それは浜松市民の想いでもあります。

しかし、戦後、航空自衛隊の浜松基地がつくられました。日米の軍事協力が強化される中で、20世紀末、浜松基地には空飛ぶ司令塔と呼ばれるエーワックス(AWACS)が配備され、21世紀になると、ミサイル防衛のためのパックスリー(PAC3)ミサイルも配備されました。また、イラク戦争にともない、浜松基地からも、のべ33派、120人をこえる隊員がイラクへと派兵され、米軍の後方支援を担いました。

私たちは平和を願うものとして、このように浜松が再び戦争と派兵の拠点となっていることを憂慮し、浜松が生命を大切にする地域となり、平和の拠点となっていくことを願います。

 近年、自衛隊内での自殺者が多くなり、年100人を超えるようになりました。それは社会的な問題となり、待遇改善やいじめ対策のための軍事オンブズマンの導入も議論されています。

浜松基地でおきた事件でも、パワハラによって死を強いられた被害者遺族による裁判がすすめられています。裁判になったのは、浜松基地側にパワハラという人権侵害を謝罪し、賠償するという姿勢がなかったからです。自衛隊側はすみやかに、この問題に関わる全資料を公表し、賠償をおこない、再発の防止のための取り組みをすすめるべきです。

海外に派遣されることが多くなり、米兵とともに前線で行動する訓練も数多くおこなわれるようになりました。そのなかで、以前にはなかったようなパワハラや人権侵害がおきるようになったともいわれています。

大臣や基地司令や隊員の皆さん、パワハラや人権侵害のない職場づくりをすすめてください。軍隊内での待遇改善やいじめ対策が国際的な課題となり、人権侵害に対しての苦情申し立てが権利として確立されつつあることもご理解ください。

戦争は最大の環境破壊であり、人権侵害です。戦争につながるものを拒み、私たちは歩くことで平和への祈りを刻み、その願いを人々に伝えます。皆さんが再び、海外に派兵され、殺し殺される関係に追い込まれないように、私たちは、憲法の平和主義の精神を広げます。自衛隊員の皆さん、その願いをご理解ください。

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