5・22静岡での反安保集会 高田健講演「日米安保と憲法」

 

2010年5月22日、静岡市内で静岡反安保連絡会の集会がもたれ、60人が参加した。集会では高田健さん(許すな!憲法改悪・市民連絡会)が「日米安保と憲法」の題で講演した。講演後、集会では討論がおこなわれ、6月のデモなどの活動計画が提起されるとともに集会アピールが採択された。以下、高田さんの話を要約して紹介する。

「日米安保と憲法―積極的「護憲」の多数派へ」

こんばんは、静岡の皆さんが反安保連絡会をつくり、活動をすすめられていることに心から敬意を表します。

敗戦後の日本の歴史は平和憲法の法体系と日米安保体制との相矛盾する体系のせめぎあいの歴史でした。沖縄はその狭間でしわ寄せを受け翻弄されてきました。いまでは、沖縄民衆の反基地のたたかいによって政府の問題となり、多くの人々が普天間や名護の基地問題について知るようになってきました。戦後の反基地の平和運動と1960年安保闘争は第1次の護憲運動でした。それは1960年代後半の反安保闘争につながります。1978年のガイドライン安保により安保の再定義がすすみ、「日米同盟」が強められ、1981年の日米共同声明では「同盟関係」が強調されました。しかし、日本政府は憲法の関係から集団的自衛権行使はできないという立場でした。日米安保条約を攻守同盟になしえなかったわけです。この日米同盟という用語自体、本来あってはならないものです。

グローバルな規模でのアメリカの世界戦略が立てられ、冷戦後のPKO派兵と朝鮮危機のなかで、1990年代の改憲運動が形成されていきます。とくにクリントン政権は、新たな朝鮮での戦争時に日本がなすべき1090を超える支援項目を提示したといいます。しかし、日本政府にはそのような戦争支援のための法律がなく、できないとしか答えられなかったわけです。この中で、改憲運動ができていくわけです。読売新聞は1994年に社として改憲私案を出します。1997年には改憲の議連が生まれます。1999年には新ガイドライン関連法が制定され、2000年には憲法調査会が設置されます。

9・11後にはアフガンやイラクでの戦争を支援する法律ができますが、それらは憲法9条があるために、期限のついた特措法でした。また有事関連法もでき、改憲の動きが強まります。特に、読売新聞の世論調査をみると2004年には9条改憲の世論が護憲を大きく上回ります。9条の会が結成されたのはこの2004年の6月です。この9条の会は全国各地に広がります。その力は現時点で9条護憲の声が多数を占めるという結果をもたらしました。

2006年には、2011年までに改憲することを目指した安倍内閣が成立し、教育基本法を改悪し、防衛省を作り、自衛隊に主任務に海外での活動を入れます。改憲の手続き法も公布します。しかし、安倍政権は参議院選挙に敗北し、さらに2009年の衆議院選挙による政権交代により、「1990年代明文改憲運動」は破綻します。選挙での敗北理由には構造改革による経済の破綻がありますが、9条擁護の市民運動の歴史的役割も大きなものです。

さて、鳩山政権ですが、新連立政権の「合意」には平和主義、人権を確認しての生活再建と主体的な外交による対等な日米同盟というものがあります。新政権が主体的な外交ができる条件は、それを後押しする国会外の闘いです。私たちの運動が日米の安保同盟を封じていくという視点が大切です。評論していても事態は変わりません。鳩山も小沢も改憲論者ですが、現時点ではその志向は封じられています。

明文改憲の動きは止まっても解釈改憲の動きはすすんでいます。ソマリア沖派兵は今も進行しています。さらに、自民党内では徴兵制まで論議されるようになりました。今年の5月18日には改憲手続き法が施行されました。情勢によっては明文改憲にすすむ危険性があります。

最後に、運動の課題を話します。憲法によって国家を縛り人権を守るというものが近代立憲主義です。憲法12条にも不断の努力が記されています。しかし、ソマリアなどへの派兵や船舶検査法の制定、普天間移転など現政権は大きな問題点をもっています。そこで、政権がどうなるのかを評論するのではなく、政権をどう動かしていくのかという市民として運動をすすめていく立場での視点が大切です。特に、安保は認めるが9条は変えなくてもいいという消極的な護憲ではなく、9条を変えさせない、生かしていくという積極的な護憲にたっての運動が求められます。そのような志向が多数派となっていくように運動をすすめ、その力を蓄えていくことが求められます。また、朝鮮半島でのさまざまな事件に惑わされることなく、米朝の平和協定締結や東アジアでの平和構築に向けての運動が求められます。(以上要約)